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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
燃え残った言葉

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98/100

カイルの求婚声明

 その封筒は、机の上で妙な存在感を放っていた。


 無地。


 封蝋なし。


 飾りなし。


 宛名だけ。


『リディア・ノートンへ』


 業務文書なら、部署名が入る。


 請願回答なら、番号が振られる。


 訂正依頼なら、差出人と宛先と記録印がある。


 これは、そのどれでもない。


 つまり、逃げ道がない。


「リディアさん」


 先輩が、私の机の横を通りすぎながら小声で言った。


「まだ開けてないんですか」


「業務優先です」


「昨日もそれ言ってました」


「業務が終わらないんです」


「王宮の業務は基本的に終わりませんよ」


 それはそう。


 そうなのだ。


 民声応答室の仕事は、終わらない。


 終わらないから、封筒を開けない理由として非常に有効である。


 非常に有効。


 ベルク様が聞いたら褒めそうな言い訳で、私は自分の胃を押さえた。


 やめよう。


 それは悪い方向の有効だ。


 私は封筒を見る。


 紙の端は、少しだけ歪んでいた。


 たぶん、カイル様が自分で折った。


 きっちり折ろうとして、力が入りすぎたのだろう。


 角が少し潰れている。


 その不器用さだけで、胸が変なふうに痛む。


「開けたらどうですの」


 背後から声がした。


 振り向かなくてもわかる。


 エレオノーラ様だ。


 今日も完璧に美しい。


 悪役令嬢救済課――正式名称ではない。断じて違う――の設立準備で忙しいはずなのに、なぜか私の机の前に立っている。


「エレオノーラ様、お仕事は」


「しておりますわ」


「私の封筒を監視するのが?」


「親友の人生の転機を見守るのも、貴族令嬢の重要な務めです」


「職務範囲が広すぎます」


 エレオノーラ様は扇で口元を隠した。


「それに、あなたは仕事を理由に逃げますもの」


 痛い。


 この人の言葉は、刃物のように正確な時がある。


 しかも装飾付き。


「逃げていません」


「では開けなさいな」


「今は民声応答室の業務時間です」


「民声応答室の標語は?」


 私は壁を見る。


 仮貼りの新標語。


『王宮は、民の声を聞き、返事をします』


「……聞き、返事をします」


「では、カイル様の声を聞き、返事をなさいませ」


「民ではありません。辺境伯です」


「屁理屈の完成度だけは宰相級ですわね」


「その評価は燃えます」


 エレオノーラ様は笑った。


 助けてくれない。


 むしろ燃料を整えて投げてくる。


 私は封筒を手に取った。


 軽い。


 中身は一枚だ。


 たぶん、とても短い。


 カイル様だから。


 長い求婚文を書く姿も、少しだけ想像した。


 無理だった。


 三行目あたりで世界が終わりそうな気がする。


 封を開ける。


 紙を取り出す。


 そこには、たった一文だけが書かれていた。


『リディア・ノートンを、生涯、信じる』


 私は、息を忘れた。


 周囲の音が遠くなる。


 水晶の呼び出し音。


 伝令鳥の羽音。


 先輩が胃薬瓶を振る音。


 誰かが「予算課からまた差し戻しです」と言う声。


 全部、少し遠い。


 紙の上には、短い言葉。


 不器用な文字。


 少し強すぎる筆圧。


 でも、迷いはなかった。


『リディア・ノートンを、生涯、信じる』


 名前がある。


 私の名前。


 肩書きではない。


 炎上対応係でもない。


 下級広報官でもない。


 民声応答室担当でもない。


 リディア・ノートン。


 その名前を、カイル様が書いている。


 生涯。


 信じる。


 私は反射的に火種を見ようとした。


 癖だ。


 職業病だ。


 王宮広報局で生きてきた者の、どうしようもない反射。


 この一文が世に出た場合の火種。


【火種:辺境伯による下級官吏への過剰接近】

【火種:職務関係と私的関係の混同】

【火種:北方家による王宮広報への影響疑惑】

【火種:身分差婚約への貴族反発】

【火種:民声応答室の中立性疑義】


 いつもなら浮かぶ。


 見える。


 燃える場所が。


 でも、紙の上は静かだった。


 何も見えない。


 火種がない、というより。


 火を見る目が、動かなかった。


 私はその一文を、危機として扱えなかった。


 扱いたくなかった。


 それが怖かった。


「リディア?」


 エレオノーラ様の声が、少しだけ柔らかくなる。


 私は紙を握らないように気をつけた。


 皺をつけたくなかった。


 完璧な声明文を握り潰した手が、今度は一枚の不器用な紙を守ろうとしている。


 おかしなものだ。


 私は第56話の彼を思い出した。


 割れた会議机。


 低い声。


「またか」


「また、王都は同じ言葉で人を殺すのか」


「父の時もそうだった」


「混乱を避けるため、と書かれた」


「援軍は遅れた」


「父は死んだ」


「今度はリディアか」


 あの時、カイル様は言葉の外へ壊れかけた。


 怒りを拳にして、机を割った。


 剣に手をかけた。


 人は傷つけなかった。


 でも、敵の見出しになりかけた。


 彼は言葉を憎んでいた。


 長い言葉を信用していなかった。


 王都の言葉が父を殺したから。


 その彼が、第66話で一文を書いた。


『リディア・ノートンは、火を隠さない。だから信じる』


 短くて。


 逃げていなくて。


 私を守った言葉。


 第89話では、剣を抜かなかった。


 文書を置いた。


 記録を示した。


 そして言った。


「言葉で父は死んだ。だが、今日は言葉で守る」


 その人が、今。


 私に向けて書いている。


『リディア・ノートンを、生涯、信じる』


 私は何度も読んだ。


 何度読んでも、同じだった。


 短い。


 あまりにも短い。


 でも、足りないところがなかった。


 飾りがない。


 言い訳がない。


 予防線がない。


 身分差への説明も、政治的配慮も、王宮への根回しも、北方家の利害も、一切書いていない。


 広報官として見れば、不備だらけだ。


 求婚文として見れば。


 たぶん、完璧だった。


「……短い」


 私の口から、まずそれが出た。


 最低である。


 でも本音だった。


 エレオノーラ様が優雅に頷く。


「カイル様にしては長い方ですわ」


「これでですか」


「生涯、という単語を入れていますもの」


 確かに。


 カイル様の語彙としては、かなり踏み込んでいる。


 先輩がそろりと近づいてきた。


「拝見しても?」


「だめです」


 私が即答すると、先輩は両手を上げた。


「失礼しました。顔でだいたいわかりました」


「顔で読まないでください」


「広報局員なので」


「職務倫理が燃えています」


 ミリアも、書類束を抱えてこちらを見ていた。


 彼女は近づいてこない。


 でも、心配そうな顔をしている。


「リディアさん」


「はい」


「返事を急がなくてもよいものですか」


 私は瞬いた。


 ミリアは真剣だった。


「民声応答室では、第一返信予定日を定めます。でも、これは……」


 彼女は少し言葉を探した。


「これは、心のことなので」


 心のこと。


 そう言われた瞬間、胸の奥が熱くなった。


 ミリアは続ける。


「今、答えられないなら、『受け取りました』だけでも、返事になりますか」


 私は紙を見る。


 エレオノーラ様も、先輩も、黙った。


 民声応答室の中で、誰かの水晶が鳴っている。


 でも、誰もそれを取らない。


 私はようやく、小さく言った。


「受け取りました、だけなら」


 書ける。


 たぶん。


 仕事でも使う。


 第一返信で使う。


 でも、それは違う。


 カイル様に対して「受け取りました」とだけ返したら、あまりに事務的すぎる。


 いや、でも今すぐ「はい」と言えるか。


 言えない。


 言いたくないわけではない。


 むしろ、胸の奥では何かが勝手に返事をしようとしている。


 でも、言葉が追いつかない。


 私は、他人の謝罪文なら書ける。


 王宮声明なら書ける。


 訂正依頼なら書ける。


 燃えない見出しなら、なんとか作れる。


 想定問答なら、夜明けまで書ける。


 でも、自分の気持ちを書く紙は、目の前で急に崖になる。


 私は小さく息を吸った。


「カイル様は、どちらに?」


「廊下です」


 先輩が即答した。


「壁みたいに立ってます」


「まだ壁なんですか」


「はい。通行人が自然に避けています。交通整理に便利です」


「辺境伯様を通行整理設備にしないでください」


 私は紙を持って立った。


 足元が少しふわふわする。


 こんな状態で廊下に出ていいのか。


 広報官としては非常に危険だ。


 でも、リディア・ノートンとしては、出なければならない気がした。


 廊下に出ると、本当にカイル様がいた。


 壁だった。


 黒い外套。


 布で覆った剣。


 背筋を伸ばして立っている姿は、王宮の白い廊下にまったく馴染んでいない。


 北方の雪山が、間違えて室内に置かれているようだ。


 通行人が遠巻きにしている。


 見慣れた光景になりつつあるのが怖い。


 カイル様は私を見ると、少しだけ顎を引いた。


「読んだか」


「はい」


「長いか」


 私は、紙を見た。


 一文。


 十九文字と句読点なし。


 長いか。


 この人は本気で聞いている。


 私は胸が痛くなった。


「いいえ」


 声が少し震えた。


「短いです」


「そうか」


「でも」


 私は言葉を探した。


 求婚文への感想。


 添削ではない。


 評価でもない。


 燃焼リスク分析でもない。


 私の言葉。


 なのに、出てこない。


 カイル様は急かさなかった。


 いつものように。


 黙っていた。


 その沈黙は、昔は少し怖かった。


 何を考えているかわからなくて。


 自分が責められているようで。


 でも今は違う。


 この沈黙は、待つためのものだ。


 私が自分の言葉を探す時間を、彼は守っている。


「……火種を、見ようとしました」


 私は正直に言った。


 カイル様の眉がわずかに動く。


「見えたか」


「いいえ」


「ないのか」


「わかりません」


 私は首を横に振った。


「火種がないのか、私が見たくないのか、わかりません」


「そうか」


「広報官としては、問題がたくさんあります。身分差、職務関係、北方家、民声応答室の中立性、王宮内の反発、新聞社の見出し、掲示板の茶化し」


「多いな」


「多いです」


「なら、やめるか」


 その声は低かった。


 短い。


 でも、逃げではなかった。


 本当に聞いている。


 私に選ばせようとしている。


 私は紙を握りしめそうになり、慌てて力を抜いた。


「違います」


 すぐに出た。


 それだけは、すぐに出た。


 カイル様が私を見る。


 灰色の目。


 北方の雪雲みたいな目。


 私は続けた。


「やめたい、ではありません」


「では」


「返事が、書けません」


 言った瞬間、情けなくなった。


 なんだそれは。


 炎上対応係が。


 民声応答室の担当が。


 国中に向けて「今から、返事を始めます」と言った女が。


 一枚の求婚文に返事を書けない。


 矛盾にもほどがある。


「すみません」


 謝罪が先に出た。


 よくない。


 これは謝罪ではない。


 いや、でも待たせている。


 私は混乱した。


「これは謝罪ではなく説明で、いえ、でも謝罪も必要で、ただ、していない罪への謝罪はしない主義ですが今回は待たせているので、その、つまり」


「リディア」


 カイル様が呼んだ。


 名前だけで、私の言葉が止まる。


「急がない」


 たった四文字。


 ずるい。


 泣きそうになる。


「でも、カイル様は」


「待つ」


「いつまでですか」


「お前が、自分の言葉を選ぶまで」


 私は顔を上げた。


 胸の奥に、ゆっくり何かが落ちていく。


 第78話で、彼は言った。


「待て」


 あの時は、自分の言葉を探していた。


 私は答えた。


「逃げません」


 今度は逆だ。


 私が言葉を探している。


 彼が待つと言っている。


 逃げるな、と言わずに。


 待つ、と言っている。


「……ずるいです」


 思わず言った。


 カイル様は少しだけ首を傾げた。


「何が」


「そんなにちゃんと待たれたら、逃げられません」


「逃げるのか」


「逃げません」


 即答した。


 まただ。


 大事なところだけは、すぐに出る。


 でも、その先が出ない。


 私は苦笑した。


「逃げません。でも、書けません」


「そうか」


「はい」


「なら、持っていろ」


 カイル様は紙を指した。


「返す必要はない」


「いいんですか」


「渡した」


「それは、まあ」


「お前のものだ」


 短い言葉が、胸に刺さる。


 お前のもの。


 紙だけではない気がして、危険だ。


 火種ではない。


 熱源である。


 私は紙を胸に抱えた。


「……受け取りました」


 ようやく言えた。


 事務的な言葉。


 でも、私なりの第一返信。


 カイル様は、ほんの少しだけ目を細めた。


「わかった」


「ただし」


「ん」


「まだ、返事ではありません」


「わかっている」


「第一返信です」


「第一返信」


 カイル様が繰り返す。


 少しだけ不思議そうに。


 私は必死に頷いた。


「はい。受領確認であり、最終回答ではありません」


「役所の言葉だな」


「今の私にできる精一杯です」


 カイル様は、少しだけ口元を緩めた。


 笑った。


 たぶん。


 ほんの少し。


「なら、待つ」


 また、待つ。


 この人の「待つ」は強い。


 急かすより、ずっと強い。


 私は負けそうになった。


 何にかはわからない。


 午後、民声応答室に戻ると、空気が妙に浮ついていた。


 先輩が机の下に胃薬瓶を隠した。


 エレオノーラ様が何食わぬ顔でお茶を飲んでいる。


 ミリアが記録用紙を前に真剣に座っている。


 全員、聞いていないふりが下手だった。


「皆さん」


 私は静かに言った。


「廊下の会話を聞いていましたね」


 先輩が天井を見た。


「水晶の調整音が」


「聞いていましたね」


「はい」


「正直でよろしい」


 エレオノーラ様が微笑む。


「第一返信、お見事でしたわ」


「聞いていたんですね」


「廊下はよく響きますもの」


「王宮建築に抗議します」


 ミリアが手を上げた。


「リディアさん」


「はい」


「第一返信の記録は必要ですか」


「必要ありません」


「ですが、返事を待つ案件として管理しないと、期限が」


「管理しません」


 私は即答した。


 ミリアは少し考える。


「では、任意希望欄に」


「書きません」


「わかりました」


 素直に引いてくれた。


 助かる。


 でも、エレオノーラ様は引かない。


「それで、リディア。最終回答予定日は?」


「未定です」


「未定は炎上しますわよ」


「私用案件です」


「私用案件ほど燃えると、あなたが一番ご存じでしょう」


「やめてください」


 先輩が震える声で言った。


「掲示板に出たらどうしましょう」


「出しません」


「でも、辺境伯様が求婚したと知れたら」


「まだ求婚とは」


 言いかけて、止まった。


 違う。


 あれは求婚だ。


 どこからどう見ても求婚だ。


 ただ、王宮書式ではないだけで。


 私は顔が熱くなった。


 先輩が目を覆う。


「リディアさんが自爆しました」


「してません」


「顔が祝火です」


「新しい火災分類を作らないでください」


 民声応答室の扉が開いた。


 記録局長が顔を出す。


「何か燃えていますか」


 全員が沈黙した。


 私は紙を隠した。


 遅かった。


 記録局長の視線が紙へ落ちる。


 おそろしいことに、記録官の目は文字を読むのが速い。


 彼は一瞬で察した顔をした。


「……私用文書でしたか」


「はい」


「記録対象外ですね」


「はい」


「ただし、婚約等に発展した場合、王宮儀典局への届出が必要です」


「まだです」


「承知しました。では、未発生事項として扱います」


「その分類もやめてください」


 記録局長は真面目に頷き、出ていった。


 王宮は広い。


 でも、情報は狭い廊下を走る。


 私は頭を抱えた。


 広報官として、これはまずい。


 非常にまずい。


 しかし、胸の奥はまだ温かい。


 まずいのに、嬉しい。


 嬉しいのに、怖い。


 怖いのに、紙を手放したくない。


 感情というものは、分類に向いていない。


 午後第二刻。


 灯火新聞の編集長が来た。


 来なくていい時に来る人ランキングがあれば、かなり上位である。


 彼は民声応答室の新制度取材のために来た、という顔をしていた。


 顔だけは。


「民声応答室の初日、順調ですか?」


「順調の定義によります」


「胃薬消費量で測ると?」


「悪化しています」


「よい見出しですね」


「よくありません」


 編集長はにやりと笑った。


「ところで、王宮内で妙な噂を聞きまして」


「帰ってください」


「まだ何も言ってません」


「言う前から燃えています」


「辺境伯様が、リディアさんに一文の私用文書を渡したとか」


 情報が速すぎる。


 私は机を叩きそうになった。


 カイル様ではないので叩かない。


 第56話の教訓である。


「未確認情報で人を殴らないでください」


「殴ってはいません。取材です」


「未確認情報で取材しないでください」


「では確認を」


「しません」


 編集長は楽しそうだった。


「記事にはしませんよ」


「当然です」


「ただ、訂正欄の大きい新聞社としては、こういう一文には興味がありまして」


「どういう一文ですか」


「短く、逃げず、誰かを守る言葉です」


 私は黙った。


 編集長の顔から、少しだけ茶化しが消えた。


「王都は長い言葉に何度も騙されました。短い見出しにも、何度も刺されました。でも、短い言葉が全部悪いわけじゃない。長い文章が全部嘘なわけでもない」


 彼は軽く肩をすくめる。


「結局、誰が何から逃げずに書いたかなんでしょうね」


 その言葉は、妙に胸に残った。


 誰が何から逃げずに書いたか。


 カイル様は、逃げなかった。


 父の死から。


 王都への怒りから。


 言葉への憎しみから。


 そして、私を信じることから。


 私はどうだろう。


 私は、何から逃げようとしているのだろう。


 自分の気持ちか。


 幸せになることか。


 自分のための言葉を書くことか。


「編集長」


「はい」


「記事には」


「しません」


「絶対に」


「しません」


「見出し案も」


「心の中だけにします」


「それが一番怖いです」


 編集長は笑って帰っていった。


 嫌な人だ。


 でも、時々いいことを言う。


 それもまた腹立たしい。


 夕方、カイル様はまだ王宮にいた。


 北方への定期連絡を終え、民声応答室の外で待っている。


 壁から少しだけ人間に戻ったように見える。


 いや、まだ壁寄りだ。


 私は書類を抱えて廊下に出た。


「カイル様」


「ん」


「北方への返事、明日送ります。補助金遅延の回答予定日を入れました」


「助かる」


「あと、東七番孤児院への同行、安全確認が取れました。ミリア様が記録官補佐として行きます」


「護衛を出す」


「ありがとうございます」


 業務会話はできる。


 滑らかにできる。


 困るくらいできる。


 私は紙束を胸に抱えた。


 その中に、カイル様の一文は入れていない。


 あれは机の引き出しにしまった。


 一番上。


 隠してはいない。


 でも、仕事書類には混ぜない。


 それが今の精一杯の線引きだった。


「リディア」


「はい」


「困らせたか」


 私は息を止めた。


 この人は、肝心なところでまっすぐ聞く。


 困る。


 でも、困るだけではない。


「困りました」


 正直に言った。


 カイル様の表情がわずかに固くなる。


 私は慌てて続けた。


「でも、嫌ではありません」


 言えた。


 言った。


 廊下の空気が少し変わる。


 カイル様は黙っている。


 私は視線を落とした。


「困っています。とても。どう返せばいいかわからないくらい。でも、嫌ではありません。だから、逃げません」


 指先が震える。


 でも、紙を握りつぶさない。


「返事は、待ってください」


 カイル様は静かに頷いた。


「待つ」


 また、その言葉。


 私は胸の奥がぎゅっとなった。


「ただし」


 カイル様が続けた。


「無理に綺麗に書くな」


 私は顔を上げた。


「え」


「声明ではない」


「……はい」


「俺に燃えない文章を書くな」


 心臓が跳ねた。


 何かを見透かされた気がした。


「燃えない文章は得意です」


「知っている」


「でも」


「俺には、いらない」


 短い。


 でも、深いところまで届く。


 私は、笑いそうになって、泣きそうになった。


「それ、かなり難しい注文です」


「そうか」


「はい。私、燃えない文章を書くために生きてきたので」


「なら、燃えてもいい」


 カイル様は真顔で言った。


「俺が燃える」


 私は固まった。


 え。


 今。


 今、何を言いましたか。


 廊下の角で、誰かが書類を落とした音がした。


 たぶん先輩だ。


 聞いていたな。


 また聞いていたな。


 私は顔が一気に熱くなる。


「カイル様」


「何だ」


「それは、その」


 火種が見えた。


 いや、火種ではない。


 私の顔が燃えている。


【火種:リディア本人の処理能力超過】


 自分向けの火種感知は鈍いはずなのに、これは見えた。


 かなり危険である。


「今の発言は、非常に」


「悪いか」


「悪くは、ないですが」


「ならいい」


「よくありません!」


 廊下の向こうで、先輩が小さく「祝火……」と呟いた。


 聞こえています。


 私は振り向かずに言った。


「先輩、記録しないでください」


「してません!」


「心に?」


「少し!」


 エレオノーラ様の笑い声も聞こえた。


 もうだめだ。


 王宮の廊下は音が響きすぎる。


 建築への正式抗議が必要だ。


 カイル様は、なぜ私が慌てているのか完全にはわかっていない顔をしていた。


 でも、少しだけ満足そうでもある。


 この人、たまに無自覚で火をつける。


 王太子殿下ほどではない。


 でも、種類が違う火である。


 私にだけ効く。


 たいへんよくない。


 夜。


 民声応答室の灯りが一つずつ消えていく。


 私は机に残った。


 引き出しを開ける。


 カイル様の一文を取り出す。


『リディア・ノートンを、生涯、信じる』


 何度見ても、短い。


 何度見ても、逃げていない。


 私は白紙を出した。


 返事を書くために。


 ペンを持つ。


 インクをつける。


 書こうとする。


 止まる。


 まず、何から書く?


『カイル様へ』


 硬い。


『辺境伯様へ』


 もっと硬い。


『カイルへ』


 無理。


 今の私には無理。


 紙を一枚無駄にした。


 私は頭を抱えた。


 謝罪文なら書ける。


 声明なら書ける。


 訂正依頼なら書ける。


 想定問答なら書ける。


 なのに。


 たった一人への返事が、書けない。


 私は、第93話で言った。


「これは、私の言葉です」


 国中に向けて言った。


 ごめんなさい、と。


 聞こえていたのに返事をしなかった、と。


 今から返事を始めます、と。


 あれは私の言葉だった。


 確かに。


 でも、公的な言葉だった。


 私の罪と、王宮の責任と、民の声に向けた言葉だった。


 今、必要なのは私的な言葉。


 誰かのための文章ではない。


 組織のための文章でもない。


 国のためでも、民のためでもない。


 私が、私として、カイル様に返す言葉。


 そんなものを、私はほとんど書いたことがない。


 前世でも。


 今世でも。


 私は、誰かの失敗を処理する文章ばかり書いてきた。


 誰かの責任を整え。


 誰かの怒りを受け止め。


 誰かの言葉を燃えない形に直してきた。


 自分の気持ちは、いつも欄外だった。


 任意希望欄ですらなかった。


 私はペンを置く。


 白紙のままの紙を見る。


 カイル様の一文の隣に置くと、あまりにも白い。


 何も書けない紙は、こんなに怖い。


 扉が静かに叩かれた。


「リディア?」


 エレオノーラ様だった。


「入っても?」


「はい」


 彼女は入ってきて、白紙とカイル様の一文を見た。


 何も言わず、私の向かいに座る。


 しばらく沈黙。


 この人も、必要な時には待てる。


「書けません」


 私が先に言った。


「でしょうね」


「でしょうね、ですか」


「あなた、国を燃やす声明は書けても、自分の恋文は書けない顔をしていますもの」


「顔に出ていますか」


「かなり」


 私は机に突っ伏したい衝動をこらえた。


 エレオノーラ様は、カイル様の文を見た。


「見事ですわね」


「はい」


「短いのに、逃げ場がない」


「はい」


「あなたが詰まるのもわかります」


「完璧すぎるんです」


 私は小さく言った。


「カイル様らしくて。短くて。不器用で。でも、全部ある。だから、何を返せばいいのかわからない」


 エレオノーラ様は扇を閉じた。


「完璧な文に、完璧な文で返そうとしているからではなくて?」


 刺さった。


 またこの人は、正確に刺す。


「……そうかもしれません」


「求婚声明に、声明で返す必要はありませんわ」


「でも」


「でも?」


「ちゃんと返したいんです」


「ええ」


「傷つけたくないんです」


「ええ」


「変に書いて、燃やしたくないんです」


 エレオノーラ様は、少しだけ目を細めた。


「リディア」


「はい」


「恋は、多少燃えるものですわ」


「火消し係に向かって言う言葉ですか」


「ええ。あなたには必要でしょう?」


 私は返せない。


 エレオノーラ様は立ち上がった。


「今日は書けなくてもよろしいのではなくて?」


「でも、待たせています」


「待つと言われたのでしょう」


「はい」


「では、信じなさい」


 信じる。


 その言葉が、紙の上の一文と重なる。


『リディア・ノートンを、生涯、信じる』


「信じる、ですか」


「ええ。カイル様が待つと言ったなら、待つのでしょう。あの方、言葉は少ないけれど、言ったことからは逃げませんもの」


 私は紙を見る。


 たしかに。


 カイル様は逃げない。


 待つと言ったら、待つ。


 信じると言ったら、信じる。


 その単純さが、今は少し怖くて、とても優しい。


 エレオノーラ様は扉へ向かいながら、ふと振り返った。


「ちなみに」


「はい」


「返事が書けたら、私には最初に見せなさい」


「なぜですか」


「親友ですから」


「検閲ですか」


「鑑賞ですわ」


「もっとだめです」


 彼女は笑って出ていった。


 私は白紙の前に残された。


 しばらく、何も書けなかった。


 でも、さっきより白紙が怖くない。


 カイル様の一文を横に置く。


 そして、別の紙に小さく書いた。


『まだ、書けません』


 これは返事ではない。


 でも、嘘ではない。


 続けて書く。


『でも、逃げません』


 そこまで書いて、手が止まった。


 今夜の私には、これが限界だった。


 私はその紙を折らなかった。


 送らない。


 まだ送れない。


 でも、捨てない。


 机の上に、カイル様の一文と並べて置いた。


 翌朝になれば、また恥ずかしくなってしまうかもしれない。


 それでも、今日の私は書いた。


 たった二行。


 未完成。


 でも、私の言葉。


 その夜、民声応答室の最後の灯りを消す前に、私はもう一度紙を見た。


『リディア・ノートンを、生涯、信じる』


 その横に、私の震えた文字。


『まだ、書けません』

『でも、逃げません』


 完璧ではない。


 返事にもなっていない。


 けれど、始まってはいる。


 民声応答室で、国中への返事を始めた私が。


 今度は、自分の心への返事を始めようとしていた。


 そして翌日。


 私は白紙を前に、完全に固まることになる。

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