ミリアの新しい仕事
人の名前を書く仕事は、思ったより重い。
書類上は、ただの文字である。
姓。
名。
年齢。
住所。
請願番号。
担当部署。
回答予定日。
昼食希望――いや、それは必須項目ではない。
必須ではない。
たぶん。
「リディアさん」
民声応答室の向かい側で、ミリア・セレスが真剣な顔をして羽根ペンを握っていた。
淡い麦色の服。
神殿の白でもなく、王宮記録局の灰でもない。
彼女が自分で選んだ色だ。
袖口には、まだ少し迷いが残っているように見える。
清らかすぎず、地味すぎず、でも目立ちすぎない。
本人の意思と、周囲の視線への警戒が、布地になっているようだった。
「この欄ですが」
「はい」
「昼食希望欄は、正式書式ではどこに置くべきでしょうか」
「置かなくて大丈夫です」
「ですが」
ミリアは真剣に紙を見る。
「希望を聞かれないまま過ごしている子がいた場合、最初に聞くのが昼食でもよいのではないかと」
私は赤ペンを持ったまま固まった。
反論しようとした。
でも、反論が意外と弱い。
なぜなら、正しいからだ。
少なくとも、ミリアにとっては。
第30話。
記録局立ち会いの小さな面会室で、彼女は初めて「パンがいいです」と言った。
あれは、王国史には載らないだろう。
でも、私の中では大事件だった。
聖女候補として「皆さまのために祈ります」と言うことを求められ続けた少女が、昼食を選んだ。
それは小さい。
小さいけれど、自分の人生に戻るための一歩だった。
「では」
私は紙の端に書いた。
『任意希望欄』
「昼食に限定せず、本人が伝えたい希望を書く欄にしましょう」
ミリアは目を丸くした。
「昼食以外も?」
「はい。毛布でも、本でも、面会相手でも、静かにしてほしいでも、今は答えたくないでも」
「今は答えたくない、も希望ですか」
「希望です」
私は少しだけ笑った。
「返事を急がせないでほしい、という希望です」
ミリアはゆっくり頷いた。
そして、とても丁寧な字で書いた。
『任意希望欄』
字はまだ少し硬い。
でも、神殿布告のような空白はなかった。
これは、ミリアの文字だった。
民声応答室は、朝から鳥小屋だった。
物理的にも比喩的にも。
地方からの伝令鳥が窓辺に並び、王都内の水晶連絡は鳴りっぱなしで、机の上には請願書、苦情票、確認依頼、謝罪回答案が山になっている。
改組前の危機声明管理室――通称、火消し部屋も相当ひどかった。
しかし、民声応答室は方向性が違う。
火を消すだけなら、火種を見ればいい。
でも、返事をするには、火元の奥にいる人を見る必要がある。
これが、胃にくる。
先輩が胃薬瓶を振った。
からから。
「音が軽い」
「在庫が軽いです」
「予算申請しました?」
「しました。件名は『王宮標語改革に伴う胃薬使用量増加について』です」
「燃えそうな件名ですね」
「燃えています」
先輩はすでに半分燃えた顔で言った。
「財務課から『胃痛は個人差があるため一律支給は不適切』と返事が来ました」
「胃痛に個人差があるのは事実ですが、職場環境に原因がある場合は組織責任です」
「返信します?」
「します」
私が紙を取ると、ミリアが小さく手を上げた。
「あの」
「はい」
「その返信、私が下書きしてもよろしいですか」
室内の手が、一斉に止まった。
先輩が胃薬瓶を胸に抱える。
「ミリア様が、胃薬予算の下書きを……?」
「はい。民声応答室の業務に関わる記録として」
ミリアは真面目だった。
真面目すぎて、こちらが笑うと失礼になるやつだ。
私は頷いた。
「お願いします。ただし、財務課を祈りで包まないでください」
「祈りません」
「神の導きも不要です」
「書きません」
「『皆さまの健康のため』も危険です」
ミリアは一瞬だけ考えた。
「では、『職員の継続勤務に必要な消耗品として』」
「すごく良いです」
先輩が感動した顔をした。
「元聖女候補様が、胃薬を消耗品として扱ってくださった」
「感動の方向がおかしいです」
でも、少しだけ胸が温かくなった。
ミリアはもう、神殿の美しい言葉を借りていない。
胃薬を胃薬として書いている。
かなり大事な進歩である。
午前第二刻。
ミリアの正式な配属確認が行われた。
肩書きは長い。
『王宮記録局所属・民声応答室連絡記録官補佐』
長い。
長すぎる。
カイル様なら三文字目で眉間に皺を寄せる。
でも、この長さには理由がある。
ミリアを神殿から完全に切り離しつつ、王宮の宣伝材料にしないためだ。
民声応答室の直轄にすると、「元聖女候補を王宮広報が利用している」と燃える。
記録局所属にすることで、彼女の役割は広報演出ではなく記録だと示す。
ただし、民声応答室との連携は必要。
そこで、連絡記録官補佐。
肩書きが長い時は、だいたい政治的配慮が詰まっている。
胃に悪いサンドイッチである。
記録局長が、少し緊張した顔で書類を読み上げた。
「ミリア・セレス氏は、本日付で王宮記録局所属となり、民声応答室との連絡記録補佐業務に従事する。主たる業務は、孤児院、施療院、神殿関連保護対象、地方請願者との連絡補助、本人確認、同意確認、回答状況記録である」
ミリアは立って聞いていた。
背筋は伸びている。
でも、手元の紙の端を握る指は少し白い。
「なお、同氏は神殿へ戻らない」
その一文で、室内が一瞬静まった。
短い。
でも、重い。
神殿へ戻らない。
それは、信仰を捨てるという意味ではない。
過去をなかったことにするという意味でもない。
ただ、あの台本と白い壇へ戻らないということだ。
ミリアは小さく息を吸った。
「はい」
返事は、一音だった。
けれど、私はそこに火種を見なかった。
代わりに、細い芯のようなものが見えた気がした。
火ではなく、灯りに近いもの。
記録局長が続ける。
「外部対応については、本人の安全確保を優先する。記者対応、神殿関係者との接触、旧聖女候補呼称の使用については、本人意思および担当官確認を必要とする」
私はその一文に赤を入れたい衝動をこらえた。
いや、今回は通した。
本人意思が入っている。
担当官確認だけではない。
大丈夫。
たぶん。
たぶんを減らすために、私たちは書類を作る。
式が終わると、先輩が拍手しようとして、周囲を見た。
「拍手していいやつですか?」
「採用辞令なので、たぶんいいです」
「炎上しません?」
「拍手が燃える職場、嫌です」
先輩は小さく拍手した。
ぱちぱち。
それに続いて、民声応答室の職員たちも拍手する。
盛大ではない。
でも、温かかった。
ミリアはその拍手にどう反応すればいいかわからない顔をした。
神殿で受けていた歓声とは違う。
崇拝でもない。
商品への反応でもない。
ただの、配属おめでとうの拍手。
彼女は迷った末、深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
その声は、少しだけ震えていた。
私は言った。
「こちらこそ。早速ですが、仕事があります」
先輩が横で呟く。
「情緒の余韻を働かせる上司」
「上司ではありません。連携担当です」
「実質上司です」
「燃えます」
ミリアが少し笑った。
笑った。
小さく、でも確かに。
最初の仕事は、東七番孤児院への返答記録だった。
リナさんの手紙。
冬の毛布が届かなかったこと。
神殿経由の寄付金が途中で止まっていたこと。
王宮の民声記録には届いていたのに、回答保留になっていたこと。
第93話で、私は彼女の名前を呼んだ。
『東七番孤児院のリナさん。あなたの手紙は、届いていました』
でも、名前を呼んだだけでは終わらない。
呼んだなら、返事をしなければならない。
これが厄介だ。
謝罪だけなら、まだ書ける。
でも、返事は約束を伴う。
どこまでできるのか。
誰が担当するのか。
いつまでに確認するのか。
できないことはなぜできないのか。
言わなければならない。
しかも、相手は子どもだ。
でも、子どもだからといって曖昧にしていいわけではない。
私は草案をミリアに渡した。
『リナ様
あなたの手紙は、王宮に届いていました。
しかし、王宮は返事をしていませんでした。
まず、そのことを謝罪します。
冬用毛布については、神殿経由寄付および王宮備蓄からの配布記録を確認中です。
現在確認できている範囲では、東七番孤児院宛ての毛布二十枚の配布記録がある一方、孤児院到着記録が確認できていません。
今後、輸送記録、神殿倉庫記録、孤児院受領記録を照合します。
第一回答予定日は三日後、担当は民声応答室および王宮記録局です』
ミリアは黙って読んだ。
長い沈黙。
私は口を出さない。
ペンを持った手が、少し動く。
やがて、ミリアが言った。
「リナは、様ではなく、さんがいいと思います」
私は瞬きをした。
「さん、ですか」
「はい。リナさんは、孤児院でそう呼ばれていました。私も、そう呼んでいました」
ミリアの目が紙に落ちる。
「聖女候補として訪ねた時、私はたくさんの子どもの名前を呼びました。呼ぶと、みんな笑いました」
声が少しだけ低くなる。
「でも、呼んだだけでした」
私は何も言わなかった。
ミリアは赤ではなく、黒いインクで直した。
『リナさん』
その小さな訂正が、妙に重かった。
「それから」
ミリアは続ける。
「『冬用毛布については』の前に、寒かったことを入れたいです」
「寒かったこと」
「はい」
彼女は少し考え、ゆっくり書く。
『あなたが寒い冬を過ごしたことを、王宮は記録として受け止めます』
私は紙を見た。
火種は少ない。
でも、少し硬い。
ミリアもそれを感じたのか、眉を寄せた。
「硬いです」
「はい」
「でも、『寒かったですね』と書くのは、私が言っていいのでしょうか」
その問いに、私はすぐ答えられなかった。
優しい言葉は、時に上から降ってくる。
経験していない苦しみに「つらかったですね」と書くことは、間違いではない。
でも、軽くなることもある。
相手の痛みを、こちらの言葉で撫でて終わらせてしまうことがある。
ミリアはそれを怖がっている。
私は言った。
「断定しすぎず、でも避けすぎず、ですね」
「難しいです」
「はい。仕事です」
ミリアは少しだけ口を尖らせた。
ほんの少し。
元聖女候補の口尖らせ。
記録すべきか迷う。
しない。
私は言葉を提案した。
『寒さについて書いてくださったことを、読みました』
ミリアは目を上げた。
「それなら、言えます」
「はい。こちらが勝手に気持ちを決めず、読んだことを返す文です」
ミリアは頷いて、書き直した。
『リナさん
あなたの手紙は、王宮に届いていました。
寒さについて書いてくださったことを、読みました。
しかし、王宮は返事をしていませんでした。
まず、そのことを謝罪します』
彼女の指が、そこで止まる。
「リディアさん」
「はい」
「謝る時、どこまで謝ればいいのでしょう」
重い質問が、朝の書類山に落ちた。
私はペンを置いた。
「したこと、しなかったこと、確認できたことに謝ります」
「確認できないことには?」
「謝罪ではなく、確認しますと書きます」
「でも、相手は傷ついています」
「はい」
「謝りたくなります」
「なります」
私は息を吐いた。
「でも、していないことまで謝ると、あとで本当に何が起きたのかわからなくなります。誰が何をしたのかも、誰が返事を止めたのかも曖昧になる。謝罪で火を消したつもりになって、原因を消してしまうことがあります」
前世の自分を思い出す。
誠意を見せろ。
ただし責任は認めるな。
あの空っぽの謝罪文。
誰にも届かない言葉。
「だから、謝罪は狭く、でも深く」
ミリアは小さく繰り返した。
「狭く、深く」
「そして、確認は広く」
「確認は広く」
「返事は、続ける」
ミリアはゆっくり頷いた。
「返事は、続ける」
その言葉が、彼女の中でどこかに収まったのがわかった。
次の書類は、北方の村のトマさん宛てだった。
父親の手紙が読まれていなかった少年。
王都を嘘つきの街と呼んだ子。
カイル様の領地で、鐘三回を知っていた子。
そして、私が王都を弁護しようとして、何も返せなくなった相手。
ミリアはトマさんの記録を読んで、しばらく黙った。
「この子には、私は会っていません」
「はい」
「でも、私の祈りの布の絵姿が、北方支援の広告に使われていました」
「記録上、そうです」
「物資は届かなかった」
「はい」
ミリアは唇を結んだ。
自分が命じたわけではない。
でも、彼女の笑顔と祈りが、届かなかった物資の包装紙になった。
その事実が、彼女を刺している。
私は、刺さっているものを抜いてあげることはできない。
抜く権利もない。
ただ、彼女がその痛みを使って次の言葉を書くのを、そばで見ることはできる。
ミリアは書いた。
『トマさん
あなたのお父様の手紙は、王宮に届いていました。
しかし、読まれないまま保留されていました。
王宮は、そのことを謝罪します』
ペンが止まる。
私は問う。
「どうしました?」
「『私も謝ります』と書きたくなりました」
「書きますか」
ミリアは首を横に振った。
「これは王宮からの返事です。私の謝罪を混ぜると、誰の返事かわからなくなります」
私は少し驚いた。
正しい。
とても正しい。
でも、正しすぎるとまた人を置き去りにする。
ミリアは紙の端に別枠を作った。
『ミリア・セレス個人記録』
そして、そこに小さく書いた。
『私は、北方への祈りの言葉を語っていました。しかし、あなたのお父様の手紙が読まれていなかったことを知りませんでした。知ろうとしませんでした。このことは、別途、本人の同意がある場合にのみ伝えます』
私は胸が詰まった。
「いいと思います」
「出していいかは、まだわかりません」
「はい」
「でも、消したくありません」
「消さなくていいです」
記録する。
すぐ公開しない。
でも消さない。
それは、今の私たちがようやく覚え始めた作法だった。
昼近く、エレオノーラ様が民声応答室に現れた。
相談窓口準備のためだ。
正式名称はまだ決まっていない。
候補一覧には恐ろしい文字が並んでいる。
『悪役令嬢救済課』
『名誉被害相談窓口』
『社交界悪評対策室』
『泣かない女も傷つく係』
最後のものは、誰が書いたのか。
私ではない。
たぶん先輩である。
筆跡が胃薬の香りをしている。
エレオノーラ様はそれを見て、たいそう楽しそうに微笑んだ。
「最後の名称、悪くありませんわ」
「正式名称にしません」
「では通称で」
「もっとだめです」
ミリアは紙束を持ったまま、少し離れて立っていた。
エレオノーラ様がそれに気づく。
「ミリア様。記録官補佐、初日はいかが?」
ミリアは背筋を伸ばした。
「難しいです」
「それはよいことですわ」
「よいこと、ですか」
「簡単だと思ったら危険ですもの」
ミリアは少し考え、頷いた。
「はい」
二人の間には、まだ沈黙がある。
第28話の壇上で隣に座った時の沈黙。
神殿美談がエレオノーラ様を悪役にした時間。
最終会見でミリアが名前を呼んだ時の痛み。
名誉回復式で、紙を受け取っただけの距離。
それらは、一日で消えない。
だから、私は二人の間に入らない。
しかし、先輩が空気を読まずに茶を出した。
「お茶です」
空気は読んでいないが、茶はうまい。
エレオノーラ様が席につく。
ミリアは少し迷って、向かいではなく斜めの椅子に座った。
正面ではない。
隣でもない。
斜め。
今の距離として、かなり正確だった。
エレオノーラ様はそれを見て、何も言わなかった。
優雅に茶を取る。
ミリアはカップを持ち、少し緊張している。
昔の彼女なら、ここで神殿式の所作を完璧にこなしただろう。
今は、少しぎこちない。
でも、それは悪いことではなかった。
「ミリア様」
エレオノーラ様が言った。
「はい」
「あなたの記録案を拝見しました」
「はい」
「任意希望欄、よいと思います」
ミリアの表情が、ほんの少し明るくなる。
「ありがとうございます」
「ただし、相談窓口の書式に昼食希望を入れると、社交界の夫人たちが菓子の銘柄を書いて送ってきますわ」
「それは困りますか」
「困ります。お茶会注文窓口になります」
ミリアは真面目に想像したらしく、少しだけ眉を下げた。
「では、用途を限定した説明を入れます」
「ええ。『本人が安全確保や生活上伝えたいこと』などがよいでしょう」
「安全確保や生活上伝えたいこと」
ミリアはすぐメモした。
エレオノーラ様は、その筆先を見ていた。
「あなた、本当に記録が好きなのね」
ミリアの手が止まった。
少し遅れて、答える。
「好きかは、まだわかりません」
「そう」
「でも、名前が残ると、安心します」
エレオノーラ様の表情が少し変わった。
強い顔ではない。
考える顔。
「消えないから?」
「はい」
ミリアは紙を見つめた。
「神殿では、たくさんの人が『信徒』でした。『孤児』でした。『病人』でした。『皆さま』でした」
便利な言葉。
広い言葉。
顔を消す言葉。
「名前を書くと、間違えられません。間違えたら、謝って直せます」
ミリアは小さく笑った。
「怖いです。でも、安心します」
エレオノーラ様はしばらく黙り、やがて言った。
「私も、悪役令嬢ではなく、エレオノーラ・グランフェルトと書かれる方がよいですわ」
「はい」
「ただし、長いですわよ」
「記録できます」
「頼もしいこと」
そのやり取りに、少しだけ空気が柔らかくなった。
仲良しではない。
でも、同じ紙を見て話せる。
それでいい。
修復は、劇的な抱擁ではなく、同じ机で別々のカップを持つことから始まる場合もある。
午後第一刻。
ミリアは神殿裏通りの薬師セラさんへの記録に取りかかった。
これが、一番難しかった。
セラさんは施療院の薬不足を訴えた人。
その抗議は、不信心として片づけられていた。
ミリアは神殿の広告塔として、施療院の美談に何度も登場している。
薬が足りない場所で、祈りの言葉が配られていた。
祈りが悪いわけではない。
けれど、薬の代わりに祈りを渡したなら、それは問題だ。
ミリアは記録を読んでいる途中で、一度席を立った。
「少し、外の空気を吸ってもよろしいですか」
「もちろんです」
以前なら、私は心配してついていったかもしれない。
守るために。
でも今は、彼女が一人で廊下に出ることも必要だと思った。
もちろん護衛の目はある。
神殿関係者が近づかないよう、記録局の担当者もいる。
でも、隣には立たない。
ミリアは自分で歩いて、廊下の窓辺に立った。
王宮の中庭が見える場所だ。
私は少し離れて、書類を整理するふりをした。
ふりのはずが、本当に書類が多すぎて整理に没頭しかけた。
危ない。
仕事はすぐ人間を飲み込む。
しばらくして、ミリアは戻ってきた。
目元は少し赤い。
でも、泣いたかどうかを私は聞かない。
彼女が自分から言うなら聞く。
ミリアは席に座り、書いた。
『セラさん
あなたの抗議は、神殿および王宮記録に届いていました。
しかし、施療院の薬不足に関する訴えとして扱われず、不信心に関する記録として分類されていました。
王宮は、この分類が不適切であったことを認めます』
筆が止まる。
次に、ミリアは別紙を取った。
『ミリア・セレス個人記録』
しばらく何も書けなかった。
紙の白さが、やけに目立つ。
私は、彼女の代わりに書きたくなった。
神殿の責任が大きい。
あなた一人の罪ではない。
利用されていた。
知らなかった。
そう書けば、彼女は少し楽になるかもしれない。
でも、それは私が彼女を守りやすい形に整えることだ。
ミリアは被害者だ。
でも、完全な無垢ではない。
彼女自身がそう言った。
選ばれていると思えると、怖さが薄れた、と。
その美しくない言葉を、私は削らないと決めた。
ミリアは長い時間をかけて書いた。
『私は、施療院で祈りました。
薬が足りないという声を、聞いていませんでした。
聞こうとしていませんでした。
祈ればよいと思っていました。
祈ることで、私は清らかな人に見えると思っていました』
そこで手が震えた。
インクが少し滲む。
ミリアは唇を噛み、続けた。
『この記録を、今すぐセラさんに送る資格が私にあるかわかりません。
でも、消したくありません』
私は、胸の奥で息を止めた。
「リディアさん」
「はい」
「これは、返事ではありませんね」
「はい」
「でも、記録ですか」
「記録です」
ミリアは少しだけ目を伏せた。
「では、残します」
「はい」
それで十分だった。
夕方、三通の第一返信案ができあがった。
リナさんへ。
トマさんへ。
セラさんへ。
どれも完璧ではない。
たぶん、届いた相手は怒るかもしれない。
遅いと言うかもしれない。
今さらと言うかもしれない。
謝って済むと思うな、と言うかもしれない。
その通りだ。
謝って済むわけではない。
だから、第一返信と書く。
最後ではなく、最初。
私は三通の下に同じ一文を入れた。
『本回答は第一返信です。確認結果および対応状況について、次回返信予定日に改めてお伝えします』
ミリアがそれを見て言った。
「第一返信」
「はい」
「終わりではなく」
「始まりです」
ミリアは、ゆっくり頷いた。
その時、部屋の扉が開いた。
カイル様だった。
黒い外套。
剣は帯びているが、布で覆っている。
最近、王宮内で剣を布で覆う姿が定着しつつある。
見た目は少し不審者だ。
いや、だいぶ不審者だ。
でも、剣を見せないという意思表示でもある。
カイル様は入口で止まり、室内の紙山を見た。
「増えたな」
「はい」
「敵か」
「仕事です」
「似ている」
「否定しにくいです」
彼の視線がミリアの机に向く。
ミリアは立ち上がり、頭を下げた。
「カイル様」
「記録官になったと聞いた」
「補佐です」
「長い」
「はい」
即答だった。
ミリアもわかっている。
カイル様は少しだけ頷いた。
「名前を書くのか」
「はい」
「なら、間違えるな」
短い。
でも、重い。
ミリアは真剣に頷いた。
「はい。間違えたら、訂正します」
カイル様は、少しだけ目を細めた。
その答えが気に入ったらしい。
「それでいい」
ミリアは、ほんの少し笑った。
カイル様の短い言葉は、不器用だ。
でも、逃げていない時は、届く。
私はそう思った。
カイル様がこちらに来る。
手には一枚の封筒。
北方の黒鷲印ではなく、無地の封筒だった。
珍しい。
「リディア」
「はい」
「後で読め」
差し出された。
私は受け取った。
「業務文書ですか」
「違う」
違う。
その一言で、なぜか室内の空気が変わった。
先輩が遠くで胃薬瓶を落としそうになる。
エレオノーラ様が、ものすごく楽しそうな顔をした。
ミリアが真面目に封筒を見る。
「私用文書ですか」
やめてください。
分類しないでください。
今、その分類は燃えます。
私の内側が。
「ミリア様、そこは記録しなくて大丈夫です」
「はい」
ミリアは素直に頷いた。
素直で助かる。
エレオノーラ様は助けてくれなかった。
むしろ扇を開いた。
「まあ。求婚未遂が、ついに文書化かしら」
「まだ読んでません」
「では、求婚未読ですわね」
「新語を作らないでください」
カイル様は、少しだけ眉を寄せた。
「読むな」
誰に言ったのか。
たぶん全員にだ。
エレオノーラ様は優雅に微笑む。
「読まなくても、顔でだいたいわかりますわ」
「見るな」
「難しい注文ですわね」
私は封筒を胸元に抱えたまま、なぜか動けなかった。
業務文書ではない。
訂正文でもない。
謝罪文でもない。
想定問答でもない。
カイル様が私に渡した、私用の文書。
胸の奥が、変なふうに鳴る。
火種感知は、何も見せない。
見せないのが、怖い。
ミリアがそっと言った。
「リディアさん」
「はい」
「任意希望欄に、今のお気持ちを書きますか」
「書きません」
即答した。
エレオノーラ様が笑った。
先輩はとうとう胃薬瓶を落とした。
からから、と床を転がる。
民声応答室に、久しぶりに明るい笑いが広がった。
その笑いの中で、ミリアは自分の机に戻り、三通の第一返信案を丁寧に揃えた。
リナさん。
トマさん。
セラさん。
そして、まだ名前を呼ばれていない誰か。
ミリアは、その一枚一枚に指を添える。
「リディアさん」
「はい」
「明日、東七番孤児院へ行ってもよろしいですか」
私はすぐには答えなかった。
安全確認。
同行者。
神殿関係者の接触防止。
記者制限。
孤児院側の同意。
燃える要素は山ほどある。
けれど、彼女は行きたいと言った。
行かされるのではなく。
祈りの中心としてではなく。
記録官補佐として。
私は言った。
「条件を整えます」
ミリアは頷いた。
「はい」
「壇上には立ちません」
「はい」
「祈りの布は持ちません」
「はい」
「記者は制限します」
「はい」
「相手が会いたくないと言ったら、帰ります」
「はい」
そこで、ミリアは少しだけ息を吸った。
「それでも、行きたいです」
その言葉に、火種は見えなかった。
怖さはある。
危険もある。
でも、それは彼女の言葉だった。
「では、行きましょう」
私は答えた。
ミリアは、今度こそはっきり笑った。
聖女候補の笑顔ではない。
記録官補佐の初日の、少し疲れて、少し怖くて、それでも自分で選んだ人の笑顔だった。
その日の終業後。
私は机に残り、カイル様から渡された封筒を見つめていた。
無地。
封蝋なし。
宛名だけ。
『リディア・ノートンへ』
業務文書ではない。
公式記録でもない。
たぶん、返事が必要なもの。
でも、私はまだ開けられなかった。
民声応答室の新しい標語案が、壁に仮貼りされている。
『王宮は、民の声を聞き、返事をします』
私はそれを見て、小さく呟いた。
「返事を始めるって、言いましたけど」
自分宛ての言葉に返事をするのは、別問題ではないだろうか。
ずるい。
誰に対してかはわからないが、ずるい。
その時、廊下の向こうから先輩の声がした。
「リディアさん、胃薬、追加で置いておきますねー」
「ありがとうございます」
「あと、辺境伯様が廊下で待ってます」
私は封筒を落としかけた。
「待ってるんですか」
「はい。壁みたいに」
「壁」
「通行人が避けてます」
私は額を押さえた。
あの人は、急かさない。
急かさないが、いる。
ずっといる。
それはそれで圧がある。
封筒を開ける前から、胃が痛い。
でも、不思議と嫌ではなかった。
私は封筒を両手で持った。
まだ開けない。
明日、東七番孤児院へ行く準備がある。
リナさんへの第一返信。
ミリアの初外勤。
民声応答室の本当の初日。
そして、カイル様からの私用文書。
仕事も、返事も、人生も、順番待ちの列を作っている。
私は小さく息を吐いた。
「本当に、返事ばかりですね」
でも、もう逃げる気はなかった。
封筒を机の一番上に置く。
隠さない。
後回しにはする。
でも、なかったことにはしない。
明日、ミリアは名前を記録するために外へ出る。
そして私は、たぶん近いうちに、この封筒を開ける。
返事を始めた王宮で。
今度は、私自身が返事を迫られていた。




