エレオノーラの名誉回復
名誉は、落とした茶匙のように拾って拭けば元通り、というものではない。
ましてや、公爵令嬢の名誉である。
王宮はそれを、式典と訂正文と銀の封蝋でどうにか戻せると思っている節があった。
節というか、枝ごと生えていた。
「こちらが、名誉回復式の式次第案です」
王族広報課から届いた羊皮紙を、私は民声応答室の机に広げた。
新しい部署名になっても、机の上の紙の山は減らない。
むしろ増えた。
部署名が変わると仕事が増える。
世の中の理不尽の一つである。
私は式次第の一行目を読んだ。
『エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢の名誉完全回復を祝し――』
赤ペンを取る。
「完全、削除」
先輩が胃薬瓶を片手に頷いた。
「まあ、燃えますね」
「燃えます」
次。
『王家の温情により――』
「温情、削除」
「温情は燃えますね」
「燃えます。これは温情ではなく訂正です」
次。
『不幸な誤解により生じた一連の騒動について――』
「誤解、削除」
「誤解も燃えますね」
「燃えます。誤解ではありません。侮辱、手続き違反、虚偽情報、印象操作、訂正遅延です」
「並べると胃が痛いですね」
「事実です」
先輩が胃薬を一粒口に放り込んだ。
「事実、胃に悪い」
私は赤字を書き足した。
『本件は、不幸な誤解ではなく、王太子による不適切発言、婚約手続きの軽視、神殿および新聞社による印象操作、王宮側の訂正遅延が重なった事案である』
書いてから、少し長いと思った。
でも、短くしすぎればまた誰かの責任が消える。
責任は煙のように消えやすい。
だから、文字で重しを乗せる。
王宮広報課の担当者が震える声で言った。
「こ、これを式典で読み上げるのですか」
「はい」
「祝賀感が……」
「ありません」
「名誉回復式なのに」
「名誉回復は祝賀ではありません。訂正と返還です」
担当者は悲しそうに式次第を見た。
わかる。
飾りたくなる気持ちはわかる。
式典というものは、花と音楽と美しい言葉で包みたくなる。
けれど、きれいな包装紙で包んだ瞬間に、中にある傷が見えなくなることがある。
それを、私は何度も見てきた。
「あと、ここ」
私は三枚目を指さした。
『公爵令嬢は揺るがぬ品位をもって耐え抜かれ――』
「耐え抜いた美談にしないでください」
担当者が目を丸くする。
「しかし、実際に耐え抜かれたのでは」
「はい。でも、それを王宮が美談として消費してはいけません」
エレオノーラ様は耐えた。
泣かなかった。
震えていても、立っていた。
門前で石が投げ込まれた夜も、民衆の前で声を詰まらせた会見も、彼女は自分の足で立っていた。
けれど、だからといって「強く耐えた令嬢」として飾ってしまえば、その裏にある痛みがまた見えなくなる。
強い人は、何度も便利にされる。
守りやすい被害者。
利用しやすい象徴。
美しく耐える女。
そういう型に押し込められてしまう。
それはもう、やめたい。
私は式辞案の余白に書いた。
『エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢が沈黙していた時間を、同意や無傷の証拠として扱ってはならない』
筆先が止まる。
少し硬い。
でも、必要だ。
その時、扉が開いた。
「相変わらず、私の式典を炎上訓練場にしていらっしゃいますのね」
エレオノーラ様だった。
淡い銀灰色のドレス。
宝飾は少ない。
その少なさが、かえって彼女の姿勢を際立たせていた。
貴族令嬢というより、戦後処理に来た司令官である。
いや、実際だいたい司令官だった。
「式典を燃やさないためです」
私が言うと、エレオノーラ様は赤字だらけの式次第を覗き込んだ。
「まあ」
「多いですよね」
「いいえ。まだ白いところがありますわ」
広報課担当者が小さく悲鳴を上げた。
強い。
悪役令嬢救済課という名称を本当に通しそうな強さである。
「正式名称にはしませんからね」
「まだ何も申し上げておりませんのに」
「顔に書いてありました」
「失礼ね。顔に書くなら、もっと上質な筆を使いますわ」
先輩が小声で「今日も切れ味がいい」と呟いた。
私は式次第を渡す。
「確認をお願いします。王宮側の式辞、神殿の訂正文、新聞社共同訂正、すべて入っています」
エレオノーラ様は、椅子に座らず立ったまま読み始めた。
彼女の目が、数行ごとに止まる。
赤字にではない。
消された言葉に。
誤解。
温情。
完全回復。
揺るがぬ品位。
王家の配慮。
どれも、美しい顔をした逃げ道だった。
エレオノーラ様は最後まで読み、静かに言った。
「私の名誉は、戻りますの?」
部屋が静まった。
答えを求められているのは、たぶん私だった。
私は、正しい文章を探しかけた。
形式上は。
法的には。
王宮記録上は。
社交界においては。
訂正文の範囲では。
全部、言える。
でも、どれも今の問いへの返事ではない。
「完全には、戻りません」
私は言った。
広報課担当者が息を呑む。
先輩も黙った。
「訂正はできます。冤罪の撤回もできます。王宮記録から、不適切な記述を消すこともできます。新聞社には訂正を出させます。神殿にも謝罪させます」
エレオノーラ様は私を見ている。
「でも、エレオノーラ様が傷ついた時間は、なかったことにはできません。悪役令嬢と呼ばれた記憶も、門前に石が落ちた音も、戻せません」
言ってから、胸が痛くなった。
火消し係としては、最低の答えかもしれない。
救いがない。
きれいに締められない。
けれど、今はきれいに締めるための言葉を選びたくなかった。
エレオノーラ様は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「そう」
その声は、がっかりしたようにも、安心したようにも聞こえた。
「では、そのまま式で言ってくださいませ」
「私が、ですか」
「ええ」
「名誉回復式で『完全には戻りません』と?」
「正直でよろしいのではなくて?」
「燃えます」
「リディア」
エレオノーラ様は微笑んだ。
「もう、少しくらい燃える言葉を選ぶことに慣れたのでは?」
痛いところを突く。
この人は、相変わらず正確に急所を押す。
指圧師になれる。
いや、公爵令嬢なのでならないでください。
式は翌日、王宮前広間で行われた。
大広間ではない。
王族が見下ろす玉座の間でもない。
王宮前広間。
民衆も記者も入れる場所。
以前なら、名誉回復の場をそこにすることはありえなかった。
貴族の名誉は貴族の中で処理される。
王宮の失敗は王宮の中で整えられる。
でも、今回は違う。
彼女を悪役令嬢にした見出しは、王都中を走った。
ならば、訂正も王都中に向けるべきだ。
広間には記録水晶が並び、灯火新聞、大手新聞社、地方紙、神殿記録官、王宮記録局が席についていた。
大手新聞社の記者は、いつもより背筋が丸い。
訂正欄を小さくしたい顔をしている。
私は心の中で言った。
許しません。
物理ではなく、紙面面積で戦います。
王宮側の代理官が最初に立つ。
王族会議の決定文が読み上げられた。
『エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢に対する婚約破棄宣言は、正式手続きを欠き、本人の発言機会を奪った不適切な行為であった』
『同令嬢に対し、悪意ある印象を与える発言および記録が王宮内外に流通したことについて、王宮は訂正と謝罪を行う』
『本件は、同令嬢の品位、人格、家門に問題があったことを示すものではない』
広間に低いざわめきが走る。
火種が見える。
【火種:王宮責任追及】
【火種:王族批判再燃】
【火種:公爵家優遇反発】
でも、以前とは違った。
火種だけではない。
水のような反応もある。
『やっぱり違ったのか』
『悪役令嬢じゃなかった』
『泣かなかったから悪いと思ってた』
『公爵家だから守られたんだろ』
『でも、石を投げたのはまずかった』
ひとつにまとまらない。
世論は、きれいな川ではない。
泥も石も葉っぱも流れている。
流れを止めるのではなく、どこから来たのかを見る。
次に神殿の代表が立った。
白い衣。
硬い顔。
謝罪文を読みたくない魂が全身からにじんでいる。
でも、読む。
読ませる。
神殿が出した訂正文は、三度差し戻した。
一度目は『遺憾』が多すぎた。
二度目は『一部関係者の判断』で逃げすぎた。
三度目はミリア様の名前を使って神殿の善意を演出してきた。
全部燃やした。
物理ではない。
赤字で。
『神殿は、聖女候補ミリア・セレス氏の発言、立場、衣装、祈りの場を管理し、同氏およびエレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢に関する印象形成に関与した』
『同令嬢を悪しき対立者として位置づける表現が、神殿布告および関連広報に含まれていたことを認め、訂正する』
『ミリア・セレス氏本人の意思確認が不十分であった点についても、継続して調査と回答を行う』
神殿代表の声は最後まで硬かった。
でも、記録には残った。
硬くても残る。
感情が伴っていないと怒る人もいるだろう。
それでも、最初の返事としては必要だった。
次に新聞社。
大手新聞社社長は来なかった。
逃げた。
代理編集役が来た。
逃げたという事実も記録したい。
しかし今日は主題がぶれるので我慢した。
大人なので。
私は大人なので。
『当社は、エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢に関し、「悪役令嬢」「聖女候補を威圧」等の見出しを用い、確認不十分な印象を広げた』
『当該記事は、事実確認よりも読者反応を優先した編集判断によるものであり、同令嬢への社会的評価を損なった』
『訂正記事を、同等以上の紙面に掲載する』
そこで、私は壇の横から静かに紙を掲げた。
大きな紙。
『同等以上』
代理編集役の顔が引きつった。
忘れさせません。
文字は大きく。
訂正欄も大きく。
灯火新聞の編集長が後方で親指を立てていた。
訂正欄の民、頼もしい。
そして最後に、エレオノーラ様が立った。
広間のざわめきが変わる。
彼女は高い壇ではなく、記録机と同じ高さに立った。
最終会見の時と同じ。
見下ろさない。
見上げさせない。
同じ高さで、話す。
彼女は白い手袋をしていた。
でも、今日は片手だけ、少し緩く留めている。
指先が震えているかは、ここからでは見えない。
見えないものを、私は勝手に記録しない。
エレオノーラ様は、静かに話し始めた。
「本日、私に関する王宮、神殿、新聞社の記録が訂正されます」
声は澄んでいた。
「私は反逆を企てておりません。聖女候補を威圧しておりません。婚約破棄の原因を作ったわけでもありません」
事実。
まず事実。
彼女は逃げない。
「その点について、正式な訂正が出されることは受け取ります」
受け取る。
許す、ではない。
また一つ、言葉を選ぶ。
「ですが」
広間が静まった。
「私の名誉が完全に戻った、とは申しません」
その瞬間、火種が走る。
【火種:王宮訂正不十分批判】
【火種:公爵家さらなる要求印象】
【火種:被害者強欲化】
私は喉が詰まりそうになる。
補足したい。
違う、これは要求ではなく事実で、と説明したい。
でも、しない。
彼女の言葉を、私が無害にしない。
エレオノーラ様は続けた。
「悪役令嬢と呼ばれた日々は、消えません」
白い手袋の指が、ほんの少し曲がった。
「泣かなかったことで、傷ついていないと思われた時間も、消えません」
彼女の声が、わずかに揺れた。
「強く見える者が、いつも強いわけではありません」
広間の空気が変わった。
記者の羽根ペンの音が止まる。
「私は、公爵令嬢です。守られてきました。名を持ち、家を持ち、発言の場を持っています。その事実を、なかったことにはいたしません」
彼女は少しだけ目を伏せた。
「だからこそ、私の傷だけが特別だとも申しません」
ざわめきがまた変わる。
貴族たちの顔が硬くなる。
民衆の中には、腕を組む者もいる。
彼女は両方を見た。
「悪役令嬢という言葉は、便利でした」
第一話からずっと、追いかけてきた言葉。
悪役。
令嬢。
冷たい女。
泣かない女。
強い女。
便利な見出し。
「泣かない女を悪にするのは簡単です。怒る女を怖いものにするのも簡単です。黙る女を同意したことにするのも、強く立つ女を傷ついていないことにするのも、簡単です」
私は、手の中の式次第を握った。
ああ。
これは、名誉回復式ではない。
彼女の言葉の返還式だ。
「けれど、簡単な言葉にされた人間は、その中で生きることになります」
エレオノーラ様は、ゆっくり息を吸った。
「私は、悪役令嬢ではありません」
広間が静まる。
「ですが、悪役令嬢と呼ばれた女です」
その言い方に、私は胸を突かれた。
否定して終わらせない。
消さない。
呼ばれたことも、傷ついたことも、彼女自身の歴史として置く。
「その言葉で傷ついたのは、私だけではないでしょう」
エレオノーラ様は視線を横へ移した。
そこには、数人の令嬢たちがいた。
かつてエレオノーラ様を遠巻きに嘲笑した者もいる。
王太子派のサロンにいた者もいる。
そして、噂に巻き込まれて沈黙した者もいる。
彼女たちは居心地悪そうに立っていた。
エレオノーラ様は言う。
「これから、グランフェルト公爵家は、王宮民声応答室および記録局と連携し、社交界における名誉毀損、婚約破棄、身分差による沈黙強要、悪評流布に関する相談窓口を設けます」
私は小さく頷いた。
相談窓口。
ここ数日、エレオノーラ様と何度も詰めた案だ。
名誉回復を自分だけで終わらせない。
同じように便利な悪役にされた女性たちの声を拾う。
もちろん、すぐに完全な救済はできない。
相談窓口は魔法の杖ではない。
むしろ苦情と涙と書類の山である。
でも、扉があるだけで、声が燃える前に届くことがある。
「名称は未定ですが」
エレオノーラ様が、こちらをちらりと見た。
嫌な予感がした。
「私は『悪役令嬢救済課』でも構いませんわ」
「構います」
思わず口が出た。
広間に、小さな笑いが広がった。
しまった。
式典中に反射で突っ込んでしまった。
でも、エレオノーラ様は満足そうだった。
「ほら、リディアが反対しておりますので、もう少し上品な名称を検討します」
笑いがもう少し広がった。
緊張が少し下がる。
軽口は逃げではない。
時に、痛みの隣に人が座るための椅子になる。
エレオノーラ様は、もう一度正面を見る。
「私は、本日の訂正を受け取ります」
声が静かになる。
「けれど、私の涙を、私以外の誰かのものにはいたしません」
そこで、彼女の声が止まった。
一拍。
二拍。
広間の誰も、急かさなかった。
私も動かなかった。
彼女が望んだ沈黙だ。
奪わない。
エレオノーラ様は、白い手袋を外した。
ゆっくりと。
指先が少し震えていた。
記者たちが反応しかける。
私は目だけで記録係へ合図した。
表情や震えを見出しにしない。
発言だけを記録する。
涙は、記事の素材ではない。
エレオノーラ様は、手袋を畳んだ。
そして、涙を一粒だけこぼした。
広間が息を止める。
彼女は慌てて拭わなかった。
隠さなかった。
見せつけもしなかった。
ただ、その涙が自分のものであるように、そこに置いた。
「私は、傷ついていました」
その一言は、どんな訂正文より重かった。
「そして、これから先、傷ついた人が強く見えるという理由で放置されないようにしたい」
涙はもう一粒落ちた。
「これが、私の名誉回復です」
拍手は、すぐには起きなかった。
誰も、拍手してよいのかわからなかったのだと思う。
それでよかった。
これは感動場面ではない。
消費する場面でもない。
しばらくして、広間の後方で誰かが小さく手を叩いた。
次に、別の誰かが。
やがて、まばらな拍手が広がった。
大喝采ではない。
美しい終幕でもない。
でも、エレオノーラ様はそれを受け取った。
私は、涙を記録しなかった。
記事にもさせなかった。
記録には、こう残した。
『エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢は、自らが傷ついていたこと、悪役令嬢という呼称が人を便利な物語に押し込めること、今後同様の相談窓口を設置する意向を述べた』
それで十分だった。
式典後、控室に戻ると、エレオノーラ様は椅子に座り込んだ。
背筋はまだ伸びている。
でも、肩から力が抜けていた。
「疲れましたわ」
「休んでください」
「命令形が優しくなりましたわね」
「民声応答室仕様です」
「苦情受付の賜物かしら」
「たぶん胃薬の犠牲です」
エレオノーラ様は笑った。
その笑いのあと、少しだけ目元を押さえた。
私はハンカチを出しかけて、止めた。
彼女が必要なら言う。
私は、先回りして彼女の涙を処理しない。
しばらくして、エレオノーラ様が手を伸ばした。
「リディア」
「はい」
「ハンカチを」
「はい」
私は渡した。
それだけ。
それでよかった。
彼女は自分で涙を拭った。
それから、ぽつりと言う。
「最初の会見を覚えております?」
「忘れられると思いますか」
「あなた、あの時とても必死でしたわ」
「胃も必死でした」
「私を守ろうとしてくださった」
「はい」
「でも、私に『大丈夫ですか』とは聞きませんでしたわね」
胸が小さく痛む。
「……はい」
「責めているのではありません」
「わかっています」
「でも、あの時の私は、聞かれたらたぶん答えられませんでした」
エレオノーラ様は、ハンカチを見つめる。
「大丈夫ではない、と言えば、崩れてしまいそうでしたから」
私は黙って聞いた。
今度こそ、急いで文章にしない。
「ですから、あなたが聞かなかったことに、少しだけ助けられた部分もあります」
「でも」
「ええ。少しだけ、寂しくもありました」
彼女は微笑む。
強い微笑みではなかった。
やわらかく、少し困ったような笑みだった。
「人は面倒ですわね。同じことに救われて、同じことに傷つくのですもの」
「本当に」
「広報向きではありませんわ」
「人間がですか」
「人間が」
私は吹き出しそうになった。
ひどい結論である。
でも、わかる。
人間は広報向きではない。
矛盾する。
泣く。
怒る。
黙る。
あとから別の感情に気づく。
声明文の枠に入らない。
だからこそ、返事が必要なのだろう。
完璧な文章ではなく。
何度も遅れながら、間違えながら、それでも返す言葉が。
控室の扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、ミリアだった。
白ではなく、薄い麦色の服を着ている。
神殿の色ではない。
記録局の仮職員用の色でもない。
彼女自身が選んだ服だと聞いている。
少し緊張した顔で、両手に小さな紙束を抱えていた。
「エレオノーラ様」
ミリアは立ち止まる。
彼女とエレオノーラ様の間には、まだ言葉にしきれないものがある。
敵だったわけではない。
でも、ミリアの聖女候補としての美談は、エレオノーラ様を悪役にするために使われた。
ミリア自身も、それに救われていた時期があった。
簡単に「仲直り」とは言えない。
エレオノーラ様も、それを急がない。
「ミリア様」
声は穏やかだった。
ミリアは紙束を胸に抱え直した。
「今日の言葉、聞きました」
「ありがとうございます」
「私は……」
ミリアは言葉を探す。
昔なら、ここで「皆さまのために祈ります」と言っただろう。
便利な白い布をかけるように。
でも今、彼女は黙って探している。
自分の言葉を。
「私は、エレオノーラ様を悪役にする言葉の中で、守られていました」
控室が静かになる。
「そのことを、まだ全部謝れていません」
エレオノーラ様は、すぐには返さなかった。
ミリアは続ける。
「謝ったから終わるとも思っていません」
「ええ」
「でも、これから、名前を記録する仕事をしたいです」
ミリアが紙束を差し出した。
「孤児院と、民声応答室をつなぐ記録係の案です」
私は目を瞬いた。
聞いてはいた。
彼女が記録局の補助業務に関心を持っていること。
孤児院や神殿裏通りの人々と、王宮の返事をつなぐ役割を希望していること。
でも、まさかこの日に、自分で案を持ってくるとは思わなかった。
ミリアは小さく言った。
「私、たくさんの人を『皆さま』と呼びました」
紙束の端が震えている。
「便利でした。名前を知らなくても、祈れました。名前を知らなくても、清らかそうに見えました」
エレオノーラ様は、黙って聞いている。
「でも、リナさんも、トマさんも、セラさんも、名前がありました。私が知らなかっただけでした」
ミリアは顔を上げる。
「だから、名前を記録する仕事をしたいです」
その言葉は、まだ弱い。
でも、逃げていない。
エレオノーラ様は紙束を受け取った。
「拝見します」
ミリアの肩が、少しだけ下がる。
ほっとしたのだと思う。
許されたわけではない。
仲良くなったわけでもない。
でも、紙は受け取られた。
返事の始まりとしては、十分だった。
エレオノーラ様は最初の一枚を読み、眉を上げた。
「ずいぶん丁寧ですわね」
「記録局の方に教わりました」
「昼食希望欄までありますけれど」
ミリアの顔が真剣になった。
「大事かと」
私は額を押さえた。
ここで来るか、昼食希望欄。
伏線がパンの香りで回収されている。
「ミリア様」
「はい」
「そこは自由で大丈夫です」
「ですが、希望を聞かれない人がいるなら」
ミリアは真面目だった。
「昼食から聞いてもいいのではないかと思って」
私は言葉を失った。
そうだ。
第30話で、彼女は記録局の小部屋でやっと「パンがいい」と言えた。
本人の希望を聞くことは、小さく見えて、小さくない。
エレオノーラ様が、ふっと笑った。
「悪くありませんわ」
「本当ですか」
「ええ。ただし正式書式名は『昼食希望欄』ではなく、もう少し上品にしましょう」
「では……食事意向確認欄?」
「硬すぎますわ」
「昼食について?」
「軽すぎます」
ミリアが真剣に悩む。
私は横から言った。
「任意希望欄、でどうでしょう」
二人が同時にこちらを見た。
採用の顔だった。
やった。
民声応答室、初めて昼食関係で建設的貢献。
エレオノーラ様が紙束を閉じた。
「ミリア様」
「はい」
「私は、あなたをすぐに許せるわけではありません」
ミリアは小さく頷く。
「はい」
「けれど、あなたが名前を記録しようとすることは、見届けたいと思います」
ミリアの目が揺れた。
「ありがとうございます」
「泣くなら、あなたの涙として泣いてくださいませ」
ミリアは一瞬、泣きそうになって、少し笑った。
「はい」
そのやり取りを、私は記録しなかった。
全部を記録する必要はない。
人の涙も、沈黙も、少しずつ本人のものに戻っていく。
それを全部、紙に貼りつけてはいけない。
夕方、名誉回復式の記事案が各社から届き始めた。
灯火新聞。
『悪役令嬢ではなく、悪役令嬢と呼ばれた人――グランフェルト公爵令嬢、名誉回復式で語る』
よい。
大手新聞社。
『涙の公爵令嬢、ついに名誉回復』
私は赤ペンを握りしめた。
「差し戻し」
先輩が遠くから言う。
「理由は?」
「涙を見出しにするな」
「ですよね」
私は訂正依頼を書く。
『エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢の涙を、記事の主題または感情消費の見出しとして扱わないでください』
『本日の主題は、王宮、神殿、新聞社による訂正、本人発言、相談窓口設置です』
『涙は本人のものであり、紙面誘導の道具ではありません』
書いていて、少しだけ笑った。
以前の私なら、こうは書かなかったかもしれない。
泣かないことを罪にするな。
泣いたことを商品にするな。
どちらも同じ根から出ている。
人の感情を、見出しの材料にするな。
窓の外では、王都の夕焼けが石畳を赤く染めていた。
燃えているように見える。
でも、今は少し違って見えた。
全部が火事ではない。
時々、夕焼けもある。
民声応答室の扉が開き、記録局の職員が顔を出す。
「リディアさん、ミリア・セレスさんの配属希望について、正式審査に回します」
「もうですか」
「本人が申請書を書きました」
私は思わず立ち上がった。
「申請書?」
「はい。孤児院および民声応答室連絡記録官補佐を希望、と」
記録官補佐。
ミリアが。
あの、「皆さまのために祈ります」としか言えなかった少女が。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
次の仕事が来た。
次の返事が来た。
今度は、ミリア自身が誰かの声を記録する番だ。
先輩が隣で胃薬瓶を振った。
からから、と軽い音がした。
「在庫、少ないです」
「発注してください」
「新部署になってから胃薬消費量が増えてます」
「仕事が本来の形になった証拠です」
「名言っぽく言っても胃は痛いです」
「知っています」
私はミリアの申請書の写しを受け取った。
文字は丁寧で、少し慎重。
でも、最後の一文だけ、まっすぐだった。
『名前を、聞き落とさない仕事がしたいです』
私はその一文に、赤を入れなかった。
完璧ではない。
でも、本人の言葉だった。
エレオノーラ様の名誉回復式は終わった。
完全には戻らない名誉。
それでも、取り戻し始めた言葉。
涙を本人に返した女と、名前を記録しようとする少女。
王都の火は、まだあちこちで燻っている。
でも、燃え残った言葉の中から、新しい仕事が生まれていた。
私は申請書を抱え、民声応答室の机へ戻る。
次に書くべき文書の表題は、もう決まっていた。
『ミリア・セレス氏の新規配属希望について』
そして、その下に小さく書き添える。
『本人の言葉を尊重すること』
次の返事は、ミリアのものだ。




