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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
燃え残った言葉

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王太子の処分

 王子様が失うものは、王冠だけではない。


 たとえば。


 優先通行権。


 専属侍従の人数。


 昼食の品数。


 そして何より、書類から逃げる権利。


「……これは、何だ」


 ルーファス殿下――正確には、もう王太子殿下ではないルーファス殿下が、机の上に積まれた紙束を見て青ざめていた。


 場所は王宮西棟、臨時処分説明室。


 名前が嫌すぎる。


 入った瞬間に気持ちが処分されそうである。


 室内には、王族会議の代理官、宰相府の監察官、記録局長、私、そしてなぜかカイル様がいた。


 なぜか、ではない。


 北方関連記録の説明者として呼ばれている。


 ただし、存在感が「説明者」ではなく「逃走防止用の壁」である。


 ルーファス殿下が紙束を指さす。


「これは、私への判決文か」


「違います」


 私は答えた。


「地方行政研修の初期資料です」


「初期?」


「はい。第一束です」


「第一……?」


 殿下の顔色が、王宮壁面の漆喰に近づいた。


 王族の血色としては不適切である。


 記録局長が淡々と読み上げる。


「ルーファス・アルヴェリア殿下に対する王族会議決定。第一、王位継承順位からの除外。第二、王都中央政治への一定期間の関与停止。第三、南西地方行政区への派遣。第四、民声応答室および地方行政局の監督下における実務研修。第五、過去発言および婚約破棄騒動に関する責任聴取の継続」


 室内は静かだった。


 重い言葉が、ひとつずつ床に落ちていく。


 王位継承順位からの除外。


 つまり、ルーファス殿下は王にならない。


 王太子ではなくなる。


 処刑でも、幽閉でも、国外追放でもない。


 でも、彼がずっと当然のように持っていた未来は、ここで閉じた。


 殿下は口を開きかけ、閉じた。


 文句を言うと思った。


 怒鳴ると思った。


 昔の殿下なら、たぶんこう言った。


 なぜ私だけが。


 私は王子だぞ。


 エレオノーラが悪い。


 神殿が悪い。


 ベルクが悪い。


 広報官が邪魔をしたからだ。


 でも、今の殿下は、しばらく紙束を見つめたあと、低く言った。


「私は、王にはなれないのだな」


「はい」


 代理官が答える。


「王族会議は、殿下に統治者としての適性が不足していると判断しました」


 容赦がない。


 でも、必要な言葉だった。


 殿下の眉がぴくりと動く。


 怒るかと思った。


 しかし彼は、机の縁を握っただけだった。


「……そうか」


 その声は、小さかった。


 初めて見る顔だった。


 王太子として怒っている顔ではない。


 叱られた子どもの顔でもない。


 自分がしたことの後始末が、自分の足元まで来た人の顔だった。


 少しだけ、胸が痛んだ。


 けれど、痛んだからといって処分が軽くなるわけではない。


 ざまぁとは、相手を破滅させることだけではない。


 責任から逃げられなくすることでもある。


 むしろ、逃げられない責任の方が、ずっと長く効く。


 私は机の上の資料を一枚取った。


「殿下には、南西地方行政区で実務を学んでいただきます」


「南西地方……」


「はい。昨年の水害支援、税の再計算、神殿施療院の薬配分、孤児院支援、道路修復、未回答請願の再受付が重なっている地域です」


 殿下が固まった。


「多くないか」


「多いです」


「なぜ私に」


「実務へようこそ」


 つい言ってしまった。


 室内の数名が咳払いをした。


 カイル様だけが、ほんの少し視線をそらした。


 笑った?


 今、笑いました?


 後で確認します。


 ルーファス殿下は、私を見た。


「リディア・ノートン」


「はい」


「お前は……私が苦しめば、それでよいのか」


 その質問に、私はすぐ答えられなかった。


 昔なら、たぶん皮肉を返していた。


 殿下の場合、まず失言回数を数えたいです、とか。


 王太子業より報告書業の方が国益に合います、とか。


 言おうと思えば、いくらでも言える。


 でも、それは今必要な言葉ではなかった。


「苦しめばよいとは思っていません」


 私はゆっくり言った。


「ただ、責任を取らずに済めばよいとも思っていません」


 殿下は黙る。


「殿下の言葉で傷ついた人がいます。殿下の沈黙で、訂正されなかった噂もあります。殿下の未熟さを利用した者もいましたが、利用されたことは、傷つけた責任を消しません」


 言いながら、私は自分にも刺さっていると思った。


 王宮にいたから。


 下級職員だったから。


 知らなかったから。


 気づくのが遅れたから。


 それらは、責任を軽くする事情にはなっても、消す魔法ではない。


 私は消したくない。


 人の名前も。


 責任も。


 痛みも。


「だから、実務をしていただきます」


「……処刑ではなく?」


「処刑されたら報告書を書けません」


 殿下が一瞬、目を瞬いた。


 監察官が書記用の羽根ペンを落としかけた。


 私は続けた。


「幽閉されても、請願の処理はできません。国外へ逃げられても、地方行政は学べません。殿下には、生きて、読んで、聞いて、書いて、返事をしていただきます」


 殿下の顔が歪んだ。


「それは……罰か」


「はい」


 私は答えた。


「同時に、機会です」


 甘い言葉に聞こえないよう、気をつけた。


 赦しではない。


 免罪でもない。


 機会は、罰を軽くするためではなく、責任を続けるためにある。


 カイル様が短く言った。


「逃げるな」


 ルーファス殿下はカイル様を見た。


 いつもなら反発するところだ。


 王族に向かって何を、と。


 辺境伯の分際で、と。


 けれど、殿下は言わなかった。


「……逃げたら」


 殿下が言う。


「どうなる」


 カイル様は即答した。


「追う」


 短い。


 怖い。


 でも、なぜか会議室の全員が少し安心した顔をした。


 王族会議の代理官まで小さく頷いている。


 北方辺境伯、逃亡防止機能付き。


 物騒だが有効。


 いや、有効という言葉はベルク様の匂いがするので使いたくない。


 便利。


 ……便利も失礼か。


 殿下は深く息を吐いた。


「わかった」


 その一言は、驚くほど小さかった。


 でも、逃げてはいなかった。


 処分説明の次は、謝罪だった。


 場所は、王宮東棟の小会見室。


 大広間ではない。


 舞踏会の場でもない。


 記録水晶はあるが、見世物にしないため、同席者は最低限。


 エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢。


 その父であるグランフェルト公爵。


 王族会議代理官。


 記録局員。


 私。


 そして、少し離れた場所にカイル様。


 エレオノーラ様は深い紺のドレスを着ていた。


 派手ではない。


 でも、弱くも見えない。


 手袋は白い。


 私はその手袋の先を見てしまう。


 石が足元に落ちた夜。


 声を詰まらせた会見。


 悪役令嬢と呼ばれた時間。


 泣かなかったせいで、傷ついていないことにされた彼女。


 今日は、その彼女の前に、ルーファス殿下が立つ。


 殿下は、紙を持っていた。


 長い。


 見ただけで長い。


 嫌な予感がした。


 謝罪文は長ければ誠実というものではない。


 むしろ長い謝罪文には責任逃れが混入しやすい。


 食品で言えば異物混入である。


 私が目を細めると、殿下が気づいた。


「……これは、自分で書いた」


「読んでから判断します」


「相変わらず容赦がないな」


「謝罪文に甘さは不要です」


「王都の菓子は甘いのに」


 私は固まった。


 今、殿下がカイル様っぽいことを言った。


 カイル様が微妙に不満そうな顔をした。


 真似されたくないらしい。


 場の空気が一瞬だけ緩みかけた。


 しかし、エレオノーラ様は笑わなかった。


 当然だ。


 ここは、笑いで流してよい場ではない。


 殿下もそれに気づいたのか、紙を下ろした。


「すまない」


 最初の一言は、紙を見ずに出た。


 エレオノーラ様の表情は変わらない。


 殿下は続ける。


「私は、君を傷つけた」


 声が震えていた。


「舞踏会で、君の名を出し、侮辱し、婚約を私物のように扱った。君の言葉を聞かず、君が泣かなかったことを、強さや冷たさだと勝手に見た」


 エレオノーラ様の白い手袋の指先が、わずかに動いた。


 殿下は紙を見た。


 けれど、すぐまた顔を上げた。


「ミリアを利用した」


 その言葉に、私は少しだけ息を止めた。


「利用されたのは私でもある。ベルクにも、神殿にも、私を担ぐ者にも。だが、私はそれを理由に、私が君を傷つけたことから逃げることはできない」


 たどたどしい。


 完璧ではない。


 言葉の順番も少し悪い。


 でも、誰かが整えすぎた文章ではなかった。


 殿下は続けた。


「謝罪を、受け取ってほしい。許してほしいとは、まだ言えない」


 エレオノーラ様は黙っている。


 殿下はそこで初めて、紙を強く握った。


「……いや、違う」


 自分で訂正した。


「許してほしいと、思っている。今も思っている。許されたら楽になると思っている」


 室内が静まり返る。


「だが、それを君に求める権利はない」


 エレオノーラ様が、ゆっくり瞬きをした。


 殿下は深く頭を下げた。


「申し訳なかった」


 長い沈黙が落ちた。


 私は、助け舟を出さない。


 これは私の会見ではない。


 私が言葉を補えば、殿下の謝罪も、エレオノーラ様の沈黙も、私が整えたものになる。


 それは違う。


 エレオノーラ様は、静かに言った。


「謝罪は受け取ります」


 殿下の肩が、わずかに下がる。


 けれど、次の言葉で止まった。


「ですが、許すとは申し上げません」


 その声は冷たくなかった。


 ただ、はっきりしていた。


「私が許すかどうかは、あなたの処分や謝罪文の出来とは別の問題です」


「……ああ」


「あなたの言葉で傷ついた私がいます。あなたの言葉をきっかけに、私の家、使用人、友人、ミリア様、リディア、そして多くの人が火の中に立たされました」


 殿下は唇を噛む。


「私ひとりが許したと言えば、それらが終わるわけではありません」


 エレオノーラ様は、少しだけ視線を伏せた。


「それに」


 ほんの一瞬、声が低くなる。


「私自身も、まだ終わっておりません」


 その一言が、一番重かった。


 彼女は泣いていない。


 怒鳴ってもいない。


 でも、そこに傷があることを、今度は自分で言った。


 泣かない女は、傷ついていないわけではない。


 私が最初にわかっていたつもりで、何度も見落としかけたこと。


 殿下は深く頭を下げたまま、言った。


「待つ」


 エレオノーラ様の眉が少し動く。


「許しを、ではない。……いや、許されたいとは思う。だが、それを急かさない。私は、地方で実務をする。そこで、自分が何を知らなかったのかを知る」


 殿下は顔を上げた。


「君に何かを返せるとは思わない。ただ、逃げない」


 エレオノーラ様は、長く彼を見た。


 そして、頷いた。


「では、逃げないでくださいませ」


 その言い方は、いつものエレオノーラ様に少し戻っていた。


「地方行政の書類は、舞踏会より踊りづらいですわよ」


 殿下は一瞬、何を言われたのかわからない顔をした。


 私は心の中で頷く。


 うまい。


 書類は本当に踊りづらい。


 足を踏まれない代わりに、魂を踏まれる。


 謝罪の記録が終わると、殿下は私の方へ来た。


「リディア・ノートン」


「はい」


「私の謝罪文は、どうだった」


 その質問をする辺り、少しだけ進歩している。


 会見前に聞けるようになっただけでも大きい。


 私は正直に言った。


「初稿としてはひどくありませんでした」


「ひどくはない、か」


「はい。謝罪文として、かなり高評価です」


「お前の高評価は渋いな」


「炎上対応係ですので」


「今は民声応答室だろう」


 私は少し驚いた。


 殿下が部署名を覚えていた。


 明日は雪かもしれない。


 北方は通常営業かもしれない。


「覚えていらしたんですね」


「覚える。忘れれば、またお前に赤を入れられる」


「それもあります」


「それだけか」


「いいえ」


 私は紙束を一つ渡した。


 殿下は警戒する。


「何だ」


「地方行政研修の初回課題です」


「もうか」


「はい」


「謝罪の余韻は」


「責任に余韻はありません」


 殿下は紙束を受け取った。


 重そうだった。


 実際、重い。


 南西地方行政区の未回答請願、第一分類。


 水害後の橋の修復。


 薬草配給の遅延。


 孤児院の冬支度。


 徴税額の再計算。


 神殿施療院の帳簿不一致。


 学校建設の中止理由。


 街道警備の人員不足。


 どれも、舞踏会の花飾りよりずっと地味で、ずっと生活に近い。


「まず、この中から三件を選び、現地確認計画を立ててください」


「三件だけでいいのか」


「最初は」


「最初」


「はい」


 殿下は紙束を見た。


 顔色が再び悪くなる。


「……これを、民は毎日抱えているのか」


「はい」


「王宮は、これを聞いていたのか」


「はい」


「返事をしていなかったのか」


「はい」


 殿下は黙った。


 そして、小さく言った。


「私は、王になる資格がなかったな」


 私は答えなかった。


 慰める場面ではない。


 殿下はそれを求めていなかった。


 たぶん、求めかけて、やめた。


 それもまた、小さな変化だった。


 南西地方行政区への出立は三日後と決まった。


 早い。


 逃げる暇を与えないためでもある。


 その夜、民声応答室には、殿下から最初の報告書が届いた。


 題名。


『南西地方行政区赴任前確認事項について』


 私は目を通した。


 一枚目。


『私は、南西地方に行く。よく知らないが、学ぶ。水害の橋、薬、税、孤児院について見る。以上』


 私は赤ペンを取った。


 先輩が覗き込んだ。


「どうです?」


「ひどいです」


「でしょうね」


「ただし、自分で書いています」


「歴史的進歩ですね」


「はい」


 私は赤字を入れる。


『よく知らないが』は正直だが、公式報告としては不十分。


『見る』ではなく、確認項目を具体化。


『以上』禁止。


 そして、最後に少し迷ってから、こう書いた。


『自分で書いたことは評価します。次は、誰に何を確認するのかを書いてください』


 先輩がそれを見て、にやりとした。


「甘いですね」


「厳しいです」


「褒めてます」


「教育的配慮です」


「甘い」


「先輩」


「はい」


「胃薬の在庫確認を」


「話題を変えた」


 私は咳払いした。


 殿下はひどい報告書を書いた。


 でも、書いた。


 誰かに書かせた謝罪文ではない。


 ベルク様に渡された演説原稿でもない。


 王太子として飾られた言葉でもない。


 下手で、短くて、足りなくて、でも自分で書いた報告書。


 それは、第一歩としては悪くなかった。


 深夜、王宮の廊下で、ルーファス殿下とすれ違った。


 彼は旅装の採寸を受けた後らしく、いつもの華やかな衣装ではなかった。


 まだ王族らしさはある。


 でも、少しだけ軽く見えた。


 王冠に近いものを失ったからかもしれない。


 あるいは、初めて背負うものが変わったからかもしれない。


「リディア」


 殿下が私を呼び止める。


「はい」


「南西地方の者たちは、私を嫌うだろうか」


 とても殿下らしくない質問だった。


 でも、たぶん大事な質問だった。


「嫌う方もいると思います」


「そうか」


「怒る方もいます」


「そうだろうな」


「期待しない方もいます」


「……ああ」


「でも、返事を待っている方もいます」


 殿下は顔を上げた。


「殿下が立派な王子として行く必要はありません」


「では、何として行けばいい」


「遅れて来た担当者です」


 殿下は少しだけ目を見開いた。


 私は続ける。


「遅れて来た担当者は、まず謝って、状況を確認して、期限を示してください」


「それで許されるか」


「許されません」


「厳しいな」


「はい」


「では、なぜ行く」


「返事をするためです」


 殿下は、長く黙った。


 それから、小さく頷いた。


「わかった」


 その一言は、まだ頼りない。


 でも、逃げてはいない。


 翌朝。


 民声応答室には、南西地方行政区から先に到着していた請願者一覧と、殿下の赴任告知案が届いた。


 告知案は当然のように私の机に来る。


 私は読み上げた。


『ルーファス殿下、南西地方へ赴任。民の声を学ぶため、新たな一歩』


 私は赤ペンを握った。


「これは誰が」


 広報局員が震えながら答える。


「王族広報課です」


「燃えます」


「ですよね」


 私は赤線を引いた。


『新たな一歩』は美談化の火種。


『民の声を学ぶ』は上から目線の火種。


『殿下』強調は反発の火種。


 書き直す。


『ルーファス・アルヴェリア殿下の南西地方行政区派遣について』


『同殿下は、王族会議決定により、王位継承順位から除外されました』


『今後、南西地方行政区において、水害復旧、薬配分、税再計算、未回答請願対応等の実務研修に従事します』


『本派遣は功績ではなく、責任履行の一環です』


『現地住民に対し、歓迎、称賛、接待を求めるものではありません』


『現地で寄せられる批判、質問、請願については、記録局および民声応答室立ち会いのもと記録します』


 先輩が読んで、深く頷いた。


「全然美談になってない」


「美談にしないための告知です」


「王族広報課が泣きます」


「泣いてから書き直してください」


 カイル様が横から紙を見た。


「長い」


「必要です」


「最後がいい」


「どこですか」


「歓迎を求めない」


「重要です」


「北方にも昔、王都の役人が来た」


 カイル様の声が少し低くなる。


「歓迎の準備だけで村が疲れた」


「……それ、記録ありますか」


「ある」


「ください」


「後で」


 また仕事が増えた。


 でも、必要な仕事だった。


 殿下の派遣告知が出ると、反応は割れた。


『王太子失脚!』


『甘すぎる、処刑しろ』


『処刑より書類地獄の方が長いぞ』


『地方を罰場にするな』


『南西地方を実験台にするな』


『歓迎不要と書いてあるのは少し評価』


『どうせ視察だけして帰る』


『本当に請願に返事するなら見てやる』


『元王太子に橋が直せるのか?』


『まず報告書を書けるのか?』


 最後の一文が鋭すぎる。


 民衆、もう見抜いている。


 私は殿下の第一報告書を思い出した。


 書けるかどうかで言えば、かなり不安だ。


 しかし、書かせる。


 赤ペンで。


 必要なら十回でも。


 夕方、殿下が出立前の挨拶に来た。


 旅装。


 少ない護衛。


 少ない荷物。


 そして、抱えた書類。


 王子様の旅立ちとしては、かなり地味である。


 馬車の装飾も最低限。


 花もない。


 楽隊もない。


 王都民の見送りもまばらだ。


 怒っている人もいる。


 黙って見ている人もいる。


 誰かが小さく言った。


「逃げるなよ」


 殿下は、その声の方を見た。


 そして、頭を下げた。


 広場がざわめいた。


 謝罪の時ほど深くはない。


 でも、王子が民の言葉に頭を下げるには十分な角度だった。


 私は火種を見る。


【火種:王族権威低下】

【火種:演出疑惑】

【火種:民衆侮辱反発】


 それでも、少しだけ別のものが混じっていた。


【火種:継続監視】

【火種:実務評価待ち】


 待ち。


 それは、信頼ではない。


 でも、完全な拒絶でもない。


 返事を待つ余地。


 それだけでも、今は大きい。


 殿下は馬車に乗る前、私に言った。


「報告書は、どのくらいの長さがよい」


「内容によります」


「一言では」


「足りません」


「三文では」


「たぶん足りません」


「では、どのくらいだ」


「逃げない長さです」


 殿下は少し困った顔をした。


「難しいな」


「はい」


「王になるより難しいかもしれない」


「王にならなくなってから気づくの、遅いですね」


 殿下は一瞬だけ苦笑した。


 昔のような、相手を見下す笑みではなかった。


 自分の遅さを、少しだけわかっている顔だった。


「行ってくる」


「行ってらっしゃいませ」


「実務へ、だな」


「ようこそ、ではなく、行ってらっしゃいです」


「戻る場所があるように聞こえる」


「責任報告を出す場所はあります」


「厳しい」


「はい」


 馬車が動き出す。


 王都の石畳を、装飾の少ない馬車が進んでいく。


 それを見送りながら、私は思った。


 これで終わりではない。


 むしろ始まりだ。


 ルーファス殿下が本当に変わるかどうかは、まだわからない。


 地方で怒られ、嫌われ、報告書を突き返され、逃げたくなるかもしれない。


 失敗もするだろう。


 たぶん、また燃える。


 いや、絶対燃える。


 でも、今度は燃えた時に誰かが尻拭いするだけでは終わらせない。


 本人が読む。


 本人が書く。


 本人が返事をする。


 それが処分であり、責任であり、始まりだった。


 広報局へ戻ると、机の上に新しい通知が置かれていた。


『グランフェルト公爵令嬢エレオノーラ様の名誉回復式について』


 私は立ち止まった。


 いよいよ、彼女の番だ。


 悪役令嬢と呼ばれた人。


 泣かなかったせいで傷をなかったことにされた人。


 自分の舞台を選び、石の前にも立った人。


 彼女の名誉は、正式に戻される。


 けれど、名誉回復とは、ただ訂正文を出すことではない。


 彼女が何を失い、何を取り戻すのか。


 それを、誰の言葉で残すのか。


 私は通知をめくった。


 王宮側の式辞案がついている。


『このたび、エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢の名誉が完全に回復され――』


 私は赤ペンを取った。


「完全に、は違います」


 先輩が隣で胃薬を飲みながら頷いた。


「まだ燃えますか」


「燃えます」


「次は?」


 私は通知の表題を見る。


「悪役令嬢の名誉回復です」


 窓の外では、ルーファス殿下の馬車が王都の門を出ていくところだった。


 ひとつの処分が始まり、ひとつの謝罪が残り、ひとつの名誉がまだ傷の上に置かれている。


 王都は、少しずつ後始末の季節に入っていた。


 火は消えていない。


 でも、逃げない人が少しずつ増えている。


 私は赤ペンを走らせた。


 次に返すべき言葉は、エレオノーラ様のものだ。

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