王宮広報局改革
国を燃やすのは、一文で足りた。
消すのは、たぶん百年かかる。
民声の塔が起動した夜から、王都はずっとざわめいていた。
叫び声。
泣き声。
怒号。
祈り。
鐘。
新聞売りの声。
そして、各地の水晶に浮かび続ける未回答請願の断片。
眠れた者は、たぶん王都にいなかったと思う。
少なくとも、王宮広報局にはいなかった。
私も寝ていない。
寝ていないが、胃薬は飲んだ。
人間、国を燃やしても胃は痛む。
むしろ痛みが職務に誠実すぎる。
「リディアさん」
先輩が、書類の山の向こうから顔だけ出した。
目の下が青い。
人間というより、徹夜した書類の精霊である。
「謝罪声明の初稿、上層部案が来ました」
「見たくないです」
「わかる」
「でも見ます」
「わかる」
机に置かれた紙は、見た瞬間に嫌な予感がした。
紙質が良い。
紙質が良い謝罪文は、大体中身が悪い。
私は深呼吸して読んだ。
『このたびは、王宮地下記録庫における一部記録管理につき、民の皆さまにご不安をおかけしておりますことを、遺憾に存じます』
赤ペンを取った。
無言で、最初の一文を横線で消す。
先輩が小さく拍手した。
「早い」
「謝っていません」
「遺憾って便利ですよね」
「便利な言葉ほど、責任を遠ざけます」
次の行。
『王宮は、今後、必要な範囲で調査を進め、適切な情報公開に努めます』
消す。
次。
『過去の記録運用につきましては、当時の情勢および担当部署の判断を踏まえ――』
消す。
次。
『混乱を避けるため――』
私は赤ペンを折りそうになった。
先輩がそっと予備の赤ペンを差し出す。
「折る前提で持ってきました」
「ありがとうございます」
私は折らずに済ませた。
人間として一歩成長した。
たぶん。
「この文面を出したら燃えます」
私が言うと、広報局員たちが一斉に頷いた。
「燃えますね」
「燃料ですね」
「火葬ですね」
「再利用不可燃物ですか?」
「可燃です」
広報局、判断が早くなった。
嫌な成長である。
けれど、問題はここからだった。
私の前には白紙がある。
第93話で完璧な声明文を握り潰した私は、今度こそ王宮として正式に謝らなければならない。
私個人の言葉ではない。
王宮の言葉。
でも、空っぽにしてはいけない。
誰かの名前を全部載せることもできない。
保護対象の安全がある。
未確認の記録がある。
王宮内の責任調査も終わっていない。
けれど、責任調査中だから謝れません、は謝罪ではない。
燃料である。
私は白紙の上に、最初の一文を書いた。
『王宮は、常に民の声を聞いております。その言葉が嘘だったことを、まず謝罪します』
書いた瞬間、火種が見えた。
【火種:王宮標語崩壊】
【火種:王家威信低下】
【火種:貴族反発】
【火種:過去請願一斉追及】
【火種:地方役所不信拡大】
【火種:責任者処分要求】
【火種:広報局総辞職要求】
うん。
すごい。
よく燃える。
もはや文章ではなく松明だ。
先輩が覗き込んで、青ざめた。
「リディアさん」
「はい」
「この一文、燃えます」
「燃えますね」
「いいんですか」
「よくはありません」
「ですよね」
「でも、嘘ではありません」
先輩は黙った。
広報局員たちも黙った。
紙の上の一文だけが、やけに黒く見えた。
王宮の標語。
王宮は、常に民の声を聞いております。
私は第1話の朝、あの標語を見てぼやいた。
聞いているなら返事をしてください。
あれは、ただの愚痴だった。
胃薬を飲みながら口にした、下級職員の疲れた冗談だった。
でも、冗談ではなかった。
王宮は本当に聞いていた。
そして、返事をしていなかった。
なら、最初に謝るべきはそこだ。
私は続けて書いた。
『王宮地下に存在する民声の塔により、王宮は長年にわたり、各地の請願、苦情、支援要請、祈り、訂正依頼、災害報告、差別被害の訴えを収集していました』
『その全てに目を通し、返事をしていたわけではありません』
『多くの声が、分類され、保留され、部署間で転送され、回答期限を設定されないまま放置されていました』
書きながら、手が震えた。
これを出せば、王宮は責任を問われる。
広報局も問われる。
私も問われる。
きっと、こう言われる。
なぜもっと早く気づかなかった。
なぜ止められなかった。
なぜ今さら謝る。
なぜ名前を出した。
なぜ名前を出さなかった。
なぜ私の声は呼ばれない。
全部、来る。
全部、正当な怒りを含んでいる。
私は、紙に次の行を書いた。
『これは、宰相補佐ベルク・アインハルト個人のみの問題ではありません』
局内が、さらに静かになった。
誰かが小さく息を呑む。
『王宮の制度、部署間の責任回避、回答保留の慣習、標語に頼った広報姿勢そのものの問題です』
先輩が両手で顔を覆った。
「リディアさん」
「はい」
「上層部が死にます」
「生きて責任を取っていただきます」
「もっと怖い」
「そうですね」
私も怖い。
でも、死んで終わりにされては困る。
責任から逃げられなくすること。
それもまた、ざまぁの一種だと最近学んだ。
主に王太子殿下で。
その王太子殿下は、今、別室で王族臨時会議に出ている。
先ほど伝令が来た。
『殿下、口を挟むたびに場が燃えていますが、今回は逃げていません』
評価が難しい。
燃えるが逃げない王子。
国政に向いているかはともかく、今は必要だった。
私は声明文を書き続ける。
『今後、王宮は以下の対応を開始します』
一、民声の塔および関連記録の保全。
二、未回答請願の分類ではなく、個別応答状況の確認。
三、各請願について、受付日、担当部署、回答保留理由、次回応答期限を記録。
四、個人名および所在は、本人の安全確認と同意手続きなしに公開しない。
五、ただし匿名化を理由に、請願者の存在そのものを消さない。
六、回答不能な場合は、不能である理由と次回確認時刻を示す。
七、「混乱防止」を理由とする無期限保留を禁止する。
ここまで書いたところで、広報局員の一人が泣きそうな顔で手を挙げた。
「質問です」
「どうぞ」
「七番目、実現できますか」
私は少し黙った。
正直に言えば、難しい。
王宮には古い慣習がある。
部署は責任を押しつけ合う。
貴族は都合の悪い記録を伏せたがる。
地方役所には人手がない。
神殿は神殿で祈りの権威を盾にする。
新聞社は見出しを作る。
民衆は待てない。
返事は遅れる。
必ず遅れる。
だから私は答えた。
「できないものも出ます」
広報局員の顔が曇る。
私は続けた。
「でも、できない理由を隠すことは、もうしません」
「……それも燃えますね」
「燃えます」
「今日、燃えない選択肢あります?」
「胃薬棚の奥に隠れていたいですね」
「それは職務放棄です」
「はい」
全員が少しだけ笑った。
笑いは弱い。
でも、局内の空気がほんの少し動いた。
そこへ、王宮上層部から呼び出しが来た。
正式謝罪声明についての審議。
言い換えると、燃えないように骨抜きにする会議である。
私は紙を持って立ち上がった。
カイル様が扉の前にいた。
剣は帯びている。
けれど、布で覆われている。
この人も、学んでいる。
「行くのか」
「はい」
「燃えるぞ」
「燃えます」
「倒れるな」
「努力します」
「信用できない」
「この流れでそれを言いますか」
「今だから言う」
いつもの短い言葉。
けれど、少しだけ柔らかい。
私は笑いそうになって、やめた。
笑うと泣きそうだったから。
カイル様は私の手元の紙を見た。
「長い」
「謝罪声明ですから」
「必要か」
「必要です」
「なら読む」
胸の奥が、変に熱くなった。
この人は、長い言葉をまだ得意ではない。
それでも読むと言う。
逃げないと言う。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「いります」
「短くしろ」
「ありがとうございます」
「……短い」
「でしょう?」
カイル様は少しだけ眉を動かした。
たぶん笑った。
たぶん。
王宮上層部の会議室は、すでに燃えていた。
物理ではない。
念のため。
王族、宰相府、広報局幹部、記録局、財務局、地方行政局、神殿監察官。
全員が顔色を悪くしている。
胃薬の需要が国家規模で跳ね上がっている気配がした。
会議室の壁には、問題の標語が掲げられていた。
「王宮は、常に民の声を聞いております」
今見ると、なかなかの圧である。
標語も居心地が悪そうに見える。
いや、木札なので表情はない。
私の精神状態の問題だ。
宰相府の高官が、私の声明文を読んで眉を吊り上げた。
「この一文は認められない」
「どの一文でしょう」
「最初の一文だ」
「一番大事なところです」
「王宮標語が嘘だったなどと認めれば、王宮の権威は地に落ちる」
私は答える前に、一度息を吸った。
怒鳴らない。
正論で殴りすぎない。
でも、逃げない。
「すでに落ちています」
会議室が凍った。
あ。
少し殴りすぎたかもしれない。
でも言ってしまったので、続けるしかない。
「落ちている権威を、落ちていないふりで飾っても、次に揺れた時にもっと大きく崩れます」
「下級広報官が、王宮の権威を語るのか」
その言葉に、以前の私なら縮こまったかもしれない。
でも今は、民声の塔の声を聞いたあとだ。
下級広報官だからこそ、聞こえる声がある。
私は言った。
「はい。下級広報官として申し上げます」
高官の顔がさらに赤くなる。
隣で先輩が小さく「強い」と呟いた。
違う。
胃が痛いだけです。
「王宮の権威を守るために、王宮が聞いていた声を隠すことはできません」
記録局長が静かに頷いた。
珍しい。
この人はいつも、記録より保管棚の湿度を気にしているような顔をしているのに。
失礼か。
記録局長は言った。
「民声の塔関連記録については、すでに複数部署が閲覧していた痕跡があります。王宮が知らなかったという説明は、記録上、不可能です」
上層部の数名が青ざめた。
記録は強い。
地味だが強い。
灯火新聞の訂正欄くらい強い。
地方行政局の役人が、震える声で言った。
「しかし、全請願への応答など現実的ではありません。地方役所は人手が足りません」
「その通りです」
私は頷く。
「ですから、最初の声明で『全て即時解決する』とは言いません」
「なら、民衆は怒る」
「怒ります」
「では、どうする」
「怒る理由を記録します」
地方行政局の役人が黙った。
私は続ける。
「そして、回答期限を設定します。解決できないものは、できない理由を返します。人員不足なら人員不足と記録します。予算不足なら予算不足と記録します。部署間で止まっているなら、どの部署で止まっているか記録します」
財務局の人が椅子から半分浮いた。
「予算不足を公開するのか」
「必要な範囲で」
「民が予算書を読みますか」
「読まない方もいます」
「なら意味がない」
「意味はあります」
私は財務局の人を見た。
「読まない人にも、『王宮が理由を示した』という事実は届きます。読める人が検証できます。新聞社が確認できます。地方役所が逃げにくくなります」
灯火新聞の編集長なら、たぶんこう言う。
訂正欄が主役になる日が来るとは。
これからは、回答欄が主役になる。
地味だ。
とても地味だ。
でも、国を支えるものは大体地味である。
派手なのは炎上だけで十分だ。
神殿監察官が口を開いた。
「神殿関連の抗議については、信仰上の配慮が必要です」
「必要です」
「では、神殿名を出すべきではない」
「いいえ」
私は首を振った。
「信仰上の配慮と、責任の不記録は別です」
神殿監察官は目を細めた。
私はミリア様の声を思い出す。
名前を呼ぶのは怖いです。
でも、届きます。
「神殿関連の請願については、信仰内容を否定するのではなく、薬、寄付、保護、発言管理、抗議処理の事実を分けて記録します」
「神殿が反発する」
「反発します」
「民が神殿へ押しかける」
「押しかけを防ぐため、本人情報と所在は伏せます。発表と同時に、神殿前への集合自粛、救護導線、記録請求窓口を示します」
「それでも燃える」
「燃えます」
また言った。
最近の私は、燃えます、を正直に言いすぎている気がする。
でも、もう燃えないふりをする時期は終わった。
会議室の端で、ルーファス殿下がずっと黙っていた。
珍しい。
いや、本当に珍しい。
王宮史に残るかもしれない。
その殿下が、ふいに口を開いた。
「その声明を出せ」
全員が殿下を見た。
殿下は顔色が悪い。
目の下も青い。
けれど、逃げていなかった。
「私は、民の前で言った。私の言葉で人を傷つけた責任は私にある、と」
彼は唇を噛む。
「王宮も言え。聞いていたなら、聞いていたと言え」
会議室が沈黙した。
ルーファス殿下の言葉は、相変わらず粗い。
整っていない。
でも、変な飾りがなかった。
昔の殿下なら、ここで自分が立派に見える言葉を足しただろう。
今は足さなかった。
少しだけ、変わったのだと思う。
エレオノーラ様がこの場にいれば、許すとは言わないだろう。
でも、見捨てもしないかもしれない。
宰相府の高官が反論しようとした時、王の代理官が静かに手を上げた。
「王宮として、謝罪声明を出す」
部屋が揺れた。
物理ではない。
本日二回目の念のためである。
「ただし、発表後の混乱対応計画を同時に提出せよ」
私は即答した。
「あります」
先輩が後ろで紙束を掲げる。
厚い。
とても厚い。
カイル様が見たら「武器か」と言う厚さだ。
代理官が顔を引きつらせた。
「……もうあるのか」
「広報局なので」
先輩が言った。
「燃える前提で準備しました」
広報局、嫌な方向に頼もしい。
正式謝罪声明は、夜明け前に出された。
王宮前広場、記録水晶、灯火新聞、各地方連絡水晶、北方鐘楼、神殿監察窓口。
同時発信。
私は読み上げ役に指名されたが、今回は少し違った。
私だけではない。
王宮広報局長。
記録局長。
地方行政局代表。
神殿監察官。
そしてルーファス殿下。
それぞれが、自分の担当する責任範囲を読む。
責任を、私一人の言葉にしないために。
私は最初の一文を読んだ。
「王宮は、常に民の声を聞いております。その言葉が嘘だったことを、まず謝罪します」
広場が、音を失った。
次の瞬間、怒号が上がった。
「ふざけるな!」
「やっぱり聞いてたのか!」
「うちの請願は!」
「今さら謝るな!」
「名前を出せ!」
「出すな、危ないだろ!」
「王宮を信用できるか!」
火種が一気に広がる。
【火種:王宮責任追及】
【火種:民衆怒り再燃】
【火種:請願公開要求】
【火種:個人特定危険】
【火種:地方役所襲撃】
【火種:王宮前再集合】
想定内。
想定内だが、怖い。
怖いものは怖い。
石が飛ぶかもしれない。
誰かが押し合うかもしれない。
昨日まで私たちを支持していた人が、今日から怒るかもしれない。
実際、広場の前方から声が上がった。
「リディアさん、信じてたのに!」
胸が痛んだ。
知っている声だった。
灯火新聞の号外を配ってくれた商家の青年だ。
彼は泣きそうな顔で叫ぶ。
「王宮が聞いてたなら、あなたも王宮側じゃないか!」
息が止まりかけた。
その通りだ。
私は王宮側だ。
下級職員でも、職務停止を食らっても、臨時調査室でも。
王宮の言葉を書く者だった。
私は逃げずに、記録水晶へ向かった。
「はい」
広場が少し静まる。
「私は王宮広報局の職員です。だから、王宮の責任から外にいる人間ではありません」
自分で言って、喉が痛い。
「私も、もっと早く気づけなかった責任があります」
先輩が隣で息を呑む。
カイル様の気配が強くなる。
でも、誰も止めない。
「ただし、私一人が謝って終わりにはしません」
私は広場を見る。
怒っている人。
泣いている人。
黙っている人。
まだ信じたい人。
もう信じない人。
「今日から、請願ごとの応答記録を作ります。誰が受け取り、どこで止まり、いつ返事をするのかを示します」
「今すぐ解決できないものもあります」
怒号が上がりかける。
私は続けた。
「でも、解決できない理由を隠しません」
広場の一角で、誰かが泣き始めた。
怒りか、安堵か、絶望か。
わからない。
わからないから、勝手に物語を書かない。
声明は続いた。
記録局長が、民声の塔関連記録の保全を宣言した。
地方行政局代表が、未回答請願の受付番号照会を開始すると発表した。
神殿監察官が、神殿関連の抗議窓口を王宮記録局立ち会いで再開すると告げた。
ルーファス殿下は、自分の婚約破棄発言と、それに続く情報操作に関する責任聴取に応じると読んだ。
途中で何度も噛んだ。
けれど、誰も笑わなかった。
いや、一人だけ広報局員が「噛みましたね」と記録しかけたので、先輩が止めた。
記録にも温度が必要である。
声明が終わる頃には、王都はさらに燃えていた。
でも、炎の質が少し変わっていた。
ただの噂ではない。
ただの加害者探しでもない。
「私の請願番号はどこで確認できる?」
「地方でも見られるのか?」
「名前を出されたくない場合は?」
「神殿経由の手紙も対象か?」
「北方の補助金記録は公開されるのか?」
「孤児院への支援はいつ返事が来る?」
怒りの中に、質問が混じり始めた。
質問。
返事を求める形をした声。
私は、少しだけ息を吐いた。
鎮火ではない。
でも、火の向きが見える。
広報局へ戻ると、机の上にはすでに新部署案が積まれていた。
早い。
王宮の悪いところは遅いことだが、保身と部署改編だけは妙に早い。
私は紙をめくった。
『民声整理課』
却下。
『国民感情安定室』
ベルク様の匂いがするので却下。
『苦情管理局』
管理するな。
『民意統制改善準備室』
誰だ、これを書いたのは。
火に油という概念を学んでください。
次。
『苦情大歓迎室』
私は無言で紙を伏せた。
先輩が目を逸らす。
「先輩」
「場を和ませようと」
「正式名称候補に冗談を混ぜないでください」
「でも、ちょっとよくない?」
「よくありません」
「看板にしたら民が入りやすいかと」
「怒っている民に『大歓迎』は危険です」
「確かに」
広報局員の一人が言った。
「では『胃痛応答室』は?」
「却下」
「親近感が」
「出してどうするんですか」
「職員募集に効果が」
「逆効果です」
紙束の最後に、比較的まともな案があった。
『民声応答室』
私はその文字を見た。
民声。
応答。
聞くだけではない。
分類するだけでもない。
返事をする。
「これで」
私が言うと、先輩が小さく笑った。
「地味ですね」
「地味でいいです」
「眠くなりません?」
「仕事名は眠くていいんです。中身が寝ていなければ」
「名言っぽい」
「眠気から生まれた迷言です」
王宮広報局 危機声明管理室。
通称、炎上対応係。
その看板は、完全になくなるわけではない。
炎上は今後も起きる。
王族がいる限り。
人がいる限り。
失言があり、見出しがあり、噂があり、怒りがある限り。
でも、火を消すだけでは足りない。
火元に返事をする部署が必要だった。
民声応答室。
その名前が、正式に採用された。
採用された瞬間、先輩が言った。
「仕事量、増えてません?」
「増えました」
「ですよね」
「でも、ようやく本来の仕事です」
そう言った瞬間、別の広報局員が走り込んできた。
「初回応答対象の一覧、出ました!」
「件数は?」
「第一分類だけで三万二千件です!」
沈黙。
先輩が胃薬の瓶を握った。
「本来の仕事、量が暴力」
「暴力で黙らせたら相手の物語になります」
「件数が殴ってきています」
「紙で受けます」
「紙も足りません!」
民声応答室、初日から物資不足。
国家改革は、だいたい備品棚から崩れる。
私は笑いそうになって、少しだけ泣きそうになった。
でも、泣いている時間はなかった。
最初の応答が必要だった。
東七番孤児院。
北方の村。
神殿裏通りの薬師。
石を投げた女性の娘の請願。
公爵邸前で使用人を守った記録。
北門閉鎖判断の検証。
王太子演説の責任聴取。
灯火新聞への訂正連携。
全部、終わっていない。
ベルク様の権限は止まった。
でも、塔の声は止まらない。
私は新しい紙に表題を書いた。
『民声応答室 第一回応答予定』
堅い。
相変わらず堅い。
でも、その下に、もう一行足した。
『返事を待っている方へ。遅くなりました。ここから始めます』
火種は見えた。
でも、少しだけ違った。
【火種:期待過多】
【火種:失望再燃】
【火種:応答遅延批判】
怖い。
怖いが、書ける。
カイル様が隣に立った。
「何からだ」
「まず、三つの名前から」
「リナ、トマ、セラ」
「はい」
カイル様は短く頷いた。
「手伝う」
「紙を」
「持つ」
「あと、字を」
「丁寧に」
「よろしい」
先輩が横から言った。
「辺境伯様が事務作業を……」
広報局員が震えた声で続ける。
「歴史的瞬間ですね」
カイル様は無表情で紙束を持った。
「重い」
「国民の声です」
「重いはずだ」
その一言に、誰も笑わなかった。
笑えなかった。
でも、嫌な沈黙ではなかった。
重い。
そうだ。
声は重い。
分類すれば軽くなるわけではない。
無視すれば消えるわけでもない。
返事をしなければ、積もるだけだ。
私は机の上の古い標語を見た。
王宮は、常に民の声を聞いております。
まだ外されていない。
けれど、その下に仮の紙が貼られていた。
誰が貼ったのかはわからない。
たぶん、広報局員の誰かだ。
そこには、雑な字でこう書かれていた。
『返事中』
私は少し笑った。
正式標語には使えない。
でも、今の王宮にはそれくらいでちょうどよかった。
完璧な標語より、未完成の返事。
綺麗な謝罪文より、震える応答。
王宮改革は始まった。
燃えながら。
怒られながら。
備品が足りないまま。
胃薬も足りないまま。
それでも、初めて王宮は、聞いているだけではないと言い始めた。
私は筆を取る。
第一件目。
東七番孤児院の冬毛布。
受付日。
保留部署。
未回答理由。
次回応答期限。
私は書き出した。
返事は、まだ拙い。
遅すぎる。
きっと怒られる。
それでも、白紙ではなくなった。
広報局員が叫ぶ。
「リディアさん、地方から追加請願が来ました!」
「分類ではなく受付記録を」
「神殿監察から問い合わせです!」
「返答期限を付けてください」
「財務局が予算不足で悲鳴を!」
「悲鳴も記録してください」
「王太子殿下の報告書初稿がひどいです!」
「それは別火災です!」
職場が、また燃え始めた。
けれど今度は、ただ燃えるだけではない。
返事が始まる音がした。
紙の擦れる音。
筆の走る音。
水晶が震える音。
誰かが名前を確認する声。
誰かが期限を書く声。
誰かが、やっとか、と泣く声。
私は深く息を吸った。
胃は痛い。
怖い。
仕事量は増えた。
でも。
ようやく、本来の仕事が始まったのだと思った。
火を消すだけではない。
声に返事をする。
民声応答室、初日。
王宮は、まだ燃えている。
それでも私は、最初の返事を書き始めた。




