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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
燃え残った言葉

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リディア、自分の言葉で燃やす

 塔が、国中へ開いた。


 青い光が、白へ変わる。


 地下に満ちていた声が、一瞬だけ息を止めたように静まり――次の瞬間、王宮中の水晶が震えた。


 いや、王宮だけではない。


 王都広場。


 灯火新聞の印刷所。


 神殿前の臨時記録所。


 北門。


 公爵邸。


 地方役所。


 北方の鐘楼。


 おそらく、国中の水晶が同じ震えを受け取っている。


 民声の塔(みんせいのとう)が、王国に蓄積された声を、外へ吐き出そうとしていた。


 私の手には、完璧な声明文がある。


 紙は厚い。


 上質で、折れにくい。


 責任範囲を限定し、混乱を抑え、火種を最小限にするための文章。


 王宮広報官としては、たぶん正しい。


 前世の私なら、この文章を選んだ。


 会社のため。


 組織のため。


 混乱を避けるため。


 誰かの名前を消すため。


 塔の前で、ベルク様が静かに言った。


「民は、この声に耐えられません」


 その声は、国中へ流れているわけではない。


 けれど、私には聞こえた。


 冷静で、丁寧で、優しいようにさえ聞こえる声。


 怖いのは、そこだった。


 ベルク様は、怒鳴らない。


 嘘もつかない。


 ただ、人を守るような顔で、声を閉じる。


「リディア・ノートン様。あなたは、ここで何を流すべきか理解しているはずです」


 白い光の中で、彼の横顔は少しだけ疲れて見えた。


 ずっと、疲れていたのかもしれない。


 地方暴動で家族を失ってから。


 リーナという名前を、手紙の中で読みながら。


 返事を出せなかった誰かを、分類し続けてから。


「全ての声に返事をすれば、国は混乱します」


 彼は言った。


「怒りは次の怒りを呼びます」


 塔の奥で、無数の文字が浮かぶ。


『税が違う』

『薬が届かない』

『冬毛布はどこですか』

『神殿に訴えました』

『新聞に訂正を求めました』

『王宮へ請願しました』

『返事がありません』


「民は真実に耐えられない」


 ベルク様は、こちらを見る。


「あなたがしようとしていることは、優しさではなく放火です」


 火種が見えた。


 今まで見たどの火種よりも大きく、複雑で、逃げ場がなかった。


【火種:混乱拡大】

【火種:王宮責任追及】

【火種:民衆失望】

【火種:証人危険】

【火種:国家不安】

【火種:再炎上】

【火種:地方暴動再発】

【火種:神殿責任転嫁】

【火種:貴族反発】

【火種:王宮広報局崩壊】


 多い。


 多すぎる。


 火種感知、最後の最後に本気を出さないでほしい。


 こちらは胃薬の備蓄が尽きている。


 私は、手元の紙を見た。


 完璧な声明案。


『王宮地下記録庫における民声関連資料の確認について』


 表題からして堅い。


 堅すぎて鈍器になる。


 でも、よくできている。


 内容はこうだ。


 王宮地下記録庫に、過去の民声関連資料が存在したことを確認。


 現在、記録の範囲、保管目的、閲覧権限を調査中。


 未回答請願の存在については、担当部署ごとに照会開始。


 特定個人名は安全確保のため伏せる。


 国民には冷静な対応を求める。


 王宮は必要な範囲で情報を公開する。


 完璧だった。


 燃えにくい。


 責任を限定できる。


 上層部が青ざめる程度で済む。


 民衆も、すぐには爆発しないかもしれない。


 でも。


 そこには、誰の名前もなかった。


 リナも。


 トマも。


 セラも。


 石を投げた女性の娘も。


 カイル様の父も。


 ベルク様の妹も。


 私が前世で消してしまった、名前を発表文から消さないでくださいと書いた誰かも。


 誰もいない。


 私は、その文章を見ながら、ふいに前世の会議室を思い出した。


 蛍光灯。


 冷めたコーヒー。


 怒号。


 謝罪文の修正履歴。


『誠意を見せて。ただし責任は認めないで』


 無理難題。


 なのに、私は書いた。


 書けてしまった。


 誰かの名前を消して。


 誰かの痛みを「一部のお客様」に変えて。


 誰かの怒りを「ご不安」に変えて。


 誰かの死を「当該事象」に変えて。


 きれいな文章にした。


 燃えにくい文章にした。


 そして、誰も救えなかった。


 私は、紙を握る手に力を込めた。


 紙が、軋んだ。


 カイル様が隣に立っている。


 剣は抜いていない。


 ただ、立っている。


 彼は何も言わない。


 待っている。


 今、この場で私の言葉を待っている。


 エレオノーラ様の声が、水晶の向こうから聞こえた。


『リディア』


 その声は、驚くほど穏やかだった。


『あなたが今、誰かの言葉を守るために整えるなら、私は止めませんわ』


 水晶の向こうで、少しだけ衣擦れの音がした。


『けれど、ご自分の言葉を隠すために整えるなら、私は怒ります』


 ああ。


 この人は、本当に容赦がない。


 悪役令嬢、最後まで刺すところが正確すぎる。


 ミリア様の声も続いた。


『リディア様』


「はい」


『名前を呼ぶのは、怖いです』


 ミリア様は、息を吸う。


『でも、届きます』


 私は目を閉じた。


 塔の声が、体の中へ流れ込んでくるようだった。


 痛い。


 怖い。


 多すぎる。


 全部には返事できない。


 全部を今すぐ救えない。


 返事を始めると言った瞬間、また誰かを待たせる。


 それでも。


 それでも、聞こえていたことを、なかったことにはできない。


 私は、完璧な声明文を握り潰した。


 紙が折れる音が、地下に響いた。


 小さな音だった。


 けれど、私には王宮の古い標語が割れる音に聞こえた。


 ベルク様の微笑みが、初めて揺れた。


「リディア・ノートン様」


 彼は私の手元を見る。


「それは、広報官の判断ではありません」


 私は頷いた。


「はい」


 喉が震える。


 胃が痛い。


 膝も少し笑っている。


 でも、声は出た。


「これは、私の言葉です」


 塔が、私を見ている気がした。


 国中の水晶が、私の声を待っている。


 そんな大仰なこと、本当は一生経験したくなかった。


 前世でも今世でも、できれば胃薬と平穏に暮らしたかった。


 でも私は、ここに立っている。


 火を消すためではなく。


 声に返事をするために。


 私は、民声の塔へ向き直った。


 制御水晶が白く光る。


 私の声が、塔へ吸い込まれる。


 そして、国中へ流れ始めた。


「王宮広報局、臨時広報調査室のリディア・ノートンです」


 声が震えた。


 情けない。


 でも、震えたまま続ける。


「現在、王宮地下において、民の声を集める古代装置、民声の塔の存在を確認しました」


 塔の光が強くなる。


 遠くで、誰かが息を呑む声が水晶越しに混じる。


「この塔には、国中の水晶通信、祈り、苦情、噂、請願、訂正依頼、支援要請が集められていました」


 王都中が、静かになった気がした。


 いや、実際にはざわめいているはずだ。


 でも、そのざわめきの中心に、私の言葉が落ちていく。


「王宮は、知らなかったのではありません」


 自分で言って、胸が痛んだ。


 痛い。


 とても痛い。


 でも、ここを避けてはいけない。


「聞こえていました」


 地下の誰かが息を詰めた。


 先輩だろうか。


 広報局員だろうか。


 それとも、私自身か。


「けれど、返事をしていませんでした」


 火種が膨れ上がる。


【火種:王宮標語崩壊】

【火種:王宮責任追及】

【火種:民衆怒り再燃】

【火種:貴族反発】

【火種:広報局責任追及】


 見える。


 全部見える。


 でも、もう止まらない。


 私は一度、握り潰した声明文を見た。


 もう読めない。


 だから、自分の言葉で続けるしかなかった。


「東七番孤児院のリナさん」


 名前を呼んだ瞬間、塔が震えた。


 水晶の奥に、小さな手紙の文字が浮かぶ。


『冬毛布が届きません』

『ミリア様は名前を呼んでくれました』

『でも、毛布は来ませんでした』


 私は唇を噛みそうになり、やめた。


 言わなければならない。


「あなたの手紙は、届いていました」


 声が、少しだけ詰まる。


「王宮に届いていました。支援配分記録と照合中として保留され、回答期限は設定されていませんでした」


 水晶越しに、ざわめきが広がる。


 誰かが「リナ」と呼ぶ声。


 誰かが「東七番孤児院」と繰り返す声。


 危険だ。


 名前を呼ぶことは、危険だ。


 だから私は続ける。


「リナさん本人および孤児院の安全確保を最優先します。所在への押しかけ、取材、寄付の強要、責任追及のための訪問をしないでください。返事を求めるなら、王宮へ求めてください」


 これはまだ、広報官の言葉だ。


 でも、必要な言葉だ。


 私は次の名前を呼ぶ。


「北方の村のトマさん」


 隣で、カイル様の呼吸がわずかに変わった。


 塔に、北方の記録が浮かぶ。


『父ちゃんの手紙を読んでください』

『王都は来なかった』

『補助金はいつ出ますか』

『雪が降る前に返事をください』


「あなたの請願は、読まれていませんでした」


 言った瞬間、カイル様の手が強く握られた。


 剣ではない。


 ただ、自分の拳を。


「北方補助金遅延、援軍判断、村落支援に関する記録は、複数部署で保留され、一部は未開封のまま保存されていました」


 未開封。


 その言葉は、刃物だった。


 カイル様の父を殺したのは、見出しだけではない。


 返事の遅れ。


 判断の保留。


 読まれなかった声。


 開けられなかった封。


 私は続けた。


「北方の方々へ。今この声を聞いて、王都へ向かわないでください。鐘三回を確認してください。これは噂ではありません。王宮からの、遅すぎる返答の開始です」


 カイル様が、低く言った。


「鐘三回」


 その声も塔に拾われた。


 遠く、どこかで鐘が鳴った気がした。


 一回。


 二回。


 三回。


 噂ではなく、確認の鐘。


 私の胸が少しだけ震えた。


 次の名前。


「神殿裏通りの薬師セラさん」


 ミリア様の息が、水晶越しに聞こえた。


 塔に浮かんだのは、短い抗議文だった。


『施療院で薬が不足しています』

『祈りでは熱は下がりません』

『香油販売より薬材を優先してください』

『この文は神殿広報へ提出しました』

『返事がありません』


 私は目を伏せそうになった。


 でも、伏せない。


「あなたの抗議は、握り潰されました」


 塔が、大きく震えた。


「神殿広報部に届いた抗議は、信仰不安を招くとして王宮連絡網へ転送され、王宮側では神殿内部整理事項として返送されました。その後、回答記録はありません」


 ミリア様の声が小さく漏れる。


『セラさん……』


 その声が、国中に流れた。


 かつて「皆さま」と呼んでいた少女が、ひとりの名を震えながら呼んだ。


 私は続ける。


「セラさん本人の所在、安全、同意確認が取れるまで、これ以上の個人情報は出しません。ですが、抗議があったことを、なかったことにはしません」


 火種がまた浮かぶ。


【火種:神殿責任追及】

【火種:薬師特定危険】

【火種:ミリア再炎上】

【火種:施療院不信】


 わかっている。


 全部わかっている。


 それでも、消さない。


 私は息を吸った。


 ここから先は、もっと燃える。


 でも、言わなければならない。


「ごめんなさい」


 地下が静まった。


 塔も、ベルク様も、カイル様も、先輩も。


 水晶の向こうの王都も。


 一瞬、静かになった。


 私は、もう一度言った。


「ごめんなさい」


 謝罪文ではない。


 王宮公式声明の定型句でもない。


 責任範囲を限定する前置きでもない。


 ただ、私の言葉だった。


「聞こえていたのに、返事をしませんでした」


 声が震える。


「王宮は、あなたたちの声を集めていました」


 塔の白い光が、青へ、また白へ揺れる。


「けれど、答えませんでした」


 喉が焼ける。


「今から、返事を始めます」


 言ってしまった。


 言ってしまった。


 火種が爆発するように広がった。


【火種:王宮責任追及】

【火種:民衆期待爆発】

【火種:全請願公開要求】

【火種:地方官処罰要求】

【火種:王族責任追及】

【火種:広報局謝罪要求】

【火種:国家不安】

【火種:貴族反発】

【火種:再炎上】


 燃える。


 国が燃える。


 ベルク様が、静かに言った。


「それは国を燃やします」


 彼の声は、今度は塔に拾われていた。


 国中へ流れた。


 私は彼を見る。


 彼は微笑んでいなかった。


 怒ってもいない。


 ただ、ひどく疲れた顔をしていた。


 たぶん、本当にそう思っている。


 私が国を燃やすと。


 私が、彼の妹の死を繰り返すと。


 私は答えた。


「燃えるでしょう」


 ベルク様の目が、わずかに見開かれた。


 先輩が背後で「認めた」と小さく呻いた。


 すみません先輩。


 でも認めます。


 燃えます。


 絶対に燃えます。


 私のせいで、王宮は責任を問われる。


 貴族は怒る。


 神殿は反論する。


 地方官は記録を隠そうとする。


 民衆も、全員が納得するわけではない。


 もっと早く言えと怒る人もいる。


 今さら言うなと泣く人もいる。


 信じない人もいる。


 名前を呼ばれなかった人は、なぜ自分はまだなのかと思う。


 返事は、救いだけではない。


 返事は、次の痛みの入口でもある。


 それでも。


「でも、もう燃えている人を、なかったことにしません」


 言った瞬間、胸の中で何かが壊れた。


 壊れたのではなく、開いたのかもしれない。


 私は、ようやく理解した。


 私はずっと、燃えない文章を書こうとしていた。


 火種を減らすために。


 誰かを守るために。


 組織を守るために。


 自分を守るために。


 でも、すでに燃えている人を、燃えていないことにする文章は、水ではない。


 蓋だ。


 蓋の下で、人は燃え続ける。


 私は、もうそれを書きたくない。


 背後で、カイル様が一歩前へ出た。


 剣の鞘が衣に触れる音がした。


 でも、剣は抜かれていない。


 彼は私の隣に立つ。


 ただ、それだけで、私は少し息ができた。


「リディア・ノートンは、火を隠さない」


 カイル様の声が、塔を通して流れる。


 短い。


 けれど、逃げない言葉。


「だから信じる」


 胸が、痛いくらい熱くなった。


 今、この場で泣くわけにはいかない。


 水晶越しに全王国へ情緒崩壊を配信するわけにはいかない。


 広報官として、それはちょっと困る。


 いや、もう十分困ることはしているのだけれど。


 エレオノーラ様の声が続いた。


『ようやく、ご自分の言葉になりましたわね』


 少し笑っている声だった。


 でも、そこに涙の気配があったかどうかは、記録しない。


 私はそれを記録しない。


 彼女の涙は、彼女のものだ。


 ミリア様も言った。


『名前を呼ぶのは、怖いです』


 一拍。


『でも、届きます』


 その声に、神殿前のざわめきが重なった。


 誰かが泣いている。


 誰かが怒っている。


 誰かが「セラ」と名前を呼んでいる。


 誰かが「リナ」と呟いている。


 誰かが「トマ」と繰り返している。


 名前が、国中へ広がっていく。


 危険だ。


 怖い。


 でも、もう空白ではない。


 その時、別の水晶が強く光った。


 王宮上層部からの緊急接続。


 誰かが怒鳴る声が混じる。


『リディア・ノートン! ただちに発信を停止――』


 その声を遮ったのは、意外な人物だった。


『黙れ』


 ルーファス殿下の声。


 私は思わず目を見開いた。


 殿下、今の「黙れ」は燃えます。


 と言いたかったが、もう国が大火事なので、火種感知もたぶん諦めている。


 ルーファス殿下の声は震えていた。


 あの人にしては珍しく、飾りも勢いも少ない声だった。


『私は担がれた』


 水晶の向こうがざわめく。


『だが、私の言葉で人を傷つけた責任は、私にある』


 私は息を呑んだ。


 王太子だった人。


 婚約破棄会見で、「誰もお前の言葉など聞かない」と言った人。


 その人が今、塔の前で、責任という言葉を自分のものとして言っている。


 遅い。


 とても遅い。


 でも、遅れても届く言葉がある。


 ルーファス殿下は続けた。


『宰相補佐ベルク・アインハルトの情報整理権限を、王族臨時権限により停止する。正式審議は追って行う。記録官、聞いているな。全部記録しろ』


 記録官の悲鳴に近い返事が水晶越しに聞こえた。


『記録しております! 手が足りません!』


 先輩が叫ぶ。


「広報局員、記録補助! 泣くのは後! 胃薬も後!」


「はい!」


「後が多すぎます!」


「人生です!」


 広報局員たちが動き始める。


 震えながら。


 泣きながら。


 それでも、紙を取る。


 記録する。


 声を消さないために。


 ベルク様は、その光景を見ていた。


 怒っていない。


 叫ばない。


 ただ、長い沈黙のあと、私を見る。


「あなたは、本当に始めてしまうのですね」


「はい」


「返事は終わりません」


「知っています」


「声は増えます」


「はい」


「怒りも増えます」


「はい」


「あなたを恨む者も出るでしょう」


「……はい」


 そこだけ、少し遅れた。


 怖かったから。


 私は英雄ではない。


 広報局の下級職員で、胃薬が手放せなくて、時々正論で人を追い詰めて、完璧な文章に逃げたくなる人間だ。


 恨まれるのは怖い。


 石も怖い。


 民衆も怖かった。


 王宮も怖い。


 でも、怖いからこそ、見ないふりはしない。


 カイル様が言っていた。


 怖がれ。


 怖がらない者は、踏む。


 だから、私は怖いまま立つ。


 ベルク様は静かに息を吐いた。


「では、あなたが返事を続けなさい」


 それは敗北宣言ではなかった。


 呪いにも聞こえた。


 託す言葉にも聞こえた。


 責任を投げつける言葉にも聞こえた。


 たぶん、その全部だった。


 私は頷いた。


「続けます」


 その時、塔の奥から、また声が溢れた。


 今度は三つではない。


 十でも、百でもない。


 数えきれない。


『返事をください』

『まだですか』

『誰が読みましたか』

『なぜ保留ですか』

『うちもです』

『私もです』

『名前を呼んでください』

『でも怖いです』

『公開しないでください』

『聞いてください』

『答えてください』


 声が、止まらない。


 ベルク様の権限は止まった。


 三つの偽情報は崩れた。


 でも、塔の声は止まらない。


 当たり前だ。


 ベルク様を止めれば終わる物語ではなかった。


 彼は火元ではない。


 油を撒いた人だ。


 火元は、ここにある。


 返事を待っていた声。


 私は、潰れた声明文を床へ置いた。


 もう使えない。


 使わない。


 代わりに、新しい紙を取る。


 手は震えている。


 でも、書ける。


 私は最初の行を書いた。


『王宮は、民声記録に対する第一回応答を開始します』


 堅い。


 相変わらず堅い。


 でも、次の行は少し違った。


『まず、聞こえていたのに返事をしなかったことを認めます』


 先輩が紙を覗き込み、鼻をすすった。


「燃えるね」


「燃えますね」


「胃薬、いる?」


「今は、紙をください」


「了解」


 紙が置かれる。


 白い紙。


 まだ誰の名前も書かれていない紙。


 そこへ、これから返事を書いていく。


 王宮の返事を。


 私の言葉を。


 カイル様が隣で短く言った。


「手伝う」


 早い。


 まだ第百話ではないのに、もうそれを言うのは少し早い。


 でも、今はありがたかった。


 私は小さく笑った。


「では、まず剣ではなく紙を持ってください」


「わかった」


「あと、字は丁寧に」


「努力する」


「努力ではなく必須です」


「厳しい」


「国家規模の返事なので」


 ほんの少しだけ、空気が緩んだ。


 塔はまだ震えている。


 王都は燃えている。


 国は混乱する。


 私は、たぶん今日、国を燃やした。


 でも、もう燃えている人を、なかったことにはしなかった。


 それだけは、確かだった。


 民声の塔の白い光の中で、私は次の紙へ向かう。


 返事は終わらない。


 終わらないなら、始めるしかない。


 ベルク様は連行される直前、もう一度だけ私を見た。


 その目には、怒りではなく、底の見えない疲れがあった。


「リディア・ノートン様」


「はい」


「声は、美しくありません」


「知っています」


「整理されていません」


「はい」


「矛盾します」


「はい」


「あなたを救いません」


 私は少しだけ息を止めた。


 そして答えた。


「それでも、返事をします」


 ベルク様は、わずかに目を伏せた。


 それが何の感情だったのか、私はまだ知らない。


 ただ、彼は最後まで崩れなかった。


 礼儀正しいまま。


 正しい物語を信じたまま。


 それでも、塔の制御水晶から手を離した。


 白い光が、私たちの前で揺れ続ける。


 そして、国中から届く声は、少しも減らなかった。


 むしろ、増えていく。


 広報局員が震える声で言った。


「リディアさん」


「はい」


「これ、いつ終わりますか」


 私は紙に向かったまま答えた。


「終わりません」


「ですよね」


「でも、次の返事は書けます」


 私は筆を取った。


「では、始めましょう」


 火を消すだけでは終わらない。


 聞こえています、と言うだけでも足りない。


 返事をする。


 遅すぎても。


 燃えても。


 怖くても。


 それが、私の選んだ言葉だった。

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