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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
燃え残った言葉

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これは炎上ではありません

「民は、この声に耐えられません」


 ベルク様の言葉は、地下の青い光の中で、あまりにも静かに響いた。


 民声の塔(みんせいのとう)は震えている。


 水晶の中を流れる無数の声が、文字になり、音になり、また光へ戻っていく。


 祈り。


 苦情。


 請願。


 噂。


 怒り。


 諦め。


 諦めきれなかった最後の一文。


『返事をください』


 その言葉が、塔の奥で何度も光った。


 私は、息を吸うのを忘れかけた。


 息を吸わないと倒れる。


 倒れるとカイル様に怒られる。


 今倒れたら、たぶん怒られるだけでは済まない。北方流の薬草茶を三種類くらい飲まされる。胃に効くけれど味が雪山の土である。


 だから、私は息を吸った。


 苦い空気だった。


「耐えられないから、隠すんですか」


 私が問うと、ベルク様は少しだけ首を傾けた。


「隠すのではありません。順序を整えます」


「順序」


「ええ。人は、一度に多くの真実を受け取れません。受け取る順番を誤れば、真実は救いではなく暴力になる」


 それは、間違いではなかった。


 間違いではないから厄介だった。


 被害者の名前を不用意に出せば、その人が狙われる。


 未確認情報を早く出しすぎれば、誤解が広がる。


 責任を認める言葉は必要だけれど、範囲を誤れば、何もしていない人まで燃える。


 私はその全部を知っている。


 危機対応係だから。


 前世から、嫌というほど知っている。


 だから、ベルク様の言葉を完全には否定できない。


 否定できない自分が、嫌だった。


 塔に次の声が浮かぶ。


『南部税務官、徴収額が布告と違います。昨年も同じでした。役所へ行っても記録なしと言われました』


 その下に、王宮側の処理記録。


『地方税混乱。暴動誘発度中。回答保留。次期税制改正時に整理』


 整理。


 また、その言葉。


 次。


『西市場、薬価高騰。神殿施療院で薬が足りません。子どもが熱を出しています』


 処理記録。


『商会価格調整中。公表により買い占め懸念。回答保留』


 次。


『東七番孤児院、冬毛布未着。昨年も未着。確認求む』


 処理記録。


『孤児院支援配分記録と照合中。回答期限未設定』


 期限未設定。


 つまり、無期限。


 つまり、返事なし。


 私は拳を握った。


 火種が見える。


【火種:未回答請願連鎖】

【火種:王宮不信爆発】

【火種:地方行政責任追及】

【火種:神殿責任再燃】

【火種:商会暴利疑惑】

【火種:北方差別再燃】

【火種:王宮標語虚偽化】


 火種だらけだ。


 足の踏み場もない。


 火種の床暖房である。


 全然暖かくない。燃えている。


「……これは」


 喉の奥が乾く。


 私は言葉を探した。


 炎上。


 暴動。


 騒乱。


 群衆行動。


 未確認情報拡散。


 危機案件。


 どれも違う。


 それらは、起きた現象の名前だ。


 でも、ここにあるのは、その前だ。


 燃え上がる前。


 叫びになる前。


 石になる前。


 門を叩く前。


 人がまだ紙に書いていた時の声。


 誰かがまだ、王宮に返事を期待していた時の声。


 私は塔を見上げた。


 青い光が、目の奥まで刺さる。


「これは、炎上ではありません」


 自分の声が、地下に落ちた。


 ベルク様の視線が私へ向く。


 カイル様も、黙ってこちらを見る。


 私は続けた。


「返事をもらえなかった苦情です」


 言った瞬間、胸の奥で何かがはまった。


 正解というより、逃げ場がなくなった感覚だった。


 そうだ。


 これは炎上ではない。


 炎上という言葉にしてしまえば、うるさいもの、迷惑なもの、鎮火すべきものになる。


 でも違う。


 ここにあるのは、返事を待っていた声だ。


 王宮が聞いていたのに、答えなかった声。


 届いていたのに、処理箱へ入れられた声。


 分類され、保留され、期限未設定にされた声。


 声が燃えたのではない。


 返事がなかったから、燃えるしかなくなったのだ。


 背後の階段で、誰かが息を呑んだ。


 振り返ると、広報局の先輩が壁に手をついて立っていた。


 顔色は紙より白い。


 地下へ走ってきたらしい。息が上がっている。


「リディア……この、これ、全部……」


「はい」


「苦情件数は」


 先輩は、職業病で聞いてしまったのだろう。


 聞いた直後に、自分でもまずいと思った顔をした。


 私は塔を見た。


 無数。


 百年分。


 国中。


 水晶通信も、祈りも、請願も、投書も、役所への照会も、神殿への抗議も、新聞への訂正依頼も。


 数えられるわけがない。


 先輩の隣にいた若い広報局員が、震える声で言った。


「苦情件数、集計不能です」


 その場に、ひどく場違いな沈黙が落ちた。


 私は、少しだけ笑ってしまった。


 笑う場面ではない。


 でも、笑わなければ折れそうだった。


「ようやく本当の仕事ですね」


 先輩が、泣きそうな顔で私を見た。


「本当の仕事、規模が国家なんだけど」


「弊部署の悪い癖ですね。だいたい案件が大きい」


「胃薬、足りる?」


「足りません」


「でしょうね」


 そこで会話が途切れた。


 軽口は、薄い板だ。


 深い穴の上に置いた板。


 一歩間違えれば落ちる。


 でも、その板があるから、少しだけ前へ進める。


 塔の光が強くなった。


 水晶の奥から、また声が浮かぶ。


『北方第五村、父の手紙は読まれていますか』


 カイル様の肩が、わずかに動いた。


 トマの声ではない。


 たぶん、その父の声でもない。


 けれど、北方の誰かの声。


 何度も出された請願。


 何度も返らなかった返事。


 カイル様は、剣に手を伸ばさなかった。


 ただ、低く言った。


「読まれていた」


 その言葉は、怒りよりも重かった。


「読まれて、捨てられてはいない」


 私は言った。


 言ってから、唇を噛んだ。


 違う。


 それは慰めにはならない。


 捨てられていないことと、返事をされたことは同じではない。


 カイル様は私を責めなかった。


 ただ、塔を見たまま言う。


「保留も、返事ではない」


「はい」


「分類も、返事ではない」


「はい」


「聞いていた、だけでは足りない」


 私は頷いた。


「足りません」


 その言葉が、標語の上に赤字で書き込まれるようだった。


 王宮は、常に民の声を聞いております。


 足りません。


 聞いているなら返事をしてください。


 第1話の朝、私は胃薬を飲みながらそうぼやいた。


 冗談だった。


 仕事への不満だった。


 でも、あれは冗談ではなかったのだ。


 王宮の罪の中心だった。


 塔の横で、ベルク様が口を開いた。


「では、どう返事をするのです」


 私は彼を見た。


「すべてに返事をする、とあなたは言うでしょう。美しい言葉です。ですが、誰が、いつ、どの順で、どの責任範囲で返事をするのですか。返事を出した瞬間、次の声が現れる。答えれば答えるほど、まだ答えられていない声が可視化される。民は待てなくなる。貴族は責任を押しつけ合う。神殿は王宮へ責任を転嫁する。地方官は記録を焼く。商会は価格を隠す。新聞社は見出しにする」


 彼の言葉は、鋭かった。


 冷たいのではない。


 現実的だった。


 だから痛い。


「あなたは、返事という言葉を救いのように扱っている。しかし、返事は始まりです。終わりではありません」


「知っています」


「本当に?」


「……知り始めています」


 正直に言った。


 ベルク様が少し目を細める。


 私は完璧に言い返せなかった。


 なぜなら、怖かったから。


 返事を始めたら、国は燃える。


 本当に燃える。


 塔に溜まった声は、百年以上分だ。


 税の苦情。


 災害支援の遅れ。


 差別。


 貴族の横暴。


 辺境の孤立。


 神殿への不信。


 握り潰された請願。


 読まれなかった手紙。


 いや、読まれていた手紙。


 返事のなかった手紙。


 全部に返事なんて、できるのか。


 できない。


 少なくとも、すぐにはできない。


 それでも「返事をします」と言った瞬間、期待が生まれる。


 期待は、遅れれば怒りになる。


 怒りは、次の炎上になる。


 私はそれを知っている。


 だから怖い。


 私は、自分が怖い。


 正しいことを言って、誰かをさらに傷つけるかもしれない。


 返事を始めると言って、また待たせるかもしれない。


 名前を呼んで、その人を火の前へ引き出してしまうかもしれない。


 火種が、視界いっぱいに浮かぶ。


【火種:返事不能による再失望】

【火種:王宮責任追及】

【火種:地方官証拠隠滅】

【火種:証人危険】

【火種:被害者名の見出し化】

【火種:貴族反発】

【火種:神殿責任転嫁】

【火種:民衆期待過熱】

【火種:リディア放火批判】


 多い。


 多すぎる。


 火種感知、少しは遠慮してください。


 視界が燃えすぎて前が見えません。


 私は、手元の会見台本を抱え直した。


 完璧な声明案。


 いま出せば、きっと多少は燃えにくい。


 塔の存在は伏せる。


 三つの偽情報の構造を説明する。


 ベルク様の関与疑惑は調査中とする。


 民声収集については「王宮内記録制度の不備」と表現する。


 未回答請願については「今後調査」と書く。


 責任を限定し、段階的に公開し、国の混乱を避ける。


 たぶん、それが一番安全だ。


 私の前世の上司が好きそうな文章だ。


 誠意を見せろ。


 ただし責任は認めるな。


 私は、胃の奥が冷たくなるのを感じた。


 違う。


 でも、完全には違わない。


 だから、怖い。


「リディア」


 カイル様の声がした。


 短い。


 低い。


 私を現実に戻す声。


「はい」


「顔色が悪い」


「通常運転です」


「違う」


「地下照明のせいです」


「嘘が下手になった」


「上達したくない分野ですね」


 カイル様は、私の手元を見た。


 台本。


 完璧な声明文。


 彼は言った。


「重いか」


「重いです」


「置くか」


 私は答えられなかった。


 まだ置けない。


 置いたら、何で立てばいいのかわからない。


 私はずっと、文章で立ってきた。


 誰かの言葉を書いて、誰かの失敗を処理して、火種を減らして、燃えない一文を探して。


 それが私の仕事だった。


 それが私の価値だと思っていた。


 それを置いたら。


 私は何を言えばいい?


 自分の言葉なんて。


 まだ、怖い。


 カイル様は、それ以上急かさなかった。


 彼は、待つ人だ。


 無口だからではない。


 言葉が遅れる痛みを知っているから、待つことの重さも知っている。


 その沈黙が、今はありがたかった。


 塔の横の補助水晶が明滅した。


 先輩が慌てて駆け寄る。


「外部連絡、繋がりました! 灯火新聞、グランフェルト公爵家、王宮記録局、神殿前広場臨時記録所、北門連絡所、全部、不安定ですが受信できます!」


 不安定。


 まあ、王宮地下で古代装置が国中の苦情を吐き出しているのだから、通信状態くらい不安定にもなる。


 むしろ安定していたら怖い。


 補助水晶から、エレオノーラ様の声が響いた。


『リディア、聞こえますか』


「聞こえます」


『地下で何を見つけましたの』


 私は一瞬、言葉に詰まった。


 何を見つけたか。


 塔。


 王宮の罪。


 百年分の未回答。


 返事を待つ声。


 どれから言う?


 どの順番で言う?


 順番。


 ベルク様の言葉が頭をよぎる。


 違う。


 整えることと、支配することは違う。


 私は息を吸った。


「王宮が、国中の声を集めていた装置です」


 水晶の向こうが、一瞬静かになる。


 エレオノーラ様は、すぐに聞き返さなかった。


 賢い人だ。


 言葉の重さを、瞬時に理解する。


 続いて、ミリア様の細い声。


『神殿の祈りも、ですか』


「おそらく」


『では、私が祈っていた言葉も』


 私は目を閉じた。


 ミリア様の祈り。


 「皆さまのために祈ります」と言わされていた頃の声。


 自分の言葉ではなかった祈り。


 それも、塔へ届いていたのかもしれない。


「確認します。まだ断定はしません」


『はい』


 ミリア様は小さく答えた。


 その声は震えていた。


 でも、逃げていなかった。


『もし、私の祈りが誰かを黙らせるために使われていたなら……私は、それも知りたいです』


 私は唇を噛んだ。


 強い。


 いや、強いのではない。


 怖がりながら立っている。


 それが一番強い。


 エレオノーラ様の声が続いた。


『リディア』


「はい」


『その装置を、ベルク様が使える状態にありますのね』


「はい」


『何を流すおつもりかしら』


 私はベルク様を見た。


 彼は否定しない。


「危険な声だけを流し、民衆の危険性を証明するつもりです」


 水晶の向こうで、エレオノーラ様が低く息を吐いた。


『悪趣味ですわね』


 ベルク様は穏やかに言う。


「必要な整理です」


『整理という言葉を、そろそろ辞書から追放したくなってきましたわ』


 私もです。


 王宮用語辞典、燃やしたい項目が増えていく。


 物理は禁止。


 わかっています。


 でも心の中では燃やします。


 灯火新聞の編集長の声が割り込んだ。


『リディアさん、そいつを記事にするには証拠が要る』


「記録水晶は起動しています。ただし塔内部の全記録は取得できていません」


『見たものを記録しろ。今すぐ。完璧な記事にはならん。だが、空白を作るな』


 編集長らしい言葉だった。


 訂正欄を武器にした人の言葉。


 完璧ではなく、訂正可能な記録。


 私は頷いた。


「先輩、記録紙を」


「ある!」


 先輩が束で差し出す。


 多い。


 さすが広報局員。


 国家的胃痛の現場でも紙だけは持っている。


「記録係を三名。塔に表示された声を、分類せず、まず写してください。個人名は現時点では伏せ字。地域、内容、処理記録、回答有無を分けます。ただし、存在を消さないでください」


「了解!」


「あと、誰か胃薬を」


「それは全員分足りません!」


「では後回しで!」


 後回しにしてはいけないものと、後回しにせざるを得ないものがある。


 人生はだいたいその二択で胃が死ぬ。


 私は補助水晶へ向かった。


「各所へ暫定連絡を出します」


 ベルク様が静かに言った。


「この時点で出せば、混乱します」


「出さなければ、あなたが切り抜きます」


「私は秩序を保ちます」


「秩序だけでは、返事になりません」


 私は紙を取った。


 手が震えている。


 それでも書く。


 まだ完璧な最終声明ではない。


 まだ自分の言葉を全部出せない。


 でも、空白は作らない。


 私は暫定文を書いた。


『王都内同時混乱に関する追加確認中事項』


『現在、王宮地下記録庫において、過去および現在の民声記録に関わる重要資料の存在を確認しています』


『当該資料には、地方請願、神殿照会、商会苦情、税務抗議、災害支援要請、新聞訂正依頼等が含まれている可能性があります』


『現時点で、全容は確認中です』


『未確認のまま、特定の声のみを切り取って民衆全体、地方全体、神殿関係者全体、北方全体、公爵家関係者全体を断定しないでください』


『王宮は、当該記録の存在、回答状況、保留理由、責任部署について確認を開始します』


 筆が止まる。


 王宮は、確認を開始します。


 冷たい。


 遅い。


 まるで、今初めて知ったような言い方だ。


 でも、王宮は聞いていた。


 この一文では足りない。


 私は、歯を食いしばって追記した。


『なお、これらの声が王宮に届いていた可能性がある以上、単なる未確認情報として扱うことはできません』


 まだ足りない。


 でも今は、ここまで。


 第93話で言うべき言葉を、ここで薄めて出してはいけない。


 私はまだ、完璧な声明文にしがみついている。


 その自覚がある。


 でも、しがみついている手にも、少しずつ力が入らなくなっている。


 ベルク様は、私の文面を見た。


「弱いですね」


「はい」


「責任も限定できていない。民衆を安心させる物語にもなっていない」


「はい」


「炎上します」


「でしょうね」


「それでも出すのですか」


 私は紙を見下ろした。


 火種が浮かぶ。


【火種:王宮責任追及】

【火種:未回答請願拡散】

【火種:民衆期待上昇】

【火種:ベルク反撃】

【火種:不十分な謝罪批判】


 燃える。


 確実に燃える。


 でも、燃えない文にすると、また名前が消える。


 また声が「整理」される。


 私は顔を上げた。


「出します」


 ベルク様が微笑んだ。


「優しさですね」


「いいえ」


 私は首を振った。


「遅すぎる最低限です」


 先輩が小さく「名言なのに胃が痛い」と呟いた。


 同感です。


 この職場、名言がだいたい胃痛とセット販売されている。


 暫定文が水晶へ送られる。


 塔が、低く震えた。


 外へ、王都へ、地方へ、灯火新聞へ、記録局へ。


 まだ小さな返事とも言えない、返事の前置きが出ていく。


 その瞬間、塔の中で別の光が動いた。


 ベルク様の手元の制御水晶だ。


 彼は、私たちの暫定文とは別の経路を開こうとしている。


 危険な声だけを流す経路。


 民衆を「制御すべき対象」として固定するための、最後の物語。


 カイル様が一歩前へ出た。


「やめろ」


 短い言葉。


 剣は抜かない。


 でも、退かない。


 ベルク様はカイル様を見た。


「辺境伯閣下。あなたもご覧になったでしょう。声は危険です。あなたの父上も、言葉に殺された」


「父は、返事の遅れで死んだ」


 カイル様は言った。


「言葉だけではない。言葉が届いていたのに、返事がなかったから死んだ」


 その声は静かだった。


 第56話の叫びとは違う。


 でも、同じ傷から出ている。


「それを、民を黙らせる理由に使うな」


 ベルク様の微笑みが、わずかに薄くなった。


 私は塔の前へ立った。


 怖い。


 本当に怖い。


 この先に待っている火が見える。


 自分の言葉で燃やす未来が、すぐそこにある。


 今ならまだ、引き返せる。


 完璧な声明文を選べる。


 責任を限定して、塔の存在を段階公開して、危険な声を閉じて、王宮の秩序を守る道がある。


 たぶん、その方が被害は少ない。


 短期的には。


 でも、また返事が遠のく。


 また誰かが待つ。


 また誰かの声が、ここに溜まる。


 そしていつか、もっと大きく燃える。


 私は、ようやくわかった。


 炎上は、突然起きるのではない。


 返事の遅れが積もる。


 保留が積もる。


 分類が積もる。


 沈黙が積もる。


 それが、火になる。


「ベルク様」


「はい」


「あなたは火元ではありません」


 彼の目が、わずかに動いた。


「あなたは、油を撒いた人です」


 地下が静かになった気がした。


 塔の声だけが、流れ続けている。


「本当の火元は、返事をもらえなかった声です」


 言い切った。


 その瞬間、火種の見え方が変わった。


 今まで、王都中に散らばって見えていた火が、一本の根へつながっていく。


 公爵家反逆の噂。


 辺境伯出兵の誤報。


 ミリア暗殺未遂の捏造。


 王都の暴徒化。


 石を投げた女性。


 北門を閉じさせた不安。


 神殿前に集まった祈り。


 未回答請願。


 王宮標語。


 全部が、ひとつの場所へつながっている。


 返事がなかった。


 それだけではない。


 聞こえていたのに、返事がなかった。


 だから、燃えた。


 ベルク様は、静かに私を見ていた。


「では、あなたはその声に返事をするのですか」


 答えは、まだ喉の奥で震えている。


 今、言えば燃える。


 でも、もう言わずにはいられない。


 ただ、その言葉はまだ、完璧な声明文の奥に隠れている。


 私は台本を握った。


 紙が軋む。


 まだ潰していない。


 でも、もう元の形には戻らない。


「……返事を、始めます」


 声は小さかった。


 地下の全員に届くくらいの声。


 国中へ流すには、まだ弱い声。


 ベルク様は、まるでそれを待っていたように微笑んだ。


「では、民に聞かせましょう」


 彼の指が、制御水晶へ触れた。


 塔が轟いた。


 青い光が白く変わる。


 国中の水晶が、この塔へ接続されようとしている。


 先輩が叫ぶ。


「外部送信、強制起動します!」


 灯火新聞の編集長の声。


『リディアさん、来るぞ!』


 エレオノーラ様の声。


『リディア、無理に整えようとなさらないで』


 ミリア様の声。


『名前を、消さないでください』


 カイル様が、私の隣に立った。


 剣は抜かない。


 ただ、立つ。


「逃げるな」


 私は息を吸った。


 手元には、完璧な声明文。


 目の前には、返事を待つ声。


 ベルク様が、静かに告げる。


「民は、この声に耐えられない」


 塔が、国中へ開いた。

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