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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
燃え残った言葉

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91/100

民声の塔

 王宮地下で、声が降っていた。


 雨ではない。


 水でもない。


 けれど、確かに降っていた。


 祈り。


 怒り。


 嘆き。


 質問。


 請願。


 噂。


 苦情。


 言葉になりきれなかった息の震え。


 それらが、淡い青の光を帯びて、巨大な水晶塔の中を流れている。


 水晶塔。


 そう呼ぶしかなかった。


 王宮地下三層、旧広報記録庫のさらに奥。


 石壁をくり抜いた円形の空間の中央に、天井へ届くほどの透明な塔が立っている。


 塔の中には、水のような光が満ちていた。


 その光は時折、文字になった。


 また時折、声になった。


 そして時折、火種になった。


【火種:王宮による民声収集】

【火種:未回答請願の蓄積】

【火種:情報統制の証拠】

【火種:王権信用崩壊】

【火種:民衆不満一斉噴出】

【火種:ベルクによる最終誘導】


 胃が痛い。


 いや、これはもう胃だけではない。


 全身の内臓が一斉に辞表を書き始めている。


 ただし、提出先はたぶん私だ。


 やめてください。


 今辞められたら困ります。


 私も辞めたいですが。


 ベルク様は、塔の前に立っていた。


 完璧な姿勢。


 乱れのない髪。


 場違いなほど落ち着いた声。


 まるで、地下で国家規模の倫理事故を起こしている最中ではなく、会議室で月次報告を読み上げている人のようだった。


「ようこそ、リディア・ノートン様」


 私は階段の最後の一段を下りた。


 手元には、会見用の完璧な声明台本。


 責任範囲を限定し、被害状況を整理し、三つの偽情報を分解し、王宮の対応方針を示すための文書。


 さっきまで、それは武器だった。


 今は、妙に薄い紙束に見える。


 この塔の前では、どんな声明も軽い。


「これは、何ですか」


 声が少し掠れた。


 ベルク様は、待っていた答えを渡すように穏やかに微笑んだ。


民声の塔(みんせいのとう)です」


 名前が、落ちた。


 それだけで、空気が変わる。


 民声。


 民の声。


 王宮の標語が、頭の奥で勝手に響いた。


「王宮は、常に民の声を聞いております」


 聞いております。


 聞いて。


 いる。


 私は、塔を見上げた。


 透明な水晶の中に、細い光の筋が何本も流れている。


 水晶通信。


 神殿への祈り。


 地方役所の請願板。


 商会の抗議記録。


 王宮宛ての苦情。


 新聞社へ送られた投書。


 水晶掲示板の火種。


 それらが、無数の管を通って、この場所へ集められていた。


 私は、口の中が乾くのを感じた。


「王宮は……本当に聞いていたんですか」


「はい」


 ベルク様は、ためらいなく答えた。


「比喩ではありません。歴代王宮は、この塔を通じて国中の声を把握してきました。災害の兆候、税への不満、地方官の腐敗、神殿への疑念、貴族家の横暴、商会の価格操作、辺境の孤立」


 彼は水晶塔へ手をかざした。


 塔の中の光が動く。


 古い文字列が浮かび上がった。


『南部第三村、水害後の種籾支援未着。回答求む』


『東街道宿場、関所税二重徴収。調査願い』


『北方第五村、王都新聞にて反乱準備との噂。事実無根。訂正求む』


『神殿寄付金、孤児院へ未配分。照会願い』


『王都下町、薬価高騰。冬越し困難』


 文字が流れる。


 次々と。


 速すぎて、全部は読めない。


 それでも、一つ一つが人の声だった。


 誰かが書いた。


 誰かが送った。


 誰かが待った。


 私は喉の奥で息を止めた。


「これ、全部……王宮に届いていたんですか」


「届いていました」


「回答は」


 ベルク様は、一拍置いた。


 その沈黙だけで、答えはわかった。


 でも、私は聞いた。


「回答は、どうなりました」


「分類されました」


「分類」


「緊急度、拡散可能性、暴動誘発度、地方統治影響度、王権信用影響度、発信者影響力、対処費用、放置許容期間」


 言葉が整いすぎていて、吐き気がした。


 分類。


 便利な言葉だ。


 人を棚にしまう時、とても役に立つ。


 私は塔の根元へ近づいた。


 床には古い魔法陣が刻まれている。


 その周囲に、古い標語が彫られていた。


『民の声を聞き、国を保つ』


 私はその文字を見つめた。


 少し違う。


 今の王宮標語とは違う。


 民の声を聞き、国を保つ。


 いつの間にか、後半だけが消えたのだろうか。


 あるいは、都合よく短くされたのだろうか。


 王宮は、常に民の声を聞いております。


 聞いております。


 返事をします、とは言っていない。


 私は笑いそうになった。


 笑えない。


 いや、笑ったらたぶん泣く。


「聞くだけだったんですか」


「いいえ」


 ベルク様は静かに否定した。


「必要なものには対応しました」


 塔に別の記録が浮かぶ。


『西部小麦倉庫腐敗報告。暴動危険度高。即時食糧放出』


『南港疫病風聞。医師団派遣。神殿布告調整』


『王都橋梁崩落前兆。通行制限。商会補償』


「この塔によって救われた命もあります。暴動を防いだ例もあります。疫病拡大を抑えた例も。価格高騰を事前に調整した例も。民の声を聞くことで、王宮は何度も国を守ってきました」


「……だから、正しいと?」


「有効です」


 出た。


 ベルク様の好きな言葉。


 有効。


 私はその二文字を、心の中で赤字訂正した。


 有効。


 誰にとって。


 何のために。


 どこまで。


「対応しなかったものは」


「優先順位が低いものです」


「誰が決めたんですか」


「王宮です」


「王宮の誰が」


 ベルク様は微笑んだ。


「時代によって異なります。王、宰相府、広報局、神殿監察、地方統括官。そして、現在は私です」


 自白が丁寧すぎる。


 録音水晶を設置したい。


 いや、設置している。


 私は袖の内側に仕込んだ記録水晶へ、指先で触れた。


 地下へ降りる前に起動してある。


 この会話は記録されている。


 ただし、記録できることと、公開できることは違う。


 そこが地獄である。


 火種が濃くなる。


【火種:王宮中枢の責任】

【火種:歴代統治正当性への疑義】

【火種:ベルク単独責任化による逃げ道】

【火種:リディアによる暴露誘発】

【火種:民声の利用疑惑】


 私は塔の光へ目を戻した。


 古い請願が流れている。


『北方第三砦、援軍要請。王都判断待ち』


 息が止まった。


 塔の光が、ゆっくり形を変える。


 文字は続く。


『北方第三砦、再要請。魔獣群増加。民間退避困難』


『北方第三砦、王都新聞にて混乱を招く動きとの報あり。訂正求む』


『前辺境伯ヴァレンシュタイン、援軍判断遅延について再照会』


 カイル様の父。


 あの人の声も。


 ここに来ていた。


 王都は聞いていた。


 聞いていて。


 遅れた。


 私は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 第56話のカイル様の声が蘇る。


「またか」


「また、王都は同じ言葉で人を殺すのか」


「父の時もそうだった」


「混乱を避けるため、と書かれた」


「援軍は遅れた」


「父は死んだ」


 私は、塔の文字から目をそらせなかった。


 ベルク様は、私の反応を見ている。


 静かに。


 観察するように。


「その件は、悲劇でした」


 私は振り向いた。


 声が自分でも驚くほど低かった。


「悲劇」


「はい」


「分類では」


「当時の記録では、北方軍事行動による王都不安拡大可能性が高く、援軍派遣を即断した場合、反乱誤認および貴族間軍事衝突の危険があったとされています」


「人が死んでいます」


「死者は出ました」


 違う。


 その言い方。


 死者は出ました。


 被害が発生しました。


 混乱が確認されました。


 責任が曖昧になる言い方。


 前世で、嫌というほど書いた。


 書かされた。


 いや、書いた。


 私も。


「死者が出た、ではありません」


 私は言った。


「カイル様のお父様が死にました。北方の兵が死にました。名前のある人が死にました」


 ベルク様の表情は変わらない。


「名前を出せば、怒りが個人へ向かいます」


「名前を消せば、悲しみがどこにも行けなくなります」


「だから、整理が必要です」


「整理されたまま、返事はされなかった」


 塔の奥で、別の声が響いた。


 文字ではない。


 祈りに近い、古い声。


『返事はまだか』


 すぐに別の声。


『見ました、という印だけでも』


 また別の声。


『冬までにお願いします』


『子どもが熱を出しています』


『この税は二重です』


『新聞に書かれたことは違います』


『神殿に聞いても戻されました』


『王宮に届いていますか』


『返事をください』


 私は耳を塞ぎたくなった。


 塞いではいけない。


 火元を見る。


 燃えている人ではなく、火をつけた場所を。


 でも、火元が声なら。


 声を見続けることは、こんなに痛いのか。


 ベルク様は、塔へ向き直った。


「民声の塔は優秀な装置です。感情の温度、地域ごとの不満傾向、拡散可能性、暴動誘発語句。すべて読み取れる」


「民声を、燃料みたいに言わないでください」


「実際、燃料です」


 即答だった。


 あまりに静かで、背筋が冷えた。


「怒りは燃料です。不安は導線です。噂は火花です。祈りは時に鎮静剤となり、時に群衆を動かす号令となる。新聞は風です。王宮声明は防火壁にも油にもなる」


「人は、火災用語で管理するものではありません」


「あなたは火種を見ている」


 返せなかった。


 ベルク様は、穏やかに続ける。


「あなたも同じです、リディア・ノートン様。言葉の中に火を見る。燃え方を予測する。どこで遮断すべきか考える。何を公開し、何を伏せるか決める。民衆の感情を、危機対応として扱う」


 違う。


 そう言いたい。


 でも、完全には違わない。


 私はずっと、火種を見ていた。


 言葉を、危険度で見てきた。


 誰かの怒りを、リスクとして扱ったことがある。


 エレオノーラ様を、炎上要素の中心と見た。


 ミリア様を、守りやすい被害者にしようとした。


 カイル様の怒りを、見出し化リスクとして止めた。


 民衆の集合を、群衆圧力として整理した。


 必要だった。


 でも、それだけでは足りなかった。


 私は唇を噛んだ。


「私は、間違えます」


「ええ」


「あなたと違って、間違えたことを記録します」


 ベルク様の目が、わずかに細くなった。


 初めて、微笑みの温度が下がった。


「記録すれば許されると?」


「許されません。でも、消さずに済みます」


「消さないことは、時に残酷です」


「消すことも、残酷です」


 塔の光がまた揺れた。


 今度は、王都下町の苦情。


『東七番孤児院、冬毛布未着。昨年も未着。確認求む』


 リナ。


 第24話で、孤児院の子が言った。


「ミリア様は、ちゃんと私の名前を呼んでくれた」


 でも冬の毛布は来なかった。


 塔には届いていた。


 王宮は聞いていた。


 返事は、しなかった。


 次に、北方の請願。


『北方第五村、補助金遅延により給与未払い。父の手紙、未回答。再提出』


 トマ。


「でも、王都は父ちゃんの手紙を読まなかった」


 違う。


 読まなかったのではない。


 届いていた。


 分類されていた。


 回答されなかった。


 その方が、ずっと重い。


 さらに、神殿裏通り。


『薬師セラ、神殿寄付金流用疑義。抗議文三通。神殿側より回答なし。王宮監察へ転送希望』


 セラ。


 ミリア様が第88話で呼んだ名。


 塔は、その名前を知っていた。


 王宮も。


 私は膝から力が抜けそうになった。


 手すりに掴まる。


 ベルク様は、それを見ても助けない。


 助けない代わりに、説明する。


 彼らしい。


「ご覧の通り、声は届いています」


「届いて、なぜ止まったんですか」


「すべてに返事をすれば、国は維持できません」


「返事をしなければ、国は何を維持していたんですか」


「秩序です」


「誰の」


「王国の」


「名前がない」


 私の声が震えた。


「あなたの言葉には、いつも名前がない」


 ベルク様は黙った。


 塔の光が、彼の横顔を青く照らす。


 美しい横顔だった。


 整っていて、冷たい。


 紙面に載せれば、たぶん「沈着冷静な宰相補佐」と書かれる。


 見出しは人を騙す。


 私はそれを知っている。


「ベルク様」


「はい」


「リュセ川上流域の声も、ここにありますか」


 彼の指が、初めてわずかに止まった。


 リュセ川。


 彼の過去。


 暴動。


 妹の手紙。


 リーナ。


 ベルク様が、ほんの少しだけ目を伏せる。


「あります」


「見せてください」


「必要ありません」


「見せてください」


「リディア様」


「あなたが、民は真実に耐えられないと決めた場所でしょう。そこから見せてください」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 塔の中では、数え切れない声が流れ続けている。


 その中で、ベルク様だけが静止したように見えた。


 やがて彼は、塔へ手を伸ばした。


 光が変わる。


 古い記録が浮かぶ。


『リュセ川上流、穀物倉庫不足。支援要請』


『リュセ川上流、商会買い占め疑義。調査願い』


『リュセ川上流、神殿救済布告と実配布数不一致』


『リュセ川上流、噂拡大。領主が穀物を隠しているとの情報』


『リュセ川上流、群衆形成。鎮静声明要請』


 そして。


『ベルク兄様へ』


 その文字が浮かんだ瞬間、塔の音が少しだけ変わった。


 柔らかく。


 古く。


 痛い。


『返事をください』


 それだけだった。


 短い。


 短すぎる。


 でも、逃げていない言葉。


 私は喉が詰まった。


 ベルク様は塔を見上げている。


 顔は変わらない。


 でも、指先だけが白い。


「あなたにも、返事が届かなかった」


 私は言った。


 ベルク様は答えない。


「だから、全員に返事をしない仕組みを作ったんですか」


「違います」


 声が少し低くなった。


「私は、返事が遅れることで人が死ぬことを知りました。だから、返事の前に燃えない状態を作る必要があると学んだのです」


「燃えない状態」


「はい」


「それは、黙らせることですか」


「安定させることです」


「違う言葉で包んだだけです」


「言葉で包まなければ、人は傷つきます」


「包みすぎて、窒息します」


 ベルク様の視線が私へ向いた。


 静かな目。


 怒りではない。


 悲しみでもない。


 もっと厄介なもの。


 確信。


「あなたは、まだ声を信じすぎています」


「あなたは、声を信じなさすぎています」


「声は人を殺します」


「沈黙も人を殺します」


 その瞬間、塔が大きく震えた。


 青い光が、地下全体に広がる。


 壁の水晶管が一斉に明滅した。


 外へ接続している。


 王都の水晶掲示板へ。


 神殿の祈り水晶へ。


 地方役場の連絡水晶へ。


 新聞社の受信用水晶へ。


 国中へ。


 私は塔の変化を見て、息を呑んだ。


「何をするつもりですか」


「公開します」


 ベルク様は穏やかに言った。


「民声の一部を」


「一部」


「はい。適切な順序で」


 嫌な言葉。


 適切な順序。


 有用な真実だけを並べる。


 彼のやり方だ。


 嘘をつかない。


 ただ、真実を使う順番を支配する。


「どの声を」


「今回の暴動化に関与した危険な声です」


 塔に文字が浮かぶ。


『公爵家を許すな』


『神殿へ集まれ』


『北門を押し開けろ』


『王宮は隠している』


『聖女を返せ』


『辺境伯は王都を脅す』


 私は火種を見た。


【火種:民衆敵視】

【火種:暴徒固定】

【火種:王宮鎮圧正当化】

【火種:返事要求の犯罪化】

【火種:ベルクによる秩序回復演出】


 ぞっとした。


 彼は、塔の声を使って「民は危険だ」と証明しようとしている。


 それは嘘ではない。


 確かに、危険な声はある。


 投石を煽った声。


 集合を煽った声。


 誰かを断罪しろと叫んだ声。


 それらは存在する。


 でも、それだけではない。


 返事を求めた声もあった。


 助けを求めた声も。


 待ち続けた声も。


 ベルク様は、それらを出さない。


 危険な声だけを出せば、民は危険に見える。


 王宮の統制は、必要に見える。


 完璧な物語だ。


 美しくて、吐き気がする。


「やめてください」


「なぜです」


「それは、声の切り抜きです」


「危険な声を危険だと示すだけです」


「違います。危険になった理由を消している」


「理由をすべて公開すれば、国は燃えます」


「危険な声だけ公開しても、国は燃えます。燃える相手が変わるだけです」


 ベルク様は、少しだけ首を傾げた。


「変わるなら、有効です」


「人を燃やす先を選ぶな!」


 声が地下に響いた。


 自分の声だった。


 荒い。


 整っていない。


 美しくない。


 広報官の声ではない。


 ベルク様は、私を見た。


 私は肩で息をしていた。


 手元の台本が、ぐしゃりと少し曲がっている。


 まだ握り潰してはいない。


 それは第93話まで残すべき紙だ。


 でも、指はもう耐えきれずに跡をつけていた。


 私は、必死で息を整えた。


 まだだ。


 まだ最終爆発ではない。


 今は、見る。


 知る。


 記録する。


「ベルク様」


「はい」


「塔の全記録へ、私もアクセスできますか」


「広報官権限ではできません」


「では、誰なら」


「王、宰相、宰相補佐、民声整理責任者」


「民声整理責任者」


「現在は私です」


 つまり、彼が鍵だ。


 そして彼は、鍵を渡さない。


 王宮は聞いていた。


 けれど、返事をしなかった。


 その証拠がここにある。


 でも、公開する権限は、声を整理してきた人間が握っている。


 悪い冗談だ。


 冗談なら、もう少し笑えるものにしてください。


 広報局員の胃に配慮を。


 私は記録水晶に触れた。


 録音は続いている。


 しかし、塔の内部記録は取れない。


 見えているものを、私の言葉で記録するしかない。


 その時、背後の階段から足音がした。


 軽い足音ではない。


 慎重で、重い。


「リディア」


 カイル様の声だった。


 振り向く。


 彼は階段の途中に立っていた。


 剣を帯びている。


 でも、抜いていない。


 約束を破った顔をしていた。


「退路を守るのでは」


「守っている。ここが退路だ」


「屁理屈を覚えましたね」


「お前のせいだ」


 こんな時に、少しだけ笑いそうになった。


 でも、すぐにカイル様の視線が塔へ向かう。


 彼の顔から表情が消えた。


 塔に浮かんでいる文字。


『北方第三砦、援軍要請』


『前辺境伯ヴァレンシュタイン、再照会』


 カイル様は、動かなかった。


 手は剣に触れない。


 でも、指先が震えている。


 私は息を呑んだ。


「カイル様」


 彼は塔を見ていた。


 長く。


 長く。


 その沈黙が、痛かった。


 ベルク様が静かに言う。


「北方の件も、塔は記録しています」


 カイル様の顎がわずかに動いた。


 怒りが、そこにある。


 第56話の怒り。


 机を割った怒り。


 剣へ向かった怒り。


 でも、彼は剣に触れなかった。


 代わりに、塔へ一歩近づいた。


「父の声か」


 短い。


 でも、逃げていない。


 塔の文字が揺れる。


 カイル様は目を閉じた。


 そして、開いた。


「読め」


 私に言った。


「全部は読めません」


「読める分だけ」


「……はい」


 私は、塔の文字を読み上げた。


『北方第三砦、援軍要請。魔獣群南下。民間退避困難』


『再要請。王都判断待ち。砦維持困難』


『王都新聞にて、北方辺境伯、混乱を招く動きとの見出し。事実と異なる。訂正求む』


『援軍判断遅延について照会。回答求む』


 読みながら、声が震えた。


 カイル様は、黙って聞いた。


 最後まで。


 途中で止めなかった。


 逃げなかった。


 やがて彼は、低く言った。


「届いていた」


 私は答えられなかった。


「王都は、聞いていた」


「……はい」


「返事は」


 私は塔を見た。


 そこに浮かぶ処理記録。


『混乱防止のため、回答保留』


 最悪の言葉。


 何度も見た。


 前世でも。


 この世界でも。


 カイル様も、それを見た。


 空気が、凍った。


 でも彼は、机を割らなかった。


 剣を抜かなかった。


 ただ、息を吐いた。


 とても長く。


「そうか」


 それだけだった。


 それだけだから、痛かった。


 ベルク様が言う。


「だからこそ、私は――」


「黙れ」


 カイル様の声は短かった。


 低く、鋭い。


 でも、剣ではない。


 言葉だった。


「俺の父を、お前の秩序の証拠に使うな」


 ベルク様が、初めて完全に黙った。


 私は、カイル様を見た。


 彼は塔を見ている。


 怒っている。


 悲しんでいる。


 でも、壊れていない。


 第56話とは違う。


 彼は今、言葉の外へ出ていない。


 言葉の中に立っている。


「リディア」


「はい」


「これは、何だ」


 私は答えようとして、止まった。


 民声の塔。


 古代装置。


 王宮の収集設備。


 情報管理装置。


 どれも正しい。


 でも、違う。


 私は塔を見上げた。


 そこには、返事を待つ声があった。


 まだ第92話の言葉には届かない。


 でも、答えの輪郭は見えている。


「王宮が聞いて、返事をしなかった声です」


 カイル様は頷いた。


「なら、燃えて当然だ」


 その言葉に、胸が痛んだ。


 当然。


 でも、燃えた先で怪我をする人がいる。


 燃やされた名前がある。


 燃料にされた怒りがある。


 だから、ただ「当然」では終われない。


 ベルク様は、再び塔へ手を向けた。


「ですから、燃えないよう整理する必要があるのです」


「違います」


 私は即答した。


 今度は迷わなかった。


「燃えないようにするために、声を選んで出すのではありません。燃えている理由を見なければ、また同じ場所が燃えます」


「すべて見せれば、制御不能になります」


「制御することだけを目的にしたから、ここまで溜まったんです」


 塔が明滅する。


 声が増える。


 国中の水晶へ、接続準備が進んでいる。


 ベルク様は、まだ実行していない。


 でも、指先一つでできる。


 危険な声だけを流すことも。


 都合のいい順序で真実を並べることも。


 民衆を危険な存在として固定することも。


 私は急いで考える。


 止める方法。


 切断。


 封印。


 公開停止。


 全部、火種が見える。


【火種:隠蔽継続】

【火種:ベルク側の証拠破棄主張】

【火種:王宮による民声封鎖】

【火種:地下施設制圧疑惑】


 駄目だ。


 ただ止めるだけでは、ベルク様と同じになる。


 都合の悪い声を閉じ込めるだけだ。


 では、どうする。


 全部公開?


 駄目だ。


 証人が危ない。


 名前が燃える。


 地方で報復が起きる。


 火種が多すぎる。


 完璧な正解がない。


 最悪だ。


 危機対応の現場では、完璧な選択肢がない時が一番胃に悪い。


 あるのは、燃え方の違う失敗だけ。


 私は塔の声を聞いた。


『返事をください』


『届いていますか』


『誰か見ていますか』


『何度も送っています』


『もう冬です』


『子どもが』


『父が』


『名前を』


『返事を』


 返事。


 そうだ。


 この塔の問題は、聞いたことだけではない。


 聞いて、返事をしなかったことだ。


 なら、必要なのは、今この瞬間に全てを暴くことではない。


 返事を始めると宣言すること。


 でも、それはまだ早い。


 第93話で、私はその言葉を自分の言葉にしなければならない。


 今は、その前の地獄を見ている。


 私はベルク様を見た。


「あなたは、この塔で最後の偽情報を流すつもりですね」


「偽情報ではありません」


「では、最後の切り抜きです」


「危険な声を危険だと示すことは、切り抜きではありません」


「理由を消せば、切り抜きです」


 ベルク様は微笑む。


「では、あなたならどうしますか」


 問い。


 罠。


 同時に、正しい問い。


 私は答えられなかった。


 今の私には、まだ答えられない。


 完璧な声明文ならある。


 でも、この塔には足りない。


 私自身の言葉も、まだ震えている。


 カイル様が隣に立った。


「今、答えなくていい」


 短い声。


 驚いて横を見る。


 彼は塔から目を離さずに言った。


「見るのが先だ」


 私は息を呑んだ。


 その通りだ。


 火元を見る。


 まだ、全部見ていない。


 ベルク様の言葉に急かされて、答えを出そうとしていた。


 私は危機対応係だ。


 火があると、すぐ消したくなる。


 火を見たら、すぐ文を書きたくなる。


 それが強みで、弱さだ。


「……ありがとうございます」


 カイル様は小さく頷いた。


「倒れるな」


「努力します」


「信用できない」


「定型句になってませんか」


「有効だ」


「ベルク様用語を使わないでください。燃えます」


 カイル様がほんの少し眉を動かした。


 笑った、のかもしれない。


 この状況で。


 心臓に悪い。


 ベルク様は、そんな私たちを見ていた。


「では、見ますか」


 彼が塔へ手をかざす。


「この国の声を」


 塔が、さらに強く光った。


 今度は文字ではなく、声そのものが地下に満ちる。


 何百。


 何千。


 何万。


 小さな声が、重なり合う。


 怒号だけではない。


 泣き声だけでもない。


 祈り。


 雑談。


 諦め。


 皮肉。


 申請文。


 誤字だらけの請願。


 丁寧すぎる苦情。


 子どもの絵つきの手紙。


 老いた村長の震える筆跡。


 薬師の抗議。


 兵士の照会。


 商人の訴え。


 孤児院の不足一覧。


 神殿見習いの小さな告発。


 北方の鐘三回の記録。


 王都下町の税相談。


 水晶掲示板の匿名の叫び。


 王宮は、これを聞いていた。


 ずっと。


 ずっと、聞いていた。


 返事をしなかった。


 私は、台本を抱えたまま立ち尽くした。


 完璧な声明文が、どんどん軽くなる。


 そして同時に、重くなる。


 私の書く一文が、この声の前で何をできるのか。


 わからない。


 でも、何もしないことだけは、もうできない。


 ベルク様の声が、青い光の中で響いた。


「リディア・ノートン様」


「はい」


「民は、この声に耐えられません」


 塔の声が、さらに大きくなる。


 怒りが。


 悲しみが。


 返事を待つ声が。


 地下の空気を震わせる。


 私はその中で、初めて本当に理解しかけていた。


 これは、ただの炎上ではない。


 でも、その言葉を口にするには、まだ一歩足りない。


 私は、塔を見上げた。


 王宮は無知だったのではない。


 聞いていて、答えなかったのだ。


 その事実が、青い光となって地下に燃えていた。

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