民声の塔
王宮地下で、声が降っていた。
雨ではない。
水でもない。
けれど、確かに降っていた。
祈り。
怒り。
嘆き。
質問。
請願。
噂。
苦情。
言葉になりきれなかった息の震え。
それらが、淡い青の光を帯びて、巨大な水晶塔の中を流れている。
水晶塔。
そう呼ぶしかなかった。
王宮地下三層、旧広報記録庫のさらに奥。
石壁をくり抜いた円形の空間の中央に、天井へ届くほどの透明な塔が立っている。
塔の中には、水のような光が満ちていた。
その光は時折、文字になった。
また時折、声になった。
そして時折、火種になった。
【火種:王宮による民声収集】
【火種:未回答請願の蓄積】
【火種:情報統制の証拠】
【火種:王権信用崩壊】
【火種:民衆不満一斉噴出】
【火種:ベルクによる最終誘導】
胃が痛い。
いや、これはもう胃だけではない。
全身の内臓が一斉に辞表を書き始めている。
ただし、提出先はたぶん私だ。
やめてください。
今辞められたら困ります。
私も辞めたいですが。
ベルク様は、塔の前に立っていた。
完璧な姿勢。
乱れのない髪。
場違いなほど落ち着いた声。
まるで、地下で国家規模の倫理事故を起こしている最中ではなく、会議室で月次報告を読み上げている人のようだった。
「ようこそ、リディア・ノートン様」
私は階段の最後の一段を下りた。
手元には、会見用の完璧な声明台本。
責任範囲を限定し、被害状況を整理し、三つの偽情報を分解し、王宮の対応方針を示すための文書。
さっきまで、それは武器だった。
今は、妙に薄い紙束に見える。
この塔の前では、どんな声明も軽い。
「これは、何ですか」
声が少し掠れた。
ベルク様は、待っていた答えを渡すように穏やかに微笑んだ。
「民声の塔です」
名前が、落ちた。
それだけで、空気が変わる。
民声。
民の声。
王宮の標語が、頭の奥で勝手に響いた。
「王宮は、常に民の声を聞いております」
聞いております。
聞いて。
いる。
私は、塔を見上げた。
透明な水晶の中に、細い光の筋が何本も流れている。
水晶通信。
神殿への祈り。
地方役所の請願板。
商会の抗議記録。
王宮宛ての苦情。
新聞社へ送られた投書。
水晶掲示板の火種。
それらが、無数の管を通って、この場所へ集められていた。
私は、口の中が乾くのを感じた。
「王宮は……本当に聞いていたんですか」
「はい」
ベルク様は、ためらいなく答えた。
「比喩ではありません。歴代王宮は、この塔を通じて国中の声を把握してきました。災害の兆候、税への不満、地方官の腐敗、神殿への疑念、貴族家の横暴、商会の価格操作、辺境の孤立」
彼は水晶塔へ手をかざした。
塔の中の光が動く。
古い文字列が浮かび上がった。
『南部第三村、水害後の種籾支援未着。回答求む』
『東街道宿場、関所税二重徴収。調査願い』
『北方第五村、王都新聞にて反乱準備との噂。事実無根。訂正求む』
『神殿寄付金、孤児院へ未配分。照会願い』
『王都下町、薬価高騰。冬越し困難』
文字が流れる。
次々と。
速すぎて、全部は読めない。
それでも、一つ一つが人の声だった。
誰かが書いた。
誰かが送った。
誰かが待った。
私は喉の奥で息を止めた。
「これ、全部……王宮に届いていたんですか」
「届いていました」
「回答は」
ベルク様は、一拍置いた。
その沈黙だけで、答えはわかった。
でも、私は聞いた。
「回答は、どうなりました」
「分類されました」
「分類」
「緊急度、拡散可能性、暴動誘発度、地方統治影響度、王権信用影響度、発信者影響力、対処費用、放置許容期間」
言葉が整いすぎていて、吐き気がした。
分類。
便利な言葉だ。
人を棚にしまう時、とても役に立つ。
私は塔の根元へ近づいた。
床には古い魔法陣が刻まれている。
その周囲に、古い標語が彫られていた。
『民の声を聞き、国を保つ』
私はその文字を見つめた。
少し違う。
今の王宮標語とは違う。
民の声を聞き、国を保つ。
いつの間にか、後半だけが消えたのだろうか。
あるいは、都合よく短くされたのだろうか。
王宮は、常に民の声を聞いております。
聞いております。
返事をします、とは言っていない。
私は笑いそうになった。
笑えない。
いや、笑ったらたぶん泣く。
「聞くだけだったんですか」
「いいえ」
ベルク様は静かに否定した。
「必要なものには対応しました」
塔に別の記録が浮かぶ。
『西部小麦倉庫腐敗報告。暴動危険度高。即時食糧放出』
『南港疫病風聞。医師団派遣。神殿布告調整』
『王都橋梁崩落前兆。通行制限。商会補償』
「この塔によって救われた命もあります。暴動を防いだ例もあります。疫病拡大を抑えた例も。価格高騰を事前に調整した例も。民の声を聞くことで、王宮は何度も国を守ってきました」
「……だから、正しいと?」
「有効です」
出た。
ベルク様の好きな言葉。
有効。
私はその二文字を、心の中で赤字訂正した。
有効。
誰にとって。
何のために。
どこまで。
「対応しなかったものは」
「優先順位が低いものです」
「誰が決めたんですか」
「王宮です」
「王宮の誰が」
ベルク様は微笑んだ。
「時代によって異なります。王、宰相府、広報局、神殿監察、地方統括官。そして、現在は私です」
自白が丁寧すぎる。
録音水晶を設置したい。
いや、設置している。
私は袖の内側に仕込んだ記録水晶へ、指先で触れた。
地下へ降りる前に起動してある。
この会話は記録されている。
ただし、記録できることと、公開できることは違う。
そこが地獄である。
火種が濃くなる。
【火種:王宮中枢の責任】
【火種:歴代統治正当性への疑義】
【火種:ベルク単独責任化による逃げ道】
【火種:リディアによる暴露誘発】
【火種:民声の利用疑惑】
私は塔の光へ目を戻した。
古い請願が流れている。
『北方第三砦、援軍要請。王都判断待ち』
息が止まった。
塔の光が、ゆっくり形を変える。
文字は続く。
『北方第三砦、再要請。魔獣群増加。民間退避困難』
『北方第三砦、王都新聞にて混乱を招く動きとの報あり。訂正求む』
『前辺境伯ヴァレンシュタイン、援軍判断遅延について再照会』
カイル様の父。
あの人の声も。
ここに来ていた。
王都は聞いていた。
聞いていて。
遅れた。
私は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
第56話のカイル様の声が蘇る。
「またか」
「また、王都は同じ言葉で人を殺すのか」
「父の時もそうだった」
「混乱を避けるため、と書かれた」
「援軍は遅れた」
「父は死んだ」
私は、塔の文字から目をそらせなかった。
ベルク様は、私の反応を見ている。
静かに。
観察するように。
「その件は、悲劇でした」
私は振り向いた。
声が自分でも驚くほど低かった。
「悲劇」
「はい」
「分類では」
「当時の記録では、北方軍事行動による王都不安拡大可能性が高く、援軍派遣を即断した場合、反乱誤認および貴族間軍事衝突の危険があったとされています」
「人が死んでいます」
「死者は出ました」
違う。
その言い方。
死者は出ました。
被害が発生しました。
混乱が確認されました。
責任が曖昧になる言い方。
前世で、嫌というほど書いた。
書かされた。
いや、書いた。
私も。
「死者が出た、ではありません」
私は言った。
「カイル様のお父様が死にました。北方の兵が死にました。名前のある人が死にました」
ベルク様の表情は変わらない。
「名前を出せば、怒りが個人へ向かいます」
「名前を消せば、悲しみがどこにも行けなくなります」
「だから、整理が必要です」
「整理されたまま、返事はされなかった」
塔の奥で、別の声が響いた。
文字ではない。
祈りに近い、古い声。
『返事はまだか』
すぐに別の声。
『見ました、という印だけでも』
また別の声。
『冬までにお願いします』
『子どもが熱を出しています』
『この税は二重です』
『新聞に書かれたことは違います』
『神殿に聞いても戻されました』
『王宮に届いていますか』
『返事をください』
私は耳を塞ぎたくなった。
塞いではいけない。
火元を見る。
燃えている人ではなく、火をつけた場所を。
でも、火元が声なら。
声を見続けることは、こんなに痛いのか。
ベルク様は、塔へ向き直った。
「民声の塔は優秀な装置です。感情の温度、地域ごとの不満傾向、拡散可能性、暴動誘発語句。すべて読み取れる」
「民声を、燃料みたいに言わないでください」
「実際、燃料です」
即答だった。
あまりに静かで、背筋が冷えた。
「怒りは燃料です。不安は導線です。噂は火花です。祈りは時に鎮静剤となり、時に群衆を動かす号令となる。新聞は風です。王宮声明は防火壁にも油にもなる」
「人は、火災用語で管理するものではありません」
「あなたは火種を見ている」
返せなかった。
ベルク様は、穏やかに続ける。
「あなたも同じです、リディア・ノートン様。言葉の中に火を見る。燃え方を予測する。どこで遮断すべきか考える。何を公開し、何を伏せるか決める。民衆の感情を、危機対応として扱う」
違う。
そう言いたい。
でも、完全には違わない。
私はずっと、火種を見ていた。
言葉を、危険度で見てきた。
誰かの怒りを、リスクとして扱ったことがある。
エレオノーラ様を、炎上要素の中心と見た。
ミリア様を、守りやすい被害者にしようとした。
カイル様の怒りを、見出し化リスクとして止めた。
民衆の集合を、群衆圧力として整理した。
必要だった。
でも、それだけでは足りなかった。
私は唇を噛んだ。
「私は、間違えます」
「ええ」
「あなたと違って、間違えたことを記録します」
ベルク様の目が、わずかに細くなった。
初めて、微笑みの温度が下がった。
「記録すれば許されると?」
「許されません。でも、消さずに済みます」
「消さないことは、時に残酷です」
「消すことも、残酷です」
塔の光がまた揺れた。
今度は、王都下町の苦情。
『東七番孤児院、冬毛布未着。昨年も未着。確認求む』
リナ。
第24話で、孤児院の子が言った。
「ミリア様は、ちゃんと私の名前を呼んでくれた」
でも冬の毛布は来なかった。
塔には届いていた。
王宮は聞いていた。
返事は、しなかった。
次に、北方の請願。
『北方第五村、補助金遅延により給与未払い。父の手紙、未回答。再提出』
トマ。
「でも、王都は父ちゃんの手紙を読まなかった」
違う。
読まなかったのではない。
届いていた。
分類されていた。
回答されなかった。
その方が、ずっと重い。
さらに、神殿裏通り。
『薬師セラ、神殿寄付金流用疑義。抗議文三通。神殿側より回答なし。王宮監察へ転送希望』
セラ。
ミリア様が第88話で呼んだ名。
塔は、その名前を知っていた。
王宮も。
私は膝から力が抜けそうになった。
手すりに掴まる。
ベルク様は、それを見ても助けない。
助けない代わりに、説明する。
彼らしい。
「ご覧の通り、声は届いています」
「届いて、なぜ止まったんですか」
「すべてに返事をすれば、国は維持できません」
「返事をしなければ、国は何を維持していたんですか」
「秩序です」
「誰の」
「王国の」
「名前がない」
私の声が震えた。
「あなたの言葉には、いつも名前がない」
ベルク様は黙った。
塔の光が、彼の横顔を青く照らす。
美しい横顔だった。
整っていて、冷たい。
紙面に載せれば、たぶん「沈着冷静な宰相補佐」と書かれる。
見出しは人を騙す。
私はそれを知っている。
「ベルク様」
「はい」
「リュセ川上流域の声も、ここにありますか」
彼の指が、初めてわずかに止まった。
リュセ川。
彼の過去。
暴動。
妹の手紙。
リーナ。
ベルク様が、ほんの少しだけ目を伏せる。
「あります」
「見せてください」
「必要ありません」
「見せてください」
「リディア様」
「あなたが、民は真実に耐えられないと決めた場所でしょう。そこから見せてください」
沈黙。
長い沈黙だった。
塔の中では、数え切れない声が流れ続けている。
その中で、ベルク様だけが静止したように見えた。
やがて彼は、塔へ手を伸ばした。
光が変わる。
古い記録が浮かぶ。
『リュセ川上流、穀物倉庫不足。支援要請』
『リュセ川上流、商会買い占め疑義。調査願い』
『リュセ川上流、神殿救済布告と実配布数不一致』
『リュセ川上流、噂拡大。領主が穀物を隠しているとの情報』
『リュセ川上流、群衆形成。鎮静声明要請』
そして。
『ベルク兄様へ』
その文字が浮かんだ瞬間、塔の音が少しだけ変わった。
柔らかく。
古く。
痛い。
『返事をください』
それだけだった。
短い。
短すぎる。
でも、逃げていない言葉。
私は喉が詰まった。
ベルク様は塔を見上げている。
顔は変わらない。
でも、指先だけが白い。
「あなたにも、返事が届かなかった」
私は言った。
ベルク様は答えない。
「だから、全員に返事をしない仕組みを作ったんですか」
「違います」
声が少し低くなった。
「私は、返事が遅れることで人が死ぬことを知りました。だから、返事の前に燃えない状態を作る必要があると学んだのです」
「燃えない状態」
「はい」
「それは、黙らせることですか」
「安定させることです」
「違う言葉で包んだだけです」
「言葉で包まなければ、人は傷つきます」
「包みすぎて、窒息します」
ベルク様の視線が私へ向いた。
静かな目。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと厄介なもの。
確信。
「あなたは、まだ声を信じすぎています」
「あなたは、声を信じなさすぎています」
「声は人を殺します」
「沈黙も人を殺します」
その瞬間、塔が大きく震えた。
青い光が、地下全体に広がる。
壁の水晶管が一斉に明滅した。
外へ接続している。
王都の水晶掲示板へ。
神殿の祈り水晶へ。
地方役場の連絡水晶へ。
新聞社の受信用水晶へ。
国中へ。
私は塔の変化を見て、息を呑んだ。
「何をするつもりですか」
「公開します」
ベルク様は穏やかに言った。
「民声の一部を」
「一部」
「はい。適切な順序で」
嫌な言葉。
適切な順序。
有用な真実だけを並べる。
彼のやり方だ。
嘘をつかない。
ただ、真実を使う順番を支配する。
「どの声を」
「今回の暴動化に関与した危険な声です」
塔に文字が浮かぶ。
『公爵家を許すな』
『神殿へ集まれ』
『北門を押し開けろ』
『王宮は隠している』
『聖女を返せ』
『辺境伯は王都を脅す』
私は火種を見た。
【火種:民衆敵視】
【火種:暴徒固定】
【火種:王宮鎮圧正当化】
【火種:返事要求の犯罪化】
【火種:ベルクによる秩序回復演出】
ぞっとした。
彼は、塔の声を使って「民は危険だ」と証明しようとしている。
それは嘘ではない。
確かに、危険な声はある。
投石を煽った声。
集合を煽った声。
誰かを断罪しろと叫んだ声。
それらは存在する。
でも、それだけではない。
返事を求めた声もあった。
助けを求めた声も。
待ち続けた声も。
ベルク様は、それらを出さない。
危険な声だけを出せば、民は危険に見える。
王宮の統制は、必要に見える。
完璧な物語だ。
美しくて、吐き気がする。
「やめてください」
「なぜです」
「それは、声の切り抜きです」
「危険な声を危険だと示すだけです」
「違います。危険になった理由を消している」
「理由をすべて公開すれば、国は燃えます」
「危険な声だけ公開しても、国は燃えます。燃える相手が変わるだけです」
ベルク様は、少しだけ首を傾げた。
「変わるなら、有効です」
「人を燃やす先を選ぶな!」
声が地下に響いた。
自分の声だった。
荒い。
整っていない。
美しくない。
広報官の声ではない。
ベルク様は、私を見た。
私は肩で息をしていた。
手元の台本が、ぐしゃりと少し曲がっている。
まだ握り潰してはいない。
それは第93話まで残すべき紙だ。
でも、指はもう耐えきれずに跡をつけていた。
私は、必死で息を整えた。
まだだ。
まだ最終爆発ではない。
今は、見る。
知る。
記録する。
「ベルク様」
「はい」
「塔の全記録へ、私もアクセスできますか」
「広報官権限ではできません」
「では、誰なら」
「王、宰相、宰相補佐、民声整理責任者」
「民声整理責任者」
「現在は私です」
つまり、彼が鍵だ。
そして彼は、鍵を渡さない。
王宮は聞いていた。
けれど、返事をしなかった。
その証拠がここにある。
でも、公開する権限は、声を整理してきた人間が握っている。
悪い冗談だ。
冗談なら、もう少し笑えるものにしてください。
広報局員の胃に配慮を。
私は記録水晶に触れた。
録音は続いている。
しかし、塔の内部記録は取れない。
見えているものを、私の言葉で記録するしかない。
その時、背後の階段から足音がした。
軽い足音ではない。
慎重で、重い。
「リディア」
カイル様の声だった。
振り向く。
彼は階段の途中に立っていた。
剣を帯びている。
でも、抜いていない。
約束を破った顔をしていた。
「退路を守るのでは」
「守っている。ここが退路だ」
「屁理屈を覚えましたね」
「お前のせいだ」
こんな時に、少しだけ笑いそうになった。
でも、すぐにカイル様の視線が塔へ向かう。
彼の顔から表情が消えた。
塔に浮かんでいる文字。
『北方第三砦、援軍要請』
『前辺境伯ヴァレンシュタイン、再照会』
カイル様は、動かなかった。
手は剣に触れない。
でも、指先が震えている。
私は息を呑んだ。
「カイル様」
彼は塔を見ていた。
長く。
長く。
その沈黙が、痛かった。
ベルク様が静かに言う。
「北方の件も、塔は記録しています」
カイル様の顎がわずかに動いた。
怒りが、そこにある。
第56話の怒り。
机を割った怒り。
剣へ向かった怒り。
でも、彼は剣に触れなかった。
代わりに、塔へ一歩近づいた。
「父の声か」
短い。
でも、逃げていない。
塔の文字が揺れる。
カイル様は目を閉じた。
そして、開いた。
「読め」
私に言った。
「全部は読めません」
「読める分だけ」
「……はい」
私は、塔の文字を読み上げた。
『北方第三砦、援軍要請。魔獣群南下。民間退避困難』
『再要請。王都判断待ち。砦維持困難』
『王都新聞にて、北方辺境伯、混乱を招く動きとの見出し。事実と異なる。訂正求む』
『援軍判断遅延について照会。回答求む』
読みながら、声が震えた。
カイル様は、黙って聞いた。
最後まで。
途中で止めなかった。
逃げなかった。
やがて彼は、低く言った。
「届いていた」
私は答えられなかった。
「王都は、聞いていた」
「……はい」
「返事は」
私は塔を見た。
そこに浮かぶ処理記録。
『混乱防止のため、回答保留』
最悪の言葉。
何度も見た。
前世でも。
この世界でも。
カイル様も、それを見た。
空気が、凍った。
でも彼は、机を割らなかった。
剣を抜かなかった。
ただ、息を吐いた。
とても長く。
「そうか」
それだけだった。
それだけだから、痛かった。
ベルク様が言う。
「だからこそ、私は――」
「黙れ」
カイル様の声は短かった。
低く、鋭い。
でも、剣ではない。
言葉だった。
「俺の父を、お前の秩序の証拠に使うな」
ベルク様が、初めて完全に黙った。
私は、カイル様を見た。
彼は塔を見ている。
怒っている。
悲しんでいる。
でも、壊れていない。
第56話とは違う。
彼は今、言葉の外へ出ていない。
言葉の中に立っている。
「リディア」
「はい」
「これは、何だ」
私は答えようとして、止まった。
民声の塔。
古代装置。
王宮の収集設備。
情報管理装置。
どれも正しい。
でも、違う。
私は塔を見上げた。
そこには、返事を待つ声があった。
まだ第92話の言葉には届かない。
でも、答えの輪郭は見えている。
「王宮が聞いて、返事をしなかった声です」
カイル様は頷いた。
「なら、燃えて当然だ」
その言葉に、胸が痛んだ。
当然。
でも、燃えた先で怪我をする人がいる。
燃やされた名前がある。
燃料にされた怒りがある。
だから、ただ「当然」では終われない。
ベルク様は、再び塔へ手を向けた。
「ですから、燃えないよう整理する必要があるのです」
「違います」
私は即答した。
今度は迷わなかった。
「燃えないようにするために、声を選んで出すのではありません。燃えている理由を見なければ、また同じ場所が燃えます」
「すべて見せれば、制御不能になります」
「制御することだけを目的にしたから、ここまで溜まったんです」
塔が明滅する。
声が増える。
国中の水晶へ、接続準備が進んでいる。
ベルク様は、まだ実行していない。
でも、指先一つでできる。
危険な声だけを流すことも。
都合のいい順序で真実を並べることも。
民衆を危険な存在として固定することも。
私は急いで考える。
止める方法。
切断。
封印。
公開停止。
全部、火種が見える。
【火種:隠蔽継続】
【火種:ベルク側の証拠破棄主張】
【火種:王宮による民声封鎖】
【火種:地下施設制圧疑惑】
駄目だ。
ただ止めるだけでは、ベルク様と同じになる。
都合の悪い声を閉じ込めるだけだ。
では、どうする。
全部公開?
駄目だ。
証人が危ない。
名前が燃える。
地方で報復が起きる。
火種が多すぎる。
完璧な正解がない。
最悪だ。
危機対応の現場では、完璧な選択肢がない時が一番胃に悪い。
あるのは、燃え方の違う失敗だけ。
私は塔の声を聞いた。
『返事をください』
『届いていますか』
『誰か見ていますか』
『何度も送っています』
『もう冬です』
『子どもが』
『父が』
『名前を』
『返事を』
返事。
そうだ。
この塔の問題は、聞いたことだけではない。
聞いて、返事をしなかったことだ。
なら、必要なのは、今この瞬間に全てを暴くことではない。
返事を始めると宣言すること。
でも、それはまだ早い。
第93話で、私はその言葉を自分の言葉にしなければならない。
今は、その前の地獄を見ている。
私はベルク様を見た。
「あなたは、この塔で最後の偽情報を流すつもりですね」
「偽情報ではありません」
「では、最後の切り抜きです」
「危険な声を危険だと示すことは、切り抜きではありません」
「理由を消せば、切り抜きです」
ベルク様は微笑む。
「では、あなたならどうしますか」
問い。
罠。
同時に、正しい問い。
私は答えられなかった。
今の私には、まだ答えられない。
完璧な声明文ならある。
でも、この塔には足りない。
私自身の言葉も、まだ震えている。
カイル様が隣に立った。
「今、答えなくていい」
短い声。
驚いて横を見る。
彼は塔から目を離さずに言った。
「見るのが先だ」
私は息を呑んだ。
その通りだ。
火元を見る。
まだ、全部見ていない。
ベルク様の言葉に急かされて、答えを出そうとしていた。
私は危機対応係だ。
火があると、すぐ消したくなる。
火を見たら、すぐ文を書きたくなる。
それが強みで、弱さだ。
「……ありがとうございます」
カイル様は小さく頷いた。
「倒れるな」
「努力します」
「信用できない」
「定型句になってませんか」
「有効だ」
「ベルク様用語を使わないでください。燃えます」
カイル様がほんの少し眉を動かした。
笑った、のかもしれない。
この状況で。
心臓に悪い。
ベルク様は、そんな私たちを見ていた。
「では、見ますか」
彼が塔へ手をかざす。
「この国の声を」
塔が、さらに強く光った。
今度は文字ではなく、声そのものが地下に満ちる。
何百。
何千。
何万。
小さな声が、重なり合う。
怒号だけではない。
泣き声だけでもない。
祈り。
雑談。
諦め。
皮肉。
申請文。
誤字だらけの請願。
丁寧すぎる苦情。
子どもの絵つきの手紙。
老いた村長の震える筆跡。
薬師の抗議。
兵士の照会。
商人の訴え。
孤児院の不足一覧。
神殿見習いの小さな告発。
北方の鐘三回の記録。
王都下町の税相談。
水晶掲示板の匿名の叫び。
王宮は、これを聞いていた。
ずっと。
ずっと、聞いていた。
返事をしなかった。
私は、台本を抱えたまま立ち尽くした。
完璧な声明文が、どんどん軽くなる。
そして同時に、重くなる。
私の書く一文が、この声の前で何をできるのか。
わからない。
でも、何もしないことだけは、もうできない。
ベルク様の声が、青い光の中で響いた。
「リディア・ノートン様」
「はい」
「民は、この声に耐えられません」
塔の声が、さらに大きくなる。
怒りが。
悲しみが。
返事を待つ声が。
地下の空気を震わせる。
私はその中で、初めて本当に理解しかけていた。
これは、ただの炎上ではない。
でも、その言葉を口にするには、まだ一歩足りない。
私は、塔を見上げた。
王宮は無知だったのではない。
聞いていて、答えなかったのだ。
その事実が、青い光となって地下に燃えていた。




