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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
王都大炎上

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真実は、遅れても届く

 号外は、走る。


 人より速く。


 噂より遅く。


 けれど、走る。


 灯火新聞の配達員たちが、王宮前広場を駆け抜けた。


 肩から提げた布袋には、刷りたての紙束。


 インクはまだ乾ききっていない。


 紙の端は少し湿っていて、触れると指が黒くなる。


 それでも、人々は手を伸ばした。


「号外だ!」


「辺境伯軍、進軍せず!」


「偽旗って何だ!」


「補助金遅延って書いてあるぞ!」


「前辺境伯の援軍要請記録……?」


 声が、紙の上に落ちる。


 怒り。


 驚き。


 疑い。


 安堵。


 全部が混ざっている。


 炎上対応係としては、感情の混合燃料は非常に胃に悪い。


 単一燃料でも困るのに、混合燃料は燃え方が読めない。


 しかも王都全域。


 誰か、胃薬を広域配布してください。


 ただし、効能表示は慎重に。


『一粒で国政不安解消』などと書いたら、私が自分で摘発します。


 私は王宮前広場を見渡した。


 人々の動きが、少しだけ変わっている。


 さっきまで、群衆は一つの塊だった。


 押し合い、怒鳴り合い、誰かの名前を叫び、どこかへ向かおうとしていた。


 公爵邸へ。


 神殿へ。


 北門へ。


 わかりやすい火元へ。


 けれど今は、紙を読むために足が止まっている。


 止まる。


 それだけで、人は少しだけ人に戻る。


 走っている時、人は確認しない。


 読む時、人は少しだけ呼吸する。


 号外の一面には、大きく見出しが躍っていた。


『辺境伯軍、進軍せず』


『北門偽旗、正規軍旗と不一致』


『前北方辺境伯援軍要請記録、公開へ』


『三偽情報の構造、順次検証』


 そして、灯火新聞らしく、紙面の中央近くに大きな訂正欄がある。


 訂正欄が主役。


 新聞界の地味な革命だ。


 編集長が泣きながら喜びそうな地味さである。


 いや、たぶん実際に泣いている。


 横を見ると、編集長が鼻をすすりながら輪転魔導機に追加指示を飛ばしていた。


「訂正欄をもっと太く! 本文より目立たせろ!」


「編集長、それはもう新聞というより訂正板です!」


「今日は訂正が本文だ!」


 いい声だった。


 私は思わず小さく頷く。


 そうだ。


 今日は訂正が本文だ。


 今まで小さく押し込まれていたものが、初めて前に出る。


 広報局員の一人が、私の横で号外を抱きしめて泣いていた。


「リディアさん……訂正欄が……訂正欄がこんなに大きく……」


「泣くところですか」


「地味な勝利ですね……」


「地味です。でも、こういう勝利が一番胃に優しいです」


「胃に優しい勝利、初めて聞きました」


「私も初めて言いました」


 でも、その言葉を言い終える前に、視界の端で火種が跳ねた。


【火種:王宮責任追及】

【火種:北方差別再燃】

【火種:新聞社不信拡大】

【火種:神殿情報操作疑惑】

【火種:群衆再移動】

【火種:怒りの矛先喪失】


 消えていない。


 当たり前だ。


 号外一枚で国が救えるなら、私の職場はここまで胃薬臭くない。


 真実は、遅れても届く。


 でも、届いたからといって、すぐ治るわけではない。


 遅すぎた真実は、時々、薬ではなく診断書になる。


 もう怪我をした後に、病名がわかるようなものだ。


 広場の隅で、男が窓枠を抱えて座っていた。


 公爵邸近くの商家の主人だ。


 先ほど、噂に煽られた人々が走った時、店の窓が割れた。


 本人は怪我をしていない。


 だが、店の中の商品棚は倒れ、妻が腕を切ったと聞いた。


 彼は号外を読んで、笑っていなかった。


「進軍してなかったのか」


 その声は、怒りでも安堵でもなかった。


 ただ、疲れていた。


「じゃあ、うちの窓は何で割れたんだ」


 誰も答えられなかった。


 少し離れた場所では、神殿前から避難してきた老婆が、祈り布を膝に置いたまま泣いていた。


「ミリア様が無事でよかった」


 そのあと、彼女は小さく続けた。


「でも、隣の子が押されて転んだの。額を切って……あれも嘘だったら戻るのかい」


 戻らない。


 嘘だったからといって、怪我は消えない。


 噂だったからといって、怖かった時間はなかったことにならない。


 王宮記録官が、怪我人の一覧を持って走ってくる。


「リディア殿、現時点での負傷報告です。公爵邸前で軽傷七名、神殿前で転倒による負傷十四名、北門付近で荷車同士の接触事故三件。重傷は確認中です」


「確認中、ですか」


「はい。まだ増えます」


 増える。


 嫌な言葉だ。


 炎上対応で増えていい数字は、訂正到達数と休憩人数くらいである。


 負傷者数は増えてはいけない。


 私は喉の奥を押さえた。


 会見は成功しつつある。


 エレオノーラ様は民衆を悪と決めつけず、悪役令嬢の台本を自分で書き換えた。


 ミリア様は「皆さま」をやめ、名前を呼んだ。


 カイル様は剣を抜かず、文書と言葉で守った。


 灯火新聞は号外を出した。


 全員が、積み上げてきたものを使った。


 それでも、怪我人はいる。


 窓は割れた。


 恐怖は残った。


 私は勝利声明を書けなかった。


 紙を前にして、手が止まる。


 いつもの癖で、冒頭だけは浮かぶ。


『本会見および灯火新聞号外により、三つの未確認情報について一定の訂正が進みました』


 違う。


 冷たい。


『王都各所で広がっていた混乱は、現在収束へ向かっています』


 違う。


 収束していない場所の人に失礼だ。


『ご安心ください』


 もっと違う。


 安心できない人に、安心しろと言うのは、火種に油どころか、揚げ油を樽で注ぐようなものだ。


 私のペン先が止まったまま、紙に黒い点を作る。


 広報局員が不安げに覗き込んだ。


「リディアさん?」


「勝利の言葉が書けません」


「勝利なんですか、これ」


 その一言に、私は顔を上げた。


 広報局員は、泣いたせいで目が赤いまま、号外と負傷者一覧を交互に見ている。


「号外は出ました。噂の一部は訂正されました。辺境伯様も、ミリア様も、エレオノーラ様も、すごかったです。でも……勝利って言ったら、窓を割られた人とか、押されて怪我した人とか、たぶん腹が立ちますよね」


 私は、少しだけ笑った。


「いい広報官になりましたね」


「褒められた気がしません」


「褒めています。胃痛を共有できる人材は貴重です」


「職場選びを間違えました」


「私も前世から間違えています」


 冗談を言っている場合ではない。


 でも、言わないと手が震える。


 私は新しい紙を引き寄せた。


 勝利声明ではない。


 状況報告。


 そして、謝罪の手前。


 まだ王宮の全面謝罪には届かない。


 それは第93話で、もっと大きな火になる。


 今ここで、責任を雑に限定してはいけない。


 けれど、被害をなかったことにはしない。


 私は書いた。


『現在、王都各所で流布した複数の未確認情報について、灯火新聞号外および王宮掲示水晶を通じ、確認済み情報の公開を開始しています』


『公爵家反逆、辺境伯軍進軍、元聖女候補ミリア・セレス襲撃に関する情報には、事実と異なる内容、事実の一部を誤って結合した内容、出所不明の偽情報が含まれていました』


『ただし、これにより発生した集合、移動、押し合い、投石、門前圧迫、通行停止、負傷、物損は、なかったことにはなりません』


 書きながら、胸が痛くなった。


 でも削らない。


『現在確認中の負傷者および被害については、王宮記録局、王都警備隊、灯火新聞立ち会いのもと記録し、順次公表します』


『未確認情報の訂正は、被害の否定ではありません』


『誤報だったから傷つかなかった、ということにはなりません』


 広報局員が息を呑んだ。


「リディアさん、これ、王宮責任に燃えませんか」


「燃えます」


「即答」


「燃えます。でも、ここを消すと、怪我した人が消えます」


「胃が痛いです」


「ようこそ本業へ」


 自分で言って、嫌になる。


 本業。


 火を消すだけではなく、燃えている人を数える仕事。


 正直、向いていない。


 でも、向いているかどうかで逃げられる段階は、とっくに過ぎている。


 私は続ける。


『王宮は、当該偽情報の発生経路、初期対応の遅れ、閉門理由文の不適切表現、回答保留記録について、担当部署および時刻を確認します』


『確認結果は、責任範囲を曖昧にしない形で公表します』


 ここで、手が止まった。


 責任範囲を曖昧にしない。


 いい言葉だ。


 でも、本当にできるのか。


 王宮は逃げる。


 貴族は怒る。


 神殿は祈る。


 新聞社は言い換える。


 誰もが、自分の責任を誰かの物語に混ぜて薄めようとする。


 私も、前世ではそうした。


 責任の輪郭を曖昧にした。


 混乱を避けるため。


 会社を守るため。


 顧客の不安に配慮するため。


 綺麗な言葉で、誰かの名前を消した。


 胸の奥が冷える。


 ベルク様は、私の中にもいる。


 その事実は、いつも静かに刺さる。


「リディア」


 声に振り向くと、エレオノーラ様が立っていた。


 最終会見の後とは思えないほど姿勢は美しい。


 でも、手袋の指先がわずかに歪んでいる。


 強く握りしめすぎたせいだ。


「お疲れですか」


「疲れていないと言えば嘘になりますわね」


 エレオノーラ様が、広場の人々を見た。


「悪役令嬢の最終公演は、観客が多すぎましたわ」


「石畳の客席は冷えましたか」


「ええ。あと、石は飛んでくるより紙面で読む方が好ましいです」


「全面的に同意します」


 彼女は号外を一枚手に取った。


 紙面の大きな訂正欄を見て、少しだけ目を細める。


「訂正欄がこれほど大きい新聞、初めて見ましたわ」


「編集長の夢が叶いました」


「地味な夢ですこと」


「地味な夢ほど、叶うと泣けます」


 エレオノーラ様は、そこで私の書きかけの声明を見た。


 目が、少しだけ柔らかくなる。


「勝利と書かなかったのね」


「書けませんでした」


「正解ですわ」


「正解ですか」


「ええ。私の屋敷の門前には、まだ石が落ちていますもの」


 私は何も言えなかった。


 エレオノーラ様は、いつものように微笑む。


 けれど、その微笑みは薄い。


「使用人の一人が、怖がって泣きました。彼女は、反逆など知りません。ただ、台所でスープを温めていただけです」


「……はい」


「号外が出て、噂が訂正されても、その子は今夜、門の音で眠れないでしょうね」


 真実は遅れて届く。


 でも、夜はすぐ来る。


 眠れない夜には、訂正文も届きにくい。


「リディア」


「はい」


「それでも、出して」


 私は顔を上げた。


 エレオノーラ様は号外を畳み、私へ差し出す。


「遅すぎても、届かないよりはいい。少なくとも、明日の朝、あの子が『自分たちは反逆者の屋敷の使用人だから石を投げられて当然だった』と思わずに済むかもしれない」


 胸が詰まる。


 エレオノーラ様は、続けた。


「真実は、怪我を消しません。でも、傷つけられた理由を嘘のままにしないことはできます」


 私は、深く頷いた。


「出します」


「ええ」


 エレオノーラ様は少しだけ笑った。


「それと、私の『悪役令嬢、最終公演』発言は、見出しにしないよう灯火新聞に釘を刺しておいてくださいませ」


「もう遅い気がします」


「リディア」


「努力します」


 正直、かなり遅い。


 灯火新聞の端に、すでに小さく『悪役令嬢、台本を拒否』と入っている。


 編集長、仕事が早い。


 余計なところまで早い。


 そこへ、ミリア様が記録官に付き添われて戻ってきた。


 顔色は白い。


 声を出しすぎたのか、喉を押さえている。


 でも、目は逃げていない。


「リディアさん」


「ミリア様。喉は」


「少し痛いです」


「水を」


 記録官がすぐに水を差し出す。


 ミリア様は両手で受け取り、小さく飲んだ。


 その仕草は、かつて神殿の壇上で祈りの姿勢を作らされていた少女とは違う。


 人前で水を飲む。


 ただそれだけなのに、本人の身体が本人のものに戻っていくように見えた。


 ミリア様は号外を見た。


「私の名前もありますね」


「はい。襲撃情報の訂正として」


「……訂正されて、よかったです」


 そう言ってから、彼女は広場の端に目を向けた。


 神殿前から運ばれてきた負傷者がいる場所。


 白い布で応急処置を受けている少女が、薬師に額を押さえられている。


 ミリア様の襲撃と誤認された、白い外套の見習い少女とは別の子だ。


 押し合いで転んだらしい。


「でも、あの子は怪我をしました」


「はい」


「私が生きています、と言っても、あの子の血は戻らないんですね」


 ミリア様の声は震えていた。


 私は、すぐに慰めそうになった。


 あなたのせいではありません。


 あなたはよくやりました。


 あなたは悪くありません。


 全部、言える。


 どれも一部は正しい。


 でも、今それを言えば、ミリア様の言葉をまた綺麗な被害者の箱に戻してしまう気がした。


 だから私は、少しだけ黙った。


 黙ることも、時には返事だ。


 ミリア様は水晶越しの広場を見ながら言った。


「私は、名前を呼びました」


「はい」


「リナさん、トマさん、セラさん」


「はい」


「でも、呼んでいない名前が、もっとたくさんあります」


 私は頷いた。


「あります」


「怖いです」


「私もです」


 ミリア様がこちらを見る。


 驚いたような顔だった。


 聖女候補に「怖くありません」と言わせてきた世界では、王宮広報官が怖がるのは不適切なのだろう。


 でも、私は怖い。


 全員の名前を呼べない。


 呼んだ名前から火が出るかもしれない。


 呼ばれなかった名前が、また沈むかもしれない。


 怖い。


 それでも、無かったことにはできない。


 ミリア様は、小さく息を吸った。


「次に話す時は、もっと確認してから呼びます」


「はい」


「知らない名前を、勝手に使わないように」


「はい」


「……昼食の話は、余計でしたか」


 私は即答した。


「必要でした」


 ミリア様が瞬きをする。


「本当に?」


「本当に。パンが好きな人は、勝手に殉教者にも、象徴にも、神殿の旗にもされにくくなります」


 エレオノーラ様が横から言った。


「パンは強いですわね」


「強いです。少なくとも、聖なる香油より実用性があります」


 ミリア様が、ほんの少しだけ笑った。


 その笑いは疲れていた。


 でも、本物だった。


 広場の別の側で、声が上がる。


「灯火新聞、こっちにも回してくれ!」


「読めない人に読み上げろ!」


「誰か、北方の記録のところを読んで!」


「公爵家の儀礼剣の訂正も載ってる!」


「神殿裏通りの負傷者はミリア様じゃないって!」


 紙が読める者が、読めない者へ読み上げる。


 文字が声になる。


 声が人の輪を作る。


 少し前まで、同じ輪は怒号を広げていた。


 今は、訂正を広げている。


 同じ人々だ。


 同じ喉だ。


 同じ足だ。


 悪意だけで動いていたわけではない。


 だからこそ、怖い。


 だからこそ、希望もある。


 カイル様はまだ壇上に残り、記者の質問に答えていた。


 長くはない。


 でも逃げていない。


「その補助金遅延記録に、宰相府の部署印がありますが、宰相補佐ベルク様の関与を示すものですか!」


 大手新聞社の記者が叫ぶ。


 カイル様は文書を見て、短く答える。


「示す可能性はある」


 会場がざわつく。


 危ない。


 断定ではない。


 だが、火種になる。


 私は補足紙を記録官へ渡す。


『現時点では、補助金遅延記録に宰相府関連部署の印章が確認されています』


『個人の関与については、署名、時刻、承認経路を照合中です』


『確認前に特定個人を断罪する表現は避けてください』


 カイル様が、私の補足を受け取って読んだ。


 読んだ。


 ちゃんと読んだ。


 そして、記者へ言い直す。


「個人の関与は照合中だ。確認前に断罪するな」


 短いが、正しい。


 広報局員が私の隣でまた泣きそうになった。


「辺境伯様が補足を……」


「泣くのは後にしてください」


「成長が眩しくて……」


「親戚ですか」


 でも、わかる。


 あの人が言葉で守っている。


 剣ではなく。


 沈黙でもなく。


 自分の短い言葉で。


 その時、地下通路側から二人目の伝令が駆け込んできた。


 今度は顔色が悪い。


 悪すぎる。


 胃薬では済まない顔だ。


「リディア殿!」


「嫌な予感がします」


「旧広報記録庫の封印が完全解除されました!」


 会場の音が、一瞬遠のく。


「完全解除?」


「はい。民声保全設備への接続水晶が起動状態です」


 民声保全設備。


 民の声を保全する設備。


 古い広報マニュアルにあった、曖昧な項目。


 王宮が昔から民の声を集めていた痕跡。


 でも、それが何を意味するのか、まだ完全にはわからない。


 いや。


 本当は、わかりかけている。


 わかりたくないだけだ。


「ベルク様は」


「地下三層へ向かわれたとのことです。同行者は確認できません」


「王宮警備は?」


「命令系統が混乱しています。宰相府から『民声保全設備の安全確認中、外部干渉を避けること』との指示が出ています」


「外部干渉」


 便利な言葉。


 つまり、近づくな。


 見るな。


 確認するな。


 情報を握っている側にとって、これほど都合のいい言葉はない。


 私の視界に火種が浮かぶ。


【火種:民声保全設備の秘匿】

【火種:ベルクによる最終情報発信】

【火種:王宮隠蔽疑惑】

【火種:民衆不満一斉噴出】

【火種:会見場放棄印象】

【火種:リディア単独暴走】


 胃が痛い。


 正確には、胃というより内臓全体が抗議文を提出している。


 私は息を吸った。


 ここで地下へ走れば、会見場を放棄したと見られる。


 ここに残れば、ベルク様が何をするかわからない。


 どちらも燃える。


 よくあることだ。


 よくあってほしくない。


 私は、カイル様を見た。


 彼も伝令の声を聞いていた。


 壇上から目だけで問いかけてくる。


 行くか。


 私は頷いた。


 行く。


 でも、ただ走るのではない。


 記録を残す。


 居場所を示す。


 会見を止めず、引き継ぐ。


 私は広報局員へ早口で指示を出す。


「会見場は継続。カイル様への質問は提示文書に限定。エレオノーラ様、公爵家関連の照合質問をお願いします。ミリア様は無理をしないでください。発言する場合は記録官を通して」


「はい!」


「灯火新聞には号外第二版の準備を。見出しはまだ決めない。決めないことを決めてください」


「決めないことを決める!」


「復唱しなくていいです!」


 エレオノーラ様が、扇を閉じた。


「地下へ行くのね」


「はい」


「ベルク様がいるのでしょう」


「おそらく」


「では、上品な言葉に騙されないで」


「努力します」


「あなた、時々、整った文章に弱いもの」


「痛いところを刺さないでください」


「火消しの前に釘刺しですわ」


 ミリア様が、私の袖を少しだけ掴んだ。


「リディアさん」


「はい」


「声が、たくさんある場所ですか」


 私は答えられなかった。


 まだ見ていない。


 まだ知らない。


 でも、胸の奥が知っている。


 そこには、たくさんの声がある。


 聞かれて、整理されて、返事をもらえなかった声が。


「たぶん」


 私は正直に答えた。


「たぶん、そうです」


 ミリア様は袖を離した。


「名前を消さないでください」


 その言葉が、まっすぐ刺さった。


「はい」


 カイル様が壇上から降りてきた。


「俺も行く」


「駄目です」


「なぜ」


「カイル様が地下へ向かえば、『辺境伯が王宮地下施設を制圧』になります」


「面倒だ」


「世論は面倒でできています」


「斬れないか」


「概念は斬らないでください。何度目ですか」


 カイル様は不満そうだった。


 けれど、剣には触れない。


 少し考え、短く言う。


「退路を守る」


「それは助かります」


「倒れるな」


「努力します」


「信用できない」


「今それを言いますか」


「今だから言う」


 私は、少しだけ笑った。


 心臓は早い。


 足も震えている。


 でも、笑えた。


「では、会見場をお願いします」


 カイル様は頷いた。


「読む」


 その一言が、今夜の彼らしかった。


 私は台本を抱えたまま、地下通路へ向かった。


 完璧な声明文は、まだ手元にある。


 きれいに整理され、責任範囲を慎重に限定し、火種を最小化する文章。


 私が書いた、優秀な武器。


 でも、地下へ降りる階段の前で、その紙束が急に重くなった。


 王宮の石壁は冷たい。


 階段の奥から、かすかな水晶の震動音がする。


 低く、長く。


 まるで、誰かが遠くでずっと話し続けているような音。


 私は一段降りた。


 その瞬間、壁の古い水晶が淡く光った。


 文字が浮かぶ。


『民声接続、再起動』


 次の水晶にも。


『地方請願記録、展開準備』


 さらに下の水晶にも。


『祈願声紋、同期開始』


 背筋が冷たくなる。


 これは、ただの記録庫ではない。


 ただの保全設備でもない。


 声を集めるものだ。


 王宮は、本当に聞いていた。


 聞くだけの仕組みを、持っていた。


 私は唇を噛んだ。


 まだ断定してはいけない。


 火元を見る。


 燃えている人ではなく、火をつけた場所を。


 でも、もし火元が王宮そのものなら。


 私たちは今まで、火元の中で火消しをしていたことになる。


 下から、誰かの声が聞こえた。


 丁寧で、静かな声。


「遅かったですね、リディア・ノートン様」


 ベルク様だ。


 階段の底で、淡い青の光が広がる。


 その中心に、巨大な水晶塔の影が見えた。


 細い水晶管が壁一面へ伸びている。


 水の流れるような音。


 囁き。


 祈り。


 苦情。


 怒鳴り声。


 泣き声。


 文字にならない声。


 全部が、低い震動になって王宮地下を満たしている。


 ベルク様は、その塔の前に立っていた。


 穏やかな顔で。


 正しい姿勢で。


 まるで、会議室で資料を読み上げるように。


「真実は遅れても届く、とお考えですか」


 私は階段の途中で立ち止まった。


 台本を抱えた手に力が入る。


 ベルク様は微笑む。


「では、届きすぎる真実には、誰が耐えるのでしょう」


 水晶塔が、強く光った。


 王宮地下で、民声の塔が起動した。

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