辺境伯、剣を抜かずに守る
カイル様が、壇上に立った。
腰には剣がある。
北方辺境伯家の黒革の鞘。古い銀具。戦場で飾りではなく使われてきたことが、遠目にもわかる剣。
王都の人々にとって、それは恐怖の象徴になりやすい。
辺境。
軍。
反乱。
進軍。
偽旗。
北門閉鎖。
見出しは、いつだって剣の影が好きだ。
けれどカイル様は、剣に触れなかった。
手にしているのは、紙束だった。
北方の印章が押された公式文書。
出兵命令記録。
鐘楼確認記録。
北門通行記録。
補助金遅延記録。
そして、古い援軍要請記録。
紙だ。
ただの紙。
でも、その束は今夜、剣より重かった。
会見場の外から、ざわめきが聞こえる。
「辺境伯だ」
「剣を持ってる」
「軍を動かしたんじゃないのか」
「でもさっき、辺境軍は動いてないって……」
「証拠を出すらしいぞ」
証拠。
その言葉に、私は思わず台本を握り直した。
証拠は、便利な言葉だ。
強い。
けれど、証拠は見せ方を間違えると燃える。
文書が多すぎると、隠しているように見える。
文書が少なすぎると、都合よく選んでいるように見える。
黒塗りが多すぎると陰謀になる。
黒塗りが少なすぎると証人が危険になる。
危機対応係の胃に、証拠文書は優しくない。
でも今夜は、それでも出さなければならない。
第56話。
カイル様は、怒りで机を割った。
言葉が人を殺すと知っていた人が、王都の同じ言葉を見て、剣の方へ行きかけた。
私は止めた。
エレオノーラ様も止めた。
けれど、止めたあとも、割れた机は残った。
残るのだ。
怒りは収まっても、壊れたものは残る。
それを、相手は見出しにする。
だから今日は。
今日は、違う。
カイル様は文書束を机に置いた。
乾いた音がした。
机は割れなかった。
当たり前だ。
でも、私は少しだけ息を吐いた。
王宮広報局員として、机の無事に安堵する人生。
あまり胸を張れない。
カイル様は会場を見た。
短く、低い声で言う。
「北方辺境伯、カイル・ヴァレンシュタインだ」
記者たちの羽ペンが動く。
外の水晶掲示板にも、同時中継される。
灯火新聞の編集長が、合図を出した。
王宮記録官が文書台の封を開ける。
カイル様は続けた。
「噂が出た」
短い。
非常に短い。
私は内心で頷く。
導入としては悪くありません。
ただし、これだけで終わったら胃薬を投げます。
「北方辺境伯軍が王都へ進軍した。公爵家を救援するために兵を動かした。王都北門を囲んだ」
会場がざわつく。
カイル様は表情を変えない。
「違う」
出ました。
カイル様名物、一語回答。
私は反射的に赤字を入れそうになる。
でも、彼はそこで止まらなかった。
「違う、とだけ言えば、また書かれる」
私は息を止めた。
カイル様が、自分でそこまで言った。
言わなければ書かれる。
黙れば物語を作られる。
短い言葉だけでは、逃げ道を敵に渡すことがある。
それを、この人が理解している。
「だから、記録を出す」
王宮記録官が一枚目を掲げた。
水晶が拡大投影する。
『北方辺境軍 王都方面出兵命令記録』
空欄。
空欄というのは、時に最も強い証拠になる。
ただし、空欄は「隠したのでは」と燃えることもある。
私はすぐに補足を出す。
『表示中の記録は、王宮記録局、北方領主館記録室、北方第一鐘楼記録の三者照合済みです』
『本日夜半までに、北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインによる王都方面への出兵命令は確認されていません』
『空欄は命令記録の不存在を示すものであり、該当期間の記録簿原本は封印状態で保全されています』
ふう。
補足文、偉大。
ただし、補足文だけで世界が救えたら私は過労死していない。
前世も今世も、補足文はだいたい読まれない。
だから、カイル様の言葉が必要だ。
カイル様は二枚目を手に取った。
「鐘三回を確認した」
北方の鐘三回。
噂なら走るな。
走れば熊と同じくらい危ない。
王都では少し笑い話になったが、北方では命を守る仕組みだ。
「第一鐘楼、軍移動なし。第二鐘楼、軍移動なし。第三鐘楼、雪崩警戒中、軍移動なし。第四鐘楼、熊出没、軍移動なし」
会場の一部がざわっと揺れる。
誰かが小声で言った。
「熊、また出てる」
別の誰かが返す。
「熊は出るんだな」
リディア・ノートン、ここで真顔を維持。
業務中です。
熊に負けない。
カイル様は続ける。
「熊は反乱ではない」
会場のどこかで、とうとう小さな笑いが起きた。
外の広場にも笑いが広がる。
緊張が少しだけほどける。
でも、カイル様は笑わない。
「笑うために言ったのではない」
会場が静かになる。
「具体的な記録は、嘘を弱くする」
私は、その一文に胸を打たれた。
そうだ。
具体的な記録は、嘘を弱くする。
熊でさえ。
いや、熊だからこそ。
曖昧な恐怖は大きくなる。
でも、「第四鐘楼で熊が出た」と言われると、恐怖には形ができる。
形ができれば、人は確認できる。
確認できれば、走らなくて済む。
カイル様は三枚目を出した。
「北門にいた北方領籍の車両は、薬草商隊二台、干し肉荷車一台。護衛三名。軍装なし。長槍なし。攻城具なし」
灯火新聞の記者が記録台に近づき、帳簿と照合する。
大手新聞社の記者も、嫌そうな顔をしながら覗き込んだ。
私は補足する。
『北門付近で確認された北方領籍車両について、王宮記録局、北門警備隊、灯火新聞立ち会いのもと照合を行いました』
『対象は薬草商隊二台、干し肉荷車一台、護衛三名であり、辺境軍所属部隊ではありません』
『商隊移動、軍移動、個人移動は分けて確認してください』
カイル様がちらりと私を見る。
言葉が多い、と思っている顔だ。
わかります。
でも必要です。
私は視線だけで返す。
カイル様は、ほんの少しだけ頷いた。
通じた。
仕事上の会話が視線で成立するの、便利なようで危険です。
周囲がまた「仕事婚」とか言い出すので。
今はやめてください。
国が燃えています。
カイル様は次の文書を持ち上げた。
「偽旗」
水晶に投影されたのは、路地で回収された黒い旗だった。
黒鷲。
ただし、尾羽は五枚。
正規の北方辺境伯家旗は七枚。
ポールに家紋刻印もない。
布地は粗く、軍旗用の織りではない。
カイル様は言う。
「雑だ」
短い。
でも、会場の空気が少し動いた。
雑。
たしかに、雑だった。
だが、恐怖の中では人は雑な偽物にも走る。
五枚の尾羽を数える余裕などない。
カイル様は続ける。
「雑でも、人は怖ければ信じる」
その声は、低かった。
「だから、雑だと笑って終わりにしない」
私は思わず彼を見る。
この人は、王都を責めるだけではない。
怖がった人を愚かだと切り捨てない。
第83話で「偽旗」と言ったときの鋭さとは違う。
怒りを、文書の上に置いている。
火の中へ投げていない。
「偽旗を置いた者がいる。北門を閉じた者がいる。閉じた理由を曖昧に書いた者がいる」
カイル様の指が、文書の一行を示す。
『混乱を避けるため、王都北門を一時閉鎖』
その言葉に、彼の表情がわずかに変わった。
会場では気づかない程度。
でも私は知っている。
その言葉が、この人の中で何を燃やすか。
混乱を避けるため。
秩序維持のため。
慎重に判断。
援軍は遅れた。
父は死んだ。
カイル様の手が、ほんのわずかに剣の近くへ動いた。
私は息を呑む。
しかし彼は、剣に触れなかった。
手を、文書へ戻した。
紙の上に置いた。
それだけの動作に、私は喉の奥が熱くなった。
あの日、この人は机を割った。
今日は、紙を押さえた。
「この言葉で、父は死んだ」
会場から音が消えた。
カイル様の声は、乱れていない。
でも、軽くもない。
「北方で魔獣群が出た時、父は援軍を求めた。王都には記録がある」
古い文書が投影される。
『北方辺境伯家より緊急援軍要請』
『被害拡大見込み』
『王都判断待ち』
紙の端は古く、字はかすれている。
でも印章は残っていた。
北方辺境伯家。
王宮軍務局。
そして、広報記録室。
私の胸が冷たくなる。
広報記録室。
そこにも記録があった。
私たちの仕事場につながる場所に。
カイル様は次の文書を出す。
『北方辺境伯、混乱を招く動き』
『王都は秩序維持のため、援軍判断を慎重化』
その見出しを見た瞬間、会場の何人かが息を呑んだ。
第56話で、彼がリディアへの中傷記事を見て壊れかけた理由。
同じ言葉だった。
混乱を招く者。
秩序維持。
慎重化。
言葉は過去から火を連れてくる。
カイル様は、目を伏せない。
「この記事が出た」
淡々としている。
淡々としていることが、痛い。
「援軍は遅れた」
誰も動かない。
「父は死んだ」
剣の音はしない。
怒鳴り声もない。
机も割れない。
ただ、文書がある。
証拠がある。
そして、その前に立つ人がいる。
「俺は、言葉を信用しなかった」
カイル様は言った。
「長い言葉は、特に信用しなかった」
会場の視線が、自然と彼に集まる。
「父を殺した言葉は長かった。丁寧だった。正しかった。混乱を避けるため、と書かれていた。秩序のため、と書かれていた」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「だが、その言葉の中に、父の名前はなかった」
私の指が震えた。
名前。
ミリア様が呼んだ名前。
リナ。
トマ。
セラ。
そして、カイル様の父。
王都の記事では「北方辺境伯」だった。
役職。
分類。
火種。
でも、彼にとっては父だった。
カイル様は、文書を一枚めくった。
「今日は、名前を出す」
王宮記録官が、慎重に頷く。
証人保護ではなく、本人死亡記録。
遺族の同意。
北方領主館の承認。
開示条件は整えてある。
私が昨日、胃を削って整えた。
削れた胃は戻らない。
でも、今この一文のためなら、少しは報われる。
水晶に名が映る。
『前北方辺境伯 グレン・ヴァレンシュタイン』
カイル様の声が、わずかに揺れた。
「グレン・ヴァレンシュタイン。俺の父だ」
会場の空気が変わる。
前北方辺境伯。
それは肩書き。
グレン・ヴァレンシュタイン。
それは名前。
俺の父。
それは関係。
記録が、人に戻る。
「父は、援軍を求めた。届かなかった。判断は遅れた。記事は残った。死体も残った」
残酷なほど短い。
けれど、逃げていない。
「俺は、王都の言葉を憎んだ」
カイル様は、そこで一度息を吸った。
私は、次の言葉を知っている。
でも、知っていても、胸が震える。
彼は壇上から、会場と、外の広場と、水晶の向こうに向けて言った。
「言葉で父は死んだ」
静かだった。
「だが、今日は言葉で守る」
その瞬間、私の視界の火種が、いくつも揺らいだ。
【火種:北方反乱説】
弱まる。
【火種:辺境伯威圧印象】
薄くなる。
【火種:王都対北方】
まだ残る。
【火種:王宮責任追及】
強くなる。
そう。
消える火もあれば、強まる火もある。
この言葉は、王宮の責任を燃やす。
それは避けられない。
でも、それは隠してはいけない火だ。
カイル様は剣を抜かず、文書を示した。
「王都に言う」
会場が緊張する。
「北方を、見出しで見るな」
外が静まる。
「軍か、反乱か、危険か。それだけで見るな」
カイル様は次の文書を掲げる。
補助金遅延記録。
北方兵の未払い。
王都からの支援が遅れ、カイル様が私財で補填していた記録。
「北方兵の未払いは、辺境伯が着服したからではない。王都補助金が遅れたからだ」
文書が投影される。
『補助金支給保留』
『回答待ち』
『混乱防止のため、公開保留』
また、その言葉。
混乱防止。
便利すぎる包み紙。
中身はだいたい腐っている。
私は補足文を出す。
『北方兵給与遅延に関する記録について、王宮財務局、北方領主館、灯火新聞立ち会いのもと照合済みです』
『支給保留期間、理由欄、担当部署印は現在正式調査対象です』
『兵士個人名および家族情報は安全保護のため非公開とします』
カイル様は、外の広場へ視線を向けた。
「北方兵は王都を攻めるために飢えていたのではない。王都からの返事を待っていた」
その一文に、私は思わず息を詰めた。
返事。
また、そこへ戻る。
王都は聞いていると言った。
でも返事をしなかった。
北方も、孤児院も、神殿裏通りも。
返事を待っていた。
カイル様は続ける。
「王都を憎む者はいる」
ざわめきが戻る。
それを認めるのか。
危険だ。
私は火種を見る。
【火種:北方反王都感情の肯定】
【火種:分断拡大】
【火種:王都民反発】
だが、カイル様は言い切った。
「いる。俺も憎んだ」
会場が凍った。
正直すぎる。
危険すぎる。
でも、嘘ではない。
「だが、今夜、北方軍は動いていない。北方民は鐘三回で止まった。噂なら走るな、と守った」
彼は文書台に手を置く。
「王都も止まれ」
短い。
命令に聞こえかねない。
私は即座に補足しようとする。
でも、カイル様が先に続けた。
「止まって、確認しろ。怒るなら、記録を見て怒れ。誰かを殴る前に、誰が返事を止めたのかを問え」
私の手が止まった。
補足しなくていい。
この人の言葉で届く。
「北方を疑うなら、文書を見る。王宮を疑うなら、記録を求める。神殿を疑うなら、名前を消すな。公爵家を疑うなら、門ではなく記録を見る」
エレオノーラ様が、少しだけ微笑む。
ミリア様が両手を握りしめている。
カイル様は、私を見なかった。
見なかったまま言う。
「リディア・ノートンは、火を隠さない。だから信じる」
第66話の一文。
会場の何人かが覚えていたのか、ざわめきが起きる。
私の胸が、痛いほど熱くなった。
今ここで、それを言うのは危険だ。
リディアとの癒着疑惑。
辺境伯の私的擁護。
共同声明の再燃。
火種はある。
あるのに、私は止めなかった。
だって、続きがあった。
「だが、今日はリディアの言葉ではなく、俺の記録を見ろ」
ああ。
そう来たか。
私は台本の端を握りしめた。
それは、私を守る言葉でもある。
私の言葉を私物化しない。
私に全部背負わせない。
自分の文書で立つ。
カイル様は、ようやく少しだけ私を見た。
「俺は、自分の言葉で言う」
声は短い。
でも、逃げていない。
「辺境軍は動いていない。俺は出兵を命じていない。偽旗は北方軍旗ではない。補助金遅延は記録に残っている。父の援軍要請も残っている」
ひとつひとつ。
短く。
でも、積み重ねる。
「言葉で父は死んだ。だが、今日は言葉で守る」
二度目。
今度は、より深く届いた。
外の広場から声が聞こえる。
「文書を見せろ!」
「灯火新聞、写しを出せ!」
「北方じゃなくて王宮が止めてたのか?」
「じゃあ誰が閉門理由を書いた!」
「混乱を避けるためって、便利すぎないか?」
怒りは消えない。
むしろ、正しい方向へ流れ始めている。
それが怖い。
正しい怒りも、扱いを間違えれば人を傷つける。
私はすぐに追加声明を書く。
『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインより提示された文書について、王宮記録局および灯火新聞立ち会いのもと写しを順次公開します』
『公開対象は、出兵命令不存在記録、北方鐘楼確認記録、北門通行確認、偽旗照合記録、補助金遅延記録、前北方辺境伯援軍要請関連記録です』
『一部個人名、兵士家族情報、証人特定につながる箇所は安全保護のため伏せます』
『王宮各部署の判断過程については、責任部署および担当記録の照合を開始します』
『文書確認を求める方は、王宮記録局前へ押し寄せず、灯火新聞号外および王宮掲示水晶の公開時刻を確認してください』
『怒りは、確認先へ向けてください。人の身体へ向けないでください』
最後の一文は、少し悩んだ。
強い。
説教に見える。
でも、今は必要だ。
民衆は悪ではない。
でも、民衆の中にいる人の身体は、石や拳に弱い。
私はもう、そこをごまかしたくない。
壇上では、カイル様が最後の紙を置いた。
その手が、少しだけ震えていることに気づいた。
たぶん、会場の誰も気づいていない。
でも私は見た。
剣を抜かないことは、簡単ではない。
怒りを文書に変えることは、簡単ではない。
言葉を憎んできた人が、言葉で守ると宣言することは、たぶん、傷口を自分で開くことに近い。
カイル様は頭を下げなかった。
ただ、まっすぐ立って言った。
「以上だ」
短い。
いつもの彼なら、ここで壇上を降りる。
でも今日は、記者席から声が飛んだ。
「辺境伯様!」
大手新聞社の記者だ。
顔に焦りがある。
「王都への憎しみを認められましたが、それは北方が王都へ敵意を持つという意味ですか!」
火種が跳ねる。
【火種:北方敵意認定】
【火種:王都対北方再燃】
【火種:反乱疑惑再燃】
まずい。
私は一歩出かけた。
カイル様が、片手を少し上げた。
止まれ、という合図。
私に。
私を止めた。
カイル様は記者を見る。
「違う」
また一語。
でも続けた。
「憎しみがあることと、兵を動かすことは違う」
会場が静まる。
「怒った人間が全員、剣を抜くわけではない」
その言葉は、自分に向けた言葉でもあった。
「俺は第56……」
言いかけて、カイル様がわずかに止まった。
会場には話数の概念がない。
危ない。
私は一瞬、時空が燃えたかと思った。
カイル様は咳払いもしないまま言い直す。
「以前、俺は王宮内で机を割った」
会場がざわつく。
そこへ戻るのか。
自分から。
私は火種を見る。
【火種:辺境伯暴力性再燃】
【火種:王宮威圧行為】
【火種:リディア保護名目再燃】
でも、カイル様は逃げなかった。
「怒りで割った。人は傷つけていない。だが、敵に見出しを渡した」
彼は、私の方を見た。
今度ははっきりと。
「リディア」
会場中の視線が刺さる。
今、名前を呼びますか。
呼びましたね。
職務上ですか。
私情ですか。
掲示板が沸きますよ。
でも、逃げない。
私も、逃げない。
「はい」
カイル様は短く言った。
「机を割った。すまない」
会場が、妙な沈黙に包まれた。
この国の最終会見で、辺境伯が机に謝罪している。
いや、私に謝罪している。
でも言葉だけ見ると、机を割ったことへの謝罪だ。
広報局員の誰かが、背後で小さく鼻をすすった。
泣くところですか。
わかります。
職業病です。
私は少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
「机より先に、言ってほしいことがありました」
カイル様が固まった。
会場も固まった。
しまった。
私、今、会見中に何を言いました?
【火種:私情漏洩】
【火種:仕事婚再燃】
【火種:辺境伯と広報官関係性再注目】
燃える。
いや、燃えます。
でも、言ってしまった。
完璧な台本にはない言葉だった。
カイル様は、しばらく黙った。
長い沈黙。
記者たちが羽ペンを構え直す。
外の水晶掲示板がざわつく音が、なぜか聞こえる気がした。
でも、カイル様は逃げなかった。
口を開いた。
「守りたかった」
短い。
けれど、深い。
「だが、剣では守れないと知った」
私の胸が、また熱くなる。
「遅いか」
その問いは、私だけに向いていた。
でも、会場中に聞こえていた。
私は首を振った。
「遅くても、届く言葉はあります」
これは、私の言葉だった。
台本ではない。
でも、第93話ではない。
まだ完璧な声明文を握り潰してはいない。
それでも少しずつ、私は自分の声を取り戻しているのかもしれない。
カイル様は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「なら、続ける」
そう言って、彼は記者席へ向き直った。
「質問は記録について受ける。私情については受けない」
いや、今かなり私情の入口を開けましたよね。
でも閉じた。
強引に閉じた。
辺境伯方式。
私はすぐに補足する。
『以降の質問は、提示文書および三偽情報に関する事実確認に限定します』
『個人的関係に関する質問は、本会見の目的外です』
掲示板がどう反応するかは、もう考えない。
考えるけど。
後で胃薬は飲む。
記者たちは不満そうだったが、灯火新聞の編集長が先に手を上げた。
「提示文書の写しについて、号外掲載許可を」
カイル様は即答した。
「許可する」
王宮記録官が慌てる。
「安全保護部分の確認後です!」
私はすぐ言う。
「安全保護部分の確認後、です」
カイル様が頷く。
「安全保護部分の確認後、許可する」
学習している。
辺境伯様が、補足を受け入れている。
広報史に残る進歩です。
灯火新聞の編集長は、すでに部下へ合図を出していた。
印刷班が走る。
王宮記録官が写しを抱える。
広報局員たちが掲示文を複製する。
会見場の端で、紙とインクが一気に動き始めた。
真実は遅い。
でも、今夜は走らせる。
外の広場へ、最初の写しが掲げられる。
『辺境軍出兵記録なし』
『北方鐘楼確認済み』
『偽旗、正規旗と不一致』
『補助金遅延記録あり』
『前北方辺境伯援軍要請記録、公開へ』
人々の声が大きくなる。
怒り。
驚き。
戸惑い。
涙。
全部混じっている。
誰かが叫んだ。
「じゃあ、誰が嘘を流した!」
別の誰かが叫ぶ。
「王宮は知ってたのか!」
「返事を止めたのは誰だ!」
私は、その声を聞いて思う。
火は消えていない。
でも、火元へ向かい始めた。
それは危険だ。
でも、必要だ。
ベルク様なら、この流れを見てこう言うだろう。
民は真実に耐えられない。
怒りは次の怒りを呼ぶ。
だから整えるべきだ。
誘導すべきだ。
安全な物語を与えるべきだ。
でも、もう安全な嘘で人を黙らせたくない。
その時、王宮地下へ向かった記録官から再び伝令が来た。
息を切らしている。
「リディア殿!」
「今度は何ですか」
「旧広報記録庫の封印扉が開いています」
背筋が冷える。
「誰が」
「宰相補佐ベルク・アインハルト様の認証です」
会見場の熱が、少し遠のいた。
ベルク様。
やはり地下へ。
民声保全設備。
あの言葉が頭を離れない。
王宮は、常に民の声を聞いております。
聞いているなら返事をしてください。
軽口だった。
私のいつもの胃痛混じりの文句。
でも、もし。
もし本当に、王宮が聞いていたのなら。
聞いて、集めて、分類して。
返事をしていなかったのなら。
私は台本を見下ろした。
分厚い、完璧な会見台本。
公爵家。
ミリア様。
北方。
三つの偽情報への反証。
証人保護。
責任部署の明示。
謝罪の順序。
全部、書いてある。
優秀だ。
まだ使える。
でも、その台本の外側で、もっと大きな声が動き始めている。
カイル様が壇上から降りてくる。
「地下か」
「はい」
「行くか」
「まだです」
私は外を見る。
灯火新聞の号外準備が始まっている。
記録官たちが走っている。
民衆の怒りは、今まさに形を変えている。
ここを放り出して地下へ行けば、それも燃える。
でも、地下を放置すれば、もっと燃える。
危機対応、二択がだいたい両方地獄。
カイル様は私の顔を見た。
「胃か」
「胃です」
「なら、正しい」
「判断基準にしないでください」
そう返せるくらいには、まだ立っていられる。
灯火新聞の編集長が駆け込んできた。
手には刷りたての号外の初版。
「リディアさん、見出し確認を!」
紙面が差し出される。
大きな文字。
『辺境伯軍、進軍せず』
その下。
『偽旗、補助金遅延、援軍要請記録を公開』
さらに下に、編集長がこだわったらしい大きな訂正欄。
『三偽情報の構造、順次検証』
私は見出しを確認する。
燃えない。
いや、燃える。
でも、必要な火だ。
「出してください」
編集長が頷く。
「訂正欄、主役にします」
「お願いします」
その瞬間、外へ向けて紙束が運ばれ始めた。
灯火新聞の配達員たちが走る。
王宮掲示水晶が更新される。
広場のざわめきが、号外を受け取る音に変わっていく。
紙が、人から人へ渡る。
遅れて届く真実が、今夜は少しだけ早く走る。
カイル様は、その様子を黙って見ていた。
剣を帯びたまま。
剣を抜かずに。
文書と言葉で。
私は思った。
第56話で、この人は言葉の外へ壊れかけた。
今日は、言葉の中へ戻ってきた。
傷ごと。
怒りごと。
父の名前ごと。
その横顔を見ていると、胸の奥が痛い。
恋愛かどうかは、まだ知らない。
いや、そろそろ知っている気もする。
しかし今その分類を始めると、私の中の火種感知が別件で爆発する。
後で。
全部、後で。
カイル様が短く言った。
「行け」
「どこへですか」
「地下」
「会見は」
「俺が残る」
私は目を瞬かせた。
「カイル様が?」
「文書について聞かれたら答える」
「長くなりますよ」
「読む」
その一言に、私は笑いそうになった。
この人が。
長い言葉を信用できないと言っていた人が。
読む、と言った。
「では、お願いします」
カイル様が頷く。
私は台本を抱え直す。
まだ、完璧な声明文は手の中にある。
まだ、捨てられない。
でも、紙の重さが少し変わった。
守るための台本。
そして、いつか手放さなければならない台本。
その両方を抱えて、私は地下へ向かう準備をした。
背後で、灯火新聞の号外が王都へ走り出す。
真実は、遅い。
それでも今夜、確かに届き始めていた。




