聖女候補、嘘の聖女をやめる
「皆さまのために――」
ミリア様は、そこで止まった。
会見場の空気が、ひゅっと細くなる。
神殿関係者の何人かが、ほとんど反射のように顔を上げた。
その言葉を待っていたのだ。
皆さまのために祈ります。
神殿の導きに感謝します。
清らかな心で受け止めます。
用意された白い布みたいな言葉。
誰にでもかけられる。
だから、誰にも届かない言葉。
ミリア様の指が、紙の端を握りしめる。
紙が少し震えた。
私は一歩も動かない。
動かないと決めているのに、喉の奥から言葉が出そうになる。
大丈夫です。
ゆっくりでいいです。
その言葉を、何度も飲み込む。
助け舟は時々、人の足場を奪う。
それを、さっきエレオノーラ様から学んだばかりだ。
学習したそばから実践。
危機対応係、成長が実地訓練すぎる。
胃は抗議している。
知っています。
今は黙ってください。
ミリア様は、目を閉じた。
長い沈黙ではなかった。
でも、会見場では一拍の沈黙が見出しになる。
【火種:発言停止】
【火種:神殿台本疑惑】
【火種:精神的不安定印象】
【火種:聖女再支配】
火種が浮かぶ。
記者たちの羽ペンが紙の上で止まっている。
外の広場から、水晶を通して声が届く。
「聖女様?」
「やっぱり言わされてるんだ!」
「神殿へ返して差し上げろ!」
「王宮が隠してる!」
違う。
そう言いたい。
でも、それを私が言えば、またミリア様の言葉を奪う。
私は唇を噛んだ。
ミリア様が、目を開ける。
そして、最初の一文を言った。
「今のは、昔の癖です」
会場が静まった。
あまりにも正直な言葉だったからだ。
美しい謝罪でも、荘厳な宣言でもない。
癖。
神殿に刻み込まれた、言葉の癖。
ミリア様は紙を見ずに続けた。
「私は、何かを言おうとすると、すぐに『皆さまのために』と言ってしまいます。そう言えば、怒られませんでした。そう言えば、褒められました。そう言えば、私が何を考えているか、誰もそれ以上聞きませんでした」
神殿席がざわついた。
白衣の司祭が、わずかに立ち上がりかける。
王宮警備が視線を向けた。
司祭は座り直した。
私は火種を見る。
【火種:神殿反発】
【火種:聖女洗脳報道】
【火種:ミリア被害者固定】
危ない。
ミリア様を「完全にかわいそうな少女」にしてしまう火だ。
それもまた、彼女を閉じ込める。
ミリア様は、その火を見ているわけではない。
けれど、彼女は逃げなかった。
「私は、神殿に利用されました」
会場のざわめきが増す。
「でも、それだけではありません」
その一文で、ざわめきの質が変わった。
ミリア様は、両手で紙を持ち直す。
「私は、聖女候補と呼ばれて、ほっとした日がありました」
来た。
削らなかった言葉。
第30話で、記録局の小さな面会室で、彼女が初めて自分の弱さとして認めた言葉。
あの時、私はそれを声明文から消しかけた。
守るために。
燃やさないために。
でも、消していたら、今ここに立つミリア様の輪郭も一緒に消していた。
「誰かに必要とされていると思いました。私には価値があるのだと思いました。白い服を着て、祈りの言葉を言って、皆さまのために微笑めば、私はここにいていいのだと思えました」
美しくない。
だから、本物だ。
記者席の奥で、灯火新聞の編集長が静かに頷いた。
大手新聞社の記者の一人は、少し困った顔をしている。
見出しにしづらいのだ。
わかりやすい被害者でも、完全な加害者でもない。
人間は見出しに向かない。
それでも、見出しは人間を無理やり折りたたむ。
ミリア様は続けた。
「そのせいで、私は見ないふりをしました。寄付金が届いていないこと。孤児院の毛布が足りなかったこと。私の名前で売られた香油の代金が、どこへ行ったのか。台本の中で、誰かが悪役にされていること」
エレオノーラ様が、わずかに目を伏せた。
ミリア様はそちらを見た。
逃げなかった。
「エレオノーラ様」
会場が息を呑む。
「私は、あなたを悪役にする台本を読みました。意味がよくわからないまま、そうすれば私が守られるのだと思っていました」
エレオノーラ様は答えない。
答えないことを選んでいる。
「ごめんなさい」
ミリア様が頭を下げた。
神殿式の優雅な礼ではなかった。
聖女候補としての清らかな祈りでもなかった。
少しぎこちない、年相応の謝罪だった。
エレオノーラ様は静かに言った。
「受け取りました」
許す、とは言わなかった。
それでいい。
許しは、会見で配る配布物ではない。
ミリア様は顔を上げた。
「それから」
紙を見た。
指が震えている。
私はその紙を知っている。
ミリア様が、自分で書いた名前の紙だ。
何度も書き直した。
最初は「孤児院の皆さま」だった。
次に「北方の方々」になった。
その次に「薬師の方」となった。
そして最後に、名前になった。
彼女は声を出す前に、小さく息を吸う。
「東七番孤児院のリナ」
会見場のどこかで、誰かが息を漏らした。
リナ。
孤児院の子。
ミリア様の美談記事で、何度も「救われた孤児たち」とまとめられていた子。
でも、ミリア様は今、その子を「孤児たち」と呼ばなかった。
「あなたは、私に言ってくれました。『ミリア様は、ちゃんと私の名前を呼んでくれた』と」
私の胸が詰まる。
第24話。
孤児院。
あの子は、ミリア様を責めなかった。
でも言った。
冬の毛布は来なかった、と。
「私は、その言葉に救われていました。けれど、あなたの冬の毛布が届かなかったことを、私はすぐに確かめませんでした」
ミリア様の声が震える。
「ごめんなさい。名前を呼んだだけで、返事をした気になっていました」
名前を呼ぶことは、大切だ。
でも、名前を呼ぶだけでは足りない。
私はその事実を、胸に押し込める。
今は、ミリア様の言葉を聞く。
「北方の村のトマ」
今度は、カイル様の肩がわずかに動いた。
北方。
王都が遠く、噂だけが近かった場所。
「私は、あなたの村に届かなかった支援のことを、長い間知りませんでした。けれど、知らなかったと言えば、それで終わることでもありません」
ミリア様は紙を握りしめる。
「神殿の祈りの布には、『辺境にも祝福を』と書かれていました。でも、その祝福が本当に届いたか、私は確かめませんでした」
外の広場から、ざわめきが届く。
「北方の子だ」
「トマって誰だ」
「いや、誰かは知らないけど」
「名前があるんだな」
そう。
名前がある。
トマは「北方の子どもたち」ではない。
リナは「孤児院の子どもたち」ではない。
人は、まとめられると扱いやすくなる。
でも、痛みも一緒に薄められる。
ミリア様は次の名前を呼ぶ。
「神殿裏通りの薬師セラ」
神殿席がはっきりと揺れた。
この名前は、神殿にとって都合が悪い。
神殿裏通り。
香油の材料を納め、寄付薬を作り、神殿の美談の裏側を支えていた薬師。
だが、抗議文は握り潰されていた。
その存在は、第93話で私が呼ぶ予定の名前でもある。
今、ミリア様が先に呼ぶ。
私の胸の奥で、何かが小さく震えた。
悔しさではない。
嬉しさとも少し違う。
これは、言葉が本人へ戻っていく音だ。
「あなたは、神殿に抗議文を出しました。香油の効能表示が危険だと。薬師の名前を勝手に使わないでほしいと。私は、その抗議文を直接読んでいませんでした」
ミリア様は一瞬、目を伏せる。
「読まない方が、聖女候補でいられる気がしていました」
会場が静まった。
怖いほど静かだった。
その言葉は、逃げ道を自分で塞ぐ言葉だ。
自分を綺麗に見せない言葉。
ミリア様は、続ける。
「ごめんなさい。私は、知らなかっただけではありません。知るのが怖かったのです」
神殿関係者の一人が声を上げた。
「ミリア様、そのようなことをおっしゃる必要はありません!」
火種が跳ねる。
【火種:神殿による再保護演出】
【火種:発言妨害】
【火種:聖女様を傷つけるな】
ミリア様が肩を震わせた。
反射的に、彼女の口が動く。
「皆さまのために――」
また。
昔の癖。
でも、今度はそこで終わらなかった。
ミリア様は自分で口を押さえた。
それから、首を振った。
「違います」
はっきりと言った。
「今のも、昔の癖です」
会場の空気が、変わった。
「私は、皆さまのために祈る前に、私が傷つけた人の名前を呼ばなければいけません」
神殿関係者が黙った。
誰かが泣き始めた。
それが誰かはわからない。
外の広場でも、ざわめきは続いている。
「聖女様にそんなこと言わせるな!」
「本人が言ってるだろ!」
「でも、神殿が悪いんだろ?」
「じゃあミリア様は悪くないのか?」
「全部悪いか全部悪くないかじゃないだろ!」
いい。
その声は、まだ荒い。
でも、少しだけ変わった。
単純な悪役探しから、迷いへ。
迷いは不安定だ。
でも、迷いがない怒りよりは、人を踏みにくい。
ミリア様は、紙を見つめた。
次の行に進む。
「私は、聖女ではありません」
その一文が出た瞬間、火種が一斉に浮かんだ。
【火種:信仰動揺】
【火種:神殿権威失墜】
【火種:元聖女詐称報道】
【火種:ミリア冒涜扱い】
【火種:信徒反発】
怖い。
これは燃える。
私の中の危機対応係が、今すぐ補足文を入れろと叫ぶ。
『ここでいう聖女とは、神殿広報上の演出された役割を指し、信仰そのものを否定するものではありません』
書ける。
すぐ書ける。
完璧に燃えにくい補足文だ。
でも、今言えば、ミリア様の覚悟が薄まる。
私は奥歯を噛んだ。
エレオノーラ様が横目で私を見る。
何も言わない。
でも、視線が言っている。
信じなさい。
わかっています。
胃にはわかっていません。
あとで説得します。
ミリア様は続けた。
「私は、聖女ではありません。神殿の台本通りに笑い、祈り、誰かを許す役を演じていたミリア・セレスです」
彼女は紙を置いた。
置いた。
あの紙を。
名前を書いた紙を。
そして、両手を机の前で握る。
「でも、私は何もなかったことにはしたくありません」
声は細い。
でも、届く。
「私は、誰かに必要とされたくて、白い服を着ました。私は、怖くて、知らないふりをしました。私は、神殿に利用されました。私は、利用されている間、少しだけ安心していました」
会場が静まり返る。
「その全部を、なかったことにしないでください」
私は、息を忘れていた。
ミリア様は顔を上げる。
「私を、かわいそうな聖女だけにしないでください」
神殿席の誰かが泣いた。
「私を、悪い女だけにしないでください」
記者の羽ペンが止まる。
「私は、ミリア・セレスです」
その名前が、会見場に落ちた。
白い布でも、祈りでも、広告でもない。
名前。
彼女自身の名前。
私は火種を見る。
消えてはいない。
信仰は揺れる。
神殿は反発する。
ミリア様を叩く人も出る。
でも、その中心に、いままで見えなかったものが見えた。
火種ではない。
空白でもない。
輪郭だ。
ミリア・セレスという、一人の輪郭。
ミリア様は少し息を吐いた。
そして、外の広場へ向けて言った。
「神殿前に集まってくださった方へ。私を心配してくださった方へ。ありがとうございます」
柔らかい。
でも、すぐに続ける。
「けれど、私の名前で誰かを押さないでください。私の名前で石を投げないでください。私の名前で神殿へ押しかけないでください」
言葉が具体的だ。
押さないで。
石を投げないで。
押しかけないで。
祈りではなく、行動への返事。
「祈りたい方は、その場で祈ってください。帰り道で、隣の人を押さないでください。倒れた人がいたら、聖女を呼ぶ前に手を貸してください」
誰かが小さく笑った。
泣き笑いに近い声だった。
ミリア様も、少しだけ笑いそうになった。
でも、すぐに真剣な顔に戻る。
「私は、今日からすぐに正しい人にはなれません」
すごいことを言う。
私は心の中で赤線を引いた。
残す。
絶対に残す。
「でも、知らないふりをする人には戻りたくありません」
会場の奥で、神殿監察官が記録水晶に手を置いた。
正式記録。
この言葉は残る。
「リナ。トマ。セラ」
ミリア様はもう一度名前を呼んだ。
「あなたたちに、私は直接返事をしなければいけません。今日ここで謝っただけでは、足りません」
私の胸がぎゅっとなる。
そう。
謝罪は終点ではない。
入口だ。
言葉は、言って終わりではない。
返事は、続けなければならない。
「そして、私が名前を知らないまま傷つけた人たちへ」
ここで、ミリア様は少し迷った。
今までなら、ここで「皆さま」と言っただろう。
けれど彼女は言わなかった。
「まだ名前を呼べない人たちへ」
そう言った。
「私は、これから名前を聞きます。聞いて、記録します。逃げないように、誰かに一緒にいてもらいながら、少しずつ返事をします」
完璧な言葉ではない。
責任範囲も曖昧だ。
実務的には、課題が山ほどある。
誰が管理するのか。
神殿記録はどこまで開示できるのか。
危険な証人保護はどうするのか。
返信窓口はどこか。
私は頭の中で即座に担当表を組み始める。
職業病である。
でも、今はそれでいい。
この言葉に、制度を追いつかせるのが私たちの仕事だ。
ミリア様は最後に、少しだけ俯いた。
それから、小さく言った。
「それから」
会見場がまた緊張する。
何を言うのか。
神殿批判か。
王宮批判か。
追加証言か。
ミリア様は、少しだけ頬を赤くした。
「昼食は、パンが好きです」
一瞬、誰も反応できなかった。
私は、危うく台本を落としかけた。
来た。
ここで来た。
歴史的パン発言、再来。
会場のどこかで、誰かが吹き出した。
外の広場でも、波のように笑いが広がる。
怒りの笑いではない。
嘲笑でもない。
少し困って、少し安心した笑い。
ミリア様は慌てて言った。
「いえ、今のは、その、重要な証言ではないのですが」
私は思わず小声で言った。
「重要です」
ミリア様がこちらを見る。
私は頷いた。
「それも本人の言葉です」
ミリア様の目が、ほんの少し潤んだ。
でも、泣かなかった。
泣かないことを選んだのか、泣けなかったのかはわからない。
わからなくていい。
記録する必要もない。
彼女は礼をした。
聖女の礼ではない。
神殿の所作でもない。
ぎこちない、でも自分で選んだ礼。
「以上です」
会場はすぐには拍手しなかった。
それでいい。
この発言は、拍手で簡単に終わらせるには重すぎる。
外の広場から、声が聞こえる。
「ミリア様!」
「ミリアでいいんじゃないか」
「いや様はいるだろ」
「パン……」
「パンは大事だ」
「神殿は返事しろ!」
「孤児院の毛布はどうなった!」
「セラって薬師、知ってる。裏通りの!」
声が変わっていく。
怒りは残っている。
むしろ、具体的な怒りが増えた。
でも、向かう先が少し変わった。
ミリア様個人を神輿にして暴れる声から、返事を求める声へ。
完全ではない。
危険はまだある。
けれど、火の形が変わった。
私はすぐに補足声明を出す。
『ミリア・セレス本人の発言を正式記録として保全します』
『本人は、神殿前での襲撃および重傷情報が虚偽であること、聖女候補としての演出および神殿による管理下で、自らも知らないふりをしていた責任があることを述べました』
『本発言は、神殿信仰そのものを否定するものではなく、神殿広報および聖女候補演出に関する本人証言です』
『東七番孤児院、北方村落、神殿裏通り薬師に関する記録は、証人保護と本人確認の上、順次照合します』
『会見場外および神殿前にいる方々は、移動時に周囲を押さず、王宮警備および灯火新聞の誘導に従ってください』
『ミリア・セレス本人への接触、詰問、追跡は、事実確認を早めません』
書き終えて、私は気づく。
私はまた、整えている。
でも、今度はミリア様の言葉を削るためではない。
彼女の言葉を、踏まれないように道を敷くためだ。
それでも、危うい。
正しい声明文だけでは、人を救えない。
でも、正しい声明文がなければ、救おうとした言葉が踏まれることもある。
難しい。
危機対応、難易度が高すぎる。
前世でも思った。
今世でも思う。
転生特典、もう少し胃に優しくできなかったのか。
ミリア様が壇上から下りてくる。
足元が少しふらついた。
私は思わず手を伸ばしかけた。
けれど、エレオノーラ様が先に立ち上がった。
ミリア様を支えるのではなく、隣に立つ。
支えすぎない距離。
逃げ道のある距離。
ミリア様は小さく言った。
「……怖かったです」
エレオノーラ様は答えた。
「でしょうね」
「怒っていますか」
「ええ」
ミリア様の肩が揺れる。
エレオノーラ様は続けた。
「でも、今ここであなたを責める順番ではありませんわ」
「順番があるのですか」
「あります。貴族社会は順番にうるさいのです」
ミリア様が、ほんの少しだけ笑った。
その笑いは、神殿の微笑みではなかった。
私は胸を撫で下ろす。
会見はまだ終わっていない。
公爵家。
ミリア様。
次は北方。
カイル様の番だ。
その前に、会場の奥で王宮記録官が駆け寄ってきた。
顔色が悪い。
広報局員以外も顔色が悪くなる夜。
王宮全体が胃薬適応職場になっている。
「リディア殿」
「どうしました」
「地下封鎖命令に関する追加記録です」
地下。
ベルク様。
民声収集。
背中に冷たいものが走る。
「内容は」
「旧広報記録庫への立ち入り記録が一件、追加で確認されました」
「誰ですか」
記録官は紙を差し出した。
そこには、宰相補佐ベルク・アインハルトの名があった。
時刻は、会見開始直前。
そして目的欄には、こう書かれていた。
『民声保全設備の確認』
民声。
私はその二文字を見つめた。
古い広報マニュアルにあった言葉。
王宮標語。
王宮は、常に民の声を聞いております。
聞いているなら返事をしてください。
冗談のつもりだった言葉が、今、喉の奥で冷たくなる。
カイル様が紙を覗き込む。
「民声?」
「まだ、わかりません」
私は答えた。
わからない。
でも、嫌な予感がする。
王宮は、何を聞いていたのか。
何を、返していなかったのか。
その答えは、まだ地下にある。
けれど今は、壇上に立つ人がいる。
カイル様が、静かに前へ出た。
剣を帯びている。
でも、抜かない。
彼の手には、北方の印章が押された文書束があった。
出兵していない証拠。
補助金遅延の記録。
そして、父の援軍要請に関する古い記録。
私は思わず聞いた。
「カイル様」
「何だ」
「長いです」
彼は少しだけ紙束を見た。
「削るか」
いつもの彼なら、そこで全部捨てただろう。
でも今日は違う。
私は首を振った。
「いいえ」
彼は私を見る。
私は、今度は笑わずに言った。
「今日は、ちょうどいいです」
カイル様は一度だけ頷いた。
そして壇上へ向かう。
会場の空気が、また変わる。
北方辺境伯。
反乱疑惑。
偽旗。
閉ざされた北門。
噂で父を失った男。
第56話で机を割った人。
今日は、剣ではなく文書を持っている。
私は台本を握る。
火はまだ消えていない。
けれど、ここまで来た。
エレオノーラ様が、悪役令嬢をやめなかったまま、人として立った。
ミリア様が、嘘の聖女をやめて、名前を呼んだ。
次は、カイル様が言葉で守る番だ。
彼は壇上に立ち、紙束を机に置いた。
そして、剣から手を離した。




