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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
王都大炎上

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88/100

聖女候補、嘘の聖女をやめる

「皆さまのために――」


 ミリア様は、そこで止まった。


 会見場の空気が、ひゅっと細くなる。


 神殿関係者の何人かが、ほとんど反射のように顔を上げた。


 その言葉を待っていたのだ。


 皆さまのために祈ります。


 神殿の導きに感謝します。


 清らかな心で受け止めます。


 用意された白い布みたいな言葉。


 誰にでもかけられる。


 だから、誰にも届かない言葉。


 ミリア様の指が、紙の端を握りしめる。


 紙が少し震えた。


 私は一歩も動かない。


 動かないと決めているのに、喉の奥から言葉が出そうになる。


 大丈夫です。


 ゆっくりでいいです。


 その言葉を、何度も飲み込む。


 助け舟は時々、人の足場を奪う。


 それを、さっきエレオノーラ様から学んだばかりだ。


 学習したそばから実践。


 危機対応係、成長が実地訓練すぎる。


 胃は抗議している。


 知っています。


 今は黙ってください。


 ミリア様は、目を閉じた。


 長い沈黙ではなかった。


 でも、会見場では一拍の沈黙が見出しになる。


【火種:発言停止】

【火種:神殿台本疑惑】

【火種:精神的不安定印象】

【火種:聖女再支配】


 火種が浮かぶ。


 記者たちの羽ペンが紙の上で止まっている。


 外の広場から、水晶を通して声が届く。


「聖女様?」


「やっぱり言わされてるんだ!」


「神殿へ返して差し上げろ!」


「王宮が隠してる!」


 違う。


 そう言いたい。


 でも、それを私が言えば、またミリア様の言葉を奪う。


 私は唇を噛んだ。


 ミリア様が、目を開ける。


 そして、最初の一文を言った。


「今のは、昔の癖です」


 会場が静まった。


 あまりにも正直な言葉だったからだ。


 美しい謝罪でも、荘厳な宣言でもない。


 癖。


 神殿に刻み込まれた、言葉の癖。


 ミリア様は紙を見ずに続けた。


「私は、何かを言おうとすると、すぐに『皆さまのために』と言ってしまいます。そう言えば、怒られませんでした。そう言えば、褒められました。そう言えば、私が何を考えているか、誰もそれ以上聞きませんでした」


 神殿席がざわついた。


 白衣の司祭が、わずかに立ち上がりかける。


 王宮警備が視線を向けた。


 司祭は座り直した。


 私は火種を見る。


【火種:神殿反発】

【火種:聖女洗脳報道】

【火種:ミリア被害者固定】


 危ない。


 ミリア様を「完全にかわいそうな少女」にしてしまう火だ。


 それもまた、彼女を閉じ込める。


 ミリア様は、その火を見ているわけではない。


 けれど、彼女は逃げなかった。


「私は、神殿に利用されました」


 会場のざわめきが増す。


「でも、それだけではありません」


 その一文で、ざわめきの質が変わった。


 ミリア様は、両手で紙を持ち直す。


「私は、聖女候補と呼ばれて、ほっとした日がありました」


 来た。


 削らなかった言葉。


 第30話で、記録局の小さな面会室で、彼女が初めて自分の弱さとして認めた言葉。


 あの時、私はそれを声明文から消しかけた。


 守るために。


 燃やさないために。


 でも、消していたら、今ここに立つミリア様の輪郭も一緒に消していた。


「誰かに必要とされていると思いました。私には価値があるのだと思いました。白い服を着て、祈りの言葉を言って、皆さまのために微笑めば、私はここにいていいのだと思えました」


 美しくない。


 だから、本物だ。


 記者席の奥で、灯火新聞の編集長が静かに頷いた。


 大手新聞社の記者の一人は、少し困った顔をしている。


 見出しにしづらいのだ。


 わかりやすい被害者でも、完全な加害者でもない。


 人間は見出しに向かない。


 それでも、見出しは人間を無理やり折りたたむ。


 ミリア様は続けた。


「そのせいで、私は見ないふりをしました。寄付金が届いていないこと。孤児院の毛布が足りなかったこと。私の名前で売られた香油の代金が、どこへ行ったのか。台本の中で、誰かが悪役にされていること」


 エレオノーラ様が、わずかに目を伏せた。


 ミリア様はそちらを見た。


 逃げなかった。


「エレオノーラ様」


 会場が息を呑む。


「私は、あなたを悪役にする台本を読みました。意味がよくわからないまま、そうすれば私が守られるのだと思っていました」


 エレオノーラ様は答えない。


 答えないことを選んでいる。


「ごめんなさい」


 ミリア様が頭を下げた。


 神殿式の優雅な礼ではなかった。


 聖女候補としての清らかな祈りでもなかった。


 少しぎこちない、年相応の謝罪だった。


 エレオノーラ様は静かに言った。


「受け取りました」


 許す、とは言わなかった。


 それでいい。


 許しは、会見で配る配布物ではない。


 ミリア様は顔を上げた。


「それから」


 紙を見た。


 指が震えている。


 私はその紙を知っている。


 ミリア様が、自分で書いた名前の紙だ。


 何度も書き直した。


 最初は「孤児院の皆さま」だった。


 次に「北方の方々」になった。


 その次に「薬師の方」となった。


 そして最後に、名前になった。


 彼女は声を出す前に、小さく息を吸う。


「東七番孤児院のリナ」


 会見場のどこかで、誰かが息を漏らした。


 リナ。


 孤児院の子。


 ミリア様の美談記事で、何度も「救われた孤児たち」とまとめられていた子。


 でも、ミリア様は今、その子を「孤児たち」と呼ばなかった。


「あなたは、私に言ってくれました。『ミリア様は、ちゃんと私の名前を呼んでくれた』と」


 私の胸が詰まる。


 第24話。


 孤児院。


 あの子は、ミリア様を責めなかった。


 でも言った。


 冬の毛布は来なかった、と。


「私は、その言葉に救われていました。けれど、あなたの冬の毛布が届かなかったことを、私はすぐに確かめませんでした」


 ミリア様の声が震える。


「ごめんなさい。名前を呼んだだけで、返事をした気になっていました」


 名前を呼ぶことは、大切だ。


 でも、名前を呼ぶだけでは足りない。


 私はその事実を、胸に押し込める。


 今は、ミリア様の言葉を聞く。


「北方の村のトマ」


 今度は、カイル様の肩がわずかに動いた。


 北方。


 王都が遠く、噂だけが近かった場所。


「私は、あなたの村に届かなかった支援のことを、長い間知りませんでした。けれど、知らなかったと言えば、それで終わることでもありません」


 ミリア様は紙を握りしめる。


「神殿の祈りの布には、『辺境にも祝福を』と書かれていました。でも、その祝福が本当に届いたか、私は確かめませんでした」


 外の広場から、ざわめきが届く。


「北方の子だ」


「トマって誰だ」


「いや、誰かは知らないけど」


「名前があるんだな」


 そう。


 名前がある。


 トマは「北方の子どもたち」ではない。


 リナは「孤児院の子どもたち」ではない。


 人は、まとめられると扱いやすくなる。


 でも、痛みも一緒に薄められる。


 ミリア様は次の名前を呼ぶ。


「神殿裏通りの薬師セラ」


 神殿席がはっきりと揺れた。


 この名前は、神殿にとって都合が悪い。


 神殿裏通り。


 香油の材料を納め、寄付薬を作り、神殿の美談の裏側を支えていた薬師。


 だが、抗議文は握り潰されていた。


 その存在は、第93話で私が呼ぶ予定の名前でもある。


 今、ミリア様が先に呼ぶ。


 私の胸の奥で、何かが小さく震えた。


 悔しさではない。


 嬉しさとも少し違う。


 これは、言葉が本人へ戻っていく音だ。


「あなたは、神殿に抗議文を出しました。香油の効能表示が危険だと。薬師の名前を勝手に使わないでほしいと。私は、その抗議文を直接読んでいませんでした」


 ミリア様は一瞬、目を伏せる。


「読まない方が、聖女候補でいられる気がしていました」


 会場が静まった。


 怖いほど静かだった。


 その言葉は、逃げ道を自分で塞ぐ言葉だ。


 自分を綺麗に見せない言葉。


 ミリア様は、続ける。


「ごめんなさい。私は、知らなかっただけではありません。知るのが怖かったのです」


 神殿関係者の一人が声を上げた。


「ミリア様、そのようなことをおっしゃる必要はありません!」


 火種が跳ねる。


【火種:神殿による再保護演出】

【火種:発言妨害】

【火種:聖女様を傷つけるな】


 ミリア様が肩を震わせた。


 反射的に、彼女の口が動く。


「皆さまのために――」


 また。


 昔の癖。


 でも、今度はそこで終わらなかった。


 ミリア様は自分で口を押さえた。


 それから、首を振った。


「違います」


 はっきりと言った。


「今のも、昔の癖です」


 会場の空気が、変わった。


「私は、皆さまのために祈る前に、私が傷つけた人の名前を呼ばなければいけません」


 神殿関係者が黙った。


 誰かが泣き始めた。


 それが誰かはわからない。


 外の広場でも、ざわめきは続いている。


「聖女様にそんなこと言わせるな!」


「本人が言ってるだろ!」


「でも、神殿が悪いんだろ?」


「じゃあミリア様は悪くないのか?」


「全部悪いか全部悪くないかじゃないだろ!」


 いい。


 その声は、まだ荒い。


 でも、少しだけ変わった。


 単純な悪役探しから、迷いへ。


 迷いは不安定だ。


 でも、迷いがない怒りよりは、人を踏みにくい。


 ミリア様は、紙を見つめた。


 次の行に進む。


「私は、聖女ではありません」


 その一文が出た瞬間、火種が一斉に浮かんだ。


【火種:信仰動揺】

【火種:神殿権威失墜】

【火種:元聖女詐称報道】

【火種:ミリア冒涜扱い】

【火種:信徒反発】


 怖い。


 これは燃える。


 私の中の危機対応係が、今すぐ補足文を入れろと叫ぶ。


『ここでいう聖女とは、神殿広報上の演出された役割を指し、信仰そのものを否定するものではありません』


 書ける。


 すぐ書ける。


 完璧に燃えにくい補足文だ。


 でも、今言えば、ミリア様の覚悟が薄まる。


 私は奥歯を噛んだ。


 エレオノーラ様が横目で私を見る。


 何も言わない。


 でも、視線が言っている。


 信じなさい。


 わかっています。


 胃にはわかっていません。


 あとで説得します。


 ミリア様は続けた。


「私は、聖女ではありません。神殿の台本通りに笑い、祈り、誰かを許す役を演じていたミリア・セレスです」


 彼女は紙を置いた。


 置いた。


 あの紙を。


 名前を書いた紙を。


 そして、両手を机の前で握る。


「でも、私は何もなかったことにはしたくありません」


 声は細い。


 でも、届く。


「私は、誰かに必要とされたくて、白い服を着ました。私は、怖くて、知らないふりをしました。私は、神殿に利用されました。私は、利用されている間、少しだけ安心していました」


 会場が静まり返る。


「その全部を、なかったことにしないでください」


 私は、息を忘れていた。


 ミリア様は顔を上げる。


「私を、かわいそうな聖女だけにしないでください」


 神殿席の誰かが泣いた。


「私を、悪い女だけにしないでください」


 記者の羽ペンが止まる。


「私は、ミリア・セレスです」


 その名前が、会見場に落ちた。


 白い布でも、祈りでも、広告でもない。


 名前。


 彼女自身の名前。


 私は火種を見る。


 消えてはいない。


 信仰は揺れる。


 神殿は反発する。


 ミリア様を叩く人も出る。


 でも、その中心に、いままで見えなかったものが見えた。


 火種ではない。


 空白でもない。


 輪郭だ。


 ミリア・セレスという、一人の輪郭。


 ミリア様は少し息を吐いた。


 そして、外の広場へ向けて言った。


「神殿前に集まってくださった方へ。私を心配してくださった方へ。ありがとうございます」


 柔らかい。


 でも、すぐに続ける。


「けれど、私の名前で誰かを押さないでください。私の名前で石を投げないでください。私の名前で神殿へ押しかけないでください」


 言葉が具体的だ。


 押さないで。


 石を投げないで。


 押しかけないで。


 祈りではなく、行動への返事。


「祈りたい方は、その場で祈ってください。帰り道で、隣の人を押さないでください。倒れた人がいたら、聖女を呼ぶ前に手を貸してください」


 誰かが小さく笑った。


 泣き笑いに近い声だった。


 ミリア様も、少しだけ笑いそうになった。


 でも、すぐに真剣な顔に戻る。


「私は、今日からすぐに正しい人にはなれません」


 すごいことを言う。


 私は心の中で赤線を引いた。


 残す。


 絶対に残す。


「でも、知らないふりをする人には戻りたくありません」


 会場の奥で、神殿監察官が記録水晶に手を置いた。


 正式記録。


 この言葉は残る。


「リナ。トマ。セラ」


 ミリア様はもう一度名前を呼んだ。


「あなたたちに、私は直接返事をしなければいけません。今日ここで謝っただけでは、足りません」


 私の胸がぎゅっとなる。


 そう。


 謝罪は終点ではない。


 入口だ。


 言葉は、言って終わりではない。


 返事は、続けなければならない。


「そして、私が名前を知らないまま傷つけた人たちへ」


 ここで、ミリア様は少し迷った。


 今までなら、ここで「皆さま」と言っただろう。


 けれど彼女は言わなかった。


「まだ名前を呼べない人たちへ」


 そう言った。


「私は、これから名前を聞きます。聞いて、記録します。逃げないように、誰かに一緒にいてもらいながら、少しずつ返事をします」


 完璧な言葉ではない。


 責任範囲も曖昧だ。


 実務的には、課題が山ほどある。


 誰が管理するのか。


 神殿記録はどこまで開示できるのか。


 危険な証人保護はどうするのか。


 返信窓口はどこか。


 私は頭の中で即座に担当表を組み始める。


 職業病である。


 でも、今はそれでいい。


 この言葉に、制度を追いつかせるのが私たちの仕事だ。


 ミリア様は最後に、少しだけ俯いた。


 それから、小さく言った。


「それから」


 会見場がまた緊張する。


 何を言うのか。


 神殿批判か。


 王宮批判か。


 追加証言か。


 ミリア様は、少しだけ頬を赤くした。


「昼食は、パンが好きです」


 一瞬、誰も反応できなかった。


 私は、危うく台本を落としかけた。


 来た。


 ここで来た。


 歴史的パン発言、再来。


 会場のどこかで、誰かが吹き出した。


 外の広場でも、波のように笑いが広がる。


 怒りの笑いではない。


 嘲笑でもない。


 少し困って、少し安心した笑い。


 ミリア様は慌てて言った。


「いえ、今のは、その、重要な証言ではないのですが」


 私は思わず小声で言った。


「重要です」


 ミリア様がこちらを見る。


 私は頷いた。


「それも本人の言葉です」


 ミリア様の目が、ほんの少し潤んだ。


 でも、泣かなかった。


 泣かないことを選んだのか、泣けなかったのかはわからない。


 わからなくていい。


 記録する必要もない。


 彼女は礼をした。


 聖女の礼ではない。


 神殿の所作でもない。


 ぎこちない、でも自分で選んだ礼。


「以上です」


 会場はすぐには拍手しなかった。


 それでいい。


 この発言は、拍手で簡単に終わらせるには重すぎる。


 外の広場から、声が聞こえる。


「ミリア様!」


「ミリアでいいんじゃないか」


「いや様はいるだろ」


「パン……」


「パンは大事だ」


「神殿は返事しろ!」


「孤児院の毛布はどうなった!」


「セラって薬師、知ってる。裏通りの!」


 声が変わっていく。


 怒りは残っている。


 むしろ、具体的な怒りが増えた。


 でも、向かう先が少し変わった。


 ミリア様個人を神輿にして暴れる声から、返事を求める声へ。


 完全ではない。


 危険はまだある。


 けれど、火の形が変わった。


 私はすぐに補足声明を出す。


『ミリア・セレス本人の発言を正式記録として保全します』


『本人は、神殿前での襲撃および重傷情報が虚偽であること、聖女候補としての演出および神殿による管理下で、自らも知らないふりをしていた責任があることを述べました』


『本発言は、神殿信仰そのものを否定するものではなく、神殿広報および聖女候補演出に関する本人証言です』


『東七番孤児院、北方村落、神殿裏通り薬師に関する記録は、証人保護と本人確認の上、順次照合します』


『会見場外および神殿前にいる方々は、移動時に周囲を押さず、王宮警備および灯火新聞の誘導に従ってください』


『ミリア・セレス本人への接触、詰問、追跡は、事実確認を早めません』


 書き終えて、私は気づく。


 私はまた、整えている。


 でも、今度はミリア様の言葉を削るためではない。


 彼女の言葉を、踏まれないように道を敷くためだ。


 それでも、危うい。


 正しい声明文だけでは、人を救えない。


 でも、正しい声明文がなければ、救おうとした言葉が踏まれることもある。


 難しい。


 危機対応、難易度が高すぎる。


 前世でも思った。


 今世でも思う。


 転生特典、もう少し胃に優しくできなかったのか。


 ミリア様が壇上から下りてくる。


 足元が少しふらついた。


 私は思わず手を伸ばしかけた。


 けれど、エレオノーラ様が先に立ち上がった。


 ミリア様を支えるのではなく、隣に立つ。


 支えすぎない距離。


 逃げ道のある距離。


 ミリア様は小さく言った。


「……怖かったです」


 エレオノーラ様は答えた。


「でしょうね」


「怒っていますか」


「ええ」


 ミリア様の肩が揺れる。


 エレオノーラ様は続けた。


「でも、今ここであなたを責める順番ではありませんわ」


「順番があるのですか」


「あります。貴族社会は順番にうるさいのです」


 ミリア様が、ほんの少しだけ笑った。


 その笑いは、神殿の微笑みではなかった。


 私は胸を撫で下ろす。


 会見はまだ終わっていない。


 公爵家。


 ミリア様。


 次は北方。


 カイル様の番だ。


 その前に、会場の奥で王宮記録官が駆け寄ってきた。


 顔色が悪い。


 広報局員以外も顔色が悪くなる夜。


 王宮全体が胃薬適応職場になっている。


「リディア殿」


「どうしました」


「地下封鎖命令に関する追加記録です」


 地下。


 ベルク様。


 民声収集。


 背中に冷たいものが走る。


「内容は」


「旧広報記録庫への立ち入り記録が一件、追加で確認されました」


「誰ですか」


 記録官は紙を差し出した。


 そこには、宰相補佐ベルク・アインハルトの名があった。


 時刻は、会見開始直前。


 そして目的欄には、こう書かれていた。


『民声保全設備の確認』


 民声。


 私はその二文字を見つめた。


 古い広報マニュアルにあった言葉。


 王宮標語。


 王宮は、常に民の声を聞いております。


 聞いているなら返事をしてください。


 冗談のつもりだった言葉が、今、喉の奥で冷たくなる。


 カイル様が紙を覗き込む。


「民声?」


「まだ、わかりません」


 私は答えた。


 わからない。


 でも、嫌な予感がする。


 王宮は、何を聞いていたのか。


 何を、返していなかったのか。


 その答えは、まだ地下にある。


 けれど今は、壇上に立つ人がいる。


 カイル様が、静かに前へ出た。


 剣を帯びている。


 でも、抜かない。


 彼の手には、北方の印章が押された文書束があった。


 出兵していない証拠。


 補助金遅延の記録。


 そして、父の援軍要請に関する古い記録。


 私は思わず聞いた。


「カイル様」


「何だ」


「長いです」


 彼は少しだけ紙束を見た。


「削るか」


 いつもの彼なら、そこで全部捨てただろう。


 でも今日は違う。


 私は首を振った。


「いいえ」


 彼は私を見る。


 私は、今度は笑わずに言った。


「今日は、ちょうどいいです」


 カイル様は一度だけ頷いた。


 そして壇上へ向かう。


 会場の空気が、また変わる。


 北方辺境伯。


 反乱疑惑。


 偽旗。


 閉ざされた北門。


 噂で父を失った男。


 第56話で机を割った人。


 今日は、剣ではなく文書を持っている。


 私は台本を握る。


 火はまだ消えていない。


 けれど、ここまで来た。


 エレオノーラ様が、悪役令嬢をやめなかったまま、人として立った。


 ミリア様が、嘘の聖女をやめて、名前を呼んだ。


 次は、カイル様が言葉で守る番だ。


 彼は壇上に立ち、紙束を机に置いた。


 そして、剣から手を離した。

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