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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
燃え残った言葉

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王宮炎上対応係、寿退職しません

 婚約発表は、朝一番で出すことになった。


 理由は単純である。


 昼に出すと昼食時に燃える。


 夕方に出すと夜通し燃える。


 ならば朝に出して、勤務時間内に燃えてもらうしかない。


 炎上にも営業時間という概念を導入したい。


 切実に。


「では、発表文を確認します」


 民声応答室の机の上に、私が作った婚約発表文の最終稿が置かれていた。


 向かいにはカイル様。


 隣にはエレオノーラ様。


 少し離れてミリア。


 さらに壁際には先輩を含む広報局員たちが並んでいる。


 なぜか灯火新聞の編集長までいる。


 あなたは呼んでいません。


「念のためだ」


 編集長はにこにこしている。


「号外の準備はしていない」


「なぜ紙束を持っているんですか」


「念のためだ」


「帰ってください」


「取材倫理上、発表前には書かない」


「帰ってください」


 カイル様が短く言った。


「帰れ」


 編集長は一瞬で姿勢を正した。


「発表後に外で待ちます」


 強い。


 辺境伯の短文は、今日も無駄に強い。


 ただし記者対応としては相変わらず危うい。


「カイル様、帰れ、は公的には」


「非公式だ」


「非公式でもだめです」


「難しい」


「十年くらい言っていますが、まだ難しいですか」


「難しい」


 先輩が小声で言った。


「十年は経っていませんよ」


「体感です」


 私は胃薬を一粒飲んだ。


 婚約発表の日に胃薬を飲むヒロイン。


 恋愛小説の華やかさは、どこへ行ったのだろう。


 いや、ここは王宮広報局である。


 華やかさより、まず誤字脱字と火種確認だ。


 私は紙を読み上げる。


『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインと、民声応答室所属リディア・ノートンは、互いの意思により婚約します』


 ここで火種が薄く浮かぶ。


【火種:辺境伯家による王宮職員取り込み疑惑】

【火種:職務中立性への疑義】

【火種:身分差婚約への貴族反発】

【火種:寿退職期待】

【火種:祝福を装った過度な取材】


 うん。


 出る。


 だが、想定内。


 火を見ると、前の私ならまず消すことを考えた。


 今は違う。


 火元を見る。


 疑義には説明を。


 反発には制度を。


 過度な取材には制限を。


 勝手な期待には、はっきり返事を。


 私は続けた。


『本婚約は、両名の私的意思に基づくものであり、民声応答室の職務判断、北方辺境伯家の公的権限、王宮内の人事判断とは切り分けて扱われます』


『リディア・ノートンは、婚約後も民声応答室に勤務し、現在担当する返答制度整備および地方請願確認業務を継続します』


 ここで先輩が拍手しかけて、慌てて手を止めた。


「寿退職なしですね」


「ありません」


「本当に」


「ありません」


「祝いながら戦力維持できる……」


「本音が漏れています」


 先輩は目を逸らした。


「いえ、祝福です」


「今のは人員計算でした」


「祝福八、人員計算二です」


「正直」


 エレオノーラ様が扇で口元を隠して笑った。


「民声応答室らしい祝福ですわね」


「もう少し花のある祝福が欲しかったです」


「花なら後ほどお届けしますわ。悪役令嬢救済相談窓口の開設祝いと兼ねて」


「兼ねないでください。婚約祝いと部署祝いを一緒にしないでください」


「実務的ですわよ」


「そこは実務的でなくていいんです」


 ミリアが小さく手を挙げた。


「私もお祝いを用意しました」


「ありがとうございます。何ですか」


「記録用紙です」


「ミリア様」


「名前を記録しやすいように、欄を大きくしました」


「ありがとうございます。仕事道具ですね」


「はい」


 満面ではないが、真面目な微笑み。


 ミリアらしい。


 聖女候補だった少女は、今では人の名前を書く欄の大きさにこだわる記録官になった。


 それは、とても大きな変化だ。


 私はその紙を受け取った。


「使います」


「はい」


「ただし、婚約祝いとしては後でパンも食べましょう」


 ミリアがぱっと顔を上げた。


「パンですか」


「パンです」


「では、記録します」


「それは記録しなくていいです」


「でも、大切です」


「大切ですが、自由で大丈夫です」


 ミリアは少し考えた。


「では、パンで」


「毎回そこに戻りますね」


 カイル様が横から短く言う。


「いい」


「何がですか」


「パン」


「カイル様まで」


「保存がきく」


「祝宴の基準が備蓄」


 恋愛小説の祝宴は、たぶんもっと華やかである。


 だが、私たちらしい気もした。


 発表文の最後を読む。


『婚約に関する問い合わせについては、私的事項への過度な取材を控え、職務上必要な確認事項に限り、王宮広報局を通じて受け付けます』


『なお、本婚約をもってリディア・ノートンが民声応答室を退職する予定はありません』


 私はここで一拍置いた。


 そして、最後の一文を読み上げる。


『王宮は、個人の人生を、職務上都合のよい物語に置き換えません』


 部屋が少し静かになった。


 エレオノーラ様が、ゆっくり扇を閉じる。


 ミリアが紙を見つめる。


 カイル様は、私を見ていた。


 私は紙を伏せた。


「以上です」


 先輩が小さく息を吐いた。


「燃えますか」


「少しは」


「ですよね」


「でも、燃えないように人を消すよりは、ずっといいです」


 先輩は一瞬黙って、それから頷いた。


「では、出しましょう」


 発表水晶に文面を流す直前、カイル様が私の袖を軽く引いた。


「リディア」


「はい」


「削らなかったな」


 何を、とは聞かなかった。


 わかっていた。


 最後の一文。


 個人の人生を、職務上都合のよい物語に置き換えない。


 これは、私自身への戒めでもある。


 私は今まで、何度も人を「扱いやすい形」に整えようとしてきた。


 傷ついた令嬢。


 清らかな聖女候補。


 沈黙する辺境伯。


 怒る民衆。


 悪い王太子。


 善い被害者。


 危険な火種。


 けれど、人は見出しではない。


 役割でもない。


 処理対象でもない。


 私自身も、誰かに救われて寿退職するための物語ではない。


 私は私の仕事を続ける。


 その隣で生きたい人を選んだだけだ。


「削りませんでした」


「いい」


 カイル様は短く言った。


 それだけで十分だった。


 発表水晶が光る。


 文面が王宮掲示水晶へ送信される。


 灯火新聞へ正式写しが渡される。


 貴族サロン向けの通達が出る。


 北方鐘楼へも伝令が走る。


 王都の朝に、私たちの婚約が流れた。


 そして――


 民声応答室は、三十秒だけ静かだった。


 四十秒目に、掲示板監視係が叫んだ。


「反応、来ました!」


「早い!」


「王都民、朝食を食べてください!」


 私は水晶掲示板を覗き込む。


『辺境伯の求婚文、短すぎて逆に燃えた』


『生涯信じる、強すぎる』


『炎上ではなく祝火』


『王宮広報局、今回は胃薬不要か?』


『いや飲んでるだろ』


『絶対飲んでる』


『広報官様、寿退職しないの?』


『しないって書いてある。読め』


『辺境伯、結婚後も短文なのか』


『むしろそこが信用できる』


『祝福する。でも民声応答室の返事は早くして』


 私は最後の書き込みで背筋を伸ばした。


「はい、仕事です」


 先輩が泣き笑いした。


「祝福の中に苦情が混じっています」


「混じっていて当然です」


 私は返答用紙を引き寄せた。


「婚約発表をしたからといって、未返信請願が減るわけではありません」


 エレオノーラ様が呆れたように笑った。


「あなた、本当に寿退職しませんのね」


「しません」


「北方へ行く気は?」


「行きます」


 カイル様がこちらを見る。


 私は続けた。


「ただし、仕事を辞めてではありません。王都と北方をつなぐ通信網整備、地方請願の返答制度、北方鐘三回ルールの王国版整備、そのために行きます」


 カイル様が短く言った。


「手伝う」


「はい」


「通信網も」


「はい」


「鐘も」


「はい」


「胃薬も」


「そこは手伝わなくて大丈夫です」


「備える」


「備蓄しないでください」


 先輩が横で真顔になった。


「胃薬備蓄は必要です」


「先輩まで」


「民声応答室の基盤整備です」


「胃薬は基盤ではありません」


「精神的基盤です」


「反論しづらい」


 民声応答室は、今日も少し騒がしい。


 それが、なんだか嬉しかった。


 旧危機声明管理室だった頃、この部屋は火を消す場所だった。


 誰かの失言を整え、誰かの失敗を薄め、誰かの責任を曖昧にし、誰かの声を安全な形に押し込める場所でもあった。


 私はそこで、前世と同じことを繰り返しかけた。


 燃えない言葉を選びすぎて、人の感情を置き去りにしかけた。


 でも今、この部屋には、返事を待つ紙が積まれている。


 怒りもある。


 苦情もある。


 誤解もある。


 無茶な要望もある。


 『王宮の返事が遅いので鳩を増やしてください』という請願もある。


 鳩は増やさない。


 鳥小屋になる。


 でも、返事はする。


 私は掲示板の祝福と茶化しを眺めた。


 火種は見える。


 けれど、その奥に声も見える。


 祝福したい人。


 茶化して距離を取る人。


 心配する人。


 仕事を忘れるなと言う人。


 そして、まだ自分の請願に返事が来ていない人。


「リディアさん」


 ミリアが、記録束を抱えて近づいた。


「東七番孤児院から返答確認が来ています」


「リナさんの件ですね」


「はい。冬用毛布の手配は、今年分については確認済みです。ただ、昨年分の未達理由がまだ不明です」


「昨年分の経路照合を続けましょう。孤児院には、今年分の到着予定日と昨年分の調査中であることを分けて返事します」


「わかりました」


 ミリアは名前欄に丁寧に線を引く。


 東七番孤児院のリナ。


 かつて「皆さま」と言っていた少女が、今は一人の名前を書く。


 それだけで、少し胸が熱くなる。


 別の机から声が飛んだ。


「北方の村、トマさんの橋梁請願、土木局から回答が来ました!」


「読み上げてください」


「『現時点では予算措置困難につき、来年度以降に再検討』です!」


「差し戻し」


 私は即答した。


「理由、時期、暫定対応がありません。『困難』で橋は渡れません」


 カイル様が頷いた。


「雪解けで落ちる」


「そうですね。暫定板橋、通行制限、危険表示の三点を土木局へ確認します。北方側には、王宮が再検討と言っただけでは終わらせないと返事を」


「俺も書く」


「お願いします。ただし『落ちるぞ』だけではなく」


「危ない。渡るな」


「短いですが、今回は使えます」


「よし」


 少し誇らしそうである。


 カイル様の成長は大きい。


 ただし、短文のままではある。


 次に、神殿裏通りの薬師セラさんからの抗議への追跡資料が来た。


 香油の効能表示、薬師名の無断使用、訂正広告の掲載位置。


 私は紙を受け取る。


「訂正広告が小さいですね」


 先輩が覗き込む。


「本文の三分の一です」


「だめです」


 私は赤字を入れた。


「誤情報で売った広告と同じ大きさで訂正してください」


「神殿側が嫌がります」


「嫌がるでしょうね」


「燃えます」


「燃やしたのは無断使用した側です」


 私はペンを置いた。


「訂正は、罰ではありません。傷ついた人の名前を元の場所に戻す作業です」


 ミリアが小さく頷いた。


「はい」


 そんなふうに、午前中は過ぎた。


 婚約発表は確かに広がった。


 祝福も、茶化しも、疑義も出た。


 貴族サロンからは『下級職員が辺境伯家に入るとは身分秩序が』という声が来た。


 私は返答案を書いた。


『本件は両名の私的婚約であり、王宮職務上の評価、爵位秩序、または民声応答室への請願処理優先順位に影響しません』


 エレオノーラ様がそれを見て言った。


「堅いですわね」


「身分秩序に対して柔らかく返すと、舐められます」


「もう一文、あなたらしいものを足したら?」


「私らしいもの」


 私は少し考えて、追記した。


『なお、リディア・ノートンは婚約後も通常通り勤務します。呼称についても、業務上はリディア・ノートンのままで差し支えありません』


 エレオノーラ様が微笑む。


「よろしい」


 先輩が言った。


「では、民声応答室内でもリディアさん呼び継続ですね」


「当然です」


「奥方様呼びは」


「燃やします」


「物理ですか」


「精神的に」


 カイル様が横で短く言った。


「俺も困る」


「なぜですか」


「照れる」


 全員が固まった。


 カイル様が、照れると言った。


 この人が。


 王宮大炎上の壇上で文書を読み、父の死を語り、剣を抜かずに守った人が。


 今、照れると言った。


 私は両手で顔を押さえた。


「カイル様」


「何だ」


「そういう言葉は、事前に予告してください」


「なぜ」


「私が燃えます」


「なら、燃える」


「だから気軽に燃やさないでください」


 広報局員たちが一斉に目を逸らした。


 先輩は胃薬を飲んだ。


「祝火ですね」


「違います」


「いえ、これは祝火です」


 もう否定しきれない。


 午後。


 王宮中庭で、小さな祝いの席が設けられた。


 大きな舞踏会ではない。


 貴族を集めた華やかな披露でもない。


 民声応答室、広報局、記録局、灯火新聞、北方の代表、エレオノーラ様、ミリア、そして地方行政へ向かう準備中のルーファス元殿下が顔を出す、ささやかな席だった。


 元殿下は山のような行政資料を抱えていた。


 顔色が、婚約破棄会見の時より悪い。


「リディア」


「はい、元殿下」


「報告書というものは、なぜ書いても書いても終わらないのだ」


「ようこそ実務へ」


「この文面で燃えないか見てくれ」


 渡された紙を見る。


『地方民の生活実態について、概ね問題なし』


 私は即座に赤を入れた。


「見ていないのに概ね問題なしと書かないでください。現場確認前の楽観は燃料です」


 元殿下が肩を落とす。


「……わかった」


 昔ならここで反発しただろう。


 今は一応聞く。


 成長である。


 ただし、成長しても報告書はひどい。


「殿下」


「もう殿下ではない」


「では、ルーファス様」


「何だ」


「謝罪文よりはましです」


「褒めているのか」


「はい」


「なぜ傷つく」


「実務とは、そういうものです」


 エレオノーラ様が隣で静かに笑った。


 ルーファス様は彼女に向き直る。


「グランフェルト公爵令嬢」


「はい」


「私は、まだ許されることを期待してはいない」


「賢明ですわ」


「だが、逃げずに書く」


「その報告書の出来で?」


「……直す」


「ええ。直しなさい」


 厳しい。


 でも、その厳しさの中に、完全な拒絶だけではない何かがあった。


 許しではない。


 忘却でもない。


 責任を続けさせる距離。


 それでいいのだと思う。


 ミリアは、少し離れたところで孤児院の子どもたちへの返信案を読んでいた。


 エレオノーラ様が近づく。


 二人の間には、まだ少し沈黙がある。


 簡単に仲良くはならない。


 けれど、ミリアが小さく頭を下げた。


「エレオノーラ様」


「何かしら」


「相談窓口の記録様式について、後で確認していただけますか」


「悪役令嬢救済相談窓口の?」


「正式名称ではない方の」


「残念ですわ」


「でも、欄に『本人がどう呼ばれたいか』を入れたいのです」


 エレオノーラ様の表情が少しだけ変わった。


「よろしいですわね」


「勝手な呼び名で記録しないように」


「ええ」


 短い会話。


 それでも、前へ進んでいる。


 私は少しだけ目を細めた。


 その視界の端で、灯火新聞の編集長がパンを食べながらメモを取っていた。


「編集長」


「食事記録だ」


「本当に?」


「本当に」


「見せてください」


 メモにはこうあった。


『婚約祝いの席、パンが多い。元聖女候補ミリア氏、満足げ』


 私はメモを返した。


「これは許可します」


「おお」


「ただし、見出しにしないでください」


「『祝宴、パンで鎮火』は?」


「却下」


「『辺境伯、パンを備蓄と評価』」


「却下」


「厳しい」


「平常運転です」


 夕暮れが近づく頃、祝いの席は自然と解散した。


 残ったのは、民声応答室の仕事と、私たちの明日からの日常だった。


 婚約したからといって、世界が終わるわけではない。


 全部が解決するわけでもない。


 民声の塔に溜まった声は、まだ山ほど残っている。


 返事を始めたことで、怒りが増えた場所もある。


 王宮への不信は、一日では消えない。


 ベルクの処分をめぐる議論も続いている。


 神殿改革も、新聞社の自主規定も、地方請願制度も、北方との通信網も、全部まだ途中だ。


 私たちは、第一歩を踏み出しただけだ。


 でも。


 第一歩を踏み出したという事実は、なかったことにはならない。


 夜。


 私は民声応答室の奥の壁の前に立っていた。


 第1話からずっと、そこにあった標語。


「王宮は、常に民の声を聞いております」


 金文字は、もう外されている。


 古びた跡だけが壁に残っていた。


 初めてこの標語を見た朝、私は胃薬を飲みながらぼやいた。


 聞いているなら返事をしてください。


 あの時は知らなかった。


 王宮が本当に聞いていたことを。


 聞いていて、返事をしていなかったことを。


 その沈黙が、人を燃やしていたことを。


 職人たちが新しい標語板を運んでくる。


 王宮上層部は、もっと柔らかい表現にしたがった。


『王宮は民の声に寄り添います』


 却下。


 寄り添うだけでは返事ではない。


『王宮は民とともに歩みます』


 却下。


 歩く前に返信してください。


『王宮は民の声を大切にします』


 却下。


 大切に保管して未返信だった過去がある。


 だから、私は譲らなかった。


 新しい標語は、短く、逃げない。


 職人が板を取り付ける。


 金具が鳴る。


 部屋にいた全員が、息を止めて見守った。


 新しい文字が、灯りを受けて浮かび上がる。


「王宮は、民の声を聞き、返事をします」


 私は、しばらく何も言えなかった。


 短い。


 でも、逃げていない。


 カイル様の言葉みたいだと思った。


 隣を見ると、彼も標語を見ていた。


「長いか」


 カイル様が聞いた。


「短いです」


「いい」


「はい」


「逃げていない」


 私は笑った。


「そうですね」


 この標語は、約束だ。


 そして、借金でもある。


 聞こえていたのに返事をしなかった国が、これから返事を続けるという重い約束。


 簡単ではない。


 きっと燃える。


 怒られる。


 間に合わない。


 間違える。


 訂正する。


 謝る。


 また返事をする。


 それでも、聞くだけで終わらせない。


 誰もお前の言葉など聞かない。


 あの日、王太子はエレオノーラ様にそう言った。


 その言葉が、この物語の最初の火種だった。


 でも今なら、私は答えられる。


 聞こえています。


 返事をします。


 私は机へ戻った。


 今日最後の未返信束を開く。


 先輩が悲鳴を上げた。


「リディアさん、今日はもう婚約祝いの日ですよ!」


「はい」


「休んでも」


「休みます」


「ではなぜ紙を」


「一通だけ」


「一通が十通になる人の言い方です」


 カイル様が横から言った。


「止めるか」


「止めません」


「なぜ」


「これは、私が選んだ仕事だからです」


 私は一通の請願を取り出した。


 差出人欄に、小さな字がある。


 地方の村。


 名前。


 要望。


 それは、国を揺るがす大事件ではない。


 王都を燃やす見出しでもない。


 ただ、橋の板が腐りかけていて、雨の日に子どもが落ちそうで怖い、という手紙だった。


 昔なら。


 混乱防止のため、回答を保留。


 予算措置困難につき再検討。


 担当部署へ共有済み。


 そんな言葉で、紙束の中に沈んだかもしれない。


 でも、今は違う。


 私は返答案を書き始めた。


『手紙を受け取りました』


 まず、それを書く。


 受け取ったことを返す。


『橋の板が腐りかけているとのご指摘について、土木局および地方監督官へ確認を開始します』


『確認完了予定日は七日後です』


『七日後までに暫定の通行注意札を出すよう、地方監督官へ依頼します』


『確認結果は、あなたの村の掲示水晶および文書で返します』


 完璧な解決ではない。


 橋は、この一文で直らない。


 でも、声は紙束の底に沈まない。


 返事が始まる。


 私は署名した。


『民声応答室 リディア・ノートン』


 婚約しても、この名前で署名する。


 私は、私のまま仕事をする。


 カイル様が横から紙を覗いた。


「長い」


「必要です」


「読む」


「ありがとうございます」


「手伝う」


 私は顔を上げた。


「では、北方通信網整備案の草案を読んでください」


 カイル様はわずかに固まった。


「長いか」


「長いです」


「……読む」


「えらいです」


「えらいのか」


「とても」


 先輩が遠くで泣きそうになっている。


 エレオノーラ様が扇で笑いを隠している。


 ミリアが新しい記録用紙に、今日の返答件数を書いている。


 灯火新聞の編集長は、扉の外で「第一部完結みたいな空気だな」と呟いて、先輩に追い出されている。


 私は笑った。


 胃は痛い。


 仕事は多い。


 火種は消えない。


 でも、もう私は、自分を誰かの尻拭い係だとは思わない。


 火を消すだけではない。


 声に返事をする。


 それが、私の選んだ仕事だ。


 そして、私の隣には、長い文章をしかめ面で読みながらも逃げない人がいる。


「カイル様」


「何だ」


「本日も燃えそうです」


「そうか」


「手伝ってくれますか」


 カイル様は、短く、迷わず答えた。


「手伝う」


 私は新しい標語を見上げた。


 王宮は、民の声を聞き、返事をします。


 ならば。


 今日も、始めよう。


「では、本日も返信を始めます」


 ペン先が紙に触れる。


 小さな音がした。


 それは火の音ではなかった。


 返事が始まる音だった。


                      〜完〜

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


『王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました

〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜』


これにて完結です。


婚約破棄会見から始まった小さな火種が、王宮、神殿、新聞社、貴族社会、民衆、そして百年以上返事をもらえなかった声へとつながっていく物語でした。


最初のリディアは、炎上を止める人でした。


けれど最後には、火を消すだけではなく、声に返事をする人になりました。


カイルもまた、言葉を憎む人から、言葉で守り、言葉で信じる人へと変わっていきました。


エレオノーラ、ミリア、ルーファス、そして民声応答室の面々も、それぞれ傷や失敗を抱えながら、少しずつ自分の言葉を取り戻していったと思います。


この物語の答えは、最後の一文に込めました。


炎上とは、声が大きいから起きるのではない。


返事をもらえなかった声が、燃え上がることでしか届かなくなった状態なのだと思います。


リディアたちの仕事は、ここで終わりではありません。


むしろ、ここからが本番です。


王宮は、民の声を聞き、返事をします。


そしてリディアは今日もきっと、胃薬を片手に返信を始めていることでしょう。


最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


感想、評価、ブックマークなどいただけましたら、とても励みになります。


そして、よろしければ最新作もぜひ読んでいただけると嬉しいです。


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こちらも楽しんでいただけましたら幸いです。

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