炎上対応係、最後の会見へ
最後の会見、という言葉は、書いた本人が一番ぎょっとした。
最後。
とてもよくない。
不吉で、重くて、見出しにされたら最悪だ。
『炎上対応係、最後の会見へ』
『王都大混乱、最終決戦か』
『王宮、いよいよ責任を認める?』
だめだ。
見出しの亡霊が脳内で勝手に踊る。
私の前世からの職業病である。
しかも踊りがうまい。
「……『最後』は消しましょう」
私は紙に赤線を引いた。
すると、横からセーラが覗き込む。
「でも、リディア様。さっき自分で『まだ削りません』っておっしゃってましたよね」
「気分と広報判断は別です」
「便利な言葉ですね」
「ええ。濫用すると燃えます」
赤線を引いた下に、私は書き直した。
『王都内同時混乱に関する公開説明会』
硬い。
とても硬い。
まるで王宮地下に眠る古い石板から削り出したような硬さだ。
読者が三行で寝る。
エレオノーラ様なら絶対にそう言う。
けれど、今は硬さも必要だった。
熱に浮かされた王都へ、柔らかすぎる言葉を投げれば、たぶん溶ける。
硬すぎれば刺さらない。
ちょうどいい硬さ。
広報文の硬度調整は、宝石職人より繊細で、鍛冶師より胃に悪い。
「セーラさん。現在の火元整理を」
「はい」
セーラは机の上に四枚の紙を並べた。
一枚目。
『グランフェルト公爵家反逆疑惑』
二枚目。
『北方辺境伯軍出兵疑惑』
三枚目。
『ミリア・セレス暗殺未遂疑惑』
四枚目。
『未回答請願および保留記録への怒り』
四枚目だけ、文字が少し震えている。
書いたのは私だ。
つまり、私の手が震えていた。
「三件の偽情報は、だいぶ崩せています」
セーラが言う。
「公爵家は倉庫目録と封印記録を灯火新聞が確認中。北門は閉鎖されたままですが、辺境軍出兵の事実はなし。ミリア様は無事で、ご本人発言も記録済み」
「では、なぜ王都はまだ燃えていると思いますか」
「……怒る理由が、噂だけじゃなくなったからです」
セーラの声が小さくなる。
私は頷いた。
そう。
火は、嘘から始まった。
でも、嘘だけで燃え続けているわけではない。
公爵家反逆の噂は、公爵家や貴族への長年の不信を吸った。
辺境伯出兵の噂は、王都と北方の断絶を吸った。
ミリア様暗殺未遂の噂は、神殿への怒りと、救われなかった人々の喪失を吸った。
そして今、王都のあちこちで、人々は自分でも名づけられない怒りを抱えている。
誰かを責めたい。
誰かに返してほしい。
誰かに、聞いてほしい。
その「誰か」が、燃える方向を探している。
「公開説明会で扱う項目を整理します」
私は筆を握った。
「一、三件の偽情報について、確認済み事実と虚偽を分ける」
書く。
「二、各所で発生した群衆行動について、負傷者と被害状況を確認する」
書く。
「三、誤報拡散に関与した可能性のある発信経路を示す。ただし、調査中の個人名は出さない」
書く。
「四、未回答請願および回答保留記録について、存在確認と今後の調査手順を示す」
筆が止まる。
セーラも黙る。
四。
これが一番燃える。
ここに触れなければ、会見は「誤報の訂正」で済む。
王宮の責任は、まだ限定できる。
ベルク様の情報操作。
神殿の煽動。
新聞社の見出し。
公爵家と北方とミリア様の当事者説明。
それで、表面の火は少し下がる。
けれど、神殿前で石を投げた女性の言葉は残る。
娘が死んだ。
薬が足りなかった。
神殿は祈れと言った。
王宮に請願を出した。
返事は来なかった。
それを、会見から外せるか。
外せる。
危機対応としては、その方が安全だ。
扱う範囲を広げすぎると、焦点がぼやける。
責任範囲が不明確になる。
新たな怒りが噴き出す。
今は三件の誤報鎮静を優先すべきだ。
そういう理屈は、いくらでも書ける。
前世で何度も書いた。
事案の範囲を限定し、調査中とし、関係各所と連携し、再発防止に努める。
綺麗な呪文だ。
だいたい人を救わない。
「リディア様」
セーラが心配そうに呼ぶ。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
「即答」
「でも書きます」
私は四番に赤い丸をつけた。
『未回答請願を外さない』
小さく書いた。
小さすぎる。
自分でも逃げているとわかる。
私はもう一度、強く書き直した。
『未回答請願を外さない』
今度は紙の繊維が少し傷ついた。
セーラがその文字を見て、息を呑む。
「……燃えますね」
「燃えます」
「会見前に胃薬を配ります?」
「配りましょう。参加者用、記者用、広報局員用、王族用」
「王族にも?」
「むしろ必要です」
そこへ、扉が開いた。
カイル様が入ってくる。
外套には埃がついていた。
北門近くまで行っていたのだろう。
だが、剣は抜いていない。
それだけを見て、私は少し息が楽になった。
「北門は?」
「開いていない」
「門番長は?」
「震えていた」
「責められていますか」
「民からも、上からも」
私は目を伏せた。
門番長の判断は間違っていた。
でも、彼もまた噂に追い詰められた一人だ。
群衆が押し寄せる中で、辺境軍が来るかもしれないと言われ、閉じろと叫ばれ、何か起きれば責任を問われる。
開けても燃える。
閉めても燃える。
それで閉めた。
彼を切り捨てるのは簡単だ。
でも、それをすれば、次に同じ立場に立つ者は、もっと早く何かを閉ざす。
「会見では、門番長個人を責任者として断定しません」
私は紙に追記した。
「ただし、閉鎖判断の経緯は公開します」
「曖昧だと言われる」
カイル様が言った。
「言われます」
「責任逃れとも」
「言われます」
「それでも?」
「個人だけに押しつけると、火元が隠れます」
カイル様は少しだけ目を細めた。
「火元を見る」
「はい」
「燃えている人ではなく」
「火をつけた場所を」
言いながら、自分の声が少し震えた。
その言葉を言い続けてきた。
でも今は、その火元が王宮そのものへ近づいている。
自分の足元に火が来ると、人は急に冷静ではいられなくなる。
私も同じだ。
「台本は」
カイル様が机の紙束を見る。
「今、作っています」
「厚いな」
「まだ序章です」
「……武器か」
「ある意味では」
そう答えた瞬間、広報局員たちが一斉にこちらを見た。
しまった。
縁起でもない比喩だった。
「投げませんよ」
「誰も聞いていません」
「先回りしました」
セーラが真顔で言う。
「リディア様が先回りすると、大体胃に来ます」
「的確な職場評価をありがとうございます」
カイル様は紙束を手に取った。
ぱらり、とめくる。
ぱらり。
ぱらり。
そして、少し眉を寄せる。
「長い」
「まだ半分です」
「全部読むのか」
「会見では要点版を読みます。詳細版は配布します」
「詳細版」
「証拠です」
「寝具ではない」
「覚えていてくださって嬉しいです」
カイル様は真顔だった。
褒めたつもりだったのに、伝わっていない可能性がある。
そこへ、エレオノーラ様からの通信水晶が光った。
水晶の中の彼女は、いつものように美しい。
ただ、耳元の髪が少し乱れている。
直していない。
それが、何よりも彼女の疲労を語っていた。
『リディア、こちらの倉庫目録確認が終わりましたわ』
「ありがとうございます。状況は」
『屋敷前の人数は減りました。ただし、減った分が北門と神殿へ流れた可能性があります』
「火種の移動ですね」
『ええ。悪役令嬢の興行収入が減っただけで、王都劇場はまだ満席ですわ』
「笑っていいところですか」
『笑っておきなさい。泣くのは後で足ります』
私は何も言えなくなった。
エレオノーラ様は続ける。
『会見に出ます』
「危険です」
『知っています』
「また悪役として見られる可能性があります」
『慣れております』
「慣れていても、痛いものは痛いです」
水晶の向こうで、エレオノーラ様が少しだけ黙った。
言いすぎたか。
そう思った瞬間、彼女は小さく笑った。
『そうですわね』
その一言だけで、胸が詰まる。
エレオノーラ様は強い。
でも、強い人が傷つかないわけではない。
私は、何度もそれを学んだはずだった。
なのに、危機になるとまた、彼女を「使える当事者」として見そうになる。
公爵家疑惑を鎮めるための証言者。
悪役令嬢と呼ばれた象徴。
民衆の怒りを受け止められる貴族。
違う。
彼女は、人だ。
「会見の順番ですが」
私は言った。
「エレオノーラ様を最初に立たせる案が最も効果的です」
水晶の向こうで、彼女は静かにこちらを見る。
私は続けた。
「ですが、それはあなたをまた見世物にする案でもあります」
セーラが息を止めた。
カイル様も黙っている。
「なので、私は二案作ります。エレオノーラ様が最初に立つ案と、王宮記録官が先に事実整理を読み、その後にエレオノーラ様が必要部分だけ話す案です」
『あなたの推奨は?』
「効果だけなら、エレオノーラ様が最初です」
『正直ですわね』
「人としては、二案目です」
『広報官としては?』
私は答えに詰まった。
ここで一瞬でも迷う自分が嫌になる。
エレオノーラ様は、その沈黙を見逃さなかった。
『リディア』
「はい」
『私は最初に立ちます』
「しかし」
『利用されるのは嫌いです。でも、自分で舞台を選ぶのは嫌いではありません』
「……はい」
『ただし条件があります』
「何でしょう」
『私の言葉を、無害にしないこと』
胸に刺さる。
第十九話で、彼女に言われた言葉。
私の怒りを、無害にしないで。
「約束します」
『それと』
「はい」
『私が詰まっても、あなたは助け舟を出さないこと』
私は息を止めた。
「……それは」
『私の沈黙も、私のものです』
水晶越しの彼女の目は、まっすぐだった。
私は頷くしかなかった。
「わかりました」
『よろしい』
エレオノーラ様は微笑んだ。
『悪役令嬢、最後の大舞台ですわ。衣装は控えめにしておきます。控えめすぎると「罪を隠す黒衣」と書かれますので、ほどほどに派手に』
「衣装にも広報判断があるんですね」
『社交界は布で殴る戦場です』
「物理より高度ですね」
『物理より高価ですわ』
通信が切れた。
私は会見台本の一枚目に書く。
『第一発言者:エレオノーラ・グランフェルト』
その横に小さく追記した。
『沈黙を奪わない』
次の水晶が光る。
ミリア様だ。
彼女は王宮記録局の小部屋にいる。
後ろには記録官が二人。
護衛が一人。
机の上には、何枚もの紙。
紙の端が少し折れている。
何度も読み直した跡だ。
『リディア様』
「ミリア様。体調は」
『パンを食べました』
私は一瞬、目を瞬いた。
「それは重要情報ですね」
『はい』
彼女は真面目に頷いた。
『食べないと、声が出ないと記録官に言われました』
「記録官さん、とても正しいです」
記録官が水晶の端で小さく礼をした。
ミリア様は紙を持ち上げる。
『会見で、私も話します』
「はい。ただ、無理はしないでください」
『無理は、少しします』
私は何も言えなかった。
ミリア様は続ける。
『今まで私は、無理をさせられていました。でも今は、自分で少し無理をします』
その違いは、大きい。
怖いくらいに。
「話す内容は、確認しますか」
『はい。けれど、削りすぎないでください』
「……皆さん同じことを言いますね」
ミリア様が少しだけ首を傾げる。
『皆さん?』
「いえ、こちらの話です」
私は彼女の草稿を読んだ。
美しい文章だった。
丁寧で、整っていて、やや神殿文に寄っている。
最初の一文はこうだった。
『このたびは、私に関する未確認情報により、皆さまを不安にさせてしまいましたことをお詫び申し上げます』
私は眉間を押さえた。
「ミリア様」
『はい』
「これはミリア様が悪いように読めます」
『私の名前で不安が広がりました』
「でも、あなたが噂を流したわけではありません」
『けれど、私の名前が使われました』
彼女の声は静かだった。
自罰ではない。
責任を引き受けようとしている。
でも、引き受けすぎるとまた利用される。
私は赤字を入れる。
『私に関する未確認情報が広がったことで、不安になった方がいることを受け止めています』
「謝罪ではなく、受け止めるにしましょう」
『受け止める』
「はい。していない罪まで謝らないでください」
言いながら、自分にも言っている気がした。
前世で、何度も逆のことをした。
していない罪を謝り、した罪を曖昧にした。
本当に向き合うべき相手から、目をそらした。
ミリア様の草稿を読み進める。
『私は、聖女候補として扱われることで救われていた時期がありました』
ここは削れない。
『同時に、その立場によって、誰かの苦しみを見えなくしていたことがあります』
ここも削れない。
だが、その次で私は止まった。
『東七番孤児院のリナ、北方の村のトマ、神殿裏通りの薬師セラに、私は謝りたいです』
早い。
まだ、第88話で回収する名前だ。
この会見準備段階で出すには危険だ。
名前を出せば、当人に取材が殺到する。
攻撃も向く。
守る準備がいる。
「この三名は、今は匿名にしましょう」
私は言った。
ミリア様の表情が揺れた。
『名前を消すのですか』
「今は、守るためです」
言った瞬間、自分の声が少し冷たく聞こえた。
守るため。
便利な言葉だ。
人の輪郭を削る時にも、使える。
ミリア様は黙った。
私は続ける。
「名前を呼ぶことは大切です。でも、今ここで名前を出せば、彼らに記者や怒りが向かう可能性があります。会見当日までに、本人たちの安全確認と発言許可を取ります。それまでは」
『それまでは』
「匿名です」
ミリア様は紙を見つめた。
長い沈黙。
私は助け舟を出しかけて、止めた。
ミリア様は、やがて頷いた。
『わかりました』
それは納得というより、選択だった。
少し痛い選択。
『でも、いつか名前を呼びます』
「はい」
『必ず』
「はい」
ミリア様は小さく息を吸った。
『では、そこに書いてください』
「何をですか」
『会見当日までに、名前を呼ぶ準備をする、と』
私は言葉を失った。
そして、書いた。
『ミリア発言内の個人名については、本人安全確認および同意手続き後、本人の意向に沿って扱う』
硬い。
また硬い。
でも、その横に私は小さく書いた。
『名前を消したままにしない』
ミリア様はそれを見て、少しだけ頷いた。
通信が切れると、部屋の空気が一段重くなった。
台本はさらに厚くなっている。
エレオノーラ様の発言案。
ミリア様の発言案。
北方側の証拠資料。
公爵家目録。
神殿前負傷者記録。
北門閉鎖経緯。
未回答請願の存在確認。
大手瓦版の見出し比較。
ベルク様が関わった可能性のある発信経路。
全部、紙になる。
全部、言葉になる。
言葉になった瞬間、燃える可能性が生まれる。
それでも、言葉にしなければ、なかったことにされる。
「リディア様」
セーラが震える声で言った。
「台本、今の時点で百二十七枚です」
「まだ想定問答がありません」
「胃が」
「私もです」
「質問、全部受けますか」
「全部は無理です」
「制限すると燃えます」
「無制限だと会見が壊れます」
私は新しい紙を出した。
『質問方針』
一、事実確認に関する質問を優先。
二、未確認の個人名、証人住所、保護対象の所在は答えない。
三、怒りや不安の表明は遮らない。ただし、特定個人への攻撃に移った場合は止める。
四、回答できない場合は、理由と次回応答時刻を必ず示す。
五、「調査中」のみで終わらせない。
私は五に二重線を引いた。
前世で、何度も使った。
調査中です。
確認中です。
回答を差し控えます。
便利だった。
そして、誰かを置き去りにした。
「これで、かなり燃えにくくなります」
セーラが言った。
「燃えにくく、です」
「燃えないとは言わないんですね」
「燃えない会見など存在しません」
私は紙束を見る。
よくできている。
自分でもそう思う。
事実、未確認、虚偽を分けている。
危険な証人は匿名にしている。
当事者発言を残している。
謝罪すべきところと、謝罪してはいけないところを分けている。
責任を曖昧にしないようにしている。
再発防止の手順も入れている。
優秀な台本だ。
前世の私が最後まで書けなかった、本当の危機対応に近い。
けれど。
まだ、何かが足りない。
何が足りないのかは、わからない。
私はその違和感を、紙の端に書こうとして、やめた。
まだ言葉にならない。
ならないものを無理に書けば、きっと嘘になる。
カイル様が私の顔を見ていた。
「不満か」
「台本としては、かなり良いです」
「なら」
「良すぎるんです」
「良すぎる」
「はい」
私は紙束に手を置いた。
「正しいです。整っています。燃えにくい。けれど、どこかでまだ、私は火を小さくすることを優先しています」
「駄目なのか」
「駄目ではありません。火を小さくするのが仕事ですから」
「なら」
「でも」
言葉が続かない。
カイル様は急かさなかった。
セーラも黙っている。
部屋の外では、まだ伝令が走っている。
王都は燃えている。
私はその中で、紙を積み上げている。
火に向かって紙を持っていくなんて、普通に考えたら正気ではない。
でも、私たちの仕事はいつもそうだ。
燃える場所に、燃えやすい言葉を持っていく。
燃えないように祈りながら。
「この台本には、私の言葉があまりありません」
ようやく言えた。
カイル様が少しだけ目を見開く。
「お前の言葉だろう」
「広報官としての私の言葉です」
「違うのか」
「たぶん、違います」
自分で言って、自分で怖くなる。
では、私の言葉とは何か。
わからない。
第93話までは、まだわからない。
今ここでわかったふりをしたら、きっと嘘になる。
「今は、これで行きます」
私は紙束を揃えた。
「完璧に近い台本で、まず火を下げます」
「その後は」
「その後に、考えます」
「考える時間があるか」
「作ります」
カイル様は短く頷いた。
「持つ」
「え?」
「台本」
彼は紙束を指した。
「重い」
「いえ、大丈夫です」
「倒れる」
「倒れません」
「前科がある」
「反論しづらい」
カイル様は紙束を持ち上げた。
確かに、武器みたいな厚さだった。
彼の手にあると、本当に鈍器に見える。
「殴らないでくださいね」
「殴らない」
「台本で殴った場合、見出しが最悪です」
「何になる」
「『辺境伯、言葉で殴る』」
カイル様が一瞬、真剣に考えた。
「悪くない」
「悪いです」
セーラが小さく笑った。
笑って、すぐに口元を押さえる。
笑うには、王都が燃えすぎている。
でも、それでも笑った。
その程度の余白は、まだある。
私はそれを守りたいと思った。
伝令が駆け込んできたのは、その時だった。
「リディア様!」
「今度はどこですか」
「宰相府です!」
「燃えましたか」
「いえ、ベルク・アインハルト宰相補佐が、王宮地下へ向かったとの報告です」
部屋の空気が止まった。
王宮地下。
私はすぐに意味がわからなかった。
だが、セーラが青ざめる。
「地下……旧広報記録庫の方ですか」
「はい。同行者少数。情勢整理室の職員二名。王宮古文書庫の鍵を使用したとのこと」
旧広報記録庫。
古い広報マニュアル。
民声収集。
混乱防止のため、回答を保留。
背筋が冷たくなる。
「なぜ今、地下へ」
私が呟く。
カイル様が台本を机に置いた。
「火元か」
私は水晶板を見る。
王都中の声が、まだ流れている。
怒り。
恐怖。
祈り。
請願。
噂。
未回答。
その全部が、どこかへ集まっているような気がした。
いや。
まさか。
王宮は、常に民の声を聞いております。
聞いているなら返事をしてください。
第1話の朝、自分でぼやいた言葉が、耳の奥で響いた。
冗談だった。
半分は。
でも、もし。
もし本当に、王宮が聞いていたのだとしたら。
聞いていて、返事をしていなかったのだとしたら。
「会見準備を続けます」
私は言った。
声が少し低かった。
「同時に、地下の確認を」
「誰が行きますか」
セーラが聞く。
私は答えようとして、カイル様を見る。
彼はすでに動く顔をしていた。
「俺が行く」
「駄目です」
「なぜ」
「辺境伯様が王宮地下へ向かえば、『辺境伯、王宮中枢を制圧』になります」
「面倒だ」
「はい。面倒なのでやめてください」
「なら誰が」
私は紙束を見た。
最後の会見台本。
完璧に近い、まだ私自身ではない言葉。
そして、王宮地下へ向かったベルク様。
あの人は、嘘をつかない。
でも、真実を有効な順に並べる。
もし地下に、民の声を集める何かがあるなら。
彼はそれを、会見より先に使う。
そう思った瞬間、火種が見えた。
【火種:民声記録の利用】
【火種:王宮標語の崩壊】
【火種:未回答請願の一斉露出】
【火種:ベルクによる最後の整理】
【火種:リディア会見前無力化】
私は息を吸った。
「私が行きます」
カイル様が即答した。
「駄目だ」
「なぜですか」
「危険だ」
「危険です」
「なら」
「でも、広報記録庫なら、私の管轄に近いです」
「近いだけだ」
「はい。そこを強弁します」
「強弁」
「炎上対応係は、ときどき法の隙間で胃を痛めます」
セーラが震える声で言う。
「笑えません」
「私もです」
私は台本を一冊、手に取った。
重い。
本当に武器みたいだ。
けれど、これを持って地下へ行くのは違う気がした。
私は一番上の要点版だけを抜き取った。
残りは机に置く。
「会見台本はここで複写を進めてください。エレオノーラ様、ミリア様、灯火新聞、王宮記録局へ共有」
「リディア様は」
「地下へ確認に行きます」
「お一人で?」
私は答える前に、カイル様が言った。
「一人では行かせない」
「辺境伯様は目立ちます」
「目立たないように行く」
「無理です」
「努力する」
「努力でどうにかなる体格ではありません」
セーラが一瞬だけ吹き出しかけた。
カイル様は真顔だ。
「俺は行く」
短い。
だが、譲らない声。
私は彼を見る。
ここで断れば、彼の言葉をまた削ることになる。
でも連れて行けば、火種になる。
守るために削るか。
燃えると知って受け取るか。
私は少しだけ目を閉じた。
「では、王宮護衛ではなく、広報調査室同行者として。剣は布で覆ってください。表の通路は使いません」
「わかった」
「あと、地下で何があっても、斬らないでください」
「斬らない」
「概念もです」
「……努力する」
「そこは断言してください」
カイル様は少しだけ目をそらした。
私は深く息を吸う。
最後の会見へ向かう台本は、まだ机の上にある。
私はまだ、その台本に頼っている。
整った言葉で、火を抑えようとしている。
けれど、その前に。
火元が、地下で口を開けている。
私は要点版の紙を胸に抱えた。
紙は薄い。
頼りない。
でも、今の私が持てる言葉はこれだけだ。
「行きます」
扉を開けると、王宮の廊下の奥から、冷たい風が吹いた。
地下へ続く階段の方角だった。
王都の声が、遠くで鳴っている。
鐘のように。
水晶のように。
返事を待つ誰かの息のように。
ベルク様は、その奥へ向かった。
そして私は、まだ完璧な声明文を捨てられないまま、その後を追った。




