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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
王都大炎上

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王都が暴徒化する

 人が走り出す瞬間は、意外と静かだ。


 怒号より先に、息が止まる。


 誰かが振り返る。


 誰かが後ずさる。


 誰かが「危ない」と言う。


 その一言が、別の誰かには「攻撃された」に聞こえる。


 そして、足音が増える。


 火は、燃え上がる前に、必ず空気を吸う。


「押すな!」


「誰か倒れたぞ!」


「神殿が隠してる!」


「王宮の護衛が押した!」


「違う、そっちが先に――」


 神殿前広場の外側で上がった悲鳴は、すぐに形を変えた。


 事実より先に、解釈が走る。


 誰かが倒れた。


 それだけなら事故だ。


 けれど、そこに「神殿が」「王宮が」「貴族が」「辺境伯が」と主語がついた瞬間、事故は事件になる。


 事件は敵を探す。


 敵を探す声は、人を押す。


「ミリア様、下がってください!」


 記録官が叫ぶ。


 ミリア様は一歩下がった。


 けれど、逃げなかった。


 顔は青い。


 手も震えている。


 それでも、広場の中央から目をそらしていない。


 私は彼女の前へ半歩出た。


 身体が勝手に動いた。


 広報官が盾になるな。


 自分でそう決めたはずなのに。


 今、私の足はミリア様の前にある。


 セーラならきっと言う。


 それ、盾では。


 私は心の中で返す。


 はい、反省は後でします。


「退避経路を開けてください!」


 私は護衛に指示を飛ばす。


「神殿門側ではなく、東側の薬師通りへ。負傷者の通路と交差させないでください」


「承知!」


「灯火新聞の記者さん、記録水晶を神殿門と群衆外側へ二つに分けてください。押した押されたの切り抜きを防ぎます」


「二つ!? うちは弱小紙なんですが!」


「今日だけ強くなってください!」


「無茶を言う!」


「王都はだいたい無茶で燃えています!」


 記者は泣きそうな顔で水晶を抱えて走った。


 その背中に白い祈り布が当たり、ふわりと落ちる。


 美しい布だった。


 美しいものが、今は足元で踏まれている。


 私は水晶板に即応文を打ち込む。


『神殿前広場において押し合いが発生しています』


『現時点で、攻撃者および意図的加害行為は確認されていません』


『倒れた方の救護を優先しています』


『周囲の方はその場で膝をつかず、救護通路を空けてください』


『「誰が押したか」の断定と拡散は控えてください』


 送信。


 だが、遅い。


 文字が流れた頃には、もう別の声が広がっていた。


『王宮護衛が神殿前の民を押し倒した』


『神殿が負傷者を隠した』


『ミリア様を守るために集まった民を王宮が排除』


『聖女を利用した王宮、民を踏む』


 違う。


 違う。


 違う。


 でも、違うと叫ぶだけでは止まらない。


 否定だけでは、人は足を止めない。


 その時、広場外側で石が飛んだ。


 小さい石だった。


 子どもの手でも拾えるくらいの。


 それが護衛の肩に当たった。


 鈍い音。


 護衛は倒れなかった。


 剣にも手を伸ばさなかった。


 それだけで、私は一瞬だけ泣きそうになる。


 ありがとう。


 抜かないでくれて。


 けれど、石を投げた人を見た瞬間、私は言葉を失った。


 若い女性だった。


 派手な扇動者ではない。


 貧しい服。


 髪は乱れている。


 片手には白い祈り布。


 もう片方の手は、石を投げた後の形のまま固まっている。


 彼女は泣いていた。


 怒っているのに、泣いていた。


「返してよ……」


 声が聞こえた。


「誰か、返してよ……」


 何を。


 誰を。


 その問いを、私はすぐには聞けなかった。


 怖かった。


 はっきりと、怖かった。


 石を投げた手が。


 泣いている顔が。


 自分でも誰へ向けているかわからない怒りが。


 私には、怖かった。


【火種:神殿前暴徒化】


【火種:護衛反撃】


【火種:王宮による民衆弾圧印象】


【火種:ミリア本人発言の混乱化】


【火種:祈りから怒りへの転化】


【火種:負傷者増加】


【火種:加害者探し】


 視界に火種がにじむ。


 火が多すぎる。


 どれを見ればいい。


 どれを消せばいい。


 どれを、消してはいけない。


 その時、私の肩を誰かが掴んだ。


「リディア」


 低い声。


 カイル様だった。


 見える場所に出ないと言ったのに、近い。


 だが、群衆の正面ではない。


 建物の影。


 退避経路の近く。


 剣は抜いていない。


「息をしろ」


「しています」


「浅い」


「よく見ていますね」


「見ている」


 短い返事。


 それが、なぜか今は助かる。


「怖いか」


 私は答えられなかった。


 広報官としては、ここで「大丈夫です」と言うべきだ。


 危機対応担当者は、恐怖を見せない。


 現場を安定させる。


 声を一定に保つ。


 でも、私は石を投げた女性を見てしまった。


 泣きながら怒る人を。


 自分でも何を返してほしいのかわからないまま、誰かへ石を投げる人を。


「怖いです」


 私は言った。


 カイル様は、責めなかった。


「そうか」


「民衆を怖いと思いました」


「そうか」


「最低ですね」


「違う」


「でも、私は今、民の声に返事をすると言っておきながら、民衆が怖いと思いました」


「声と石は違う」


 私は息を止めた。


 カイル様は続ける。


「怖がれ」


「え」


「怖がらない者は、踏む」


 第75話で彼が言った言葉を思い出す。


 痛がる者は、踏む前に見る。


 怖がる者も、きっと同じだ。


 私は震える息を吸った。


「……怖いまま、見ます」


「言え。見えた火を」


 私は頷いた。


「神殿前は、もう祈りだけではありません。怪我人が出れば、祈りは弔いになって、弔いは怒りになります」


「止めるには」


「敵を作らせないこと。誰が悪いかより、今誰が倒れているかを先に出すこと」


「書け」


「はい」


 私は紙を取り出した。


 手は震えている。


 字が少し乱れる。


 でも書く。


『神殿前広場で倒れた方について、現在、薬師二名と王宮記録局護衛により救護中です』


『倒れた方は、王宮護衛、神殿関係者、群衆のいずれによる攻撃とも確認されていません』


『いま必要なのは、加害者探しではなく、救護通路の確保です』


 私は一瞬、迷った。


 民衆に命令する言い方になる。


 反発される。


 でも、今は言う。


『白い祈り布をお持ちの方へ。祈るために掲げるのではなく、負傷者が通る道の目印として、地面に置いてください』


 セーラが駆け寄ってきて、文面を見た。


「祈り布を地面に置け、ですか。燃えません?」


「燃えます」


「ですよね」


「でも、掲げた布は群衆の合図になります。地面に置けば、通路になります」


「祈りを踏むなって怒られます」


「では、追記」


 私は筆を走らせる。


『祈りを踏むためではありません。生きている人を通すためです』


 送信。


 広場の水晶に文字が流れる。


 最初は、誰も動かなかった。


 当然だ。


 祈り布は、神殿が配った清らかな証だ。


 地面に置けと言われて、すぐ置けるものではない。


 すると、ミリア様が動いた。


 自分の手元に残っていた一枚の白い布を、ゆっくりと地面に置いた。


 誰も指示していない。


 彼女自身の動きだった。


 白い布が石畳に触れる。


 広場が静まった。


 ミリア様は震える声で言った。


「祈りは、踏まれるためではありません」


 少し間を置く。


「でも、生きている人を通す道になるなら、私は置きます」


 その言葉で、一人の女性が布を置いた。


 次に、老人が置いた。


 少年が迷って、置いた。


 白い線が、広場の中に少しずつ伸びていく。


 救護通路。


 祈りの道。


 どちらとも言える。


 私は胸を押さえた。


 言葉だけでは足りない。


 行動が必要だ。


 でも、行動に意味を与えるのもまた、言葉だった。


「神殿前、少し鎮まりました!」


 セーラが叫ぶ。


「少しだけですけど!」


「少しでいいです。少しを積みます」


「積む前に他が燃えています!」


「知っています!」


 知っている。


 水晶板の別面では、北門が赤く光っている。


『北門封鎖を求める群衆が門番と衝突』


『辺境軍侵入阻止のため門を閉じろとの声』


『北方商隊が通行できず荷崩れ』


『門前で子どもが泣いている』


 さらに別面。


 公爵街。


『グランフェルト公爵邸前で再び投石』


『公爵家の倉庫を開けろとの要求』


『使用人通用門付近で小競り合い』


 三つの火が、互いに燃料を送っている。


 公爵家が怪しいなら、北方も怪しい。


 北方が怪しいなら、ミリア襲撃も陰謀。


 ミリア襲撃が陰謀なら、公爵家も王宮も神殿も誰かを隠している。


 論理ではない。


 感情の網だ。


 ベルク様が作った網。


 そこに、王都中の不安が引っかかっている。


「リディア様!」


 灯火新聞の記者が駆け込んだ。


 肩で息をしている。


「大手瓦版が号外を出しています!」


 差し出された紙には、三つの見出しが並んでいた。


『公爵家疑惑、王宮説明に矛盾』


『北門封鎖要求、民衆から上がる』


『元聖女候補ミリア、王宮保護下で発言』


 どれも嘘ではない。


 だから厄介だ。


 公爵家疑惑に対する王宮説明は、一度間違えた。


 北門封鎖要求は、本当に民衆から上がっている。


 ミリア様は、王宮記録局保護下で発言した。


 嘘ではない。


 でも、その並べ方が、人を決めつけへ運ぶ。


 私は紙を見つめる。


「ベルク様は、嘘をついていませんね」


 カイル様が低く言う。


「刃だ」


「はい」


「紙の」


「はい」


 紙の刃は、刺さっても血が見えにくい。


 だから、何度でも刺せる。


 セーラが別の報告を持ってきた。


「宰相府から通達です」


 私は受け取る前から胃が痛い。


 読む。


『王都内各所における群衆行動の拡大に鑑み、以後、未確認情報および当事者発言に関する発信は、宰相府情勢整理室にて一元管理する』


『独自発信は、意図せぬ混乱を招く恐れがあるため控えること』


『現時点で、各所の火種を鎮静するため、民衆に対し帰宅勧告および集合自粛を統一的に呼びかける』


 綺麗な文だ。


 何も間違っていないように見える。


 でも、私は見える。


【火種:宰相府による発信一元化】


【火種:当事者発言停止】


【火種:ミリア発言の再封鎖】


【火種:エレオノーラ沈黙化】


【火種:北方確認網停止】


【火種:王宮応答遅延】


【火種:民衆不信増大】


 今ここで一元化されれば、誰の声が最初に消えるか。


 ミリア様。


 エレオノーラ様。


 北方。


 現場の負傷者。


 そして、石を投げた女性の「返してよ」という声。


 危険な声から、順に整理される。


 整理された声は、使いやすい物語になる。


「差し戻します」


 私は言った。


 セーラが、なぜか少しだけ笑った。


「ですよね」


「笑うところですか」


「いえ、胃が一周しました」


「戻ってきてください」


 私は赤字で書く。


『差し戻し』


『理由一。当事者本人による安全確認発言を、混乱防止を理由に停止することはできません』


『理由二。各所の群衆行動は一つの原因ではなく、異なる未回答の不安が結びついて発生しています。統一文による帰宅勧告のみでは、火元の確認になりません』


『理由三。帰宅勧告を行う場合、同時に各所の確認予定時刻、担当部署、次回応答時刻を明示してください』


『理由四。王宮、神殿、公爵家、北方のいずれか一機関のみを情報源とする統一見解は、現在の不信を拡大します』


 ここで筆が止まった。


 もう一文。


 危険な一文。


 でも、必要な一文。


『理由五。民衆の集合を「混乱」とのみ表現し、その背後にある不安、生活苦、保護不信、未回答請願を記録しない場合、同様の火種は再発します』


 送信。


 すぐに返答は来ない。


 だが、来る前に王都が動く。


 北門側の水晶が赤く光った。


『北門、閉鎖されました!』


 記録官が叫ぶ。


「誰の命令ですか」


『門番長の独断とのこと。群衆圧力により閉鎖』


「辺境軍は来ていないのに?」


『はい』


 私は目を閉じたくなった。


 閉じない。


 北門が閉じれば、北方商隊が止まる。


 物資が止まる。


 人が止まる。


 「北方が来る」という噂で閉じた門が、「王都が北方を拒んだ」という事実になる。


 噂が現実を作った。


「北門へ応答」


 私は書く。


『北門閉鎖について確認中です』


 違う。


 それだけでは遅い。


『現時点で、北方辺境伯軍の王都進軍は確認されていません』


『北門閉鎖は、辺境軍侵入の事実に基づくものではなく、門前群衆の圧力と門番長判断により行われたものです』


『閉鎖理由と再開条件を確認しています』


『北方商隊、通行中の民、門前にいる子どもと高齢者の安全確認を優先してください』


 私は一瞬、カイル様を見る。


「出していいですか」


「出せ」


「門番長判断と書きます」


「書け」


「北方商隊が止まったことも」


「書け」


「王都が北方を拒んだと受け取られます」


 カイル様の表情が少しだけ硬くなった。


 でも、彼は言った。


「事実だ」


「はい」


「なら、書け」


 私は送信した。


 火種が増える。


【火種:王都北方拒絶】


【火種:門番長責任追及】


【火種:北方商隊被害】


 だが、別の火が少し弱まる。


【火種:辺境軍侵入恐怖】


【火種:北門群衆突入】


【火種:門前暴力】


 全部は消えない。


 選ぶしかない。


 選ぶたびに、誰かが傷つく可能性がある。


 それが、怖い。


「公爵邸前、エレオノーラ様から通信!」


 セーラが叫んだ。


 水晶にエレオノーラ様の姿が映る。


 彼女は門前ではなく、二階のバルコニーにいた。


 紫の外套。


 背筋は伸びている。


 顔は白い。


 足元は映らない。


 映さないようにしているのかもしれない。


『リディア』


「はい」


『こちらは、倉庫開示要求が出ていますわ』


「開けますか」


『開ければ、群衆は中へ入ろうとします。開けなければ、隠していると言われます』


「はい」


『使用人を先に逃がしました』


「よかったです」


『よくはありませんわ。厨房長が鍋を持って逃げようとして、執事に叱られていました』


「鍋は置いてください」


『本人いわく、家宝だそうです』


 こんな時に、少しだけ笑いそうになる。


 笑えないのに。


 笑えることが残っている。


 それだけで、人は踏みとどまれる。


『こちらは灯火新聞に倉庫目録を渡します。王宮記録官の確認が欲しいですわ』


「出します。倉庫を開けるのではなく、目録と封印の確認ですね」


『ええ。舞台は開けません。記録だけ開けます』


 エレオノーラ様らしい言い方だった。


 悪役令嬢、最終公演。


 でも、舞台そのものを敵に渡さない。


「お気をつけて」


『あなたも』


 一拍。


 エレオノーラ様は、少しだけ目を伏せた。


『石は、小さい方が痛いですわね』


 私は息を呑んだ。


 彼女は笑った。


『今のは記録不要です』


「……はい」


 通信が切れる。


 私は記録しなかった。


 でも、覚えた。


 記録しないことと、なかったことにすることは違う。


 その時、神殿前広場でまた声が上がった。


 先ほど石を投げた女性が、護衛に取り押さえられかけていた。


「待ってください!」


 私は駆け寄った。


 護衛が手を緩める。


 女性は泣き崩れていた。


「違う、違うの、あたし、あんな、投げるつもりじゃ……」


 手のひらに、まだ石の粉がついている。


 私は膝をついた。


 怖い。


 近づくのが怖い。


 また石を投げられるかもしれない。


 掴まれるかもしれない。


 怒鳴られるかもしれない。


 でも、見ないといけない。


「お名前は、今は聞きません」


 私は言った。


 女性が顔を上げる。


「怪我人はいません。護衛の肩に当たりましたが、立っています」


 護衛が少し困った顔をした。


 肩は痛いだろう。


 後で謝る。


 正式に謝る。


「なぜ投げたのか、今すぐ話せますか」


 女性は口を震わせた。


「娘が」


 その一言で、周囲の音が遠くなった。


「娘が、神殿の施療院で死んだの」


 私は息を止めた。


「流行り病の時、薬が足りないって。神殿は祈れって。王宮には請願を出したって言われて。でも返事なんか来なくて」


 女性の声は、怒りより先に疲れていた。


「ミリア様が襲われたって聞いて、また誰かが消されるって思って」


 彼女は両手で顔を覆った。


「あたし、誰に怒ればいいかわからなくて」


 石を投げた。


 悪い。


 危険だ。


 許されることではない。


 でも、その石の奥には、返事をもらえなかった請願がある。


 神殿の施療院。


 薬不足。


 王宮への請願。


 未回答。


 まただ。


 また、返事がない。


 私の喉が痛んだ。


「今のお話を、匿名で記録してもいいですか」


 女性が私を見る。


「罰するの?」


「石を投げたことについては、確認が必要です」


 逃げない。


 ここで甘いことを言えば、それも嘘だ。


「でも、娘さんの件と請願については、別に確認します。石を投げたことを理由に、請願をなかったことにはしません」


 女性の顔が歪んだ。


 泣いた。


 私は手を伸ばしかけて、止めた。


 触れる権利があるかわからなかった。


「お名前は、今は聞きません」


 私はもう一度言った。


「でも、娘さんがいたことを、記録します」


 女性は声を出さずに泣いた。


 私は立ち上がる。


 水晶板には、まだ怒号が流れている。


 でも、私はもう「暴徒」とだけは書けない。


 書いてはいけない。


 セーラが震える声で言った。


「リディア様」


「はい」


「暴徒対応マニュアルを探したんですけど」


「ありましたか」


「薄すぎます」


「何ページですか」


「三ページです」


「三ページ」


「一ページ目が『落ち着いて対応する』です」


「燃やしたい」


「物理は禁止です」


「はい」


 少しだけ笑った。


 笑ってから、私は深く息を吸う。


 王都はもう、一つひとつの訂正では追いつかない。


 公爵家。


 北方。


 神殿。


 そして、施療院の娘。


 未回答の請願。


 返ってこなかった声。


 全部がつながり始めている。


 これは、三つの偽情報だけの問題ではない。


 ベルク様が撒いた火は、乾いた薪を選んで燃えた。


 その薪を乾かしたのは、王宮だ。


 神殿だ。


 新聞だ。


 私たちだ。


「カイル様」


「ああ」


「最後の会見が必要です」


 カイル様は、私を見た。


「今か」


「今すぐではありません。でも、準備を始めないと間に合いません」


「何を話す」


「三つの偽情報の訂正だけでは足りません」


 私は水晶板を見る。


 そこには、怒り、恐怖、祈り、疑い、生活苦、喪失、全部が文字になって流れていた。


「公爵家は反逆していない」


「辺境軍は出兵していない」


「ミリア様は襲撃されていない」


 それだけでは、もう足りない。


 それは事実だ。


 でも、火元ではない。


「王宮が、どれだけ返事をしてこなかったか」


 言葉にした瞬間、胃が縮んだ。


 怖い。


 それを言えば燃える。


 王宮は責任を問われる。


 貴族も神殿も新聞も巻き込まれる。


 私も燃える。


 今まで積み上げたものも、一緒に燃えるかもしれない。


 でも、言わなければ。


 また、誰かが石を投げる。


 自分でも誰へ向けているかわからない怒りを、誰かへ投げる。


「リディア」


 カイル様が言った。


「怖いか」


「怖いです」


「なら、見る」


「はい」


「一人で見るな」


「はい」


 私は頷いた。


 紙を取り出す。


 会見準備。


 最終ではない。


 でも、そこへ向かうための最初の紙。


 私は見出しを書いた。


『王都内同時混乱に関する総合説明会案』


 すぐに違うと思った。


 総合説明会。


 硬すぎる。


 遠すぎる。


 誰にも届かない。


 私は線を引いた。


 書き直す。


『王都大炎上に関する最後の会見案』


 セーラが覗き込んで、顔を引きつらせた。


「最後って、不吉すぎません?」


「言葉としては不適切です」


「じゃあなぜ」


「今の気分が出ました」


「削ります?」


 私は少し考えた。


 そして、首を振った。


「まだ削りません」


 完璧な文ではない。


 でも、今の私の怖さが入っている。


 私は続けて書く。


『目的』


『一、三件の偽情報に関する確認済み事実と虚偽の整理』


『二、各所で生じた群衆行動と負傷者の確認』


『三、王宮、神殿、新聞社、公爵家、北方、それぞれの発信経路の検証』


『四、未回答請願および保留記録の存在確認』


 四を書いた瞬間、火種が見えた。


【火種:王宮責任追及】


【火種:未回答請願連鎖】


【火種:民衆怒り再燃】


【火種:貴族反発】


【火種:神殿責任転嫁】


【火種:ベルクによる失敗整理】


【火種:リディア放火批判】


 多い。


 多すぎる。


 でも、逃げない。


 私は最後に一文を書いた。


『これは、噂の訂正だけでは終わらない』


 その時、宰相府から新たな通達が届いた。


 封蝋は黒。


 文面は短い。


『リディア・ノートン様』


『各所における独自応答により、民衆行動の鎮静は十分に達成されておりません』


『これ以上の混乱拡大を避けるため、王都内同時混乱については、宰相府主導による公式説明会を開催します』


『貴殿にも参考人として出席を求めます』


 参考人。


 発言者ではなく。


 責任者でもなく。


 参考人。


 ベルク様らしい、丁寧な位置づけだった。


 彼は、私を壇上から降ろすつもりだ。


 声を、整理するつもりだ。


 私は通達を机に置いた。


 手は震えている。


 でも、今度は止まらない。


「セーラさん」


「はい」


「灯火新聞へ連絡。エレオノーラ様、ミリア様、北方連絡網、王宮記録局へ同時通知」


「文面は」


 私は白紙の一番上に、改めて書いた。


『炎上対応係リディア・ノートンは、王都内同時混乱について、当事者および関係記録を伴う公開会見を提案します』


 まだ硬い。


 まだ完璧な文に寄ろうとしている。


 でも、次の一文だけは、少し違った。


『返事を待っていた声を、混乱という一語で片づけません』


 セーラが黙った。


 カイル様も黙った。


 広場の外では、まだ怒号がある。


 北門は閉じたまま。


 公爵邸前も燃えている。


 神殿前では、白い布の道を通って負傷者が運ばれている。


 石を投げた女性は、泣きながら記録官に話している。


 私は怖い。


 民衆が怖い。


 怒りが怖い。


 返事を始めることが怖い。


 でも、今ここで「暴徒」とだけ書けば、私はまた誰かの名前を消す。


「カイル様」


「ああ」


「会見台本、かなり長くなります」


「読む」


「武器みたいな厚さになります」


「持つ」


「投げないでください」


「投げない」


 少しだけ、笑った。


 その笑いの向こうで、王都の鐘が鳴った。


 一回。


 二回。


 三回。


 どこの鐘かは、まだわからない。


 噂か。


 祈りか。


 警鐘か。


 あるいは、返事を求める声か。


 私は白紙に向き直った。


 最後の会見の準備を始める。


 完璧な声明文に、まだ頼っている自覚があった。


 でも今は、それでも書くしかない。


 この火の中で、誰かの名前を消さないために。

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