聖女暗殺未遂の捏造
本人確認が取れない時、人は最悪の物語を信じる。
なぜなら、最悪の物語ほど、心の準備をした気になれるからだ。
ただし、その心の準備は、だいたい誰かを殴る準備に変わる。
『元聖女候補ミリア・セレス、神殿付近で襲撃され重傷か』
『神殿前に血痕との情報』
『王宮保護下のはずのミリア様、所在確認できず』
『聖女を守れ』
『神殿へ集まれ』
水晶板に文字が流れた瞬間、臨時広報調査室の空気が変わった。
公爵家反逆疑惑。
辺境伯出兵誤報。
そして、元聖女候補襲撃情報。
三つ目の火は、祈りの顔をしていた。
だから一番、扱いが難しい。
「本人確認は?」
私は記録官へ詰め寄るように聞いた。
声が少し鋭くなった。
自覚はある。
けれど、直せない。
『王宮記録局保護室の水晶が応答しません。扉前の記録官とも連絡が途絶えています』
「途絶えた時刻は」
『神殿前の鐘三回とほぼ同時刻です』
嫌な一致だった。
偶然なら胃が痛い。
必然なら国が痛い。
「保護室へ人を走らせてください。記録官二名以上、護衛一名以上。単独確認は禁止」
『承知しました』
「神殿区へは?」
セーラが紙束をめくる。
「神殿前に群衆。最初は二十人ほど。今は百人を超えています。祈りの輪ができていますが、一部が神殿門へ詰め寄っています」
「神殿側の発信は」
「出ました」
セーラの顔色が悪い。
私は受け取った紙を見た。
『元聖女候補ミリア・セレス様に関する痛ましい情報が広がっております』
『神殿は深い憂慮をもって事態を注視しています』
『清き祈りを妨げる者、聖なる少女を傷つける者を、神はお許しになりません』
私は紙を握りしめた。
破きたい。
だが、破った紙は証拠にならない。
広報官の理性とは、紙を破らないことから始まる。
「これは確認ではありません。怒りの誘導です」
カイル様が短く言った。
「煽っている」
「はい」
私は火種を見る。
【火種:ミリア襲撃情報】
【火種:神殿前群衆拡大】
【火種:王宮保護失敗疑惑】
【火種:聖女復権要求】
【火種:神殿による怒り誘導】
【火種:加害者探し】
【火種:王宮記録局襲撃】
【火種:ミリア本人発言の封殺】
胸の奥が冷えた。
本人確認が取れない。
この一点が、全部を燃やす。
私は白紙を引き寄せた。
「第一応答を出します」
筆を走らせる。
『元聖女候補ミリア・セレスに関する未確認情報について、現在、王宮記録局、神殿監察官、保護担当者に確認を行っています』
『現時点で、ミリア・セレス本人が襲撃されたとの公式確認はありません』
ここまでは書ける。
次。
私は一瞬、こう書きかけた。
『ミリア・セレスは王宮記録局保護下にあり、安全です』
筆が止まった。
安全。
確認が取れていないのに、安全。
前世で見た。
『当該製品の安全性に問題は確認されておりません』
問題を確認していなかっただけなのに。
私は赤線で消した。
セーラが息を止めて見ている。
「言い切らないんですか」
「言い切りたいです」
「はい」
「でも、まだ言えません」
言えないことを、言えないと出す。
それは弱い。
でも、嘘よりましだ。
私は書き直した。
『なお、王宮記録局保護室との連絡が一時的に途絶えているため、現在、記録官複数名による直接確認を行っています』
『確認予定時刻は、夜半第三刻です』
『確認前に、襲撃、死亡、重傷、拉致等の断定表現を拡散しないでください』
『神殿前および王宮記録局周辺への集合は、本人確認と安全確保を妨げる可能性があります』
『祈りを理由とする移動であっても、門前の圧迫、通行妨害、個人特定、加害者探しは控えてください』
「硬い」
カイル様が言った。
「今は硬くても必要です」
「届くか」
「届かない人もいます」
私は言いながら、自分で傷ついた。
でも、本当のことだ。
届かない人もいる。
全員に届く言葉などない。
それでも出す。
「送信」
水晶板へ第一応答が流れる。
反応はすぐだった。
『また確認中か』
『安全って言えないの怖い』
『連絡途絶えてるじゃん!』
『やっぱり襲撃されたんだろ』
『断定するなって言われてるぞ』
『神殿前に行けば情報出る?』
『行くなって書いてある』
『祈るなってこと?』
『祈るなとは書いてない』
『王宮はミリア様を隠してる』
『本人を出せ』
出せ。
その言葉が、一気に増えた。
私は唇を噛む。
本人を出せば、危険に晒す。
出さなければ、本人不在で物語が作られる。
この二択、どちらも燃える。
危機対応の仕事は、火が小さい方を選ぶことだと思っていた。
でも最近、私はそれが少し違うと知っている。
誰の火を小さくしているのか。
それを見ないと、また誰かの名前を消す。
「保護室から連絡!」
記録官の声が戻った。
『保護室、確認取れました!』
「ミリア様は」
『ご本人、室内におられます。怪我なし。ただし記録水晶の接続符が外されていました』
部屋中が息を吐いた。
けれど、私はすぐに聞いた。
「誰が外したんですか」
『不明です。扉に破壊痕なし。内部補助符のみ外されています』
内部。
つまり、保護室に出入りできる誰か。
王宮記録局内部か、許可された関係者。
私は胃を押さえた。
胃薬が欲しい。
でも、今は水晶の方が欲しい。
「ミリア様本人とつなげますか」
『ご本人が希望されています』
少しだけ、空気が止まった。
本人が希望。
その言葉は、怖い。
けれど、強い。
水晶が淡く光った。
揺れる像の中に、ミリア様が映る。
白い簡素な上着。
飾りのない髪。
顔色は悪い。
でも、立っている。
両脇には記録官が二名。
背後に護衛。
彼女は両手で紙を握っていた。
祈りの布ではない。
紙だ。
『リディア様』
「ミリア様、ご無事ですか」
『はい』
短い返事。
それだけで、胸の奥が熱くなる。
私はすぐに実務へ戻る。
「今、神殿前で襲撃情報が拡散しています。ご本人確認のため、短い発言を出せますか」
『はい』
「ただし、無理はしないでください。出れば、また切り取られます」
『わかっています』
ミリア様は、少しだけ口元を動かした。
笑ったのか、息を整えたのか、わからない。
『でも、私が黙ると、私の怪我が勝手に増えます』
私は黙った。
その表現が、あまりに正確だったから。
噂の中で、人は勝手に傷つけられる。
存在していない傷まで、見出しにされる。
「発言案をこちらで整えます」
言った瞬間、ミリア様が首を横に振った。
『まず、私が書きます』
記録官が少し驚いた顔をした。
私も驚いた。
でも、すぐに頷く。
「はい。お願いします」
ミリア様は紙を見た。
そして、小さく読み上げた。
『私は、無事です』
静かな一文だった。
部屋の誰も動かなかった。
ミリア様は続ける。
『今、王宮記録局の保護室にいます』
『私は、神殿付近で襲撃されていません』
『私の怪我や死亡を理由に、誰かを責めないでください』
そこで、声が少し揺れた。
『私を守るため、と言って、誰かを傷つけないでください』
私は紙を握った。
火種感知は、完全には消えない。
【火種:言わされている疑惑】
【火種:王宮保護下強調による神殿反発】
【火種:本人映像偽造疑惑】
【火種:ミリア発言切り抜き】
でも、同時に、いくつかの火が弱まる。
【火種:死亡説】
【火種:重傷説】
【火種:神殿前突入】
【火種:加害者探し】
私は息を吸った。
「ミリア様」
『はい』
「最高に重要な第一報です」
ミリア様が、ほんの少しだけ目を丸くした。
『……第一報』
「はい。生存確認は、世界で一番大事な広報です」
『生きています、だけでもですか』
「それがないと、全部が燃えます」
ミリア様は、紙を見下ろした。
その指が震えている。
『では、言います』
私は頷いた。
「映像記録を取りながら、同時に文字起こしを流します。よろしいですか」
『はい』
「途中で止まっても構いません」
『止まったら』
「止まった事実も、そのまま記録します」
ミリア様は、一度だけ深く息を吸った。
水晶の向こうで、彼女の肩が上下する。
それから、彼女は顔を上げた。
『私は、ミリア・セレスです』
『私は生きています』
その一文が、王都中の水晶に流れた。
神殿前の映像が切り替わる。
群衆がざわめく。
白い祈り布を握っていた女性が、顔を上げた。
少年が足を止めた。
神殿門の前で声を張り上げていた男が、口を閉じた。
ミリア様の声が続く。
『今、王宮記録局の保護室にいます』
『私は、神殿付近で襲撃されていません』
『私は、重傷ではありません』
『私は、死亡していません』
そこまで言って、ミリア様は一瞬だけ目を伏せた。
言葉が残酷だ。
自分の死を、自分で否定しなければならない。
そんな発言をさせていることが、悔しい。
でも、必要だ。
必要な言葉が、いつも優しいとは限らない。
『私の名前を使って、誰かを責めないでください』
『私を守るため、と言って、誰かを傷つけないでください』
『神殿前にいる方は、どうか押し合わないでください』
『祈ってくださるなら、そこにいる人を踏まないでください』
セーラが小さく泣きそうな顔をした。
「祈ってくださるなら、そこにいる人を踏まないでください……」
「強いです」
私は言った。
「ミリア様の言葉です」
神殿前の群衆に、波のような沈黙が広がった。
完全ではない。
一部はまだ叫ぶ。
『言わされてる!』
『王宮に囲われているからそう言うしかないんだ!』
『映像水晶なんて偽造できる!』
『本当に本人なら神殿前に来てください!』
来てください。
まただ。
本人を、火の中へ呼ぶ声。
善意の顔をした要求。
私はすぐに追加文を書こうとした。
『本人の安全確保のため、現地移動は行いません』
燃えにくい。
安全だ。
妥当だ。
でも、私の手は止まった。
ミリア様が水晶越しに私を見ていた。
『リディア様』
「はい」
『私は、行った方がいいですか』
問われた。
その瞬間、私は広報官として答えそうになった。
いいえ。
危険です。
映像で十分です。
現場に出ると、神殿側に囲まれます。
石を投げられる可能性もあります。
切り取られます。
利用されます。
燃えます。
全部、正しい。
正しい言葉が、口の中に並ぶ。
でも、それは答えではない気がした。
「ミリア様は、どうしたいですか」
言ってから、私は自分でも少し驚いた。
昔の私なら、聞かなかった。
危機対応上の最適解を出した。
本人の気持ちを、リスク欄の下に置いた。
ミリア様は黙った。
長い沈黙だった。
記録官が何か言おうとした。
私は手で制した。
待つ。
沈黙を、急がせない。
やがて、ミリア様は言った。
『怖いです』
「はい」
『外へ出たくありません』
「はい」
『でも、私がずっと部屋の中からだけ言うと、また誰かが私の代わりに祈ります』
その言葉に、神殿の鐘の音が重なった。
一回。
二回。
三回。
王都の鐘は、人を走らせる。
北方の鐘は、人を止める。
神殿の鐘は、祈りを集める。
いま、その祈りが怒りに変わりかけている。
『私は、行きます』
ミリア様は言った。
声は震えていた。
『ただし、神殿の壇上には立ちません』
私は目を上げた。
ミリア様は続ける。
『神殿の階段ではなく、神殿前の広場に立ちます』
『祈りの中心ではなく、人の前に立ちます』
その一文は、台本では出ない。
神殿の人間なら絶対に書かない。
私は、ゆっくり頷いた。
「承知しました」
セーラが青ざめる。
「行かせるんですか」
「行かせる、ではありません」
私は自分に言い聞かせるように言った。
「行くと言った人を、どう守るか考えます」
カイル様が一歩前へ出た。
「護衛を出す」
「目立ちすぎない人数で」
「俺が行く」
「駄目です」
即答した。
カイル様の眉が動く。
「なぜ」
「公爵家反逆、辺境伯出兵、ミリア襲撃。三つの噂が同時に動いています。ここでカイル様が神殿前に現れれば、『辺境伯が元聖女を保護しに神殿へ圧力』になります」
「なら、誰が守る」
「王宮記録局、神殿監察官、灯火新聞の記者、そして私が行きます」
「お前も危険だ」
「はい」
「なら駄目だ」
「駄目ではありません」
言ってから、私は気づいた。
少し声が強かった。
カイル様も気づいた。
でも、今回は引かなかった。
「お前が行けば、火元になる」
「私が行かなくても、火元はあります」
「守れない」
「守ってください」
カイル様が黙った。
私は続ける。
「剣ではなく、経路を。人ではなく、退路を」
カイル様の目が細くなる。
「退路」
「はい。神殿前から王宮記録局へ戻る道。群衆が崩れた時に逃げる道。誰かが押した時に倒れない間隔。剣を抜かずに守れる場所です」
カイル様は少しだけ考えた。
「わかった」
短い。
でも、逃げていない。
「俺は見える場所に出ない」
「ありがとうございます」
「だが近くにいる」
「はい」
「倒れるな」
「努力します」
「信用できない」
「今それを言いますか」
「今だから言う」
その言葉に、少しだけ笑いが漏れた。
笑える状況ではない。
でも、笑いがないと、人は恐怖だけで走る。
◇
神殿前広場は、白い布で埋まっていた。
祈りの布。
香油の匂い。
蝋燭の火。
誰かが泣いている。
誰かが怒鳴っている。
誰かが祈っている。
誰かが、祈るふりをして人を押している。
悪意だけではない。
だから怖い。
「ミリア様を出せ!」
「聖女様を返して!」
「王宮は何を隠している!」
「神殿が守るべきだったんだ!」
「いや、神殿が利用したんだろ!」
「誰がやったんだ!」
声が混ざる。
神殿の階段上には、白衣の神官たちが並んでいた。
彼らは祈りの姿勢をしている。
だが、その周囲に置かれた拡声水晶は、あまりにも準備がよかった。
私はそれを見て、胃が沈む。
ベルク様の匂いがする。
本人はいない。
けれど、発信順序と感情の置き方が似すぎている。
ミリア様は、私の横にいた。
記録官二名。
護衛三名。
灯火新聞の記者一名。
神殿監察官一名。
多すぎない。
少なすぎない。
それでも、群衆から見れば「囲まれている」と言われるだろう。
私は先に出した説明を、広場の水晶板にも流した。
『ミリア・セレス本人の希望により、神殿前広場にて短い本人確認を行います』
『神殿壇上ではなく、広場中央の記録水晶前で行います』
『発言の全文記録、映像記録、同時文字起こしを公開します』
『押し合い、接近、物品投擲が確認された場合、発言は中止し、本人を退避させます』
最後の一文で、群衆が少しざわめいた。
当然だ。
聞きたいなら、押すな。
それは脅しに見えるかもしれない。
でも、守るためには必要だ。
「リディア様」
ミリア様が小さく呼んだ。
「はい」
「足が震えています」
「私もです」
「リディア様も?」
「はい。私は胃も震えています」
ミリア様は一瞬だけ、笑いそうになった。
すぐに口元を引き結ぶ。
「笑っても大丈夫です」
「今笑ったら、不謹慎だと思われませんか」
「思う人はいます」
「では」
「でも、生きている人が笑うことまで、噂に奪わせなくていいです」
ミリア様は何も言わなかった。
ただ、紙を握る手の力が少しだけ変わった。
広場中央に設置された記録水晶が光る。
神殿側の神官が声を上げた。
「ミリア様、神殿の庇護へお戻りください!」
群衆が揺れる。
私は即座に記録官へ合図した。
文字起こし開始。
全発言を残す。
切り取らせない。
ミリア様が一歩前に出た。
白い衣装ではない。
簡素な上着。
飾りのない髪。
聖女候補の装いではない。
ただの、ミリア・セレス。
彼女は震えていた。
誰が見てもわかるほどに。
けれど、立っていた。
「私は、ミリア・セレスです」
拡声水晶がその声を広場へ広げる。
細い声だった。
それでも、届いた。
「私は生きています」
群衆が静まった。
完全な静寂ではない。
ざわめきと息遣いの中に、一本の細い道が通ったようだった。
「私は、神殿付近で襲撃されていません」
「私は、重傷ではありません」
「私は、死亡していません」
そのたびに、群衆のどこかから小さな声が漏れる。
「よかった」
「本当に?」
「言わされてるんじゃないの」
「顔色悪いぞ」
ミリア様の喉が動いた。
彼女は言葉を続ける。
「顔色が悪いのは、怖いからです」
私は思わず彼女を見た。
台本にない。
でも、強い。
「言わされているのではありません」
群衆がまた揺れた。
私は少しだけ息を止める。
その表現は危険だ。
言わされていない、と言えば、逆に疑われる。
しかし、ミリア様は続けた。
「そう言っても、信じられない方がいることは、わかっています」
ざわめきが止まった。
「私も、以前は、神殿の言葉を自分の言葉のように話していました」
神官たちの顔色が変わる。
私は筆を握りしめた。
今、彼女は自分で火の中に立っている。
「だから、今の私の言葉を疑う方がいることを、責めません」
「でも、今日は記録を残します」
「私が何を言ったか、誰が隣にいたか、誰が遮ったか、全部残してください」
記録官が息を呑んだ。
灯火新聞の記者が、凄まじい勢いで書き取っている。
ミリア様は続けた。
「私は、神殿に戻るためにここへ来たのではありません」
「王宮に隠れるために来たのでもありません」
「私の名前で、誰かが怒りを集めているなら、私が止めに来ました」
神殿側から声が飛んだ。
「ミリア様、あなたは混乱しています!」
その言葉に、私の視界が赤く揺れた。
【火種:精神不安定扱い】
【火種:本人発言無効化】
【火種:神殿保護名目】
私は前へ出そうになった。
だが、ミリア様が先に言った。
「はい。混乱しています」
広場が静まる。
「怖いです。混乱しています。手も震えています」
「でも、混乱していることと、私の言葉が私のものではないことは、同じではありません」
私は喉の奥が詰まった。
エレオノーラ様が聞いたら、きっと扇で口元を隠して笑う。
誇らしげに。
ミリア様は、神官を見なかった。
群衆を見た。
「私を守るため、と言って、誰かを傷つけないでください」
「私のために祈るなら、隣の人を押さないでください」
「私のために怒るなら、まず私の言葉を聞いてください」
白い祈り布が、少しずつ下がっていく。
誰かが泣いた。
誰かが「よかった」と言った。
誰かはまだ疑っている。
それでいい。
疑いは、悪ではない。
疑いを誰かへ投げつける時、火になるだけだ。
その時、広場の端で、誰かが叫んだ。
「じゃあ、誰が血を流したんだ!」
空気が変わった。
そうだ。
血痕。
噂の中の血。
あれが完全な嘘ではないなら。
伝令が駆け込んできた。
「確認取れました!」
私は振り返る。
「神殿裏通りで、白い外套の少女が転倒し、額を切っています。神殿見習いの少女です。ミリア様ではありません。現在、薬師の処置を受けています」
完全な虚偽ではなかった。
白い外套。
血。
少女。
そこへ、元聖女候補という名前をかぶせた。
ベルク様のやり方だ。
真実の一部に、方向を与える。
私はすぐに紙へ書いた。
『神殿裏通りで負傷した白い外套の少女について、本人はミリア・セレスではなく、神殿見習いであることを確認しました』
『負傷は転倒による額の裂傷であり、現在処置中です』
『当該少女の氏名は本人保護のため公開しません』
そこで、私は止まった。
氏名は公開しない。
でも、存在は消さない。
私はさらに書く。
『氏名を公開しないことを理由に、当該負傷者の存在をなかったことにはしません』
『ミリア・セレスに関する襲撃情報は虚偽です』
『ただし、神殿裏通りで負傷した少女がいることは事実です』
『混同された情報を訂正します』
送信。
広場の水晶板へ流れる。
群衆が、また揺れる。
『ミリア様じゃないのか』
『でも怪我した子はいるんだ』
『誰だよミリア様って言ったの』
『神殿見習い?』
『名前出さないのは隠してる?』
『本人保護って書いてある』
『なかったことにしません、っていいな』
『じゃあ最初の見出しは何だったんだ』
何だったのか。
それは、まだ言えない。
証拠がない。
でも、問いは残った。
問いが残れば、物語は少し止まる。
ミリア様は水晶板を見た。
そして、小さく言った。
「その子の名前を、私は知っていますか」
私は答えられなかった。
記録官が小さく首を振る。
「現在確認中です」
ミリア様は頷いた。
それから、紙を握り直した。
「私は、知らない名前を、たくさん利用していました」
その声は、拡声水晶には拾われないほど小さかった。
でも、私は聞いた。
「ミリア様」
「リディア様」
「はい」
「次は、生きています、だけでは足りませんね」
私は息を止めた。
ミリア様は広場を見る。
祈り布を握った人。
泣いている女性。
怒った顔の少年。
神殿の階段に立つ神官。
血を流した、名前のわからない少女。
「私は、皆さま、と言ってきました」
ミリア様は言った。
「便利でした」
その言葉は、美しくなかった。
だから、削れない。
「でも、便利な言葉で、私はたくさんの人を見ないで済ませていました」
彼女は震えていた。
でも、逃げていなかった。
「次に話す時は、名前を呼びます」
広場のざわめきが、遠くなる。
私は、白紙を一枚取り出した。
ミリア様のためではない。
ミリア様が、自分で書くための紙だ。
「では」
私は言った。
「誰の名前から始めるか、確認しましょう」
ミリア様は頷いた。
神殿の鐘は、もう鳴っていなかった。
けれど王都のあちこちで、まだ火は燃えている。
公爵邸。
北門。
神殿前。
三つの火は消えていない。
ただ、その中心にいた人たちが、少しずつ自分の言葉を取り戻し始めていた。
その時、広場の外側で、悲鳴が上がった。
誰かが押された。
誰かが倒れた。
別の誰かが、それを「攻撃だ」と叫んだ。
火は、まだ人を走らせる。
私は紙を握ったまま、群衆の方を見た。
王都は、まだ暴徒化の入口に立っていた。




