ベルク、国中に偽情報を流す
三つ同時に、返事を始めます。
そう言った直後、私は思い知った。
三つ同時に返事を始めるということは、三つ同時に胃が痛くなるという意味である。
職務上の発見としては、あまりにも得るものが少ない。
「まず分類します」
私は机に三枚の赤紙を並べた。
一枚目。
『グランフェルト公爵家、王都武器庫と接触か』
二枚目。
『北方辺境伯軍、王都北門へ進軍との情報』
三枚目。
『元聖女候補ミリア・セレス、神殿付近で襲撃され重傷か』
どれも、断定していない。
どれも、語尾に逃げ道がある。
か。
との情報。
重傷か。
この三文字が、どれほど人を動かすか、新聞社も神殿も王宮も知っている。
もちろん、ベルク様も。
「吐き気がしますね」
先輩が言った。
「三つセットを見ると吐き気がします」
「職業病です」
「治りますか」
「退職したら多少は」
「では治りませんね」
「はい」
私は筆を握り直した。
笑っている場合ではない。
けれど、笑わないと呼吸ができない。
この部屋にいる全員が、それを知っている。
臨時広報調査室の机は、すでに戦場だった。
伝令鳥が窓から飛び込み、記録官が走り、セーラが水晶板を操作し、ミリア様が記録局員に囲まれて所在確認文を書いている。
カイル様は北方連絡用の水晶を三つ並べ、短文を送っていた。
『兵は動かすな』
『噂。待て』
『鐘三回規定』
短い。
けれど、北方には届く。
王都には足りない。
だから私が補足する。
いつもなら、その作業は胃に悪いだけで済む。
今日は、命に関わる。
「三件を、真偽確認、安全確認、拡散経路確認に分けます」
私は紙に線を引く。
「真偽確認だけでは足りません。たとえ嘘でも、群衆が動けば危険です。まず当事者の安全確認。同時に、拡散経路を記録します」
セーラが頷いた。
「公爵家、北門、神殿ですね」
「はい。ただし、火元はそこだけではありません」
私は四つ目の印を置いた。
宰相府。
誰も声を出さなかった。
部屋の空気が、一瞬で重くなる。
私は続ける。
「三つの噂は、別々の経路で流れています。公爵家の噂は貴族サロンと大手瓦版。北方の噂は宿駅と門番周辺。ミリア様の噂は神殿布告と祈り札。三つを別々の不安として見せています」
「でも、同時に出た」
カイル様が言った。
「はい」
私は頷く。
「偶然ではありません」
ベルク様は、嘘を叫ばない。
彼は、必要な場所に、必要な順番で、不安を置く。
すると人々は、自分で物語を組み立てる。
公爵家が反逆する。
辺境伯が進軍する。
聖女が傷つけられる。
王都は危ない。
だから、強い秩序が必要だ。
綺麗すぎる。
吐き気がするほど、綺麗だ。
「第一応答、出します」
私は声に出しながら書いた。
『現在、王都および各地方において、複数の未確認情報が同時に拡散しています』
『王宮広報局および臨時広報調査室は、以下三点について、当事者の安全確認と事実確認を開始しました』
『一、グランフェルト公爵家に関する武器庫接触疑惑』
『二、北方辺境伯軍の移動に関する疑惑』
『三、ミリア・セレス様の安否に関する疑惑』
『現時点で、いずれについても、反逆、進軍、襲撃重傷を示す公式確認はありません』
『確認期限は、夜明け前第一刻とします』
『未確認情報を理由とした集合、移動、攻撃、抗議行動は控えてください』
書いて、私は手を止めた。
危ない。
三件の内容を明示した。
知らなかった人にまで知らせる可能性がある。
でも、曖昧にしすぎれば、当事者に届かない。
この時点で、完璧な選択肢はない。
どちらを選んでも燃える。
私はそのまま署名した。
「出します」
青白い光が走る。
王都中の水晶掲示板へ、第一応答が送られた。
同時に、視界の端で火種が跳ねた。
【火種:未確認情報の公式拡散】
【火種:三疑惑の固定化】
【火種:王宮対応遅延批判】
【火種:当事者宅周辺への移動】
胃が痛い。
でも、別の火種も少しだけ弱まった。
【火種:即時暴徒化】
【火種:北門封鎖暴走】
【火種:神殿前衝突】
少しだけ。
本当に、少しだけ。
「燃えていますか」
ミリア様が小さく聞いた。
彼女は自分の文を抱えている。
手が震えていた。
「燃えています」
私は正直に答えた。
「でも、出さないよりはいいです」
「出さないより」
「はい。黙っている間に、他人がミリア様の生死を書きます」
ミリア様は唇を結んだ。
その顔に、聖女候補の微笑みはなかった。
ただの少女の、怖がっている顔だった。
そして、怖がりながらも筆を持つ人の顔だった。
「では、私も出します」
彼女は紙を差し出した。
『私は、生きています』
最初の一文に、私は息を止めた。
無事です、ではない。
安全です、でもない。
生きています。
それは、公式文としては少し生々しい。
しかし、今必要なのは生々しさだった。
神殿は彼女を聖女として飾った。
噂は彼女を重傷者として利用した。
なら、本人の最初の一文は、これでいい。
『私は、生きています』
『現在、王宮記録局の立ち会いのもと、この文を書いています』
『神殿付近で襲撃され重傷を負ったという情報は、私本人の状況とは一致しません』
『私の名前を使って、誰かを責めたり、どこかへ集まったりしないでください』
私は読み終え、頷いた。
「良いです」
「少し、きつくありませんか」
「きついです」
「直した方が」
「直しません」
私が言うと、ミリア様は驚いたように顔を上げた。
「これはミリア様の言葉です。きつくて当然です。生きている人を、重傷者として勝手に泣かせたんですから」
ミリア様の指が、紙の端を握る。
それ以上、彼女は何も言わなかった。
私は記録局員へ向き直る。
「立ち会い印を。筆跡記録も添付してください。ただし、部屋の詳細位置は伏せます」
「承知しました」
水晶が光る。
ミリア様の短い文が、王都へ送られる。
数呼吸後、掲示板が反応した。
『ミリア様、生きてた!』
『よかった』
『でも本当に本人?』
『王宮が書かせたんじゃないの』
『生きています、って怖すぎる』
『誰がこんな噂流したんだ』
『神殿は何してる』
良い反応もある。
悪い反応もある。
疑いも、怒りもある。
それでも、「死んだ」「重傷だ」という火は、少し弱まった。
だが、すぐに別の書き込みが流れる。
『王宮がミリア様を囲っている証拠では?』
『本人確認なら姿を見せろ』
『王宮記録局立ち会いって監禁では』
セーラが唸った。
「一つ消したら、二つ燃えました」
「はい」
「これ、終わります?」
「終わらせます」
「今の返事、願望が強いです」
「ばれましたか」
私は次の紙を取る。
終わらせる。
ただし、どうやってかは、まだ白紙だ。
◇
北方の件は、カイル様が早かった。
いや、速かったのはカイル様ではなく、北方の仕組みだった。
鐘三回規定。
宿駅確認。
兵站記録。
門番照合。
噂が出た時に何を確認するかが、すでに決まっている。
父を噂で失った領地が、噂への備えを作っていた。
痛みから生まれた仕組みだ。
だから、私はそれを美談にしたくない。
「領都、宿駅、北門詰所から確認が来ました」
記録官が読み上げる。
『辺境軍主力、領都駐留。移動命令なし』
『王都近郊宿駅、北方軍旗確認なし』
『北門詰所、辺境伯家公式印を持つ軍列確認なし』
私はすぐに王都向けの応答文を書く。
『北方辺境伯家より、辺境軍主力は領都に駐留し、王都への移動命令は出ていないとの確認がありました』
『王都近郊宿駅および北門詰所においても、辺境伯家公式印を持つ軍列は確認されていません』
『「辺境伯軍が進軍している」との情報は、現時点で確認されていません』
そこまで書いて、私は止まる。
現時点で確認されていません。
便利な言葉だ。
でも、便利すぎる。
この言い方は、逆に「確認されていないだけで本当かもしれない」と読まれる。
私は赤線を引いた。
『確認されていません』では弱い。
しかし『虚偽です』と言い切るには、全経路の確認がまだ足りない。
この隙間が燃える。
「リディア」
カイル様が言った。
「俺が出る」
「駄目です」
即答だった。
また強い。
けれど今回は、理由も続けた。
「今カイル様が北門へ出れば、『辺境伯本人が北門へ移動』という事実だけが切り取られます」
「進軍ではない」
「見出しはそう書きません」
カイル様は黙った。
手が剣の柄へ向かいかけて、止まる。
触れなかった。
私はそれを見た。
見ただけで、何も言わなかった。
この人は今、言葉の内側に留まろうとしている。
「では、何を出す」
「文書です」
「俺の言葉か」
「はい。ただし、王都向けに補足します」
カイル様は少し考えた。
そして、紙に一文を書いた。
『俺は軍を動かしていない』
短い。
重い。
逃げていない。
私はそれを見て、補足を加える。
『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン本人は、王都への軍事行動を命じていないと明言しました』
『辺境伯家印章付き移動命令は発行されておらず、現時点で王都近郊に同家公式軍列は確認されていません』
『北方領内では噂発生時の鐘三回規定に基づき、公式確認まで軍民とも移動を控えるよう通達済みです』
最後に迷って、一文を入れた。
『北方の鐘三回は「噂確認」の合図であり、王都の国家緊急鐘とは意味が異なります』
セーラが覗き込む。
「熊は?」
「入れません」
「北方らしさが」
「今は北方らしさより誤解防止です」
カイル様が真顔で言う。
「熊は出ていない」
「そこも書きません」
「出たら?」
「出たら別件です」
「噂と同時なら」
「辺境伯様、熊から離れてください」
ほんの一瞬、部屋の空気がゆるむ。
その隙に、文書を送った。
掲示板の反応は早い。
『辺境伯本人が否定した』
『短い』
『短すぎて逆に本物』
『鐘三回って何』
『北方こわ』
『進軍してないなら誰が見たんだ』
『でも北門に北方っぽい人いたぞ』
最後の書き込みに、私は目を止めた。
同時に北門から追加報告が来る。
『北門付近に、北方紋に似た布を巻いた荷馬車あり。民衆が辺境軍の先触れと誤認』
胃が沈む。
完全な嘘ではなかった。
北方軍ではない。
でも、北方に見えるものはあった。
誰かが意図的に置いたのか。
偶然か。
まだわからない。
けれど、噂はもう走っている。
「荷馬車の所属は?」
「確認中です。商会印は泥で隠れています」
「泥で」
偶然にしては丁寧すぎる。
私は文面を書き足す。
『北門付近で、北方紋に似た布を掲げた荷馬車が確認されていますが、辺境伯家公式軍列ではありません。所属確認中です。近づかず、門番および王宮警備隊の確認を待ってください』
出す。
また反応が割れる。
『やっぱり何かいるんじゃないか』
『公式軍列ではないって何』
『私兵か?』
『偽装?』
『門閉めろ』
『近づくなって言われると見に行きたくなる』
先輩が頭を抱えた。
「人間、見に行くなと言われると見に行く生き物ですね」
「滅びてほしい習性です」
「広報局員としてですか」
「人類としてです」
私は北門への追加警告を書く。
その間に、三つ目の火が強くなった。
◇
公爵家の噂は、一番厄介だった。
なぜなら、一部だけ本当だったからだ。
グランフェルト公爵家は、王都武器庫と接触していた。
三日前。
儀礼用剣の点検と返却。
正式な登録記録あり。
違法性なし。
反逆準備ではない。
だが、「武器庫と接触した」という部分だけは、事実だった。
「……最悪です」
私は額を押さえた。
さっき出した第一応答には、こう書いた。
『反逆、進軍、襲撃重傷を示す公式確認はありません』
これは間違っていない。
ただし、私はその後に口頭で指示を出していた。
「公爵家が武器を集めている事実は確認されていない、と短文で出してください」
短縮しすぎた。
その結果、現場の記録官がこう出した。
『公爵家による武器庫接触の事実は確認されていません』
違う。
それは違う。
接触の事実は、ある。
反逆準備ではないだけだ。
エレオノーラ様からの水晶文が届いた。
『リディア。王都武器庫との接触記録は存在しますわ。儀礼用剣の点検返却です。否定しすぎです』
最後の一文が刺さる。
否定しすぎです。
正しい。
私は焦った。
またやった。
燃えない言葉を急ぎすぎて、事実の輪郭を削った。
「訂正します」
私は言った。
セーラが顔を上げる。
「今ですか」
「今です」
「燃えますよ」
「燃えます。でも訂正が遅れたら、もっと燃えます」
私は新しい紙に書いた。
『先ほどの短文応答において、「公爵家による武器庫接触の事実は確認されていません」とした表現は不正確でした。訂正します』
『グランフェルト公爵家と王都武器庫との接触記録は存在します』
『ただし、その内容は三日前に行われた儀礼用剣の点検および返却であり、武器集積または反逆準備を示す記録ではありません』
『確認不足のまま接触記録そのものを否定したことについて、訂正します』
手が痛い。
自分で自分の誤りを書くのは痛い。
でも、前世の私は、こういう訂正をよく後回しにした。
会社の信用を守るため。
問い合わせが増えるから。
責任を認める形になるから。
今、それをやったら、私はベルク様と同じ場所へ戻る。
「出します」
水晶が光る。
訂正文が流れた。
掲示板は、当然燃えた。
『やっぱり接触してたんじゃん』
『訂正早いな』
『早いけど怖い』
『儀礼用剣って何本だよ』
『公爵家が剣持ってるのは普通では?』
『普通でも今は怖い』
『リディア・ノートン、間違い認めたのは偉い』
『でも間違えるなよ』
最後の言葉に、私は小さく息を吐いた。
その通りだ。
でも、間違える。
間違えて、訂正するしかない。
完璧な対応はできない。
一つ訂正する間に、二つ燃える。
それが今夜の王都だった。
エレオノーラ様から、追加の文が届く。
『屋敷前の照明を落としました。使用人は裏手へ避難済み。門前に集まる者あり』
『私は屋敷内におります』
『門は開けません』
『開けないことを、隠しているからだと書かれるでしょう』
私はその最後の一文を長く見た。
わかっている。
彼女はわかっている。
門を開ければ危険。
閉めれば疑惑。
どちらも燃える。
それでも彼女は、使用人を守るために門を閉めた。
私は公爵家支援文を書く。
『グランフェルト公爵家は、屋敷周辺に集まらないよう呼びかけています』
『門を開けない判断は、屋敷内外の安全確保および使用人保護のためです』
『疑惑確認は王宮記録局、臨時広報調査室、灯火新聞立ち会い記録により行います』
『門前への集合は、事実確認を早めません。危険を増やします』
出す。
反応は、やはり割れる。
『門前への集合は事実確認を早めません、は草』
『正論だけど腹立つ』
『でも危ないなら行くな』
『公爵家が説明すればいいだけ』
『説明してるだろ』
『屋敷内からじゃ信用できない』
『出てこい』
出てこい。
その言葉に、火種が走る。
【火種:公爵邸門前集合】
【火種:エレオノーラ出頭要求】
【火種:使用人巻き込み】
【火種:悪役令嬢再固定】
私は唇を噛んだ。
次に燃える場所が見える。
公爵邸だ。
◇
その時、宰相府から正式な統一見解案が届いた。
美しい紙。
完璧な字。
無駄のない構成。
署名は宰相府広報調整官。
しかし、文体はベルク様そのものだった。
『王都内における複数の不安情報について、民衆の混乱を避けるため、各部署は独自の断定的発信を控え、宰相府統一見解を待つこと』
『現時点で不確定な情報を個別に否定することは、かえって民衆の不信を増幅させる恐れがある』
『当事者保護の観点から、情報公開は適切な順序に整理する』
『臨時広報調査室には、これ以上の独自発信を一時停止するよう勧告する』
勧告。
命令ではない。
けれど、従わなければ「混乱を招いた」と記録される。
見事だ。
こちらが何をしても、後で整理できる形にしてある。
従えば、沈黙する。
従わなければ、責任を負う。
私は紙を見つめた。
「リディアさん」
セーラが不安そうに言う。
「止めますか」
止めれば、燃える速度は一時的に落ちるかもしれない。
宰相府統一見解が出る。
綺麗な文章が王都に流れる。
民衆は、それを信じるかもしれない。
いや、少なくとも、動きを止める人はいる。
でも、その文章は、誰の名を消すだろう。
公爵家は「一部貴族」。
北方は「地方軍」。
ミリア様は「保護対象者」。
そして民衆は「不安を抱える皆様」。
名前が消える。
痛みが整理される。
怒りの向きが、別の場所に置かれる。
私は、もうそれを綺麗だと思いたくない。
「止めません」
私は言った。
「ただし、宰相府勧告への返答を記録に残します」
私は赤字で書く。
『宰相府勧告について、受領しました』
『臨時広報調査室は、未確認情報の断定的発信を避けます』
『ただし、当事者の安全確認、本人の所在確認、移動抑制のための初動応答については、統一見解を待つことにより危険が増すため、継続します』
『情報公開の順序を整理する場合は、整理前の原情報、整理者、整理時刻、公開保留理由を記録してください』
『当事者の存在および発言を、保護の名で消さないことを求めます』
書き終えた時、指先が冷たくなっていた。
怖い。
宰相府に逆らうのは怖い。
ベルク様に「あなたが国を燃やした」と言われる未来が見える。
いや、もう言われている。
それでも、私は署名した。
リディア・ノートン。
危機声明管理室。
臨時広報調査室。
この名前で、返事をする。
「出します」
水晶が光る。
宰相府への返答が記録される。
同時に、ベルク様から短い返事が来た。
『承知いたしました』
それだけ。
それだけなのに、部屋の温度が少し下がった気がした。
続けて、二文目。
『貴殿の判断を、時刻とともに記録します』
セーラが小さく言った。
「脅しですか」
「記録です」
私は答えた。
「ベルク様にとっては、同じ意味です」
カイル様が低く言う。
「斬るか」
「斬りません」
「殴るか」
「殴りません」
「机は」
「机も駄目です」
「全部駄目か」
「全部駄目です」
カイル様は、少し不満そうに黙った。
でも、剣には触れなかった。
その沈黙が、今は頼もしい。
◇
王都だけではなかった。
国中が燃え始めていた。
東街道の宿場から。
『王都で公爵家反逆との噂。地方請願の回答も止まるのではとの不安』
南部商会から。
『北方軍進軍の噂により、北向き荷が停止。塩と麦の価格上昇の兆し』
西市場から。
『元聖女襲撃の祈り札が出回り、神殿前に寄付行列』
北方領境から。
『王都が北方を疑っているとの噂により、若い兵が苛立ち。鐘三回で制止済み』
国中。
本当に、国中だ。
ベルク様は王都だけを燃やしていない。
王都が燃えれば、地方が不安になる。
地方が不安になれば、王都はさらに地方を疑う。
その循環を、彼は知っている。
知っていて、使っている。
「これ、三件じゃありませんね」
先輩が青い顔で言った。
「三つの火種から、何十件も派生しています」
「はい」
「三つセットを見ると吐き気がすると言いましたが、訂正します」
「何に訂正しますか」
「国中を見ると魂が抜けます」
「記録しておきます」
「しないでください」
私は地図を広げた。
赤い印が増えていく。
公爵家。
北門。
神殿。
東街道。
南部商会。
西市場。
北方領境。
王都中央広場。
広報局本庁。
宰相府。
火種感知が、追いつかない。
視界が赤く滲む。
私は思わず机に手をついた。
「リディア」
カイル様の声。
「見すぎるな」
「でも、見ないと」
「全部は見えない」
「見なければ、誰かが」
「お前一人で見るな」
その言葉に、私は息を吸った。
第80話の夜風が、一瞬だけ戻る。
お前一人で見るな。
私は頷いた。
「分担します」
声が少し戻った。
「公爵家はエレオノーラ様と灯火新聞。北門はカイル様と北方連絡網。ミリア様の件は王宮記録局と本人文。地方派生は、各地へ期限付き応答。私は全体文と拡散経路を見ます」
セーラが頷く。
「全体文、どうします」
「三つの噂を別々に否定するだけでは駄目です」
私は紙に大きく書いた。
『同時拡散について』
その文字を見た瞬間、火種が跳ねる。
【火種:情報操作疑惑公表】
【火種:宰相府との対立明確化】
【火種:王宮内部犯疑惑】
【火種:証拠不足批判】
危ない。
とても危ない。
でも、必要だ。
「この三件は、別々の噂として処理しません」
私は言った。
「同じ時刻帯に、異なる経路から、異なる不安へ向けて流された情報として扱います」
「それ、ベルク様への宣戦布告では」
セーラが言う。
「名前は出しません」
「出さなくてもわかる人にはわかります」
「はい」
「燃えますね」
「燃えます」
今夜、私は何度この言葉を言っただろう。
燃えます。
燃えるでしょう。
でも、燃えないために全部を隠すのは、もう違う。
私は書いた。
『現在拡散中の三件の未確認情報は、いずれも同時刻帯に、異なる情報経路を通じて急速に広がっています』
『臨時広報調査室は、各情報の真偽確認と並行して、拡散時刻、発信媒体、引用元の照合を行います』
『現時点で確認できている事項は以下の通りです』
『一、グランフェルト公爵家と王都武器庫との接触記録は存在します。ただし内容は儀礼用剣の点検返却であり、反逆準備を示す記録ではありません』
『二、北方辺境伯家より、王都への軍事行動命令は出ていないとの本人確認がありました。王都近郊に同家公式軍列は確認されていません』
『三、ミリア・セレス様本人より、王宮記録局立ち会いのもと、「私は、生きています」との所在確認文が出されています』
『上記三件について、未確認情報を理由とした移動、集合、攻撃、門前抗議、寄付誘導、物資買い占めを控えてください』
『不安を抱いた場合は、各地区代表または王宮記録局窓口へ、確認を求める文書を送ってください。口頭の噂を次の地区へ運ばないでください』
長い。
重い。
読まれにくい。
でも、今は短くできない。
編集長なら「冬眠用毛布」と言うかもしれない。
いや、今日は毛布でもいい。
せめて誰かの足を止められるなら。
「出します」
光が走った。
王都中へ。
地方連絡網へ。
灯火新聞へ。
公爵家へ。
北門へ。
神殿通りへ。
そして、宰相府にも。
◇
返事は、すぐ来た。
民衆から。
掲示板から。
通りから。
祈り札から。
石畳から。
『長い』
『読んだ。少し落ち着いた』
『つまり何?』
『公爵家は反逆してないってこと?』
『辺境軍はいないってこと?』
『ミリア様、生きてるの?』
『じゃあ誰が嘘を?』
『三つ同時って怖い』
『王宮の言うことが信用できるか』
『でも期限を書いてる』
『夜明け前第一刻まで待つ』
『待てない』
『公爵邸へ行けばわかる』
最後の書き込みが、何度も流れる。
公爵邸へ行けばわかる。
人は、見えない不安より、見に行ける不安へ向かう。
北方軍は遠い。
ミリア様の部屋は見えない。
でも、公爵邸は王都にある。
門がある。
灯りがある。
叩ける扉がある。
だから、最初にそこへ向かう。
「公爵街から報告!」
伝令が駆け込んだ。
息が切れている。
頬に土がついていた。
「グランフェルト公爵邸前へ、群衆が移動を始めています!」
部屋が静まり返る。
私は紙から顔を上げた。
火種感知が、赤く弾ける。
【火種:公爵邸門前衝突】
【火種:悪役令嬢再燃】
【火種:使用人被害】
【火種:貴族対民衆】
【火種:王都暴徒化第一波】
間に合わない。
いや。
まだ、間に合わせる。
「エレオノーラ様へ連絡!」
私は叫んだ。
「門前に立たないでください。屋敷内から出ない。灯火新聞を通して、門前集合の危険を流します。王宮警備隊へ、武器を抜かずに誘導。神殿通りと北門への人員は動かさない。これは分散誘導の罠です」
言葉が早い。
自分でもわかる。
でも、止まれない。
「カイル様」
「ああ」
「公爵街へ兵を出さないでください」
「出さない」
即答だった。
私は彼を見る。
カイル様は剣に触れていなかった。
「俺は文を出す」
そう言って、彼は紙を取った。
短く書く。
『公爵邸へ行くな。噂は門では確認できない』
私は、その文を見た。
短い。
でも、今は必要だ。
「補足します」
『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインは、現在拡散中の未確認情報について、公爵邸門前への移動を控えるよう呼びかけます』
『門前に集まることは、事実確認ではなく危険の増加につながります』
『確認は記録により行います。門を叩いても、真実は早くなりません』
最後の一文を見て、セーラが言う。
「強いですね」
「強すぎますか」
「でも、今は必要です」
私は頷いた。
出す。
カイル様の短い文と、私の補足が同時に王都へ走る。
エレオノーラ様からも返答が来た。
『承知しました。門前には立ちません』
『ただし、群衆が門を破ろうとした場合、私が出ます』
私は頭を抱えた。
「出ないでくださいって言ったばかりです!」
すぐ返す。
『出ないでください』
エレオノーラ様から返る。
『必要なら出ます』
強い。
強すぎる。
もう。
「悪役令嬢最終公演の気配がします!」
セーラが叫ぶ。
「縁起でもないことを言わないでください!」
私は筆を握る。
公爵邸へ向かう群衆。
門の内側にいるエレオノーラ様。
その背後にいる使用人たち。
外で怯えて怒る民衆。
そして、それを物語として見ているベルク様。
王都大炎上の最初の波は、公爵邸へ向かった。
私は白紙に次の見出しを書く。
『公爵家反逆の噂について』
その瞬間、窓の外で遠くから叫び声が上がった。
夜の王都に、民衆の足音が重なる。
最初の火は、グランフェルト公爵邸の門前で燃え上がろうとしていた。




