私たちは同じ火を見る
王都の鐘は、本来、噂では鳴らない。
鐘一回は、王宮門の開閉。
鐘二回は、火災。
鐘三回は、王族または国家緊急時の招集。
つまり、王都で鐘が三回鳴るということは、北方のように「噂だから落ち着け」という意味ではない。
むしろ逆だ。
王都では、鐘三回は民の足を止める。
顔を上げさせる。
耳を澄まさせる。
そして誰かに言わせる。
「何が起きた?」
その瞬間、噂は走る。
だから私は、三度目の鐘の余韻が夜の王宮に沈んだ時、胃の奥が冷たくなるのを感じた。
「……誰が鳴らしたんですか」
セーラの声が震えている。
窓の外、王都の灯りが揺れていた。
火事ではない。
暴動でも、まだない。
けれど、灯りの揺れ方でわかる。
人が外へ出始めている。
門前。
広場。
水晶掲示板の前。
神殿通り。
公爵邸へ続く大通り。
北門へ向かう石畳。
夜の王都が、眠るのをやめた。
「王宮鐘楼からの正式記録は?」
私は記録官を見る。
記録官は、青ざめた顔で記録水晶を覗き込んだ。
「鐘楼係からの起動記録がありません」
「つまり?」
「正式命令ではありません」
正式命令ではない鐘三回。
最悪だ。
鐘楼そのものが鳴ったのか。
それとも、王都中の小鐘が連鎖したのか。
あるいは、誰かが「鐘三回」という言葉だけを流したのか。
音を聞いた人間と、聞いていない人間が、同じ不安を共有し始める。
噂としては、これ以上なく効率がいい。
私は机の上の三枚の報告を見た。
一枚目。
『公爵家が武器を集めているとの噂あり。貴族サロン経由』
二枚目。
『北方兵が王都近郊に入ったとの未確認情報。北門付近に人だかり』
三枚目。
『元聖女候補ミリア・セレス様が神殿付近で襲われたとの書き込み。出所不明』
三つとも、まだ弱い。
断片だ。
でも、火種は弱くない。
それぞれが、別の感情に火をつける。
公爵家反逆疑惑は、貴族への恐怖。
辺境伯出兵誤報は、地方と王都の不信。
ミリア様襲撃情報は、信仰と同情と怒り。
三つを同時に置けば、民衆は一つを選ばなくていい。
全部に怯えられる。
私は唇を噛んだ。
「ベルク様……」
名前を出した瞬間、空気が少し重くなった。
証拠はない。
まだ、ない。
でも、設計が見える。
同時に違う感情を燃やす。
火元を分散させる。
対応を遅らせる。
そして、こちらが一つ訂正するたびに、残り二つの火が大きくなる。
実に有効。
吐き気がするほど、ベルク様らしい。
「まず三件まとめて否定を――」
言いかけて、私は止まった。
駄目だ。
三件まとめて否定すれば、まだ知らない人にまで三件を教えることになる。
広報初心者が一度はやる失敗。
『その噂は嘘です』と大声で叫び、噂の存在そのものを拡散してしまう。
前世でも見た。
今世でも何度も見た。
私は今、それをやりかけた。
焦ると、人は自分の知っている最悪の手順へ戻る。
「リディアさん?」
セーラがこちらを見る。
「今、危ないことを言いかけました」
「自覚できたなら半分勝ちです」
「残り半分が火事です」
「いつものことですね」
「慣れたくありません」
私は新しい紙を取った。
初動応答。
全部は書かない。
でも、何も言わないわけにはいかない。
沈黙すれば、ベルク様が「整理」する。
誰かが、綺麗な嘘で空白を埋める。
「第一応答は、噂の具体内容を広げずに出します」
私は口に出しながら書いた。
『現在、王都内において、複数の未確認情報が同時に拡散しています』
『王宮広報局および臨時広報調査室は、関係機関、当事者、地方連絡網に確認を開始しました』
『現時点で、いずれの情報についても公式確認はありません』
『未確認情報を理由とした移動、集合、攻撃、抗議行動は控えてください』
『第一確認時刻を、夜明け前第一刻とします』
『確認できた事項から順次、発信元と確認経路を明示して応答します』
書き終えると同時に、先輩が身を乗り出した。
「噂の中身を書かないんですね」
「書けば広がります」
「でも、何のことかわからない人も出ます」
「はい」
そこが痛い。
具体性を避けると、届かない。
具体性を出すと、広がる。
どちらも燃える。
私は少し迷って、最後に一文足した。
『すでに特定の家門、地方軍、保護下の個人に関する噂を耳にした場合も、公式確認前の断定と拡散は避けてください』
家門。
地方軍。
保護下の個人。
ぎりぎりだ。
具体的すぎず、でも当事者には伝わる。
セーラが読み、眉を寄せた。
「これ、読み取れる人には読み取れますね」
「はい」
「読み取れない人には?」
「届きません」
「燃えますね」
「燃えます」
完璧ではない。
でも、完璧を待っていたら、ベルク様の方が先に返事をする。
私は送信用の記録水晶に文面を乗せた。
「出します」
青白い光が走る。
第一応答が王都へ散る。
その瞬間、火種感知が視界の端で揺れた。
【火種:未確認情報の存在拡散】
【火種:内容不明による不安増幅】
【火種:王宮対応遅延批判】
【火種:関係者探し】
【火種:ベルク側による空白利用】
胃が痛い。
けれど、同時に別の火種も少しだけ弱まる。
【火種:即時暴徒化】
【火種:当事者襲撃】
【火種:北門群衆移動】
完全ではない。
でも、少しだけ足を止めた。
今は、それでいい。
今だけは。
◇
第一応答を出した後、私たちは役割を分けた。
エレオノーラ様は公爵家への確認と社交網の制御。
ミリア様は王宮記録局立ち会いのもと、自身の所在確認文の準備。
カイル様は北方連絡網へ、兵の位置と鐘三回の確認を送る。
灯火新聞は大手瓦版の動きを監視。
王宮記録局は鐘楼記録と広報局内部通知の照合。
私は全体の文面管理。
言うのは簡単だ。
実際には、部屋が鳥小屋になった。
伝令鳥。
水晶通知。
記録官。
護衛。
社交界からの使者。
神殿監察官。
胃薬を探す先輩。
全員が同時に動く。
「鳥が多いです!」
セーラが叫んだ。
「鳥に文句を言わないでください。今夜の鳥は味方です」
「味方でも羽が散ります!」
「掃除は明日考えます」
「明日が来る前提で話してくれて安心しました!」
その会話を聞きながら、私は次の応答案を書いた。
だが、筆が止まる。
情報が足りない。
足りないのに、何かを書かなければならない。
この状態が、一番危ない。
人は、空白に物語を入れたくなる。
ベルク様のように。
神殿のように。
新聞社のように。
そして、私のように。
「リディア」
エレオノーラ様が私の前に立った。
いつの間にか外出用の手袋をはめている。
濃い紫の外套。
目立つ。
あまりにも目立つ。
「エレオノーラ様、その格好は」
「公爵家へ戻ります」
「今ですか?」
「今だからですわ。屋敷前に人が集まる前に、私が立ちます」
「駄目です」
即答だった。
強すぎた。
エレオノーラ様の眉が少し上がる。
「駄目?」
「危険です」
「危険だから行くのです」
「違います。危険だから、今は情報確認を優先して――」
「リディア」
彼女の声は静かだった。
「また、私を安全な場所に置こうとしていますわね」
言葉が詰まった。
違う、と言いたかった。
でも違わない。
私は、彼女を守りたい。
傷ついてほしくない。
石を投げられてほしくない。
悪役令嬢の見出しに、もう戻ってほしくない。
その気持ちは本物だ。
けれど、本物だからこそ危ない。
本人の選択を「守る」の名で奪いかける。
「……はい」
私は認めた。
「今、少しそうしました」
「よろしい」
よろしいのか。
叱られているのか。
たぶん両方だ。
エレオノーラ様は扇ではなく、手袋の指先を軽く整えた。
「私は屋敷へ戻ります。ただし、屋敷前には立ちません」
「本当ですか」
「あなた、私を何だと思っていますの」
「悪役令嬢最終公演の予告犯です」
「失礼ですわね。半分当たっていますけれど」
「当たっているんですか」
「屋敷内から声明を出します。姿は見せず、使用人を避難させ、門前の照明を落とす。集まりやすい舞台を消します」
私は瞬きをした。
強い。
派手に立つのではなく、舞台そのものを閉じる。
彼女は、自分が見られることの危険を知っている。
見られ慣れている人だからこそ、見せない選択ができる。
「それなら、支援文を作ります」
「ええ」
「門前に集まらないよう、近隣へも」
「お願いしますわ」
エレオノーラ様は私を見る。
その顔はいつも通り美しい。
強い。
だけど、手袋の端が少しだけ歪んでいる。
私はそれに気づいた。
直さなかった。
直す役目ではないと思った。
「気をつけてください」
「ええ」
「怖かったら」
そこまで言って、私は止まった。
怖かったら戻ってください、は違う。
怖いのは当たり前だ。
怖いから行かない、とは限らない。
私は言い直した。
「怖いことも、記録します」
エレオノーラ様は一瞬だけ黙った。
そして、少し笑った。
「では、見出しにしないでくださいませ」
「もちろんです」
彼女は外套を翻し、部屋を出ていった。
扉が閉まった後、ミリア様が小さく息を吸う。
「私も」
全員の視線が向いた。
ミリア様は手元の文書箱を抱きしめていた。
「私も、所在確認の文を出します」
「出しましょう」
私はすぐに頷いた。
止めない。
止めたい気持ちはある。
でも、止めない。
「ただし、今は短く」
「はい」
「『私は無事です』で十分です」
「それだけでいいのですか」
「最高に重要な第一報です」
ミリア様は少し目を見開いた。
そして、ほんのわずかに笑った。
「では、それを書きます」
彼女は自分で紙を取る。
手は震えていた。
けれど、筆を持った。
『私は、無事です』
そこで止まる。
ミリア様は少し考え、もう一文足した。
『今、王宮記録局の立ち会いのもと、確認文を書いています』
私はその文を見た。
美しくはない。
でも、本人の足元がある。
「良いです」
「燃えませんか」
「多少は燃えます」
「多少」
「でも、言わされている疑惑への対策にもなります。立ち会い記録を添えましょう」
「はい」
ミリア様は頷いた。
神殿の台本とは違う。
短くて、震えていて、必要な文。
こういう文章を、私は何度も守り損ねてきたのだと思う。
◇
カイル様は、窓際で北方への短文を組み立てていた。
机の上には、北方連絡用の小型水晶が三つ並んでいる。
領都。
北門詰所。
王都近郊の宿駅。
彼の文面は、当然短い。
『兵は動かすな』
『鐘三回確認』
『噂。待て』
私は横から覗き込み、思わず言った。
「短いですね」
「足りないか」
「足ります」
悔しいが、足りる。
北方では、これで通じる。
王都向けにそのまま出したら燃えるが、北方連絡網にはこれが最速だ。
誰に届けるかで、必要な言葉の長さは違う。
前世の私なら、全部同じ調子で整えようとした。
今も時々やる。
危ない。
「王都向けには補足します」
「頼む」
「はい」
私は紙を取り、北方声明の王都向け補足案を書く。
『北方辺境伯家は、現時点で王都への軍事行動を命じていません』
『王都近郊宿駅、北門詰所、北方領都の三経路において、辺境軍の移動なしとの確認を開始しています』
『北方領内では、噂発生時の鐘三回規定に従い、公式確認まで移動を控えるよう通達済みです』
ここで、少し迷ってから一文足す。
『なお、鐘三回は北方において「噂確認」の合図であり、王都における国家緊急鐘とは意味が異なります』
必要だ。
王都の鐘三回と混同される。
セーラが文面を見て頷いた。
「これ、わかりやすいです」
「本当ですか」
「熊の説明も入れますか」
「入れません」
「和みますよ」
「今和ませると、不謹慎で燃えます」
カイル様がこちらを見た。
「熊は出ていない」
「そこではありません」
「出たら書く」
「出ても優先順位は低いです」
「熊は危険だ」
「噂も危険です」
「同列だな」
「北方理論に染まってきていて怖いです」
ほんの少しだけ、部屋に笑いが生まれた。
笑える時に笑うのは大事だ。
笑いは問題を解決しないが、呼吸を戻す。
ただし、その笑いはすぐに途切れた。
灯火新聞から第二報が届いたからだ。
『大手瓦版、朝刊差し替え準備』
『見出し案確認』
『公爵家反逆疑惑、北方出兵疑惑、元聖女襲撃疑惑を別面で同時掲載予定』
私は紙を握った。
「別面で同時掲載……」
最悪だ。
一面にまとめない。
別々の記事として出す。
読む人間は、三つが別々の火事だと思う。
でも、紙面全体では一つの物語になる。
王都は危ない。
貴族は信用できない。
地方軍が迫っている。
聖女すら傷つけられる。
だから、強い秩序が必要だ。
その結論に誘導するための、三点配置。
「ベルク様ですね」
セーラが言った。
「証拠はまだありません」
「でもリディアさんの顔が、証拠は後で取るって顔をしています」
「顔の治安が悪いですね」
「はい」
私は否定しなかった。
ベルク様は、たぶん直接嘘を書かない。
彼は、嘘を必要な順序で並べる人間だ。
いや、違う。
嘘でなくてもいい。
未確認。
疑念。
不安。
それらを、結論へ向かう階段にする。
その階段を上らせられた人は、自分で考えたつもりになる。
だから強い。
「火を消すだけでは足りません」
私は呟いた。
部屋の音が少し遠のく。
「一つずつ訂正しても、間に合いません。訂正は必要です。でも、それだけだと、向こうの物語の中で追いかけるだけになります」
「なら」
カイル様が言った。
「火元まで行く」
私は彼を見た。
短い。
でも、今は十分すぎる。
「はい」
私は頷いた。
「火元を見ます。燃えている人ではなく、火をつけた場所を」
カイル様は剣の柄に目を落とした。
触れない。
ただ、見た。
「火元を斬れるか」
「概念は斬らないでください」
「ベルクは概念か」
「人です」
「なら斬れる」
「斬らないでください」
カイル様は少し考えた。
「殴るのは」
「もっと駄目です」
「机は」
「机も駄目です。第56話で学習してください」
「学習した」
「ではなぜ聞いたんですか」
「確認だ」
「確認済みです。物理は禁止です」
そのやり取りに、セーラが小さく吹き出した。
ミリア様も、口元を押さえている。
カイル様は真顔だった。
真顔だから余計に困る。
でも、胸の奥が少し軽くなった。
私たちは、まだ同じ方向を向ける。
完全ではない。
すれ違う。
言葉を削る。
傷つける。
それでも、同じ火を見ようとしている。
それは、たぶん信頼と呼ぶにはまだ早い何かで。
恋と呼ぶには、もっと早すぎる何かで。
でも、仕事だけではない何かだった。
◇
私は王宮西回廊へ出た。
外の空気が必要だった。
もちろん、休憩ではない。
王都全体を見るためだ。
そう自分に言い聞かせた。
西回廊は、王都の大通りと北門、神殿の尖塔、公爵街の屋根まで見渡せる。
夜の王都は、美しい。
遠目には。
灯りが金色に揺れ、石畳が月を返し、神殿の白い塔が薄く光っている。
だけど、その灯りのひとつひとつに人がいる。
不安で外へ出た人。
誰かを探している人。
噂を確かめたい人。
怒りたくて理由を探している人。
誰かに返事をもらいたい人。
火種感知が、街のあちこちに赤い点を浮かべる。
【火種:公爵街への群衆移動】
【火種:北門封鎖要求】
【火種:神殿前集合】
【火種:元聖女保護要求】
【火種:貴族反逆論】
【火種:辺境軍恐怖】
【火種:王宮無応答批判】
多い。
多すぎる。
あちこちで噂が燃えている。
火元がひとつなら、私はそこへ走れる。
でも今は違う。
街そのものが、乾いた薪のようになっている。
「見えるのか」
隣にカイル様が来ていた。
いつの間に。
いや、足音はした。
私が街に気を取られていただけだ。
「はい」
「全部か」
「全部ではありません」
私は首を振った。
「見えるのは、火種だけです。真実ではありません。人の心でもありません」
「十分だ」
「十分ではありません」
言いながら、私は自分の手を握った。
「火種が見えても、私は間違えます。さっきも、三件まとめて否定しようとしました。エレオノーラ様を止めすぎました。ミリア様の言葉も、危うく代わりに書くところでした」
「止まった」
「止まれない時もあります」
「なら、誰かが止める」
カイル様は街を見たまま言った。
「お前一人で見るな」
短い。
短いのに、逃げていない。
私は少し笑った。
「それ、かなりいい言葉ですよ」
「燃えるか」
「燃えません」
「なら使え」
「どこでですか」
「お前が倒れそうな時」
胸の奥が、また変な動きをした。
困る。
こういう時、胃薬は効かない。
「……はい」
私は王都を見下ろした。
神殿通りの灯りが増えている。
北門付近にも人影がある。
公爵街の方向は、灯りが少し落ちた。
エレオノーラ様が舞台を消したのだろう。
正しい。
でも、正しい選択がすべてを救うわけではない。
石を持つ人間は、灯りが消えても怒りを持っている。
「火を消すだけでは、足りないんです」
私はもう一度言った。
今度は、自分に言い聞かせるように。
「火を消した後、その人たちが何を言いたかったのかを聞かなければ、また燃えます。ベルク様は、その前に答えを渡すんです。怒る先を、怖がる先を、信じる物語を」
「お前は」
「私は」
私は言葉を探した。
すぐには出ない。
でも、カイル様は待っている。
だから、探せた。
「私は、答えを渡す前に、声を聞きたい」
「遅い」
「はい。遅いです」
「届かないこともある」
「あります」
「燃える」
「燃えます」
私は笑った。
自分でも、少し変な笑いだったと思う。
「でも、先回りして綺麗な答えを置いたら、私はまた誰かの名前を消します」
カイル様は黙った。
その沈黙は、同意でも否定でもなかった。
考えるための沈黙だった。
私はその横顔を見た。
言葉を憎んでいた人。
言葉で父を失った人。
それでも今、言葉を選ぼうとしている人。
私は、その隣で王都の火を見ている。
「同じ火を見ていますね」
思わず言うと、カイル様がこちらを向いた。
「同じか」
「少なくとも、今は」
「なら、迷ったら言え」
「何をですか」
「見えた火を」
「言ったら、どうします?」
「斬る」
「だから概念は斬らないでください」
「では、囲む」
「軍事作戦にしないでください」
「守る」
そこで、私は黙った。
カイル様も黙った。
夜風が二人の間を通る。
守る。
簡単な言葉だ。
でも、この人が言うと重い。
剣で守るのではなく。
机を割るのでもなく。
言葉で。
文書で。
時には、黙って待つことで。
その途中に、今いる。
私は視線を戻した。
「私も守ります」
「誰を」
「名前を消されそうな人を」
「俺もか」
不意に聞かれて、少し詰まった。
「……はい」
「なら、俺の言葉も消すな」
胸が痛んだ。
第79話の赤線が、また浮かぶ。
「はい」
私は頷いた。
「消す前に、聞きます」
「それでいい」
カイル様はそう言って、また街を見た。
それだけ。
それだけなのに、不思議と足元が定まった。
◇
西回廊から戻る途中、王宮記録局の使者が駆け込んできた。
顔色が悪い。
嫌な予感がする顔色だった。
「リディア・ノートン様!」
「何が出ましたか」
「宰相府より、統一見解の準備通知です」
私は足を止めた。
使者が差し出した文書には、宰相府の印章。
そして、整いすぎた文章。
『王都内における複数の未確認情報について、混乱拡大を避けるため、各部署は独自発信を控え、宰相府統一見解を待つこと』
『不確定な情報の拡散は、民衆の不安を増幅させる恐れがある』
『関係当事者の保護のため、発信順序を整理する』
綺麗だ。
正しいように見える。
でも、私はもう知っている。
発信順序を整理する。
その言葉の裏で、誰かの声は後回しにされる。
誰かの名前は伏せられる。
誰かの不安は、別の物語に変えられる。
「ベルク様からですね」
「署名は宰相府広報調整官名ですが、文面は……」
「ええ」
ベルク様だ。
句読点まで丁寧だ。
私は文書を机に置いた。
セーラが覗き込む。
「独自発信を控えろ、ですか」
「はい」
「控えます?」
「控えません」
即答だった。
ただし、すぐに訂正する。
「いえ、無秩序には発信しません。確認経路と期限を明示して発信します」
「それ、宰相府から怒られませんか」
「怒られます」
「でしょうね」
私は宰相府通知の余白に赤字で書いた。
『差し戻し』
理由。
『混乱防止を理由に、当事者の所在確認および安全確認を遅らせることはできません』
『統一見解を待つ場合は、確認担当者、確認対象、確認期限を明示してください』
『発信順序の整理により、特定当事者の存在または発言を消さないこと』
書きながら、手が震えた。
怖い。
怖いに決まっている。
宰相府に逆らう。
ベルク様の罠に入る。
火が大きくなる。
でも、もう誰かの盾にはならないと決めた。
組織の盾にも。
自分の怖さの盾にも。
ベルク様の美しい言葉の盾にも。
「出します」
私は言った。
その時、記録水晶が三つ同時に光った。
一つ目。
公爵家方面から。
『公爵邸前に人が集まり始めています。一部が「武器を隠しているなら門を開けろ」と叫んでいます』
二つ目。
北門方面から。
『北門付近で「辺境軍が来る前に門を閉じろ」との声。門番が対応に苦慮』
三つ目。
神殿通りから。
『神殿前に群衆。ミリア・セレス様の安否確認を求める声。神殿側が「祈りを捧げよ」と誘導中』
三つ同時。
部屋の空気が凍った。
火種感知が、視界を赤く染める。
【火種:三点同時拡大】
【火種:公爵家襲撃】
【火種:北門封鎖】
【火種:神殿群衆誘導】
【火種:王都暴徒化】
【火種:宰相府統一見解による遅延】
【火種:ベルク計画第二段階】
第二段階。
その言葉が浮かんだ瞬間、私は理解した。
これはまだ開始ではない。
準備が終わっただけだ。
ベルク様の三つの偽情報は、これから正式に走り出す。
今はまだ、群衆が動き始めただけ。
朝刊が出る。
神殿布告が出る。
貴族サロン文が出る。
王宮内部通知が漏れる。
そうなれば、火は点ではなく線になる。
線は、王都を囲む。
「リディア」
カイル様の声がした。
私は顔を上げる。
「火元へ行くぞ」
「はい」
「どこだ」
私は三枚の報告と、宰相府通知と、王都地図を見た。
公爵街。
北門。
神殿。
そして、宰相府。
全部が火元に見える。
でも、本当の火元は一つではない。
火をつけた手。
油を撒いた道。
乾いた薪になっていた不満。
全部を見る必要がある。
「まず、三つの火を止めます」
私は地図に印を置いた。
「でも、火元はここでは終わりません」
宰相府の上に、赤い印を置く。
「ベルク様の物語を、物語として見える形にします」
セーラが息を呑む。
「どうやって」
「三つを別々に訂正するだけではなく、同時に流されたこと自体を示します」
「それ、敵の仕組みを見せるってことですか」
「はい」
「燃えますよ」
「燃えます」
私は頷いた。
「でも、見えないまま操られるよりはいい」
そう言った瞬間、王都の空に、ひとつの光が走った。
神殿布告の光だ。
続いて、別の方角から新聞号外の赤い灯り。
さらに、貴族街の水晶灯が一斉に点く。
同時。
あまりにも綺麗な同時だった。
窓の外で、夜の王都がざわめいた。
伝令鳥が飛び込んでくる。
足に括られた紙が三枚。
セーラが震える手で外した。
一枚目。
『グランフェルト公爵家、王都武器庫と接触か』
二枚目。
『北方辺境伯軍、王都北門へ進軍との情報』
三枚目。
『元聖女候補ミリア・セレス、神殿付近で襲撃され重傷か』
どれも、断定していない。
どれも、逃げ道を残している。
どれも、十分に人を動かす。
私はその三枚を見た。
胃が痛い。
手も冷たい。
でも、不思議と膝は震えなかった。
隣に、カイル様がいる。
少し離れた場所に、ミリア様がいる。
エレオノーラ様は公爵邸へ向かっている。
セーラがいる。
先輩がいる。
灯火新聞がいる。
北方の鐘三回を知る人々がいる。
私は一人で火を見ているわけではない。
「始まりました」
私は言った。
カイル様が短く答える。
「ああ」
窓の外、王都のあちこちで、人の声が上がる。
怒り。
恐怖。
祈り。
疑い。
その全部が混ざって、夜の空気を焦がしていく。
私は白紙を広げた。
もう、共同声明では足りない。
これは王都全体への応答だ。
私は筆を取った。
「では」
声が少し掠れた。
でも、出た。
「三つ同時に、返事を始めます」




