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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
国家規模の情報操作

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79/100

求婚ではなく、共同声明

 否定文というものは、強ければ強いほど怪しく見える時がある。


『一切ありません』


『断じてありません』


『事実無根です』


『誤解です』


 並べれば並べるほど、読んだ人間の頭の中には、なぜか「何かあったのでは」という別の文章が立ち上がる。


 危機対応の現場では、これを私は心の中で「否定文の自爆」と呼んでいる。


 もちろん正式な報告書には書かない。


 書いたら上司が倒れる。


 ただし、今の私は上司を気にしている余裕がなかった。


 なぜなら、今まさに私自身が、その自爆しやすい否定文を書こうとしていたからだ。


 机の上には、灯火新聞から届いた見出し案が並んでいる。


『下級広報官リディア・ノートン、辺境伯と私的関係か』


『宰相補佐との協力を拒否した裏に北方勢力』


『民声応答網、王宮ではなく辺境伯家の影響下へ』


『広報官と辺境伯、深夜に密談』


『王宮広報に私情混入の疑い』


 文字を見るだけで胃が痛い。


 しかも、見出しの作り方が上手い。


 断定していない。


 疑問形にしている。


 逃げ道を残している。


 悪意ある記事ほど、法的責任から逃げるための足腰が強い。


「腹立たしいほど手堅いですね」


 私は紙を見下ろしながら言った。


 セーラが隣で顔をしかめる。


「手堅い悪意って、嫌ですね」


「はい。柔らかい腐敗みたいなものです」


「余計に嫌です」


 部屋の奥で、先輩が胃薬の瓶を振った。


 からから、と乾いた音がする。


「残量、危険水域です」


「備蓄申請を」


「理由欄は?」


「共同声明」


「通りますかね」


「通る王宮なら、そもそもここまで燃えていません」


 先輩は何も言わずに、瓶を机の上へ置いた。


 その沈黙がすべてを物語っている。


 臨時広報調査室りんじこうほうちょうさしつには、いつもの面々が揃っていた。


 エレオノーラ様。


 カイル様。


 セーラ。


 灯火新聞への連絡役。


 王宮記録局の立ち会い記録官。


 そして、短時間の外部確認を許されたミリア様。


 つまり、胃に悪い仕事をするには完璧な布陣である。


 問題は、完璧な布陣でも、人の感情は完璧に処理できないことだった。


「共同声明を出すしかありませんわね」


 エレオノーラ様が、扇を半分だけ開いて言った。


「大手瓦版が明朝に打つなら、こちらは夜のうちに出す。先に事実の枠を置くのですわ」


「はい」


 私は頷き、新しい紙を広げる。


 題名。


『リディア・ノートンおよび北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインによる共同説明』


 うん。


 堅い。


 堅いが、必要だ。


 この場合、「共同声明」と書くと重い。


「共同説明」の方が、まだ少し柔らかい。


 ただし、掲示板ではどうせ共同声明と呼ばれる。


 人は正式名称より呼びやすさで燃える。


「まず、確認済みの事実と未確認の憶測を分けます」


 私は声に出して整理した。


「一、私とカイル様は、王国各地の噂、請願、記録確認に関して、職務上の協力関係にある」


「事実だ」


 カイル様が短く言う。


「二、民声応答網の試案は、臨時広報調査室、王宮記録局、灯火新聞、地方連絡網の複数経路で作成・確認されており、北方辺境伯家単独の管理下にはない」


「事実ですわ」


 エレオノーラ様が頷く。


「三、ベルク様との協力拒否は、個人的感情ではなく、民衆感情の誘導および情報整理と情報操作の境界に関する方針不一致による」


 ここで、セーラが手を上げた。


「それ、長くないですか?」


「長いです」


「読まれます?」


「読ませます」


「どうやって」


「胃痛で念じます」


「だめそうですね」


 だめそうではある。


 だが、短くすると危ない。


『ベルク様とは方針が違うため拒否しました』


 これでは弱い。


『ベルク様の統制案に反対です』


 これは強いが、ベルク様側に「統制ではなく整理です」と返される。


 あの人は言葉の差し替えが上手い。


 毒を香油の瓶に入れて出してくるタイプだ。


 私は筆を持ち直した。


「そして四」


 ここが問題だった。


 私的関係の否定。


 この一文を間違えれば燃える。


 弱ければ、疑惑が残る。


 強ければ、逆に怪しくなる。


 しかも、相手はカイル様だ。


 私は、無意識に筆圧を強めた。


『両名の間に、私的関係は一切存在しない』


 書いた瞬間、部屋が静かになった。


 静か。


 とても静か。


 嫌な静かさだった。


 エレオノーラ様の扇が、ぴたりと止まる。


 セーラが視線を横へ逃がす。


 ミリア様が真面目な顔で文面を覗き込む。


「一切、とは」


 ミリア様が言った。


「挨拶も含まれますか?」


「含みません」


「同じ部屋で仕事をすることは?」


「含みません」


「干し肉をいただくことは?」


「それは……業務上必要な栄養補給です」


「では、一切ではないのでは」


 ミリア様、強い。


 この人、神殿の台本から解放された結果、質問がまっすぐになりすぎている。


 私は額を押さえた。


「そうですね。一切、は危険です」


「危険というより、嘘に近いですわ」


 エレオノーラ様がさらりと言った。


 私は紙を見下ろした。


 嘘。


 その言葉が刺さった。


 確かに、嘘ではないと言い切れない。


 私的関係が何を指すのかにもよる。


 友人。


 協力者。


 信頼している相手。


 守られた相手。


 守りたい相手。


 そのどれかを一切存在しないと言えるのか。


 言えない。


 いや、言ってはいけない。


 でも、言わなければ燃える。


 燃えるから、削りたくなる。


 燃えないために、曖昧なものを全部なかったことにしたくなる。


 私の手は、また前世の赤ペンを握っていた。


 名前を消す赤ペン。


 感情を消す赤ペン。


 人を守るふりをして、輪郭を削る赤ペン。


「書き直します」


 私は、一度線を引いた。


『両名の間に、私的関係は一切存在しない』


 消す。


 次に書く。


『両名は、王国各地の請願・噂・記録確認に関する職務上の協力関係にある』


 ここまではいい。


 続けて。


『私的感情を根拠として、公務判断を行った事実はない』


 これなら事実だ。


 いや。


 事実か?


 私は一瞬止まった。


 私的感情を根拠として、公務判断を行った事実はない。


 それは、たぶん事実だ。


 でも、感情が全く判断に影響していないと言えるのか。


 カイル様への信頼が、判断に関係していないと言えるのか。


 エレオノーラ様への怒りが、私を動かしていなかったと言えるのか。


 ミリア様を守りたい気持ちが、文章に入っていなかったと言えるのか。


 いいえ。


 人間がやる仕事に、感情が一滴も混ざらないなんてことはない。


 混ざった上で、どう公務として検証可能にするか。


 そこが大事なのだ。


 なのに、私は今、「感情はありません」と言ってしまいかけた。


 ベルク様の逆だ。


 彼は感情を分類して支配する。


 私は感情をなかったことにして安全化しようとする。


 どちらも、人を置き去りにする。


「……だめですね」


 私は呟いた。


 エレオノーラ様が少しだけ目を細める。


「ご自分で気づけましたの?」


「はい」


「なら、まだ大丈夫ですわ」


 褒められたのか、首の皮一枚なのか。


 多分、後者。


 私は深く息を吸った。


「こうします」


 新しい紙に書く。


『両名の協力は、複数の記録、証言、関係機関による確認に基づくものであり、特定個人への好意、恩義、または私的感情のみを根拠として公務判断を行うものではない』


 長い。


 しかし、逃げてはいない。


 私的感情が存在しないとは言わない。


 それだけで判断しない、と言う。


 検証可能性を置く。


 私は顔を上げた。


「どうでしょう」


 セーラが少し考えた。


「長いです」


「はい」


「でも、さっきより人間がいます」


「その評価、嬉しいのに怖いですね」


 ミリア様が頷いた。


「私も、さっきより息ができます」


 その言い方に、私は少し胸が痛くなった。


 声明文で息ができるかどうか。


 そんな評価項目、前世のマニュアルにはなかった。


 入れておけばよかった。


 いや、入れても上司に消されただろう。


 会社を守るための文章に、人間の呼吸欄などなかった。


「カイル様」


 私は彼の方を向いた。


「この一文はどうですか」


 カイル様は紙を読んだ。


 長い文なので、少し時間がかかる。


 でも読んだ。


 逃げずに読んだ。


「悪くない」


 短い評価だった。


 けれど、少しだけ肩の力が抜けた。


「次は、カイル様の言葉です」


「俺の?」


「はい。あなたが何を否定するかではなく、何を確認するか」


 カイル様は黙った。


 しばらくして、筆を取る。


 全員が微妙に身を乗り出した。


 珍獣観察ではない。


 ただし、珍しい。


 カイル様は紙に一文を書いた。


『俺は、リディア・ノートンを信じている』


 部屋が、また静かになった。


 今度の静けさは、先ほどと違う。


 何かが落ちたような静けさ。


 胸の奥に。


 私はその一文を見た。


 前にも見た言葉だ。


 第六十六話の声明。


『リディア・ノートンは、火を隠さない。だから信じる』


 あの時は、その一文に救われた。


 今回も救われるかもしれない。


 でも、今回は私たちの関係を疑われている。


 この一文は、危ない。


 あまりにも真っ直ぐすぎる。


 読んだ人間の一部は、職務上の信頼として受け取る。


 別の一部は、恋情として受け取る。


 そして敵は必ず後者を見出しにする。


 私は赤鉛筆を持った。


 迷った。


 迷って、迷って。


 結局、線を引いた。


『俺は、リディア・ノートンを信じている』


 消した。


 カイル様は何も言わなかった。


 私は自分に言い聞かせるように説明した。


「今この表現は危険です。私的感情の補強として切り取られます」


「事実だ」


「はい」


「事実でも、今は燃えます」


 言った瞬間、自分でわかった。


 その言い方は、少し冷たすぎた。


 事実でも、今は燃えます。


 それは、私がずっと嫌ってきた言い方ではないか。


 事実でも、今は出せない。


 本当でも、混乱を招く。


 名前は伏せましょう。


 感情は削りましょう。


 私は、ベルク様を拒否したばかりなのに。


 同じ形の、小さな刃物を握っていた。


 けれど、もう線は引いてしまった。


 言葉は一度出たら戻らない。


 赤線もまた、消しきれない。


「では」


 カイル様は短く言った。


「どう書く」


 声は普通だった。


 普通すぎた。


 だから、余計に胸が落ち着かなかった。


 私は気づかないふりをした。


 仕事を進める方が楽だった。


「こうです」


 私は代案を書いた。


『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインによる過去の信頼表明は、リディア・ノートンが火種を隠さず、確認済み情報と未確認情報を分けて扱う職務姿勢に基づくものである』


 長い。


 堅い。


 燃えにくい。


 そして、少しだけ呼吸がない。


 カイル様は読んだ。


 読んで、頷いた。


「いい」


 本当に、いいと思ったのだろうか。


 わからない。


 私は聞かなかった。


 聞かなかったことが、この日の失敗だった。


   ◇


 共同説明文は、夜半前に完成した。


 最終文面はこうなった。


『本件に関し、確認済みの事実と未確認の憶測を分けて説明します』


『リディア・ノートンおよび北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインは、現在、王国各地の請願・噂・記録確認に関する職務上の協力関係にあります』


『民声応答網の試案は、臨時広報調査室、王宮記録局、灯火新聞、各地方連絡網から得られた複数の記録と証言を基に作成されたものであり、北方辺境伯家単独の管理下に置かれた事実はありません』


『ベルク・アインハルト宰相補佐との協力を拒否した理由は、民衆感情の誘導、情報整理と情報操作の境界、および回答保留の扱いに関する方針不一致によるものです』


『両名の協力は、複数の記録、証言、関係機関による確認に基づくものであり、特定個人への好意、恩義、または私的感情のみを根拠として公務判断を行うものではありません』


『北方辺境伯による過去の信頼表明は、リディア・ノートンが火種を隠さず、確認済み情報と未確認情報を分けて扱う職務姿勢に基づくものです』


『いずれの当事者も、相手の言葉を私物化しません』


 最後の一文は、カイル様の言葉だった。


 本当はもっと不器用だった。


『俺は、リディア・ノートンの言葉を俺のものにしない』


 それを、私が少しだけ整えた。


 整えたが、削りきらなかった。


 残した。


 残した結果、非常に目立つ一文になった。


 セーラが読み上げて、首を傾げた。


「これ、職務上の説明ですよね」


「はい」


「最後だけ、誓約っぽくないですか」


「職務上の誓約です」


「職務上の誓約」


「はい」


「便利な言葉ですね」


「乱用禁止です」


 エレオノーラ様は扇の奥で笑っていた。


 絶対にわかって笑っている。


 ミリア様は真剣に頷いた。


「相手の言葉を私物化しない、というのは大切だと思います」


「はい」


「神殿では、よく私の言葉が私のものではなくなりました」


 その一言で、部屋の空気が少し変わった。


 私物化。


 それは恋愛だけの話ではない。


 職務でも、信仰でも、政治でも、広報でも起きる。


 本人の言葉を、誰かが自分の物語にしてしまう。


 私は、カイル様の最後の一文を見た。


 消さなくてよかった。


 たぶん。


 まだ少し怖い。


 でも、怖いからといって全部削れば、また同じところへ戻る。


「出します」


 私は言った。


 送信用の記録水晶(きろくすいしょう)に文面を乗せる。


 灯火新聞。


 王宮記録局。


 各地方連絡網。


 水晶掲示板の公式欄。


 同時送信。


 光が走った。


 小さな青白い光が、文面を写し取り、王都中へ散っていく。


 燃えるか。


 燃えないか。


 火種感知が、視界の端で揺れた。


【火種:職務と私情の混同疑惑】


【火種:共同声明の恋愛解釈】


【火種:北方影響力疑惑の継続】


【火種:ベルク側による再切り抜き】


【火種:カイル発言の過剰注目】


【火種:リディア否定文への違和感】


 完全鎮火ではない。


 当然だ。


 声明一枚で人の想像力は止まらない。


 止めようとする方が危険だ。


 でも、一番大きかった火は少しだけ向きを変えた。


『北方による王宮広報掌握』


 その火種は、弱まっている。


「効果はあります」


 私は言った。


「ただし、別方向に燃えます」


 セーラが目を閉じた。


「つまり?」


「仕事が増えます」


「知っていました」


 先輩が胃薬の瓶を胸に抱えた。


「私はもう驚きません」


 その直後、水晶掲示板の反応が跳ねた。


 驚くほど早い。


 人は本文を読まないが、祭りの気配は読む。


『共同声明きた』


『職務上の協力関係、なるほど』


『いや最後の一文なに?』


『相手の言葉を私物化しません、って何?』


『逆に怪しい』


『仕事婚か?』


『王宮広報局、ついに婚姻届まで声明で出すのか』


『違うだろ、これは共同作業の話だろ』


『でも辺境伯がリディアの言葉を俺のものにしないって言ってるの、なんか良い』


『俺のものにしない、が逆に重い』


『重い辺境伯』


『短文なのに重い』


『火消し係と辺境伯、仕事で結婚してない?』


 私は水晶掲示板を閉じた。


「見なかったことにします」


 セーラが無言で開いた。


「見なければ対応できません」


「正論で刺さないでください」


「リディアさんの教育です」


「私の部下が私より強くなっていく」


 エレオノーラ様は楽しそうに笑っている。


「よろしいではありませんか。北方掌握疑惑より、仕事婚疑惑の方が平和ですわ」


「平和ではありません」


「少なくとも反乱疑惑よりは」


「比較対象が物騒すぎます」


 カイル様は掲示板を見ていなかった。


 彼は完成した共同説明文の写しを、じっと見ている。


 その横顔は、いつも通り静かだった。


 私はそれを見て、また少し安心しそうになった。


 静かだから大丈夫。


 燃えていないから大丈夫。


 怒っていないから大丈夫。


 違う。


 私はそれで何度も間違えてきた。


 沈黙は、安全確認ではない。


 私は、カイル様の手元を見た。


 赤線で消された一文の写しは、私の机に残っている。


『俺は、リディア・ノートンを信じている』


 そこに引いた赤線が、妙に目立った。


   ◇


 共同説明文の発表後、部屋は一時的に慌ただしくなった。


 灯火新聞からの反応確認。


 王宮記録局への提出控え。


 各地方連絡網への補足説明。


 大手瓦版への訂正要求準備。


 書類が積まれ、伝令鳥が飛び、セーラが悲鳴を上げ、先輩が胃薬の瓶を振り続ける。


 平常運転だ。


 つまり地獄である。


 カイル様は、途中で静かに部屋を出た。


 誰も止めなかった。


 私も止めなかった。


 仕事があったから。


 そう言い訳した。


 だが、胸の奥に引っかかりが残っていた。


 赤線。


 信じている、に引いた赤線。


 私は、彼の言葉を守ったつもりだった。


 でも、本当に守ったのだろうか。


 それとも、私が怖かっただけか。


 掲示板で恋愛扱いされるのが怖かった。


 私情混入と言われるのが怖かった。


 仕事が崩れるのが怖かった。


 だから、彼の「信じている」を削った。


 燃えない形にした。


 それは正しかった。


 たぶん、広報判断としては。


 けれど正しい判断は、時々、人の心を置き去りにする。


 私はペンを置いた。


「少し外します」


 セーラがこちらを見る。


「辺境伯様ですか」


「……はい」


「行ってください」


「でも、補足文が」


「私が見ます」


「燃えたら」


「燃えたら呼びます」


「頼もしいのに怖いですね」


 セーラは小さく笑った。


「リディアさんが全部見なくても、火は見えます」


 それは、少し前の私なら言われたくない言葉だった。


 今は、ありがたかった。


 私は頷いて、部屋を出た。


 廊下は夜の匂いがした。


 王宮の夜は静かだ。


 しかし、静かな王宮ほど信用ならない。


 壁の向こうで誰かが文書を書き、誰かが噂を流し、誰かが沈黙を選んでいる。


 私は廊下を進み、外廊下へ出た。


 中庭に面した石造りの廊下。


 そこに、カイル様はいた。


 手すりのそばに立ち、曇った王都の空を見ている。


 剣は帯びている。


 だが、手は柄に触れていない。


「カイル様」


 呼ぶと、彼は振り返った。


「仕事は」


「少しだけ抜けました」


「燃える」


「たぶん燃えます」


「戻れ」


「戻る前に、謝ります」


 カイル様は黙った。


 私は、一歩近づいた。


 夜風が冷たい。


 北方ほどではないが、王都の夜も少し冷える。


「さっきの一文を消したことです」


「必要だった」


「はい。必要でした」


「なら、謝るな」


「必要でも、傷つけたなら謝ります」


 カイル様の眉が少し動いた。


 私は、自分の手を見た。


 赤鉛筆の跡が、指に薄く残っている。


「私は、あなたの言葉を燃えない形に整えました」


「ああ」


「でも、守るためというより、隠すために削りました」


「……そうか」


「はい」


 言ってから、胃が痛くなった。


 でも、この痛みは必要だ。


「あなたが『信じている』と書いたことが怖かったんです」


「なぜ」


「私情扱いされるからです。仕事の信用が崩れるからです。民声応答網まで、恋愛か癒着の話にされるからです」


「ああ」


「でも、それだけではありません」


 私は息を吸った。


「私自身も、怖かったんです」


 カイル様は何も言わない。


 待っている。


 私の言葉を。


「あなたに信じていると言われると、嬉しいです」


 言った。


 言ってしまった。


 火種が見えるかと思った。


 何も見えない。


 ただ、心臓がうるさい。


「嬉しいから、怖いです」


 自分で何を言っているのか、よくわからなくなってきた。


 これは声明文ではない。


 想定問答でもない。


 私用の言葉に近すぎる。


 第九十九話まで取っておくべき分野に、今うっかり片足を突っ込んでいる気がする。


 いや、話数を意識してはいけない。


 世界がずれる。


「だから、仕事の顔で削りました」


 私は頭を下げた。


「ごめんなさい」


 沈黙。


 夜風。


 遠くで伝令鳥の声。


 王都のどこかで、また噂が走っている。


 カイル様は、長く黙った。


 私は待った。


 急かさない。


 勝手に続きを書かない。


 やがて、カイル様が言った。


「俺も、言わなかった」


「何をですか」


「嫌だと」


 短い言葉だった。


 でも、十分だった。


 私は顔を上げた。


「嫌だったんですね」


「ああ」


「信じている、を消したことが」


「ああ」


 胸が少し痛んだ。


 でも、聞けてよかった。


 聞かないまま仕事に戻っていたら、私はまた同じ失敗をしていた。


「次は言ってください」


「言う」


「私も、次は聞きます」


「聞け」


「はい」


 カイル様は、少しだけ視線を逸らした。


「だが、あの文は出せない」


「はい」


「燃える」


「はい」


「なら、別の時に出す」


 私は瞬きをした。


「別の時?」


「今ではない時だ」


「……それは」


 言葉に詰まる。


 聞いていいのか。


 聞かない方がいいのか。


 するとカイル様は、こちらを見た。


「まだ、途中だ」


 その言葉で、私は何も聞けなくなった。


 途中。


 第七十八話から続いている、彼の途中。


 私は頷いた。


「待ちます」


「逃げないか」


「逃げません」


「倒れるな」


「努力します」


「善処ではなく」


「はい。努力します」


 カイル様は、少しだけ満足したように頷いた。


 それから、共同説明文の写しを差し出した。


 最後の一文に、彼の指が触れる。


『いずれの当事者も、相手の言葉を私物化しません』


「これは残った」


「はい」


「これでいい」


 その声に、嘘はなかった。


 私は少しだけ息を吐いた。


「ありがとうございます」


「次は、お前の言葉も削るな」


「はい」


「俺のせいで燃えるなら」


「なら?」


「一緒に消す」


 それは恋の言葉ではない。


 たぶん。


 職務上の協力だ。


 たぶん。


 共同声明の延長だ。


 たぶん。


 でも、胸の奥はまた胃薬では治らない動きをした。


「……はい」


 それ以上は言えなかった。


 今は、まだ。


   ◇


 部屋に戻ると、セーラが顔色を変えていた。


「リディアさん」


 その声で、先ほどの静かな時間が終わったのだとわかった。


 私はすぐに仕事の顔へ戻る。


 戻ったつもりだった。


「何が燃えましたか」


「燃える前です。たぶん」


 セーラが水晶板を差し出す。


 灯火新聞からの追報。


 編集長の筆跡が荒い。


『大手瓦版だけではありません。神殿系布告、貴族サロン配布文、王宮広報局内部通知が、ほぼ同時に動いています』


『内容は別々です』


『しかし、煽り文句が同じです』


 私は文面を追った。


 そこには、まだ正式発表されていない三つの噂の断片が並んでいた。


『公爵家が武器を集めている』


『北方兵が王都近郊に入った』


『元聖女ミリア・セレスが神殿付近で襲われた』


 まだ、どれも確認不能。


 どれも小さい。


 どれも、今ならただの噂として処理できる。


 だが、火種は違った。


 小さい火ではない。


 離れた場所に置かれた三つの火。


 同時に風を送れば、王都全体が燃える。


 視界に、赤い文字が浮かぶ。


【火種:公爵家反逆疑惑】


【火種:辺境伯出兵誤報】


【火種:元聖女襲撃情報】


【火種:三点同時拡散】


【火種:王都全域混乱】


【火種:民衆誘導】


【火種:ベルクによる大規模情報操作】


 胃が、冷たくなった。


 ベルク様は、私たちの共同声明を待っていたのかもしれない。


 私たちが一つの火を抑える。


 その瞬間、別の三つを置く。


 しかも、全部が私たちの味方を狙っている。


 公爵家。


 北方。


 ミリア様。


 そして王都そのもの。


 エレオノーラ様が立ち上がった。


 ミリア様の手が、文書箱を強く抱く。


 カイル様は、私の隣に戻った。


 剣ではなく、共同説明文の写しを持ったまま。


「次は」


 カイル様が短く言う。


「火元だな」


 私は頷いた。


 窓の外の王都は、まだ静かだった。


 静かすぎるほどに。


 その静けさの下で、噂が走っている。


 返事より速く。


 真実より速く。


 怒りより少しだけ先に。


 私は机に戻り、新しい紙を広げた。


 共同声明では、もう足りない。


 個別訂正でも、追いつかない。


 火を消すだけでは足りない。


 私たちは、同じ火を見なければならない。


 そう思った瞬間、王都の鐘が一つ鳴った。


 一回。


 ごはんではない。


 二回目。


 熊でもない。


 三回目。


 噂。


 北方の鐘ではない。


 王都の鐘だった。


 誰が鳴らしたのかは、まだわからない。


 けれど、三度目の音が夜の王都に広がった時、私は理解した。


 ベルク様は、王都全体を火元にするつもりだ。

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