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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
国家規模の情報操作

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カイル、言葉を選ぶ

 言葉を選ぶ、という行為は、案外うるさい。


 紙の上では静かだ。


 筆先が動き、止まり、また動く。


 それだけのことに見える。


 けれど実際には、頭の中で何十もの言葉が喧嘩をしている。


 これは強すぎる。


 これは弱すぎる。


 これは逃げている。


 これは誰かを傷つける。


 これは燃える。


 これは、たぶん本音に近い。


 そうやって選んで、選んで、選んで。


 最後に残った一文が、必ずしも正しいとは限らない。


 ただ、逃げなかった跡だけは残る。


 だから私は、その朝、カイル様の前に置かれた白紙を見て、少しだけ息を止めた。


 カイル・ヴァレンシュタイン様。


 北方辺境伯。


 無口。


 短文。


 過去の公式声明案は、


『不快だ。撤回しろ』


 だった人。


 その人が今、臨時広報調査室りんじこうほうちょうさしつの隅で、白紙とにらみ合っていた。


 非常に珍しい光景である。


 熊が詩を書く現場を見ている気分だった。


 いや、熊ではない。


 本人が聞いたら即座に訂正される。


 私は机の向こうから、そっと視線を外した。


 見てはいけない気がした。


 けれど、見ないようにすると余計に気になる。


 広報官とは、見てはいけないものほど見えてしまう悲しい職業である。


「リディアさん」


 セーラが小声で言った。


「辺境伯様、朝から三十分、同じ紙を見ています」


「はい」


「筆は持っています」


「はい」


「まだ一文字も書いていません」


「実況しないでください。希少生物の観察ではありません」


「でも珍しくて」


「わかりますが」


 気持ちは痛いほどわかる。


 カイル様が白紙に敗北しかけている。


 これは王都瓦版に載せればそこそこ売れる。


 もちろん載せない。


 載せた瞬間、北方から非常に短い抗議文が届く。


『燃やすな』


 たぶん三文字で十分怖い。


 部屋の中央では、エレオノーラ様が各地の社交網から届いた情報を整理していた。


 ベルク様への拒否文を送ってから一夜。


 宰相府(さいしょうふ)はまだ大きく動いていない。


 それが逆に怖い。


 静かな敵は、燃えている敵より危険である。


 燃えている敵は、少なくとも煙が見える。


 ベルク様は煙を出さない。


 代わりに、周囲の空気を少しずつ薄くしてくる。


 机の上には、昨日送った拒否文の写しがある。


『お断りします』


『声を守るために一時的に伏せることと、声を支配するために形を変えることは異なります』


『声を聞くことは、支配することではありません』


 読み返すたびに胃が痛む。


 でも、書き直したいとは思わなかった。


 燃える。


 確実に燃える。


 それでも、あの文には私の怒りが少しだけ入っている。


 誰かの盾として書いた文ではない。


 私が、私の手で選んだ拒否だった。


「リディア」


 低い声に呼ばれて、私は顔を上げた。


 カイル様だった。


 白紙を手に、こちらへ来る。


 いや。


 白紙ではない。


 何か書いてある。


「はい」


「確認してほしい」


「文書ですか?」


「……そうだ」


「宛先は?」


 カイル様は、少し黙った。


 そして言った。


「お前だ」


「私?」


「そうだ」


 部屋の空気が一瞬だけ止まった。


 セーラの筆記音が止まり、エレオノーラ様の扇が半分開いたまま静止する。


 先輩が胃薬の瓶を持ったまま、棚の前で固まった。


「ええと」


 私は、慎重に言った。


「確認とは、文面上の炎上リスク確認でしょうか」


「たぶん違う」


「たぶん」


「わからない」


 わからない文書を本人宛に見せられるのは、なかなか新しい。


 私は受け取るべきか迷った。


 ここでうっかり仕事の顔で添削したら、何か重大なものを踏み潰す気がする。


 しかし見ないと確認できない。


 広報官の業は深い。


「……読んでも?」


「読め」


 紙を受け取る。


 そこには、何本もの横線が引かれていた。


『リディア・ノートンは、火を隠さない。だから信じる』


 これは以前の声明文だ。


 その下に、新しい文字がある。


『俺は、お前を』


 そこで消されている。


 さらに下。


『俺は、お前に』


 これも消されている。


 さらに下。


『北方へ』


 強めに消されている。


 かなり強く消されている。


 紙に穴が空きかけていた。


 最後に、まだ消されていない一文。


『俺は、お前に俺の言葉を書かせたくない』


 私は、その一文で手を止めた。


 部屋の音が遠くなる。


 何かを言うべきだと思った。


 だが、何を言えばいいのかわからない。


 良い文です。


 違う。


 燃えません。


 違う。


 主語が明確でよろしいです。


 違う。


 私は紙から目を上げた。


 カイル様は、こちらを見ていなかった。


 窓の外を見ている。


 王都の空は曇っていた。


 雨が降る前の色だ。


「カイル様」


「俺は」


 カイル様はそこで一度止まった。


 止まる。


 言葉を切り捨てるためではなく、探すために。


「俺は、お前の言葉を信じた」


「はい」


「第六十六話の……いや、あの声明で」


「話数を言いかけないでください。世界がずれます」


「……あの時」


「はい」


「俺は、一文で済んだ」


 あの一文。


『リディア・ノートンは、火を隠さない。だから信じる』


 短くて、逃げていなくて、燃えなかった奇跡の文。


 私は今でも、あれを見ると胃ではなく胸の奥が変な動きをする。


 胃以外が反応すると、対処法がわからないので困る。


「だが」


 カイル様は続けた。


「それだけでは足りない時がある」


 私は黙った。


 急かさない。


 職業病で相槌を入れたくなる。


 相手が話しやすいよう、要点を整理したくなる。


 けれど今、それをしてはいけない。


 これは取材ではない。


 事情聴取でもない。


 声明文作成でもない。


「俺は、言葉が少ない」


「……はい」


「知っていた」


「はい」


「困っていなかった」


「そうですか」


「今は、困る」


 その言い方が、あまりにも真面目だった。


 短いのに、ひどく重い。


「お前に伝えたいことがある」


 カイル様の手が、手袋の縫い目に触れかけた。


 けれど触れなかった。


 拳を作り、ほどく。


「でも、俺が言うと、短すぎる」


「はい」


「長くすると、嘘のようになる」


「……はい」


「だから、止まる」


 それは、告白のようにも聞こえた。


 謝罪のようにも聞こえた。


 決意のようにも。


 あるいは、全部違うのかもしれない。


 私は勝手に続きを書かない。


 カイル様自身が、そう言ったのだから。


「私は、待ちます」


 そう言うと、カイル様がこちらを見た。


 深い灰色の目。


 北方の雪雲のような色。


「逃げないか」


「逃げません」


「倒れないか」


「努力します」


「努力では足りない」


「では善処します」


「それは信用できない言葉だ」


「王宮文書でよく使われるので」


「やめろ」


「はい」


 少しだけ、空気が緩んだ。


 それでも、紙の上の消された言葉はそのまま残っている。


『俺は、お前を』


『俺は、お前に』


『北方へ』


 私は、その消し跡を見ないようにした。


 見たい。


 とても見たい。


 だが、見ない。


 これはまだ、私に渡された言葉ではない。


 消された言葉まで読みにいくのは、相手の沈黙を無断で記事にするのと同じだ。


 たぶん、よくない。


 とても広報官らしい理屈で自分を止めた。


「カイル様」


「何だ」


「一つだけ、言ってもいいですか」


「言え」


「私があなたの言葉を書いてしまう方が、仕事としては早いです」


「知っている」


「火種も減らせるかもしれません」


「知っている」


「でも、それをすると、あなたの言葉ではなくなります」


「ああ」


「ですから、待ちます」


 カイル様は、長く黙った。


 その沈黙は、もう怖くなかった。


 いや、少し怖い。


 でも、前とは違う怖さだった。


 剣の沈黙ではない。


 雪が降る前の沈黙。


 何かが降ってくるまでの、白い時間。


「リディア」


「はい」


「俺は、お前を盾にしない」


 息が止まった。


 その一文は、恋の言葉ではない。


 求婚でもない。


 美しい飾りもない。


 でも、昨日の私には、ひどく必要な言葉だった。


 もう誰かの盾にはならない。


 そう決めた私に、彼は言った。


 お前を盾にしない。


 私は笑おうとして、失敗した。


「……ありがとうございます」


「足りない」


「え?」


「それだけでは足りない」


 カイル様が、自分でそう言った。


 それが、たぶん一番大きな変化だった。


 以前の彼なら、一文出せば終わりにした。


 短く言った。


 済ませた。


 でも今は、足りないとわかっている。


 自分の言葉が少ないことを、初めて痛がっている。


「では」


 私は言いかけた。


 言いかけて、止まる。


 では、何を足しますか。


 目的は何ですか。


 相手にどう受け取ってほしいですか。


 その言葉が喉まで来た。


 いつもの手順だ。


 広報の基本。


 でも、今それを言えば、私は彼の言葉を企画書にしてしまう。


 私は口を閉じた。


 カイル様が、わずかに眉を動かした。


「言わないのか」


「言いかけました」


「なぜやめた」


「職業病で、あなたの気持ちを想定問答にしそうになりました」


「それは嫌だ」


「私も嫌です」


 はっきり言われたので、少し笑った。


 いい。


 嫌だと言ってもらえるのは、ありがたい。


 嫌だと言われないまま、相手の輪郭を削ってしまう方が怖い。


「今回は」


 カイル様は紙を受け取った。


「俺が選ぶ」


「はい」


「遅い」


「はい」


「下手だ」


「はい」


「でも、俺が選ぶ」


 胸の奥が、また変な動きをした。


 お願いだから胃にしてほしい。


 胃なら薬がある。


 これは薬がない。


「待っています」


 私がそう言うと、カイル様は頷いた。


 それだけだった。


 それだけなのに、私はしばらく紙束へ目を戻せなかった。


   ◇


「求婚未遂ですわね」


 背後から、あまりに鮮やかな声が飛んできた。


 私は振り向いた。


 エレオノーラ様が扇を口元に当て、完璧な角度でこちらを見ていた。


 その隣で、セーラが記録水晶を抱えたまま、目を丸くしている。


 先輩は胃薬瓶を持ち直していた。


 聞いていた。


 全員、聞いていた。


「違います」


 私は即答した。


「そうですか?」


「これは、言葉の選択過程における自己所有権の確認であり」


「長いですわ」


「つまり違います」


「求婚未遂にも種類がありますのね」


 新たな声が、部屋の入口からした。


 そこにいたのは、ミリア・セレス様だった。


 王宮記録局の女性記録官に付き添われ、両手で小さな文書箱を持っている。


 外部発言にはまだ記録局(きろくきょく)立ち会いが必要だが、最近はこうして短時間なら調査室へ来られるようになっていた。


 すごい進歩だ。


 そして、来た瞬間に聞く言葉が「求婚未遂にも種類がありますのね」なのは、非常に申し訳ない。


「ミリア様、今のは忘れてください」


「記録対象外ですか?」


 付き添いの記録官が職務上の顔で尋ねた。


「記録対象外です」


 私は即答した。


 セーラが小声で言う。


「でもすごく記録したいです」


「セーラさん」


「はい、封印します」


 ミリア様は真剣な顔で首を傾げた。


「未遂ということは、まだ成立していないのですね」


「何も成立していません」


「では、成立すると何になるのですか」


「業務上の話です」


「業務上の求婚ですか?」


「違います」


 セーラが机に額をつけた。


 笑いをこらえている。


 エレオノーラ様は楽しそうだ。


 とても楽しそうだ。


 この方、絶対にあとで社交界向けに比喩を磨く。


「ミリア様」


 私は話題を変えるため、文書箱を見た。


「それは?」


「あ、はい」


 ミリア様は、少し姿勢を正した。


「王宮記録局から、神殿前の発言記録の確認写しです。私の発言のうち、神殿側が『不安定発言』として扱いたい箇所に印がついていました」


「ありがとうございます」


 文書箱を受け取り、開く。


 中には写しが数枚。


 ミリア様の以前の声明。


『私は、今度は私の言葉で話します』


『聖女候補と呼ばれることに救われていた時もありました』


『でも、その言葉で誰かを傷つけたことから逃げません』


 赤い印がついているのは、やはり二文目だった。


 救われていた時もあった。


 神殿にとっては不安定。


 王宮にとっては扱いにくい。


 でも、ミリア様本人にとっては削れない言葉。


「また、ここですか」


 私が呟くと、ミリア様が小さく頷いた。


「はい。ここを削れば、綺麗になります」


「削りたいですか」


 聞いてから、私は少しだけ身構えた。


 これは、圧になるかもしれない。


 けれどミリア様は、文書を見てから答えた。


「削りたくなる時があります」


 その答えは、綺麗ではなかった。


 だから、私は黙って続きを待った。


「これがあると、また言われます。結局、聖女候補でいたかったのだろう、と。被害者ぶっているだけだ、と。神殿を悪く言う資格がない、と」


 ミリア様の指が、文書箱の縁を押さえた。


「でも、削ると、私が私に嘘をついた気がします」


 エレオノーラ様の扇が静かに閉じた。


 カイル様は黙っている。


 誰も代わりに答えない。


 ミリア様は少し息を吸った。


「だから、残します」


「はい」


「残してください、ではなく」


 ミリア様は、私を見た。


「残します」


 その一言に、私は頷いた。


「わかりました。記録上も、本人確認済みとして保全します」


「ありがとうございます」


「ただし、出す順番は考えましょう。削るのではなく、守るために」


「はい」


 ミリア様は少しだけ表情を緩めた。


 以前なら、ここで「皆さまのために」と言ったかもしれない。


 でも今は言わない。


 その代わり、自分の文書箱を抱え直した。


「言葉を選ぶのは、難しいですね」


「難しいです」


 私は苦笑した。


「毎日やっていても、毎日失敗します」


「リディア様でも?」


「私など、失敗の在庫が多すぎて棚卸しできません」


 先輩が遠くで「それは部署共有資産です」と呟いた。


 共有したくない資産だ。


 ミリア様は少し考えてから、カイル様を見た。


「カイル様も、言葉を選んでいるのですか」


 直球。


 非常に直球。


 神殿育ちの少女は、時々、貴族令嬢より斬り込みが鋭い。


 カイル様は数秒黙った。


「そうだ」


「求婚の?」


「違う」


 即答だった。


 私はなぜか少しだけ息を吐いた。


 安心したのか。


 残念だったのか。


 判断保留。


 私の感情も一度分類表に入れたい。


 ただし分類後に個人名へ戻ること。


 ベルク様方式禁止。


「では何の言葉ですか」


 ミリア様はまだ真面目だ。


 カイル様は、また少しだけ黙った。


 今度は逃げる沈黙ではない。


 探す沈黙。


「まだ、選んでいる」


 そう答えた。


 ミリア様は、ゆっくり頷いた。


「では、待つものなのですね」


 その言い方が、妙に静かだった。


 誰かに台本を渡され続けていた人の言葉だった。


 私は何も言わなかった。


 エレオノーラ様も何も言わない。


 ただ扇を開き直し、軽く笑った。


「では、求婚未遂ではなく、言葉選び未遂ということにしておきましょう」


「それも嫌です」


 カイル様が言った。


 低い声だった。


 だが、怒ってはいない。


「では何ですの?」


 エレオノーラ様が楽しげに問う。


 カイル様は、少し考えた。


「途中だ」


 それだけ。


 それだけなのに、部屋の全員が黙った。


 途中。


 確かにそうだ。


 私たちは全員、途中にいる。


 ミリア様は聖女候補をやめる途中。


 エレオノーラ様は悪役令嬢という見出しから、自分の涙を取り戻す途中。


 カイル様は言葉を憎む場所から、言葉で守る場所へ向かう途中。


 私は、誰かの言葉を書く人間から、自分の言葉で返事をする人間になる途中。


 途中なら、完成していなくていい。


 でも、止まってはいけない。


   ◇


 その日の午後、東街道請願の続報をまとめている時だった。


 灯火新聞から伝令鳥が飛び込んできた。


 飛び込んできた、という表現は比喩ではない。


 本当に窓から突入してきた。


 セーラが悲鳴を上げ、先輩が胃薬瓶を守り、カイル様が反射的に手を伸ばして鳥を受け止めた。


 鳥は無事。


 窓枠は少し無事ではない。


「修繕費……」


 先輩が呟いた。


「鳥類衝突費で申請してください」


「通りますか?」


「通らないでしょうね」


 私はカイル様から筒を受け取った。


 灯火新聞編集長の印。


 嫌な予感がした。


 急ぎの文書は、だいたい胃に悪い。


 封を開ける。


『大手瓦版数社が、明朝以下の見出しを準備中。


 情報源は不明。ただし宰相府周辺の文案癖あり』


 続く見出し案を見た瞬間、胃が冷えた。


『下級広報官リディア・ノートン、辺境伯と私的関係か』


『宰相補佐との協力を拒否した裏に北方勢力』


『民声応答網、王宮ではなく辺境伯家の影響下へ』


『広報官と辺境伯、深夜に密談』


『王宮広報に私情混入の疑い』


 部屋の温度が変わった。


 火種が、視界に立ち上がる。


【火種:辺境伯との癒着疑惑】


【火種:リディア私情介入】


【火種:北方による王宮広報掌握】


【火種:ベルク協力拒否理由の恋愛化】


【火種:民声応答網の信用低下】


【火種:カイル声明の私情扱い】


【火種:共同声明必要】


 恋愛化。


 そこに一番腹が立った。


 いや、腹が立つ前に、少しだけ息が詰まった。


 さっきの会話。


 言葉を選ぶ途中だったもの。


 紙に消された文字。


 まだ誰のものにもなっていない沈黙。


 それを、敵は見出しにする。


 人が言葉を選んでいる途中へ土足で入り、都合のよい物語にする。


 ベルク様か。


 ベルク様本人ではないかもしれない。


 でも、やり方は同じだ。


 空白に物語を流し込む。


 私が黙っているうちに、私の理由を作る。


 カイル様が黙っているうちに、彼の感情に見出しを貼る。


「……早いですわね」


 エレオノーラ様が低く言った。


「ベルク様は、恋愛沙汰の見出しが人の判断を鈍らせることも、よくご存じですのね」


「恋愛沙汰ではありません」


 私は反射的に言った。


 言ってから、まずいと思った。


 否定が強すぎる。


 強すぎる否定は、時に燃料になる。


 セーラが気まずそうに視線を逸らした。


 ミリア様は文書箱を抱えたまま、真剣に言った。


「では、何沙汰ですか」


「ミリア様」


「分類が必要かと」


「そこは分類しなくて大丈夫です」


 カイル様は見出し案を読んでいた。


 読むのに時間はかからなかった。


 短い悪意は、短い男にもよく刺さる。


 彼の顔から表情が消える。


 第五十六話の時とは違う。


 拳は机に向かわない。


 手は剣にも行かない。


 ただ、紙を持つ指が少しだけ強くなった。


「俺のせいだ」


「違います」


 私は即答した。


「違わない」


「違います。これは、あなたが何かしたからではなく、相手が空白を利用したからです」


「なら、空白を消す」


 カイル様が紙を置いた。


「俺が書く」


「何を」


「説明だ」


 私は一瞬、止まった。


 彼が自分から書くと言った。


 それが嬉しい。


 けれど、今は喜んでいる場合ではない。


「単独声明は危険です」


「なぜ」


「あなたが一人で私を庇えば、見出しの補強に使われます」


「では、黙るか」


「それも使われます」


 カイル様の眉が寄った。


「面倒だ」


「はい。炎上対応とは、相手が置いた泥沼で綺麗に踊れと言われる仕事です」


「踊るな」


「私もそう思います」


 エレオノーラ様が扇を閉じた。


「共同声明ですわね」


 私とカイル様が同時にそちらを見る。


 エレオノーラ様は、すでに数手先を見ている顔だった。


「リディアとカイル様、双方の職務上の協力関係を明示する。民声応答網は王宮、灯火新聞、記録局、各地方連絡網の共同運用であり、北方単独の影響下ではないと示す。加えて、私的関係については」


「そこは否定します」


 私は言った。


 少し早かった。


 エレオノーラ様の目が細くなる。


「リディア」


「はい」


「否定文を強くしすぎると、相手の期待通り燃えますわ」


「……はい」


 わかっている。


 わかっているのに、強く否定したくなる。


 仕事を私情と言われるのが嫌だった。


 カイル様の言葉を、敵の物語に使われるのが嫌だった。


 まだ形になっていないものへ、勝手に名前をつけられるのが嫌だった。


 でも、その怒りのまま書けば燃える。


 今度は、私がカイル様を傷つけるかもしれない。


 私が強く否定すれば、彼の「途中」までなかったことにしてしまうかもしれない。


 その怖さに、指先が少し冷えた。


 カイル様は、私を見ていた。


 何も言わない。


 その沈黙が、さっきとは違って見えた。


 今、彼もたぶん、何かを飲み込んだ。


 私は、それを勝手に解釈しない。


「共同声明を作ります」


 私は言った。


「ただし、私一人では書きません」


 カイル様の目が動いた。


「俺も書く」


「はい」


「長くなるか」


「なります」


「……読む」


「書くんです」


「書く」


 カイル様は、少しだけ嫌そうな顔をした。


 でも逃げなかった。


 エレオノーラ様が微笑む。


「では次話は、求婚ではなく共同声明ですわね」


「次話と言わないでください」


 ミリア様が真剣に首を傾げる。


「共同声明と求婚は、似ているのですか」


「似ていません」


「どちらも二人の関係を公に説明するものでは?」


 全員が一瞬、黙った。


 ミリア様は時々、無垢な顔で急所を突く。


 私は額を押さえた。


「……分類上は、別です」


「分類上」


「別です」


 セーラが小声で言った。


「議事録に残します?」


「残しません」


 私は紙を新しく一枚出した。


 見出し案の横に置く。


 書き出しを考える。


 強く否定しすぎず。


 曖昧に逃げず。


 職務上の協力を明示し。


 相手の物語に乗らず。


 カイル様の言葉を勝手に無害化せず。


 私の怒りも、完全には消さず。


 難しい。


 とても難しい。


 でも、隣にカイル様が立った。


「リディア」


「はい」


「俺の言葉を、勝手に削るな」


「はい」


「お前の言葉も、削るな」


 私は筆を持ったまま、彼を見上げた。


 短い。


 でも、逃げていない。


「……はい」


 その返事だけで、十分だった。


 今は。


 共同声明の一行目を、私はゆっくり書いた。


『本件に関し、確認済みの事実と未確認の憶測を分けて説明します』


 その隣に、カイル様が自分の筆を取った。


 彼は少しだけ迷い、続けて書いた。


『俺は、リディア・ノートンの言葉を私物化しない』


 私は、その一文を見た。


 火種は見えない。


 ただ、次の問題は見えた。


 この一文、周囲にはかなり誤解される。


 確実に。


 でも、彼の言葉だった。


 私は赤鉛筆を持ち上げ、少しだけ考え、下ろした。


「ここは、まだ直しません」


 カイル様がこちらを見る。


「なぜ」


「あなたの言葉だからです」


 そう答えると、カイル様はほんの少しだけ頷いた。


 窓の外では、曇り空の下を伝令鳥が飛んでいる。


 噂は明日の朝には出る。


 私たちの返事は、今夜中に出さなければならない。


 火は待ってくれない。


 でも、今日の私は少しだけ思う。


 待つべき言葉もある。


 待っている間に、敵が見出しを貼ってくるとしても。


 それでも。


 誰かの途中の言葉を、こちらから燃料にしてはいけない。


 そして私は、カイル様と並んで、最も燃えやすい共同声明を書き始めた。

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