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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
国家規模の情報操作

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75/100

正しい物語で人を支配する

 炎上対応係にとって、一番怖い言葉は何か。


 罵倒。


 告発。


 流言。


 処分通知。


 胃薬在庫切れ。


 どれも怖い。


 最後の一つは特に現実的に怖い。


 けれど、本当に一番怖い言葉は、たぶんこれだ。


 ――誰も燃えない。


 ベルク・アインハルト様が残していったその言葉は、焼けた記録紙の匂いより長く、私の喉の奥に残っていた。


 誰も燃えない国。


 そんなものがあるなら、私はきっと前世で死なずに済んだ。


 誰かの謝罪文を書きながら胃を壊すこともなかった。


 被害者の声を「今は出せない」と保留することもなかった。


 夜中に鳴り続ける連絡水晶の音に怯えることもなかった。


 誰も燃えない。


 誰も石を投げない。


 誰も見出しで刺されない。


 誰も、返事を待っている間に死なない。


 そんな国。


 そんなもの。


 あるはずがない。


 そう思うのに、手は勝手に紙を探していた。


「リディアさん」


 セーラの声で、私は我に返った。


 目の前の紙には、すでに表題が書かれている。


『ベルク・アインハルト協力要請への対応案』


 その下に、私はいつの間にか箇条書きを始めていた。


『条件一、個人名の秘匿を原則とすること』


『条件二、誘導文言の使用範囲を制限すること』


『条件三、民衆感情の分類後、原因確認を必須とすること』


『条件四、怒りの対象を新たに設定しないこと』


『条件五、情報整理と情報操作を明確に区別――』


 そこまで読んで、私は手を止めた。


 赤鉛筆の芯が、紙の上で折れている。


 ぽきり、と小さな音がした。


 セーラが言った。


「リディアさん、それ、断り状じゃないですよね」


「……そうですね」


 私は、折れた芯を見つめた。


「条件交渉案です」


 言ってから、胃が痛くなった。


 よりによって、自分で言語化してしまった。


 正直な自己認識ほど胃に悪いものはない。


 セーラは口を開きかけ、閉じた。


 先輩は胃薬瓶を持ったまま、こちらを見ている。


 エレオノーラ様は、まだ何も言わなかった。


 その沈黙が、一番怖い。


「一瞬だけです」


 私は言った。


 言い訳だとわかっていた。


「一瞬だけ、ベルク様の方法を、制限つきで使えないか考えました」


 エレオノーラ様が扇を開いた。


 ぱちり、という音が、妙に大きく聞こえた。


「一瞬で済みましたの?」


「済ませたいです」


「願望ではなく、事実を」


「……済んでいません」


 私は白状した。


 炎上対応係に、嘘の自己申告は向かない。


 あとで必ず燃える。


 カイル様は窓際に立っていた。


 王都の空は曇っている。


 昨夜から飛び続けた伝令鳥の影が、ときおり窓の外を横切った。


 彼は振り返らずに言った。


「行くのか」


「どこへですか」


「ベルクのところへ」


 私は答えに詰まった。


 行くつもりではあった。


 話を聞くために。


 提案の中身を知るために。


 罠を確認するために。


 言い方はいくつもある。


 でも、全部並べても、中心には別の言葉があった。


 迷っている。


 私は、ベルク様の誘いを完全には切り捨てられていない。


「行きます」


 そう答えた瞬間、セーラが胃薬瓶を握りしめた。


「断りに、ですよね?」


「……確認に」


「それ、燃える返答です」


「知っています」


 知っている。


 だから余計に嫌だった。


 自分が燃えそうな返答をしている時、人はだいたい本心に近い場所にいる。


 私は立ち上がった。


「同行者をお願いします」


 エレオノーラ様がすぐに言う。


「私が行きますわ」


 カイル様も短く言った。


「俺も行く」


「辺境伯様は、できれば柱を折らないでください」


「まだ折っていない」


「まだ、が怖いです」


 カイル様は不満そうに黙った。


 前回の「柱なら折ればいい」発言が、本人の中ではまだ比喩扱いになっていない気配がある。


 王都の建築物は今日も危険だ。


 けれど、その不器用な同行宣言に、少しだけ息ができた。


 私は紙を二枚に分けた。


 一枚には、ベルク様の提案の危険性。


 もう一枚には、魅力。


 魅力、と書いた瞬間、胸の奥がひどくざわついた。


 でも、書かなければならない。


 見ない誘惑ほど、強くなる。


 私は二枚目に赤字で書いた。


『炎上予防』


『暴動抑止』


『情報速度の補完』


『不安の事前把握』


『被害者発生前の介入』


『誰も燃えない、という幻想』


 最後の一行だけ、赤が濃くなった。


 幻想。


 そう書いた。


 そう書かなければ、飲まれそうだった。


   ◇


 ベルク様が指定した場所は、宰相府(さいしょうふ)の奥にある小会議室だった。


 正式名称は、情勢整理室(じょうせいせいりしつ)


 名前からして胃が痛い。


 整理という言葉は便利だ。


 片づける。


 整える。


 分類する。


 そして時々、見えにくい場所へ押し込む。


 扉の前には、王宮広報局の職員が二人立っていた。


 どちらも見覚えがある。


 ひとりは地方掲示板担当の若い職員。


 もうひとりは、以前、私に胃薬の在庫表を回してくれた中年の記録係だった。


 彼らは私を見て、目を伏せた。


 敵の顔ではない。


 けれど、味方の顔でもない。


 恐れている顔だった。


 私は足を止めた。


「……中に、広報局の職員がいるんですね」


 中年の記録係が小さく答えた。


「命令です」


 その一言に、火種が浮かぶ。


【火種:内部協力者の一括断罪】


【火種:職員恐怖】


【火種:広報局分裂】


【火種:リディア孤立】


 私は、すぐに責める言葉を飲み込んだ。


 飲み込んだ言葉も胃に悪い。


 でも、吐き出せば人を傷つける。


「命令内容は記録されていますか」


 記録係は瞬きをした。


「はい」


「写しを保全してください。命令に従ったことと、何を拒めなかったのかを分けます」


 彼の目が、わずかに上がった。


「……分けて、いただけるのですか」


「分けます」


 私が言うと、エレオノーラ様が横で静かに頷いた。


 カイル様は何も言わない。


 それがよかった。


 ここで「裏切り者」と言えば、彼らはベルク様の側へ走る。


 人は、逃げ道を奪われると、より固い扉に閉じこもる。


 私は、それを知っている。


 知っているからこそ、ベルク様のやり方に似ている自分が嫌になる。


 扉が開いた。


 部屋の中には、地図があった。


 王国全土の地図。


 南部穀倉地帯。


 西市場。


 東街道。


 北方。


 神殿周辺。


 主要新聞社。


 地方広報支部。


 赤、青、黄、黒の小札が刺されている。


 赤は怒り。


 青は恐怖。


 黄は飢え。


 黒は不信。


 見ただけで、嫌になるほどわかりやすい。


 悔しい。


 やはり上手い。


 ベルク様は地図の前に立っていた。


「お越しいただきありがとうございます、リディア・ノートン様」


「確認に来ました」


「ええ。即答されないところが、あなたの美点です」


「褒め言葉に聞こえないのですが」


「褒めています」


 ベルク様は微笑んだ。


「感情で拒絶する方より、よほど信頼できます」


 その一言が、また危険だった。


 信頼。


 評価。


 役に立つ。


 有効。


 私は前世で、その言葉に何度も首輪をつけられた。


 役に立つなら残れ。


 君しかできない。


 君ならわかるだろう。


 今だけ頼む。


 火が収まるまで。


 私は、指先を握った。


 カイル様が一歩近づく気配がした。


 それだけで少し戻れる。


 ベルク様は地図の北方部分を指した。


「たとえば、北方です」


 カイル様の目が細くなる。


 ベルク様は続けた。


「『辺境軍が動いた』という噂が出た時、北方では鐘三回により民衆を広場へ集め、公式確認まで動かさない」


「動かさない、ではなく、待つ文化です」


 私は訂正した。


「大きな違いがあります」


「言い方の差です」


「いいえ。主体の差です」


 ベルク様は少しだけ楽しそうに目を細めた。


「では、そこを尊重しましょう。北方方式は優秀です。王国全土へ転用できます」


 カイル様が低く言う。


「勝手に使うな」


「使うのではありません。制度化です」


「同じだ」


「違います」


 ベルク様は静かに言った。


「一つの土地で有効だった知恵を、国全体の安全へ広げる。それを支配と呼ぶなら、行政の多くは支配です」


 また、言い返しにくい位置に置く。


 この人の言葉は、石畳の隙間に刃を差し込むみたいだ。


 少しずつ持ち上げる。


 そして、こちらの足場を傾ける。


 ベルク様は次に西市場を指した。


「西市場では、昨日の買い占め流言により倉庫が閉鎖されかけました」


「実際に王宮医薬局の一部買い付けがありました」


「ええ。だから単純否定は燃えた」


 私は唇を噛みそうになった。


 痛いところだ。


 第七十二話で、私は焦って一部の噂を否定しすぎた。


『王国一律税率引き上げはありません』


 嘘ではなかった。


 でも、南部一部地域の臨時徴収案を把握していなかった。


 民から見れば、「結局あったではないか」だ。


 嘘ではない、は燃える。


 前世から追ってきた呪物。


 私は、その呪物を自分で踏み抜いた。


 ベルク様は、私の表情を見逃さない。


「あなたはすでに経験したはずです。正確な事実だけでは足りない。民衆が何を恐れているかを先に受け止め、答える順序を整える必要がある」


「順序を整えることと、結論を誘導することは違います」


「違いは、運用者の倫理です」


「もっとも信用できない仕組みですね」


 ベルク様は微笑んだ。


「だからこそ、あなたが必要です」


 部屋が静かになった。


 私は、胃がきゅっと縮むのを感じた。


「あなたの能力は、民のために有効です」


 ベルク様は、静かに言った。


「火種を事前に察知できる。言葉がどこへ燃え広がるか見える。私と組めば、人々を傷つける炎上をなくせる」


 なくせる。


 その言葉に、私の中の何かが反応した。


 炎上をなくせる。


 被害が出る前に止められる。


 人が石を投げる前に、不安へ返事ができる。


 記者が見出しで人を刺す前に、誤解の余白を埋められる。


 王宮が九日遅れで届く前に、噂の走る道へ先回りできる。


 それは、救いではないのか。


 火が出てから消すより、火を出さないほうがいいに決まっている。


 誰も焦げないなら。


 誰も傷つかないなら。


 誰も、燃えないなら。


 私は、ほんの一瞬だけ、地図を美しいと思った。


 恐ろしいほど整った赤、青、黄、黒。


 怒り。


 恐怖。


 飢え。


 不信。


 混乱ではなく、整理された国。


 呼吸しやすいように見えた。


 その瞬間、自分が怖くなった。


【火種:リディア協力】


【火種:優しい統制】


【火種:炎上予防を名目とした沈黙】


【火種:正しい物語による支配】


【火種:民衆の選択権喪失】


【火種:火種感知の悪用】


 火種が、地図の上に重なって見えた。


 私は指先を机に押しつけた。


「ベルク様」


「はい」


「この計画で、民衆は何を選べるのですか」


「安全です」


「選べるものを聞いています」


「混乱しないことを選べます」


「それは、あなたが選んだ結果です」


 ベルク様は少しだけ首を傾けた。


「では、混乱を選ばせますか」


「違います」


「では、怒りを選ばせますか」


「違います」


「では、恐怖を?」


「違います」


「ならば、私とあなたの目的は同じです」


 私は息を吸った。


 同じ。


 それが一番嫌だ。


 目的だけ見れば、似ている。


 人を守りたい。


 暴動を防ぎたい。


 噂で誰かが死ぬのを止めたい。


 言葉の遅れで傷つく人を減らしたい。


 なのに、道が違う。


 でも、どこから違うのか。


 その線を、私は今すぐ引けなかった。


 ベルク様は、机に一枚の文案を置いた。


『王国情勢安定化共同声明案』


 共同。


 嫌な文字だ。


 私は文面を読んだ。


『王宮広報局および臨時広報調査室は、王国各地における不安情報の混乱を防ぐため、宰相府と協力し、確認済み情報および民衆感情の整理を行う』


『今後、各地の噂については、公式確認前の拡散を控え、王宮および関係機関の統一見解を待つことを推奨する』


『民衆の不安には誠実に向き合い、必要な情報を適切な順序で告知する』


 燃えにくい。


 腹立たしいほど燃えにくい。


 誠実。


 確認済み。


 統一見解。


 適切な順序。


 どれも、正しい顔をしている。


 でも、見えた。


【火種:統一見解による異論封殺】


【火種:公式確認前の沈黙強要】


【火種:適切な順序という名の遅延】


【火種:民衆感情の管理】


 私は文案から目を離した。


「この文章は、綺麗です」


「ありがとうございます」


「褒めていません」


「わかっています」


 ベルク様は微笑んだ。


「ですが、綺麗な文章は必要です。民は汚い現実を、そのままでは飲み込めない」


「飲み込みやすく切ることと、毒を混ぜることは違います」


「毒ではありません。薬です」


「副作用の説明がありません」


 セーラが小さく「職業病の返しです」と呟いた。


 エレオノーラ様の扇が少しだけ揺れる。


 ベルク様は、私ではなくカイル様を見た。


「ヴァレンシュタイン辺境伯。あなたは言葉を憎んでいる。ならば、言葉が人を殺す前に管理する意義を、誰より理解できるはずです」


 カイル様の目が冷えた。


「管理した言葉で、父は死んだ」


「管理されなかった噂が、引き金でした」


「遅れた返事が殺した」


「だから、遅れない仕組みを作る」


 カイル様の手が、剣の柄に触れなかった。


 その代わり、拳がゆっくり握られる。


 第五十六話の彼なら、ここで机が割れていたかもしれない。


 でも、今は違った。


 彼は短く言った。


「お前の仕組みは、声を聞かない」


 ベルク様は穏やかに返す。


「聞いています」


「返していない」


 その一言に、私は胸を衝かれた。


 カイル様は、私を見ていない。


 ベルク様だけを見ている。


 けれど、その言葉は私の中にも落ちた。


 聞いている。


 返していない。


 王宮標語。


 民声収集。


 民声の塔へ向かう道。


 まだ見えていない大きな火元の影が、そこで少しだけ揺れた気がした。


 ベルク様は微笑みを消さなかった。


「返事は、選ばねばなりません」


「誰が」


「責任ある者が」


「民本人ではないのか」


「全員に判断を委ねれば、国は遅れます」


「遅らせたのは王都だ」


 部屋の空気が張りつめた。


 私は、慌てて言葉を挟んだ。


「ベルク様。この共同声明案は受けられません」


 セーラが明らかに息を吐いた。


 エレオノーラ様は、まだ表情を変えない。


 カイル様も黙っている。


 ベルク様は、少しだけ残念そうに眉を下げた。


「即答はしないとおっしゃった」


「確認した結果です」


「では、対案は?」


 来た。


 こういうところが、嫌になるほど上手い。


 拒否だけでは、現場は回らない。


 燃えている噂は待たない。


 民の不安も待たない。


 私が「それは統制です」と言っている間にも、どこかで誰かが石を握る。


 だから、ベルク様は聞く。


 では、対案は?


 私は、持っていた紙を取り出した。


『王国民声応答網 試案』


 昨日から、何度も直している。


 まだ穴だらけだ。


 完璧ではない。


 燃えるところもある。


 でも、出すしかない。


「対案です」


 ベルク様の目が、ほんの少しだけ興味を帯びた。


 私は読み上げた。


「第一に、噂を感情別だけで分類しない。原因別と感情別の両方で記録する」


「第二に、否定文の前に、不安の内容を確認する」


「第三に、公式確認前の沈黙を求める場合は、確認期限と担当部署を明示する」


「第四に、地方からの反論経路を開く。王都の統一見解だけを最終回答にしない」


「第五に、民衆感情を誘導しない。怒りの対象を設定しない」


「第六に、個人名を匿名化する場合も、存在を消さない」


 ベルク様は静かに聞いていた。


 私は続ける。


「そして、最後に」


 ここで少しだけ息が詰まった。


「返事を保留する時は、保留した事実を記録し、期限を切る」


 マルタ記録官の焼けた手紙が頭に浮かんだ。


 返事をください。


 リーナ。


 その名前は、ここにはいない。


 でも、紙の向こうにいた。


 ベルク様は言った。


「理想的です」


「嫌な言い方ですね」


「実際、理想的です。ですが、遅い」


 彼は地図を指した。


「暴動は待ちません。市場は待たない。病は待たない。飢えも、怒りも、恐怖も」


「だからといって、先に物語を与えていい理由にはなりません」


「では、石が飛んでから謝りますか」


 私は言葉を止めた。


 その沈黙を、ベルク様は見た。


「あなたはわかっているはずです。事実確認を待てば、間に合わないことがある。全員に説明すれば、誰も読まない。怒りの原因を正確に示せば、怒りはさらに広がる」


「わかっています」


「では、なぜ拒むのです」


 私は、すぐに答えられなかった。


 燃えない答えならある。


 倫理的問題があるため。


 説明責任を損なうため。


 民主的正当性を欠くため。


 情報統制にあたるため。


 どれも正しい。


 でも、どれも足りない。


 私の口から出たのは、もっと不格好な言葉だった。


「怖いからです」


 ベルク様が黙った。


 私は続けた。


「あなたのやり方が、少し魅力的に見えるからです」


 セーラがこちらを見る。


 エレオノーラ様は動かない。


 カイル様の目が、少しだけ私に向いた。


「私も、火を出す前に消したい。誰も叩かれず、誰も見出しにされず、誰も謝罪文で傷つかずに済むなら、それがいいと思ってしまう」


 言葉が、喉に引っかかる。


「でも、そのために人の怒りを先回りして整え始めたら、私はたぶん止まれません」


 前世の会議室が、頭の奥をかすめた。


 誠意を見せろ。


 責任は認めるな。


 被害者感情に配慮しろ。


 ただし、会社の非は限定しろ。


 燃えない言葉を選べ。


 燃えないように、燃えないように、燃えないように。


 その結果、誰の声も入っていない謝罪文ができた。


 私は、それを書いた。


「私は、自分をそこまで信用できません」


 そう言った瞬間、部屋が妙に静かになった。


 ベルク様の微笑みが、わずかに薄くなる。


「あなたは、ずいぶん不安定な方ですね」


「はい」


「国の情報を扱うには、危うい」


「そうですね」


「それでも、あなたは私より優れていると思いますか」


「思いません」


 私は首を横に振った。


「私は、あなたより優れていない。あなたより正しいとも言い切れない」


 ベルク様の目を見る。


「でも、あなたより迷います」


 カイル様が、ほんの少しだけ動いた。


 私は続けた。


「私は、胃が痛くなります。書いた文章が誰かを傷つけるかもしれないと考えて、何度も止まります。間違えたら訂正します。訂正したら叩かれます。たぶん、また失敗します」


「それは欠点です」


「はい」


「国政において、迷いは遅延を生みます」


「はい」


「遅延は人を殺します」


「はい」


 私は、折れた赤鉛筆の感触を思い出した。


「でも、迷わない正しさも、人を殺します」


 ベルク様の目が、ほんの少しだけ冷えた。


「綺麗な言葉です」


「そうでしょうか」


「ええ。人はそういう言葉を好みます」


「では、燃えますね」


「燃えます」


 ベルク様は、静かに微笑んだ。


「だから、あなたは国を燃やす」


 その言葉は、祝福ではなかった。


 予言でもなかった。


 告発だった。


 私は受け止めた。


 たぶん、この人は本気でそう思っている。


 リディア・ノートンは優しすぎる。


 迷いすぎる。


 だから国を燃やす。


 その判断は、完全な嘘ではない。


 だから痛い。


 カイル様が口を開いた。


「お前は」


 短く、低く。


 けれど、そこで少し止まった。


 彼は言葉を探していた。


 逃げずに。


 そして言った。


「お前は、あいつより胃が痛そうだ」


 全員が黙った。


 私も黙った。


 ベルク様まで、一瞬だけ沈黙した。


 カイル様は真顔だった。


「だから違う」


 私は、瞬きをした。


「……判断基準が胃ですか」


「そうだ」


「堂々と言い切らないでください」


「間違っていない」


 エレオノーラ様が扇で口元を隠した。


 セーラは半分泣きそうな顔で笑っている。


 ベルク様は、ゆっくりと息を吐いた。


「実に、辺境伯らしい論理です」


「論理ではない」


「でしょうね」


 カイル様は、私を見た。


「お前は、痛がる」


 その一言は、乱暴なようで、まっすぐだった。


「痛がる者は、踏む前に見る」


 私は言葉を失った。


 ベルク様の前で、泣くわけにはいかない。


 泣いたら見出しになる。


 いや、ここに記者はいない。


 でも、習性というものは悲しい。


 私は息を整えた。


「ありがとうございます」


「礼はいらん」


「では、後で胃薬を分けます」


「いらん」


「私が必要です」


「飲め」


 妙な会話になった。


 でも、その妙さで、足場が戻った。


 私はベルク様へ向き直った。


「共同声明案は拒否します」


「残念です」


「ただし、あなたの計画の一部は分析します」


「盗用ですか」


「対抗策です」


「言い方の差ですね」


「主体の差です」


 ベルク様は、少しだけ楽しそうに笑った。


「では、あなたの民声応答網が、私の民意安定化計画より早く機能するか、試しましょう」


「試す?」


「ええ」


 ベルク様は、地図の東街道に黒い札を刺した。


「今夜、東街道で大きな噂が流れます」


 私は、背筋を冷やした。


「あなたが流すのですか」


「いいえ。もう流れ始めています」


「内容は」


「王宮が地方請願を破棄した、というものです」


 息が止まる。


 地方請願。


 破棄。


 王宮。


 それは、民声の塔へ向かう核心に近い火種だった。


 まだ、私たちはその全貌を掴んでいない。


 今燃やされると、対応が難しい。


「あなたなら、どう応答しますか」


 ベルク様は穏やかに問いかけた。


「否定しますか。調査中と言いますか。請願の存在を認めますか。認めれば、次は誰の請願が読まれなかったのか問われる」


 彼の声は優しい。


 優しいのに、追い詰める。


「隠せば燃える。認めても燃える。返事をすれば、さらに返事を求められる」


 私は、火種を見た。


【火種:地方請願破棄疑惑】


【火種:王宮無応答】


【火種:民声収集暴露】


【火種:請願者特定危険】


【火種:王宮責任追及】


【火種:ベルクによる応答網試験】


 これは、試験ではない。


 罠だ。


 でも、現実でもある。


 噂はもう流れている。


 私が拒否しても、燃える。


 ベルク様は微笑んだ。


「リディア・ノートン様。あなたの返事を、楽しみにしています」


   ◇


 宰相府を出た時、空はすっかり暗くなっていた。


 伝令鳥が一羽、王宮の塔を横切る。


 その影が、黒い火種みたいに見えた。


 セーラは走って先に戻った。


 東街道の情報を集めるためだ。


 エレオノーラ様は、隣で静かに扇を閉じた。


「揺れましたわね」


「はい」


「まだ揺れていますわね」


「はい」


「よろしい」


「よろしいんですか」


「揺れていると認められるうちは、まだ戻れます」


 エレオノーラ様は前を向いたまま言った。


「揺れていないと言い始めたら、私が叩きます」


「扇でですか」


「必要なら椅子で」


「物理は禁止です」


「比喩ですわ」


 最近、比喩の信用が薄い。


 カイル様は、少し後ろを歩いていた。


 いつもより足音が静かだった。


 王宮の回廊に入ったところで、彼が言った。


「リディア」


「はい」


「お前は、あいつと違う」


 私は振り返った。


「胃以外の理由でお願いします」


 カイル様は真剣に考えた。


 かなり長く考えた。


 私は待った。


 急かさなかった。


 彼は、言った。


「お前は、名前を消す時、痛そうな顔をする」


 胸の奥が詰まった。


「それだけですか」


「それだけではない」


「他には?」


 カイル様は、また少し黙った。


「今は、これだ」


 私は笑いそうになって、失敗した。


 笑いと泣きの境目みたいな息が出た。


「十分です」


「足りるか」


「今日は」


「ならいい」


 彼はそれ以上言わなかった。


 でも、歩幅を少しだけ私に合わせた。


 私は、東街道の黒い札を思い出す。


 地方請願破棄疑惑。


 王宮が答えなかった声。


 まだ見えていない塔の影。


 ベルク様は、こちらの核心を突いてきている。


 彼は、私が返事を始めることの危険を知っている。


 だから、その前に燃やすつもりだ。


 私が恐れていることを、私より先に形にする。


 正しい物語で人を支配する人は、敵の恐怖にも名前をつける。


 その夜、私は眠らないつもりだった。


 東街道への初動応答。


 地方請願の保全確認。


 王宮記録局への照会。


 灯火新聞への短報依頼。


 公爵家社交網への火消し連絡。


 やることは山ほどあった。


 けれど、深夜近く。


 セーラに「五分だけ目を閉じてください」と言われ、椅子に座った。


 五分。


 それだけのはずだった。


 机の上には、ベルク様の共同声明案がある。


 隣には、私の民声応答網試案。


 どちらも紙だ。


 どちらも言葉だ。


 どちらも、人を救う顔をしている。


 私は、目を閉じた。


 そして、前世の会議室の匂いがした。


 蛍光灯の白い光。


 冷めたコーヒー。


 鳴り続ける電話。


 誰かが言う。


『誠意を見せて』


 別の誰かが続ける。


『ただし、責任は認めないで』


 私は夢の中で、赤字だらけの謝罪文を見下ろしていた。


 そこには、誰の名前もなかった。

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