表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
国家規模の情報操作

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
76/100

リディアの前世の炎上

 夢の中で、私はスーツを着ていた。


 硬い襟。


 薄いグレーのジャケット。


 足に合わないパンプス。


 手元には冷めたコーヒー。


 机の上には、赤字だらけの謝罪文。


 窓の外は夜だった。


 けれど、会社の中だけは昼のように白い。


 蛍光灯の光は、祈りよりも容赦がない。


 誰かのために燃えているわけではないのに、全員の顔色を灰色にする。


「加藤さん、これ、今日中に出せる?」


 前世の私の名前を、上司が呼んだ。


 私は画面から目を離さないまま答える。


「今日中というのは、何時まででしょうか」


「できるだけ早く」


「それは時刻ではありません」


「じゃあ、今すぐ」


「それも時刻ではありません」


 夢の中の私は、疲れすぎていた。


 でも、口だけは少し元気だったらしい。


 前世でも今世でも、胃が痛い時ほど口が働く。


 最悪の特技である。


 会議室の長机には、役員、法務、営業、品質管理、広報、外部顧問が並んでいた。


 全員、違う顔をしているのに、目だけが同じだった。


 責任を取りたくない目。


 火を自分の席に近づけたくない目。


 それから、私を見る目。


 この人なら文章で何とかするだろう、という目。


 机の中央に置かれた紙には、事故報告の概要があった。


 製品不具合。


 健康被害の疑い。


 問い合わせ急増。


 報道機関からの照会。


 被害者家族からの面会要請。


 水晶掲示板――ではなく、前世の掲示板とSNSでの拡散。


 あの世界にも、火はあった。


 魔法はなかった。


 けれど、火はあった。


 指先ひとつで、見知らぬ誰かの名前が燃えた。


 見出しになり、引用され、まとめられ、嘲笑され、忘れられた。


 私はその火を、画面越しに何度も見ていた。


 上司が言った。


「誠意を見せて」


 私はキーボードに指を置く。


「はい」


 別の役員が言った。


「ただし、責任は認めないで」


 私は指を止めた。


 夢の中の私が、顔を上げる。


「無理難題にもほどがある」


 会議室が一瞬だけ静かになった。


 誰かが咳払いをした。


 法務担当が言う。


「責任の所在は現在調査中です。現時点で当社の過失を認める表現は避けてください」


 品質管理が言う。


「原因はまだ確定していません。外部要因の可能性もあります」


 営業が言う。


「取引先への影響もあるので、回収という言葉は慎重に」


 役員が言う。


「被害者という言葉は強すぎる。利用者様、で」


 上司が私を見る。


「ね、うまく整えて」


 整えて。


 その言葉に、胸の奥が冷えた。


 私は、画面に向き直った。


 文案の最初の一行はこうだった。


『このたびは、弊社製品に関する一連の報道により、皆様にご心配とご迷惑をおかけしておりますことを、深くお詫び申し上げます』


 燃えにくい。


 何も言っていないから。


 誰にも触れていないから。


 痛みの場所を避けているから。


 私はそれを知っていた。


 知っていて、書いた。


 次の一文。


『現在、事実関係を確認中であり、関係機関と連携のうえ、適切に対応してまいります』


 適切。


 便利な言葉。


 何も約束しないまま、何かをしているように見せられる。


 私は書き続けた。


『なお、個別のお問い合わせにつきましては、専用窓口にて順次対応いたします』


 順次。


 これも便利な言葉。


 遅れていることを、遅れていると言わずに済む。


 会議室の端で、若い社員が電話を受けていた。


 声が漏れる。


「はい。現在確認中でして……はい、担当部署へ共有いたします……はい、必ず……」


 必ず。


 その言葉に、私は振り返りそうになった。


 でも振り返らなかった。


 画面を見た。


 赤字を直した。


 文章を整えた。


 火を小さくするために。


 会社を守るために。


 自分の仕事を終わらせるために。


 その時、会議室の扉が開いた。


 別の社員が、印刷したメール束を持って入ってくる。


「被害を訴えている方からのメールです。広報にも共有をと」


 上司が眉をひそめた。


「今は会議中だから、あとで」


「でも、かなり強い内容で」


「だから、あとで」


 メール束が、私の横に置かれた。


 私は見てしまった。


 表紙に、一通だけ件名が見えた。


『娘の名前を、発表文の中で消さないでください』


 指が止まった。


 名前。


 その文字だけが、蛍光灯の光の下で妙に濃かった。


 私は、メール束を開かなかった。


 開けば、書けなくなると思った。


 今、声明を出さなければ炎上が広がる。


 報道が先に出る。


 株価が落ちる。


 取引先が動く。


 問い合わせが雪崩れる。


 私は、会社のために、組織のために、混乱を避けるために、画面へ戻った。


 そして、名前のない文章を書いた。


『皆様』


『利用者様』


『関係者の皆様』


『お問い合わせいただいた方々』


 誰でもある言葉。


 誰でもない言葉。


 名前が入れば、責任が生まれる。


 顔が浮かべば、逃げにくくなる。


 だから、私は消した。


 消したのだ。


   ◇


 夢の中の時間は、ぐにゃりと歪む。


 次に私は、深夜の広報フロアにいた。


 電話が鳴っていた。


 メール通知が鳴っていた。


 社内チャットが鳴っていた。


 ニュース速報が鳴っていた。


 全部が鳴っていた。


 鳴り止まない世界は、人間を少しずつ削る。


 前世にも胃薬はあった。


 ただし、今世のように薬草の匂いはしない。


 白い錠剤。


 苦くも甘くもない。


 効いているのか、効いていないのかわからない。


 それでも飲む。


 飲むという行為だけが、「まだ自分の身体を管理している」という錯覚をくれる。


「加藤さん、SNSの反応、見た?」


 同僚が言った。


「見ています」


「やばいよ」


「やばい、を分類してください」


「全部」


「分類不能は一番やばいですね」


 私は画面をスクロールする。


『謝罪になってない』


『責任逃れ』


『娘さんの名前を出せ』


『会社は隠してる』


『広報文が冷たい』


『人が傷ついてるのに“ご心配”って何?』


『誰に謝ってんの?』


 誰に謝っているのか。


 私は画面の前で、ほんの少しだけ呼吸を忘れた。


 その問いは、私にも刺さった。


 けれど、次の瞬間には別の通知が来る。


『記者会見想定問答、至急』


 私は息を戻し、想定問答を開く。


 問。


『健康被害を訴えている利用者に対して、会社として責任を認めるのか』


 答。


『現在、事実関係を確認中であり、原因の特定には至っておりません。弊社といたしましては、関係機関と連携し、誠実に対応してまいります』


 問。


『被害者家族への謝罪は』


 答。


『お問い合わせいただいている方々には、個別にご連絡を差し上げております』


 嘘ではない。


 連絡はしている。


 けれど、返事にはなっていない。


 問。


『製品回収が遅れたのでは』


 答。


『安全性確認のため、慎重に判断を行っております』


 慎重。


 その文字が、夢の中で燃えた。


 私はそれを見ている。


 見えているのに、消さない。


 前世の私には、火種感知なんてなかった。


 でも、本当は見えていたのかもしれない。


 燃えそうな言葉。


 傷つける言葉。


 誰かを遠ざける言葉。


 全部、胃が先に知っていた。


 それでも書いた。


 上司が背後から言う。


「加藤さん、これでいこう。燃えない方向で」


 私は小さく答えた。


「燃えないというより、燃えている場所を見ない文章です」


「え?」


「いえ。直します」


 私は直した。


 直して、もっと燃えにくくした。


 もっと冷たくした。


 もっと、誰もいない文章にした。


   ◇


 夢はさらに飛んだ。


 会見場。


 並ぶカメラ。


 フラッシュ。


 役員の前に置かれた水。


 机の下で震える広報担当者の手。


 私は舞台袖にいた。


 手元には会見台本。


 何度も赤字を入れた紙。


 役員が読み上げる。


『このたびは、弊社製品に関する一連の件につきまして、利用者の皆様、関係者の皆様に多大なるご心配とご迷惑をおかけしておりますことを、深くお詫び申し上げます』


 深く。


 その言葉は、床に届かない。


 記者が手を上げる。


「具体的に、誰に謝罪しているんですか」


 会場が静まった。


 役員は台本を見る。


 私は舞台袖で、次の想定問答を探す。


 ある。


 ちゃんとある。


 私は、役員へ合図を送る。


 役員が読む。


『お問い合わせいただいている方々に対しましては、個別に真摯な対応を行っております』


 記者が続ける。


「お名前を公表して訴えているご家族があります。会見前に面会要請も出ています。その方々へ、直接謝罪はされたんですか」


 役員が黙る。


 私は、別の紙を探す。


 法務確認済み回答。


 責任限定版。


 面会未実施の理由。


 私は、そこにある答えを渡した。


 渡してしまった。


『個別の事案については、プライバシー保護の観点から回答を差し控えます』


 役員がそれを読んだ瞬間、会見場の空気が変わった。


 記者の目が鋭くなる。


 画面の向こうで、誰かが怒っているのがわかる。


 でも、法務上は燃えにくい。


 個人情報保護。


 プライバシー。


 差し控え。


 正しい言葉だ。


 正しすぎて、人の顔が消える言葉だ。


 私は舞台袖で立っていた。


 胃が痛かった。


 けれど、会見は大きな失言なく終わった。


 上司は言った。


「よかった。何とか乗り切ったね」


 何を。


 誰を置いて。


 どこへ。


 私は聞かなかった。


 聞く時間がなかった。


 次の炎上が来ていたから。


   ◇


 夢の中で、私は自分の机に戻った。


 深夜二時。


 午前三時。


 朝五時。


 時計の針は回る。


 私は回らない。


 椅子に座ったまま、画面を見ている。


 メールフォルダには、未読が積み上がっていた。


 被害を訴える声。


 報道問い合わせ。


 社内確認。


 役員修正。


 法務差し戻し。


 営業からの苦情。


 取引先への説明資料。


 SNS監視表。


 私の名前が、掲示板に出始めていた。


『この広報文を書いたやつ誰?』


『人間の心ある?』


『会社の盾』


『謝罪風煽り職人』


 前世の私は笑った。


 乾いた笑いだった。


「謝罪風煽り職人は、ちょっと語呂がいいですね」


 誰も笑わなかった。


 同僚は机に突っ伏していた。


 上司は会議室で仮眠していた。


 電話はまだ鳴っていた。


 私は、メール束の一番上を開いた。


『娘の名前を、発表文の中で消さないでください』


 今さら。


 本当に、今さら。


 開いたメールには、長い文章があった。


 病院のこと。


 問い合わせ窓口へ何度も連絡したこと。


 担当が変わるたびに同じ説明をさせられたこと。


 報告書には「利用者」としか書かれていなかったこと。


 娘には名前があること。


 好きな食べ物があること。


 発表文の「皆様」の中に、娘が入っているとは思えなかったこと。


 私は、最後の一文を見た。


『会社に守ってほしいのではありません。娘がいたことを、なかったことにしないでください』


 夢の中なのに、文字が滲んだ。


 私は返信画面を開いた。


 指が動かない。


 謝罪文なら書ける。


 声明なら書ける。


 想定問答なら書ける。


 責任を限定し、火種を抑え、会社の立場を守る文章なら書ける。


 でも、この人へ返す言葉がわからなかった。


 個別回答テンプレートはある。


『このたびは貴重なご意見をいただき、ありがとうございます』


 違う。


『弊社といたしましては、真摯に受け止めております』


 違う。


『担当部署へ共有し、今後の対応の参考とさせていただきます』


 違う。


 全部違う。


 私は、ようやく一行だけ打った。


『申し訳ありません』


 その後が続かない。


 なぜ謝るのか。


 何に謝るのか。


 誰として謝るのか。


 会社として。


 広報として。


 文案作成者として。


 人間として。


 どれも違う。


 どれも足りない。


 私はその一行を消した。


 返信は送らなかった。


 送れなかった。


 そのまま、次の会議通知が鳴った。


 私は立ち上がった。


 メールを未処理フォルダへ移した。


 未処理。


 ひどい名前だ。


 人の声を入れるには、あまりに便利な箱だった。


   ◇


 夢は、さらに暗くなった。


 会社の廊下。


 白い壁。


 誰もいない給湯室。


 紙コップに入った水。


 胸の奥が苦しい。


 胃が痛いのか、心臓が痛いのか、もうわからなかった。


 上司が遠くで言っている。


「加藤さん、もう少しだけ頼む」


「君しか全体を把握してないから」


「ここで抜けられると困る」


「被害者対応、今日中に片づけて」


「誠意を見せて。ただし責任は認めないで」


 私は紙コップを握りつぶした。


 水が手にこぼれる。


 冷たい。


 その冷たさだけが、はっきりしていた。


 夢の中の私は、笑った。


「無理難題にもほどがある」


 でも、戻った。


 席に戻った。


 赤字を入れた。


 文章を整えた。


 燃えない言葉を選んだ。


 そして、誰かの名前をまた消した。


 消すたびに、胃が痛んだ。


 痛いなら、やめればよかった。


 でも、やめなかった。


 やめられなかった。


 いや。


 違う。


 やめないことを選んだ日もあった。


 私は、被害者だった。


 会社に使い潰された。


 盾にされた。


 最後は炎上対応の火の中に一人で立たされた。


 それは本当だ。


 でも、それだけではない。


 私は、盾でもあった。


 誰かの声の前に立ち、会社を守る文章を書いた。


 誰かの怒りを「ご意見」にした。


 誰かの痛みを「お問い合わせ」にした。


 誰かの名前を「皆様」にした。


 そして、自分の胃痛を免罪符にしようとしていた。


 痛かったから仕方ない。


 命令だったから仕方ない。


 会社員だったから仕方ない。


 でも、消された側から見れば、そんな事情は関係ない。


 私が書いた文章は、届いた。


 冷たく。


 正しく。


 名前のないまま。


   ◇


「リディア」


 低い声がした。


 夢の白い蛍光灯が揺れる。


「リディア」


 今度は、もっと近い。


 私は息を吸った。


 薬草の匂いがした。


 冷めたコーヒーではない。


 北方の胃薬茶の匂い。


 目を開けると、臨時広報調査室りんじこうほうちょうさしつの天井が見えた。


 木の梁。


 壁の水晶灯。


 紙の山。


 鳥籠。


 胃薬箱。


 ここは会社ではない。


 王宮だ。


 いや、王宮もたいがい職場環境としてどうかと思うが、少なくとも蛍光灯はない。


 カイル様が私のそばに立っていた。


 顔が近い。


 近すぎる。


「生きているか」


「……たぶん」


「たぶん、では困る」


「前世でもよく困られました」


 言ってから、私は口を閉じた。


 しまった。


 寝起きは口が緩い。


 前世の話は、説明が面倒くさい部類の個人情報である。


 カイル様は眉を動かした。


「前世?」


「夢の話です」


 嘘ではない。


 不十分な説明ではある。


 カイル様はしばらく私を見ていたが、それ以上追及しなかった。


 代わりに、湯気の立つ茶器を差し出す。


「飲め」


「胃薬茶ですか」


「そうだ」


「ありがとうございます。現世の福利厚生ですね」


「何だそれは」


「いえ、こちらの話です」


 私は茶器を受け取った。


 手が少し震えていた。


 カイル様はそれを見た。


 見たけれど、何も言わなかった。


 今は、その沈黙がありがたい。


 少し離れた机では、セーラが伝令紙を整理していた。


 目の下に隈がある。


 でも動きは速い。


 エレオノーラ様は窓際で、公爵家から届いた封書を読んでいる。


 扇は閉じたまま。


 部屋はまだ燃えている。


 夢から覚めても、炎上は待ってくれない。


「リディアさん、起きられますか」


 セーラが声をかけてくる。


「東街道の噂、広がっています」


 私は茶器を置いた。


「内容は」


「『王宮が地方請願を破棄した』です。ベルク様の言った通り、すでに三つの宿場で掲示板に書かれています」


 エレオノーラ様が続けた。


「社交網にも入りましたわ。貴族側では『地方官の管理不足』へ逸らす動きがあります」


「神殿は?」


「まだ沈黙。ただし祈祷所で『不確かな噂に惑わされないように』という文言が出ています」


「新聞社は?」


「大手二紙が朝刊に載せる準備をしています。見出し案は押さえました」


 セーラが紙を差し出す。


『王宮、地方の声を握り潰しか』


『請願破棄疑惑 宰相府は沈黙』


『民の声はどこへ消えた』


 私はその三つの見出しを見た。


 胸の奥が、夢の続きみたいに痛んだ。


 民の声はどこへ消えた。


 前世のメールが、頭の中で重なる。


 娘の名前を、発表文の中で消さないでください。


 私は紙を置いた。


「王宮記録局から、請願保管状況は?」


「照会中です。ただ、記録庫の一部が宰相府管理に移されています」


「燃えますね」


「すでに火花です」


 セーラは疲れた声で言った。


「本局からは、宰相府統一見解を待つようにと」


 その瞬間、夢の上司の声が重なった。


 誠意を見せて。


 ただし責任は認めないで。


 今世の言葉に置き換えれば、こうだ。


 民の声を聞いている顔をしろ。


 ただし、返事をしていないことは認めるな。


 私は椅子から立ち上がった。


 少しふらつく。


 カイル様の手が伸びかけて、止まった。


 支えようとしたのだと思う。


 でも、私は自分で机に手をついた。


「大丈夫です」


「大丈夫には見えない」


「大丈夫ではありません。でも、書けます」


「なら座れ」


「はい」


 素直に座った。


 こういう時のカイル様の短文は、たいてい正しい。


 私は白紙を引き寄せた。


 いつものように、まず火種を見る。


【火種:王宮請願破棄疑惑】


【火種:地方不信拡大】


【火種:請願者特定危険】


【火種:宰相府隠蔽印象】


【火種:王宮広報局沈黙】


【火種:民声収集への接続】


【火種:ベルク計画正当化】


 全部燃える。


 否定しても燃える。


 認めても燃える。


 調査中と言っても燃える。


 沈黙すればもっと燃える。


 なら、何を書くか。


 前世の私は、ここで「現在確認中です」と書いた。


 正しかった。


 でも、足りなかった。


 前世の私は、ここで「個別の事案にはお答えを差し控えます」と書いた。


 燃えにくかった。


 でも、人を消した。


 今の私は、同じことをしてはいけない。


 でも、請願者の名前を晒すわけにもいかない。


 守るべき沈黙と、逃げるための沈黙は違う。


 その境目は、紙の上で簡単に滲む。


 私は書き始めた。


『東街道周辺で流れている「王宮が地方請願を破棄した」との情報について、現在、王宮記録局および関係部署に保管状況を照会しています』


 セーラが頷く。


 私は続ける。


『現時点で、当該情報の真偽を断定できる段階にはありません』


 ここまでは安全だ。


 燃えにくい。


 でも、足りない。


 私は息を吸った。


『ただし、王宮に提出された請願の一部について、回答状況が速やかに確認できない状態にあることは事実です』


 セーラの手が止まった。


 エレオノーラ様がこちらを見る。


 カイル様は黙っている。


 火種が見える。


【火種:王宮無応答認定】


【火種:責任追及】


【火種:宰相府反発】


【火種:記録局混乱】


 私は続けた。


『王宮広報局は、請願者の氏名および内容の詳細を本人保護のため公開しません』


 ここで止めれば、また消える。


 だから足す。


『しかし、公開しないことを理由に、請願そのものが存在しなかったかのように扱うことはしません』


 夢のメールが、少しだけ遠くなった。


 娘がいたことを、なかったことにしないでください。


 私は、赤鉛筆を握り直す。


『現在確認している事項は、次の三点です。


 一、当該請願が王宮または地方官を通じて受理された記録の有無。


 二、受理後の回答状況。


 三、保留、移管、破棄、紛失のいずれに該当するか。』


 先輩がいつの間にか起きていて、後ろから覗き込んだ。


「三番、攻めますね」


「逃げません」


「胃薬、倍量にします?」


「適量でお願いします。職場で倒れるとまた燃えます」


 セーラが小さく笑った。


 私は最後の一文を書く。


『回答できていない請願が存在する場合、王宮はその事実を確認し、回答予定を明示します』


 手が止まった。


 予定。


 明示。


 これは、約束だ。


 約束は燃える。


 できなければ、もっと燃える。


 でも、返事を始めるとは、そういうことだ。


 私は最後に、もう一行だけ足した。


『声を受け取ったことと、返事をしたことは同じではありません。その区別から確認します』


 部屋の中が静かになった。


 誰もすぐには何も言わなかった。


 最初に口を開いたのは、エレオノーラ様だった。


「燃えますわね」


「燃えます」


「ですが、冷たくはありません」


 その言葉に、少しだけ息が抜けた。


 カイル様が短く言う。


「出せ」


「まだ確認が」


「出せ。確認中だと書いてある」


「辺境伯様、長文の趣旨理解が上達しましたね」


「読んだ」


「偉いです」


「子ども扱いするな」


 セーラが、書面を受け取る。


「灯火新聞にも同時に?」


「はい。大手が見出しを出す前に、三欄形式でお願いします。確認済み、未確認、次回確認予定」


「次回確認予定は?」


「二刻後」


 先輩が呻いた。


「二刻後にまた返事ですか」


「はい」


「睡眠は?」


「未確認情報です」


「燃える回答ですねえ」


「知っています」


 私は、もう一枚紙を引いた。


 宰相府への通知文。


 短く。


 逃げずに。


『地方請願破棄疑惑について、王宮広報局は独自に確認作業を開始します』


『宰相府統一見解の発出前であっても、請願者保護と事実確認のため必要な初動応答を行います』


『なお、本件について「混乱防止」を理由に照会記録を保留する場合、その命令者名、時刻、理由を記録してください』


 書いてから、私は一瞬だけ笑った。


「命令者名、好きですね私」


 セーラが即答する。


「好きというより武器です」


 エレオノーラ様が微笑む。


「名を記すことは、責任を置くことですもの」


 名前。


 私は、夢の中で消した名前を思い出す。


 今さら取り戻せない。


 前世のあの人へ、私は返事をしなかった。


 もう送れない。


 謝る相手も、場所も、時間も、失った。


 けれど、その罪悪感を綺麗な決意に変えてしまうのも違う。


 私は紙の端を握った。


 夢の中で、私は被害者だった。


 同時に、誰かの声を消した側でもあった。


 その両方を、どちらか片方に整理してはいけない。


 整理しすぎると、人は都合よくなる。


 ベルク様のように。


 前世の私のように。


 私は、声に出して言った。


「私は、もう誰かの盾にはなりません」


 部屋の音が、少しだけ止まった。


 セーラがこちらを見る。


 先輩が胃薬瓶を握ったまま固まる。


 エレオノーラ様は、扇を開かない。


 カイル様だけが、短く聞いた。


「誰の」


 私は答えた。


「組織の」


 少し間を置く。


「それから、自分の」


 夢の中で私は、自分の胃痛を盾にしようとしていた。


 痛かったから仕方ない。


 命令だったから仕方ない。


 燃えていたから仕方ない。


 そう言えば、少しだけ楽になれた。


 でも、誰かの名前を消した事実は消えない。


「私は、痛かったことを、誰かの声を消した理由にはしません」


 言ってから、怖くなった。


 強すぎる言葉だ。


 あとで破るかもしれない。


 また間違えるかもしれない。


 また燃えない文章を選びたくなるかもしれない。


 カイル様は言った。


「なら、迷え」


 私は顔を上げた。


「迷っていいのですか」


「迷え」


 彼は、逃げずにこちらを見ていた。


「消す前に、見ろ」


 私は、ゆっくり頷いた。


 前世の私は、見なかった。


 今世の私は、見る。


 見た上で、それでも守るために伏せることもある。


 全てを出すことが正義ではない。


 全てを伏せることも正義ではない。


 その境目で胃を痛め続ける。


 たぶん、それが私の仕事だ。


 セーラが走り出した。


 灯火新聞への送信。


 記録局への照会。


 公爵家網への連絡。


 胃痛同盟は、また鳥小屋になった。


 羽音。


 紙音。


 水晶の光。


 誰かの噂が走る音。


 私たちは、それを追いかける。


 遅い。


 いつも遅い。


 でも、返事をしないよりはいい。


 私は、机に残ったベルク様の共同声明案を見た。


 綺麗な文章。


 燃えにくい文章。


 誰もいない文章。


 私はそれを裏返し、赤字で一文を書いた。


『差し戻し』


 理由欄に、少し迷ってから書く。


『人を守るための沈黙と、組織を守るための沈黙が混同されているため』


 その字は、少し震えていた。


 綺麗ではない。


 でも、私の手で書いた字だった。


 窓の外で、夜明け前の空が薄く白み始めている。


 前世の蛍光灯とは違う白だった。


 冷たいけれど、少しだけ息ができる白。


 その時、記録水晶が鳴った。


 セーラが振り向く。


「リディアさん、王宮記録局からです!」


「読み上げてください」


 セーラは紙を受け取り、顔色を変えた。


「東街道の請願、受理記録があります」


 部屋に緊張が走る。


「回答状況は?」


 セーラは唇を噛んだ。


「未回答です」


 先輩が小さく呻いた。


「破棄ではなく?」


「いいえ。破棄ではありません」


 少しだけ安堵しかけた私に、次の言葉が刺さった。


「ただし、保留理由欄に記載があります」


 セーラは紙を見つめた。


「『混乱防止のため、回答を保留』」


 カイル様の手が、手袋の縫い目を押さえた。


 エレオノーラ様の扇が、ぱちりと閉じる。


 私は、夢の中の白い会議室を思い出した。


 現在確認中です。


 担当部署へ共有します。


 順次対応します。


 混乱防止のため、回答を保留。


 違う世界。


 同じ火元。


 私は赤鉛筆を握った。


 今度は、未処理フォルダへ入れない。


「訂正します」


 声は震えなかった。


「東街道の請願は、存在しました。破棄ではなく、未回答です」


 セーラが息を呑む。


「出しますか」


「出します」


 燃える。


 間違いなく燃える。


 でも、もう燃えている人を、未処理に入れない。


 私は白紙の上に、次の返事を書き始めた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ