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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
国家規模の情報操作

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神殿、新聞社、王宮広報局

 三本の柱がある。


 信仰。


 世論。


 公式性。


 どれも、本来なら国を支えるものだ。


 祈りは、人が絶望しすぎないためにある。


 新聞は、遠くの出来事を近くへ届けるためにある。


 王宮広報は、権力が黙って人を押し潰さないためにある。


 少なくとも、そうであってほしい。


 けれど今、その三つが同じ方向を向いている。


 神殿は言う。


『神殿の導きを待て』


 新聞社は言う。


『王宮は元聖女候補を利用している』


 王宮広報局本局は言う。


『宰相府統一見解を待て』


 別々の声に見える。


 けれど、結論は同じ。


 黙って待て。


 本人の言葉より、上から整えた言葉を信じろ。


「三本柱ですね」


 私は、机の上に三枚の声明を並べた。


 一枚目、神殿声明。


 二枚目、大手瓦版の記事。


 三枚目、王宮広報局おうきゅうこうほうきょく本局の通達。


 見事に紙質が違う。


 神殿は白く厚い紙。


 瓦版は薄く粗い紙。


 王宮文書は無駄に丈夫で、燃やすにも手間がかかりそうな紙。


 内容は、ほぼ同じ熱を持っている。


【火種:本人発言の無効化】


【火種:神殿権威による沈黙強制】


【火種:新聞世論の誘導】


【火種:王宮公式性の悪用】


【火種:宰相府統一見解への依存】


【火種:個別の声の消失】


 私は、赤鉛筆を握った。


「この三つが揃うと、民衆には『真実らしく』見えます」


 エレオノーラ様が扇を開いた。


「嘘をつくより厄介ですわね」


「はい。全部が完全な嘘ではありません」


「神殿は本当に信仰を守る顔をしている。新聞社は本当に読者の不安を拾っている。王宮広報局は本当に混乱を防ごうとしている」


「だから、真実らしい」


 私が言うと、セーラが小さく呻いた。


「うわあ……嫌な正しさ……」


「そうです。嫌な正しさです」


 嘘だけなら、訂正できる。


 悪意だけなら、暴ける。


 でも、正しさの中に混ぜられた支配は、扱いにくい。


 それを間違って断罪すると、本当に不安だった人、本当に信じていた人、本当に怖かった人まで燃やすことになる。


 カイル様が三枚の紙を見下ろした。


 しばらく黙ってから、言った。


「柱なら折ればいい」


「比喩です」


 私、セーラ、先輩、エレオノーラ様の声が見事に揃った。


 カイル様が少し不満そうな顔をする。


「折れないのか」


「物理的には折らないでください」


「なら何をする」


「支えているものを見ます」


 私は、三枚の紙の下にそれぞれ別の資料を置いた。


 神殿側。


 新聞社側。


 王宮広報局側。


「柱は勝手に立ちません。誰かが支えています」


「支える者も敵か」


 カイル様が問う。


 その問いは短い。


 けれど、短い分だけ逃げ場がない。


 私はすぐには答えられなかった。


 敵。


 そう言えば楽だ。


 神殿でミリア様の言葉を無効化した者。


 新聞で不安を煽った者。


 王宮広報局で宰相府の通達をそのまま流した者。


 全員、ベルク様の側。


 そう切れば簡単だ。


 しかし、簡単な物語は強い。


 そして、危ない。


「敵、と呼ぶ前に確認します」


 私は言った。


「悪意で動いている人もいるでしょう。でも、恐怖で従っている人もいるはずです」


 カイル様は何も言わなかった。


 その沈黙は反対ではない。


 たぶん。


 たぶん、と付けなければならないあたり、まだ私はこの人の沈黙を全部は読めない。


 読めないままでいい時もある。


 今は、そういうことにしておく。


「まず神殿です」


 私は神殿声明の写しを掲げた。


『元聖女候補ミリア・セレスは、現在も精神的に不安定な状態にあり、王宮記録局管理下での発言については慎重な解釈を要する』


『信徒各位は、不確かな発言に惑わされず、神殿の正式な導きを待たれたい』


「これは本人の言葉を、本人不在で弱める文章です」


 セーラが眉をひそめる。


「オルド神殿広報官が失脚しても、神殿の文面って変わらないんですね」


「人が変わっても、型が残っているんです」


「型が燃える場合は?」


「型から見直します」


「型まで燃やすんですね」


「物理ではありません」


 念のためカイル様を見た。


 彼は少しだけ目を逸らした。


 なぜ逸らす。


 私は神殿関係者から届いた内部メモを開く。


 エレオノーラ様の情報網が拾ったものだ。


 神殿の若い補佐官が、声明案の余白に書いたらしい走り書き。


『本人発言を完全否定すると反発が強まる』


『ただし、神殿が管理できない発言を正式扱いすれば、信徒が動揺する』


『神殿前の群衆が暴走した場合、孤児院・施療院への被害が出る可能性』


 私は、その三行を見て手を止めた。


 悪意だけではない。


 信徒の暴走を恐れている。


 施療院への被害を恐れている。


 神殿の権威を守りたいだけかもしれない。


 でも、それだけでもない。


 だからこそ、余計に面倒だった。


「完全な悪役が少ないですね」


 セーラがぽつりと言う。


「はい」


「物語としては困りますね」


「現実も物語も、単純な敵は希少資源です」


 エレオノーラ様が軽く笑う。


「それを言いながら、あなたはずいぶん嫌そうですわ」


「嫌です」


「でしょうね」


 私は内部メモを置いた。


「神殿には、二種類の文を出します。一つは正式抗議。本人発言を無効化しないよう求めるもの。もう一つは、神殿前の群衆対策についての協議要請です」


 セーラが首をかしげる。


「協議、するんですか?」


「します。神殿前で怪我人が出たら、ミリア様の言葉どころではなくなります」


「でも、向こうはミリア様の発言を潰そうとしてますよ」


「だから抗議します。でも、危険対策は別です」


 敵対しながら協力する。


 嫌な響きだ。


 でも危機対応では、わりと日常茶飯事である。


 前世でも、取引先と揉めながら共同声明を作ったことがある。


 あれは胃が死ぬ。


 今も死にかけている。


「次、新聞社です」


 私は大手瓦版の記事を広げた。


『王宮、元聖女候補を利用か』


『神殿、信徒へ冷静な判断を呼びかけ』


『関係者によれば、ミリア・セレス氏は王宮記録局の管理下で外部発言を制限されているという』


 記事そのものは悪質だ。


 だが、事実が混じっている。


 王宮記録局の管理下。


 外部発言の制限。


 それは本当だ。


 ただし、その理由と本人意思確認の過程を抜いている。


 刃物は、削った部分でよく切れる。


「大手瓦版の記者と接触します」


「危なくありませんこと?」


 エレオノーラ様が言う。


「危ないです。でも、新聞社全体を敵扱いすると、灯火新聞まで巻き込まれます」


 灯火新聞への買収疑惑は、まだ燃えている。


 大手瓦版を潰すだけでは駄目だ。


 新聞という柱そのものを壊せば、残るのは王宮公式と神殿布告だけになる。


 それはベルク様にとって都合がよすぎる。


 新聞は必要だ。


 間違える新聞も、訂正する新聞も。


 問題は、訂正しない新聞である。


「記者名は?」


 カイル様が聞いた。


「この記事を書いたのは、マルセル・ロウ。以前、エレオノーラ様の会見で質問した記者の一人です」


「あの、質問が妙に官僚的だった方ですわね」


 エレオノーラ様が扇を閉じる。


「ええ。彼の質問文には王宮文書の癖がありました」


「ベルク側か」


 カイル様が言う。


 私は少し迷った。


「接触はあると思います。ただし、完全な協力者かはまだ」


「甘い」


 カイル様の声は低かった。


 私は、その一言で少しだけ肩に力が入る。


「甘いかもしれません」


「燃やされている」


「はい」


「なら早く斬れ」


「比喩でも危険です」


「比喩ではない」


「もっと危険です」


 セーラが小声で「今日の辺境伯様、比喩の治安が悪い」と呟いた。


 私は聞かなかったことにした。


 カイル様は私を見ていた。


 責めているのではない。


 たぶん。


 でも、彼には第56話の傷がある。


 王都の新聞が父を殺した。


 彼にとって、悪意ある記事を書いた人間を慎重に扱う理由などない。


 ないのに、彼は今、剣の柄に触れていない。


 それは成長だ。


 同時に、我慢でもある。


 私は、言葉を選んだ。


「カイル様。斬るべき相手と、証言させるべき相手を間違えると、ベルク様の本体まで届きません」


 カイル様の眉がわずかに動いた。


「本体」


「はい。今見えているのは柱です。柱を支えている人を見れば、その下に誰が設計図を描いたか見えます」


 カイル様は少し黙った。


「……証言させる」


「はい」


「逃がすな」


「逃がしません」


 彼は頷いた。


 短い合意。


 よかった。


 ただし、私の胃はもう少し長い合意を欲している。


 贅沢は言わない。


「三つ目。王宮広報局本局です」


 私は、本局通達を持ち上げた。


『各位、不穏な噂に惑わされず、宰相府統一見解をお待ちください』


『個別事案への独自回答は混乱を招くため、関係各所は発信を控えること』


 この文面が一番きつい。


 なぜなら、書き方を知っているから。


 この余白。


 この言い回し。


 この責任の置き方。


 これは、私の職場の言葉だ。


 燃えないように。


 責任を限定するように。


 上の判断を待つように。


 個別の声を、処理待ちの箱へ入れるように。


 広報局の言葉だ。


 私は、それに赤線を引いた。


「これを書いた人間を探します」


 先輩が、部屋の隅で咳払いした。


 今日の先輩は、いつもより顔色が悪い。


 元から悪いが、今日はさらに悪い。


「リディア」


「はい」


「本局の者を、全員敵扱いはしないでください」


 その声は小さかった。


 でも、部屋に落ちた。


 セーラが先輩を見る。


 私は、赤鉛筆を置いた。


「先輩、何か知っていますか」


 先輩は答えない。


 代わりに、折りたたまれた紙を出した。


「今朝、私のところへ回ってきた内部指示です」


 私は受け取る。


 王宮広報局本局内の通達。


『宰相府方針に反する独自見解の発出は、国家扇動に類する危険行為と見なされる可能性がある』


『各員は個別問い合わせへの回答を控え、統一見解発出まで保留すること』


『違反者については、所属長責任を問う』


 所属長責任。


 嫌な言葉だ。


 部下の発言が上司の処分になる。


 こう書かれたら、現場は黙る。


 味方を守りたくても、黙る。


 自分一人なら燃えられる人も、同僚や家族や上司を巻き込むなら止まる。


 私は紙を握った。


 怒りが湧いた。


 ただし、その怒りの向き先を間違えてはいけない。


 この通達を読んで黙った人を責めれば、ベルク様は楽になる。


 恐怖で黙った人まで、こちらが敵にしてしまう。


「……ずるい」


 セーラが呟いた。


「ずるいですね」


 私は答えた。


 先輩は胃薬を口に入れた。


 飲み込まず、しばらく黙っている。


「私の同期が、本局にいます」


「はい」


「真面目な人です。家に病気の母親がいます。たぶん、独自回答なんて出せません」


「……はい」


「でも、通達を流した一人でもあります」


 先輩はそこで言葉を切った。


 それ以上は言わない。


 私は聞かなかった。


 聞けば、先輩にその同期を売らせることになる。


 今はまだ、そこまで踏み込んではいけない。


 エレオノーラ様が静かに言った。


「恐怖で従った者と、恐怖を使った者を分ける必要がありますわね」


「はい」


「難しいですわよ」


「知っています」


「あなた、また全部抱え込もうとしていませんこと?」


「……少し」


「正直でよろしい」


 よくはない。


 でも、嘘をつくよりはましだ。


 私は新しい紙を出した。


『三柱調査方針』


 一、神殿。


 本人発言無効化の経路。


 誰が文案を作成し、誰が承認したか。


 同時に、神殿前群衆の安全確保協議を行う。


 二、新聞社。


 大手瓦版記事の情報源。


 記者と宰相府の接触記録。


 訂正拒否の判断者。


 三、王宮広報局。


 宰相府統一見解の転送経路。


 独自回答禁止通達の発出者。


 恐怖で従った者と、恐怖を設計した者を分ける。


 私は最後の一文で手を止めた。


 恐怖を設計した者。


 ベルク様の顔が浮かぶ。


 丁寧な微笑み。


 美しい言葉。


 秩序。


 均衡。


 有効。


 物語。


 彼は、人の恐怖をよく知っている。


 知りすぎている。


 その知識は、どこから来たのだろう。


 考えた瞬間、扉が叩かれた。


 伝令ではない。


 羽音もない。


 控えめな、しかし迷いのない音。


「入ってください」


 扉が開く。


 そこに立っていたのは、王宮記録局の年配の女性だった。


 銀髪をひとつにまとめ、古い記録官の制服を着ている。


 私は見覚えがあった。


 記録保全室(きろくほぜんしつ)の奥で、古文書を管理している人だ。


 名前はたしか。


「マルタ記録官」


「お久しぶりです、ノートン様」


 彼女は深く礼をした。


 その手には、古い木箱がある。


 鍵が三つ。


 封蝋が二つ。


 そして、王宮の古い紋章。


「この騒動について、記録局として正式に出せるものは限られております」


 マルタ記録官は、静かに言った。


「ですが、私個人が記憶していることなら、まだ話せます」


 室内の空気が変わった。


 私は立ち上がる。


「何の記憶ですか」


 マルタ記録官は、木箱を机の上に置いた。


 箱の蓋に、古い煤の跡が残っている。


 火事の跡。


 それを見た瞬間、なぜか背筋が冷えた。


「ベルク・アインハルト様のことを調べておいでですね」


「はい」


「あの方を今の役職から見ても、何もわかりません」


 マルタ記録官は、鍵の一つに指を触れた。


「最初の記録から見てください」


「最初の記録?」


「地方暴動記録です」


 彼女の声は、ほとんど揺れていなかった。


 けれど、木箱に触れる指だけが、少し白い。


「まだ、ベルク様が今のように民を分類する前の記録です」


 私は息を呑む。


 カイル様が、わずかに目を細めた。


 エレオノーラ様の扇が止まる。


 セーラが紙束を抱えたまま固まった。


 マルタ記録官は言った。


「二十年前、リュセ川上流で暴動が起きました」


 リュセ川。


 第七十一話で見た、暴動未遂記録と同じ地名。


 でも、これは未遂ではない。


 起きた暴動。


 私は聞いた。


「そこで、何があったのですか」


 マルタ記録官は目を伏せた。


「噂が先に届きました」


 その言葉だけで、部屋が静まり返る。


「真実は、間に合いませんでした」


 木箱の封蝋が、古い音を立てて割られた。


 中から出てきたのは、焼け焦げた記録紙。


 そして、子どもの筆跡で書かれた一枚の手紙だった。


 宛名は、震えた文字で書かれている。


『ベルク兄様へ』


 私は、何も言えなかった。


 マルタ記録官は静かに続ける。


「ベルク・アインハルト様は、最初から怪物だったわけではありません」


 木箱の中で、焼けた紙が黒く沈んでいる。


「怪物にしたのは、たぶん、噂です」


 火種が、見えた。


 でもそれは、今までの火種とは違っていた。


【火種:ベルクの過去】


【火種:地方暴動記録】


【火種:真実の遅延】


【火種:民衆恐怖】


【火種:情報統制の原点】


【火種:理解と同意の混同】


 私は、赤鉛筆を握れなかった。


 ベルク様を許す理由にはならない。


 ならない。


 それでも。


 今、私たちはようやく、三本の柱の下に埋まっていた最初の火元を見つけようとしていた。

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