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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
国家規模の情報操作

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真実より先に噂が届く

 真実には、足がない。


 いや、正確に言えば、足はある。


 ただし遅い。


 確認して、照合して、署名を取り、印章を押して、公式経路に乗せて、ようやく歩き出す。


 一方、噂には羽がある。


 しかも、どういうわけか胃薬より速い。


「南部役場前、さらに人が増えています!」


「西市場、穀物倉が三つ閉まりました!」


「神殿前、元聖女候補(せいじょこうほ)ミリア様の名を呼ぶ声が出ています!」


「北方街道口で、毛皮の荷馬車が止められたとの書き込みが!」


「灯火新聞が王宮に買収されたという噂、掲示板で拡散中です!」


 臨時広報調査室りんじこうほうちょうさしつは、もはや部屋ではなかった。


 鳥小屋である。


 伝令鳥が飛び、記録水晶が光り、紙束が崩れ、誰かの羽根が胃薬箱に突き刺さっている。


 私はそれを見つめ、静かに言った。


「鳥より胃薬を飛ばしてください」


「先輩、その発言はさっきもしました」


 セーラが、書類を抱えたまま言った。


「何度でも言います。必要なものは繰り返し伝える。広報の基本です」


「胃薬要求を広報基本にしないでください」


「では危機管理の基本で」


「それは否定しにくいです」


 そう言いながらも、私は笑えなかった。


 机の上には、各地から届いた噂の記録が並んでいる。


『南部で新税。王宮は隠している』


『西市場で王宮が穀物を買い占めた』


『公爵家が東街道へ兵を動かした』


『北方が王都への物資供給を止めた』


『元聖女候補ミリア・セレスが王宮に囚われた』


『灯火新聞は王宮広報局の手先』


 どれも、単体なら火種。


 けれど同時に並ぶと、火種ではなく火薬庫だった。


 しかも嫌なことに、すべて完全な嘘とは断定できない。


 南部には確かに税への不満がある。


 西市場では確かに穀物価格が上がっている。


 東街道では確かに馬車が動いた。


 北方の荷は確かに遅れている。


 ミリア様は確かに、自由に街を歩ける状態ではない。


 灯火新聞は確かに、私たちから情報提供を受けている。


 嘘ではない。


 でも、真実でもない。


 噂とは、たいていそういう顔をして走ってくる。


「確認済み、未確認、虚偽、意図不明。四分類で整理します」


 私は板に線を引いた。


 セーラが横から、小さく手を上げる。


「感情欄は?」


「作ります」


「また増えた」


「増えます。民の不安を分類しないと、否定文だけでは届きません」


 私は板の右端にもう一本線を足した。


 そこへ、こう書く。


『その噂で、誰が何を怖がっているか』


 セーラが瞬きをした。


「……ベルク様の計画書にも、感情分類がありましたよね」


「ありました」


「同じこと、します?」


「違うことをします」


 私は即答した。


 少しだけ、声が強くなった。


 セーラは肩を揺らす。


 私は、すぐに息を吐いた。


「ごめんなさい。違うことをしたい、です」


 言い直す。


 言い直せるうちに、言い直しておく。


 ベルク様と私は、近い場所にいる。


 だからこそ、雑に否定してはいけない。


 私はもう一度、板に書いた。


『恐怖を利用しない。恐怖の理由を確認する』


 字は、少し曲がった。


 美しくない。


 でも、今はそれでよかった。


「リディア」


 カイル様が短く呼んだ。


 彼の前には、北方から届いた通信水晶が置かれている。


「北方は?」


「鐘三回を鳴らした」


「動きは?」


「ない」


 短い報告。


 それだけで、少しだけ息ができた。


 北方には、噂を聞いたら走らず集まる文化がある。


 鐘三回。


 噂。


 確認まで動くな。


 父を噂で失った土地が、時間をかけて作ったルールだ。


 その痛みの上にある仕組みを、今、王国全土に借りようとしている。


「北方の鐘三回ルールを、王都向けに翻訳します」


 私が言うと、カイル様がわずかに眉を動かした。


「鐘はない」


「水晶掲示板に印を出します。噂扱いの情報には、鐘三回印をつける」


「長い」


「説明が?」


「印が」


「三本線でどうですか」


「いい」


 カイル様が頷いた。


 王国危機対策の一つが、今、三本線に決まった。


 歴史に残るかもしれない。


 胃痛の歴史として。


「灯火新聞には?」


 エレオノーラ様が問う。


 今日のエレオノーラ様は、いつもの優雅な椅子ではなく、机の端に立っている。


 扇は持っている。


 けれど、開いていない。


 その閉じた扇が、指の間で少しだけ強く握られている。


 私はそこを見た。


 何も言わなかった。


「灯火新聞には、速報欄を作ってもらいます。見出しは強くしすぎない。確認中のものは確認中と出す。空欄も出す」


「空欄?」


「はい。『現在確認中。次回更新時刻』を載せます」


 セーラが目を丸くした。


「空欄を新聞に載せるんですか?」


「空欄を隠すと、誰かが勝手に埋めます」


 私は水晶に向けて、灯火新聞の編集長へ文を送った。


『速報欄を三段にしてください。確認済み/未確認/次回確認予定。空欄を恐れず載せてください』


 すぐに返事が来た。


『うちは訂正欄が大きい。空欄も大きくできる』


 頼もしい。


 新聞社への褒め言葉として正しいかはわからないが、頼もしい。


「エレオノーラ様、社交網は」


「もう動かしておりますわ」


 エレオノーラ様は淡々と答えた。


「王都主要サロンに、同じ伝言を流しました。『出所不明の噂を茶菓子のように配る方は、次のお茶会で出所を添えていただきます』と」


「怖い」


 セーラが素直に言った。


「優しい文面ですわ」


「どのあたりがですか」


「出禁とは書いておりませんもの」


 優しさの基準が貴族社会だった。


 別の意味で怖い。


「ただし、社交網にも限界がありますわ」


 エレオノーラ様は、閉じた扇で地図を指した。


「南部の税の噂、西市場の穀物、神殿前の群衆。貴族サロンより先に、井戸端と市場に届いています」


「つまり」


「お茶では間に合いません」


「でしょうね」


 民衆の不安は、銀の茶器に乗って運ばれるとは限らない。


 むしろ多くは、水汲み場、パン屋の列、薬屋の戸口、荷馬車の後ろで広がる。


 そして、それらは王宮の正式便より速い。


 私は、各情報の優先順位を決める。


「第一優先、南部税噂。集まった民衆が役場前にいるなら、衝突の危険があります」


「確認は?」


 セーラが聞く。


「財務局へ照会中です」


「遅いです」


「知っています」


 水晶が淡く光った。


 財務局からの返答。


『現時点で、南部全域に対する税率引き上げの決定は確認されていない』


 私は、その一文を見た。


 見た瞬間、判断した。


「速報を出します」


 セーラが顔を上げる。


「確定で?」


「税率引き上げは確認されていません。噂の拡大を止めます」


 私はペンを取った。


 速く。


 速く。


 噂に追いつかなければならない。


 このまま役場前で民衆と治安隊がぶつかれば、怪我人が出る。


 ベルク様の計画が過去に暴動を止めた記録が、頭の隅をよぎった。


 止める。


 今度は、私が。


『南部における新税および税率引き上げについて、現時点で王宮財務局に確認された事実はありません』


『出所不明の情報に基づく役場前への集結は、事故および混乱を招くおそれがあります。各自、公式確認をお待ちください』


 書いて、送る。


 送った瞬間、火種が一つ揺らいだ。


【火種:南部税暴動】


 薄くなる。


 私は息を吐いた。


 ほんの少し、間に合った気がした。


「リディア」


 エレオノーラ様の声がした。


 低い。


 扇が開いていない。


「その文、少し冷たくありませんこと?」


「……冷たいですか」


「集まっている人々を、混乱の原因として見ているように読めますわ」


 私は言葉に詰まる。


 確かに、そう読めるかもしれない。


 でも、今は衝突を止めることが先だった。


「事故を防ぐためです」


「でしょうね」


 エレオノーラ様は、それ以上言わなかった。


 その沈黙に、何かが残った。


 私は、それを後で拾うつもりで、次の噂へ移った。


 西市場。


 穀物買い占め。


 王宮による買い占めという噂に対して、商務局は否定している。


 ただし、価格上昇は事実。


 買い占めではなく、複数商会による倉庫閉鎖。


 さらに、神殿慈善倉が施しを一時停止している。


 これも、完全な虚偽ではない。


「西市場は、灯火新聞に現地確認を依頼。商会名はまだ出さない。倉の閉鎖数だけ出す。神殿慈善倉については、神殿へ照会」


「神殿、返しますかね」


 セーラが言う。


「返させます」


「どうやって?」


「返答期限を短くします」


「先輩の得意技」


「胃に悪い得意技です」


 私は神殿宛ての照会文を作る。


『西市場における慈善倉の施し停止について、事実確認を求めます。停止が事実である場合、その理由、期間、代替支援の有無を本日第三鐘までに回答願います』


 いつもの癖で、文末を少し柔らかくしようとした。


 けれど、止めた。


 これは柔らかくする場面ではない。


 ただし、責める場面でもない。


 事実。


 期限。


 代替支援。


 それだけを書く。


 次。


 東街道の公爵家兵移動。


 エレオノーラ様がすぐに否定した。


「公爵家私兵の出動命令は出しておりません」


「確定ですか」


「ええ。私兵を動かすなら、私の父が必ず記録を残します。記録官が泣くほど丁寧に」


「それは信頼できます」


「泣く記録官は信頼の証ですわ」


 貴族社会の信頼基準もよくわからない。


 けれど、これは否定できる。


『公爵家私兵の東街道出動について、グランフェルト公爵家からの正式出動命令は確認されていません』


 これは出していい。


 ただし「兵が一切いない」とは書かない。


 東街道にいる治安隊、商会護衛、旅行者の私兵が混ざる可能性があるから。


 次。


 北方物資停止。


 カイル様が、信じられないほど真面目に文案を書いていた。


 紙には、こうある。


『止めていない。雪で遅れた。以上』


 私は目を閉じた。


「辺境伯様」


「何だ」


「成長は感じます」


「そうか」


「しかし、まだ足りません」


「足りるだろう」


「足りません」


 私は横に追記する。


『北方から王都への毛皮・乾燥肉・薬草の供給停止命令は出ていません。現在、一部荷の遅延は積雪および街道検問によるものです。出荷記録は北方領記録官および王都商務局にて照合可能です。なお、熊は関係ありません』


 カイル様が最後の一文を見た。


「熊はいる」


「いますか」


「街道脇に出た」


「では消します」


「消すな。事実だ」


「供給停止と関係ありますか」


「ない」


「では消します」


「だが事実だ」


 事実は何でも載せればいいわけではない。


 その説明をしようとした瞬間、セーラが横から小声で言った。


「でも、載せたら少し和みそうです」


「……和みは大事です」


 私は悩んだ。


 そして、末尾を少し変えた。


『街道脇で熊の目撃報告がありますが、供給停止とは関係ありません。通行時は護衛の指示に従ってください』


 カイル様が満足そうに頷いた。


 なぜそこで満足するのか。


 まだわからない。


 わからないけれど、今はそれでよかった。


 北方文は送信。


 すぐに北方の鐘三回印と一緒に、掲示板へ流された。


 反応は早かった。


『熊は関係ない、じわじわ来る』


『北方、そこはちゃんと否定するんだ』


『物資止まってないなら安心』


『雪と熊は仕方ない』


『熊は仕方ないのか?』


 少しだけ空気が緩む。


 噂は恐怖で速くなる。


 恐怖が緩むと、速度が落ちる。


 私は、それを見て思った。


 カイル様の短い言葉には、時々、私の長文より届くものがある。


 悔しい。


 とても悔しい。


 でも、助かる。


 その時、南部から新しい報告が入った。


『速報を受け、役場前の一部が反発』


『住民より「王宮は嘘をついた」との声』


 私は眉を寄せた。


「嘘?」


 記録水晶が、現地役場からの追加資料を映す。


 そこには、古い掲示板に貼られた布告の写しがあった。


『リュセ川橋梁復旧に伴う臨時分担金徴収のお知らせ』


 橋梁復旧。


 臨時分担金。


 対象地域。


 徴収期日。


 私は一瞬、意味がわからなかった。


 税ではない。


 税率引き上げではない。


 財務局の返答は間違っていない。


 でも。


 民衆からすれば、それは金を払う話だ。


 飢えと不安の中で届いた、新しい負担だ。


 税か分担金かなど、役場前に集まった人々には関係ない。


 私は、さっき自分が出した速報を思い出した。


『新税および税率引き上げについて、確認された事実はありません』


 正しい。


 正しい、けれど。


「……やりました」


 私の声が、自分でも驚くほど低かった。


 セーラが青ざめる。


「先輩?」


「早く否定しすぎました」


 室内の音が、一瞬遠のいた。


 鳥の羽音。


 水晶の震え。


 誰かが紙を落とす音。


 全部が、別の部屋のように遠い。


 私は、速報文をもう一度読む。


 正しい。


 けれど、足りない。


 民の不安を見ていない。


 火を消すことを急いで、燃えている人を見なかった。


 エレオノーラ様は、何も言わない。


 さっき、彼女は言った。


 冷たくないか、と。


 私は後で拾うつもりだった。


 後では遅いことがある。


「訂正を出します」


 私は紙を取った。


 セーラが小さく聞く。


「謝りますか」


「はい」


「でも、税ではないんですよね」


「税ではありません」


「じゃあ、間違っていないのでは」


「間違っています」


 私は、はっきり言った。


「言葉の分類としては正しくても、受け止める人の不安を切り捨てました」


 ペン先が震えた。


 自分の間違いを認める文は、他人の謝罪文を直すよりずっと重い。


 私は書いた。


『先ほど、南部における新税および税率引き上げは確認されていないとお知らせしました』


『この内容自体は財務局確認に基づくものですが、リュセ川橋梁復旧に伴う臨時分担金の布告が一部地域で出されている事実を、速報時点で確認できていませんでした』


『金銭負担への不安がある中で、十分な確認を行わないまま「確認された事実はない」とお伝えしたことは、不安を抱える方々への説明として不十分でした。訂正し、お詫びします』


 お詫びします。


 その一文を書いた時、胃が痛んだ。


 前世の謝罪文とは違う。


 責任をぼかすための謝罪ではない。


 でも、だから軽いわけではない。


 むしろ、重い。


 私は続けた。


『現時点で確認できている事実は以下です』


『一、南部全域に対する税率引き上げ決定は確認されていません』


『二、リュセ川流域の一部地域において、橋梁復旧に伴う臨時分担金の布告が出されています』


『三、当該分担金の決定経緯、減免措置、支払猶予の有無について、王宮財務局および南部地方官へ照会中です』


『四、役場前に集まっている方々の不安は、確認されるべき声です。治安隊には、威圧的な排除ではなく、安全確保と説明機会の確保を求めます』


 書き終えた。


 送る前に、少しだけ迷った。


 この訂正は燃える。


 さっきの速報が間違っていたと認めることになる。


 リディア・ノートンは焦って誤報を出した。


 そう書かれる。


 ベルク様なら、もっと上手く処理しただろう。


 臨時分担金の存在を伏せたまま、税率引き上げではないという一点で押し切れたかもしれない。


 その方が、今この瞬間の火は小さくできる。


 でも。


 それは、また返事を遅らせる。


 私は送信印を押した。


 記録水晶が光る。


 訂正は、王国の通信網へ流れた。


 すぐに掲示板が反応する。


『訂正早い』


『いや最初から確認しろよ』


『王宮また隠した?』


『でも分担金の話出しただけまし』


『役場前の人を混乱扱いしたのは嫌だった』


『謝ったな』


『謝ったから信用できるかは別』


『次回確認予定を出してるのは助かる』


 胸がちくちくした。


 全員に届くわけではない。


 訂正しても許されるわけではない。


 でも、さっきより少しだけ、空欄が減った。


 エレオノーラ様が静かに言った。


「今の訂正は、冷たくありませんでしたわ」


「……最初からそう書ければよかったです」


「最初から何もかもできる人間は、たいてい嘘くさいですわ」


 それは慰めなのか、貴族流の辛口なのか。


 判断は保留する。


 カイル様が、私の横に来た。


「間違えた」


「はい」


「直した」


「はい」


「なら、次だ」


 短い。


 でも、逃がさない言葉だった。


 私は頷いた。


「次です」


 次は、神殿前。


 元聖女候補ミリア・セレスが王宮に囚われたという噂。


 これは危険だった。


 ミリア様は現在、王宮記録局おうきゅうきろくきょくの保護手続き中。


 外部接触には制限がある。


 本人の安全確保のためであり、神殿による再管理を防ぐためでもある。


 だが、そう説明すればするほど、囚われているように見える。


 守るための制限と、閉じ込めるための制限は、外から見るとよく似ている。


 私は、記録局へ確認を入れた。


 返答は遅い。


 その間にも、神殿前の群衆は増える。


『ミリア様を返せ』


『王宮は聖女様を利用するな』


『神殿の方がまだましだったのでは』


 その文字を見て、胸の奥が冷えた。


 神殿の方がまだまし。


 あの台本。


 あの涙の指定。


 あの「皆さま」。


 それを知っている私には、飲み込みにくい言葉だった。


 でも、民衆の多くはそこまで知らない。


 知る機会を、十分に作れていない。


 記録局から、ようやく返答が来た。


『ミリア・セレス本人の安全確認済み』


『本日外部発言予定なし』


『現在の居所は非公開』


『本人意思確認は記録局立ち会いにより継続中』


 これをそのまま出したら、燃える。


 非公開。


 外部発言予定なし。


 継続中。


 全部が「囚われている」に見える。


 私は歯を食いしばった。


「ミリア様本人の言葉は?」


 記録官は水晶越しに困った顔をした。


『本人への即時接触は、疲労を考慮し――』


「一文でいいです。今、本人の安全に関して、本人が出せる言葉はありませんか」


『確認します』


 待つ。


 待つ時間が、ひどく長い。


 その間に、噂はまた走る。


 真実は、廊下を歩いている。


 噂は、屋根の上を飛んでいる。


 やがて水晶が光った。


 記録官の声がする。


『ミリア・セレス本人より、短文の発言許可が出ました』


 私は息を止めた。


 水晶に文字が浮かぶ。


『私は、今、自分の意思確認のための手続きの中にいます』


『怖くないと言えば嘘になります』


『でも、私の言葉を、神殿にも王宮にも勝手に決めてほしくありません』


『今は、それだけです』


 短い。


 少し震えているように見える。


 神殿文ではない。


 私の文でもない。


 ミリア様の言葉だ。


 私は、そのまま掲示板に出す許可を求めた。


 記録局から承認。


 送信。


 神殿前の反応は、すぐには落ち着かなかった。


『言わされてるんじゃないのか』


『でも神殿にも王宮にもって書いてる』


『怖くないと言えば嘘、ってミリア様らしくない』


『らしくないって何だよ』


『本人の言葉なら守れ』


『神殿は説明しろ』


 火は消えない。


 けれど、燃え方が変わった。


 神殿だけが、救済者の顔で立っていられる構図ではなくなる。


 その時、神殿から声明が出た。


 あまりに速い。


『元聖女候補ミリア・セレスは、現在も精神的に不安定な状態にあり、王宮記録局管理下での発言については慎重な解釈を要する』


『信徒各位は、不確かな発言に惑わされず、神殿の正式な導きを待たれたい』


 私は奥歯を噛んだ。


「また本人の言葉を無効化しに来ましたね」


 その隣で、セーラが別の水晶を指差した。


「先輩、大手瓦版も出しました」


 記事見出し。


『王宮、元聖女候補を利用か』


『神殿、信徒へ冷静な判断を呼びかけ』


 さらに、王宮広報局本局からも文が流れた。


『各位、不穏な噂に惑わされず、宰相府統一見解をお待ちください』


『個別事案への独自回答は混乱を招くため、関係各所は発信を控えること』


 私は、文面を見た。


 神殿。


 大手瓦版。


 王宮広報局本局。


 ほぼ同じタイミング。


 ほぼ同じ方向。


 個別の声を、統一見解で上書きする。


 エレオノーラ様が、ゆっくり扇を開いた。


「見事に揃いましたわね」


 セーラの顔が白い。


「王宮広報局、本局まで……?」


 先輩が、胃薬を探す手を止めた。


 カイル様の目が細くなる。


「敵か」


 私は、すぐには答えなかった。


 敵。


 その一言で済ませれば簡単だ。


 でも、本局にいる人たちの中には、命令に従っているだけの人もいる。


 恐れている人もいる。


 ベルク様のやり方を本当に正しいと思っている人もいる。


 一括で敵と呼べば、また誰かの事情を消す。


 でも。


 今、彼らの文は、確かにミリア様の言葉を押し潰そうとしている。


 私は、机に手をついた。


「柱です」


「柱?」


 カイル様が言う。


「神殿は信仰。新聞社は世論。王宮広報局は公式性」


 私は、三つの文書を並べた。


「この三つが同じ方向を向けば、ほとんどの物語は真実らしく見えます」


 室内が静まった。


 鳥の羽音だけが残る。


 真実より先に噂が届く。


 そして、噂より強いものがある。


 公式に見える噂だ。


 ベルク様は、それを作っている。


 信仰で包み、新聞で広げ、王宮印で閉じる。


 逃げ場がない。


 私は赤鉛筆を握った。


 手が痛いほど強く。


「……次は、柱を見ます」


 カイル様が低く言った。


「折るか」


「比喩です」


「違うのか」


「違います」


 エレオノーラ様が扇の陰で微笑んだ。


「でも、支えている者が誰かは、見なければなりませんわね」


 その通りだった。


 神殿、新聞社、王宮広報局。


 ベルク様の情報網は、すでに私たちの足元まで来ている。


 火は外からだけではない。


 内側からも、燃えていた。


 私は、次の紙を引き寄せる。


 訂正文。


 照会文。


 警告文。


 そして、調査依頼。


 書くべきものは多すぎる。


 でも、もう一つだけ、最初に書く。


『ミリア・セレス本人の発言を、本人不在で無効化しないでください』


 これは神殿宛てではない。


 新聞社宛てでもない。


 王宮広報局本局にも送る。


 身内にも、同じ言葉を返す。


 送信印を押す前に、私は小さく息を吸った。


 真実は、遅い。


 訂正は、もっと遅い。


 でも、遅いことを理由に黙れば、噂だけが国を歩く。


 だから。


 たとえ何度訂正することになっても。


 たとえ私自身の間違いを晒すことになっても。


 返事を止めてはいけない。


 水晶が光る。


 文が飛ぶ。


 その向こうで、また新しい噂が生まれていた。


 そして私は知った。


 次に戦う相手は、噂そのものではない。


 噂を真実らしく見せる、三本の柱だった。

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