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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
国家規模の情報操作

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王国民意統制計画

 宰相府から届いた文書は、燃えていなかった。


 正確に言えば、紙は燃えていない。


 封蝋も綺麗。


 文字も整っている。


 文章も丁寧。


 句読点の位置まで、王宮文書として百点満点に近い。


 だからこそ、胃に悪かった。


『王国各地における不穏情報について、宰相府は今後、統一見解を発出する』


『民衆の混乱を避けるため、各地の噂、苦情、請願、恐怖情報を一元的に整理し、必要な順序で告知する』


王宮広報局おうきゅうこうほうきょくおよび関係各所は、宰相府の情報方針に従うこと』


 私は、その三行を三度読んだ。


 一度目は広報官として。


 二度目は炎上対応係として。


 三度目は、前世で企業の危機対応に使い潰された人間として。


 そして、三度とも同じ感想に行き着いた。


「とても嫌です」


「感想が雑ですわね」


 エレオノーラ様が、扇を口元に当てながら言った。


「いつものリディアなら、『この文面には法的・政治的・広報的に重大な問題が含まれています』くらい言うところですわ」


「言えます。でも今は、とても嫌です」


「率直で結構ですわ」


 臨時広報調査室りんじこうほうちょうさしつ、通称胃痛同盟は、朝から鳥小屋になっていた。


 灯火新聞からの伝令鳥。


 公爵家の私信を運ぶ白鳩。


 北方から飛んできた、やたら筋肉質な鴉。


 王宮記録局の公式便。


 さらに、どこから入ったのかわからない小鳥が一羽、私の胃薬箱の上に止まっている。


「鳥より胃薬を飛ばしてほしいです」


「リディア先輩、胃薬なら昨日の夜に追加で発注しました」


 セーラが書類束の向こうから答えた。


「数量は?」


「一箱です」


「一箱?」


「一箱、荷車で」


「優秀です」


 今、最も信頼できる行政判断だった。


 しかし、胃薬荷車で解決する問題ではない。


 机の中央には、宰相府文書。


 その横には、昨夜から届き始めた地方報告が山になっていた。


『南部穀倉地帯にて、税率引き上げの噂』


『西市場にて、王都が物資を買い占めるとの流言』


『東街道にて、公爵家私兵移動の未確認情報』


『北方領が王都への毛皮供給を停止するとの噂』


『神殿が元聖女候補ミリア・セレスを再保護するとの囁き』


 どれも未確認。


 どれも、完全な嘘とは言い切れない形をしている。


 嘘にほんの少しの事実を混ぜる。


 前世でも嫌というほど見た、最も燃えやすい調合だ。


「同時多発にしては、言葉が揃いすぎています」


 私は地方報告を並べながら言った。


「南部と西市場と北方で、ほぼ同じ文言が出ています。『王都は真実を隠している』。これ、自然発生ではありません」


「配った者がいる、ということですわね」


「はい」


 私は赤鉛筆で同じ語句を囲んだ。


 王都は真実を隠している。


 民は見捨てられている。


 いま立ち上がらなければ奪われる。


 迷う者は弱い。


 同じ構造。


 同じ温度。


 同じ、逃げ道の塞ぎ方。


 この言葉は、人を動かす。


 怖いくらいよくできている。


「悔しいほど上手いです」


「褒めるのか」


 カイル様が低く言った。


 私は首を振る。


「褒めていません。評価しています」


「同じに聞こえる」


「違います」


 けれど、少しだけ胸が痛んだ。


 違う、と言い切るために、私は少し時間を使った。


 事実として、ベルクの言葉は上手い。


 人が不安な時、何を欲しがるかを知っている。


 複雑な原因ではなく、わかりやすい敵。


 曖昧な説明ではなく、短い命令。


 待つ理由ではなく、動く理由。


 彼は、それを与える。


 そして、与える順番を間違えない。


 私は顔を上げた。


「セーラさん。昨日見つけた古い広報記録室(こうほうきろくしつ)の分類表、出せますか」


「はい。例の、読んでいるだけで眠気と怒りが同時に来るやつですね」


「言い方」


「事実です」


 セーラは棚から分厚い綴じ帳を持ってきた。


 表紙には古い金文字。


『民声収集および不穏兆候分類要領』


 民声。


 その言葉が、妙に引っかかる。


 王宮の標語。


 王宮は、常に民の声を聞いております。


 あれがただの飾り言葉ではない可能性は、第六十八話あたりからうっすら見えていた。


 いや、人生に話数をつけるのはやめよう。


 しかし、私の脳内整理ではもう、事件が全部話数管理されている。


 広報官の職業病である。


 私は綴じ帳を開いた。


 古い紙の匂いがした。


 手書きの分類表。


 細かすぎる文字。


 欄外の注釈。


 かすれた印章。


 そして、妙に今の宰相府文書と似た言い回し。


『税に関する不満は、価格変動・災害・貴族不信と接続しやすい』


『神殿への不信は、病と死に関する噂へ変質しやすい』


『辺境地域における支援遅延情報は、反王宮感情へ転じやすい』


『王宮の返答遅延は、沈黙ではなく拒絶と解釈される』


 私は、最後の一文で指を止めた。


 王宮の返答遅延は、沈黙ではなく拒絶と解釈される。


 そんなこと、わかっていたのか。


 昔から。


 王宮は、わかっていたのか。


「リディア?」


 エレオノーラ様が呼ぶ。


「……大丈夫です」


 嘘ではない。


 大丈夫ではないだけだ。


 私はページをめくった。


 そこには、さらに嫌な表があった。


『不穏兆候別対応例』


 税不満。


 食糧不安。


 疫病恐怖。


 神殿不信。


 貴族批判。


 辺境孤立。


 軍事流言。


 王位継承不安。


 それぞれの欄に、対応文案がある。


 私は、税不満の欄を読んだ。


『不満の対象を徴税官個人に限定し、王宮全体への不信拡大を防ぐ』


 疫病恐怖の欄。


『治癒事例を三件提示し、神殿および王宮医官への信頼を強化する』


 辺境孤立の欄。


『辺境側の報告遅延を強調し、王宮判断の正当性を保つ』


 カイル様の手が、手袋の縫い目に触れた。


 私は、その音を聞いた気がした。


 布が、きしむほどではない。


 ただ、指がそこへ行っただけ。


 私は言葉を選んだ。


「……古い文書です」


 カイル様は答えなかった。


 エレオノーラ様も何も言わない。


 セーラが、そっと別の紙を差し出した。


「先輩。こっち、ベルク様の部署印がある写しです。古い要領をもとにした新しい計画案っぽいです」


 表題は、こうだった。


『王国民意安定化計画 改訂試案』


 民意安定化。


 なんて上品な名前だろう。


 名前だけなら、暴れ馬にリボンを結んでいるようなものだ。


 私は、表題の横に赤鉛筆で書き込んだ。


『実質:王国民意統制計画』


 セーラが覗き込んで、青ざめた。


「それ、見られたら怒られません?」


「怒られるでしょうね」


「消します?」


「消しません」


 赤い文字が、やけに鮮やかに見えた。


 計画書の本文は、さらに整っていた。


『第一段階 収集』


 地方官吏、神殿祈祷記録、新聞購読傾向、水晶掲示板、商会価格表、貴族サロン報告、治安隊日報。


 王国各地から、噂、不満、恐怖、期待を集める。


『第二段階 分類』


 不満を原因別ではなく、感情別に分ける。


 怒り。


 恐怖。


 羞恥。


 飢え。


 不信。


 羨望。


 喪失。


『第三段階 誘導』


 不満の爆発を防ぐため、関心を分散させる。


 怒りには敵を。


 恐怖には守護者を。


 飢えには希望を。


 不信にはわかりやすい説明を。


『第四段階 安定』


 民衆が自発的に望んだように見える形で、王宮の方針へ合流させる。


 私は、そこで手を止めた。


 喉が乾いた。


 隣で、セーラが小さく言う。


「……上手いですね」


「はい」


 否定できなかった。


 恐ろしいほど上手い。


 人を数字として見るなら。


 怒りを流量として見るなら。


 悲しみを調整可能な熱量として見るなら。


 これは、とても優れた計画だ。


 そして、私にはその優秀さがわかってしまう。


 わかってしまうことが、気持ち悪い。


「これは広報ではありません」


 私は言った。


 言葉にしておかないと、飲み込まれそうだった。


「統制です」


 室内が静まった。


 その沈黙を破ったのは、広報局の先輩だった。


 いつの間にか扉のところに立っていたらしい。


 顔色が悪い。


 手には、私が昨日投げた未処理書類が三枚ほどある。


「民意を読む前に、上司の機嫌も読めないのに」


 私は振り向いた。


「先輩」


「いえ、独り言です。上司の機嫌なんて読んでも胃に悪いだけなので」


「それはそうです」


「で、これ、ベルク様が作ったんですか」


「おそらく」


 先輩は計画書を一瞥して、すぐ目をそらした。


「字が綺麗すぎますね。悪い計画の字は、もっと乱れていてほしい」


「わかります」


「読みにくければ燃えにくいのに」


「それはそれで困ります」


 先輩は机に書類を置いた。


「もう一つ、嫌なものが出ました」


「嫌なものの追加注文、受け付けていないのですが」


「返品不可です」


 差し出されたのは、地方暴動未遂に関する古い報告書だった。


 私は表紙を見た。


『南部リュセ川流域 穀物税暴動未遂 鎮静記録』


 未遂。


 その二文字に、嫌な予感がした。


 ページを開く。


 報告書には、十年前の日付。


 干ばつ。


 税の据え置き。


 商会の買い占め。


 神殿の祈祷料値上げ。


 地方官の説明不足。


 民衆の怒り。


 暴動寸前。


 そこに、若い宰相府補佐官が介入した記録があった。


 名前はまだ補佐官待遇。


 ベルク・アインハルト。


 彼は、三つの情報を同時に流している。


 一つ。


 王宮からの臨時穀物放出予定。


 二つ。


 買い占めを行った商会への査察。


 三つ。


 神殿祈祷料の一時減免。


 同時に、暴動主導者と目される男に対して、直接の逮捕ではなく、家族への保護通達を出している。


 暴動は起きなかった。


 怪我人は出ていない。


 倉は焼かれなかった。


 その後、数か月かけて税の調整も行われている。


 私は、報告書から目を離せなかった。


 ベルクのやったことは、間違っている。


 民の怒りを分類し、流れを変え、必要な順番で情報を出している。


 それは統制だ。


 でも。


 その時、確かに人は死ななかった。


 火は出なかった。


 飢えた子どもが、倉を襲った父親を処刑されることもなかった。


 私は、息を吸う。


 浅かった。


「……この件では、効果がありました」


 言いたくなかった。


 でも、言わなければならなかった。


 エレオノーラ様が、私を見る。


 責める目ではない。


 ただ、見ている。


 私は続けた。


「ベルク様のやり方で、防がれた暴動があります」


 セーラが小さく呟く。


「じゃあ、完全に悪いって言えないんですか」


「言えます」


 私は即答した。


 少し強すぎた。


 セーラが肩を揺らす。


 私は、声を落とした。


「すみません。言い方が強かったです」


「いえ……」


「完全に悪いとは言えます。でも、完全に無効とは言えません」


 私は報告書を閉じられなかった。


 そこに書かれた『死者なし』の文字が、重い。


 危機対応において、死者なしは大きい。


 前世でも、今世でも。


 誰かが死ななかったなら、その対応は無意味ではない。


 どれほど嫌な仕組みでも。


 どれほど冷たい分類でも。


 結果として救われた命があるなら、簡単には切り捨てられない。


 それが、さらに嫌だった。


 カイル様が報告書を見下ろした。


「救ったのか」


 その問いは、誰に向けたものかわからなかった。


 私にも。


 ベルクにも。


 あるいは、過去の王宮にも。


 私は答えられなかった。


 カイル様は、もう一度言った。


「救ったのか。使ったのか」


 室内の空気が、少し冷えた。


 答えは、たぶん両方だ。


 でも、両方だと認めるのは苦しかった。


 ベルクは人を救った。


 そして、人を使った。


 その二つが同じ紙の上に並んでいる。


 私は、胸の奥が重くなるのを感じた。


「リディア」


 エレオノーラ様の声がした。


「あなた、今、あの方の計画をどう直せばよいか考えていませんこと?」


 私は、はっとした。


 手元を見る。


 赤鉛筆が、計画書の余白に線を引いていた。


『分類までは必要』


『誘導ではなく応答へ』


『怒りの対象を作らない』


『原因別と感情別を両方保持』


『匿名集計と個別返答の分離』


 私は、無意識に改善案を書いていた。


 ベルクの計画を、より正しく、より燃えにくく、より人を傷つけない形に。


 自分の指が冷える。


「……職業病です」


「でしょうね」


 エレオノーラ様は扇を閉じた。


「でも、あなたが一番近い場所にいますわ。彼のやり方へ」


 その言葉は静かだった。


 だから余計に刺さった。


 私は、ベルクと同じように情報を扱える。


 同じ表を読める。


 同じ火の流れを見られる。


 どこに情報を出せば民衆の怒りが逸れるか、考えられる。


 どの証言を伏せれば混乱が減るか、判断できる。


 どの言葉を選べば人が動くか、知っている。


 違うとしたら、何だ。


 胃痛か。


 いや、それをカイル様に判断基準として採用されるのは困る。


 私は、赤鉛筆を置いた。


「ベルク様は、民の声を材料として扱っています」


「あなたは?」


 エレオノーラ様が尋ねる。


 私は答えようとして、止まった。


 私も、材料として扱っていないと言い切れるだろうか。


 火種。


 証言。


 反応。


 見出し。


 支援者。


 被害者。


 証人。


 私は、それらを机に並べてきた。


 守るために。


 燃やさないために。


 でも、机に並べた時点で、それは人ではなく要素になる。


 ベルクと私の距離は、思っていたより近い。


 それが、嫌だった。


 カイル様が低く言う。


「お前は、違う」


 私は顔を上げる。


「どうしてですか」


 聞いてしまった。


 カイル様は少し黙った。


 長い沈黙ではない。


 でも、言葉を選んでいる沈黙だった。


「迷う」


「……それだけですか」


「それだけではない」


 カイル様は、私の手元の赤鉛筆を見た。


「消す前に、見る」


 短い。


 説明としては不足している。


 けれど、その不足が少しだけ温かかった。


 私は、彼が何を言おうとして、何を言わなかったのか、全部は書かない。


 ただ、手袋の縫い目を押さえていないことだけを見た。


 その時、扉が叩かれた。


 王宮記録局の職員が、息を切らして入ってくる。


「失礼いたします。至急の記録照合です」


「また嫌なものですか」


 私が聞くと、職員は青ざめた顔で頷いた。


 返事はそれで十分だった。


 差し出されたのは、各地の掲示板から転送された同時刻の記録。


 南部。


 西市場。


 東街道。


 港町。


 神殿前。


 北方街道口。


 地方名は違う。


 けれど、投稿時刻がほぼ同じ。


 文言も近い。


『王都は税を上げる』


『神殿は病を隠している』


『公爵家が兵を集めている』


『北方が物資を止める』


『元聖女候補が王宮に囚われた』


『灯火新聞は王宮に買われた』


 私は、最後の一行で目を細めた。


 灯火新聞まで巻き込まれている。


 訂正の足を折りに来た。


 しかも、それぞれの噂は別々の不安を刺激している。


 税。


 病。


 軍事。


 物資。


 信仰。


 報道不信。


 全方向。


 全てを同時に燃やす気だ。


 広報局員の先輩が、乾いた声で言った。


「これ、何火ですか」


「火力表示をやめてください」


「では、災害規模で」


「もっと嫌です」


 セーラが掲示板を見ながら震えた。


「先輩、南部の地方掲示板、もう人が集まり始めています。税の噂で役場前に」


「西市場もです。買い占めが起きています」


 記録局員が続ける。


「神殿前には、元聖女候補に関する説明を求める人々が」


 ミリア様。


 私は、その名前を口に出さなかった。


 今、出せば声が乱れる気がした。


 エレオノーラ様が、扇を閉じる。


 音が、乾いた。


「ベルク様は、こちらが計画書を見つけることも織り込み済みだったのかもしれませんわね」


「はい」


 私は資料を見つめた。


 私たちが計画書を読み、揺れ、議論している間に、外ではもう噂が動いている。


 真実より先に。


 訂正より先に。


 返事より先に。


 噂が届く。


 私は息を吸った。


「灯火新聞へ即時連絡。買収疑惑への対応は、編集長本人の署名で短く。長くしないでください。疑惑に長文で反論すると逆に燃えます」


「はい!」


「南部税噂は、税率変更の有無を財務局へ確認。ただし『税は上がりません』と即断しないでください。地域別の臨時徴収が混じっている可能性があります」


 セーラが顔を上げる。


「否定しないんですか?」


「しません。未確認の否定は、後で燃えます」


 言いながら、私は少しだけ嫌な予感を覚えた。


 この慎重さが、遅れになる。


 でも、早すぎる否定は嘘になる。


 どちらを選んでも、火は残る。


「神殿前の件は、ミリア様の現在の保護状況を王宮記録局に確認。本人の安全を最優先に。ただし『囚われていない』だけでは不十分です。誰が、どの権限で、どこまで接触を制限しているか整理してください」


「承知しました」


「北方物資停止の噂は――」


「俺が出す」


 カイル様が言った。


 短い。


 でも、今の短さは逃げではない。


 私は頷く。


「お願いします。『止めていない』だけでなく、『現在の出荷状況』『遅延がある場合の理由』『確認窓口』を入れてください」


「長い」


「必要です」


「……わかった」


 わかった。


 その一言で、私は少しだけ救われた。


 第五十六話の彼なら、たぶん怒りで動いた。


 第六十六話の彼は、一文で守ってくれた。


 今の彼は、自分で必要な言葉を選ぼうとしている。


 変わっている。


 少しずつ。


 私は、赤鉛筆を握り直した。


「ベルク様の計画は、人の不満を燃料として扱っています」


 誰に言うでもなく、言った。


「でも、不満そのものは本物です。税が怖い人も、病が怖い人も、物資が止まるのが怖い人も、神殿を信じられない人も、本当にいます」


 だから、全部を「誘導された噂」と切り捨ててはいけない。


 そこを間違えたら、私もベルクと同じになる。


 いや、もっと悪い。


 私は、ベルクを悪と呼びながら、民の声そのものを消すことになる。


「対応方針を作ります」


 私は新しい紙を出した。


 表題を書く。


『地方同時流言への初動対応』


 そして、一行目。


『噂を否定する前に、噂が生まれた不安を確認する』


 セーラがそれを見て、小さく頷いた。


 先輩が胃薬を一粒噛み砕いた。


「苦い」


「飲んでください。噛むものではありません」


「今の状況よりは苦くないです」


「それはそうです」


 笑いは、ほんの少しだけだった。


 けれど、室内に戻った。


 その瞬間、窓の外で鐘が鳴った。


 一回。


 二回。


 三回。


 王都の鐘ではない。


 水晶通信越しに届いた、北方の鐘の記録音だった。


 鐘三回。


 噂。


 カイル様が顔を上げる。


「北方も動いた」


「噂ですか」


「だろう」


 水晶が淡く光り、北方からの短い通信が浮かぶ。


『鐘三回。王都発の噂、確認待ち。民は広場に集合。動きなし』


 動きなし。


 その三文字に、私は少しだけ息を吐いた。


 北方は、待てる。


 噂が来ても、すぐには動かない文化を作ってきた。


 それは、過去に死者を出した土地の知恵だ。


 でも、他の地方にはまだない。


 王都にもない。


 だから、これから作るしかない。


 遅すぎるかもしれない。


 でも、始めるしかない。


 私は、計画書の赤字をもう一度見た。


『実質:王国民意統制計画』


 その横に、新しく書き足す。


『対抗案:王国民声応答網』


 まだ名前だけだ。


 中身はない。


 穴だらけ。


 間に合う保証もない。


 でも、統制ではなく応答。


 そこだけは、間違えたくない。


 その時、王宮記録局員が再び叫んだ。


「リディア様、東街道で群衆が動きました!」


 別の伝令が続く。


「西市場、商人たちが倉を閉め始めています!」


「南部役場前、税の説明を求める民が集結!」


「神殿前、元聖女候補の名を呼ぶ声が増えています!」


 室内の水晶が次々に光る。


 赤。


 橙。


 白。


 青。


 地方ごとの警告色が、机の上を埋めていく。


 火種が視界を覆った。


【火種:南部税暴動】


【火種:西市場買い占め】


【火種:神殿前群衆化】


【火種:北方物資停止疑惑】


【火種:灯火新聞信用低下】


【火種:王宮説明遅延】


【火種:真実より先に噂が届く】


 私は、胃の奥が冷えるのを感じた。


 ベルクの計画は、もう紙の上にはない。


 王国のあちこちで、動き始めている。


 私は立ち上がった。


「各地へ初動文を出します」


 セーラが聞く。


「全部ですか?」


「全部です」


「何種類ですか?」


「数えたくありません」


 先輩が小さく言った。


「胃薬荷車、早く来て……」


 私は、最初の一枚にペンを置いた。


 真実は遅い。


 噂は速い。


 それでも。


 遅いからといって、黙っていい理由にはならない。


 私は書き始めた。


『現在、各地で流れている情報について、確認済みの事実と未確認情報を分けてお知らせします』


 その一文が乾く前に、さらに新しい噂が届いた。


『王宮広報局、地方の声を黙殺か』


 私は、喉の奥で笑いそうになった。


 笑えない。


 でも、少しだけ笑った。


「黙殺している暇があるなら、寝ています」


 カイル様が短く言った。


「寝ろ」


「今ではありません」


「後でだ」


「……後で」


 その約束だけして、私は次の紙に手を伸ばした。


 王国中で、噂が走り始めている。


 真実より先に。


 返事より先に。


 火より速く。


 そして私たちは、初めて国そのものを相手に、返信を書かなければならなかった。

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