聖女候補、火の中に戻る
ミリア・セレス様から届いた文書は、白かった。
紙も白い。
封蝋も白い。
文字まで、どこか白い。
清らかで、丁寧で、整っていて、読む前から胃が痛くなる種類の白さだった。
私は封筒の差出人を二度見した。
『王宮記録局保護管理室
ミリア・セレス本人確認済み文書』
本人確認済み。
つまり、神殿の侍女でも、神殿監察官でも、記録局の代筆でもない。
ミリア様本人が、自分の意思で出した文書。
私は息を整えてから、封を切った。
中には、三枚の紙が入っていた。
一枚目は、王宮記録局の形式文書。
二枚目は、発言許可申請。
三枚目は、ミリア様の手書き。
私はその三枚目を見た瞬間、指先が止まった。
字は、以前より少しだけ強くなっていた。
震えていないわけではない。
けれど、震えたまま進んでいる字だった。
『リディア・ノートン様に関する国家扇動罪疑惑について、私、ミリア・セレスは、自分の言葉で証言する意思があります』
私は、思わず声に出した。
「……今度は、私の胃が先に証言拒否しそうです」
セラさんが隣から覗き込んだ。
「ミリア様からですか」
「はい」
「まさか」
「そのまさかです」
セラさんは一枚目の文書を読み、顔をしかめた。
「王宮記録局、相変わらず文章が堅いですね」
「記録局の文章は石材ですから」
「でも、内容は……」
「はい」
私は二枚目を机に置いた。
『元聖女候補ミリア・セレスによる公開証言申請。
対象事案、リディア・ノートン氏に対する国家扇動罪告発及び関連報道。
証言範囲、神殿広報管理下における本人発言の制限、王宮広報局との接触記録、リディア・ノートン氏による代筆及び誘導の有無。
本人意思、公開証言を希望。』
公開証言。
その四文字が、部屋の空気を変えた。
火の中に戻るということだ。
第30話の時点で、ミリア様はまだ神殿管理下から完全には出られていなかった。
聖女候補辞退の意思を示しても、正式受理には監察と記録局の手続きが必要だった。
彼女の言葉は、記録水晶越しの小部屋で、限られた者たちの前に置かれていた。
あの時、彼女は言った。
『それでは、私が選ばれたかったことが消えてしまいます』
そして、昼食の希望を聞かれて。
『パンがいいです』
小さな、小さな一言。
でも、あれは彼女が自分で選んだ言葉だった。
そのミリア様が、今。
自分から公開証言を申し出ている。
私のために。
いや。
たぶん、それだけではない。
彼女自身の言葉のために。
「止めなければ」
私が呟くと、セラさんは意外そうにこちらを見た。
「止めるんですか?」
「止めます」
「でも、ミリア様本人の意思ですよね」
「本人の意思でも、危険なら止めるべき場合があります」
「その言い方、少し神殿っぽいですよ」
胸の奥に、針が刺さった。
セラさんは慌てて手を振る。
「あ、いえ、責めたわけじゃなくて」
「いえ。刺さったので有効です」
「刺さったら有効なんですか」
「広報では、痛い指摘ほどだいたい有効です」
「嫌な業界ですね」
「本当に」
私はミリア様の手書き文書へ視線を戻した。
止めたい。
本当に止めたい。
今、ミリア様が出れば、必ず燃える。
元聖女候補。
神殿広告塔。
王太子婚約破棄騒動の中心人物。
エレオノーラ様を悪役にする構図に利用された少女。
そして今は、保護移管手続きを終えたばかりの不安定な立場。
そんな彼女が私を擁護すれば、敵は必ず言う。
『リディア・ノートンが元聖女候補まで利用した』
『元聖女候補、今度は広報官の広告塔に』
『また台本を読まされているのでは』
『被害者を盾にするな』
私は見なくても火種がわかった。
それなのに、私の火種感知は、いつもよりぼやけている。
自分が関わる炎上は、相変わらず見えにくい。
まったく、実用性のあるようで一番肝心な時に曇る能力である。
上司に報告したら「仕様です」で済まされるやつだ。
そんな仕様なら返品したい。
返品先が前世かもしれないので嫌だ。
その時、外から低い声がした。
「リディア」
カイル様だった。
扉の前に立っている。
入ってこない。
最近の彼は、部屋に入る前に少しだけ間を置くようになった。
私が炎上の中心になってから、彼は自分の存在が燃料になることを気にしている。
第56話で机を割ったことを、まだ自分の中で処理できていないのだと思う。
「どうぞ」
私が言うと、カイル様は入ってきた。
視線が、机上の文書に落ちる。
「ミリアか」
「はい」
「証言か」
「読んだんですか?」
「顔に書いてある」
「私の顔、掲示板ですか」
「燃えている」
「顔色の話ですか、炎上の話ですか」
「両方」
ひどい。
でも否定できない。
カイル様は文書を手に取らなかった。
以前なら、長い文書を前にして眉間にしわを寄せたはずだ。
今は違う。
読む前に逃げない。
ただ、私が渡すのを待っている。
私は一枚目と二枚目を渡した。
彼は時間をかけて読んだ。
本当に、時間をかけて。
途中で眉間にしわが寄る。
それでも、最後まで読んだ。
私はその姿を見ながら、胸が少しだけ痛くなった。
この人は、長い言葉から逃げないようにしている。
私が言ったからではない。
自分で選んでいる。
「危ない」
読み終えたカイル様は、短く言った。
「はい」
「だが、本人の言葉だ」
「はい」
「止めるのか」
「止めたいです」
「止めたい、か」
カイル様はそこで黙った。
責めてはいない。
急かしてもいない。
ただ、私が言葉を選ぶのを待っている。
その沈黙が、以前より怖くなかった。
「ミリア様が出れば、また叩かれます」
「そうだな」
「神殿側は、彼女を『また利用された少女』に戻そうとします」
「するだろう」
「王宮側は、『保護対象者を危険に晒した』と私たちを責めるかもしれません」
「責める」
「そして、民衆の一部は、彼女の言葉を信じないかもしれません」
「信じない者もいる」
「なら、止めるべきです」
「本当にか」
静かな問いだった。
私は答えられなかった。
止めるべき。
守るために。
燃えないために。
でも、それは本当に彼女を守る言葉なのか。
それとも、私が自分の炎上に彼女を巻き込みたくないだけなのか。
どちらもある。
どちらかだけではない。
それが、厄介だった。
エレオノーラ様が入ってきたのは、その時だった。
昨日より薄い色のドレスを着ている。
でも、髪飾りだけは少し派手だ。
旧王立劇場への誘いの件で疲れているはずなのに、背筋は相変わらず美しい。
強く見えるための姿勢。
私はそれを、前より少しだけ苦しく見るようになった。
「ミリア様からですのね」
「はい」
私は文書を渡した。
エレオノーラ様は流し読みしなかった。
一字ずつ、きちんと読んだ。
読み終えた後、扇を閉じる。
「出るつもりですわね」
「はい」
「止めたいのですね」
「はい」
「それは、ミリア様のため?」
私は喉が詰まった。
エレオノーラ様の質問は、いつも逃げ道を残しているようで、実は核心を外さない。
「……ミリア様のためでもあります」
「でも、だけではない」
「はい」
「自分のためでもある」
「はい」
認めるしかなかった。
私は、ミリア様に燃えてほしくない。
でも同時に、ミリア様が私のために燃えることが怖い。
私が誰かを巻き込んでいるように見えることが怖い。
実際、巻き込んでいる。
その事実が怖い。
「リディア」
エレオノーラ様は、いつもより少し柔らかい声で言った。
「誰かがあなたのために火の中へ入るとき、あなたは止めることもできます」
「はい」
「ですが、止める理由が『私のために傷つかないで』だけなら、それは相手の選択を少し軽く見ていますわ」
私は唇を噛んだ。
「……わかっています」
「わかっていても、怖いものは怖いですわね」
「はい」
エレオノーラ様は、そこで少し笑った。
「では、怖いまま会いに行きましょう」
「会いに?」
「本人に聞かずに止めるのは、いかにも王宮らしいですわ」
「……本当に刺すのが上手いですね」
「褒め言葉として受け取ります」
「半分は苦情です」
「では、半分だけ受け取ります」
こうして私たちは、王宮記録局へ向かった。
王宮記録局の保護管理室は、相変わらず静かだった。
壁は白く、床は磨かれ、空気には紙とインクの匂いがある。
神殿の香の匂いはしない。
それだけで、少しだけ救われた気がする。
面会室には、すでにミリア様がいた。
白い服。
でも、以前の聖女候補の衣装ではない。
飾りは少なく、袖も動きやすい。
髪も、きっちり祈り用に結い上げられてはいなかった。
ただ、指先は膝の上で固く結ばれている。
王宮記録官が一人。
保護管理室の女性職員が一人。
記録水晶が二つ。
神殿関係者はいない。
それを確認して、私は少しだけ息を吐いた。
ミリア様は立ち上がり、私たちに頭を下げた。
「リディア様。エレオノーラ様。カイル様」
声は小さい。
けれど、名前を呼んだ。
以前の「皆さま」ではない。
ちゃんと、一人ずつ。
私は椅子に座る前に言った。
「ミリア様、文書を読みました」
「はい」
「公開証言を希望されていると」
「はい」
「今出れば、また燃えます」
私は、できるだけまっすぐに言った。
優しく包まない。
怖さを薄めない。
「あなたを守るためだと言って、王宮側が沈黙を求めるかもしれません。神殿側は、あなたを都合よく忘れたがっています。新聞社は、あなたをまた見出しにします。掲示板では、言わされているのではないかと疑われるでしょう」
ミリア様の指が、ぎゅっと動いた。
私は続けた。
「証言すれば、あなたはもう一度火の中に入ることになります」
「はい」
「それでも、ですか」
ミリア様はすぐには答えなかった。
沈黙。
以前なら、誰かがその沈黙を埋めた。
神殿の侍女が。
広報官が。
台本が。
私も、埋めようとしたことがある。
でも、今回は誰も言わなかった。
ミリア様は、自分の沈黙を自分で持っていた。
やがて、彼女は顔を上げた。
「リディア様」
「はい」
「私は、神殿にいた時、何度も言われました」
声が震えている。
でも、逃げていない。
「『今は黙っていなさい』」
「『あなたを守るためです』」
「『民は美しい祈りを求めています』」
「『あなたの本音は、混乱を招きます』」
混乱。
その言葉に、カイル様の肩がわずかに動いた。
けれど、彼は黙っていた。
剣にも、拳にも、怒鳴り声にも触れなかった。
ただ、聞いていた。
「王宮に移ってからも、似た言葉を聞きました」
ミリア様は膝の上の手を見た。
「もちろん、神殿とは違いました。記録官の方々は優しくて、私に選ばせようとしてくれました。でも、それでも」
「『今は危ないから』」
「『あなたの保護を優先しましょう』」
「『発言は手続きが整ってから』」
「そう言われました」
保護。
手続き。
優先。
どれも間違っていない。
間違っていない言葉が、時々、人を閉じ込める。
私は胸が重くなった。
「私は、守られていました」
ミリア様は言った。
「それは本当です。ありがたいです。神殿から出られたのも、記録局の方々のおかげです。リディア様や、エレオノーラ様や、カイル様のおかげです」
そこで一度、息を吸う。
「でも、守られている間、私の言葉はまた外に出ませんでした」
私は何も言えなかった。
そうだ。
守った。
でも、出さなかった。
あの小さな「パンがいいです」は、まだ小部屋の記録だった。
王都の人々は知らない。
神殿の布告だけを読んだ人々は、今でも彼女を「元聖女候補」「広告塔」「利用された少女」として見る。
あるいは、「神殿を裏切った少女」として。
「私は、リディア様を助けたいです」
ミリア様は言った。
「でも、それだけではありません」
その言葉に、私は息を止めた。
「私が言わなければ、私の沈黙を、また誰かが使います」
静かな声だった。
「神殿は、私を忘れたことにしたい。王宮は、私を安全な場所に置いたことにしたい。新聞は、私をまた見出しにしたい。掲示板の人たちは、私が言わされていると思いたい」
ミリア様は、初めて少しだけ悔しそうな顔をした。
「でも、私は、います」
短い一文。
私は胸を突かれた。
「私は、ここにいます。生きています。考えています。怖いです。でも、言いたいです」
ミリア様は私を見た。
「今度は私の言葉です」
その瞬間、火種感知が揺れた。
【火種:元聖女候補再炎上】
【火種:リディアによる証言利用疑惑】
【火種:神殿反発】
【火種:王宮保護責任追及】
【火種:証言切り抜き】
【火種:ミリア個人攻撃】
やはり燃える。
燃えるに決まっている。
だけど、その奥にもう一つ見えた。
火種ではない。
小さな、光のようなもの。
たぶん、これは火種感知の範囲外だ。
危険ではなく、意思。
燃えるかもしれない言葉の中にある、本人の輪郭。
私は目を伏せた。
「……止めたいです」
「はい」
「でも、止めません」
ミリア様の目が、少しだけ揺れた。
私は続けた。
「ただし、条件があります」
エレオノーラ様が小さく笑った。
「出ましたわ、リディアの条件」
「条件なしで火に入るのは許可できません」
「許可という言い方」
「助言です。強めの」
私は紙を取り出した。
「一つ。証言範囲を明確にします。リディア・ノートン氏、つまり私に関する代筆・誘導の有無。神殿時代の発言管理。王宮記録局保護下での本人意思確認。これ以外は話さない」
ミリア様は頷く。
「二つ。全文記録と同時に、要点整理版を作ります。切り抜かれる前に、こちらで文脈を出す」
「はい」
「三つ。リディア擁護だけにしないでください」
ミリア様が瞬いた。
「え?」
「私を助けるためだけの証言にすると、あなたが私のために使われたように見えます。あなた自身の言葉として、あなた自身のことも入れてください」
「私自身のこと……」
「はい」
私は一度息を吸った。
「聖女候補と呼ばれることに救われていた時期があったこと」
ミリア様の指が震えた。
それは痛い場所だ。
わかっている。
でも、ここを避ければ、また綺麗な被害者に戻ってしまう。
私は怖かった。
彼女を傷つけているのではないかと。
でも、ミリア様はゆっくり頷いた。
「……入れます」
「無理にとは」
「入れます」
今度は、少し強かった。
「それを言わないと、私がまた、清らかな被害者だけになってしまいます」
エレオノーラ様が、静かに目を伏せた。
カイル様は何も言わない。
ただ、少しだけ顎を引いた。
たぶん、敬意の仕草だった。
その後、ミリア様は自分の声明案を見せてくれた。
丁寧だった。
とても丁寧だった。
丁寧すぎた。
『このたびのリディア・ノートン様に関する一連の報道につきまして、私、ミリア・セレスは、関係者の皆さまのご配慮と導きに深く感謝しつつ、事実関係の整理に協力させていただきたく存じます』
私は黙った。
セラさんがいなくてよかった。
いたら「神殿文ですね」と即答していた。
いや、私の顔に出たらしい。
ミリア様が不安そうに聞いた。
「……おかしいですか」
「おかしくはありません」
「でも、リディア様の顔が」
「少し、神殿文みたいです」
言った。
言ってしまった。
ミリア様は紙を見下ろした。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「自分で書いたつもりだったのに、神殿の文章みたいになりました」
悲しい言い方だった。
言葉の癖は、すぐには抜けない。
特に、長い間それしか許されなかった人は。
私は椅子を少し近づけた。
「大丈夫です。これは直せます」
「直せますか」
「はい。ただし、私が書き直すと私の文になります。だから、質問します。答えてください」
「はい」
「まず、この文書で一番言いたいことは何ですか」
ミリア様は考えた。
「私は、言わされていません」
「いいですね」
「それから、リディア様は、私に言葉を押しつけていません」
「はい」
「でも、リディア様も、いつも完璧ではありません」
私は赤鉛筆を持つ手を止めた。
「……はい?」
ミリア様は真面目な顔で続けた。
「最初に私へ『何が嫌でしたか』と聞いた時、私は少し怖かったです」
胸に、ずしんと来た。
「あの時、私は答えなければいけないと思いました。答えられなくて、泣きました」
「……はい」
「でも、そのあと、昼食の希望を聞いてくれました」
ミリア様は小さく言った。
「あれで、少し息ができました」
私は赤鉛筆を握り直した。
「それも、入れますか」
「入れてもいいですか」
「私には痛いですが、入れてください」
「痛いことを入れていいのですか」
「はい。痛いことほど、削ると嘘になります」
エレオノーラ様が、扇の陰で微笑んだ。
私は気づかないふりをした。
ミリア様は、少しずつ言葉を出した。
私が質問し、彼女が答える。
その答えを、彼女自身が紙に書く。
私は整えすぎないよう、手を止め続ける。
これが難しい。
非常に難しい。
赤字を入れたい。
句読点を直したい。
構成を並べ替えたい。
でも、やりすぎると私の文になる。
私の悪い癖だ。
正しく、読みやすく、燃えにくくしようとして、人の言葉から体温を抜く。
だから私は、何度も赤鉛筆を置いた。
胃薬の瓶を握った。
赤鉛筆より胃薬を持っている方が安全な日もある。
数時間後、ミリア様の声明はこうなった。
『私は、ミリア・セレスです。
元聖女候補として扱われていた者です。
私は神殿にいたころ、多くの言葉を教えられました。
「皆さまのために祈ります」
「神殿の導きです」
「私は幸せです」
その中には、私自身の気持ちと違う言葉もありました。
けれど、すべてが嫌だったわけではありません。
私は、聖女候補と呼ばれることに救われていた時もありました。
誰かに必要とされていると思えて、安心した日もありました。
だからこそ、私は、自分が利用されたことだけでなく、自分がその名前にすがっていたことも、忘れないでいたいです。
リディア・ノートン様は、私の言葉を作った人ではありません。
時に質問がまっすぐすぎて、私は怖くなったこともあります。
けれど、私が答えられない時、リディア様は、昼食の希望を聞いてくれました。
私はそこで初めて、「パンがいいです」と言いました。
小さな言葉でした。
でも、それは私の言葉でした。
今回の証言も、私の言葉です。
言わされているのではありません。
守られている沈黙の中に戻るのではなく、自分で話すことを選びます。
リディア・ノートン様が、私に国家を扇動する言葉を与えた事実はありません。
私が知る限り、彼女は、火を隠すより、火元を見る人です。
私は怖いです。
また見出しにされるかもしれません。
また、清らかな被害者か、愚かな少女か、裏切り者か、誰かに都合のよい名前で呼ばれるかもしれません。
それでも、私はここにいます。
そして、これは私の言葉です』
読み終えた時、部屋は静かだった。
記録官が目を伏せている。
保護管理室の女性職員は、何度も瞬きをしていた。
エレオノーラ様は、扇を閉じたまま膝に置いている。
カイル様は、長い沈黙のあと、短く言った。
「届く」
ミリア様が顔を上げる。
「届くでしょうか」
「全員には届かない」
カイル様らしい、容赦のない答えだった。
でも、彼は続けた。
「だが、誰かには届く」
ミリア様は、その言葉をしばらく見つめるように聞いた。
そして、小さく頷いた。
「はい」
私は声明文を見た。
火種は見える。
はっきりと見える。
【火種:ミリア再利用疑惑】
【火種:神殿反論】
【火種:保護体制批判】
【火種:リディア質問強要疑惑】
【火種:被害者像の複雑化による反発】
でも、それだけではない。
この文には、空白がない。
誰かにきれいに塗りつぶされた白さではない。
怖さも、弱さも、救われたかった気持ちも、自分で書いた跡もある。
私は言った。
「出しましょう」
ミリア様の目が揺れた。
「いいのですか」
「いい、というより」
私は少し笑った。
「これは、私が止めていい言葉ではありません」
公開の準備は、胃が痛くなるほど慎重に進めた。
全文記録。
要点整理版。
証言範囲。
発信時刻。
灯火新聞への同時提供。
王宮記録局による本人意思確認の添付。
神殿側への事前通知はしない。
通知した瞬間に妨害される可能性があるからだ。
ただし、発信直後に正式送付する。
逃げ道を潰しすぎない。
でも、先に黙らせられないようにする。
危機対応とは、時々、とても嫌な綱渡りである。
発信直前、ミリア様は廊下で立ち止まった。
「リディア様」
「はい」
「今、やっぱり少し逃げたいです」
「正常です」
「正常なのですか」
「火の中に入る前に逃げたくならない人は、別の意味で心配です」
ミリア様は、小さく息を吐いた。
「リディア様も、怖いですか」
「怖いです」
「いつも怖いのですか」
「はい」
「でも、いつも赤字を入れています」
「怖いので赤字を入れています」
「そうなのですか」
「はい。赤字は祈りです」
「リディア様の祈りは赤いのですね」
「だいぶ物騒ですね」
ミリア様が、少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも、それは台本に指定された清らかな微笑ではなかった。
本人の笑いだった。
やがて、記録水晶が起動した。
王宮記録局の確認文が流れる。
『本証言は、ミリア・セレス本人の意思確認を経て公開されるものである』
その後、ミリア様の声が王都へ流れた。
大きな声ではない。
震えている。
聞き取りやすい完璧な発声でもない。
でも、言わされている声ではなかった。
『私は、ミリア・セレスです』
王都中の水晶に、その声が流れる。
元聖女候補ではなく。
広告塔ではなく。
清らかな被害者でもなく。
ミリア・セレス。
『私は、聖女候補と呼ばれることに救われていた時もありました』
その一文で、火種が跳ねた。
掲示板に反応が流れ始める。
『何それ』
『被害者じゃなかったの?』
『正直すぎる』
『言わされてるだろ』
『いや、こんな不利なこと言わせるか?』
『パンがいいです、って何』
『そこ泣くところ?』
『リディアの質問が怖かったって書いてあるじゃん』
『それでも擁護してるのか』
『よくわからない』
『よくわからないけど、台本っぽくない』
燃えている。
でも、燃え方が違う。
一色ではない。
疑い。
戸惑い。
反発。
同情。
理解できなさ。
そして、ほんの少しの信頼。
私は掲示板を見ながら、胸の奥が痛んだ。
説明すればわかってもらえる、とは限らない。
でも、説明しなければ、誰かの都合のいい物語だけが残る。
ミリア様は、最後まで読み上げた。
『それでも、私はここにいます。
そして、これは私の言葉です』
記録水晶の光が落ちた。
部屋はしばらく静かだった。
ミリア様は両手を握りしめている。
私は何を言うべきかわからなかった。
上手でした。
燃えました。
届きました。
どれも違う気がした。
だから、私は言った。
「お疲れさまでした」
ミリア様は、ゆっくり頷いた。
「はい」
それだけだった。
でも、それでよかった。
直後、神殿側から抗議文が届いた。
早い。
早すぎる。
絶対に待機していた。
文面は予想通りだった。
『元聖女候補ミリア・セレスは、保護下にあり、精神的安定を欠く可能性がある。
当該発言は、周囲の誘導により行われた疑いがあり――』
私は赤鉛筆を持った。
反論文を書こうとして、手を止める。
今は私が前に出すぎてはいけない。
これはミリア様の言葉だ。
私がすぐに補足すれば、また私の文章で覆ってしまう。
私は赤鉛筆を置いた。
すると、ミリア様がその抗議文を見て、静かに言った。
「その文には、私の名前があります」
「はい」
「でも、私の声はありません」
私は顔を上げた。
ミリア様は、抗議文から目をそらさなかった。
「前なら、怖くて黙っていました」
「今は?」
「怖いです」
彼女は小さく息を吸った。
「でも、黙るかどうかは、私が決めたいです」
その言葉に、私は何も足せなかった。
足してはいけなかった。
その日の夕方。
水晶掲示板は、相変わらず荒れていた。
けれど、リディア叩き一色ではなくなっていた。
ミリア様の証言を信じる者。
疑う者。
神殿を責める者。
王宮記録局の手続きを調べる者。
私の過去の対応を再検証する者。
火は増えた。
でも、火の向きが分かれた。
私一人を燃やすための炎ではなくなった。
それを勝利とは呼べない。
ミリア様が燃えたからだ。
誰かを燃やして得た時間を、勝利と呼ぶほど私は鈍くなりたくない。
それでも。
彼女の言葉は、確かに火の中に立った。
夜、作業室に戻ると、カイル様が窓際に立っていた。
掲示板の反応を見ている。
眉間のしわが深い。
「カイル様」
「次は俺だ」
短い声だった。
私は一瞬、意味が取れなかった。
「次?」
「声明を出す」
胸が跳ねた。
「カイル様が?」
「そうだ」
「長文ですか?」
「短い」
「でしょうね」
思わず言ってしまった。
カイル様はこちらを見た。
表情は変わらない。
でも、目はいつもより静かだった。
「第56話で、俺は燃料になった」
「……はい」
「怒りを、相手に渡した」
「はい」
「今度は渡さない」
私は黙って聞いた。
カイル様は、手袋の縫い目を親指で押さえた。
けれど、逃げるような仕草ではなかった。
何かを留めるような仕草だった。
「ミリアは言った。怖いと」
「はい」
「怖いまま言った」
「はい」
「なら、俺も言う」
私の喉が詰まった。
カイル様は、机の上に一枚の紙を置いた。
紙面はほとんど白い。
あまりにも白い。
嫌な予感がするほど白い。
そこに、一文だけ書かれていた。
『リディア・ノートンは、火を隠さない。だから信じる』
私は、その一文を見つめた。
火種を探した。
何も見えなかった。
危険がないわけではない。
敵は切るだろう。
癒着と言うだろう。
辺境伯が庇ったと騒ぐだろう。
それなのに、その一文自体には、逃げ道がなかった。
飾りもない。
責任転嫁もない。
感情の暴発でもない。
ただ、信じるという短い言葉が置かれている。
私は、赤鉛筆を持てなかった。
持つ必要がなかった。
カイル様が言った。
「長いか」
私は首を振った。
「いいえ」
少しだけ声が震えた。
「短いです」
「駄目か」
「いいえ」
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「短いのに、逃げていません」
カイル様は、ほんのわずかに息を吐いた。
安堵のように見えた。
窓の外では、まだ王都が燃えている。
掲示板も、新聞も、王宮も、神殿も。
誰かの言葉を待っている。
今夜、ミリア様は火の中に戻った。
そして次に。
かつて怒りで机を割った男が、その怒りを一文に変えようとしていた。




