悪役令嬢、悪役を引き受ける
悪役には、衣装がいる。
これは私の意見ではない。
エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢の意見である。
「まず、色ですわね」
朝の臨時広報調査室。
通称、胃痛同盟。
机の上には、偽造資料の写し、国家扇動罪告発文、水晶掲示板の記録、証人保護一覧、胃薬、胃薬、さらに胃薬。
その中央に、なぜか布見本が並んでいた。
深紅。
黒。
紫。
銀糸。
どう見ても、炎上対応より舞踏会準備である。
いや、ある意味では炎上対応なのかもしれない。
社交界という名の燃料庫に火をつけに行くのだから。
「色?」
私は胃薬の瓶を握ったまま聞き返した。
「はい。悪役らしく見せるなら黒か深紅。ただし黒は喪服に寄りすぎますし、深紅は情念が強すぎますわ。今回は紫にしましょう。高慢、知性、権力、少しだけ毒」
「服飾による印象操作が高度すぎます」
「貴族令嬢の基礎教養です」
「貴族令嬢、怖いですね」
「今さらですわ」
エレオノーラ様は、扇で紫の布を軽く叩いた。
涼しい顔をしている。
まるで今日の予定が、友人のお茶会に出るだけであるかのように。
だが、実際は違う。
今日、彼女は自分を燃料にする。
正確には、敵が用意した火種に、わざと近づく。
水晶掲示板では、昨夜から妙な噂が流れていた。
『リディア・ノートンを裏で操る人物がいる』
『下級広報官一人に王宮を動かせるはずがない』
『公爵家の復讐では?』
『悪役令嬢、再始動』
『リディアは駒。糸を引くのは誰だ』
標的が、私一人から広がろうとしている。
エレオノーラ様へ。
グランフェルト公爵家へ。
カイル様へ。
そして、まだ公的発言に制限のあるミリア様へ。
敵は、私をただ燃やすだけでは満足しないらしい。
私の周囲を順に悪役化し、最後には「反王宮勢力」という大きな箱へまとめるつもりだ。
その前に、エレオノーラ様が言った。
「では、私が少し悪役らしく動きましょう」
私は反対した。
もちろん反対した。
反対した結果、今、布見本が机の上にある。
どうしてこうなった。
「本当にやるんですか」
「ええ」
「エレオノーラ様が『リディアを操っている』ように見せるんですよね」
「正確には、そう見たい方に、そう見える余白を差し上げます」
「それを世間では危険行為と言います」
「社交界では誘い水と言います」
「社交界、言い換えが怖い」
セラさんが隣で記録を取りながら、小さく呟いた。
「火に誘い水って、どういう物理なんでしょうね」
「考えない方が胃に優しいです」
「もう手遅れです」
胃痛同盟は今日も平常運転だった。
つまり、全員がだいたい限界である。
私は机の上の最新投稿を確認した。
『グランフェルト公爵令嬢、沈黙』
『リディア氏擁護なし。やはり関係を切ったか』
『公爵家が裏で動いているなら、もっと派手に出るはず』
『悪役令嬢なら悪役らしく出てこい』
最後の投稿を見た瞬間、エレオノーラ様が微笑んだ。
「呼ばれておりますわ」
「呼ばれていません。煽られています」
「煽りに応じるのも、時には礼儀です」
「その礼儀、燃えます」
「燃やす相手は私が選ぶと言いましたでしょう?」
「その台詞、今聞くと胃に悪いです」
カイル様は部屋の隅に立っていた。
今日も壁のように無言である。
いや、壁より圧がある。
昨日から彼は、私への中傷に反応しないよう努力している。
第56話で机を割ったあと、彼は本当に変わろうとしていた。
剣にも、怒鳴り声にも、拳にも頼らないように。
ただ、その努力の方向が「完全に動かない」になりがちなのが困る。
たまに本当に置物のようになる。
高価な辺境伯の置物。
設置場所に困る。
「カイル様」
私が呼ぶと、彼は短く返した。
「何だ」
「本日の禁止事項を確認します」
「剣」
「はい」
「机」
「はい」
「壁」
「壁もです」
「人」
「当たり前です」
「新聞社」
「物理は禁止です」
「見出し」
「概念なので斬れません」
カイル様は少し不満そうに黙った。
エレオノーラ様が扇の陰で笑う。
「大変ですわね、辺境伯も」
「笑いごとではありません。今回はエレオノーラ様も禁止事項があります」
「あら」
「本当に悪役にならないでください」
「なりませんわ」
「悪役っぽい高笑いは禁止」
「残念ですわ」
「わざと意味深な沈黙を作るのも禁止」
「それは難しいですわね。私の呼吸の一部ですもの」
「呼吸を見直してください」
「無茶をおっしゃる」
私は頭を抱えた。
この人たちは、どうしてそろいもそろって危機対応を舞台芸術にするのか。
いや、舞台なのだ。
敵がそうしている。
民衆は複雑な責任配分を見たいのではない。
わかりやすい役を求めている。
王太子は、未熟だが担がれる若き王。
私は、民の声を止める下級広報官。
カイル様は、王都を脅す北方の武力。
ミリア様は、声を奪われた元聖女候補。
そしてエレオノーラ様は――悪役令嬢。
便利すぎる箱。
泣かなければ冷たい。
怒れば高慢。
沈黙すれば裏がある。
笑えば余裕。
何をしても、悪役らしい台詞に変換される。
その箱を、今日、彼女は自分で持つつもりだ。
敵を誘い出すために。
私への火をそらすために。
「エレオノーラ様」
私は、できるだけ落ち着いた声を出した。
「作戦を確認します」
「どうぞ」
「今日の午後、王都中央サロンで開かれる『王宮の秩序を考える会』に出席する」
「ええ」
「そこには王太子派の令嬢、新聞社関係者、商会代理人が来る可能性が高い」
「はい」
「そこで、あえて私との関係を否定しない」
「そうですわ」
「さらに、『リディア・ノートンは私の大切な駒です』のような、悪役っぽい言い方を――」
「それは言います」
「言わないでください!」
声が裏返った。
セラさんが記録板に小さく「リディアさん、声量注意」と書いた。
今そんな冷静な記録はいらない。
「その発言は確実に切り抜かれます」
「切り抜かせるのです」
「だめです」
「切り抜かれた言葉を追えば、誰がどう広めるか見えますわ」
「餌に自分を使わないでください」
「自分以外の誰を餌に使えと?」
私は黙った。
そこが、反論できない。
証人は使えない。
ミリア様はまだ外部発言に制限があり、再び神殿側に利用される危険がある。
カイル様を使えば、北方武力説が再燃する。
私が動けば、国家扇動罪疑惑が強まる。
エレオノーラ様だけが、悪役令嬢という既存の箱を逆手に取れる。
だからこそ、彼女が一番危ない。
「……怖くないんですか」
聞いた瞬間、後悔した。
ずるい聞き方だ。
怖いと言えば止められる。
怖くないと言えば嘘になる。
エレオノーラ様は、扇を閉じた。
「怖いですわ」
あまりにも静かに言ったので、部屋の空気が止まった。
私は息を詰めた。
エレオノーラ様は笑っていなかった。
「石を投げられるのは怖い。嘲笑されるのも怖い。自分の言葉が別の意味に切られるのも怖い。何をしても『やはり悪女』と言われるのは、今でも十分に痛いですわ」
「なら」
「ですが、慣れています」
その言葉の方が、もっと痛かった。
慣れていい痛みではない。
悪役にされることに、慣れていい人なんていない。
けれど彼女は、慣れた。
慣れなければ立っていられなかったから。
「慣れている人間が使うべき場面もあります」
「そんなの、ひどいです」
「ええ。ひどいですわ」
エレオノーラ様は、そこでようやく微笑んだ。
「だから、せめてこちらの都合で使います」
私は何も言えなかった。
止めたい。
止めなければならない。
でも、彼女の選択を「守るため」という名目で奪うなら、私はまた同じことをする。
エレオノーラ様の怒りを無害にしようとした時と同じ。
ミリア様を守りすぎて、彼女の「選ばれたかった」を消しかけた時と同じ。
カイル様に言葉を強要して、彼の沈黙の理由を見なかった時と同じ。
正しい保護は、時々、人の輪郭を削る。
私は唇を噛んだ。
「……条件があります」
「聞きましょう」
「全文記録を取ります。記録水晶を三つ。灯火新聞にも同席してもらいます」
「当然ですわね」
「発言の事前想定問答を作ります。悪役っぽく見せるとしても、証人やミリア様を危険に晒す情報は出さない」
「ええ」
「私を駒と言わないでください」
「検討します」
「検討ではなく禁止です」
「では、『有能な部下』」
「それも危ないです」
「『胃痛の友』」
「急に弱くなりましたね」
セラさんが真面目に言った。
「胃痛同盟の存在は秘匿した方がいいかと」
「そこですか?」
「敵に薬棚を狙われます」
「最重要防衛対象ですね」
カイル様が短く言った。
「胃薬は守る」
「人も守ってください」
「守る」
即答だった。
短いけれど、逃げていない言葉。
私は少しだけ息を吐いた。
その後、私たちは本当に想定問答を作った。
悪役っぽい登場時の姿勢。
視線の向け方。
扇を開くタイミング。
沈黙の長さ。
言っていい挑発。
言ってはいけない挑発。
逃げ道を残す質問。
証拠を引き出す問い。
悪役っぽく見えるが、事実上は誰も断定しない言い回し。
世の中には、作りたくない想定問答がある。
今日のこれは、その上位に入る。
「では、第一問」
私は紙を読み上げた。
「『リディア・ノートン氏を操っていたのは、グランフェルト公爵家なのですか』と聞かれた場合」
エレオノーラ様は即答した。
「まあ。操れるほど素直な方なら、私も楽でしたのに」
「駄目です」
「なぜ?」
「私が素直ではないと広まります」
「事実ですわ」
「事実でも言い方があります」
セラさんが横から言う。
「火種としては中火です」
「火力表示をやめましょう」
「習慣です」
私は赤字を入れた。
「別案を」
エレオノーラ様は考えた。
「リディア・ノートン様は、ご自分で考え、ご自分で燃え、ご自分で胃薬を飲む方ですわ」
「後半が不要です」
「親しみやすさが出ます」
「今いりません」
「では」
エレオノーラ様は、少しだけ真面目な声になった。
「リディア・ノートン様は、私の駒ではありません。私が信頼している、言葉の専門家です」
私は手を止めた。
悪くない。
少し照れる。
とても困る。
「……採用します」
「顔が赤いですわよ」
「照明です」
「朝ですわ」
「窓の反射です」
「曇りですわ」
「次へ行きましょう」
私は強引に紙をめくった。
カイル様がなぜかこちらを見ていた。
「何ですか」
「信頼している」
「想定問答です」
「そうか」
「そうです」
何か言いたそうに見えた。
でも言わない。
言葉を選んでいるのか、ただ足りないのか。
今の私には、まだ判断できない。
午後。
エレオノーラ様は紫のドレスを着た。
銀糸の刺繍が、光の角度で冷たく光る。
首元は上品に詰まっていて、露出は少ない。
だが、圧がある。
まるで「私はここに立つ」と、布が宣言している。
私は思わず見入った。
「……強そうです」
「強そうに見せておりますもの」
「怖くないように見えます」
「怖くないように見せておりますもの」
エレオノーラ様は手袋をはめた。
白ではない。
薄い灰紫。
指先まで完璧に整っている。
その指が、ほんの少しだけ震えた。
本当に、ほんの少しだけ。
私は見てしまった。
けれど、何も言えなかった。
言えば、彼女はきっと笑う。
大丈夫ですわ、と。
そしてその言葉で、自分の震えを隠してしまう。
だから私は、別のことを言った。
「記録水晶、三つ持ちました」
「ええ」
「退路も確認しました」
「ええ」
「合図も決めました」
「ええ」
「危なくなったら、必ず下がってください」
「善処します」
「善処は燃えます」
「では、約束しますわ」
その一言で、ようやく少しだけ安心した。
中央サロンは、王都でも有名な貴族の集会場だった。
白い柱。
磨かれた床。
壁には歴代王妃の肖像画。
今日の会の名目は、『王宮の秩序を考える会』。
実態は、リディア・ノートン国家扇動罪疑惑を利用した、王太子派とベルク周辺の様子見兼情報交換会。
つまり、燃料交換会である。
入口に着いた瞬間、視線が集まった。
刺さる。
笑顔のまま刺さる視線は、普通の敵意より厄介だ。
私は後方に控え、記録係として立つ。
カイル様は外で待機。
中に入ると威圧になる。
外にいても威圧になる。
存在が火種。
本人は悪くないが、広報的には難物件である。
「グランフェルト公爵令嬢」
最初に声をかけてきたのは、王太子派の侯爵令嬢だった。
名はマルティナ・レイス。
以前、情報提供もしてくれたが、今日の立場は曖昧だ。
味方とも敵とも言えない。
彼女は微笑んだ。
「本日はお越しになるとは思いませんでしたわ」
エレオノーラ様も微笑む。
「呼ばれている気がいたしましたの」
「呼ばれて?」
「ええ。悪役令嬢なら悪役らしく出てこい、と」
周囲の数人が息を呑んだ。
もう危ない。
開始三秒で胃が痛い。
私は記録水晶を確認した。
正常。
灯火新聞の記者も壁際にいる。
よし。
よくないが、よし。
別の令嬢が扇を口元に当てて言った。
「では、噂は本当なのですか? リディア・ノートン氏の背後には、公爵家が?」
来た。
想定問答第一問。
私は心の中で祈る。
どうか、駒と言わないでください。
エレオノーラ様は一拍置いた。
姿勢が美しい。
背筋がまっすぐで、顎が下がらない。
火の中で立つ形。
「リディア・ノートン様は、私の駒ではありません」
よし。
「私が信頼している、言葉の専門家です」
よし。
「もっとも、彼女の胃薬の管理については、私が多少関与しておりますけれど」
余計。
だが、周囲に小さな笑いが起きた。
空気が一瞬だけ緩む。
上手い。
悔しいほど上手い。
そこへ、新聞社関係者らしき男が踏み込んだ。
「しかし、リディア氏は現在、国家扇動罪の疑いをかけられています。その人物を信頼すると公言なさるのですか」
エレオノーラ様は、男を見た。
「疑いは、判決ではありませんわ」
「ですが、説明責任が」
「ありますわね」
彼女は静かに頷いた。
「同時に、偽造資料の可能性、発言切り抜きの記録、証人保護の必要性もあります。すべてを一つの見出しで片づけるには、少々雑ですわ」
「公爵令嬢が新聞の書き方に口を出すと?」
「いいえ」
エレオノーラ様は微笑んだ。
「切るなら、切った場所を隠さないで、と申し上げているだけです」
灯火新聞のマーサさんの言葉。
見事に引用している。
ただし、名は出さない。
誰の言葉かを隠すのではなく、今は巻き込まないために。
私は記録しながら、少しだけ胸が熱くなった。
この人は本当に、人を見る。
誰を守るべきか、誰を前に出すべきではないか、瞬時に見ている。
別の商会代理人が口を開いた。
「では、グランフェルト公爵家はリディア氏と共に王宮改革を目指している、と?」
「王宮改革」
エレオノーラ様はその言葉を繰り返した。
危険だ。
そこに乗れば、反王宮勢力にされる。
【火種:反王宮勢力印象】
【火種:公爵家政治介入】
【火種:リディア黒幕補強】
【火種:王太子派結束】
私は合図を出そうとした。
だが、エレオノーラ様は先に答えた。
「私が目指しているのは、誰か一人の冤罪を便利な物語で片づけないことですわ」
火種が揺れた。
「改革などという大きな言葉は、使う方にお任せします。私は、目の前で人が悪役の箱に押し込められるのを見慣れておりますので」
サロンが静まった。
その静けさの中に、いくつもの感情が混じる。
気まずさ。
警戒。
嘲笑の失敗。
そして、少しだけ理解。
けれど、そこで終わらない。
奥から、ゆっくりと一人の男が近づいてきた。
灰色の上着。
目立たない装い。
だが、襟元の留め具が、王宮系部署の職員が使うものに似ている。
男は丁寧に一礼した。
「グランフェルト公爵令嬢。少々、内密にお話を」
私はすぐに警戒した。
内密。
この言葉は、だいたい燃える。
いや、燃やす準備に使われる。
エレオノーラ様は扇を開いた。
「この場は記録されていますわ」
「承知しております。だからこそ、記録に残らない形で」
セラさんが横で小さく息を呑んだ。
私は記録水晶を握る手に力を入れた。
男は声を落とした。
「リディア・ノートン氏を救いたいのであれば、別の道もございます」
エレオノーラ様の目が細くなる。
「別の道?」
「はい。公爵家が、リディア氏に指示を与えていたと認めるのです」
時間が止まった。
意味を理解するのに、一拍遅れた。
男は穏やかに続ける。
「リディア氏は下級広報官に過ぎない。公爵家からの圧力に従っただけ。そう整理すれば、彼女個人への国家扇動罪疑惑は弱まります」
私は息を忘れた。
それは。
私を救う案に見える。
だが、実際にはエレオノーラ様と公爵家を黒幕にする案だ。
そして私を、また「誰かに動かされた女」にする案だ。
私の判断も、言葉も、責任も、全部別の箱に入れる。
守る顔をした、物語の上書き。
エレオノーラ様は笑った。
美しい笑みだった。
怖いほどに。
「まあ」
彼女は一歩、男へ近づいた。
「私が悪役を引き受ければ、リディアは助かる。そういうご提案ですの?」
「悪役などとは」
「では、黒幕?」
「言葉が強すぎます」
「では、調整役?」
エレオノーラ様の声は甘い。
甘いのに、刃がある。
「それは、どなたの好む言葉でしたかしら」
男の表情が、わずかに固まった。
私は見逃さなかった。
記録水晶にも映ったはずだ。
エレオノーラ様は扇を閉じた。
「お名前を伺っても?」
「……ただの連絡役です」
「どなたの?」
「それは」
「記録に残らない形がお好みでしたわね。では、記録に残る形で伺います」
彼女は、サロン中に聞こえる声で言った。
「あなたは、誰の連絡役ですの?」
空気が変わった。
周囲の視線が男に集まる。
男は一瞬、迷った。
その迷い。
その沈黙。
その目線。
すべてが記録された。
そして、男は小さく言った。
「……宰相補佐ベルク・アインハルト様の周辺より、調整の意向があると」
ベルク。
名前が出た。
直接ではない。
周辺。
調整の意向。
逃げ道だらけの言葉。
けれど、火元に近づいた。
【火種:ベルク関与疑惑拡大】
【火種:公爵家黒幕説反転】
【火種:連絡役切り捨て】
【火種:エレオノーラ標的化】
【火種:リディア救済取引疑惑】
火種が一気に増える。
でも、必要な火もある。
私は震える手で記録を確認した。
撮れている。
音も入っている。
灯火新聞の記者が、壁際で小さく頷いた。
エレオノーラ様は静かに言った。
「残念ですわ」
「何がでしょう」
「悪役令嬢としては、黒幕の座を譲られるのも少し心惹かれますけれど」
「エレオノーラ様」
私は思わず声を出した。
やめてください、その方向へ行かないでください。
エレオノーラ様は私を見なかった。
ただ、背筋を伸ばしたまま続けた。
「私は、自分がしていないことを認める趣味はございません」
声が、強くなった。
「そして、リディア・ノートン様の言葉を、私の指示にするつもりもありません」
サロンが静まり返る。
「彼女の言葉は、彼女のものです。間違えれば彼女が責任を取り、正しければ彼女が信頼を得るべきものです」
私は息ができなかった。
それは、私を守る言葉だった。
同時に、私を子ども扱いしない言葉だった。
私の責任を、私に返す言葉だった。
「悪役令嬢をお探しなら、いくらでも舞台に立ちましょう」
エレオノーラ様は扇を開いた。
「ですが、他人の言葉まで盗む悪役になるほど、落ちぶれてはおりませんわ」
その瞬間、誰かが小さく息を呑んだ。
誰かはわからない。
でも、その音が合図のように、サロンの空気が動いた。
男は一礼し、下がろうとした。
逃がすわけにはいかない。
私が一歩出ようとすると、エレオノーラ様が扇で軽く制した。
止まれ、という合図。
私は止まった。
ここで追えば、圧力になる。
ここで捕まえようとすれば、暴力になる。
ここでは、記録だけでいい。
追うのは後だ。
男が去ったあと、サロンのざわめきが戻った。
しかし、最初とは違う。
エレオノーラ様を悪役として見ようとしていた視線の中に、別の疑問が混じっている。
誰が彼女にそんな取引を持ちかけたのか。
なぜリディアの罪を公爵家に移そうとしたのか。
ベルク周辺とは何か。
火は消えていない。
だが、火元に風穴が開いた。
帰りの馬車の中、私はずっと黙っていた。
エレオノーラ様も黙っていた。
紫のドレスは、行きより重そうに見えた。
私はようやく言った。
「……怖かったですか」
「怖かったですわ」
今度も、彼女はあっさり認めた。
「でも、少し腹も立ちました」
「腹」
「私に黒幕の座を押しつけるなら、せめてもっと優雅な筋書きにしていただきたいですわ。雑です」
「怒るところ、そこですか」
「そこも、です」
彼女は窓の外を見た。
王都の通りには、まだ私を責める掲示が貼られている。
だが、その端に、新しい紙が貼られ始めていた。
『公爵令嬢、黒幕説を否定』
『ベルク周辺から調整提案か』
『リディア氏の罪を公爵家へ移す案?』
『悪役令嬢、悪役を拒否』
エレオノーラ様はそれを見て、少しだけ笑った。
「拒否したつもりはありませんけれど」
「十分拒否しました」
「そうかしら」
「はい」
私は膝の上で手を握った。
「ありがとうございました」
「礼には及びませんわ」
「いえ、言わせてください。私の言葉を、私のものだと言ってくださって、ありがとうございました」
エレオノーラ様は、こちらを見た。
少しだけ驚いた顔をした。
そして、すぐにいつもの顔に戻る。
「当然ですわ」
当然。
その言葉が、胸に刺さる。
当然のことが、ずっと当然ではなかったから。
作業室に戻ると、カイル様が扉の前に立っていた。
姿勢は変わらない。
けれど、目だけが少し険しい。
「無事か」
「はい」
私が答えるより早く、エレオノーラ様が言った。
「悪役令嬢、無事帰還ですわ」
カイル様は短く言った。
「悪役ではない」
エレオノーラ様が少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「あなたにしては、よい台詞ですわ」
「短い」
「そこも含めて」
私は二人を見て、少しだけ気が抜けた。
その瞬間、セラさんが駆け込んできた。
「連絡役の身元、一部判明しました」
空気が切り替わる。
「王宮外郭の文書運搬係として登録があります。ただし、最近の出入り先が――」
セラさんは記録紙を机に置いた。
「宰相府補佐官室です」
やはり。
ベルクに近い。
ただし、まだ周辺。
本体ではない。
私は紙を見た。
エレオノーラ様は、扇を閉じる。
「尻尾としては細いですわね」
「でも、つかめました」
「ええ」
その時、別の伝令が入った。
封筒には差出人がない。
中には、一枚のカード。
上質な紙。
美しい筆跡。
そこに書かれていた。
『グランフェルト公爵令嬢へ。
ご自身が悪役を演じる覚悟がおありなら、明夜、旧王立劇場へ。
リディア・ノートン氏の処遇について、より有効な調整案を提示します』
署名はない。
けれど、文末の句読点が整いすぎていた。
私はその文章を見て、胃が冷えた。
エレオノーラ様は笑った。
静かに。
美しく。
そして、少しだけ疲れた笑みで。
「ほら」
彼女はカードを指先で挟んだ。
「悪役には、次の舞台が用意されるものですわ」
私はそのカードを見つめた。
火は、まだ消えていない。
むしろ、エレオノーラ様という名の灯りを見つけて、敵が寄ってきた。
悪役令嬢は、舞台に呼ばれた。
そして私は、今度こそ彼女を一人で立たせないと決めた。




