味方が黙るとき
人は、燃えている場所から離れる。
それは、臆病だからではない。
熱いからだ。
煙を吸えば咳き込むし、火の粉が飛べば服に穴が開くし、近づけば自分まで燃える。
頭ではわかっている。
炎上対応係として、何度も見てきた。
最初は応援していた人が黙る。
味方だった人が、少し距離を置く。
「状況が落ち着くまで見守ります」と言う。
見守る、という言葉は便利だ。
何もしないことを、少しだけ優しく見せる。
私は、それを知っている。
知っているから、傷つかない。
……はずだった。
『灯火新聞、リディア氏関連の続報を見送り』
『王都瓦版、国家扇動罪疑惑を一面で報道』
『中立派貴族、臨時広報調査室との距離を明言』
『王太子派、リディア氏の説明責任を追及』
朝の水晶掲示板は、昨夜より静かだった。
静かというのは、燃えていないという意味ではない。
燃え方が変わっただけだ。
炎が大きく上がる段階から、黒い煙が街全体に広がる段階へ移った。
声を上げる人が減った分、沈黙が目立つ。
昨日まで私を擁護していた人たちの名前が、掲示板から消えていた。
北方支援に協力してくれた商会。
エレオノーラ様の名誉回復会見で拍手してくれた貴族令嬢。
灯火新聞に証言を寄せてくれた職人組合の代表。
誰も、私を責めてはいない。
ただ、黙っている。
それが、思ったより痛かった。
「……わかります」
私は机の上の掲示記録を見ながら呟いた。
臨時広報調査室、通称胃痛同盟の作業室。
窓は閉め切られ、外のざわめきは少し鈍って聞こえる。
机には書類。
壁には対応表。
隅には、昨日カイル様から渡された北方胃薬。
味があまりにも強かったので、同僚が「これは薬ではなく試練」と評した。
効く。
まずい。
人生に似ている。
「何がわかるんですか」
セラさんが聞いた。
彼女は昨夜からほとんど寝ていない。
髪を結ぶ紐が少し曲がっている。
指摘したい。
でも今それを指摘すると、私も鏡を見ろという話になる。
「黙る理由です」
私は言った。
「国家扇動罪の疑いがかかった人間を擁護すれば、自分も疑われます。商会は取引停止を恐れます。貴族は社交界で孤立します。証言者は身元を暴かれます。灯火新聞も、無理に擁護すれば共犯扱いされる」
「はい」
「だから、黙るのは合理的です」
「はい」
「人は皆、火に飛び込めるわけではありません」
言い終えた瞬間、胸の奥がきしんだ。
正しい。
完璧に正しい。
正しいのに、嫌だ。
私は紙を引き寄せた。
そこには、昨日から書いては消している反論文の断片が残っている。
『これまで本件に関する事実確認に協力してくださった方々が沈黙していることについて――』
その先が、書けなかった。
続けるなら、こうなる。
『沈黙は、必ずしも否定ではありません』
いや、違う。
綺麗すぎる。
『沈黙している方々を責めないでください』
これも違う。
私は誰に向かって言っている?
民衆に?
掲示板に?
それとも、自分に?
羽ペンを握る手に力が入った。
インクが一滴、紙に落ちる。
黒い点。
昨日と同じだ。
小さな黒い点は、やけに目立つ。
「リディア様」
セラさんが低い声で言った。
「その紙、かなり危険です」
「まだ一文も完成していません」
「だから危険です」
さすが、胃痛同盟の実務担当である。
未完成文書の危険性をよくわかっている。
完成した文章はまだ止められる。
未完成の怒りは、だいたい止めにくい。
私は紙を見た。
書きたい言葉が、頭の中で燃えている。
なぜ黙るのですか。
昨日まで味方だと言ってくれたのに。
私が悪くないと知っているでしょう。
あなたの証言を守るために、私は全部説明できないのに。
あなたを守るために黙っているのに、どうして私を一人にするのですか。
書ける。
書こうと思えば、いくらでも書ける。
たぶん、読まれる。
そして、燃える。
【火種:沈黙者への攻撃印象】
【火種:証人圧迫】
【火種:支持者離反】
【火種:リディア被害者意識拡大】
【火種:証言者特定誘導】
見えた火種に、私は息を吐いた。
「……最低ですね」
「誰がですか」
「私がです」
セラさんは困ったように眉を下げた。
「今の流れで自罰に行くの、効率が悪いです」
「効率の話ですか」
「感情処理に効率を求めるのもどうかと思いますが、今は非常時ですので」
実務の人は強い。
私は少しだけ笑いそうになって、笑えなかった。
扉が開いた。
エレオノーラ様が入ってくる。
淡い藤色のドレス。
派手すぎず、地味すぎず、完璧に「冷静な公爵令嬢」に見える装い。
見える、というのが重要だ。
この人はいつも、見え方を武器にする。
武器にしすぎる。
「お顔が、広報官ではなく負傷兵ですわね」
「できれば職業上の診断名を避けていただけますか」
「では、胃痛同盟重症者」
「悪化しました」
エレオノーラ様は机の上の紙を見た。
インクの黒い点。
書きかけの文章。
それだけで、だいたい察したらしい。
「黙った方々を責める文ですわね」
「まだ責めていません」
「紙がすでに責めています」
私は紙を裏返した。
紙にも表情があるらしい。
知らなかった。
「責めたいのですか?」
エレオノーラ様は椅子に座りながら聞いた。
声はやわらかい。
けれど逃がさない。
私はしばらく黙った。
その沈黙は、たぶん肯定だった。
「……責めたいです」
認めると、喉が痛くなった。
「昨日まで、信じていますと言ってくれた人がいました。リディア様の対応は正しかったと言ってくれた人がいました。灯火新聞に協力すると言ってくれた人がいました。でも、今日になったら、皆、黙っている」
「ええ」
「わかります。怖いのはわかります。自分の商会や家族や立場を守る必要があるのもわかります。私だって、証人を守るために名前を出していません。誰もが火の中に飛び込めるわけではありません」
「その通りですわ」
「でも」
言葉が詰まった。
大人げない。
職務上、言ってはいけない。
でも、胸の奥から出てきた。
「でも、寂しいです」
作業室が静かになった。
セラさんが視線を落とす。
エレオノーラ様は、すぐには何も言わなかった。
正しい助言を急がない。
その沈黙が、今はありがたい。
「寂しいなら、寂しいでよろしいのではなくて?」
やがて、エレオノーラ様が言った。
「責めるのとは別です」
「別にできますか」
「簡単ではありませんわ。でも、混ぜると燃えます」
「火種感知みたいなことを言わないでください」
「あなたに習いましたもの」
私は額を押さえた。
自分の言葉が返ってくると、たいてい胃に悪い。
その時、廊下から短い声がした。
「黙るくらいなら、短く言えばいい」
扉の外にカイル様が立っていた。
今日も、部屋の中には入らない。
王宮治安局の監視がついている間は、彼が近づきすぎるだけで「辺境伯の圧力」と書かれるからだ。
本人もそれを理解している。
だから敷居の外で止まる。
律儀だ。
やはり怒られた大型犬である。
口には出さない。
「あなたは短すぎます」
エレオノーラ様が即座に返した。
「短いにも程度がありますわ」
「伝わる」
「伝わる相手には、です」
「長くすれば伝わるのか」
「長すぎれば寝ます」
「なら短い方がいい」
「あなたの短さは、ときどき本文が存在しません」
カイル様は少し考えた。
「見出しだけか」
「はい。しかも三文字程度ですわ」
「強い」
「褒めていません」
私は、ほんの少し笑った。
笑えることに、自分で驚いた。
カイル様は私を見た。
「リディア」
「はい」
「黙る者は、全員敵か」
「……違います」
「なら、書くな」
短い。
痛い。
でも、まっすぐだった。
私は紙に目を落とした。
書きかけの怒り。
名前のない寂しさ。
責める形になりかけた言葉。
それを出せば、私は少し楽になる。
少なくとも「私は一人ではないはずだった」と叫べる。
でも、その叫びは、黙っている人たちを火の中へ引きずり出す。
証言者を。
支援者を。
怖くて黙った人を。
家族を守るために黙った人を。
私は、自分が助かるために、彼らの沈黙を燃料にしようとしていた。
指先が冷えた。
「……ひどいですね」
私は呟いた。
「私、守るために黙っているつもりで、心の中では、黙った人に怒っていました」
「それは普通ですわ」
エレオノーラ様が言う。
「普通だから、危険なのです」
その通りだ。
普通の感情ほど、見出しにしやすい。
普通の怒りほど、誰かに利用されやすい。
私は紙を手に取った。
破ろうとして、止まる。
破れば感情的に見える。
いや、ここには味方しかいない。
でも、そういう問題ではない。
これは、捨てればいい怒りではない。
私が寂しかった証拠だ。
なかったことにすると、また別の形で燃える。
私は新しい紙を出した。
そして、上に小さく書いた。
『出さない文』
セラさんが覗き込む。
「保存するんですか」
「はい。これは、出さない文として保管します」
「分類名が怖いです」
「炎上対応係には、出してはいけない文もあります」
私は書きかけの紙を折った。
そして、封筒に入れた。
表に書く。
『味方が黙った時に出してはいけない文章』
エレオノーラ様が感心したように言った。
「後世の広報官が震えそうな資料名ですわね」
「役立ちます」
「とても嫌な形で」
私は封筒を机の端に置いた。
それだけで、少し呼吸が楽になった。
怒りは消えない。
寂しさも消えない。
でも、少なくとも、それをそのまま外へ出さない選択はできた。
その時、灯火新聞の編集長マーサさんから伝令が届いた。
紙面の刷り直し予定。
内容は、リディア擁護ではない。
国家扇動罪疑惑に関する手続きの問題点。
偽造資料の検証準備。
証人保護の重要性。
そして、こう添えられていた。
『現時点で本紙は、リディア・ノートン個人を擁護する社説は掲載しない。代わりに、手続きと記録を追う』
私はその文面をじっと見た。
セラさんが恐る恐る聞く。
「怒りますか」
「いいえ」
私は首を振った。
少しだけ、胸は痛い。
でも、怒らない。
これは、距離を置かれたのではない。
燃えない位置から、仕事をしてくれている。
私の名前を叫ばないことが、裏切りとは限らない。
灯火新聞は、私を英雄扱いしないことで、私を守ろうとしている。
たぶん。
いや、たぶんではない。
マーサさんはそういう人だ。
新聞は切る仕事だと言った人だ。
問題は、切った場所を隠すかどうかだと。
「……ありがたいです」
私は言った。
セラさんがほっと息を吐く。
「よかったです。今のリディアさんなら、新聞社に訂正依頼を三十枚送る可能性もあったので」
「三十枚は送りません」
「二十枚ですか」
「十枚以内には」
「多いです」
カイル様が扉の外で言った。
「長い」
「辺境伯様は黙っていてください」
「黙る」
「今の話の流れで黙られると複雑です」
「短く言う。十枚は多い」
「短くても腹が立つ時はありますね」
エレオノーラ様が小さく笑った。
作業室の空気が、ほんの少し緩む。
その直後、水晶掲示板がまた光った。
『公爵家、沈黙』
『辺境伯府、沈黙』
『灯火新聞、リディア氏擁護を見送り』
『味方が逃げ始めたな』
『やっぱり黒か』
『沈黙は答え』
私は目を細めた。
沈黙は答え。
違う。
沈黙にも種類がある。
怖くて黙る沈黙。
守るために黙る沈黙。
まだ確認中だから黙る沈黙。
言えば誰かを燃やすから黙る沈黙。
何も考えていない沈黙。
都合が悪いから黙る沈黙。
同じ沈黙でも、中身は違う。
でも、外からは同じに見える。
それが怖い。
「声明を出しますか」
セラさんが聞く。
私は少し考えた。
今の私は、長い反論文を書けない。
でも、一文なら出せる。
ただし、黙った人を責めない一文。
自分を守るためではなく、証人と支援者を守るための一文。
私は紙を出した。
今度は、火種を見ながらではなく、まず書いた。
『現在沈黙している方々の名を、疑惑の材料にしないでください。発言しないことは、ただちに否定や裏切りを意味しません』
火種が浮かぶ。
【火種:支援者存在示唆】
【火種:沈黙者詮索】
【火種:曖昧表現批判】
ある。
でも、さっきより少ない。
何より、これは誰かを責める文ではない。
エレオノーラ様が読んだ。
「悪くありませんわ。ただ、少しあなたの優等生が出ています」
「優等生は悪ですか」
「炎上時には眠気を誘います」
「また眠気ですか」
「眠気は敵ですわ」
カイル様が言った。
「短く」
「またですか」
彼は少し考えて、言った。
「黙る者を、燃やすな」
全員が黙った。
短い。
強い。
そして、今回に限っては悪くない。
私は羽ペンを握った。
「採用します。ただし、補足をつけます」
「長いか」
「必要な長さです」
「なら読める」
カイル様がそう言ったので、私は少し驚いた。
「読むんですか」
「読む」
「長くても?」
「必要なら」
その一言に、胸が少しだけ熱くなった。
第56話のあの日。
彼は怒りで言葉の外へ壊れかけた。
今は、長い言葉から逃げないと言っている。
まだ不器用で、短くて、足りない。
でも、変わろうとしている。
私も変わらなければならない。
全部説明しようとする癖を、少しずつ手放さなければならない。
守るために黙ること。
言わない自由を認めること。
そして、黙った人を勝手に敵にしないこと。
私は文を整えた。
『黙る者を、燃やさないでください。
現在発言していない方々が、ただちに疑惑を認めた、あるいは誰かを裏切ったという意味にはなりません。
発言できない事情、守るべき生活、保護すべき証人があります。
臨時広報調査室は、発言しない自由も守ります。』
エレオノーラ様が読んだ。
「少し冷たいですが、今はそれがよろしいですわ」
セラさんも頷く。
「出せます」
カイル様は言った。
「長い」
「読みましたか」
「読んだ」
「偉いです」
「偉いのか」
「かなり」
カイル様は少しだけ、ほんの少しだけ誇らしげな顔をした。
この状況で可愛いと思ってしまった自分の危機管理能力を疑う。
恋愛感情は炎上より予測が難しい。
私は水晶へ声明を送った。
反応は、すぐに来た。
『綺麗事』
『黙る者を燃やすな、は少し刺さる』
『発言しない自由って何だよ』
『証人保護か』
『でもリディア氏本人は説明してない』
『胃薬は?』
『胃薬の安否確認してる人なんなの』
『黙ってる人を叩くのは違うかもな』
『いや黒なら黒』
燃えている。
でも、少しだけ火の向きが変わった。
誰かが黙っていることを、即座に裏切りと見なす流れが、ほんの少し鈍った。
それで十分だ。
今は、大勝利などいらない。
燃える速度を少し落とす。
誰かの名前が火の中に投げ込まれるのを、一つ止める。
それだけで、今日の仕事としては十分すぎる。
私は椅子に座り直した。
背中が重い。
胃も痛い。
でも、昨日より少しだけ息ができる。
「リディア」
エレオノーラ様が呼んだ。
「はい」
「先ほどの文、残しておきなさい」
「出さない文ですか」
「ええ」
彼女は扇を閉じたまま、机に置いた。
「あなたが誰かを責めたくなったことも、記録ですわ。なかったことにすると、同じ火がまた燃えます」
「……はい」
「それに、覚えておくべきです。味方が黙る痛みを知っている人は、次に誰かが黙った時、その沈黙を乱暴に扱わずに済みます」
私は封筒を見た。
『味方が黙った時に出してはいけない文章』
嫌な資料名だ。
でも、必要だ。
私はそれを引き出しにしまった。
その時、エレオノーラ様がふいに言った。
「次は、私が少し燃えましょう」
室内の空気が止まった。
私は顔を上げた。
「今、何と?」
「聞こえませんでした?」
「聞こえたので確認しています」
エレオノーラ様は微笑んだ。
美しい。
嫌な予感がするほど美しい。
「敵は、わかりやすい悪役を求めています。リディアを操る誰か。公爵家の陰謀。悪役令嬢の再来。ならば、私がその影を少し見せて差し上げます」
「だめです」
即答した。
「まだ詳細を言っておりませんわ」
「詳細を聞いたら胃が死にます」
「胃薬があります」
「北方胃薬を万能薬扱いしないでください」
カイル様の声が低くなった。
「何をする」
エレオノーラ様は、彼を見た。
そして、扇を開いた。
ぱちり、という音が作業室に響く。
「悪役令嬢の使いどころですわ」
私は立ち上がった。
「本当に悪役にならないでください」
「なりませんわ」
「その顔は、なる人の顔です」
「失礼ですわね。私は悪役にされるだけです」
「もっと悪いです」
エレオノーラ様は笑った。
けれど、その手元を見て、私は気づいた。
扇を持つ指が、少しだけ強く握られている。
怖くないわけではない。
この人も、火は熱い。
でも、火に入る準備をしている。
私への攻撃をそらすために。
自分が、悪役の形を引き受けるために。
私は言葉を失った。
止めなければならない。
でも、止めるための言葉が、すぐには出てこない。
エレオノーラ様は静かに言った。
「黙る者を燃やさない。よい言葉ですわ」
そして、少しだけ目を伏せる。
「では次は、黙っていられない者が、燃え方を選ぶ番です」
水晶掲示板は、まだ私の名前で燃えている。
けれどその火の向こうで、次の悪役を求める視線が動き始めていた。
エレオノーラ・グランフェルトは、その視線の前に立とうとしている。
私はその時ようやく、彼女が第54話で言った言葉の重さを理解した。
悪役初心者のあなたに助言します。
まず姿勢よく立つこと。
それは冗談ではなかった。
火の中で、折れないための方法だったのだ。




