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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
リディア失脚炎上

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水晶掲示板、リディア叩き一色

 水晶掲示板(すいしょうけいじばん)は、便利だ。


 遠くの声が、すぐ届く。


 速報も、訂正も、警告も、迷子の猫の情報も、干し肉特売のお知らせも、全部届く。


 だからこそ、恐ろしい。


 届いてほしくない言葉も、すぐ届くからだ。


『下級広報官リディア・ノートン、国家扇動罪(こっかせんどうざい)疑惑』


『民衆を操って王宮批判へ誘導か』


『灯火新聞、臨時広報調査室、辺境伯府との関係は?』


『説明しないなら黒だろ』


 その一文で、私の指先は止まった。


 説明しないなら黒。


 短い。


 強い。


 そして、懐かしい。


 嫌になるくらい、懐かしい。


 前世の会社でも、同じ言葉を見た。


 不祥事の後、会社が沈黙した時。


 被害者が声を上げた時。


 私たち広報担当が、事実確認のために返答を保留した時。


 掲示板にも、ニュースのコメント欄にも、社内の匿名投稿にも、似た言葉が並んだ。


 説明しないなら黒。


 すぐ謝らないなら黒。


 沈黙するなら黒。


 でも、説明すればこう言われる。


 言い訳するな。


 被害者を利用するな。


 責任逃れだ。


 何を書いても、燃える。


 何も書かなくても、燃える。


 私は、その火の中で、他人のための文章を書いていた。


 自分の言葉ではなく。


 会社の言葉を。


 責任を限定し、怒りを逸らし、謝罪に見えるが謝罪しきらない文章を。


 そして最後に、私自身が燃えた。


「リディア」


 名前を呼ばれて、私は現実に戻った。


 王宮の一室。


 事情聴取のために通された控室。


 壁は白く、窓は高く、机は無駄に重厚で、椅子は座る者の腰より王宮の権威を優先している。


 胃に悪い椅子だ。


 いや、椅子のせいにしている場合ではない。


 私の向かいにはエレオノーラ様がいる。


 隣の壁際には王宮治安局の職員が二人。


 部屋の隅には記録水晶(きろくすいしょう)


 そして扉の外には、たぶんカイル様がいる。


 同行は許されなかった。


 威圧になるから。


 でも、彼は廊下に残った。


 剣を抜かず。


 声を荒げず。


 ただ、そこにいる。


 その沈黙は、今のところ見出しになっていない。


 ありがたい。


 見出しにならない優しさというものも、世の中にはあるらしい。


「見ない方がよろしいですわ」


 エレオノーラ様が言った。


 手元の扇は開かれていない。


 いつもなら余裕のある仕草で扇を扱う人が、今日は閉じたまま机に置いている。


「見ないと、対応が遅れます」


「今のあなたは、対応する人ではなく、攻撃されている人です」


「それでも、火種は見ないと」


「火に顔を近づけすぎれば、目も焼けますわ」


 正論だった。


 しかも美しい。


 美しい正論は、反論しづらい。


 私は水晶掲示板から目を離そうとした。


 けれど、目が離れない。


 文字が次々に流れる。


『国家扇動罪って相当やばいのでは?』


『下級職員が一人でできるわけない。裏に公爵家と辺境伯がいる』


『やっぱり悪役令嬢側だったか』


『王太子殿下を潰すための工作?』


『灯火新聞も終わりだな』


『辺境伯が怖くて誰も言えなかったんだろ』


『机割った人だっけ?』


『リディア氏、説明まだ?』


『説明しないなら黒だろ』


 まただ。


 同じ言葉。


 同じ形。


 違う投稿者。


 同じ刃。


 私は息を吸う。


 火種が揺れる。


【火種:沈黙黒印象】

【火種:説明遅延】

【火種:過剰反論】

【火種:証人開示要求】

【火種:灯火新聞共犯化】

【火種:辺境伯武力支援疑惑】

【火種:公爵家黒幕説】


 視界が少し滲んだ。


 火種が多すぎる。


 多すぎる火は、光ではなく壁になる。


 どこから手をつければいいのか、わからなくなる。


「反論文を作ります」


 私は呟いた。


 エレオノーラ様がすぐに反応した。


「今?」


「今です。遅れると既成事実化します」


「今のあなたが書くと、何を書くと思います?」


「確認済みの事実、未確認情報、偽造資料の疑い、証人保護の必要性、捜査協力の意思、手続きの適正性への――」


「違いますわ」


 エレオノーラ様が静かに遮った。


「あなたは、自分が悪くないことを証明するために、全部説明しようとします」


 言葉が刺さる。


 その通りだった。


 私はたぶん、今すぐ全部並べたい。


 自分の発言記録。


 集会での全文。


 王都瓦版の資金疑惑。


 ベルク様周辺の影。


 偽造文書の不備。


 証人記録の存在。


 私がなぜ名前を出さないか。


 何が確認済みで、何が未確認で、何が捏造の疑いなのか。


 全部。


 全部説明すれば、わかってもらえるかもしれない。


 違う。


 私は本当は、そう信じたいだけだ。


 説明すればわかってもらえる。


 きっと。


 たぶん。


 お願いだから。


 前世でも、そう思っていた。


 何度も。


 何度も。


 そして、燃えた。


「……でも、説明しなければ」


 声が掠れた。


「説明しなければ、黒だと言われます」


 エレオノーラ様の目が、少しだけ柔らかくなった。


「言われますわ」


「では」


「説明しても、言われます」


 私は口を閉じた。


 それは、わかっている。


 わかっているのに、聞きたくなかった。


 王宮治安局の職員が咳払いをした。


「リディア・ノートン氏。聴取を始めたい」


「弁護立会人の到着を待つと申し上げました」


 エレオノーラ様が即座に返す。


「公爵家法務代理人は間もなく到着します。それまで任意聴取の実質開始は認めません」


「国家秩序に関わる――」


「国家秩序に関わるからこそ、手続きを踏むのです」


 エレオノーラ様の声は冷たい。


 美しい氷だ。


 職員は黙った。


 私は、そんな彼女を見て思う。


 この人は、本当に強い。


 いや、違う。


 強く見えるために、強く立っている。


 怖くないわけではない。


 自分も叩かれ、悪役にされ、社交界で何度も笑われた人だ。


 それでも今、私の横で立っている。


 私は、また言葉を探す。


 ありがとう。


 ごめんなさい。


 巻き込んでしまって。


 でも、どれも薄い。


 言葉が職業道具のはずなのに、肝心な時に足りない。


 机の上の水晶が、また光った。


 見てはいけない。


 でも見た。


『リディア氏、証人記録を出せないってことは捏造?』


『証人保護とか便利な言葉だな』


『出せない証拠は証拠じゃない』


『証明できないなら黒』


『説明しないなら黒』


 胸の奥が冷えた。


 証人記録を出せば、証人が燃える。


 出さなければ、私が燃える。


 どちらを選んでも、誰かが焼かれる。


 これが、敵の狙いだ。


 わかっている。


 わかっているのに、手が震える。


「……反論しないと」


 私は紙を引き寄せた。


 王宮備え付けの白い紙。


 滑らかな表面。


 高級すぎる紙だ。


 炎上対応にはもっと安い紙でいい。


 どうせ赤字で汚れる。


 羽ペンを取る。


 最初の一文。


『私、リディア・ノートンは、国家を扇動する意図をもって発言した事実はありません』


 書いた瞬間、火種が見えた。


【火種:意図否認による逃げ印象】

【火種:発言事実は認めた印象】

【火種:国家扇動罪への反論開始】

【火種:さらなる説明要求】


 私は紙を伏せた。


 だめだ。


 では、別の一文。


『現在流布している偽造資料について、当方は作成事実を否定します』


【火種:偽造断定が早すぎる印象】

【火種:捜査妨害】

【火種:作成者への警戒】

【火種:証拠隠滅疑惑】


 だめ。


『昨日の王太子派集会における私の発言は、民衆の怒りを否定するものではありません』


【火種:民衆の怒りを利用した印象】

【火種:王太子派への再刺激】

【火種:曖昧だとの批判】


 だめ。


『証人保護の観点から、未公開記録の開示には応じられません』


【火種:隠蔽印象】

【火種:証拠不存在疑惑】

【火種:証人詮索】


 だめ。


 だめ。


 だめ。


 どれも燃える。


 何を書いても、火種が出る。


 火種感知は真実を教えてくれない。


 ただ、燃える可能性を見せる。


 そして今は、その可能性があまりにも多すぎた。


 私は羽ペンを置いた。


 手が、震えている。


 インクが紙に落ちた。


 黒い点ができる。


 小さな点。


 それだけで、なぜか泣きそうになった。


「リディア」


 エレオノーラ様が呼ぶ。


「大丈夫です」


 反射で答えた。


 嘘だ。


 大丈夫なわけがない。


 私は今、国家扇動罪の疑いをかけられ、偽造資料を突きつけられ、掲示板で黒扱いされ、証人記録を狙われている。


 大丈夫だったら、人間ではなく耐火煉瓦だ。


「大丈夫では、ありません」


 言い直した。


 声が少し震えた。


 エレオノーラ様は、何も言わなかった。


 それがありがたかった。


 優しい励ましも、正しい助言も、今は少し痛い。


 扉の外で、足音がした。


 治安局の職員が身構える。


 扉が開く。


 カイル様だった。


 許可されたのではない。


 たぶん、許可を押し切ったのでもない。


 ただ、法務代理人が来るまで廊下にいる条件で、中へは入らないはずだった。


 彼は敷居の手前で止まった。


 本当に、部屋には入っていない。


 律儀すぎる。


 怒られた大型犬みたい、と言ったら確実に燃えるので言わない。


「リディア」


「カイル様、今は――」


「これ」


 彼は小さな包みを差し出した。


 治安局の職員が警戒する。


 エレオノーラ様が目で確認する。


 紙包み。


 中身は、薬草の匂いがした。


「胃薬ですか」


「そうだ」


 私は一瞬、何も言えなかった。


 国家扇動罪の事情聴取の場に、胃薬。


 場違いにもほどがある。


 でも、あまりにもこの人らしい。


「……ありがとうございます」


「北方のだ」


「効くやつですね」


「効く」


「副作用は?」


「まずい」


「それは効能ではなく味です」


 口が少しだけ動いた。


 笑えた、のかもしれない。


 カイル様はまだ敷居の外にいる。


 中に入れば、威圧になる。


 だから入らない。


 でも、離れない。


 その距離が、今はとても優しかった。


 彼は私の机の上を見た。


 書きかけの紙。


 黒いインクの点。


 伏せられた反論案。


 それだけで、たぶん察した。


「書けないか」


 私は喉を詰まらせた。


 言いたくなかった。


 でも、言った。


「はい」


 カイル様は頷いた。


 責めなかった。


 驚きもしなかった。


 ただ、短く言った。


「なら、今は書くな」


 私は顔を上げた。


「でも、沈黙すると黒だと」


「黒と言う者は、書いても言う」


 まっすぐすぎる。


 短すぎる。


 でも、今の私には、長い説明より届いた。


 私は唇を噛んだ。


「……悔しいです」


「ああ」


「怖いです」


「ああ」


「腹が立ちます」


「ああ」


「何も書けないのに、頭の中で文章だけが燃えています」


「消すか」


「概念なので斬らないでください」


「斬らない」


「火魔法も使えません」


「知っている」


「使えたら仕事が早いのに」


「燃える」


「でしょうね」


 そこで、少しだけ息が抜けた。


 馬鹿みたいな会話だ。


 でも、その馬鹿みたいな短さが、今の私を現実に繋ぎ止めてくれた。


 カイル様は部屋に入らない。


 ただ、扉の外に立っている。


 治安局の職員が苛立ったように言った。


「閣下、聴取の妨げになる行為はお控えください」


 カイル様は職員を見た。


「妨げていない」


 確かに。


 入っていない。


 座っていない。


 脅していない。


 胃薬を渡しただけだ。


 国家秩序と胃薬の関係については、王宮法にも記載がないはずである。


 職員が言葉に詰まる。


 エレオノーラ様が微笑んだ。


「体調維持は聴取の適正性に関わりますわ。倒れた相手から聴取を取れば、後で手続きが燃えます」


 私は思わず言った。


「手続きが燃える、という表現は広まりませんように」


「もう広がりますわね」


「やめてください」


 水晶がまた光った。


 反射的に見てしまう。


『胃薬を送れ』


 私は、目を瞬かせた。


 流れていく投稿の中に、確かにあった。


『リディア氏、国家扇動罪は怖いけど、胃は大丈夫か』


『胃薬を送れ』


『いや罪が本当なら胃薬どころでは』


『でも胃薬は送れ』


『下級広報官に必要なのは弁護士と胃薬』


『王宮、胃薬くらい出せ』


 私は思わず、笑った。


 小さく。


 本当に小さく。


 笑った瞬間、喉が震えた。


 笑いが、泣きそうな音に変わった。


 慌てて口元を押さえる。


 だめだ。


 ここで泣いたら。


 記録水晶に残る。


 治安局の職員に見られる。


 掲示板に書かれる。


 下級広報官、聴取前に涙。


 罪悪感か。


 演技か。


 同情狙いか。


 また、見出しになる。


 私は立ち上がった。


「少し、資料を確認します」


 誰にも返事を待たず、部屋の奥の資料棚へ向かった。


 王宮の控室には、形式的な法令集や過去の聴取手続き記録が置かれている。


 私はその棚の前に立った。


 背を向ける。


 顔を隠す。


 息を吸う。


 吐く。


 だめだった。


 涙が出た。


 声は出さない。


 肩も震わせない。


 顔だけ、資料棚の影に隠す。


 こんな時まで、見え方を考えている自分が嫌になる。


 泣き方まで広報対応か。


 でも、止まらない。


 怖い。


 怖い。


 説明しても届かないのが怖い。


 黙れば黒だと言われるのが怖い。


 証人を守れば隠蔽だと言われるのが怖い。


 自分を守るために誰かを差し出したくなる瞬間が怖い。


 前世の自分が、今の自分の中にまだいるのが怖い。


 会社のために。


 組織のために。


 混乱を避けるために。


 そう言って、誰かの声を削った自分が。


 まだ、ここにいる。


「……私は」


 声にならない。


 資料棚に並ぶ古い法令集の背表紙が、ぼやけて見えた。


 背後で、誰もすぐには声をかけなかった。


 エレオノーラ様も。


 カイル様も。


 その沈黙が、今度は痛くなかった。


 見なかったことにしてくれる沈黙ではない。


 ここにいる、と示す沈黙だった。


 少しして、扉の外からカイル様の声がした。


「リディア」


 短い。


 でも、急かさない。


 私は袖で目元を押さえた。


「はい」


「俺はここにいる」


 それだけだった。


 慰めでもない。


 励ましでもない。


 大丈夫とも言わない。


 泣くなとも言わない。


 ただ、そこにいる。


 前世で欲しかった言葉かもしれない。


 いや、言葉ではなく、事実かもしれない。


 誰かがそこにいるという事実。


 それだけで、少しだけ立てる。


「……はい」


 私は返事をした。


 そして、棚から一冊、法令集を抜いた。


 何かしていないと崩れそうだったから。


 開く。


 文字が滲む。


 読めない。


 笑えてくる。


 国家扇動罪で告発された広報官が、涙で法令を読めない。


 非常に実務上よろしくない。


 胃薬の味が、口の中に残っている。


 まずい。


 でも、少し効いた気がする。


 しばらくして、公爵家の法務代理人が到着した。


 壮年(そうねん)の女性で、眼鏡の奥の目が鋭い。


 名をアルマ・ディーンと言う。


 エレオノーラ様が紹介するより早く、彼女は私を見た。


「泣きましたね」


 第一声がそれか。


 私は固まった。


「……はい」


「よろしい。泣ける者の方が、供述の無理を自覚できます」


「法務上の慰めですか」


「慰めではありません。判断材料です」


 強い。


 公爵家の法務代理人、かなり強い。


 アルマさんは机につき、告発文と偽造資料を見た。


 数分で言った。


「雑ではありませんね」


「はい。嫌なほど整っています」


「ですが、整えすぎです」


 私は顔を上げた。


 アルマさんは偽造文書の端を指した。


「本物の内部指示書なら、作成者は保身の余白を残します。この文書は、リディアさんを有罪にするための意図が明確すぎる。つまり、証拠というより物語です」


 物語。


 ベルク様の言葉が頭をよぎる。


 有効な認識。


 秩序ある物語。


 民衆が覚えやすい構図。


 下級広報官が民衆を操った。


 公爵家と辺境伯が後ろ盾。


 灯火新聞が拡散。


 王太子殿下と王宮秩序を傷つけた。


 わかりやすい。


 あまりにも、わかりやすい。


「反論声明は?」


 アルマさんが聞く。


 私は机の上の紙を見た。


 黒いインクの点だけが残っている。


「……書けません」


 言うのが怖かった。


 広報官なのに。


 炎上対応係なのに。


 自分の声明を書けない。


 こんなに情けないことがあるだろうか。


 アルマさんはあっさり言った。


「今は書かなくていいです」


 私は目を瞬かせた。


「いいんですか」


「書けない時に書いた声明は、だいたい相手の土俵で踊ります」


 エレオノーラ様が小さく頷いた。


「同意しますわ」


 アルマさんは続ける。


「今必要なのは声明ではありません。手続き確認、証拠保全、供述範囲の限定、証人情報の遮断。そして、沈黙の理由を一文で示すこと」


「一文」


「長い声明は今、読まれません」


 その言葉に、胸が沈んだ。


 読まれない。


 わかっている。


 でも、つらい。


 私は長い文章で、誰かを守ってきたつもりだった。


 事実を分け、誤解を避け、責任の所在を明確にし、証人を保護する。


 でも今、長い文章は届かない。


 私が一番使ってきた武器が、手から抜け落ちている。


「一文なら」


 アルマさんが言った。


「こうです」


 彼女は紙に書いた。


『リディア・ノートンは事情聴取に応じています。ただし、証人保護に関わる未公開記録の開示には応じません』


 短い。


 冷たい。


 でも、逃げていない。


 私は火種を見る。


【火種:証人記録隠蔽印象】

【火種:説明不足】

【火種:黒印象継続】


 燃える。


 けれど、別の火種は弱い。


【火種:過剰反論】

【火種:証人名流出】

【火種:自白誘導】

【火種:偽造文書作成者への警戒】


 完全ではない。


 でも、今は完全を目指す場面ではない。


「……出しましょう」


 私は言った。


 声は小さかった。


 でも、出た。


 アルマさんが頷く。


「よろしい。今は、全部説明しない勇気です」


 全部説明しない勇気。


 そんな勇気が必要になる日が来るとは思わなかった。


 説明するのが仕事だった。


 黙ることは、怠慢だと思っていた。


 でも、今ここで全部説明すれば、誰かの名前が燃える。


 なら、私は黙らなければならない。


 黒だと言われても。


 逃げていると言われても。


 私は、守るために黙る。


 ……つらい。


 ものすごく、つらい。


 水晶掲示板に短文が出されたのは、それから少し後だった。


『リディア・ノートンは、国家扇動罪疑惑に関する事情聴取に応じています。なお、証人保護に関わる未公開記録の開示には応じません』


 反応は、すぐ来た。


『短っ』


『説明になってない』


『証人保護って便利だな』


『逃げた』


『でも事情聴取には応じてるのか』


『未公開記録を出さないのは普通では?』


『いや黒だろ』


『説明しないなら黒』


『胃薬は届いた?』


 私は最後の投稿で、また少し笑った。


 笑った後、泣きそうになった。


 今度は、顔を隠さなかった。


 ただ、目元を押さえた。


 エレオノーラ様が何も言わず、横に座ってくれた。


 カイル様は扉の外にいた。


 沈黙している。


 でも、その沈黙は、もう空白ではなかった。


 夜になって、聴取は一度中断された。


 弁護立会人のもと、私は必要最低限だけ答えた。


 偽造文書については作成を否定。


 集会発言については記録照合を求めた。


 証人記録については開示拒否。


 王宮治安局の職員は不満そうだったが、手続き上、それ以上押し切れなかった。


 部屋から出ると、廊下の窓に王都の灯りが見えた。


 その灯りの向こうで、今も掲示板は燃えている。


 私の名前が、燃えている。


 私は廊下の壁に手をついた。


 少しだけ、足に力が入らなかった。


 カイル様が近づく。


 支えようとして、途中で止まる。


 触れていいか迷っている。


 その迷いまで見えて、胸が痛くなる。


「……倒れません」


 私が言うと、カイル様は短く答えた。


「なら、立て」


「厳しいですね」


「隣にいる」


 私は目を閉じた。


 短い。


 でも、今はそれで十分だった。


「……はい」


 私は立った。


 まだ声明は書けない。


 長い反論文も、今は書けない。


 でも、立つことはできた。


 カイル様が、廊下の向こうを見たまま言った。


「全部読む」


「掲示板をですか」


「ああ」


「傷つきますよ」


「知っている」


「怒りますよ」


「たぶん」


「机はありません」


「壁も割らん」


「そこまで言ってません」


「先に言った」


 少しだけ笑った。


 今度は、泣かなかった。


 けれど、笑いの後に、体の奥がずしんと重くなる。


 私はまだ、書けない。


 自分を守るための言葉が、出てこない。


 掲示板は燃え続けている。


 説明しないなら黒。


 逃げるなら黒。


 黙るなら黒。


 その声が、頭の奥で何度も響く。


 私は広報官だ。


 炎上対応係だ。


 言葉を書く人間だ。


 なのに今、白紙の前に立てない。


 いや。


 立てないのではない。


 立ったまま、動けない。


 王宮の長い廊下で、私は自分の手を見下ろした。


 震えている。


 カイル様は、それを見た。


 でも何も言わなかった。


 ただ、自分の手袋を外し、私の手のすぐ横に、自分の手を置いた。


 触れない。


 けれど、逃げない距離。


 その沈黙が、今度は少しだけ優しかった。


 私は息を吸った。


 そして、ようやく認めた。


 今の私は、声明を書けない。


 書けば、誰かを守るためではなく、自分が助かるために書いてしまう。


 それが一番怖い。


 だから今は、書かない。


 書けないことを、認める。


 廊下の向こうで、治安局の職員がこちらを見ている。


 掲示板では、私が黒だと叫ばれている。


 王都の灯りは、いつも通り明るい。


 その明るさが、少しだけ遠かった。


 私は小さく呟いた。


「……火元が見えません」


 カイル様が答える。


「なら、休め」


「今休んだら、燃えます」


「燃えている」


「そうですね」


「休め」


 私は言い返そうとした。


 でも、言葉が出なかった。


 代わりに、頷いた。


 それが悔しくて、少しだけ泣きそうになった。


 けれど、今度は涙は出なかった。


 出ない涙も、たぶん疲労の一種だ。


 その夜。


 水晶掲示板は、私の名前で埋まり続けた。


 そして私は初めて、炎上対応係としてではなく、炎上の中にいる一人として、何も書けない夜を過ごした。

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