王太子、初めて自分の言葉で話す
王太子殿下が動揺している。
その報告を聞いた時、私はまず胃薬の瓶を確認した。
残量、三粒。
少ない。
王太子殿下の動揺に対して、あまりにも少ない。
「追加を取りに行きますか」
セラさんが真顔で聞く。
「お願いします。殿下が動揺する時は、だいたい国費が燃えます」
「今回は?」
「私費で燃えていただきたいです」
無理だろう。
王族は、たいてい周囲の胃で燃える。
私の個人記録は、灯火新聞と水晶掲示板の一部に掲載された。
正式な王宮声明ではない。
私は王宮広報局を代表できる立場ではない。
だからこそ、文章の最初にそう書いた。
『私は、王宮広報局の職務停止中であり、王宮を代表して発信する立場にはありません』
そのうえで、自分の関わった範囲だけを説明した。
していない罪には謝らない。
ただし、恐怖を与えたこと、説明不足だったこと、確認の遅れについては認める。
書きながら何度も手が震えた。
でも、白紙ではなくなった。
そして、その写しが、どういう経路か王太子ルーファス殿下の手に渡ったらしい。
情報漏洩の経路としては大問題だ。
けれど、いま王宮内で「情報が漏れるなんてありえません」と言える人がいたら、その人の机の下から地下水脈でも出ていると思う。
漏れている。
あらゆる場所から。
紙も、噂も、ため息も、胃酸も。
若い記者が続けた。
「殿下は、この一文を何度も読まれているそうです」
差し出された写しには赤い丸がついていた。
『私は、していないことに対して謝罪はしません。ただし、私の対応で傷つけた可能性がある人には、事実を確認し、言葉を尽くします』
王太子殿下が、そこを読んで動揺した。
その意味を、私はすぐには飲み込めなかった。
あの人は、謝罪文の初稿でこう書いた人だ。
『不快にさせたなら謝る』
『誤解を招いた』
『私の真意ではない』
王族三大謝罪風燃料。
どれも謝罪ではなく、相手に「怒ったあなたが悪い」と言外に言っているようなものだった。
その人が、私の文章を読んで動揺している。
「……火種は?」
カイル様が短く聞いた。
私は紙を見る。
火種はある。
もちろんある。
【火種:王太子による同情演出】
【火種:リディア声明の政治利用】
【火種:エレオノーラへの再接触】
【火種:謝罪会見再炎上】
【火種:ベルクによる再編集】
【火種:王太子被害者化】
多い。
王太子殿下が動くと、火種が手をつないで行進してくる。
かわいくない parade である。
「あります」
「止めるか」
「止めたいです」
私は即答しかけて、止まった。
止めたい。
確かに、止めたい。
王太子殿下がうかつに動けば燃える。
エレオノーラ様をまた傷つける可能性もある。
謝罪を美談にされるかもしれない。
ベルク様に利用されるかもしれない。
それでも。
私は、自分の書いた一文を思い出した。
『傷つけた可能性がある人には、事実を確認し、言葉を尽くします』
言葉を尽くす機会を、私が全部管理するのか。
燃えないように、失敗しないように、相手の感情が乱れないように、先回りして止めるのか。
それは、守ることだ。
でも同時に、また誰かの言葉を取り上げることでもある。
私は唇を噛んだ。
「止めるのではなく、条件をつけます」
カイル様がこちらを見る。
「条件」
「記録あり。立会人あり。発言時間を短くしすぎない。台本なし。ただし、想定問答は確認する。謝罪を求める相手はエレオノーラ様であって、民衆ではない。見出し化しない。美談にしない。王太子殿下の反省キャンペーンにしない」
セラさんが筆を走らせる。
「条件が多いですね」
「王太子殿下ですから」
「納得しました」
カイル様が言う。
「俺も行く」
「だめです」
「なぜ」
「圧になります」
「立っているだけだ」
「立っているだけで圧です」
カイル様は少し不満そうだった。
本人に自覚がないのが、一番厄介である。
北方の雪山が「冷気を出しているつもりはない」と言っているようなものだ。
「では、護衛は部屋の外まで。中には入らないでください」
「危険なら入る」
「そこは否定しません。でも最初から入ると、殿下が謝りに来たのではなく、辺境伯に詰められたように見えます」
カイル様は黙った。
私の言葉を飲み込むのに、少し時間がかかっている。
昨日から、彼は黙るたびに、私を不安にさせないように目を逸らさなくなった。
それだけで、沈黙の温度が変わる。
「……外にいる」
「ありがとうございます」
「何かあれば呼べ」
「はい」
「机は割らない」
「そこは自主申告ではなく常時遵守でお願いします」
カイル様は真剣に頷いた。
その真剣さが、少しだけ胸に刺さる。
昨日のことを、彼はまだ言葉にできていない。
でも、逃げてはいない。
私はそれを、見落とさないようにした。
面会場所は、王宮内の小さな応接室に決まった。
豪華すぎず、狭すぎず、記録水晶を置ける場所。
壁には花の刺繍がある。
その花が、妙に困った顔に見えた。
たぶん、王宮の壁も疲れている。
立会人は、私、セラさん、エレオノーラ様側の侍女長、そして王宮記録官。
カイル様は扉の外。
扉の外にいるだけで廊下の空気が強い。
これはもう、空気にも肩幅がある。
エレオノーラ様は、淡い青のドレスで現れた。
派手ではない。
でも、隙がない。
扇を持つ指先は、いつも通り優雅だった。
ただし、扇の骨を押さえる親指に、わずかに力が入っている。
私はそれを記録しない。
記事にも、声明にも、誰にも渡さない。
「リディア」
「はい」
「顔が、謝罪文の審査官ですわ」
「職業病です」
「今日は、少しだけ人間に戻りなさい」
「努力します」
エレオノーラ様は小さく笑った。
笑ったが、目は笑っていなかった。
当然だ。
謝罪される側も、苦しい。
許さなければ冷たいと言われる。
受け取れば許したと見なされる。
泣けば美談にされる。
泣かなければまた冷たいと言われる。
被害者には、いつも余計な仕事が多い。
そして王宮は、その仕事を「品位」と呼びがちだ。
本当に嫌な文化である。
扉が開いた。
ルーファス殿下が入ってきた。
以前より、顔色が悪い。
王子様らしい華やかさは残っている。
けれど、その華やかさの上から、寝不足と焦りを雑に塗ったようだった。
彼は椅子に座る前に、エレオノーラ様を見た。
そして、私を見た。
「……これで燃えないか」
第一声がそれだった。
私は心の中で思った。
今聞く知恵がなぜ会見前になかったのですか。
ただし、口には出さない。
出したら燃える。
おそらく私の顔には少し出た。
殿下がひるんだから。
エレオノーラ様は、扇で口元を隠した。
笑ったのか、呆れたのかはわからない。
私は静かに答える。
「燃えない謝罪はありません、殿下」
「なに?」
「謝罪は、火を完全に消す道具ではありません。傷つけた相手に、自分が何をしたかを認めるための言葉です。燃えないことを目的にすると、たいてい謝罪ではなく言い訳になります」
殿下は言葉に詰まった。
その沈黙を、私は待った。
以前の私なら、すぐ補足した。
想定問答を差し出し、言い換えを提示し、安全な出口へ案内した。
でも今日は、少し待つ。
王太子殿下が、自分の言葉を探す時間を奪わない。
長く感じた。
実際には、十秒ほどだったと思う。
殿下は拳を握った。
「私は……謝れば、収まると思っていた」
ぎこちない。
でも、自分の言葉だった。
私は記録官を見る。
記録水晶は動いている。
エレオノーラ様は何も言わない。
殿下は続けた。
「謝罪文は、怒っている者を黙らせるためのものだと思っていた」
セラさんの筆が、紙の上で止まりかけた。
正直すぎる。
見出しにされたら危ない。
【火種:王太子、謝罪は黙らせる道具と認める】
【火種:王家謝罪文化批判】
【火種:過去謝罪文再炎上】
見える。
胃が痛い。
でも、止めなかった。
今の言葉は、逃げていない。
殿下は深く息を吸った。
「リディア・ノートンの文章を読んだ」
私の名前が出て、少し背筋が硬くなる。
「『していないことに謝らない』とあった。最初は、強情だと思った」
今言いますか、それ。
でも、顔には出さない。
たぶん少し出た。
「だが、その後に……傷つけた可能性がある人には、事実を確認し、言葉を尽くす、とあった」
殿下は、エレオノーラ様へ視線を戻した。
「私は、逆だった」
応接室が静まる。
「私は、したことには謝らず、していないつもりのことばかり説明していた」
その一文に、私は息を止めた。
下手だ。
不格好だ。
でも、今までのどの謝罪文よりも、燃料ではなかった。
エレオノーラ様が、扇を下ろす。
美しい顔に、柔らかさはない。
でも、怒りを隠してもいない。
彼女は王太子殿下をまっすぐ見た。
「では、殿下。あなたは何をなさったのですか」
殿下の喉が動いた。
「私は、婚約破棄の手続きを無視した」
「ええ」
「あなたの発言機会を奪った」
「ええ」
「証拠を確認しないまま、あなたを断罪しようとした」
「ええ」
「人前で、あなたの名誉を傷つけた」
「ええ」
「あなたが泣かなかったことを、勝手に冷たいと決めつけた」
エレオノーラ様の指が、扇の骨を押さえた。
部屋の空気が、ほんの少しだけ揺れた。
私は何も言わない。
フォローしない。
これは、私の会見ではない。
殿下は続ける。
「そして……誰もお前の言葉など聞かない、と言った」
その言葉が落ちた瞬間、応接室の空気が変わった。
第2話の舞踏会。
あの時の熱。
人々の視線。
ミリアの涙。
エレオノーラ様の泣かない顔。
私が一歩前に出た理由。
全部が、静かに戻ってきた。
殿下は頭を下げた。
深く。
王太子が、公爵令嬢に頭を下げる。
その重みを、彼は今、どこまで理解しているのだろう。
「エレオノーラ・グランフェルト。私は、あなたを傷つけた。あなたの言葉を奪った。私の言葉で、あなたを悪役にした。すまなかった」
謝罪としては、まだ足りない。
形式も粗い。
責任範囲の整理も甘い。
今後の回復措置も言えていない。
王宮公式謝罪として出すなら、赤字が大量に入る。
けれど。
これは、殿下本人の言葉だった。
エレオノーラ様は、すぐには答えなかった。
彼女は頭を下げた王太子を見ている。
長い沈黙。
王宮記録官が、呼吸音を殺している。
私は、手の中の筆を握る。
エレオノーラ様は、ゆっくり口を開いた。
「謝罪は、受け取ります」
殿下の肩がわずかに動いた。
救われたように。
けれど、エレオノーラ様の声は続いた。
「ですが、許すとは申しません」
殿下が顔を上げる。
その顔には、少しだけ幼い驚きがあった。
謝ったのに。
そんな顔。
エレオノーラ様は、その顔を見逃さない。
「謝罪は、あなたがご自分のしたことを認めるためのものです。私が今すぐ楽になるためのものではありませんわ」
静かな言葉だった。
刃物のようではない。
でも、逃げ道を塞ぐ正しさだった。
「私は傷つきました。名誉を傷つけられ、社交界で笑われ、新聞に書かれ、泣かないことまで責められました。その傷が、あなたが一度頭を下げたことで消えると思わないでくださいませ」
「……ああ」
殿下は小さく答えた。
以前なら、ここで反論していたかもしれない。
王族に対して失礼だ、と。
私は王太子だ、と。
だが、今日は言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
それでも、言わなかったことは記録していい。
エレオノーラ様は続ける。
「今後、あなたがなすべきことは、私に許されることではありません」
「では、何を」
「あなたの言葉で傷ついた人を、これ以上増やさないことです」
殿下の表情が固まる。
その言葉は、たぶん彼の胸の奥に届いた。
まだ深くではない。
でも、表面を叩いた。
私は見ていて思った。
下手な本音は、時々、空虚な美文より届く。
それは危険でもある。
王太子人気の演出にも使われていた。
でも今、この場では、彼の下手さが逃げ道を減らしていた。
殿下は私を見た。
「リディア・ノートン」
「はい」
「これは……どう書けばいい」
また聞いた。
けれど、さっきとは違う。
燃えないか、ではない。
どう書けば、だった。
私は少し考えた。
「何を目的に書くかによります」
「目的」
「ご自身が責任を認める記録にするのか。エレオノーラ様への謝罪として残すのか。王宮の公式対応につなげるのか。民衆へ向けて話すのか。それぞれ、書き方が違います」
殿下は眉を寄せた。
「全部同じではないのか」
「同じにした結果が、燃料でした」
殿下は黙った。
セラさんが、筆を止めない。
エレオノーラ様が少しだけ扇を動かした。
たぶん、笑いそうになったのを隠した。
私は続けた。
「まず、エレオノーラ様への謝罪は、いまこの場でなさいました。これは記録として残します。ただし、公開範囲はエレオノーラ様の意思を確認します」
殿下がエレオノーラ様を見る。
エレオノーラ様は即答しない。
「全文公開は不要ですわ」
彼女は言った。
「ただし、王太子殿下が正式に非を認めた事実は、必要範囲で公表してくださいませ。私が許したかどうかは、書かないこと」
「なぜ」
殿下が聞く。
私は口を挟みそうになったが、止めた。
エレオノーラ様自身が答えるべきだ。
彼女は静かに言った。
「許したと書かれれば、私はまた黙らされます。許していないと書かれれば、私は冷たい女にされます」
殿下は息を呑んだ。
「……そうか」
「そうですわ」
殿下は初めて、その構造を見たような顔をした。
遅い。
遅すぎる。
でも、見た。
私は、その事実を拾う。
「では、公表文にはこう書けます」
私は紙を取った。
『王太子ルーファス殿下は、婚約破棄会見における手続き違反、未確認情報に基づく発言、ならびにエレオノーラ・グランフェルト様の発言機会と名誉を傷つけた点について、本人へ直接謝罪しました』
そこで止める。
『エレオノーラ様は謝罪を受領しました。ただし、本件に関する名誉回復措置、訂正手続き、関係者への責任確認は継続します』
私は紙を見せた。
「許した、とは書きません。終わった、とも書きません」
エレオノーラ様が頷く。
「よろしいですわ」
殿下は紙を読んだ。
「短いな」
「短くしました」
「だが、逃げていない」
私は少し驚いた。
殿下がそう言うとは思わなかった。
たぶん、私だけではない。
部屋の中の全員が、少しだけ驚いた。
殿下は、気まずそうに視線を落とした。
「カイル・ヴァレンシュタインが前に言っていた。短くても、逃げている言葉はあると」
「辺境伯様が?」
「ああ。いや、正確には……『短い逃げ言葉は嫌いだ』だったか」
カイル様らしい。
応接室の外で、何かがわずかに動いた気配がした。
たぶん聞こえている。
扉越しでも存在感が強い。
殿下は紙を握りしめそうになり、途中でやめた。
少しは紙の扱いを学んだらしい。
「私は、ベルクの原稿を読んでいた」
突然、殿下が言った。
空気が変わる。
私は表情を引き締めた。
「演説原稿のことですか」
「ああ」
殿下は頷いた。
「よくできていた。民が喜んだ。私は、自分が支持されていると思った」
彼は苦く笑った。
「私の言葉ではなかったのに」
ベルク様。
その名を、彼はまだ口にしない。
でも、そこにいる。
見えない手が、王太子の背中から少しずつ離れ始めている。
「私は、担がれているのか」
殿下が小さく言った。
それは、私への質問ではなかったのかもしれない。
自分への問いのようだった。
私は答えを選ぶ。
ここで「はい」と言えば、殿下は被害者の顔をできる。
ここで「いいえ」と言えば、責任の構造を見誤る。
だから、私は分ける。
「担がれている部分はあります」
殿下が顔を上げる。
「ですが、殿下が発した言葉の責任は、殿下にあります」
応接室が静かになった。
王族相手に、かなり危険な言い方である。
【火種:下級広報官による王太子批判】
【火種:王族侮辱】
【火種:リディア再炎上】
見える。
でも、消さない。
殿下は怒らなかった。
怒れなかったのかもしれない。
それでも、彼は聞いた。
「担がれたことは、言い訳にならないのか」
「なりません」
「そうか」
「ただし、誰がどう担いだのかは、確認すべき事実です」
殿下の目が揺れた。
恐怖か。
怒りか。
それとも、自分が道具にされていたと知る屈辱か。
彼はしばらく黙ってから、言った。
「ベルクに会う」
私は即座に言った。
「単独ではやめてください」
「なぜ」
「殿下が怒ると燃えます」
「私は王太子だ」
「だから燃えます」
殿下は黙った。
昔ならここで「無礼者」と言われていた気がする。
今日は言われなかった。
進歩だ。
王国の進歩が、私の胃を犠牲にしている。
「では、どうする」
「記録を残します。ベルク様の原稿、修正履歴、側近への指示、演説前後の記事、資金の流れ。確認してからです」
「遅い」
その言葉に、私は少しだけ笑った。
「はい。真実は遅いです」
殿下が眉を寄せる。
「だが、急いで言った私の言葉は、人を傷つけた」
「そうです」
「遅くても、確認するべきだった」
「そうです」
殿下は椅子の背にもたれた。
疲れたように。
初めて、王太子ではなく、一人の若い男に見えた。
でも、私はその見え方に同情しすぎない。
彼は加害者だ。
同時に、担がれた駒でもある。
その二つを、混ぜてはいけない。
エレオノーラ様が立ち上がった。
「本日はここまででよろしいでしょう」
殿下も立つ。
ぎこちなく。
「エレオノーラ」
彼女は振り向いた。
「私は、あなたに許されたいと思っていた」
「ええ」
「だが、今は……許されたいと言うより、何をすれば責任を取ったことになるのか、わからない」
エレオノーラ様は少しだけ目を細めた。
「それを、これから学ぶのでしょう」
優しくはない。
でも、突き放しきってもいない。
「私が教える義務はありませんけれど」
「……ああ」
殿下はまた頭を下げた。
今度は、少し短く。
でも、形だけではなかった。
エレオノーラ様は扇を開き、私へ視線を向けた。
「リディア」
「はい」
「今の記録、見出しにしないでくださいませ」
「もちろんです」
「『王太子、涙の謝罪』などと書かれたら、私が新聞社を燃やします」
「物理は禁止です」
「比喩ですわ」
「エレオノーラ様の比喩は時々実行力があるので怖いです」
彼女はようやく、少しだけ笑った。
その笑いは、疲れていた。
けれど、誰かに利用されるための笑みではなかった。
面会が終わり、殿下が応接室を出る。
扉の外で、カイル様と目が合ったらしい。
廊下の空気が一瞬固まった。
私は慌てて出ようとしたが、止まった。
カイル様は何も言わない。
殿下も、何も言わない。
二人は短く視線を交わしただけだった。
剣は抜かれない。
机も割れない。
それだけで、今日の進歩としては十分かもしれない。
殿下が去った後、カイル様が私の方を見た。
「どうだった」
「燃えました」
「そうか」
「でも、燃料だけではありませんでした」
カイル様は少し考えた。
「水もあったか」
「少し」
「なら、よかった」
私は彼を見る。
昨日の机。
今日の沈黙。
明日の声明。
全部まだ未解決だ。
でも、少しずつ言葉に近づいている。
その時、セラさんが廊下の向こうから戻ってきた。
顔が硬い。
「リディアさん」
「嫌な知らせですね」
「はい」
「せめて胃薬を先にください」
「どうぞ」
セラさんは本当に胃薬を差し出してから、紙を渡した。
それは、宰相府からの内部連絡の写しだった。
『王太子殿下の最近の言動について、情緒的混乱が見られる。今後の政治判断においては、より安定した補佐体制が必要である』
署名欄。
ベルク・アインハルト。
私は紙を見つめた。
美しい文章だ。
丁寧で、整っていて、どこにも嘘はないように見える。
だが、意味は明確だった。
ベルク様は、王太子を見限り始めている。
担いだ駒が、自分の言葉を持ち始めたから。
カイル様が低く言う。
「次は、殿下を切るか」
「おそらく」
私は紙を畳んだ。
王太子殿下が初めて、自分の言葉で謝った日。
その日、彼を担いでいた男は、静かに別の物語を書き始めた。
そして私は思う。
下手な言葉は燃える。
でも、自分の言葉を持った人間は、操りにくい。
だからベルク様は、それを嫌う。
火元は、また動いた。




