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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
偽りの王太子人気

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人気は正義ではありません

 人気というものは、厄介だ。


 多ければ正しいように見える。


 大きければ本物のように聞こえる。


 声がそろえば、それだけで真実の顔をする。


 けれど私は知っている。


 同じ言葉を何度も並べれば、人はそれを「民の声」と呼び始める。


 同じ見出しを三紙が出せば、人はそれを「世論」と呼び始める。


 同じ怒りを広場で唱えれば、人はそれを「正義」と呼び始める。


 だから私は、水晶掲示板(すいしょうけいじばん)の前で胃薬を飲んだ。


 人気は正義ではない。


 でも、人気があるものを間違いだと言うには、こちらも相応の覚悟がいる。


「リディアさん、顔が死んでます」


 セラさんが、集計表の束を抱えながら言った。


「生きています。かなり低温で」


「低温でも燃えますか」


「王宮では燃えます」


 机の上には、王太子派の集会で使われた配布文、王都瓦版(おうとかわらばん)の記事、貴族サロンで回っている手書きの文言、商会広告、水晶掲示板の投稿写しが並んでいた。


 そこに並ぶ言葉は、不気味なほど似ていた。


『迷いのない王を』


『謝罪ばかりの政治に終止符を』


『優しさでは国は守れない』


『強い決断こそ民を救う』


『混乱を避けるため、声を一つに』


 見出し。


 演説。


 貼り紙。


 広告。


 掲示板。


 媒体は違う。


 書いた人間も違うはずだ。


 なのに、文の骨格が同じだった。


 骨格どころか、変な句読点の癖まで同じ部分がある。


 人間ならそれぞれ筆跡が違う。


 だが、これは違う。


 誰かが、言葉の型を配っている。


「同じ言い回しが多すぎますね」


 セラさんが言う。


「はい。自然発生した世論なら、もっと雑です」


「雑?」


「人間は、怒ると語彙が乱れます。怒り方にも生活感が出ます」


 たとえば市場の人なら値段の話になる。


 職人なら仕事と税になる。


 兵士なら治安と家族の話になる。


 貴族なら名誉と席順に寄る。


 王宮職員なら、胃痛と決裁印と責任者不在に寄る。


 だが、今回の言葉はあまりにも整っている。


 怒りが、きれいに同じ方向へ並べられている。


 まるで、誰かが並べた薪のように。


「薪ですね」


 私が呟くと、カイル様が顔を上げた。


「燃やすか」


「違います」


「薪と言った」


「比喩です」


 エレオノーラ様が扇で口元を隠した。


「カイル様、最近、比喩への殺意が高くありませんこと?」


「概念は面倒だ」


「物理で解決しないでください」


 私は即座に言った。


 カイル様は真顔で頷く。


 この人の場合、冗談かどうか判断が難しい。


 いや、たぶん冗談ではない。


 そこが問題である。


 灯火新聞の編集長が、集計表を一枚持ち上げた。


「これを紙面に載せるなら、かなり強いぞ。『王太子人気は作られたものだった』と書ける」


「書けません」


「なぜ」


「そこまで断定できません」


 編集長は眉を上げる。


「随分、慎重だな」


「慎重になります。ならないと燃えます」


 私は表の上に赤線を引いた。


「同じ文言が複数媒体に流れている。これは確認済みです。王太子派の集会で、統一された標語(ひょうご)が配布されている。これも確認済みです。商会広告と記事掲載時期が一致している。これも確認済みです」


 そこで一度、筆を置く。


「ですが、そこから『王太子人気のすべてが捏造である』とは言えません」


 エレオノーラ様が静かに頷いた。


「民衆の不満そのものは、本物だからですわね」


「はい」


 私は別の紙を出した。


 それは、集会に参加した人々への聞き取り記録だった。


 名前は伏せている。


 許可の取れた範囲だけ。


『税が上がった理由を誰も説明しない』


『夜道が怖い。警備が貴族街に寄りすぎている』


『商会の許可が貴族の紹介なしでは取りづらい』


『神殿への寄進は求められるのに、困った時は順番待ち』


『王宮に請願を出したが返事が来ない』


『公爵家も王族も新聞も、結局こちらを見ていない』


 読むたびに、胃が重くなる。


 これらは、ベルク様が作った不満ではない。


 大手新聞社が捏造した怒りではない。


 もとからあった。


 そこに、扱いやすい標語が流し込まれただけだ。


 怒りの火種は、本物だった。


 油の撒き方が、設計されていただけで。


「……ここを間違えると、終わります」


 私は言った。


「民衆が操作されている。だから民衆の怒りは無価値だ。そう言ってしまえば、私たちはベルク様と同じになります」


 ベルク様は言うだろう。


 民は真実に耐えられない。


 民には整理された物語が必要だ。


 民の怒りは危険だから、こちらで整えるべきだ。


 私は、それを否定したい。


 なら、こちらも民の怒りを一括で馬鹿にしてはいけない。


 たとえ、その怒りが私に向いていても。


 たとえ、私がその怒りを怖いと思っていても。


 エレオノーラ様が、ゆっくり紅茶のカップを持ち上げた。


 今日は、ちゃんと少し飲んだ。


 それだけで、私は少し安心した。


「では、どう書きますの?」


「こうです」


 私は紙に見出し案を書く。


『同じ言葉で広がる王太子支持――標語、広告、記事の拡散経路を検証』


 編集長が唸った。


「硬い」


「わかっています」


「冬眠まではいかないが、秋眠くらいだな」


「季節を増やさないでください」


 エレオノーラ様が扇を軽く閉じた。


「論点は悪くありませんわ。ただ、読者が自分の怒りを否定されたと思うと、読む前に閉じます」


「そこです」


 私は二つ目の見出しを書く。


『怒りは本物か、作られたものか――王太子派集会の言葉を追う』


 編集長が少し身を乗り出した。


「こっちだ」


 カイル様が紙を覗く。


「長い」


「まだ許容範囲です」


「怒りは本物か、は良い」


 カイル様が言った。


 その声は低かった。


 私は彼を見た。


 第56話の割れた机が、頭をよぎる。


 彼の怒りは、本物だった。


 でも、その怒りは敵の見出しにされかけた。


 怒りが本物であることと、その怒りを誰かに利用されないことは、別の問題だ。


「はい」


 私は頷いた。


「今回の記事の中心はそこです。怒りを否定しない。でも、誰がその怒りに言葉を与えているのかは見る」


 セラさんが記録した。


「怒りを否定しない。言葉の出所を見る」


「それ、見出しにできますね」


 編集長が笑う。


 私は少し考えて、紙に書いた。


『怒りを否定しない。だが、その言葉は誰が配ったのか』


 部屋が静まった。


 エレオノーラ様が目を細める。


「いいですわ」


 編集長も頷いた。


「強い。刺さる。逃げてない」


 カイル様が短く言う。


「燃えるか」


「燃えます」


 私は即答した。


 火種はもう見えている。


【火種:民衆批判と受け取られる危険】

【火種:王太子派集会への敵対印象】

【火種:リディアによる世論否定】

【火種:灯火新聞の政治偏向批判】

【火種:ベルク周辺への牽制】

【火種:反王宮勢力認定】


 それでも、書くしかない。


 燃えない文章だけでは、もう届かない。


 でも、燃やすために書いてはいけない。


 その線の上を歩くのは、針の上を裸足で歩くようなものだ。


 できれば靴が欲しい。


 できれば胃薬入りの靴が。


「記事本文は三つに分けます」


 私は表を示した。


「一、確認済みの拡散経路。同じ標語がどこで、いつ、どの媒体に出たか」


「二、金の流れ。広告費、紙面協力費、集会運営費。確認できたもののみ」


「三、民衆の不満。これは操作の有無とは別に、本物として扱う」


 セラさんが頷く。


「未確認情報は?」


「別枠です。載せません。裏付け待ち」


 編集長が鼻で笑った。


「大手紙なら載せるぞ」


「だから大手紙に勝ちたいんです」


「いい答えだ」


 エレオノーラ様が、私の下書きを覗き込む。


「最後に、あなたの一文を入れなさい」


「私の?」


「ええ。事実の羅列だけでは、また冬眠しますわ」


「冬眠はもう卒業したいです」


 とはいえ、自分の一文。


 これが難しい。


 私はしばらく考えた。


 筆先が紙の上で止まる。


 自分の炎上を経験してから、書く前に手が一度止まるようになった。


 怖い。


 どう読まれるか。


 誰が怒るか。


 何を切り取られるか。


 そればかり考えてしまう。


 以前より慎重になった。


 それは成長なのか、萎縮なのか、まだわからない。


 カイル様が黙っている。


 その沈黙が、今は責めているようには感じなかった。


 待っている沈黙だ。


 私は息を吸い、書いた。


『不満は、誰かに作られたから存在するのではありません。不満は、返事がなかった場所に残ります。だからこそ、その不満に後から名前をつけ、敵を決め、怒りの向きを売る者がいないかを確認する必要があります』


 書いた後、私は胃のあたりを押さえた。


「長い」


 カイル様が言う。


「必要な長さです」


「そうか」


 それだけで済ませてくれた。


 少し前なら、長いだけで拒絶していた人が。


 私は、その小さな変化に気づく。


 気づいて、なぜか喉が熱くなった。


 今は泣く場面ではない。


 泣くなら、せめて入稿後にしたい。


 そして泣く前に胃薬を飲みたい。


 灯火新聞の版下は、夕方までに組み上がった。


 記事は翌朝では遅い。


 集会は今夜だ。


 王太子派は西広場で大規模な演説会を開く。


 そこへ間に合わせるため、灯火新聞は臨時号を刷ることになった。


 編集長は印刷機の横で叫んだ。


「訂正欄の横を空けろ! どうせ後で使う!」


「最初から訂正前提ですか!」


 若い記者が悲鳴を上げる。


「間違えない自信より、間違えた時に直す場所だ!」


 実に灯火新聞らしい。


 私はその言葉に少し救われる。


 間違えない人間にはなれない。


 でも、間違えた時に直す場所を残すことはできる。


 それだけでも、ベルク様とは違う。


 たぶん。


 違うと、信じたい。


 西広場へ向かう道は、すでに人で混み始めていた。


 王太子派の集会には、貴族だけでなく平民も多い。


 職人。


 商人。


 荷運び。


 主婦。


 若い兵士。


 失業したらしい男たち。


 彼らの手には、同じ文句が印刷された布があった。


『迷いのない王を』


 同じ言葉。


 同じ文字。


 でも、それを握る手はそれぞれ違った。


 荒れた手。


 細い手。


 傷のある手。


 震える手。


 私はそれを見て、足を止めそうになる。


 怖かった。


 この人たちが私に向かって怒鳴るかもしれない。


 また「説明しないなら黒だろ」と言われるかもしれない。


 私の言葉を、誰も聞かないかもしれない。


 カイル様が少しだけ横に立つ。


 前ではない。


 後ろでもない。


 隣。


「行けるか」


「行きます」


「無理なら下がれ」


「無理でも下がれない時があります」


「なら、倒れる前に言え」


「倒れる予定はありません」


「予定は破れる」


「王宮の予定表みたいに言わないでください」


 カイル様の口元が、ほんのわずかに動いた。


 笑ったのかもしれない。


 北方基準では大笑いかもしれない。


 広場の中央では、すでに王太子派の若い貴族が演説を始めていた。


「民は弱い王を望んでいない! 謝罪ばかりの政治に、国を任せられるか!」


 歓声。


 拍手。


 熱気。


 私はその熱に圧倒される。


 水晶掲示板越しではない。


 紙面の上でもない。


 生身の怒りが、広場にある。


 そして、その怒りは全部が嘘ではなかった。


「王宮は何年、民の声を聞くと言ってきた!」


 誰かが叫んだ。


「聞いてるだけだろ!」


 別の誰かが笑う。


 笑いはすぐ怒号に変わる。


「税の返事はまだか!」


「夜警を増やせ!」


「貴族のための王宮か!」


 私は息を呑んだ。


 言葉が刺さる。


 それは、ベルク様の配った標語ではない。


 本物の苦情だ。


 私の中で、何かがずれる。


 世論操作を暴くために来た。


 なのに、ここにある声は、暴く対象ではない。


 聞くべきものだ。


 答えるべきものだ。


 でも今は、まだ答えられない。


 答えられないまま、私は彼らの言葉の出所を検証する紙を配ろうとしている。


 なんて難しい仕事だろう。


 前世の私に言ったら、たぶん転職を勧める。


 転職先も炎上対応だったら笑えない。


 灯火新聞の配達員たちが、広場の端で臨時号を配り始めた。


「灯火新聞です! 王太子派集会の標語と広告費の流れを検証!」


「怒りを否定しない! だが、その言葉は誰が配ったのか!」


 人々が受け取る。


 読む。


 眉をひそめる。


 破り捨てる者もいる。


 立ち止まる者もいる。


 隣の人と見比べる者もいる。


 水晶掲示板にも、同時に記事が流れた。


『灯火新聞またか』


『王太子派への攻撃だろ』


『いや、標語の出所は気になる』


『怒りを否定しないって書いてあるな』


『でも結局、民衆が操られてるって言いたいんだろ?』


『広告費の表、見た?』


『ハルトン商会また出てる』


『王宮広報局の女、まだやってるのか』


『リディア・ノートンは民を馬鹿にしてる』


 来た。


 その言葉が来た瞬間、手が冷たくなった。


 火種感知は、自分に向いた炎に鈍い。


 でも、これは見える。


【火種:リディアによる民衆軽視】

【火種:灯火新聞への偏向批判】

【火種:王太子派集会激化】

【火種:反王宮感情の増幅】

【火種:国家秩序不安】


 胸が苦しい。


 でも、私は目を逸らさない。


 その時、広場の端で一人の女性が声を上げた。


「じゃあ私たちの怒りは嘘だって言うのか!」


 配達員が固まる。


 周囲の視線がそちらへ集まる。


 私は前に出た。


 カイル様が一瞬だけ動きかけたが、止まった。


 止まってくれた。


 私は女性を見る。


 年は三十前後だろうか。


 手に買い物籠を持っている。


 籠の中には、半分だけのパンと、薬草の包みが見えた。


 生活の重さが、そこにあった。


「嘘ではありません」


 私は言った。


 声が震えなかったのは、奇跡に近い。


「あなたの怒りは、嘘ではありません」


 周囲が少し静まる。


 女性は私を睨む。


「なら、なんでそんな記事を出すの。私たちが誰かに操られてるって言いたいんでしょう」


「違います」


 私は首を振った。


「怒りがある場所に、後から言葉を売りに来る人がいます。その人たちが、あなたの怒りを別の誰かを叩く道具にしていないか、確認したいんです」


「綺麗なこと言って」


「綺麗ではありません」


 私は自分の手を握った。


「私は怖いです。ここで皆さんに怒鳴られるのも、記事を切り取られるのも、自分の名前がまた水晶掲示板で燃えるのも怖いです」


 広場が、静かになった。


 自分でも、言ってから驚いた。


 予定していない言葉だった。


 でも、もう戻せない。


「それでも、怒りを全部間違いだとは言いたくありません。税の返事がないことも、夜警の不足も、貴族への不信も、本物です。王宮が返事をしてこなかったことも、本物です」


 私は息を吸う。


「だからこそ、その本物の怒りに、別の目的の言葉を被せる人がいないか見たいんです」


 女性は何も言わなかった。


 怒りが消えたわけではない。


 納得した顔でもない。


 ただ、紙を握ったまま黙った。


 その沈黙は、勝利ではない。


 でも、拒絶だけでもなかった。


 私は深く頭を下げた。


「読んでください。違うと思ったら、訂正を求めてください。灯火新聞には訂正欄があります」


 編集長が後ろで小さく呻いた。


「そこでうちを使うか」


「武器でしょう」


「そうだな」


 少しだけ、広場に笑いが漏れた。


 ほんの少し。


 火は消えていない。


 だが、炎の向きが一瞬だけ揺れた。


 その直後だった。


 王太子派の壇上にいた若い貴族が、声を張り上げた。


「惑わされるな! これは王宮広報局による民衆分断だ!」


 来た。


 火種が跳ねる。


「リディア・ノートンは、自分に都合の悪い民の声を、操作されたものとして切り捨てようとしている!」


 違う。


 そうではない。


 だが、わかりやすい。


 とてもわかりやすい。


 こちらの慎重な説明より、ずっと早く届く。


 民衆の一部がまたざわつく。


 若い貴族はさらに叫んだ。


「王太子殿下を支える声を、下級広報官が踏みにじっている! 民の怒りを管理しようとしている!」


 私は口を開こうとした。


 だが、先に別の声が響いた。


「民の怒りを管理しているのは、誰だ」


 低い声。


 カイル様だった。


 広場が凍る。


 私は一瞬、背筋が冷えた。


 カイル様、ここで出ると燃えます。


 そう言いかけた。


 けれど彼は、剣に触れていなかった。


 声を荒らげてもいなかった。


 ただ、紙を一枚掲げていた。


 灯火新聞の臨時号だ。


「ここに、金の流れがある」


 短い。


 怖いくらい短い。


 でも、事実だけ。


「怒るなとは書いていない。誰が、その怒りに言葉を配ったかを読め、と書いてある」


 広場が静まる。


 カイル様はそれ以上言わない。


 私の方を見た。


 続きはお前だ、と言うように。


 私は、息を吸った。


「この記事は、王太子殿下を支持する人を敵と決めつけるものではありません」


 今度は、広場全体へ向けて言う。


「ですが、同じ標語が、新聞、広告、集会、掲示板へ同時に流れていることは事実です。広告費と記事掲載時期が一致していることも事実です。ベルク・アインハルト様周辺の会合に、商会と新聞社が出入りしていた記録もあります」


 名前を出した。


 火種が走る。


【火種:ベルク名指し】

【火種:宰相府への敵対】

【火種:国家扇動印象】

【火種:リディア標的化】


 それでも、ここで曖昧にしてはいけない。


「不満は本物です。だからこそ、それを誰かに商品にされないでください」


 今度こそ、広場は沈黙した。


 完全ではない。


 あちこちで反発の声もある。


「きれいごとだ」


「王宮が今さら」


「でも広告費は見たい」


「ベルクって誰だ」


「宰相府補佐だろ」


「王太子殿下は知ってたのか?」


 火は広がる。


 でも、方向が変わった。


 王太子殿下一人への人気。


 リディアへの憎悪。


 エレオノーラ様への敵意。


 それだけではなく、金と標語と会合へ視線が向き始めた。


 これは勝利ではない。


 火元へ近づいた、というだけだ。


 そして火元に近づけば、当然、熱い。


 集会は混乱したまま終わった。


 大きな衝突は起きなかった。


 しかし、拍手もない。


 ただ、ざわめきが残った。


 帰り道、広報局の先輩が私たちに合流した。


 職務停止中の私と会うのは危ないはずなのに、彼は紙袋を持っていた。


「差し入れだ」


「胃薬ですか」


「胃薬と、焼き菓子」


「助かります」


「あと、報告」


「焼き菓子を先にください」


「悪い報告だぞ」


「だから焼き菓子を先にください」


 先輩は無言で焼き菓子を渡した。


 私は一口かじる。


 甘い。


 王都の菓子は甘すぎる、とカイル様が昔言っていた。


 今は、その甘さが少しだけありがたい。


「で、報告は」


 先輩は声を低くした。


「宰相府から、内々に照会が出ている。灯火新聞の記事と、今日の広場での発言について」


「早いですね」


「早すぎる。たぶん待ってた」


 先輩は紙を差し出した。


 そこには、整った文面があった。


『リディア・ノートン氏による民衆集会への介入、および王太子殿下支持者への扇動的発言について、国家秩序維持の観点から調査を要する』


 私は、焼き菓子の甘さが急に遠くなるのを感じた。


 さらに下。


『同氏の行為は、民衆の不満を利用し、王宮および宰相府への不信を意図的に拡大するものではないか』


 署名欄。


 ベルク・アインハルト。


 火種が、視界を覆う。


【火種:国家扇動罪】

【火種:リディア拘束】

【火種:灯火新聞捜索】

【火種:カイル・エレオノーラ支援者扱い】

【火種:反王宮勢力認定】

【火種:民衆の声の再利用】


 私は紙を握りしめそうになって、やめた。


 紙に罪はない。


 たいてい罪深いのは、書いた人間だ。


「国家扇動……」


 セラさんが青ざめる。


 カイル様の目が冷える。


 エレオノーラ様は扇を閉じた。


 ぱちん、と乾いた音がした。


「なるほど。民衆の怒りを利用しているのは誰か、と問われたから、今度はリディアが民衆を利用したことにするのですわね」


「ええ」


 私は答えた。


 声は意外と落ち着いていた。


 たぶん、危機が大きすぎると人は一度静かになる。


 胃は静かではない。


 かなり騒いでいる。


 先輩が小さく言った。


「今日の炎上は……中火だな」


「火力表示をやめてください」


「悪い」


「いえ」


 私は紙を折った。


 きれいに。


 できるだけ、手が震えていないように。


「次は、私が燃やされます」


 カイル様がすぐに言った。


「守る」


「ありがとうございます。でも、物理は最後の最後まで禁止です」


「わかっている」


 カイル様は、そこで少し間を置いた。


「読む」


「え?」


「その告発文を読む。長くても」


 私は顔を上げた。


 カイル様は、私ではなく、ベルク様の文書を見ていた。


 苦手なはずの長い言葉。


 父を殺した王都の文章に似た、整いすぎた文。


 それでも、逃げないと言う。


 私は喉の奥が詰まった。


「お願いします」


 短く言うのが精一杯だった。


 人気は正義ではない。


 でも、人気に逆らう者は、簡単に悪役にされる。


 今日、私はそれをまた知った。


 そしてベルク様は、私に新しい名札を貼ろうとしている。


 下級広報官。


 情報統制官。


 王宮を操る女。


 次は、国家を乱す扇動者。


 火は、また名前を変えた。


 けれど私は、さっき広場で聞いた声を忘れられない。


『王宮は何年、民の声を聞くと言ってきた』


『聞いてるだけだろ』


 それは、私への攻撃ではない。


 王宮への返事の要求だ。


 だから、まだ立つ。


 胃薬を飲んで。


 焼き菓子を食べて。


 震える手で、次の紙を開く。


 ベルク様の文字は、相変わらず美しかった。


 美しい火種ほど、よく燃える。

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