炎上対応係、炎上する
自分の名前が入った謝罪文ほど、赤を入れにくいものはない。
これは今日の業務上の発見である。
発見したくなかった。
私は、臨時広報調査室――通称、胃痛同盟の作業机に座っていた。
ただし、その作業机は昨日までのものではない。
昨日までの机は、カイル様の拳により、歴史的使命を終えている。
今、目の前にあるのは灯火新聞の倉庫から引っ張り出された予備机だ。
脚が一本だけ微妙に短い。
紙を置くたび、かたん、と鳴る。
私の心より安定していない。
「この机も割れますかね」
私が小さく呟くと、セラさんが即答した。
「割らせません」
「私が割る前提ですか」
「昨日の今日ですので」
「私は拳ではなく赤鉛筆派です」
「赤鉛筆でも紙は死にます」
否定できなかった。
机の上には、三種類の文書が並んでいる。
一つ目。
王宮広報局から届いた命令書。
『本日発生した辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン卿による王宮内備品破損および威圧行為について、同件がリディア・ノートン氏への批判対応中に発生したことを重く見、関係説明文および謝罪文の草案提出を命じる』
二つ目。
大手新聞社の号外見本。
『下級広報官を守るため、辺境伯が王宮内で威圧行為』
『リディア・ノートン氏、北方武力を背景に王宮を操作か』
『王宮広報局、私的勢力に乗っ取られる危機』
三つ目。
私が書き始めて、まだ一行も進んでいない白紙。
白い。
恐ろしく白い。
これほど白紙が敵に見えることがあるのか。
私は赤鉛筆を握ったまま、固まっていた。
普段なら、まず分類する。
事実。
未確認情報。
意見。
印象操作。
訂正すべき点。
謝罪すべき点。
謝罪してはいけない点。
そうやって、火種を分ける。
火は、ひとつに見えても、実際には複数の火元から来ていることが多い。
だからまず、火元を見る。
それが私の仕事だった。
けれど今、目の前の火元には私の名前がある。
リディア・ノートン。
下級広報官。
王宮を乱す者。
辺境伯と密約した女。
北方武力を背景に王宮を操作する者。
炎の魔女。
火種感知は、自分に向いた炎に鈍い。
わかっていた。
わかっていたはずなのに、実際に自分が燃えてみると、想像以上に見えない。
火種が、文字の周囲でぼやける。
【火種:リディア癒着疑惑】
【火種:辺境伯私兵化印象】
【火種:謝罪による罪認定】
【火種:謝罪拒否による反省なし印象】
【火種:王宮広報局不信】
【火種:北方反乱説再燃】
見える。
見えるのに、遠い。
いつもより輪郭が甘い。
まるで煙の向こうにある看板を読もうとしているみたいだった。
セラさんが静かに問う。
「リディアさん、まず事実確認からにしますか」
「はい」
私は頷いた。
頷いたが、口が動かない。
事実。
事実は、何だ。
カイル様が机を割った。
それは事実。
剣には触れたが、抜いていない。
それも事実。
負傷者はいない。
カイル様の手に軽傷。
机は重傷。
私への中傷記事が原因のひとつ。
しかし、原因を言えば言い訳に見える。
カイル様の怒りには、父上の死と王都新聞の過去記事が関係している。
だが、それを私が書いていいのか。
彼の傷を、私の釈明材料にしていいのか。
私は赤鉛筆の先を紙に当てた。
当てただけで、止まった。
かたん、と机が鳴る。
私ではなく机が震えたのだと思いたい。
「リディア」
低い声がした。
カイル様だった。
包帯を巻かれた手を膝に置き、部屋の隅に座っている。
昨日より少し顔色が悪い。
怒りが冷めた後に残るものは、だいたい痛みだ。
体の痛み。
後悔の痛み。
言えなかった言葉の痛み。
カイル様は私を見ていた。
「俺が書く」
「何をですか」
「謝罪」
私は即座に首を振った。
「駄目です」
「俺が割った」
「それは事実です」
「なら、俺が謝る」
「机には謝ってください。修繕費も払ってください。でも、この件の謝罪文をあなた一人のものにすると、記事の構図が完成します」
「構図」
「はい。『辺境伯が暴れ、広報官がかばわれた』。『北方の男が王宮を威圧し、リディア・ノートンは沈黙した』。そう読まれます」
カイル様の眉間に深い皺が寄る。
「俺が悪い」
「悪いところはあります」
部屋が静まった。
自分でも、少し残酷な言い方だと思った。
でも、ここで全部否定してはいけない。
昨日、カイル様は怖かった。
私は怖かった。
そこをなかったことにすれば、また誰かの怒りと恐怖を綺麗に整えてしまう。
「でも、あなたが悪いだけではありません」
私は続けた。
「あなたへの過去の傷を刺激する言葉を、意図的に使った者がいます。私への中傷を、北方への不信につなげた者がいます。王宮広報局は、説明責任を私個人に寄せようとしています。大手新聞社は、昨日の件を確認前に見出し化しています」
そこまでは言える。
言えるのに、紙には書けない。
自分のことになると、言葉が紙へ落ちてくれない。
カイル様は、しばらく黙った。
その沈黙が痛かった。
昨日の沈黙とは違う。
怒りではない。
でも、何かが詰まっている。
謝りたいのか。
止めたいのか。
守りたいのか。
それとも、私を責めているのか。
わからない。
わからないことが、怖い。
私は思わず目を逸らした。
前世の会議室が脳裏をかすめる。
蛍光灯。
冷たい机。
責任者不在の謝罪文。
『ここは一度、謝って収めよう』
『あなたが窓口に立てば、相手も落ち着く』
『会社としては責任を認められない。ただし誠意は見せたい』
誠意。
便利な言葉。
誰かを盾にする時、とてもよく使われる。
私は、自分が握っている赤鉛筆を見た。
この世界に転生しても、呪物は追ってくるらしい。
前世から追ってきた呪物。
謝罪テンプレート。
「リディアさん」
セラさんが、別の紙を差し出した。
「局長室から追加で届きました」
「読みたくないです」
「お気持ちはわかりますが、読む仕事です」
「読む仕事、時々健康に悪いですね」
「だいぶ前からそうです」
私は受け取った。
紙面は整っていた。
嫌な予感しかしない。
『本件については、世論沈静化のため、以下の骨子を推奨する』
一、関係者をお騒がせしたことへの謝意。
二、辺境伯による行為を重く受け止める旨。
三、リディア・ノートン氏と辺境伯との私的関係が職務判断に影響していない旨。
四、今後、外部勢力との接触を慎重に行う旨。
五、王宮広報局の一元的管理体制に従う旨。
私は、声に出さずに読み終えた。
その瞬間、胃の奥が冷たくなった。
この文面は、よくできている。
燃えにくい。
一見、丁寧。
一見、反省している。
一見、何も認めていない。
けれど、読めばわかる。
これを出せば、私は認めたことになる。
カイル様との関係が疑われるほど近いこと。
私の職務判断に問題があった可能性。
外部勢力という言葉で、北方や灯火新聞やエレオノーラ様の協力を危険視すること。
そして最後に、王宮広報局の一元管理に戻ること。
私は喉の奥で笑った。
「すごいですね」
声が乾いていた。
「謝罪文の形をした首輪です」
エレオノーラ様が扇を閉じた。
「見事に上品な鎖ですわね」
灯火新聞の編集長が、紙を覗き込む。
「いやあ、うまいな。腹が立つくらいうまい。読者の半分は『反省した』と読む。残り半分は『やっぱり疑わしい』と読む。どっちに転んでも、あんたの動きは縛れる」
「褒めないでください」
「褒めてない。職人への罵倒だ」
私は紙を置いた。
赤鉛筆を握る。
手が震えていた。
まただ。
自分では震えていないつもりなのに、紙の上の赤い点が小刻みに増えていく。
カイル様の視線が、私の手に落ちる。
気づかれた。
私は反射的に手を机の下へ隠した。
その動きに、自分で傷ついた。
なぜ隠す。
震えているだけだ。
悪いことをしたわけではない。
けれど、見られたくなかった。
弱っているところを。
燃えているところを。
うまく処理できないところを。
「リディア」
カイル様が立ち上がる。
私は顔を上げない。
「休め」
いつもの二文字。
たぶん優しい。
優しいのだと、頭ではわかる。
でも、今はその言葉が痛かった。
「休めません」
「手が震えている」
「知っています」
「なら」
「休んだら、誰が書くんですか」
自分でも驚くほど鋭い声が出た。
カイル様が黙る。
その沈黙が、さらに刺さった。
私は続けてしまった。
「カイル様が書きますか。昨日の件を、あなたの言葉で。私への中傷と、北方の過去と、王宮の責任と、机を割った事実と、全部分けて書けますか」
「……俺は」
そこで止まる。
わかっている。
彼が悪いわけではない。
言葉が出ない人に、今この場で完璧な声明を求める方がひどい。
でも、私の中のどこかが、もう止まらなかった。
「言えないんですよね」
言った瞬間、空気が変わった。
エレオノーラ様が、私を見る。
セラさんの筆が止まる。
カイル様の顔から、少しだけ色が消えた。
私は自分の言葉を聞いた。
しまった。
でも、もう遅い。
言葉は出たら戻らない。
昨日、私はそれを彼に言ったばかりなのに。
「……すみません」
すぐに謝った。
でも謝罪は、出た言葉を消せない。
「今のは、違います。いえ、違わないです。私は今、ひどい言い方をしました」
声が震える。
「あなたが言えないことを知っていて、そこを刺しました」
カイル様は何も言わない。
何も言わないことが、当然だと思った。
私は机の上に両手を置いた。
短い脚の机が、またかたんと鳴る。
「ごめんなさい」
カイル様は、ゆっくり息を吐いた。
「事実だ」
「事実でも、刺していい理由にはなりません」
「俺は、言えない」
低い声だった。
「昨日も、言えなかった」
私は顔を上げた。
カイル様は私を見ていない。
床を見ている。
割れた机が撤去された場所を。
「謝るべきだった」
「机ですか」
「お前に」
胸の奥が痛んだ。
「怖がらせた」
「はい」
「守るつもりだった」
「はい」
「また、言葉の外に出た」
言葉の外。
それは、とても正確な表現だった。
カイル様は、言葉を嫌っているのではない。
言葉に殺されたから、言葉の外へ逃げる。
剣。
拳。
沈黙。
それらは彼にとって、防衛だった。
でも昨日、その防衛が私を怖がらせた。
私は唇を噛んだ。
「……私も、今、言葉で刺しました」
「刺された」
「正直に言わなくていいです」
「事実だ」
「事実でも、もう少し柔らかく」
「無理だ」
「でしょうね」
少しだけ、息が漏れた。
笑いではなかった。
でも、沈黙の中に小さな穴が開いた。
エレオノーラ様が、静かに言う。
「お二人とも、傷口の見せ合いはそのあたりにして、まず紙面に戻りませんこと。血の量で競うものではありませんわ」
「競っていません」
「競い始めそうでしたわ」
否定できない。
私は白紙を見る。
まだ、書けない。
でも、少しだけ呼吸が戻った。
セラさんが冷静に言う。
「まず、出してはいけない文から確認しましょう」
ありがたい。
さすが記録の鬼。
燃える現場において、記録係は酸素である。
「出してはいけない文」
私は赤鉛筆を持ち直した。
「一つ目。『お騒がせしました』」
編集長が頷く。
「便利だが中身がないな」
「はい。誰を騒がせたのか、何が問題だったのかを曖昧にします」
赤で大きく斜線を引く。
「二つ目。『誤解を招いた』」
エレオノーラ様が即座に言う。
「燃料ですわ」
「その通りです」
斜線。
「三つ目。『私的関係はありません』」
カイル様が顔を上げた。
私は紙を見たまま続ける。
「これを強く否定すると、逆に関係の話題が中心になります。しかも、協力関係まで否定するように読まれる」
カイル様は何も言わなかった。
沈黙。
今度の沈黙は、責めているようには見えなかった。
少しだけ、助かった。
「四つ目。『外部勢力との接触を慎重にする』。これは駄目です。灯火新聞、公爵家、北方、商会証言者、全員を危険な外部勢力として扱うことになる」
編集長が苦い顔をする。
「外部勢力ねえ。訂正欄を大きくしたら反体制扱いか」
「王宮から見ると、王宮以外はだいたい外部です」
「視野が狭いな」
「胃にも悪いです」
私は赤を入れ続けた。
入れれば入れるほど、紙は赤くなる。
いつもの作業だ。
いつもの作業なのに、今日は違う。
赤を入れている相手は、私を逃がすための文ではない。
私を縛る文だ。
そして、私が書き直す文は、私自身を守る文でもある。
難しい。
他人を守る文章より、ずっと難しい。
「では、何を書くんですの?」
エレオノーラ様が問う。
私は白紙を見た。
そこに、ようやく一行目が浮かぶ。
謝罪ではない。
説明だけでもない。
訂正だけでも足りない。
まず、分ける。
私がしていない罪には謝らない。
私が傷つけた可能性には向き合う。
カイル様の怒りは、私の言い訳に使わない。
机を割った事実は隠さない。
剣を抜いていない事実も隠さない。
王宮側の処分誘導には乗らない。
北方を盾にしない。
私も盾にならない。
手はまだ震えている。
でも、書き始めた。
『リディア・ノートンより、本日流布している一連の報道および憶測について、確認済みの事実と未確認の情報を分けて説明いたします』
かたん。
机が鳴る。
私は続けた。
『まず、辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン卿が王宮内の会議机を破損したことは事実です。負傷者はありません。剣は抜かれていません』
カイル様が短く息を呑んだ。
私は書く。
『同件について、備品破損の責任および王宮内で周囲に恐怖を与えた可能性については、関係者間で正式に確認し、必要な弁償および説明を行います』
ここまでは書ける。
でも次。
次が難しい。
私は赤鉛筆ではなく、黒インクのペンを握る。
『ただし、本件をもって「北方武力を背景に王宮を操作した」とする見出しは、確認済みの事実を超えています』
少し息を吐く。
『また、リディア・ノートンと辺境伯との協力関係は、北方補助金遅延問題、新聞報道の訂正、公開記録の検証に基づくものであり、王宮職務判断を私的に左右する密約ではありません』
密約。
自分で書いて胃が痛い。
密約などしていない。
していないことを説明するのは、どうしてこんなに苦しいのか。
していない、と言えば言うほど、見出しは濃くなる。
私は手を止めた。
また震えている。
カイル様が一歩、近づいた。
私は反射的に身構える。
彼は、それに気づいた。
気づいて、足を止めた。
その距離が、痛かった。
でも、ありがたかった。
「近づかない」
カイル様が言う。
「今は」
私は喉が詰まった。
「……ありがとうございます」
「言葉が要るなら、言え」
短い。
けれど、逃げていない。
私は少しだけ頷いた。
「では、一つだけ」
「何だ」
「今は、黙ってそこにいてください」
カイル様の目が揺れる。
私は慌てて続けた。
「責めているわけではありません。あなたがいると、怖い部分もあります。でも、いないと、もっと怖いです。だから、そこにいてください。話さなくていいです」
言ってから、顔が熱くなった。
これは声明文ではない。
これは業務上の指示でもない。
私の言葉だ。
未整理。
未確認。
火種不明。
でも、今はそれしか言えなかった。
カイル様は、深く頷いた。
「いる」
それだけだった。
それで十分だった。
私は白紙に戻る。
いや、もう白紙ではない。
震えた文字が、何行も並んでいる。
下手だ。
硬い。
たぶん長い。
読者は三行で寝るかもしれない。
でも、最初の一枚はできた。
その時、外から水晶掲示板の速報を読み上げる声が飛び込んできた。
「新しい記事です!」
若い記者が駆け込んでくる。
顔色が悪い。
彼は紙を差し出した。
そこには、予想より早く、予想より悪い見出しが並んでいた。
『リディア・ノートン氏、謝罪拒否か』
『辺境伯の暴走を沈黙で容認』
『王宮広報局、下級職員の独断に苦慮』
『北方関係者、臨時広報調査室に集結――私的組織化の疑い』
早すぎる。
こちらが何も出す前に、もう「謝罪拒否」になっている。
私は紙を見つめた。
火種が膨れ上がる。
【火種:謝罪拒否印象】
【火種:カイル暴走容認】
【火種:リディア独断】
【火種:私的組織化疑惑】
【火種:王宮広報局との対立強調】
【火種:反王宮勢力化】
手が止まる。
さっきまで書けていた言葉が、急に遠のく。
どうせ何を書いても遅い。
どうせ何を書いても、先に見出しが走る。
どうせ。
その言葉が、頭の中に落ちた。
どうせ。
危険な言葉だ。
人を黙らせる言葉。
私は何度も、誰かにそれを押しつけてきたかもしれない。
どうせ燃えるから、黙っていよう。
どうせ届かないから、言わないでおこう。
どうせ叩かれるから、誰かが謝って終わらせよう。
違う。
そうじゃない。
私はペンを握った。
握ったが、動かない。
動け。
動け。
書け。
いつものように。
いつものように?
違う。
いつものようには、もう書けない。
これは私の炎上だ。
私が逃げたら、誰かの盾になる。
私が何でも謝ったら、していない罪を認める。
私が怒りだけで書けば、証言者も味方も燃やす。
私は、白紙の続きを見た。
文字が滲んでいる。
泣いていない。
たぶん。
いや。
少し、泣いていた。
悔しい。
怖い。
腹が立つ。
前世の会議室の匂いがする。
でも、ここにはセラさんがいる。
エレオノーラ様がいる。
編集長がいる。
灯火新聞の若い記者がいる。
そして、少し離れた場所にカイル様がいる。
黙って。
でも、逃げずに。
私は息を吸った。
「書き直します」
セラさんが頷く。
「はい」
「謝罪文ではなく、説明文でもなく」
私は紙の一番上に、新しい題を置いた。
『確認済みの事実と、未確認の見出しについて』
長い。
地味。
眠い。
でも今は、これでいい。
私は続けて書いた。
『私は、していないことに対して謝罪はしません』
部屋が静まった。
エレオノーラ様が、ほんの少し目を細める。
私はその次に、一行を足す。
『ただし、私たちの対応の中で恐怖を与えた方、不安を強めた方がいるなら、その点については確認し、説明し、必要な責任を取ります』
赤鉛筆ではなく、黒い文字。
震えた文字。
完璧ではない文字。
でも、私の手で書いた文字。
カイル様が、低く言った。
「それでいい」
私は振り向かなかった。
振り向いたら、たぶん書けなくなる。
「まだ初稿です」
「読める」
「辺境伯様基準の読めるは信用できません」
「読んでいる」
「では、寝ないでください」
「努力する」
少しだけ、部屋の空気が緩んだ。
その瞬間、私はわかった。
これは、消火ではない。
自分が燃えている中で、火元を見る訓練だ。
前世でできなかったこと。
今世でも、まだできていないこと。
私は、自分のために文章を書くことに慣れていない。
他人の盾になる文章なら、いくらでも書ける。
王宮のための声明なら書ける。
公爵家のための訂正依頼なら書ける。
神殿への照会文なら書ける。
新聞社への反論なら書ける。
でも、自分を守る言葉は、こんなにも遅い。
こんなにも震える。
こんなにも怖い。
私はペンを進めた。
遅く。
一文字ずつ。
そして最後に、まだ未完成の草案の下へ、小さく書いた。
『これは、私が私を守るための文章でもある』
セラさんが、それを見て筆を止めた。
エレオノーラ様は何も言わなかった。
カイル様も黙っていた。
でも、その沈黙は、さっきより少しだけ優しかった。
外ではまだ、私の名前が燃えている。
水晶掲示板では、きっと今も新しい見出しが流れている。
悪女。
魔女。
情報統制官。
王宮を操る下級広報官。
北方武力を背景にした女。
燃えている。
私が燃えている。
だから私は、ようやく白紙の上に向き直った。
自分の炎上対応は、想像以上に難しい。
でも。
私の謝罪文を、他人に書かせるわけにはいかなかった。




