民衆は悪役を求めている
演説会場には、まだ壇が組まれていなかった。
けれど、火はもう組み上がっていた。
西広場の中央には、木材が積まれ、布幕が張られ、王太子ルーファス殿下の紋章入りの旗が何本も立てられている。
その周囲では、商人が焼き菓子を売り、辻説法師が声を張り上げ、子どもたちが人混みの隙間を駆け抜けていた。
祭りに見える。
だが、祭りではない。
人々の顔にあるのは期待で、熱で、不満で、そして少しの怒りだった。
「ずいぶん盛り上がっていますね」
私は広場の端で、胃薬の小瓶を握った。
念のためである。
最近の念のためは、だいたい本番になる。
セラさんが横で帳面を開いた。
「集会前日でこの人数なら、当日は倍以上ですね」
「倍」
「はい」
「胃薬も倍必要ですね」
「そこから計算します?」
「現実逃避です」
王太子派の街頭演説は、すでにあちこちで始まっていた。
正式な大演説は明日。
けれど、その前に王太子派の貴族、商会、新聞社の周辺人物たちが、空気を作っている。
昨日見た言葉が、今日も飛んでいる。
「迷いのない王を!」
「弱い謝罪より、強い決断を!」
「王宮を変えるのは、机に隠れた役人ではない!」
机に隠れた役人。
私は思わず周囲を見回した。
机はない。
隠れられない。
つまり、私は今、とても危険な状態にある。
カイル様が低く言った。
「下がれ」
「まだ危険と決まったわけでは」
「見られている」
言われて、気づく。
こちらを見ている視線がある。
敵意ばかりではない。
好奇心。
警戒。
不信。
そして、期待。
何か言うのではないか。
何か止めるのではないか。
また王太子殿下の前に出て、あの一言を言うのではないか。
その期待が、怖かった。
最初の婚約破棄会見で、私は言った。
――殿下、その発言は国が燃えます。
あの時は、燃える発言を止めた。
けれど今、王都の一部はそれを“王太子を止めた女”として覚えている。
称賛ではない。
怒りの置き場所として。
「王宮広報の女だ」
誰かが言った。
小さい声だった。
だが、群衆の中で小さい声は、火花になる。
「殿下を止めたやつか」
「新聞社にも口出ししたって」
「民の演説まで止める気じゃないだろうな」
「王宮の都合が悪いからだろ」
私は息を整えた。
反論したい。
今すぐ言いたい。
演説を止めたいのではない。
切り抜きと誘導を警戒しているのだ。
民の声を黙らせたいのではない。
むしろ返事を出させたいのだ。
だが、ここで長々説明すればどうなるか。
【火種:民意への説教印象】
【火種:王宮側の言い訳】
【火種:演説妨害疑惑拡大】
【火種:リディア敵役化】
火種が、視界の端で揺れる。
私は唇を閉じた。
黙るのも、仕事だ。
つらい。
広報官の本能が、全力で訂正文を出したがっている。
エレオノーラ様が扇を開いた。
「悪役候補としては、なかなかの滑り出しですわね」
「滑り出したくありません」
「悪役は選べませんもの。与えられる役ですわ」
「返品できますか」
「たいてい、受領印を押していなくても配達完了扱いですわ」
嫌な制度だ。
私は胃薬を見た。
悪役配達完了。
胃に悪すぎる。
広場の中央では、王太子派の若い貴族が木箱の上に立っていた。
見覚えがある。
王宮の舞踏会で、何度かルーファス殿下の後ろにいた男だ。
彼はよく通る声で言った。
「王都の皆さま! いま必要なのは、迷いなき決断です! 長い会議、長い声明、長い確認中。それらが何を生んだでしょうか!」
群衆がざわめく。
「遅れた補償!」
「上がる税!」
「夜道の不安!」
言葉が返る。
用意されている。
だが、全部が作り物ではない。
補償は本当に遅れている。
税は本当に重い。
夜道の治安も、場所によっては悪い。
だから厄介だった。
嘘だけなら切れる。
本物の怒りを含んだ言葉は、雑に切れば人を傷つける。
若い貴族は声を張った。
「その間、王宮の中で言葉を整えていた者たちは、民の暮らしを見ていたのでしょうか!」
視線が、こちらへ来た。
まっすぐ。
刃物のように。
私は肩を固くした。
セラさんが小声で言う。
「名指しはしていませんね」
「はい」
「ですが、全員わかっていますね」
「はい」
「最悪ですね」
「はい」
若い貴族は続けた。
「殿下は違います! 殿下は民の前に立ちます! 民の声を恐れません!」
拍手が起きる。
私はその拍手を聞きながら、少しだけ胸が痛んだ。
民は、返事を求めている。
誰かが前に出てくれることを求めている。
たとえ、その誰かがルーファス殿下でも。
たとえ、その背後でベルクが原稿を整えていても。
期待は本物だ。
そして、本物の期待は、裏切られた時によく燃える。
カイル様が低く言った。
「殴るか」
「だめです」
「まだ何も言っていない」
「言いました」
「比喩だ」
「最近の比喩、全部拳が見えます」
カイル様は不満そうに黙った。
その沈黙の横で、エレオノーラ様が広場を見つめている。
彼女の横顔は静かだ。
背筋は伸び、扇の角度も完璧。
公爵令嬢として、寸分の乱れもない。
だからこそ、私はふと思った。
この人は、何回こういう視線の中に立ってきたのだろう。
悪女。
悪役令嬢。
冷たい女。
泣かない女。
便利な名前を貼られて、そのたびに姿勢を正してきたのだろうか。
「エレオノーラ様」
「何かしら」
「悪役にされた時は、どうすればいいんですか」
軽い口調で聞いたつもりだった。
けれど、声が少し硬かった。
エレオノーラ様は私を見た。
青い瞳が、ほんのわずかに柔らかくなる。
それから、いつものように微笑んだ。
「悪役初心者のあなたに助言します」
「はい」
「まず姿勢よく立つこと」
「そこからですか」
「そこからですわ」
私は思わず背筋を伸ばした。
「こうですか」
「肩が上がっています」
「緊張しているので」
「悪役は緊張しても肩を上げません」
「悪役、身体管理が厳しい」
「視線を逃がさないこと」
「それは難しいです」
「逃げると、罪を認めたように見えますわ」
「見た目の問題ですか」
「世間は、見た目から物語を作ります」
エレオノーラ様は扇の先で、広場を示した。
「泣けば、弱い被害者。泣かなければ、冷たい悪女。怒れば、傲慢。黙れば、図星。笑えば、反省なし。どれを選んでも見出しになります」
「救いがありません」
「ですから、せめて自分の姿勢だけは自分で選ぶのです」
それは冗談の形をしていた。
でも、中身は冗談ではなかった。
私は返事を探した。
いつものように、少し面白い返しを。
胃薬とか、見出しとか、炎上とか。
けれど、その奥にあるものを聞く勇気が出なかった。
あなたは、どれだけ傷ついたのですか。
誰にも聞かれないまま、どれだけ姿勢よく立っていたのですか。
その言葉が喉まで来て、止まる。
聞けばいいのに。
聞けない。
今この場で聞くには、あまりに人が多すぎる。
そして、私はまだ彼女の沈黙に踏み込む資格があるのか、わからなかった。
だから私は、逃げるように言った。
「では、胃薬を飲む時も姿勢よくします」
エレオノーラ様は一拍置いてから、笑った。
「それは悪役ではなく重症患者ですわ」
その笑いは美しかった。
けれど、本当に笑っているかはわからなかった。
広場の向こうで、新たな声が上がった。
「では、王宮を止めているのは誰だ!」
別の演説者だ。
今度は商会関係者らしい。
声が太く、言葉がわかりやすい。
「税が高いのは誰のせいだ!」
「貴族!」
「補償が遅いのは誰のせいだ!」
「王宮!」
「殿下の決断を邪魔するのは誰だ!」
一瞬、空気が揺れた。
誰かが答える。
「公爵家!」
別の声。
「聖女を利用した神殿!」
また別の声。
「新聞を操る広報官!」
私の背中に、冷たいものが走った。
名前がなくても、わかる。
広場の言葉が、三つの悪役を探している。
エレオノーラ。
ミリア。
リディア。
王太子派は、順番に敵を差し出している。
複雑な問題を、三人の女の物語に変えている。
公爵令嬢が高慢だったから。
聖女候補が騒ぎを起こしたから。
下級広報官が王宮を操ったから。
そうすれば、税の遅れも、補償の不備も、王宮の無応答も、新聞社の金の流れも、全部見えにくくなる。
人は、複雑な火元より、燃やしやすい人影を探す。
その方が、怒りを投げやすいから。
私は拳を握った。
「……未確認情報で人を殴らないでください」
声は小さかった。
自分に言ったのか、群衆に言ったのか、わからなかった。
カイル様がこちらを見た。
「言うか」
「今は言いません」
「なぜ」
「今言えば、私が“民に説教する王宮の女”になります」
私は広場を見た。
「でも、記録します」
セラさんがすでに筆を走らせていた。
「発言者、場所、周囲の反応、記録中です」
「ありがとうございます」
「胃薬の残量も記録しますか」
「それは後世に残さなくていいです」
そこへ、灯火新聞の若い記者が息を切らして走ってきた。
「リディアさん!」
「何か出ましたか」
「大手三紙が夕刊の予告を出しました」
彼は紙を差し出す。
見出し案が並んでいた。
『殿下演説へ高まる民意、王宮内部に慎重論』
『公爵家、元聖女、広報官――混乱を招いた者たち』
『民は問う、誰が決断を妨げるのか』
私は紙を見つめた。
ひどい。
だが、上手い。
三つ並べることで、個別の事情を消している。
エレオノーラ様の婚約破棄被害。
ミリアの神殿管理。
私の広報対応。
全部を“混乱を招いた者たち”にまとめる。
便利な袋詰めだ。
中身が人間であることを除けば。
火種が浮かぶ。
【火種:三者悪役固定】
【火種:女性責任論】
【火種:王太子免責】
【火種:民衆怒り転嫁】
【火種:リディア個人攻撃準備】
私は深く息を吐いた。
「灯火新聞で、先に検証記事を出せますか」
若い記者は顔をしかめた。
「出せます。でも、読まれるかどうかは」
「見出しを強くします」
私は紙の裏に走り書きした。
『怒りの矛先は誰が決めているのか』
少し考えて、線を引く。
硬い。
眠い。
でも、煽りすぎるとまた傷つける。
私はもう一案を書く。
『悪役を探す前に、未回答の苦情を読んでください』
若い記者が覗き込む。
「少し長いです」
「わかっています」
「でも、言いたいことはわかります」
「では、短く」
私は赤鉛筆を握った。
『悪役探しで、苦情は消えない』
火種が揺れる。
【火種:王太子派反発】
【火種:民衆批判印象】
【火種:広報官上から目線】
【火種:悪役候補の自己弁護】
それでも、許容範囲。
私は頷いた。
「これでお願いします。本文では、税、治安、補償遅延の苦情が本物であることを必ず先に書いてください」
「王太子派の誘導より先に?」
「はい。民の不満を偽物扱いしないでください」
若い記者は真剣に頷いた。
「わかりました」
「その上で、怒りが個人攻撃へ流されている構造を書きます」
「名前は?」
「エレオノーラ様とミリア様については、過去記事へのリンクと事実整理のみ。私については……」
言いかけて、止まる。
自分のことになると、火種が見えにくい。
私は少し迷った。
カイル様が言った。
「書け」
「ですが」
「隠すと書かれる」
短い。
その通りだ。
私は頷いた。
「私についても、確認済みの行動だけを記載してください。評価語は不要です」
エレオノーラ様が扇を閉じた。
「悪役初心者にしては悪くありませんわ」
「褒められています?」
「姿勢はまだ少し硬いです」
「姿勢の査定が続いている」
「悪役道は一日にして成らず、ですわ」
「成りたくありません」
その時、広場の一角で歓声が上がった。
掲示板の水晶が更新されたのだ。
誰かが大声で読み上げる。
「王太子殿下、演説で“自らの言葉の責任”に触れる見込み!」
「おお!」
「やっぱり殿下は変わった!」
「王宮の中で邪魔されても話すんだ!」
私は目を閉じた。
昨日、殿下が書き足した一文。
『私は、私の言葉で人を傷つけたことがある』
その気配が、もう漏れている。
そして、“反省”ではなく“変わった殿下”として使われ始めている。
早すぎる。
誰が流した?
いや、答えはほぼ見えている。
ベルクだ。
反省の一文すら、人気上昇の材料にする。
見事だ。
最低だ。
「リディア様」
エレオノーラ様が静かに呼んだ。
「はい」
「あなた、怒っていますわね」
「はい」
「それは良いことです」
「良いんですか」
「悪役にされると、傷つく前に怒った方が立っていられる日があります」
私は彼女を見た。
その言葉は、軽口ではなかった。
エレオノーラ様は広場を見たまま続ける。
「怒りは、品よく隠せば刃になります。隠しすぎると、自分の中を傷つけます」
「エレオノーラ様は」
そこまで言って、私は止まった。
あなたは、隠しすぎていませんか。
聞けなかった。
聞くべきだったのかもしれない。
でも、聞けなかった。
エレオノーラ様は、私が飲み込んだ言葉に気づいたようだった。
けれど、何も言わない。
代わりに、いつもの微笑みを浮かべた。
「まず姿勢よく」
「はい」
「次に、視線を逃がさず」
「はい」
「最後に、相手の台本を読んでから壊す」
「急に物騒になりましたね」
「悪役ですもの」
「本当に悪役にならないでください」
「善処しますわ」
「善処は燃えます」
「では、努力します」
私は少しだけ笑った。
笑えたことに、自分で驚いた。
その夜、灯火新聞は小さな号外を出した。
『悪役探しで、苦情は消えない』
本文では、王太子派集会に集まった民衆の不満を先に書いた。
税が重いこと。
補償が遅れていること。
治安への不安。
王宮が返事をしてこなかったこと。
その上で、怒りが個人攻撃へ誘導されている構造を示した。
名前を出す時は、確認済みの事実だけにした。
エレオノーラ・グランフェルトは、婚約破棄会見で侮辱を受けた当事者。
ミリア・セレスは、神殿広報に管理され、現在も保護手続き中の元聖女候補。
リディア・ノートンは、王宮広報局の元職員であり、現在は臨時調査室で記録検証に携わる者。
飾らない。
守りすぎない。
悪役にも、聖女にも、英雄にも寄せない。
ただ、事実に戻す。
号外は、すぐに読まれた。
そして、すぐに燃えた。
『またリディア・ノートンか』
『自分が悪役扱いされたくないからって民の怒りを分析するな』
『正しいこと言ってる風なのが腹立つ』
『でも税と補償の話は本当だろ』
『だからこそ殿下が必要なんだろ』
『公爵令嬢と元聖女と広報官、結局みんな王宮側じゃん』
『悪役探しと言いながら王太子派を悪役にしてない?』
私は水晶掲示板を見つめた。
胃の奥が重い。
予想通りだ。
でも、予想していても痛いものは痛い。
火種感知は、自分に向いた火に鈍い。
それでも、いくつかは見える。
【火種:リディア自己弁護印象】
【火種:民衆見下し疑惑】
【火種:王太子派反発】
【火種:個人攻撃拡大】
セラさんが隣で言った。
「中火ですね」
「火力表示をやめてください」
「すみません。癖で」
「職業病が悪化しています」
カイル様が水晶掲示板の前に立った。
無言で、私と画面の間に入る。
以前も、似たようなことがあった。
私に見せたくない言葉を、彼は身体で遮る。
私は少しだけ息を吐いた。
「見えません」
「見なくていい」
「仕事です」
「今は、俺が見る」
短い。
不器用。
でも、今は少しだけありがたかった。
エレオノーラ様が椅子に腰かけ、静かに言った。
「悪役初心者としては、初日からなかなか盛大に燃えましたわね」
「採点しないでください」
「六十点」
「意外と高い」
「姿勢は改善しました。けれど、表情が少し正直すぎますわ」
「顔にも赤字が入るんですか」
「入れたいですわ」
私は思わず笑った。
次の瞬間、部屋の水晶が鳴った。
灯火新聞からの緊急連絡だった。
若い記者の声が震えている。
『リディアさん、大手紙が明朝の見出しを出しました』
「読み上げてください」
『はい』
少し間があった。
そして、彼は言った。
『王宮を操る下級広報官、過去と身元に疑惑』
部屋が静まった。
私の手から、赤鉛筆が落ちた。
乾いた音がした。
水晶の向こうで、記者が続ける。
『副題は――』
聞きたくなかった。
けれど、聞かなければならない。
『“炎上を止める女”か、“炎上を作る女”か』
視界の端で、火種が弾けた。
【火種:リディア過去詮索】
【火種:身元疑惑】
【火種:王宮操作説】
【火種:炎上魔女化】
【火種:個人攻撃本格化】
私は落ちた赤鉛筆を拾おうとした。
けれど、指が少し震えていた。
エレオノーラ様が、私の代わりに拾った。
そして、何も言わずに差し出す。
私は受け取った。
「……悪役初心者、二日目ですね」
声が、思ったより乾いていた。
エレオノーラ様は微笑まなかった。
ただ、静かに言った。
「いいえ」
私は顔を上げる。
「ここからは、あなた自身の炎上ですわ」
その言葉は、どんな見出しよりも静かに刺さった。
明日の朝、私は悪役ではなく、火元として紙面に載る。




