ルーファス殿下、担がれる
王太子殿下が担がれている。
比喩である。
たぶん、まだ物理ではない。
ただし、最近の王都の熱量を見る限り、うっかりすると本当に神輿の上に乗せられかねない。
しかも殿下は、乗せられたら手を振る。
その姿が容易に想像できるあたり、胃に悪い。
「大演説、ですか」
私は臨時広報調査室、通称・胃痛同盟の机で、宰相府から届いた正式通知を見下ろしていた。
机の上には、昨日の西広場で集めた紙片がまだ積まれている。
『迷いのない王が、返事のない王宮を変える』
『謝罪で針は買えない』
『確認中で薬は買えない』
『優しい王宮より、守る王を』
どれも短い。
覚えやすい。
そして、痛みを踏んでいる。
痛みを踏まれた民衆は怒る。
その怒りの向きが、王太子殿下へ集められていた。
不思議な話だ。
婚約破棄会見で国を燃やしかけた人が、今は“王宮を変える強い王”として担がれている。
世論とは、時に記憶喪失になる。
しかも都合のいい方向へ。
セラさんが通知文を読み上げた。
「『王太子ルーファス殿下による民向け大演説は、民意の高まりを受け、明後日午後、西広場にて実施予定』……明後日?」
「はい。明後日です」
「胃薬を発注する時間もありませんね」
「そこが問題の本質ではありませんが、重大ではあります」
エレオノーラ様は窓辺で茶杯を手にしていた。
ただし、口をつけていない。
最近、その癖に気づいてから、私は少し気になっている。
けれど、聞かない。
聞くべき言葉を選べない時は、黙ることも必要だと、最近ようやく学びつつある。
「ベルク様が原稿を整えるのでしょう?」
エレオノーラ様が静かに言った。
「通知には、そうあります」
私は文面の末尾を指で押さえた。
『演説原稿案については、宰相補佐ベルク・アインハルトが調整に協力する』
協力。
便利な言葉だ。
責任の所在をぼかしつつ、関与を美しく見せる。
私はその一文を見つめた。
「ベルク様の文章は、燃えにくいです」
認めたくないが、事実である。
彼の文は美しい。
論理が滑らかで、敵意を礼儀で包む。
火種を小さく見せながら、導きたい場所へ人の視線を運ぶ。
腹立たしいほど上手い。
カイル様が腕を組んだ。
「なら燃やせ」
「文章を?」
「書いた者を」
「物理は禁止です」
「比喩だ」
「最近、比喩が物理寄りです」
カイル様は少しだけ不満そうに黙った。
そこへ、灯火新聞の編集長マーサさんが原稿の写しを持って入ってきた。
相変わらず扉を蹴る勢いで開ける。
扉に罪はない。
「手に入ったよ」
「何がですか」
「王太子殿下の演説原稿、初稿」
部屋の空気が変わった。
私は立ち上がる。
「どうやって」
「記者に情報源を聞くもんじゃない」
「それはわかっていますが、法的に危なくない範囲ですか」
「たぶん」
「たぶんで胃を刺激しないでください」
マーサさんは鼻で笑い、紙束を机に置いた。
私はそれを受け取る。
表題はこうだった。
『民と共に歩む、新しき決断の王宮へ』
美しい。
嫌なほど、美しい題だ。
私は本文を読み始めた。
『王都の民よ。私は今、あなた方の声を聞いている』
火種は、まだ弱い。
『針を買えぬ職人の嘆き、薬を待つ退役兵の苦しみ、夜道に怯える母の声。それらを、私は王宮の壁の内からではなく、民の広場で受け止めたい』
西広場の声が、そのまま使われている。
正確に。
巧妙に。
名前はない。
けれど痛みの種類は残してある。
『謝罪だけでは暮らしは守れない。確認中という言葉では命は救えない』
私は息を詰めた。
上手い。
悔しいほど上手い。
あの場にいた民衆は、この一文を聞いたら頷く。
自分たちの声を拾ってくれたと思う。
だが、その次が問題だった。
『ゆえに、私は迷わず決断する王でありたい』
来た。
怒りを受け止めたように見せて、王太子殿下個人の人気へ流している。
王宮への無応答。
行政の遅れ。
神殿の不透明さ。
新聞社の誤報。
商会の横暴。
全部を“迷わぬ王太子”の物語へまとめている。
見事すぎて気持ち悪い。
私は赤鉛筆を取った。
【火種:王太子美化】
【火種:王宮責任の個人英雄化】
【火種:強権待望】
【火種:謝罪軽視】
【火種:未回答苦情の政治利用】
火種が浮かぶ。
けれど、不思議なことに爆発的ではない。
燃えにくい。
怒りの出口を用意しているからだ。
私は唇を噛んだ。
「……悔しいほど上手い」
セラさんが横から覗き込む。
「本当に悔しそうですね」
「はい。悔しいです。これ、王太子殿下の自作演説よりずっと燃えません」
「比較対象が可燃物すぎます」
「それはそうです」
カイル様が原稿を睨む。
「燃えないなら、なぜ止める」
「燃えないから危ないんです」
私は紙を机に置いた。
「露骨な失言なら止められます。火種が大きいから。でも、これは民衆の本物の怒りを拾っています。言っていることの一部は正しい。だから届きます」
「正しいなら、いいのではないか」
「違います」
私は首を振った。
「痛みを聞くことと、痛みを自分の旗に縫いつけることは違います」
カイル様は黙った。
その沈黙は、考えている沈黙だった。
私は続ける。
「この原稿は、民の苦情に返事をしていません。殿下の人気に変換しています」
「返事ではない」
「はい。拍手をもらうための受け皿です」
エレオノーラ様が扇を閉じた。
「よくできた舞台ですわね。客席の怒りを主人公の登場音にしている」
「まさにそれです」
マーサさんが肩をすくめる。
「ただ、客はそれを望んでる。そこを忘れると足をすくわれるよ」
「わかっています」
「わかってても、やるんだね」
「はい」
私は原稿を持ち上げた。
「止めます」
その時、扉の外が騒がしくなった。
「通せ! 私は王太子だぞ!」
全員が同時に沈黙した。
よりにもよって。
噂をすれば本人。
しかも声が大きい。
次の瞬間、扉が開いた。
王太子ルーファス殿下が入ってくる。
護衛と側近が青い顔で後ろに控えている。
殿下は、明らかに上機嫌だった。
非常にまずい。
王太子殿下が上機嫌な時は、だいたい国が燃える。
「リディア・ノートン! 聞いたぞ。そなたが私の演説に難癖をつけているそうだな」
「難癖ではありません。危機評価です」
「同じだ」
「全然違います」
殿下は胸を張った。
「民は私を求めている」
私は一瞬、言葉に詰まった。
それを自分で言うと、一気に安くなる。
「殿下」
「何だ」
「その認識は、慎重に扱ってください」
「なぜだ。掲示板にも新聞にも書かれている。西広場でも民が私の名を呼んでいたそうではないか」
「民が呼んでいるのは、返事です」
殿下が眉を寄せる。
「返事?」
「はい。税への返事。治安への返事。補償遅延への返事。王宮が放置してきた苦情への返事です」
「だから私が答える」
「答える内容が必要です」
私は原稿を差し出した。
「この原稿は、民の声を殿下の決断力に変換しています。けれど具体的な対応がありません」
「あるだろう」
「どこにですか」
「迷わず決断する、と書いてある」
「それは姿勢です。政策ではありません」
殿下は少しむっとした。
側近が小さく震える。
セラさんが、胃薬の瓶をそっと机の端に移動させた。
いつでも飲める位置だ。
ありがたいが、不吉である。
「私は弱い王ではないと示さねばならない」
「謝る王が弱いとは限りません」
「だが民は、謝罪では腹が膨れぬと言っている」
「その通りです」
私が認めると、殿下は少し驚いた顔をした。
「その通りなのか?」
「はい。謝罪だけでは足りません」
「ならば――」
「ですが、謝罪が不要という意味ではありません」
私は一歩踏み込んだ。
「傷つけた事実を認めずに決断だけを振り回せば、それは救済ではなく命令です」
「命令は王族の仕事だ」
「返事も王族の仕事です」
その場が少し静かになった。
殿下の顔から、上機嫌がわずかに薄れる。
「返事……」
「民は、殿下に拍手したいだけではありません。自分の苦情が聞かれたのか知りたいんです」
「私は聞いている」
「では、名前を呼べますか」
殿下は黙った。
私は西広場の紙片を一枚出す。
「針を買えない仕立屋の親方。補償金が遅れた退役兵。商会の荷馬車事故で弟を怪我させられた女性。殿下は、この人たちに何と返事をしますか」
王太子殿下は、紙片を見た。
そして、答えられなかった。
その沈黙は、いつもの傲慢な沈黙ではない。
少しだけ、困惑している。
自分が持ち上げられている声の中に、具体的な誰かがいると、今初めて気づいたような顔だった。
私はそこで攻めすぎないように息を整えた。
ここで詰めすぎれば、殿下は反発する。
第五話の赤字火葬を忘れてはいけない。
正しさは、時々、人を意固地にする。
「殿下。演説をするなら、最低三つ入れてください」
「三つ?」
「一つ、王宮が返事をしてこなかった事実への言及。二つ、具体的な苦情への対応窓口と期限。三つ、殿下ご自身が過去に言葉で人を傷つけた責任」
殿下の顔が固まった。
「最後は不要だ」
「必要です」
「私は今、民に求められている」
「だからこそ必要です」
「なぜだ」
「担がれている時ほど、自分の足元を見ないと落ちます」
殿下は顔を赤くした。
「私は担がれてなどいない!」
全員が沈黙した。
いや、担がれています。
かなりしっかり担がれています。
しかも装飾付きです。
口に出したら燃えるので、言わない。
カイル様が低く呟いた。
「神輿だな」
「カイル様」
「物理ではない」
「比喩でも今はやめてください」
殿下がカイル様を睨んだ。
「辺境伯。そなたも私を侮るか」
「担がれている者は、上からは周囲が見えない」
カイル様の声は短い。
けれど、不思議と刺さった。
殿下は言い返しかけて、止まった。
自分の視界。
上に乗せられた者の視界。
少しだけ、考えたのかもしれない。
その時、静かな拍手が聞こえた。
扉の向こう。
ベルク・アインハルトが立っていた。
いつからいたのか。
きれいな笑みを浮かべている。
「実に有意義な意見交換ですね」
私は胃が冷えた。
礼儀正しい毒ガス、入室。
「ベルク様」
「リディア様。演説原稿へのご懸念、拝聴いたしました」
「では修正を」
「もちろん、検討いたします」
出た。
検討。
確認中と並ぶ、責任を眠らせる言葉。
ベルクは王太子殿下へ向き直った。
「殿下。リディア様のご指摘は一理あります。民の声への具体的な応答を入れることは有効でしょう」
殿下が少し得意げになる。
「そうだろう。私は民へ応える」
「はい。ただし、演説は長すぎても届きません。民が求めているのは、細かな制度説明ではなく、殿下の決意です」
私は眉を寄せた。
まただ。
事実を一部認めながら、結論を戻す。
とても上手い。
ベルクは続ける。
「責任への言及も必要でしょう。しかし、今この場で過去の失態を大きく取り上げれば、民の期待に水を差します」
「過去の失態ではありません。現在の信用問題です」
「信用は、未来の行動で回復できます」
「過去を曖昧にした未来は、また燃えます」
ベルクは微笑んだ。
「燃える、ですか。リディア様は本当に火を見るのがお上手です」
「消す仕事ですので」
「ですが、時には火を怖がりすぎると、民が暖を取る場所まで奪います」
嫌な言い方だ。
暖。
希望。
民は王太子殿下に希望を見ている。
だから、それを消すな。
そう言いたいのだ。
けれど、その希望が誰かに作られた誘導なら?
それでも希望には違いないのか?
私は一瞬、返事が遅れた。
ベルクの目が細くなる。
その遅れを見逃さない人だ。
「殿下」
ベルクは王太子殿下へ一枚の紙を差し出した。
「こちらが修正案です」
「もうあるのか」
「必要になると思いましたので」
準備がいい。
嫌になるほど。
王太子殿下は紙を受け取り、読み始めた。
私は横から目を走らせる。
修正案には、私が求めた要素が入っていた。
ただし、形を変えて。
『王宮が返事を遅らせた事実を、私は重く受け止める』
王宮が。
私は、ではない。
『今後、民の声へより迅速に応じる仕組みを整える』
仕組み。
期限なし。
担当なし。
『過去の混乱を越え、私は迷わず民のために決断する』
過去の混乱。
誰の責任か不明。
そして最後は、また決断。
私は頭痛がした。
「……燃えにくいですね」
思わず呟いた。
ベルクが微笑む。
「恐縮です」
「褒めていません」
「存じております」
本当に腹立たしい。
王太子殿下は修正案を読みながら、少し顔を輝かせた。
「これならよい。私が民を思っていると伝わる」
伝わる。
確かに伝わる。
でも、何が?
民への返事ではない。
殿下の善意の印象だ。
「殿下、そのままでは」
「もうよい、リディア・ノートン」
殿下は私を遮った。
その顔には、先ほどの困惑がまだ少し残っている。
けれど、ベルクの原稿がその困惑を美しく包んでしまった。
美しい言葉は、人に考える痛みを忘れさせる。
「私は民の前で話す。逃げぬ。黙って支持が上がるなどという卑怯な真似はしない」
それは、ほんの少しだけ本音に聞こえた。
私は止まった。
殿下は続ける。
「私は確かに間違えた。婚約破棄の場でも、エレオノーラにも、民にも。だが、今、民が私の声を求めているなら、私は話す」
下手だ。
危うい。
自分中心だ。
でも、原稿より生きている。
ベルクの笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
私はそれを見逃さなかった。
王太子殿下は原稿へ視線を戻す。
「この一文を入れる」
殿下は自分で余白に書き足した。
『私は、逃げずに話す。たとえ下手でも、私の言葉で』
部屋が静まり返った。
私はその一文を見た。
火種が浮かぶ。
【火種:失言誘発】
【火種:率直さ過剰評価】
【火種:台本逸脱】
【火種:王太子美化加速】
けれど同時に、別の何かがあった。
火種ではない。
小さな、生の声。
ベルクの原稿にはなかった揺れ。
民衆は、これに反応する。
たぶん。
空虚な美文より、下手な本音の方が届く瞬間がある。
それは危険だ。
でも、完全に否定できない。
「殿下」
私はゆっくり言った。
「それを入れるなら、その前に一文必要です」
「何だ」
「『私の言葉で人を傷つけたことがある』」
殿下の顔が歪んだ。
「またそれか」
「はい。またです」
「私は民を励ます演説をするのだ」
「励ますために、まず自分の言葉の危うさを認めてください」
殿下は沈黙した。
部屋の空気が重い。
ベルクは何も言わない。
言わないことで、殿下がどう転ぶか見ている。
嫌な沈黙だ。
やがて、殿下はペンを握った。
そして、ひどく乱れた文字で書いた。
『私は、私の言葉で人を傷つけたことがある』
私は息を止めた。
下手な字。
不格好な一文。
でも、逃げていない。
少なくとも、この瞬間だけは。
エレオノーラ様が窓辺で紙を見つめていた。
何も言わない。
表情も動かさない。
けれど、茶杯を持つ指がわずかに白くなっていた。
その一文は、彼女にも刺さる。
私は何も言わない。
言えば、今は余計になる。
ベルクが静かに口を開いた。
「殿下、その一文は印象上、危険です」
「危険か」
「はい。弱さと取られる可能性があります」
殿下は紙を見た。
そして、少しだけ笑った。
「なら、民は私を弱いと思うかもしれんな」
私は思わず殿下を見た。
殿下は続ける。
「だが、言わぬまま強いふりをするのは……少し、違う気がする」
その言葉は、上手くない。
きれいでもない。
でも、ベルクの文章より、ほんの少しだけ真実に近かった。
ベルクは微笑んだ。
「承知いたしました。では、その方向で調整を」
調整。
また整える気だ。
私はすぐに言った。
「その一文は残してください。句読点も、言い回しも、そのまま」
ベルクの視線が私へ向く。
「読みやすさを整えるだけです」
「整えた瞬間、殿下の言葉ではなくなります」
ベルクは微笑んでいる。
でも、目が笑っていない。
「リディア様は、言葉をそのまま出す危険をご存じでしょう」
「存じています」
「ならば」
「それでも、本人の不格好さまで削るべきではありません」
私は王太子殿下を見た。
「殿下。この一文は燃えるかもしれません」
「おい」
「ですが、削ればもっと悪い形で燃えます」
殿下は複雑な顔をした。
「そなたは本当に、褒めるのが下手だ」
「炎上対応係ですので」
「関係あるのか」
「あります。たぶん」
殿下は紙を胸に抱えた。
「演説は行う」
「止めます」
「止められぬ」
「止めます」
「私は王太子だ」
「存じております」
「ならば退け」
「退きません」
その瞬間、火種が視界に走った。
【火種:王太子演説強行】
【火種:リディア妨害者印象】
【火種:民意軽視】
【火種:王太子派反発】
【火種:ベルクによる構図化】
ベルクの望む構図が見えた。
民に求められる王太子。
それを止める下級広報官。
民の怒りを理解しない王宮側の女。
わかりやすい。
とても燃えやすい。
私は歯を噛みしめた。
ここで強く止めれば、私は“民意を妨害する者”になる。
でも、止めなければ、演説は王太子人気をさらに押し上げる。
しかも、本物の不満を燃料にして。
「リディア」
カイル様の声がした。
短い。
低い。
けれど、私を止める声ではない。
「火元を見る」
私は息を吸った。
そうだ。
今の火元は、演説そのものではない。
民の怒り。
返事のなさ。
そして、それを王太子へ流す仕組み。
演説を止めるだけでは、火は消えない。
むしろ、別の形で燃える。
私は王太子殿下を見た。
「殿下。演説をなさるなら、条件があります」
「条件?」
「演説の全文を事前公開してください」
ベルクの眉がわずかに動いた。
「事前公開は、演説効果を弱めます」
「切り抜きを防ぎます」
「民は全文を読みません」
「要点整理版も出します」
「それでは演説の熱が失われる」
「熱だけで国を動かす方が危険です」
私は続けた。
「さらに、演説後に苦情受付の公開窓口を設けます。期限も明示します。殿下の言葉を拍手で終わらせません」
王太子殿下は嫌そうな顔をした。
「事務処理が増える」
「返事をするとは、そういうことです」
「私は演説を――」
「演説だけなら誰でもできます」
少し言いすぎた。
殿下の眉が跳ねる。
でも、もう引けない。
「返事をするなら、演説後が本番です」
沈黙。
殿下は私を睨んだ。
睨んだまま、少しだけ目を逸らした。
「……検討する」
「殿下、その言葉は燃えます」
「では、考える」
「期限は」
「明日の朝までに返事をする」
私は頷いた。
「承りました」
期限付きの返事。
小さい。
でも、今の殿下にしては大きい。
ベルクは微笑んでいた。
「よろしいかと。民も、殿下が対話へ開かれていると感じるでしょう」
また、美しく包んだ。
腹が立つ。
けれど、今はそれを利用するしかない。
王太子殿下が部屋を出る時、ふと足を止めた。
そして、エレオノーラ様を見た。
彼女は窓辺に立ったまま、静かに視線を返す。
殿下は何か言いかけた。
けれど、言えなかった。
今はまだ。
彼は不格好に頭を下げるでもなく、言葉を飲み込むでもなく、ただ曖昧に立っていた。
私は思った。
この人は、まだ責任の取り方を知らない。
でも、初めて知らないことに気づきかけている。
それは救いではない。
許しでもない。
ただ、火種の中に混じった小さな変化だった。
殿下が去った後、部屋に沈黙が残った。
セラさんがぽつりと言う。
「殿下、ほんの少しだけまともなことを言いましたね」
「ほんの少しだけです」
「記録しますか」
「慎重に」
マーサさんが原稿を覗き込み、低く笑った。
「下手な一文だね」
「はい」
「でも、読者はそこを読む」
「でしょうね」
私は頭を抱えた。
空虚な美文より、下手な本音が届く。
それは希望でもあり、危険でもある。
王太子殿下の本音が届けば、彼の人気はさらに上がる。
同時に、彼が少しでも責任に近づくなら、それを全面的に潰していいのか。
難しい。
非常に難しい。
胃薬が足りない。
カイル様が原稿を見た。
「長い」
「読みましたか」
「読んだ」
「ありがとうございます」
「危ない」
「はい」
「だが、一文は逃げていない」
私は顔を上げた。
カイル様は、殿下の書いた一文を指していた。
『私は、私の言葉で人を傷つけたことがある』
カイル様がその一文を見つめる。
「短くないが、逃げていない」
私は少しだけ笑った。
「辺境伯様の評価基準、だいぶ進化しましたね」
「そうか」
「はい。以前なら『長い』だけでした」
「今も長い」
「そこは変わらないんですね」
カイル様は真面目に頷いた。
その真面目さに、少しだけ救われる。
その夜、水晶掲示板に新しい告知が流れた。
『王太子ルーファス殿下、明後日大演説』
『民の声へ、殿下自ら返答』
『迷いなき決断の時』
そして、その下に別の投稿が急速に広がり始めた。
『演説を妨害しようとする勢力あり』
『民の声を恐れる者は誰か』
『王宮広報の女が、また殿下を止めるらしい』
私はその文字を見つめた。
来た。
早い。
あまりにも早い。
火種が視界に浮かぶ。
【火種:リディア妨害者印象】
【火種:民意敵視】
【火種:王太子派動員】
【火種:演説会場での衝突】
【火種:悪役化準備】
セラさんが背後で小さく言った。
「……次は、リディアさんが悪役ですかね」
私は胃薬の瓶を手に取った。
「悪役なら、せめて台本を確認させてほしいです」
エレオノーラ様が静かに微笑んだ。
「悪役初心者には、姿勢から教えて差し上げますわ」
私は瓶を開けながら返した。
「できれば炎上しない姿勢でお願いします」
けれど、もうわかっていた。
演説会場で、私は必ず邪魔者にされる。
王太子殿下は担がれている。
民衆の怒りは本物だ。
ベルクの原稿は美しい。
そして、私の言葉は、そこではきっと耳障りになる。
火は、演壇の下まで来ていた。




