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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
偽りの王太子人気

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誰かが世論を操作している

 同じ言葉が、違う場所で燃えている。


 それは偶然ではない。


 偶然という言葉は便利だが、炎上対応において便利な言葉はだいたい危険である。


 王都の地図を広げた机の上に、私は赤い札を置いていった。


 中央市場。


 南門前。


 第七街区の水晶掲示板(すいしょうけいじばん)


 神殿前広場。


 貴族街外れの噴水広場。


 灯火新聞社の前。


 そして、王太子派の有志が演説を始めたという西広場。


 赤い札には、それぞれ投稿や演説で使われた言葉が書かれている。


『迷いのない王』


『優しさでは国は守れない』


『謝る王は弱い』


『強い王が必要だ』


『王宮ではなく、殿下の言葉を』


『民は決断を待っている』


 私は札を睨んだ。


「同じです」


 セラさんが隣で頷く。


「同じですね」


「場所は違います。投稿者も違います。演説者も違います。なのに言葉が似すぎています」


「流行語では?」


「嫌な流行です」


 私は赤鉛筆で地図に線を引いた。


 言葉は王都の中心から外へ広がっているように見える。


 けれど、実際には少し違う。


 中心から放射状に広がったのではなく、複数の場所で同時に火がついている。


 自然発火ではない。


 誰かが火種を配っている。


「迷いのない王、優しさでは国は守れない、謝る王は弱い……」


 セラさんが読み上げて、顔をしかめた。


「迷いのない王より、失言のない王が欲しいです」


「私もです」


「あと、謝れる王」


「非常に欲しいです」


「ついでに、文章を確認してから話す王」


「それはもはや理想国家です」


 軽口を叩いた瞬間、胃がきり、と痛んだ。


 笑っていないとやっていられない。


 でも、笑っている間にも言葉は広がる。


 私は机の端に積まれた写しを一枚取った。


 第七街区の掲示板。


『優しさでは国は守れない』


 南門前の街頭演説。


『優しさだけでは、国境も民の暮らしも守れません』


 中央市場の噂。


『優しいだけの王宮じゃだめだ。強い殿下がいる』


 貴族街外れの小新聞。


『謝罪続きの王宮に民は疲弊。求められるのは迷わぬ決断』


 言い換えている。


 少しずつ違う。


 それがかえって厄介だった。


 完全に同じなら、配布文書だと断定しやすい。


 けれど、これは模倣しやすい短い核だけを配り、それぞれの場所で少しずつ変えている。


 いかにも自然な民の声に見える。


 私は赤鉛筆を置いた。


「誰かが、覚えやすい言葉を配っています」


 カイル様が机の向こうから地図を見下ろしていた。


 大きい。


 地図の北方部分が物理的に影になる。


「配る?」


「はい。短くて、怒りに刺さって、誰でも真似できる言葉です」


「矢じりか」


「矢じり?」


「柄は現地でつける。先だけ同じなら刺さる」


 私は思わず顔を上げた。


「……それ、使ってもいいですか」


「構造なら」


「ありがとうございます。最近、北方比喩の精度が高いですね」


「熊よりは使いやすいか」


「はい。熊はやや主張が強いです」


 カイル様は真面目に頷いた。


 この人のこういうところは、こちらの胃に少し優しい。


 少しだけだが。


 エレオノーラ様は、窓辺の椅子に腰かけて投稿写しを読んでいた。


 白い手袋の指先が、紙の端を押さえる。


「言葉だけではありませんわ」


「何かありましたか」


「同じ言葉を使っている方々の集まりに、同じ茶葉と同じ菓子が出ています」


 私は瞬いた。


「茶葉と菓子?」


「ええ。王都で最近よく出回っている“民草の声を聞く会”という小集会ですわ。王太子派を名乗る者たちが主催しています」


「民草の声を聞く会」


 嫌な名前だ。


 聞く会。


 聞くだけで終わりそうな名前である。


 王宮標語の悪い親戚みたいだ。


「その会で、参加者に配られている茶菓子が同じです。さらに、席札の裏に短い文句が印刷されているそうですわ」


「席札の裏?」


 エレオノーラ様は一枚の小さな紙片を机に置いた。


 薄茶色の上等な紙。


 表には花模様。


 裏には、流麗な文字でこうある。


『迷いは民を飢えさせる』


 私は胃の辺りを押さえた。


「うわ」


 セラさんが覗き込む。


「うわ、ですね」


「とても、うわ、です」


 カイル様が紙片を見る。


「短い」


「はい」


「刺すための短さだ」


「はい」


 私は紙片を指で押さえた。


 美しい紙。


 上品な書体。


 直接的な命令ではない。


 でも、読む者の頭に残る。


 迷うことは悪。


 待つことは悪。


 謝ることは弱さ。


 優しさは危険。


 そういう連想を、きれいな菓子と温かい茶で飲み込ませる。


「……これ、どこから?」


「昨夜のお茶会で、情報網に引っかかりましたわ」


 エレオノーラ様はさらりと言った。


 情報網。


 つまり、菓子代で買った例の網である。


 王都社交界、甘味で釣れる魚が多すぎる。


「主催者は?」


「表向きは、王太子殿下を慕う若手貴族の集まり。ですが、資金は商会経由で流れています」


「商会名は」


「ロウガン商会」


 私は帳簿の束をめくった。


 あった。


 第49話で入手した大手新聞社の裏帳簿にも、同じ名前がある。


「王都瓦版への広告費支出と同じ商会です」


 セラさんが息を呑む。


「つながりましたね」


「はい。ただし、まだ間接です」


 私は赤鉛筆で商会名を丸で囲む。


 ロウガン商会。


 広告。


 集会茶菓子。


 席札文句。


 街頭演説者への場所代補填。


 大手新聞社の特集記事。


 王太子支持。


 線が伸びていく。


 だが、線の先にまだ顔がない。


 ベルクの名前は、ここには出ない。


 出ないようにしている。


 出ないこと自体が、むしろ彼らしい。


「ベルク様の影が濃いですわね」


 エレオノーラ様が言う。


「影だけ濃くて本人が薄いの、嫌ですね」


「礼儀正しい幽霊ですわ」


「幽霊なら塩で何とかなりませんか」


「王宮官僚には効かなそうです」


 セラさんが真顔で言った。


 それはそう。


 王宮官僚は塩より書類の不備に弱い。


 たぶん。


 その時、灯火新聞の編集長マーサ・ベルが、扉を蹴るように開けて入ってきた。


 相変わらず袖にインク。


 相変わらず目つきが強い。


 そして相変わらず、礼儀より締切を優先する顔だ。


「胃痛同盟、まだ生きてるかい」


「正式名称は臨時広報調査室です」


「生きてるんだね。よし」


「会話が成立していません」


 マーサさんは机に紙束を投げた。


「西広場の演説記録。うちの若いのに聞かせて書き取らせた」


「ありがとうございます」


「礼はいい。読め。気持ち悪いくらい整ってる」


 私は紙を取った。


 西広場。


 王太子派を名乗る市民集会。


 演説者は、仕立屋の親方。


 別の演説者は、退役兵。


 さらに、税に苦しむ小商人。


 肩書きだけ見ると、民の声そのものだ。


 けれど、演説の骨組みが似ていた。


『我々は王宮に何度も請願した』


『返事はなかった』


『貴族は争い、新聞は金で動き、神殿は寄進を食った』


『ならば、迷わず決断する王が必要だ』


『謝罪で腹は膨れない』


『優しさでは冬を越せない』


 私はそこで手を止めた。


 優しさでは冬を越せない。


 その一文は、嫌なほど強かった。


 綺麗事ではない。


 北方でも聞いた。


 毛布が来なかった。


 薬が届かなかった。


 給金が遅れた。


 王都は来なかった。


 謝罪では腹は膨れない。


 それも、ある意味では正しい。


 私は顔を上げた。


「……この演説者、本当に不満を持っています」


 マーサさんが眉を上げた。


「ああ」


「操作されているだけではありません」


「そうだね」


「本当に怒っています」


「そこを間違えると負けるよ」


 マーサさんは腕を組んだ。


「こいつらを全員“操られた哀れな民”って書いた瞬間、あんたも王宮の上の連中と同じになる」


 胸の奥を刺された。


 言葉が出なかった。


 私はさっきまで、民衆を操作されている被害者として見ていた。


 それは間違いではない。


 でも、それだけではない。


 彼らは本当に怒っている。


 税に。


 治安に。


 物価に。


 王宮の返事のなさに。


 貴族の無責任に。


 神殿の不透明な寄進に。


 新聞の嘘に。


 それらを、王太子人気に流し込まれている。


 火は作られた。


 けれど、薪は本物だった。


「……危なかったです」


 私は小さく言った。


 エレオノーラ様がこちらを見る。


「何が?」


「民衆を、“操作されている人たち”だけに分類しかけました」


「分類は楽ですわ」


「はい」


「でも、人は分類票に収まるために生きているわけではありませんものね」


 私は頷いた。


 重い。


 その通りだ。


 そして、その通りだとわかっていても、危機対応の場では分類したくなる。


 味方。


 敵。


 被害者。


 加害者。


 扇動者。


 被扇動者。


 未確認。


 確認済み。


 火種。


 火元。


 便利な箱に入れてしまえば、処理できる気がする。


 でも、箱に入れた瞬間、こぼれるものがある。


「現場を見ます」


 私は言った。


 カイル様がすぐ顔を上げる。


「行くのか」


「はい。西広場の集会へ」


「危ない」


「危ないから見に行きます」


「護衛する」


「薄く」


「努力する」


 だから薄くならない。


 だが、今日は止めない方が早い。


 西広場へ着いた時、空は曇っていた。


 人の声が、広場の石畳に反響している。


 王太子派の集会は、思った以上に大きかった。


 屋台の台を即席の演壇にして、数十人。


 周囲には百人以上。


 手には紙旗。


 旗には文字。


『迷わぬ王を』


『民へ直接の言葉を』


『謝罪ではなく決断を』


 私は外套のフードを深く被った。


 見つかれば、また火種になる。


 とはいえ、カイル様が隣にいる時点で隠密性は死んでいる。


 北方の山がフードを被っても山である。


「カイル様」


「何だ」


「目立っています」


「しゃがむか」


「それはそれで怖いです」


 巨大な辺境伯が集会の端でしゃがんでいる。


 不審すぎる。


 私は諦めて、人混みの端に立った。


 演壇では、年配の男性が話していた。


 仕立屋の親方だという。


「うちは三代、王都で服を仕立ててきた! 王宮にも納めた! だが今年、税が上がり、布の仕入れも上がった! 請願を出した! 返事はない!」


 周囲から怒号が上がる。


「そうだ!」


「返事がない!」


「王宮は聞くだけだ!」


 その言葉に、私は心臓を掴まれたようになった。


 聞くだけ。


 第一話の壁の標語が頭をよぎる。


 王宮は、常に民の声を聞いております。


 聞いているなら返事をしてください。


 私が冗談のように呟いた言葉。


 けれど、彼らには冗談ではない。


 親方は続ける。


「新聞は貴族の金で動く! 神殿は寄進を食う! 王宮は謝るだけ! 謝罪で針は買えん! 謝罪で職人は雇えん!」


「そうだ!」


「謝罪では腹は膨れない!」


 私は手帳を握った。


 言葉は煽られている。


 でも、怒りは本物だ。


 次に壇上へ上がったのは、退役兵だった。


 古い軍服。


 片脚を引きずっている。


「私は南境で戦った。帰ってきたら補償金が半年遅れた。役所に行くたび、確認中と言われた」


 確認中。


 私は息を詰めた。


 便利な言葉。


 何も答えないためにも使える言葉。


「確認中、確認中、確認中! その間に妻が倒れた! 薬は買えなかった!」


 人々がざわめく。


 退役兵は紙を掲げた。


「私は王宮へ三度書いた! 返事は一度もない!」


 その言葉が広場に落ちた瞬間、私には火種が見えた。


【火種:王宮無応答への怒り】

【火種:謝罪軽視】

【火種:王太子への怒り集約】

【火種:強権待望】

【火種:リディア側の民衆軽視印象】


 私は思わず呟いた。


「これは……」


 カイル様がこちらを見た。


「火種か」


「はい。でも」


 私は壇上の退役兵を見た。


 彼の声は震えている。


 演説として整っている。


 でも、痛みは整っていない。


「これは、ただの操作ではありません」


 カイル様は何も言わなかった。


 けれど、彼の視線が少し鋭くなる。


 父。


 援軍。


 遅れた返事。


 王都。


 カイル様の痛みに近い火が、ここにもある。


 演壇の横では、若い男が紙を配っていた。


 私はその紙に目を留める。


『迷いのない王が、返事のない王宮を変える』


 うまい。


 とても、うまい。


 王宮の無応答という本物の怒りを、王太子人気へ流している。


 王太子殿下が何をしたかではない。


 王宮への怒りを、王太子殿下に託す形へ変えている。


 しかも、王太子殿下本人も王宮の一部なのに、まるで外側の改革者のように見せている。


 私は紙を一枚受け取った。


 配布係の若い男が私に気づかず、次の人へ渡す。


 紙の下には、小さく商会名が入っていた。


 ロウガン商会。


 私は赤鉛筆を持っていないのに、頭の中で丸をつけた。


「証拠です」


 小声で言うと、カイル様が頷いた。


「捕まえるか」


「まだです」


「なぜ」


「紙を配っている人が、火元とは限りません」


「火を配っている」


「はい。でも、薪にされている可能性もあります」


 カイル様は眉を寄せた。


 納得しきっていない。


 でも、引いた。


 その時、壇上に若い女性が上がった。


 赤ん坊を抱いている。


 周囲が少し静かになった。


「私は、治安のことで王宮へ訴えました」


 女性の声は細い。


 でも、広場は聞いていた。


「夜、裏通りで商会の荷馬車が暴走して、弟が怪我をしました。役所に届けました。商会にも、王宮にも。返事はありませんでした」


 赤ん坊が小さく泣く。


 女性は腕を揺らしながら続けた。


「新聞に言えば取り上げると言われました。でも、載ったのは“治安不安を煽る声に注意”という記事でした。私の名前はありませんでした」


 私は息を止めた。


 名前がない。


 まただ。


 彼女は怒っている。


 当然だ。


「だから、私は思います。優しい言葉はいりません。謝罪もいりません。迷わず罰してくれる人が必要です」


 広場が沸いた。


「そうだ!」


「罰を!」


「強い王を!」


 私は手帳を握りしめた。


 違う。


 いや、違わない。


 罰してほしいと思う気持ちはわかる。


 返事がなかった人は、最後には力を求める。


 自分の声を届かせるために。


 誰かを動かすために。


 でも、その怒りを「強い王」へ預けると、次に誰が罰されるかは選べなくなる。


 火は、向きを変えられる。


 女性の怒りは本物だ。


 だからこそ、使われる。


 私は一歩踏み出しかけた。


 カイル様の手が、私の外套の袖を掴んだ。


「今は違う」


 低い声。


 私は止まった。


 今、私が壇上へ上がって正論を言えば、どうなる。


 彼女の痛みに「利用されています」と言うのか。


 返事をもらえなかった人に、「あなたの怒りは危険です」と言うのか。


 それは、たぶん燃える。


 そして、傷つける。


 私の言葉は正しいかもしれない。


 でも、今ここで正しいだけでは足りない。


 私は袖を掴むカイル様の手を見た。


 彼は力を込めていない。


 止めるだけ。


 命令ではない。


 少しだけ、息が戻った。


「ありがとうございます」


「火の中だ」


「はい」


「でも、まだ火元ではない」


 私は頷いた。


 カイル様は、火元を見ることを覚えている。


 私が言った言葉を。


 そして今、私より先にそれを使った。


 胸の奥が少し熱くなった。


 それが恋愛感情なのか、信頼なのか、胃薬不足なのかは、まだ判断しない。


 集会が終わると、人々は紙を持って散っていった。


 言葉が王都中へ運ばれていく。


 小さな紙。


 短い文句。


 でも、その背後には、本物の怒りがある。


 私は広場の隅で、配布された紙を何枚も集めた。


 エレオノーラ様が近づいてくる。


 いつの間に別方向から聞いていたのか、彼女は別の紙束を持っていた。


「三種類ありましたわ」


「三種類?」


「職人向け、退役兵向け、子育て世帯向け。文句が少しずつ違います」


 私は紙を受け取る。


 職人向け。


『謝罪で針は買えない』


 退役兵向け。


『確認中で薬は買えない』


 子育て世帯向け。


『優しい王宮より、守る王を』


 私は口の中が苦くなった。


「対象別に調整されています」


「ええ。かなり丁寧ですわ」


「嫌な丁寧さです」


「ベルク様好みですわね」


 エレオノーラ様の声は冷たい。


 怒っている。


 でも、その怒りは表面に出ない。


 彼女は紙の端を指で押さえた。


「この紙を作った者は、人の痛みをよく見ています」


「はい」


「そして、痛みに返事をするのではなく、利用している」


「はい」


 そこが許せない。


 でも、同時に怖かった。


 なぜなら、痛みに届く言葉を作るには、痛みを見なければならない。


 私も同じ場所を見ている。


 同じ材料を扱っている。


 違うのは、何のために整えるか。


 そのはずだ。


 そのはずなのに、時々境界が霞む。


「リディア」


 エレオノーラ様が私を見た。


「あなた、今ご自分を疑っていますわね」


「……顔に出ていますか」


「胃の辺りに出ていますわ」


「新しい診断法ですね」


「だいたい当たります」


 私は苦笑した。


 エレオノーラ様は少しだけ声を和らげる。


「疑いなさい。でも、そこで止まらないで」


「はい」


「疑わない広報官は危険です。でも、疑うだけの広報官は役に立ちませんわ」


「厳しい」


「相棒ですもの」


 その言葉に、一瞬、返事が遅れた。


 相棒。


 エレオノーラ様は、何気なく言ったのかもしれない。


 でも、私には少し重かった。


 良い意味で。


「……はい」


 私は紙束を抱え直した。


「戻って分析します」


「分析だけ?」


「いいえ」


 私は広場を振り返った。


 さっきの女性が、赤ん坊を抱いて帰っていく。


 誰も彼女に返事をしていない。


 王宮も。


 新聞も。


 私も、まだ。


「苦情そのものも拾います」


 エレオノーラ様が目を細めた。


「王太子人気対策ではなく?」


「それも必要です。でも、支持の裏にある不満を無視したら、また誰かに使われます」


 カイル様が短く言った。


「返事か」


「はい」


「多いぞ」


「わかっています」


「胃が死ぬ」


「不吉な予言をしないでください」


 でも、本当に多い。


 税。


 治安。


 補償金。


 商会事故。


 王宮の無応答。


 全部に即座に返事などできない。


 でも、見なかったことにしたら、また別の“強い誰か”が持っていく。


 火を消すだけでは足りない。


 火がついた理由を見なければ。


 臨時広報調査室に戻ると、私たちは紙束を分類した。


 王太子支持文句。


 配布主体。


 資金元。


 対象層。


 そして、実際の苦情。


 私は新しい欄を作った。


『未回答の民声』


 セラさんがそれを見て、少し顔を曇らせた。


「増えますよ、それ」


「はい」


「処理しきれませんよ」


「はい」


「それでも作るんですね」


「作ります」


 セラさんはため息をついた。


「では、胃薬棚を増設しましょう」


「なぜそこから」


「現実的支援です」


「ありがとうございます」


 そこへ、王宮からの使者が来た。


 今度は王太子側近室ではない。


 宰相府(さいしょうふ)からだった。


 封書を受け取った瞬間、私は嫌な予感がした。


 封蝋が美しい。


 文面も、きっと美しい。


 美しい文書は危ない。


 開く。


 予想通り、美しかった。


『王太子殿下による民向け大演説について、民意の高まりを受け、正式検討に入る』


 私は目を閉じた。


 正式検討。


 大演説。


 民意の高まり。


 美しい言葉が、きれいに並んでいる。


 そして、その下に、小さな追記。


『なお、演説原稿案については、宰相補佐ベルク・アインハルトが調整に協力する』


 部屋が静まり返った。


 セラさんが小さく呟く。


「火元から薪が届きましたね」


 私は封書を机に置いた。


 胃が痛い。


 けれど、もうそれだけではない。


 西広場の声が、耳に残っている。


 謝罪で針は買えない。


 確認中で薬は買えない。


 優しさでは冬を越せない。


 それらは、誰かが作った言葉であると同時に、本物の痛みでもあった。


 私は赤鉛筆を握る。


「止めます」


 カイル様が頷いた。


「演説をか」


「いいえ」


 私は封書と、集会の紙束と、未回答の民声欄を見た。


「民の怒りを、王太子殿下の人気に変える流れを止めます」


 エレオノーラ様が微笑む。


「難しいですわよ」


「はい」


「正論だけでは燃えますわ」


「わかっています」


「民を見下せば負けますわ」


「今日、痛いほどわかりました」


 私は息を吸った。


「だから、まずは聞きます」


 王宮は、常に民の声を聞いております。


 その標語は、ずっと嘘みたいに見えていた。


 でも、本当に聞いていたなら、なお悪い。


 聞いたのに、返事をしなかった。


 今はまだ、そこまで知らない。


 でも、私はもう、その火の匂いを嗅いでいる。


 王太子の大演説。


 ベルクの原稿。


 王都中に配られる短い言葉。


 そして、返事を待っていた本物の声。


 それらが一つの大きな炎になる前に。


 私は、火元を見なければならない。


 その夜遅く、水晶掲示板に新たな告知が流れた。


『王太子ルーファス殿下、民へ向けた大演説を予定』


『主題――迷いなき決断と、新しい王宮』


 私はその文字を見て、赤鉛筆を握りしめた。


 火は、演壇を待っていた。

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