王太子の支持率が上がっています
支持率という言葉は、胃に悪い。
なぜなら数字は、正しそうな顔をするからだ。
嘘でも、間違いでも、偏りでも、数字になった瞬間、人は少しだけ信じたくなる。
王都中央市場の水晶掲示板に、その数字が浮かんだ時、私は思わず手元の胃薬袋を握り潰しかけた。
『王太子ルーファス殿下、民間支持急上昇』
『強い王を求める声、王都各区で拡大』
『新聞不信、王宮不信の受け皿に』
その下に、調査結果らしき数字が並ぶ。
王太子支持、四十二。
不支持、三十一。
判断保留、二十七。
昨日まで、王太子殿下は婚約破棄会見を止められた残念な人だった。
謝罪文の初稿は燃料。
自作の釈明は油。
沈黙させても三呼吸で発言したくなる王族。
それが今朝、なぜか「決断力ある若き王位継承者」に変換されている。
魔法だろうか。
いや、魔法ならもっと健全に使ってほしい。
洗濯物を早く乾かすとか。
会議を短くするとか。
失言を発生前に消すとか。
「……上がっていますね」
セラさんが隣で呟いた。
「上がっています」
「上がってはいけないものが上がっていますね」
「胃酸と同じ分類です」
私は掲示板を見つめた。
数字の横には、街頭聞き取りらしき民の声が添えられている。
『王都瓦版も王宮も信用できない。なら、迷わず決める人が必要だ』
『謝ってばかりの王宮では不安』
『優しい言葉より、強い決断を』
『新聞が金で動くなら、王族が直接語ってほしい』
『王太子殿下は失敗したが、若い。間違いを恐れない強さがある』
最後の文章に、私は乾いた笑いを漏らした。
「間違いを恐れない強さ、ですか」
セラさんが首を傾げる。
「褒め言葉でしょうか」
「炎上対応係から見ると、災害予告です」
間違いを恐れないのは、状況によっては美徳だ。
だが、間違えたあと訂正しない人間に付与すると、ただの歩く火種である。
掲示板の文字が流れる。
『強い王が必要だ』
同じ言葉。
まただ。
第七街区。
第十一街区。
中央市場。
南門前。
別々の場所に設置された掲示板に、ほぼ同じ文言が一定間隔で浮かぶ。
偶然ではない。
けれど、完全な偽りでもない。
そこが一番厄介だった。
人々は本当に不安なのだ。
大手新聞社が金で揺れていたかもしれない。
王宮内の部署が資金ルートに関わっていたかもしれない。
神殿も商会も、貴族も、誰も綺麗ではないかもしれない。
昨日の灯火新聞の号外は、火元を照らした。
しかし照らした先が、明るい場所とは限らない。
むしろ、暗いものが見えすぎた。
そして人は、暗闇の中で、単純な光を求める。
たとえそれが、松明ではなく火事でも。
「リディア」
背後から低い声がした。
振り向くと、カイル様が立っていた。
今日も大きい。
人混みの中でも、北方の山が迷い込んだような存在感である。
「カイル様、街中では薄く立つ約束では」
「努力している」
「努力の方向性が視覚に反映されていません」
「無理か」
「はい」
カイル様は真面目に頷いた。
この人は、できないことをできると言わない。
そこは本当に信頼できる。
ただし、できない内容が「目立たない」なのが少し困る。
カイル様は水晶掲示板を見た。
「上がったのか」
「はい」
「何が」
「王太子殿下の支持率です」
「なぜ」
「それが分かれば胃薬は不要です」
カイル様は眉を寄せる。
「支持されることをしたか」
「いいえ」
「なら、なぜ」
単純な疑問。
けれど、その通りだ。
王太子殿下は、この数日で特別な功績を上げていない。
むしろ、余計な発言をしないよう周囲が全力で口を押さえている状態である。
それなのに人気が上がる。
つまり、本人ではなく、本人に貼られた物語が上がっている。
「王太子殿下が支持されているというより、皆さんが“強い誰か”を欲しがっているんです」
「本人でなくてもいいのか」
「たぶん」
「危ないな」
「はい。とても」
カイル様は少し黙った。
そして短く言う。
「熊と同じだ」
「熊?」
「見えない時が危ない。足跡だけで皆が走る」
私は思わず彼を見た。
北方式の説明は、ときどき妙に的確だ。
「……その表現、使ってもいいですか」
「熊を?」
「熊そのものではなく、構造を」
「構造ならいい」
許可された。
熊の構造。
後でどう文章にするかは考えよう。
そこへ、エレオノーラ様の馬車が市場の端に停まった。
朝の市場に公爵令嬢の馬車は目立つ。
しかし彼女は、目立つことを恐れない。
扉が開き、エレオノーラ様が降りてくる。
白い手袋。
淡い青のドレス。
完璧な姿勢。
いつも通り強く美しい。
だからこそ、少し心配になる。
「おはようございます、リディア」
「おはようございます。朝から市場へ?」
「世論は朝食前に動きますもの」
「嫌な格言ですね」
「王都ではよくありますわ」
あってほしくない。
エレオノーラ様は掲示板を見上げた。
長い睫毛がわずかに下りる。
「数字にしましたのね」
「はい」
「数字は便利ですわ。責任者の顔を隠せますもの」
その言葉に、私は頷いた。
数字は人の声を集めたものに見える。
でも、誰が集めたか。
どこで聞いたか。
どう分類したか。
どの声を「支持」と数えたか。
そこにいくらでも手が入る。
「調査主体が不明です」
「調査場所も不明」
「質問文も不明」
「でも数字だけは大きい」
エレオノーラ様が扇を開いた。
「まるで中身のない豪華な菓子箱ですわね」
「せめて菓子は入っていてほしいです」
「入っていても毒入りでは?」
「朝から比喩が物騒です」
「王都ですもの」
納得したくないのに、してしまう。
水晶掲示板には、さらに新しい投稿が流れた。
『王太子殿下、民へ直接語るべき』
『新聞を通さず、王宮を通さず、殿下の言葉を』
『民は強い声を待っている』
私は眉を寄せる。
「“王宮を通さず”ですか」
エレオノーラ様が目を細めた。
「妙ですわね。王太子殿下ご本人が王宮側なのに」
「そこを分けて見せています。腐った王宮と、そこから民を救う若き王太子」
「物語としては分かりやすいですわ」
「やめてください。その言い方、ベルクっぽいです」
エレオノーラ様は微笑んだ。
「人は物語で理解しますわ」
「先日も聞きました」
「そしてあなたは、その言葉を嫌がりましたわね」
「今も嫌です」
「でも、使わなければ敵に使われるだけです」
わかっている。
それが嫌なのだ。
人を操る物語。
人に届くための構成。
境界は、きれいな線ではない。
私はその線上を歩いている。
足元はいつも煤けている。
市場の向こうで、小さな騒ぎが起きた。
灯火新聞の売り子が、若い男たちに囲まれている。
男の一人が紙を振り上げて叫んだ。
「お前らのせいで王都がめちゃくちゃだ!」
カイル様が一歩動く。
私は即座に袖を掴んだ。
「待ってください」
「囲まれている」
「護衛はいます。カイル様が前に出ると、また“辺境伯が民を威圧”になります」
「なら、どうする」
「私が行きます」
カイル様の眉が動く。
「危ない」
「広報官は危険職ではないはずなんですが、最近その認識が揺らいでいます」
「行くな」
「行きます」
言い切ると、カイル様は少しだけ苦い顔をした。
でも止めなかった。
「近くにいる」
「薄くお願いします」
「努力する」
だから薄さが足りない。
私は深呼吸して、売り子の方へ歩いた。
男たちは灯火新聞の号外を手にしていた。
「王都瓦版を潰したいだけだろ!」
「王太子殿下を悪く見せるな!」
「新聞が信用できないなら、殿下に直接話してもらうしかない!」
売り子の少年は青ざめていた。
私は間に入る。
「その号外についてのご意見でしたら、発行元に正式な窓口があります」
男たちがこちらを向く。
「あ、リディア・ノートン」
「王宮を操る広報官だ」
「出た」
出た、とは。
妖怪扱いだろうか。
前世でも「広報が出てきたぞ」はだいたい良くない空気だった。
私は背筋を伸ばす。
「リディア・ノートンです。訂正、照会、抗議については記録を残しますので、一つずつお願いします」
「そうやって言葉で丸め込む気だろ」
「丸め込めるほど柔らかい状況ではありません」
「王太子殿下を叩きたいんだろ!」
「王太子殿下に関する検証と、大手新聞社の資金記録は別件です」
「別じゃない。殿下が強いから邪魔なんだ」
強い。
また、その言葉。
「殿下のどの行動を強いと感じましたか」
私が聞くと、男は一瞬詰まった。
質問されると思っていなかった顔だ。
「そ、それは……謝らずに、自分の意志を貫くところだ」
「婚約破棄会見の件ですか」
「違う。いや、それも……でも、あれは間違いだったかもしれないが、迷わなかった」
「迷わないことと、確認しないことは違います」
「でも、謝ってばかりの王宮よりはいい」
「王宮が謝るべきことを謝らないのは問題です。謝るべきではないことまで謝るのも問題です」
「難しいことを言うな!」
男が苛立って声を荒げた。
周囲の視線が増える。
私は、自分の言葉がまた腹立たしいほど正しいものになっていると気づいた。
正しすぎる。
この人は今、論理を聞きたいのではない。
不安なのだ。
何を信じればいいかわからなくなって、強いものに寄りかかりたいのだ。
それを「未確認情報です」とだけ切るのは、たぶん違う。
私は少し声を落とした。
「不安なのは、わかります」
男が黙る。
「新聞に金が流れていたかもしれない。王宮内の部署も関わっているかもしれない。神殿も商会も、どこまで信用していいかわからない。そういう時、誰かがはっきり決めてくれたら楽だと思います」
「……」
「でも、楽な言葉ほど、誰かが利用します」
男の手が、紙を強く握る。
「では、誰を信じればいい」
問いは怒鳴り声ではなかった。
それが一番苦しい。
私はすぐに答えられなかった。
誰を信じればいい。
王宮か。
新聞か。
神殿か。
貴族か。
王太子か。
私か。
どれも即答できない。
だから、私は即答しなかった。
「一人を丸ごと信じるのではなく、確認できる部分を増やすしかありません」
「そんなの、普通の人間には無理だ」
「はい」
私は頷いた。
「だから、私たちの仕事があります」
「その仕事も信用できない」
「なら、疑ってください。疑った上で、質問してください。答えられるものには答えます。答えられないものは、答えられない理由を記録します」
「面倒だな」
「はい」
「強い人が一言で言ってくれた方がいい」
「その一言で、人が傷つくことがあります」
男は目を逸らした。
納得はしていない。
でも、怒鳴るのをやめた。
売り子の少年が小さく息を吐く。
その時、背後から別の声が飛んだ。
「そうやって民を疑わせるのが目的なんだろ!」
別の男だ。
顔つきが、少し違う。
怒っているというより、煽っている。
周囲の反応を見ながら声を出している。
「王太子殿下は民に直接語る! それが怖いんだ!」
火種が見えた。
【火種:王太子演説待望】
【火種:リディア妨害者化】
【火種:新聞不信から王太子支持へ誘導】
【火種:直接語る=誠実印象】
【火種:質問者への集団同調】
来た。
この場も仕込みの一部だ。
私は男を見た。
「王太子殿下が民へ直接語る予定を、どこで知りましたか」
男が一瞬止まる。
「皆知っている」
「まだ正式発表はありません」
「出る。すぐ出る」
「誰から聞きましたか」
「……水晶掲示板だ」
「どの掲示板ですか」
「覚えていない」
「投稿者は」
「知らない」
「では、未確認情報です」
男の顔が険しくなる。
周囲がざわついた。
私は続ける。
「未確認情報で人を殴らないでください」
久しぶりに、その言葉を使った。
男は舌打ちし、人混みに紛れようとした。
カイル様が少し動く。
私は目だけで止めた。
追えば、こちらが火元になる。
エレオノーラ様の声が横から入った。
「お待ちになって」
やわらかい声。
しかし逃げ道を塞ぐ声だった。
男の足が止まる。
エレオノーラ様は微笑んでいる。
「未確認情報を広めた自覚がないのでしたら、今後お気をつけあそばせ。自覚があるのでしたら、もっと上手になさることね」
男の顔が赤くなる。
「何だと」
「煽り方が雑ですわ。王太子殿下を本当に支持している方にも失礼です」
強い。
質問形式ではない。
真正面から扇で殴っている。
比喩だが、かなり物理に近い。
男は何か言い返そうとして、周囲の視線に負けた。
逃げた。
私は息を吐く。
「ありがとうございます」
「あなた、少し優しくなりすぎましたわ」
「今の場面でですか」
「ええ。でも、悪くはありません」
エレオノーラ様は掲示板を見た。
「この火は、叩けば増えます」
「はい」
「王太子殿下への支持は、殿下本人への信頼ではありませんわ。失望した人々が、一時的に腰かける椅子です」
「その椅子、脚が燃えていますけど」
「王都ではよくある家具ですわ」
「売らないでほしいです」
市場での騒ぎは、幸い大きくはならなかった。
しかし、すぐに掲示板へ流れた。
『リディア・ノートン、王太子支持者に説教』
『広報官、民の不安を“未確認情報”扱い』
『公爵令嬢、王太子支持者を嘲笑か』
早い。
速すぎる。
情報が走る速度だけは、王都の道路整備よりずっと優秀だ。
私は頭を抱えた。
「もう記事になっています」
セラさんが遠い目をした。
「現場にいた私たちより早いですね」
「時空を歪めているのでしょうか」
「王都の噂なら可能かもしれません」
嫌な魔法だ。
その時、王宮からの伝令が到着した。
彼は息を切らし、封書を差し出す。
「リディア・ノートン様、臨時広報調査室宛てに通達です」
「王宮からですか」
「はい。王太子殿下側近室より」
封蝋には、王太子の紋章。
私は嫌な予感しかしなかった。
開く。
読む。
胃が痛む。
『近日中に予定される王太子殿下による民向け発信について、事前に火種確認を求める』
セラさんが明るく言った。
「よかったですね。事前確認です」
「よくありません」
「なぜです?」
「殿下が発信する気です」
「あっ」
そう。
火事の前に火種を確認させてくれるだけ、成長ではある。
だが、前提として火を持って壇上に立つ気である。
私は封書の二枚目を読んだ。
そこには、側近の走り書きがある。
『殿下、今は黙っているだけで支持が上がります。どうか黙っていてください、と申し上げましたが、民が呼んでいるなら応えねばならぬ、と仰せです』
私は目を閉じた。
殿下。
それは、響きだけは立派です。
でも、今それをすると、国が燃えます。
さらに三枚目。
『なお、殿下は「私は率直に話す」と仰せです』
私は胃薬袋を握った。
率直。
王太子殿下が率直。
それは火種が裸足で走る状態である。
横からカイル様が覗き込む。
「燃えるか」
「燃えます」
「どのくらい」
「天気予報で言うなら、王都全域に乾燥注意報と火災警報と王族発言警戒令です」
「多いな」
「多いです」
エレオノーラ様が涼しい顔で言う。
「殿下に一番難しい戦術ですわね」
「黙ることですか」
「ええ」
私は深く頷いた。
王太子殿下に黙っていただく。
それは、北方で熊に社交ダンスを教えるくらい難しい。
いや、熊の方がまだ踊るかもしれない。
王宮へ向かう馬車の中で、私は水晶掲示板の写しを読み続けた。
『迷わない王が必要だ』
『謝る王は弱い』
『優しさでは国は守れない』
『決断こそ王の資質』
『王太子殿下の率直さは武器』
武器。
その言葉に、カイル様の目が少し動いた。
「武器なら、持ち方がいる」
「はい」
「殿下は持てるのか」
「正直に申し上げます」
「言え」
「刃を握るタイプです」
カイル様は黙った。
少し考えたあと、短く言った。
「危ない」
「はい」
エレオノーラ様が扇で口元を隠した。
「殿下は、自分が担がれていることに気づいていらっしゃるかしら」
「たぶん、半分は」
「半分?」
「支持されている気配は感じていると思います。でも、誰が何のために担いでいるかまでは……」
「見えていない」
「はい」
王太子殿下は愚かだ。
短慮で、自己中心的で、失言が多く、謝罪文の相性が最悪。
でも、完全に空っぽではない。
あの人にも、恥や焦りや、自分を立て直したい願望はある。
そこに、「民があなたを求めています」という言葉を与えれば。
彼はきっと、乗る。
むしろ飛び乗る。
そして落ちる。
落ちるだけならいい。
問題は、その下に国があることだ。
王宮に着くと、王太子側近室は騒然としていた。
書類が飛び交い、侍従が走り、側近たちが青い顔で相談している。
扉の向こうから、ルーファス殿下の声が聞こえた。
「民が私の言葉を待っているのだろう!」
私は足を止めた。
もう燃えている。
扉を開ける前から燃えている。
側近の一人が私にすがるような目を向けた。
「リディア殿! どうか殿下を止めてください!」
「皆様は止めたのですか」
「止めました!」
「何と」
「今は黙っているだけで支持が上がります、と」
「最悪です」
側近が固まる。
「え?」
「それは殿下の自尊心に火をつけます」
「では何と言えば」
「“殿下の沈黙もまた民への責任ある姿勢です”くらいです」
「長い……」
「殿下向けには長くていいんです。短くすると都合よく燃えます」
私は扉を見た。
中からまた声がする。
「私は逃げていると思われたくない!」
ああ。
そこか。
王太子殿下は、自分が支持されていることに浮かれている。
でもそれだけではない。
逃げたと思われたくない。
婚約破棄会見。
謝罪文。
名誉回復会見。
王都瓦版戦争。
そのすべてで、自分が失敗したことを、どこかでわかっている。
だから、取り戻したい。
それ自体は、悪いことではない。
問題は、取り戻し方である。
私は扉を叩いた。
「リディア・ノートンです」
「入れ!」
返事が早い。
嫌な予感も早い。
部屋に入ると、ルーファス殿下が立っていた。
金髪。
整った顔。
いかにも王族らしい衣装。
黙っていれば、絵姿としては大変よろしい。
黙っていれば。
机の上には、演説案らしき紙が散らばっている。
私は視界に浮かんだ火種を見た。
【火種:王太子美化】
【火種:謝罪拒否印象】
【火種:強権待望】
【火種:民衆不満の敵誘導】
【火種:エレオノーラ再攻撃】
【火種:リディア妨害者化】
多い。
多すぎる。
火種の見本市だ。
「殿下」
「リディア、ちょうどいい。私の演説を確認しろ」
「まず演説の実施可否から確認させてください」
「実施する」
「そこを確認させてください」
「民が求めている」
「民の一部が、誰かの言葉を通して求めているように見えます」
「またそうやって疑うのか」
殿下の顔が曇る。
「お前はいつも、私の言葉を燃えると言う」
「実際によく燃えますので」
側近たちが息を呑んだ。
言い方。
今のは言い方が直火だった。
私はすぐに続ける。
「ですが、殿下が民へ語る必要がまったくないとは申しません」
ルーファス殿下が目を瞬く。
「……そうなのか」
「はい」
側近たちも驚いた顔をした。
私自身も、少し驚いている。
でも、そうだ。
王太子殿下は黙っていれば安全かもしれない。
でも、いつまでも黙っていれば、また他人に物語を書かれる。
彼も、言葉を持たなければならない。
問題は、何を語るかだ。
「殿下が語るべきことは、強さではありません」
「では何だ」
「責任です」
部屋が静かになった。
ルーファス殿下は不満そうに眉を寄せる。
「民は強い王を求めている」
「民は不安なのです」
「同じだろう」
「違います。不安な人に強さだけを見せると、その強さで誰かを殴りたくなります」
「私は民を殴らせるつもりはない」
「殿下にそのつもりがなくても、言葉がそう使われます」
ルーファス殿下は唇を結んだ。
そこに、若い側近が一枚の原稿を差し出した。
「殿下、こちらが先ほどの案です」
私は原稿を受け取る。
読み始める。
胃が軋む。
『民よ、私は迷わない』
初手から燃える。
『王宮の混乱、新聞の腐敗、貴族の争いに、私は決断をもって立ち向かう』
敵が多すぎる。
『謝罪だけでは国は守れない』
危険。
『優しさだけでは民を救えない』
危険。
『私は強い王となる』
大炎上。
火種が視界を覆う。
【火種:独裁志向印象】
【火種:王宮切り捨て】
【火種:新聞弾圧】
【火種:貴族対立激化】
【火種:謝罪軽視】
【火種:弱者切り捨て】
【火種:王位継承争い加熱】
私は原稿をそっと机に置いた。
「これは演説ではありません」
ルーファス殿下が身構える。
「何だ」
「燃料です」
側近たちが一斉に顔を覆った。
ルーファス殿下は怒るかと思った。
しかし、彼は少しだけ黙った。
その沈黙は珍しい。
たぶん、彼なりに堪えている。
「では、どう言えばいい」
その言葉に、私は一瞬動きを止めた。
今。
殿下が聞いた。
燃えない言い方を。
会見前にそれをしてほしかった。
本当にしてほしかった。
心の中で十回くらい思った。
でも、今それを口にしてはいけない。
今は、少しだけ成長の入口だ。
入口を踏み抜いてはいけない。
「まず、民の不安を利用しないことです」
「利用などしない」
「では、こう言ってください。『不安を、誰かへの怒りに変えないでほしい』」
ルーファス殿下は眉を寄せる。
「弱く聞こえる」
「弱くありません。逃げない言葉です」
「私は強い王を求められている」
「強い王になりたいなら、まず自分の責任を言ってください」
「私の責任……」
「婚約破棄会見で、殿下は言葉で人を傷つけました」
部屋の空気が張る。
エレオノーラ様は静かに立っている。
彼女の横顔は動かない。
カイル様も黙っている。
ルーファス殿下は、エレオノーラ様を見た。
少しだけ目を逸らした。
「……わかっている」
声は小さかった。
でも、聞こえた。
私は続ける。
「その責任を言わずに、“強い王”を名乗れば、殿下を支持する人々は、殿下が傷つけた人々を弱さの象徴として攻撃します」
「エレオノーラを、またか」
「はい」
ルーファス殿下の顔が歪んだ。
嫌悪か。
後悔か。
自尊心の痛みか。
まだ判別できない。
でも、彼は怒鳴らなかった。
「では、私は何を言えばいい」
また聞いた。
私は息を吐く。
「初めに、こうです」
紙を取る。
書く。
『私は、かつて自分の言葉で人を傷つけた』
ルーファス殿下が紙を見る。
顔をしかめる。
「重い」
「責任なので」
「民は聞きたいか」
「聞きたい人ばかりではありません。でも、必要です」
次を書く。
『その責任を曖昧にしたまま、強さを語る資格はない』
ルーファス殿下がさらに顔をしかめる。
「これは私を下げすぎではないか」
「下げているのではなく、地面に足をつけています」
「王族だぞ」
「王族も地面に足をつけないと転びます」
側近の一人が小さく噴きかけた。
ルーファス殿下が睨む。
側近は即座に黙った。
私は三文目を書く。
『王宮、新聞、貴族、神殿への不信を、誰か一人への攻撃に変えないでほしい』
「長い」
カイル様が言った。
私は振り向く。
「カイル様まで」
「だが、必要だ」
そう続けた。
私は少し驚いた。
カイル様は原稿を見ている。
長いと言いながら、逃げていない。
「短くするなら」
彼は言った。
「怒りの向きを間違えるな」
ルーファス殿下がカイル様を見た。
「辺境伯」
「民は怒っている」
「……」
「怒る理由はある」
カイル様の声は低い。
王都の部屋に、北方の雪の重さが落ちる。
「だが、怒りは使われる」
その言葉に、私は胸の奥が少し痛んだ。
カイル様自身が、いずれ第56話でそれを痛いほど知ることになる。
今はまだ、その前だ。
彼はまだ、完全には自分の怒りを扱えない。
それでも、この時点で、そこに触れている。
ルーファス殿下は紙を見た。
しばらく黙る。
そして、言った。
「私は、強い王になりたい」
正直な言葉だった。
子どもっぽい。
自尊心まみれ。
けれど、空っぽではない。
「なぜですか」
私は聞いた。
「もう、止められたくない」
側近が青くなる。
私も少しだけ胃が痛む。
でも、ルーファス殿下は続けた。
「いや……違う」
彼は自分で首を振った。
「止められた時、私は恥をかいたと思った。今もそう思っている。だが、その後、エレオノーラが会見で話した。ミリアも……記録を出した。辺境伯の北方も、手紙を出した。お前も、新聞も、皆が言葉を出した」
珍しく長い。
側近が驚いている。
私も驚いている。
ルーファス殿下は拳を握った。
「私だけが、失敗した言葉のまま残っている」
部屋が静まった。
それは、初めて聞く本音だった。
見栄でもある。
焦りでもある。
でも、たぶん本音だ。
私は火種を見る。
【火種:自己弁護】
【火種:再発言欲求】
【火種:責任回避の誘惑】
火種はある。
けれど、それだけではない。
小さな別の光もある。
責任の入口。
まだ火種と見分けがつかないくらい小さい。
私は静かに言った。
「殿下。その気持ちを、そのまま民にぶつけると燃えます」
「またか」
「はい」
「では、どうする」
「まず、民の前ではなく、傷つけた相手に向き合ってください」
ルーファス殿下がエレオノーラ様を見る。
エレオノーラ様は微笑んでいる。
けれど、その微笑みは受け入れではない。
刃ではない。
壁だ。
「エレオノーラ」
「はい、殿下」
「私は……」
ルーファス殿下は言いかけて、詰まった。
うまく言えない。
当然だ。
謝罪は、思いつきでできるものではない。
いや、思いつきの謝罪ほど燃えるものはない。
私は口を挟まなかった。
エレオノーラ様も待っている。
カイル様も黙っている。
しばらくして、ルーファス殿下は諦めたように息を吐いた。
「今は、うまく言えない」
エレオノーラ様が静かに言う。
「それは、珍しく正確ですわ」
側近の一人が息を止めた。
エレオノーラ様は続ける。
「言えないことを、言えたふりで飾らないでくださいませ」
ルーファス殿下は俯いた。
怒らない。
本当に、怒らない。
それだけで、今日の王太子殿下はいつもと違った。
しかし、それはそれとして、演説は危険である。
私は原稿を集めた。
「殿下。民向け発信は延期してください」
「延期?」
「はい。今のまま出れば、殿下は担がれます」
「担がれる?」
「自分の足で立っているように見えて、実際は誰かの作った台に乗せられるということです」
ルーファス殿下は不快そうにした。
「私は人形ではない」
「そう思うなら、なおさら急がないでください」
「民は待っている」
「待たせるなら、待たせる理由を出します」
「また声明か」
「短いものです」
私は一文を書いた。
『王太子殿下は、近日中の民向け発信について、事実確認と関係者への確認を優先するため延期する』
ルーファス殿下は読んだ。
「弱い」
「では、こうします」
書き直す。
『王太子殿下は、民の不安に応える前に、自らの責任と確認すべき事実に向き合うため、近日中の発信を延期する』
ルーファス殿下は黙った。
カイル様が言う。
「逃げていない」
エレオノーラ様も頷く。
「ええ。逃げていませんわ」
ルーファス殿下はしばらく紙を見ていた。
そして、低く言った。
「……出せ」
側近たちがざわめく。
私は確認する。
「本当に?」
「出せ。ただし」
「ただし?」
「近日中には話す」
やっぱり。
完全には止まらない。
でも、今日燃えるよりはいい。
今日、火を大きくしないこと。
その間に、火元を見る。
「承知しました。ただし、次の原稿は必ず事前確認を」
「わかった」
「必ずです」
「わかった」
「殿下の“わかった”は過去に何度か燃えています」
「今度は守る!」
声が大きい。
火種が一つ跳ねる。
【火種:宣言過多】
「その音量です」
「……守る」
「はい」
少しだけ、小さくなった。
王太子殿下の延期声明は、その日の夕方に出された。
反応は割れた。
『逃げた』
『いや、責任と向き合うなら待つ』
『強い王ならすぐ話せ』
『確認してから話すのは悪くない』
『また広報官が止めたんだろ』
『止められるなら止められてくれ』
最後の投稿に、私は少しだけ笑った。
でも、笑いはすぐに消えた。
王太子支持の流れは止まっていない。
むしろ、延期すら「慎重な強さ」と解釈され始めている。
水晶掲示板には、新しい言葉が浮かんでいた。
『迷わぬ王だけでなく、待てる王へ』
上手い。
あまりにも上手い。
私たちが火を弱めた端から、誰かが別の形の火に組み直している。
夜、臨時広報調査室に戻ると、机の上に王都各区の投稿写しが積まれていた。
同じ言葉。
似た構文。
違う場所。
違う筆跡。
でも、向きは同じ。
強い王。
謝らない王。
迷わない王。
待てる王。
王太子殿下を中心に、民衆の不満が綺麗に巻き取られている。
私は赤鉛筆を取った。
「誰かが、世論を操作しています」
カイル様が頷く。
「火元か」
「はい」
エレオノーラ様が静かに言った。
「そして、その火元はたぶん、私たちが思うより近い場所にありますわ」
私は投稿写しに赤線を引く。
『優しさでは国は守れない』
別の紙にも同じ言葉。
『謝る王は弱い』
別の紙にも。
『迷いのない王を』
また別の紙にも。
模倣しやすい。
覚えやすい。
三語以内。
感情に刺さる。
神殿広報官オルドが言った言葉を思い出す。
民は三つ以上覚えられない。
そして、ベルクの冷たい微笑みも。
民には秩序ある物語が必要。
私は胃薬を一粒飲んだ。
苦い。
とても苦い。
「第六章、開幕から胃が痛いですね」
セラさんが言った。
「章で言わないでください」
「では、今日の業務は?」
「同一文言の拡散経路を追います」
「つまり?」
私は掲示板の写しを持ち上げた。
「誰かが世論を操作している証拠を探します」
窓の外では、王都の水晶掲示板が夜の中で淡く光っていた。
そこに、また新しい投稿が浮かぶ。
『民は王太子殿下の大演説を待っている』
延期したはずの火が、もう次の薪を探していた。




