王宮広報局、内部崩壊
王宮の廊下は、燃えない。
石造りで、厚く、冷たく、代々の王が踏んできた重さをこれでもかと主張している。
だが、その朝の王宮広報局の廊下は、紙で燃えていた。
紙は燃えやすい。
言葉も燃えやすい。
そして、王宮内部の通達文は、とても燃えやすい。
『報道機関との接触記録を、今後すべて局長室へ集約すること』
『外部新聞社への情報提供は、事前承認制とすること』
『混乱を避けるため、声明および訂正依頼の発出権限を一元管理すること』
私は通達文を読み終え、しばらく黙った。
隣でセラさんも黙っている。
向かいで先輩が胃薬の瓶を振った。
空だった。
乾いた音すらしない。
「……終わりました」
先輩が言った。
「胃薬が?」
「いえ、いろいろです」
「範囲が広すぎます」
私は通達文に赤線を引いた。
『混乱を避けるため』
まただ。
便利すぎる言葉である。
混乱を避けるため。
責任を曖昧にする時にも使える。
返事を遅らせる時にも使える。
誰かを黙らせる時にも使える。
実に多用途。
王宮公式呪文と言っていい。
できれば禁呪指定してほしい。
私の視界に火種が浮かぶ。
【火種:報道対応の一元管理】
【火種:訂正権限の停止】
【火種:灯火新聞への情報遮断】
【火種:リディア職務制限】
【火種:内部責任転嫁】
【火種:広報局分裂】
燃えている。
外では新聞社が燃やしている。
中では王宮が蓋をしようとしている。
蓋をすれば、火は消えると思っているのだろう。
残念ながら、炎上は鍋料理ではない。
蓋をしたら、圧が上がる。
「リディアちゃん」
先輩が、いつもの軽い声より少し低く言った。
「局長が呼んでる」
「今ですか」
「今」
「胃薬棚の前で倒れている場合では」
「倒れる胃薬がない」
「深刻ですね」
私は通達文を持って立ち上がった。
セラさんが小声で言う。
「同行しましょうか」
「いえ、大丈夫です」
反射でそう言って、私は止まった。
第43話の後から、この「大丈夫です」が少し引っかかる。
大丈夫ではない時に、大丈夫と言う癖。
それは仕事を進めるには便利だけれど、時々、人の手を払いのける。
私は言い直した。
「……大丈夫ではありません。でも、一人で行きます。内容を確認して、すぐ戻ります」
セラさんは少し驚いた顔をして、それから頷いた。
「わかりました。戻らなかったら?」
「捜索願を」
「どこへ?」
「胃薬棚の跡地へ」
「了解しました」
冗談で済ませられるうちは、まだましだ。
私は局長室へ向かった。
王宮広報局の廊下には、普段より多くの人がいた。
けれど、誰も大きな声で話していない。
目が合うと、すぐ逸らされる。
書類を抱えた若手職員が、私を見て口を開きかけ、閉じた。
年配の記録係が、小さく会釈だけした。
応援してくれている人もいる。
心配してくれている人もいる。
でも、表立って言えない。
それをわかっている。
わかっているのに、胸の奥が少し痛んだ。
人は皆、火に飛び込めるわけではない。
まだ先の話でエレオノーラ様が言いそうな言葉を、私はこの時、知らない。
けれど、似たことをうっすら理解し始めていた。
理解と痛みは、別物である。
局長室の扉を叩く。
「リディア・ノートンです」
「入れ」
局長の声は疲れていた。
入室すると、部屋の中には局長のほかに三人いた。
王宮広報局局長。
危機声明管理室の直属上司。
そして、ベルク・アインハルト宰相補佐。
最後の一人を見た瞬間、胃が職務放棄を申し出た。
却下である。
今は働いてもらう。
ベルク様は、いつものように礼儀正しく微笑んだ。
「リディア・ノートン様。ご足労いただきありがとうございます」
「職務ですので」
「頼もしいですね」
褒め言葉の形をしている。
だが、温度がない。
局長は机の上に通達文を置いていた。
同じ文面。
同じ句読点。
同じ匂い。
整いすぎた文面は、時々、刃物より冷たい。
「ノートン」
局長が言った。
「昨日の灯火新聞への情報提供について、説明を求める」
「はい。王太子殿下の発言全文記録、および大手新聞社による切り抜き箇所との対照表を、灯火新聞へ提供しました」
「それが問題だ」
「公開済みの発言記録に基づく検証です。報道内容の事前検閲ではありません」
「そういう理屈ではない」
局長は眉間を押さえた。
その顔色は本当に悪い。
責めているというより、沈みかけた船の中で誰を先に外へ出すか迷っている人の顔だった。
いや、迷っているならいい。
私だけ船倉に残される可能性もある。
「大手新聞社三社から正式抗議が来ている。貴族院の一部も騒いでいる。王太子派からも圧が来た」
「圧」
「圧だ」
局長は短く言った。
王宮で「圧」と言う時、それはだいたい紙に包まれた命令である。
上司が咳払いした。
「ノートン君。君の対応は、正しい部分もある。だが手順が早すぎる」
「噂の方が早いので」
「そういう問題ではない」
「そういう問題です」
言ってから、自分の声が少し強かったことに気づいた。
局長室の空気が固まる。
ベルク様だけが微笑んでいる。
私は息を吸い直した。
「失礼しました。ですが、王都瓦版の切り抜き記事はすでに掲示板で拡散しています。訂正や検証が遅れれば、印象が固定されます」
「だからといって、特定の新聞社に協力する形を取れば、王宮が報道を選別しているように見える」
「見え方の問題は理解しています」
「ならばなぜ」
「見え方を恐れて、全文記録を出さなければ、切り抜きだけが事実になります」
局長は黙った。
上司は目を伏せた。
ベルク様が、そこで静かに口を開いた。
「リディア様のお考えは、よくわかります」
わかってほしくない相手に言われると、胃がさらに緊張する。
「ですが、情報の速度が速い時ほど、発信元を一元管理する必要があります。複数の窓口が各々の判断で発信すれば、民は何を信じればよいかわからなくなる」
「民は、公式窓口が黙っている間に、見出しを信じます」
「だからこそ、公式窓口を整えるのです」
「整えるとは、止めることですか」
ベルク様の微笑みは崩れなかった。
「混乱を避けるためには、時に速度より秩序が必要です」
出た。
速度より秩序。
綺麗な言葉。
とても綺麗だ。
そして、私はその綺麗さが怖い。
「秩序のために、訂正を遅らせるのですか」
「遅らせるのではありません。確認するのです」
「確認している間に、嘘が届きます」
「嘘とは限りません。印象の問題です」
「印象で人は傷つきます」
局長が低く言った。
「ノートン」
私は口を閉じた。
言いすぎている。
正しい。
でも、正しさで部屋の壁を殴っている。
殴られた壁は、こちらを守ってはくれない。
局長は疲れた目で私を見た。
「今、王宮広報局は非常に危険な立場にある。大手新聞社との全面対立は避けたい。王太子派、公爵家、神殿、北方、すべての件が絡んでいる。ここで局全体が報道介入と見なされれば、広報局そのものが潰れる」
「潰れるのが怖いから、何も言わないのですか」
また強くなった。
わかっているのに、止められなかった。
「何も言わないとは言っていない!」
局長の声が初めて荒れた。
その瞬間、私は少しだけ驚いた。
局長も怖いのだ。
たぶん、ずっと怖かったのだ。
この人は私を守りきれない。
でも、守りたくないわけではない。
その区別を、私は今、見落としかけていた。
「……失礼しました」
私は頭を下げた。
部屋に重い沈黙が落ちる。
ベルク様が、それを待っていたように穏やかに言った。
「ノートン様の能力は貴重です。だからこそ、いったん権限の整理が必要でしょう」
嫌な予感がした。
予感というより、火種が目の前で形になる。
【火種:職務停止】
【火種:権限剥奪】
【火種:責任の個人化】
【火種:広報局保身】
【火種:リディア孤立】
局長が机の引き出しから、一枚の書類を取り出した。
私はその紙を見た瞬間、胃の奥が冷たくなるのを感じた。
『リディア・ノートン職務権限の一時停止について』
題名が丁寧だ。
丁寧な紙ほど、痛い時がある。
「ノートン」
局長は言った。
「これは処分ではない」
その言い方が、すでに処分の匂いをしていた。
「調査と整理のためだ。君の外部新聞社対応、声明草案作成、訂正依頼発出の権限を一時停止する」
「期間は」
「未定だ」
未定。
便利な言葉である。
終わりがない時に使う。
私は書類を見つめた。
視界の端で、火種が揺れる。
【火種:未定期間による事実上の排除】
【火種:責任回避】
【火種:リディア支持者の沈黙】
【火種:灯火新聞連携断絶】
【火種:大手新聞社優勢】
ここで怒るべきだ。
反論すべきだ。
でも、反論の言葉が喉で絡まる。
局長は私を完全に切り捨てようとしているわけではない。
局を守ろうとしている。
上司も同じだ。
恐れている。
自分たちの部署が消えることを。
自分たちの職がなくなることを。
家族や生活を巻き込まれることを。
私はそれをわかってしまった。
わかってしまうと、怒りの向け先が少し鈍る。
それでも、痛い。
「……承知しました」
私が言うと、上司が顔を上げた。
何か言いたそうだった。
でも言わなかった。
言えなかった。
その沈黙が、針のように刺さる。
私は書類を受け取った。
ベルク様が微笑む。
「ご理解いただき感謝します。混乱が収まれば、また適切な形でお力を」
「ベルク様」
「はい」
「混乱が収まる、とは、誰が決めるのですか」
ベルク様は一拍置いて、答えた。
「王宮です」
「民ではなく?」
「民に混乱の判断を委ねることは、危険です」
私は紙を握る手に力を入れた。
何かを言いたかった。
でも、今言えば燃える。
いや、燃えてもいい言葉と、今は燃やしてはいけない言葉がある。
私は飲み込んだ。
飲み込んだ言葉は、胃に落ちて重くなる。
「承知しました」
もう一度そう言って、私は局長室を出た。
廊下に出た瞬間、足が少しだけ重くなった。
職務停止。
外部新聞社対応停止。
声明草案作成停止。
訂正依頼発出停止。
つまり、私の手から、言葉を書く仕事が取り上げられた。
誰かの言葉を守るための場所から、少しだけ追い出された。
廊下の端で、若手職員が私を見た。
彼はすぐ目を逸らした。
それが悪意ではないことはわかる。
わかる。
でも、痛い。
作業室に戻ると、セラさんが立ち上がった。
「リディアさん」
先輩もいた。
机の上には、空の胃薬瓶が三つ並んでいる。
誰かが紙にこう書いて貼っていた。
『予算要求:胃薬』
その下に、別の誰かが小さく追記している。
『緊急性:極めて高い』
さらに別の筆跡。
『理由:王宮が燃えているため』
私はそれを見て、少しだけ笑いそうになった。
笑えなかった。
「職務停止です」
短く言うと、室内の空気が沈んだ。
セラさんが息を呑む。
先輩が頭をかいた。
「あー……やっぱり来たか」
「やっぱり?」
私の声が思ったより冷たかった。
先輩が動きを止める。
私は自分でも止める前に続けていた。
「予想していたなら、なぜ言わなかったんですか」
「リディアちゃん」
「大手新聞社の抗議が来た時点で、局内の動きも見えていたんですよね。なら、先に共有していただければ」
「共有しても、止められなかった」
「止められなくても、準備はできました」
「ごめん」
先輩はすぐ謝った。
その早さが、余計に私を止められなくした。
「謝ってほしいわけではありません」
声が強い。
わかっている。
でも、止まらない。
「私は一人で対応していたつもりはありません。でも、こういう時に皆さんが黙るなら、結局、火の中に立つのは私だけです」
言った瞬間、部屋の空気が冷えた。
セラさんの顔が強張る。
先輩が、何か言おうとしてやめた。
私は自分の言葉が、同僚たちを殴ったのだと気づいた。
遅い。
言葉は、一度出たら消えない。
前にも学んだはずなのに。
「……すみません」
私はすぐに言った。
「今のは、違いました」
誰もすぐには返事をしなかった。
当然だ。
謝れば済む話ではない。
私は手の中の職務停止書を見た。
悔しい。
怖い。
そして、味方になれない人たちを責めたくなる。
けれど、その人たちにも生活がある。
恐怖がある。
守りたいものがある。
わかっているのに、腹が立つ。
その怒りを、私は同僚にぶつけた。
最悪だ。
炎上対応係が、内部で火を出してどうする。
「今の発言は撤回できません」
私は言った。
「でも、謝罪します。皆さんが黙っていることを、全部裏切りのように言いました。それは違います。怖いのは当然です。巻き込まれたくないのも当然です。私が、それを責める形になりました」
セラさんは唇を噛んでいた。
先輩は、空の胃薬瓶を指先で転がした。
「……リディアちゃんさ」
「はい」
「俺たちも、格好悪いのはわかってる」
先輩は小さく笑った。
笑ったけれど、目は笑っていなかった。
「止めたかったよ。局長にも言った。『ノートン一人を切る形にすると燃えますよ』って。そしたら局長が『燃えるから切るんだ』って顔をした」
「……」
「俺も怖い。家族いるし。王宮の仕事失ったら困るし。新聞に名前出たら、たぶん耐えられない」
先輩は空瓶を置いた。
「でも、黙ってるだけじゃだめだとも思ってる。思ってるけど、すぐ動けない。ごめん」
私は何も言えなかった。
セラさんが、静かに言った。
「私は、記録は続けます」
私は顔を上げる。
「セラさん」
「外部対応権限は止められても、内部記録の整理は止められていません。通達文、会議記録、抗議文、局内決裁の流れ。全部、時系列で残します」
「それは、危険です」
「知っています」
セラさんの声は震えていなかった。
「でも、記録係が記録をやめたら、本当に終わります」
胸が詰まった。
先輩が肩をすくめる。
「俺は胃薬予算を通す」
「それは戦線ですか」
「重要戦線だよ。胃が死ぬと人は戦えない」
少しだけ、息が漏れた。
笑いには足りない。
でも、息はできた。
「……ありがとうございます」
私は言った。
「さっきは、本当にすみませんでした」
セラさんは少しだけ頷いた。
すぐには笑わない。
それでいい。
すぐ笑ってもらえると思う方が甘い。
傷つけた言葉には、時間がいる。
そこへ、扉が乱暴に開いた。
入ってきたのはカイル様だった。
後ろにエレオノーラ様もいる。
どうやら通達の話を聞きつけたらしい。
カイル様は私の手元の紙を見た。
「止められたか」
「はい」
「誰が」
「王宮広報局としての判断です」
「誰が」
声が低い。
私は首を振った。
「今ここで個人名を出しても、火種になります」
「ベルクか」
「……関与は疑われます」
カイル様の手が、わずかに動いた。
剣ではない。
でも、空気が硬くなる。
私はすぐに言った。
「物理は禁止です」
「まだ何もしていない」
「顔がしていました」
エレオノーラ様が扇を開いた。
「カイル様。今暴れれば、新聞社が喜びますわ。『辺境伯、広報局に圧力』。見出しが三つは浮かびます」
「四つだ」
「張り合わないでください」
私は深く息を吸った。
「職務停止は一時的です。外部対応、声明草案、訂正依頼は止められました。でも、記録を見ること、整理すること、内部で意見を述べることまでは完全に禁じられていません」
「抜け道か」
「合法範囲です」
「同じでは」
「違います。たぶん」
エレオノーラ様がこちらを見た。
「リディア、あなたはどうしたいの?」
問いは静かだった。
簡単に「戦います」と言いたかった。
でも、さっき同僚を傷つけたばかりだ。
私一人が正しいと思って突き進めば、また誰かを置き去りにする。
「……今すぐ反撃したいです」
私は正直に言った。
「でも、今の私は怒っています。怖くもあります。その状態で書くと、たぶん誰かを刺します」
エレオノーラ様は頷いた。
「よろしい判断ですわ」
「よろしいですか」
「怒っている自覚がある人間は、まだ刃物の柄を握り直せます」
カイル様が言った。
「なら、休め」
「休むわけには」
「休め」
短い。
いつもの言葉。
でも、今の私はそれに少しだけ逆らいたくなった。
「休んでいる間に、向こうが進めます」
「倒れても進む」
「倒れません」
「手が震えている」
言われて、自分の手を見た。
職務停止書を握る指が、少し震えている。
悔しい。
見られたことも、震えていることも。
エレオノーラ様が言う。
「休むとは、何もしないことではありませんわ。次に何をするかを、怒りではなく方針で決める時間です」
「方針」
「ええ。王宮内で言葉を封じられたなら、王宮外で言葉を組む必要があります」
その言葉に、私は顔を上げた。
王宮外。
灯火新聞。
エレオノーラ様の社交網。
カイル様の北方。
まだ完全に自由ではないミリア様の記録。
使えるものはある。
ただし、今はまだ動けない。
正式に職務停止を受けた直後だ。
不用意に動けば、今度こそ「権限逸脱」になる。
「……整理します」
私は言った。
「今は、記録と状況を整理します。外へは動きません」
「一人で?」
セラさんが聞いた。
私は少し迷い、それから首を振った。
「一人では、やりません」
その言葉を言うのに、思ったより力がいった。
自分で全部やった方が早い。
そう思ってしまう。
でも、それが今までの癖だ。
他人の言葉を書き、他人の火を消し、自分だけが火の前に立つ。
それでは、いつかまた誰かを責める。
私はセラさんを見る。
「記録整理をお願いします」
「はい」
先輩を見る。
「胃薬予算と、局内で安全に話せる人の確認をお願いします」
「胃薬と人脈、同時発注ね」
「お願いします」
エレオノーラ様を見る。
「社交界側の反応を、まだ表に出さない形で見ていただけますか」
「得意分野ですわ」
カイル様を見る。
「カイル様は」
「殴らない」
「先に言われた」
「言われると思った」
「では、北方側に王宮広報局の通達文がどう見えるか、意見をください。特に『混乱を避けるため』と『一元管理』について」
カイル様の目が少し細くなった。
「わかった」
短い。
でも、受け取ってくれた。
その時、作業室の水晶掲示板が明滅した。
新しい見出し。
『王宮広報局、情報統制疑惑に沈黙』
『リディア・ノートン氏、職務権限停止か』
『大手新聞社、王宮へ正式抗議』
早い。
早すぎる。
まだ局長室を出て、ほんの少ししか経っていない。
内部情報が漏れている。
私は水晶掲示板を見つめた。
【火種:職務停止情報漏洩】
【火種:リディア処分確定印象】
【火種:王宮広報局の混乱露呈】
【火種:内部漏洩者】
【火種:灯火新聞孤立】
【火種:王宮広報局内部崩壊】
火種の中で、一つだけ妙に冷たいものがあった。
内部漏洩者。
誰かが、局内の決定を外へ流している。
新聞社は敵に回った。
そして、王宮の中にも、新聞社へ刃物を渡す人間がいる。
セラさんが小さく言った。
「職務停止の情報、早すぎます」
「はい」
先輩が苦い顔をした。
「局内だね」
私は頷いた。
胸の奥に、怒りが戻ってくる。
でも、今度はそれをすぐに言葉へしなかった。
怒りは火だ。
火は灯りにもなる。
でも、握り方を間違えれば、また誰かを焼く。
「記録を取りましょう」
私は言った。
「この見出しが出た時刻。局長室で職務停止を告げられた時刻。通達文の配布範囲。全部」
「はい」
セラさんが即座に筆を取る。
カイル様が水晶掲示板を見たまま言う。
「斬る相手が増えた」
「概念も人も斬らないでください」
「では」
「記録で刺します」
エレオノーラ様が微笑んだ。
「物騒なのに合法的ですわね」
「広報の刃物は、紙です」
私は職務停止書を机に置いた。
今の私は、公式には動けない。
声明も出せない。
訂正依頼も送れない。
でも、見ている。
記録している。
まだ、火元を見ることはできる。
水晶掲示板には、さらに文字が流れる。
『王宮広報局、混乱』
『内部対立か』
『情報統制官リディア、失脚?』
私はその文字を見つめた。
怖い。
悔しい。
痛い。
でも、今ここで叫べば、向こうの見出しになる。
だから、私は赤鉛筆を取った。
職務停止書の端に、まず時刻を書いた。
次に、通達文の文言。
次に、漏洩記事の時刻。
セラさんが横で記録を重ねる。
先輩が胃薬予算要求書に、異様な速度で羽根ペンを走らせる。
エレオノーラ様が扇の陰で、誰に連絡を取るべきか考えている。
カイル様が黙って、水晶掲示板の前に立っている。
文字から私を少し隠すように。
王宮広報局は、内部から崩れ始めていた。
だが、崩れる音を記録する者がいる。
崩した者の足跡を見る者がいる。
そして、私はまだ、完全には黙っていない。
その日の夕刻。
正式な通達が届いた。
『リディア・ノートンについて、調査完了まで危機声明管理室における外部発信業務を停止する』
署名は局長。
承認欄には、宰相府補佐官室の印。
私はその印を見つめた。
ベルク様の部署印。
北方補助金遅延の書類にもあった印。
同じ冷たい形。
同じ、きれいな押し方。
火種が、静かに燃え上がる。
【火種:ベルク介入】
【火種:リディア排除】
【火種:訂正機能停止】
【火種:王宮広報局掌握】
私は赤鉛筆で、その印の横に小さく書いた。
『火元候補』
その文字を見て、カイル様が言った。
「次は」
私は答えた。
「独立します」
セラさんが顔を上げた。
先輩が羽根ペンを止めた。
エレオノーラ様が、ゆっくりと笑った。
「ようやくですわね」
私は職務停止書を畳んだ。
怖い。
ものすごく怖い。
王宮の外へ出るということは、王宮の盾を失うことだ。
でも、王宮の中にいる限り、言葉を取り上げられる。
ならば、別の場所で火を見るしかない。
王宮広報局は、内部崩壊を始めた。
だから私は、崩れた瓦礫の外で、新しい机を作ることにした。
胃薬棚は空。
権限も停止。
味方は少ない。
それでも、火は待ってくれない。
私は息を吸った。
「臨時の調査室を作ります」
先輩が呟いた。
「名前、どうする?」
私は少しだけ考えた。
「火消し隊」
「物騒」
「噂殲滅部隊」
「もっと物騒」
「胃痛同盟」
沈黙。
カイル様が短く言った。
「それだ」
「それではありません」
私は即答した。
でも、室内に少しだけ笑いが戻った。
まだ小さい。
すぐ消えそうな笑い。
けれど、火ではない。
灯りだった。
次の戦場は、王宮の外。
そして私たちはまだ、自分たちがその小さな同盟を、後に本当にそう呼ぶことになるとは知らなかった。




