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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
王都瓦版戦争

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45/100

炎上対応係、独立します

 職務停止を命じられた翌朝、私は王宮の外にいた。


 正確には、王宮の門を出て、三十七歩の場所にいた。


 なぜ歩数を数えているのかといえば、胃が痛い時、人は無意味な数字にすがるからである。


 三十七歩。


 王宮の敷地外。


 つまり、私は今、王宮広報局おうきゅうこうほうきょくの机に座っていない。


 危機声明管理室の胃薬棚の前にもいない。


 局長室の冷たい通達文の前にもいない。


 自由。


 ……と言うには、背中に王宮の門番の視線が刺さっている。


 私は手元の紙袋を抱え直した。


 中身は、筆記具、写しを取った公開記録、合法的に持ち出せる範囲の資料、そして胃薬である。


 胃薬は先輩が餞別としてくれた。


 瓶の表面には、震える字でこう書かれていた。


『予算外支給。返却不要。生きろ』


 重い。


 胃薬にこんなに生存圧をかけられる日が来るとは思わなかった。


「リディア」


 王宮馬車寄せの方から、エレオノーラ様が歩いてきた。


 今日の彼女は淡い灰青のドレスを着ている。


 派手ではない。


 けれど、決して地味でもない。


 誰かに弱っていると思わせない色。


 誰かに勝ったと思わせない色。


 社交界という戦場で長く生きてきた人の、防具のような装いだった。


「お待たせしました」


「待っていませんわ。あなたが王宮の門の前で三十七歩ぶん魂を抜かれているのを、観察していただけです」


「数えられていましたか」


「ええ。四十歩目で倒れたら拾おうと思っていました」


「拾い方が貴族的ですね」


「公爵家ですもの」


 そう言って、エレオノーラ様は私の紙袋を見た。


「荷物はそれだけ?」


「合法的に持ち出せるものだけです」


「違法なものは?」


「心の中に」


「よろしい。証拠として押収されませんわ」


 物騒な会話なのに、少しだけ肩の力が抜けた。


 王宮の外の空気は、妙に広い。


 広いのに、怖い。


 今まで私は、王宮を燃える建物だと思っていた。


 でも、王宮は同時に壁でもあった。


 面倒で、冷たくて、時々人を押し潰すけれど、それでも内側にいれば「王宮職員」という札があった。


 今の私は、その札を少しだけ剥がされた状態だ。


 職務停止。


 外部発信業務停止。


 声明草案作成停止。


 訂正依頼発出停止。


 つまり、公式には何も言えない。


 なのに、火は待ってくれない。


「場所は確保してありますわ」


 エレオノーラ様が言った。


「公爵家の屋敷ですか」


「いいえ。そこでは目立ちすぎます。王宮からも新聞社からも監視されるでしょう」


「では?」


「灯火新聞の旧印刷所です」


 私は瞬きをした。


「旧印刷所」


「ええ。今は倉庫扱いになっていますが、机も壁も屋根もあります。屋根は重要ですわ」


「炎上対応に屋根は必要ですね」


「胃薬も置けます」


「それはもっと重要です」


 馬車の扉が開く。


 中にはすでにカイル様がいた。


 大きい。


 馬車が狭く見える。


 彼は腕を組み、黙ってこちらを見た。


「おはようございます、カイル様」


「乗れ」


「挨拶が短い」


「おはよう」


「改善が早い」


「乗れ」


「戻りましたね」


 私は馬車に乗った。


 エレオノーラ様も向かいに座る。


 扉が閉まると、馬車は静かに動き出した。


 王宮の門が遠ざかる。


 石の壁。


 尖塔。


 掲げられた紋章。


 いつもなら、そこへ戻るのが仕事だった。


 今は、そこから離れるのが仕事になる。


 胸の奥が少しだけ軽くなった。


 同時に、不安で重くなった。


 人間の胸は忙しい。


「リディア」


 カイル様が言った。


「はい」


「顔が変だ」


「褒め言葉ではありませんね」


「嬉しそうで、怖そうだ」


 私は言葉に詰まった。


 その通りだった。


 王宮から離れたことで、私は少し高揚している。


 あの通達文から、局長室の沈黙から、ベルク様の冷たい笑みから、一歩外に出た。


 これで自由に動ける。


 そんな錯覚がある。


 でも、同時に怖い。


 王宮の外で失敗すれば、もう「局内処理」では済まない。


 私個人が燃える。


 協力してくれる人も燃える。


 灯火新聞も燃える。


 エレオノーラ様も、カイル様も巻き込む。


「……嬉しいです」


 私は正直に言った。


「怖いです。でも、少し嬉しい」


 エレオノーラ様が小さく微笑んだ。


「檻から出る時、人はたいていそういう顔をしますわ」


「檻だったのでしょうか」


「守る壁でもありましたわね」


 エレオノーラ様の言葉は鋭い。


 でも、切るだけではない。


 形を教えてくれる。


「リディア。今日からあなたは、王宮の外で言葉を扱うことになります。王宮広報官の肩書きは、一時的に使えません」


「はい」


「ですから、いつもより慎重に。いつもより大胆に」


「矛盾しています」


「両方必要ですわ」


 カイル様が短く言う。


「敵は?」


「多いです」


「数で言え」


「大手新聞社三社、王太子派貴族の一部、神殿残党、王宮内部の一部、ベルク様周辺、未確認の資金元、あと世論」


「多い」


「だから多いと言いました」


「斬る順は」


「斬りません」


「では叩く」


「叩きません」


「では」


「調べます」


 カイル様は少し不満そうだった。


 この人は本当に、情報戦を物理戦に変換しがちである。


 ただ、今はその物理の気配が心強くもある。


 危険だ。


 心強さと危険は、時々同じ顔をしている。


 私がそれに寄りかかりすぎれば、相手に「辺境伯の武力を背景にした圧力」という見出しを与える。


 第56話の火種は、まだ未来にある。


 でも、今から気をつけなければ、そこへ道が続いてしまう。


「カイル様」


「何だ」


「今回、護衛は必要です。でも、前に出すぎないでください」


「なぜ」


「あなたが前に出ると、記事になります」


「俺は記事ではない」


「記者は人を記事にします」


 カイル様は黙った。


 それから、少し不機嫌そうに頷いた。


「わかった」


 短い。


 でも、聞いてくれる。


 北方で「君の言葉なら、届く気がする」と言われた時のことが、ふと胸をよぎる。


 うれしい。


 でも怖い。


 届く言葉は、失敗した時の傷も深い。


 馬車は王都の大通りを抜け、灯火新聞のある裏通りへ入った。


 華やかな貴族街とは違い、ここは紙とインクと焼き栗の匂いがする。


 情報と炭水化物の混在地帯。


 胃には優しくないが、少し好きだ。


 旧印刷所は、灯火新聞本社の裏手にあった。


 低い石造りの建物で、入口の扉には古い看板が斜めにかかっている。


『灯火新聞 第二印刷室』


 その下に、小さく追記されていた。


『現在、物置。たまに雨漏り』


「屋根は重要とおっしゃいましたよね」


 私が看板を見ると、エレオノーラ様は涼しい顔で答えた。


「屋根があるとは言いました。完璧とは言っていませんわ」


「契約書みたいな言い方をしないでください」


 扉を開けると、中にはすでに灯火新聞の編集長がいた。


 年季の入った上着。


 インクの染みた指。


 目つきは鋭いが、どこか眠そう。


 第42話で「うちは訂正欄だけは大きい」と言った人である。


「来たか、王宮を追い出された火消し係」


「職務停止です。追放ではありません」


「新聞の見出しなら追放の方が売れる」


「やめてください」


「冗談だ。うちは訂正欄が大きいが、わざと間違える趣味はない」


 編集長は顎で室内を示した。


 古い印刷機が一台。


 大きな作業机が二つ。


 壁には紙束が積まれ、床にはインク瓶と木箱が並んでいる。


 窓は小さい。


 外から覗かれにくい。


 逃げ道は裏口が一つ。


 危機対応の拠点としては、悪くない。


 雨漏り以外は。


 天井の染みを見上げていると、編集長が言った。


「一応、雨の日は右奥に座るな。資料が死ぬ」


「人より資料の心配ですか」


「新聞社だからな」


 正直でよろしい。


 そこへ、セラさんと先輩が入ってきた。


 セラさんは記録箱を抱えている。


 先輩はなぜか胃薬瓶を抱えている。


「先輩」


「持ってきたよ。胃薬」


「量が多い」


「臨時拠点だろ? 備蓄は大事」


 カイル様が頷いた。


「備蓄は大事だ」


「辺境伯様から同意を得ました」


「そこで意気投合しないでください」


 先輩は机の一角に胃薬瓶を並べ始めた。


 その手つきが妙に慣れている。


 王宮広報局には、胃薬を並べる技術ばかり発達した人材が多い。


 国家的損失である。


 エレオノーラ様が扇を閉じた。


「では、始めましょうか」


「はい」


 私は中央の作業机に紙を広げた。


 まず、現状整理。


 職務停止通達。


 外部発信業務停止。


 王宮広報局内の情報漏洩。


 大手新聞社三社による抗議。


 王太子派の記事連発。


 灯火新聞への圧力。


 ベルク様の部署印。


 そして、裏で流れている金の気配。


 私は赤鉛筆で線を引いていく。


 セラさんが時系列を書き出す。


 編集長が新聞の発行時刻と配布経路を並べる。


 エレオノーラ様が社交界の噂の出所を添える。


 カイル様は黙って見ている。


 先輩は胃薬瓶の横に「会議用」と札を立てた。


 何の会議だ。


「まず、名称です」


 エレオノーラ様が言った。


「名称?」


「組織名ですわ。名前がなければ、呼びづらいでしょう」


 編集長が紙を一枚出した。


「案はある」


 そこには、達筆とは言いがたい字でこう書かれていた。


『火消し隊』


『噂殲滅部隊』


『王都火元調査会』


『臨時広報調査室』


『胃痛同盟』


 私は最後の一行を指で押さえた。


「これは誰ですか」


 先輩が目を逸らした。


 カイル様が言った。


「良い」


「良くありません」


「わかりやすい」


「わかりやすすぎて情けないです」


 編集長が煙草の代わりに木の棒を噛みながら言った。


「新聞的には胃痛同盟が一番強い」


「新聞的に強い名前を正式名称にしたくありません」


「読まれる」


「読まれればいいというものではありません」


 エレオノーラ様が微笑む。


「では表向きは『臨時広報調査室』。裏では胃痛同盟」


「裏でもやめたいです」


「もう遅い」


 先輩が小さく言った。


 私は彼を見た。


「先輩?」


「さっき灯火新聞の若い記者さんに、胃薬瓶の搬入を見られた」


「……」


「『胃痛同盟、発足ですか?』って聞かれたから」


「答えたんですか」


「否定はした」


「何と」


「正式名称ではありません、って」


 私は額を押さえた。


「認めています」


「そうとも言う」


 編集長が紙の上に大きく書いた。


『臨時広報調査室』


 その下に、小さく。


『通称:胃痛同盟』


「消してください」


「後世のために残す」


「後世に残すな」


 エレオノーラ様が楽しそうに笑っている。


 カイル様はなぜか満足そうだ。


 私は深く息を吸った。


「……表向きは臨時広報調査室です。目的は三つ」


 私は紙に書く。


 一、公開記録と報道内容の差異を検証する。


 二、悪意ある切り抜き、未確認情報、資金誘導の流れを記録する。


 三、被害を受けた当事者の言葉を、本人の意思を確認したうえで届ける。


 書いてから、手が止まった。


 本人の意思。


 エレオノーラ様。


 ミリア様。


 北方の人たち。


 カイル様。


 そして、私自身。


 この一文を守るのは難しい。


 私はこれまで、守るために整えようとして、何度か人の輪郭を削りかけた。


 ここから先は、王宮の手順書がない。


 私が間違えれば、誰かの言葉をまた奪う。


 でも、止まるわけにはいかない。


「よろしいと思いますわ」


 エレオノーラ様が言った。


「ただし、一文足してください」


「何をですか」


「四つ目」


 彼女は私の赤鉛筆を取り、紙に書いた。


『四、私たちは、間違えた場合、訂正する』


 私はその一文を見つめた。


 灯火新聞の編集長が、少しだけ目を細める。


「いいな」


「いいですか」


「訂正欄が大きい新聞社としては、非常にいい」


 編集長は真顔で頷いた。


「間違えない組織は信用するな。間違えた時に訂正しない組織は、もっと信用するな」


 胸に刺さった。


 王宮は、間違えた時に訂正するのが遅い。


 時には訂正しない。


 大手新聞社も同じ。


 では、私たちはどうする。


 間違えないと誓うのではなく、間違えた時に訂正すると誓う。


 それは、完璧な声明よりずっと怖い。


 でも、必要だ。


「入れましょう」


 私は頷いた。


 その時、セラさんが記録箱から一枚の紙を出した。


「王宮記録局から、ミリア様についての最新報告が来ています」


 空気が少し変わった。


 私は紙を受け取る。


『ミリア・セレスの聖女候補辞退申請について、神殿側は正式受理をなお保留。王宮記録局保護下での追加聴取は予定通り。ただし外部声明への参加は認められず』


 私はその一文を読んだ。


 ミリア様はまだ、火の中に自由に出てこられない。


 第30話で「パンがいい」と言った少女は、まだ手続きの中にいる。


 彼女の言葉を、勝手にこちらの旗にしてはいけない。


「ミリア様の名前は、現時点では使いません」


 私は言った。


「神殿関連の検証には、公開済みの帳簿と王宮記録局の確認済み範囲のみを使います。本人の未公開発言は出しません」


「それで弱くなる」


 カイル様が言った。


「はい」


「だが、それでいい」


 彼は短く言った。


「勝手に続きを書くな」


 北方の馬車で言われた言葉が、ここに戻ってきた。


 私は頷いた。


「はい。勝手に書きません」


 エレオノーラ様が静かにこちらを見ていた。


 その視線は優しいが、試すようでもある。


「私の名前は使ってかまいませんわ」


「本当に?」


「ええ。私は火に慣れていますもの」


「慣れていることと、燃えて平気なことは違います」


 エレオノーラ様は少しだけ目を細めた。


 私は続ける。


「エレオノーラ様の証言や名誉回復記事は必要です。でも、あなたを盾にしすぎないようにします」


「……ずいぶん言うようになりましたわね」


「職務停止中なので」


「関係ありませんわ」


 彼女はそう言って、ほんの少し笑った。


 でも、その指先は扇の骨を強く押さえていた。


 私はそれを見た。


 見たが、今は指摘しない。


 記録もしない。


 その震えは、記事にするためのものではない。


 会議は続いた。


 灯火新聞は紙面を提供する。


 ただし資金は足りない。


 訂正記事は売れるが、調査記事は金がかかる。


 大手新聞社と違い、灯火新聞には太い商会広告が少ない。


 編集長は淡々と言った。


「紙代、印刷代、配達人への危険手当。全部いる」


 先輩が胃薬瓶を見ながら呟く。


「胃薬より高いですね」


「胃薬と比べるな」


 編集長が言う。


 カイル様が無言で革袋を置いた。


 重い音がした。


 全員がそちらを見る。


「カイル様」


「使え」


「これは?」


「金だ」


「それは見ればわかります」


「広告費」


 私は嫌な予感がした。


「広告費」


「弾薬でもいい」


「よくありません」


 この流れは第47話で本格的に問題になる。


 今ここで受け取れば、北方辺境伯が灯火新聞を買ったという見出しになる。


 実際、相手はそう書くだろう。


【火種:辺境伯による新聞買収疑惑】

【火種:リディア癒着疑惑】

【火種:灯火新聞の独立性低下】

【火種:北方資金による世論操作印象】


 私は革袋を見つめた。


 必要だ。


 資金は必要だ。


 正しい記事も、紙がなければ届かない。


 灯火新聞が動くには金がいる。


 しかし、受け取り方を間違えれば、私たちは相手と同じに見える。


 私は口を開いた。


「条件をつけます」


 カイル様がこちらを見る。


「条件?」


「資金提供は記録します。金額、用途、掲載記事との関係、すべて公開可能な形で残します。北方に有利な記事を書くための資金ではなく、検証記事と訂正欄維持のための費用として扱います」


「面倒だ」


「面倒だから信頼されます」


 編集長が頷いた。


「それなら受け取れる。うちは金をもらっても紙面は売らない。広告なら広告と書く。支援なら支援と記録する」


「お願いします」


 カイル様は少し不満そうだったが、革袋を引っ込めなかった。


「なら、そうしろ」


 私はその言葉を記録した。


 短い。


 でも逃げていない。


 こういう一文を、いつか彼はもっと大事な場面で使うのだろう。


 まだ、その時の私は知らない。


 昼前には、臨時広報調査室の机は紙で埋まった。


 王太子発言全文。


 切り抜き記事。


 北方訂正記事。


 神殿帳簿。


 王宮通達文。


 大手新聞社三社の抗議文。


 ベルク様の部署印がある書類の写し。


 商会広告一覧。


 新聞配布地域。


 水晶掲示板の投稿傾向。


 紙。


 紙。


 紙。


 旧印刷所は、情報の雪崩で埋まりかけていた。


 その中心で、私は少しだけ興奮していた。


 王宮では止められた。


 でも、ここでは動ける。


 エレオノーラ様の情報網。


 灯火新聞の紙面。


 カイル様の資金と護衛。


 セラさんの記録。


 先輩の胃薬。


 全部を組み合わせれば、戦える。


 たぶん、戦える。


 私は大きな紙に線を引き、矢印を書いた。


「まず、大手新聞社三社の共通点を洗います。記事の語彙、見出しの構造、資金元、配布地域。次に、王太子支持記事の増加時期と、王宮内通達の時期を照合します」


 手が止まらない。


「灯火新聞には、第一弾として『切り抜き記事の検証方法』を出してもらいます。個人攻撃ではなく、読み手が自分で見出しを疑えるようにする記事です。エレオノーラ様には、社交界で同じ言い回しがどこから出ているか確認を。カイル様は北方側の反応を――」


「リディア」


 エレオノーラ様が呼んだ。


「はい」


「息をしています?」


 私は一瞬固まった。


 していた、と思う。


 たぶん。


「しています」


「では、お茶を飲みなさい」


「今は」


「飲みなさい」


 言い方が、令嬢ではなく指揮官だった。


 私は茶杯を受け取った。


 温かい。


 手が少し震えていることに気づく。


 まただ。


 高揚している。


 王宮から離れて、自由になった気がして、私は速度を上げすぎている。


 危ない。


 早く進めば、届く。


 そう思ってしまう。


 でも、早すぎる言葉は確認を置き去りにする。


 第43話で、自分も「切り取る」側に立つ怖さを知ったばかりなのに。


 私は茶を飲んだ。


 味は薄い。


 たぶん旧印刷所の湯が悪い。


 でも温かい。


「……すみません。少し急ぎすぎました」


「少し?」


 エレオノーラ様が微笑む。


「かなり」


「よろしい」


 編集長が紙束をめくりながら言った。


「急ぐのは悪くない。だが、急ぐ時ほど、最初の一枚を間違えるな」


「最初の一枚」


「臨時広報調査室が最初に出す紙だ。それで信用されるか、同じ穴の狢と思われるか決まる」


 同じ穴の狢。


 情報を売る者。


 物語を整える者。


 ベルク様と、私たちの違いは何か。


 私は紙に書いた。


『違いを、記録で示す』


 きれいな言葉だけでは駄目だ。


 透明性。


 訂正。


 本人確認。


 資金公開。


 これらを最初に出す必要がある。


 その時、灯火新聞の若い記者が慌てて入ってきた。


「編集長!」


「火事か」


「比喩です!」


「なら落ち着け」


「大手瓦版の配達人が、商会街で妙な帳簿を運んでいました。紙束が落ちて、中身が少し見えたんですが」


 記者は息を整え、紙片を差し出した。


「広告費一覧です。商会名と、記事名らしきものが並んでいました」


 編集長の目が鋭くなる。


 私は紙片を受け取った。


 そこには、商会の名と金額らしき数字。


 そして記事の見出し案。


『王太子殿下、民の声に応える』


『強い王を望む声、高まる』


『公爵家の沈黙に疑問』


『灯火新聞、王宮寄り報道か』


 私の手が止まった。


 まだ確認前だ。


 紙片だけでは証拠にならない。


 だが、匂いがする。


 金の匂い。


 印刷インクより濃い、世論誘導の匂い。


 視界に火種が浮かぶ。


【火種:商会資金による記事誘導】

【火種:王太子人気演出】

【火種:灯火新聞信用攻撃】

【火種:エレオノーラ再攻撃】

【火種:王宮内部資金接続】


 カイル様が低く言った。


「火元か」


「まだ候補です」


 私は紙片を机に置いた。


「確認が必要です。紙片の出所、帳簿本体の所在、商会名、記事掲載日、広告契約。全部照合します」


 編集長が笑った。


「いい顔になったな」


「どんな顔ですか」


「燃やしたいけど、我慢している顔」


「物騒ですね」


「新聞向きだ」


「褒めないでください」


 エレオノーラ様が紙片を見つめる。


「商会街なら、私の方でも探れますわ。広告主は、お茶会にも顔を出します」


「危険です」


「危険ではない情報戦などありません」


 彼女はさらりと言った。


 その声に迷いはない。


 でも、私は彼女の指がまた扇を強く押さえたのを見た。


 強い人が、平気なわけではない。


 私は頷いた。


「お願いします。ただし、無理はしないでください」


「それは命令?」


「お願いです」


 エレオノーラ様は一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。


「なら、聞いて差し上げます」


 私は紙片に赤線を引いた。


 臨時広報調査室。


 通称、胃痛同盟。


 発足初日。


 私たちは、ようやく外へ出た。


 自由になった気がした。


 戦える気がした。


 でも、その自由の中で、私はすでに一つ見落としていた。


 王宮の外に出たことで、敵が見えやすくなった。


 その代わり、私自身も見えやすくなったのだ。


 夕方、灯火新聞の表に小さな紙が貼られた。


『臨時広報調査室、設置』


『公開記録に基づく報道検証を行います』


『誤りがあれば訂正します』


 その下に、誰かがふざけて小さく書いた。


『胃薬差し入れ歓迎』


 私は即座に剥がそうとした。


 先輩が止めた。


「待って、効果あるかも」


「何の効果ですか」


「民意」


「民意を胃薬で測らないでください」


 その夜。


 旧印刷所の机の上に、差し入れの包みが一つ届いた。


 中には胃薬。


 そして短い紙片。


『燃えすぎないでください。読んでいます』


 差出人名はない。


 私はその紙片を、しばらく見つめた。


 届いている。


 少なくとも、誰か一人には。


 その事実は、思ったより強く胸に触れた。


 けれど同時に、別の伝令が駆け込んできた。


 大手新聞社の倉庫から、裏帳簿らしきものが運び出されたという。


 行き先は、商会街。


 さらに一部は、王宮関係者の馬車へ積まれた可能性がある。


 私は立ち上がった。


 火は待ってくれない。


 そして今度の火元は、記事ではない。


 金だ。


 商会と、新聞社と、王宮をつなぐ金の流れ。


 それが見え始めていた。


 私は赤鉛筆を握り直す。


「明日から、裏帳簿を追います」


 カイル様が言った。


「護衛を出す」


 エレオノーラ様が微笑む。


「情報網を買いましょう」


 編集長が紙を整える。


「紙面を空ける」


 先輩が胃薬瓶を追加する。


「胃も空ける」


「空けないでください」


 私はそう返しながら、机の上の紙片を見た。


『読んでいます』


 たった一文。


 でも、火の中で見つけた灯りだった。


 臨時広報調査室は、動き出した。


 そして、私たちはまだ知らない。


 この小さな旧印刷所に集まった紙と胃薬と怒りが、大手新聞社の裏帳簿へ繋がっていくことを。


 王宮の外に出た私たちを、敵もまた、外から見ていることを。

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