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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
北方辺境伯の悪評

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君の言葉なら、届く気がする

 王都へ戻る準備というものは、荷造りより先に胃が痛くなる。


 衣類を畳む。


 資料をまとめる。


 記録水晶(きろくすいしょう)を梱包する。


 未処理の照会文を確認する。


 北方から王都へ送った七日以内の回答要求について、発送記録を写す。


 兵士家族への聞き取り記録を封印する。


 子どもたちの手紙の写しを数える。


 そして、辺境伯様から渡された保存食を見て、現実を疑う。


「……やはり多いです」


 私は村長宅の客間で、床に並んだ袋を見つめながら呟いた。


 干し肉。


 塩漬け肉。


 乾燥豆。


 硬い黒パン。


 薬草茶。


 胃薬。


 さらに干し肉。


 北方の感謝は保存性が高い。


 ありがたい。


 ありがたいが、これでは帰路というより補給作戦だ。


 カイル様は当然の顔で言った。


「道中に必要だ」


「一個人の移動にしては規模が戦です」


「王都は遠い」


「距離の問題ではなく、量の問題です」


「足りないよりいい」


「過ぎたるは馬車の悲鳴です」


 荷馬車の御者が窓の外で、すでに何かを悟った顔をしていた。


 私は心の中で謝った。


 すみません。


 王宮広報局は本来、干し肉物流を担当しておりません。


 だが、現場とはそういうものだ。


 声明文だけを書いていても、人は王都へ帰れない。


 保存食を積む。


 記録を積む。


 返事を待つ声も、積む。


 それがやけに重い。


 私は机の上に戻り、最終確認の紙を見た。


『北方辺境伯府照会文、王都到着予定五日後』


『回答期限、発送日より七日』


『期限内回答なき場合、未回答として北方領内記録に保全』


 末尾には、カイル様自身の一文がある。


『北方は、返事を待っている』


 短い。


 でも、逃げていない。


 この一文を見たとき、村長は少しだけ目を伏せた。


 トマは「まあまあ」と言った。


 彼なりの高評価らしい。


 老人は黙って掲示板の傷を撫でていた。


 私はその仕草を、まだ記録できずにいる。


 届くのが、いつも少し遅い。


 あの言葉が、紙の余白にずっと残っているような気がした。


「リディア」


 カイル様に呼ばれ、私は顔を上げた。


「はい」


「少し歩く」


「今ですか」


「ああ」


「出発準備が」


「終わっていないのか」


「八割は終わっています。残り二割がだいたい炎上します」


「なら、今のうちだ」


 何が「なら」なのかは不明だった。


 けれど、カイル様はもう外套を手にしている。


 無口な人は、時々説明を省略して行動で押し切る。


 これはこれで広報上危険だ。


 しかし、私は上着を羽織った。


 北方の朝は、王都の冬よりずっと静かだった。


 雪は昨夜から止んでいる。


 空は淡く白い。


 村の屋根には雪が積もり、煙突から細い煙が上がっていた。


 道の脇には、昨日貼られた訂正記事がまだ残っている。


 紙の端は凍って、少し反っていた。


 それでも誰かが雪を払ったらしく、文字は読める。


『北方兵給与遅延、王都補助金遅延が原因か』


『辺境伯府、私財による補填記録を公開』


『村民証言、反乱準備の事実なし』


 見出しだけを見ると、少し硬い。


 王都の大衆紙としては地味だ。


 でも、嘘ではない。


 煽りすぎてもいない。


 それでも一部には届いた。


 届いたからこそ、次の問いが出た。


 返事はいつ来るのか。


 訂正記事は終点ではなく、入口だったのだ。


 私たちは広場へ向かった。


 鐘楼の下には、子どもたちが集まっていた。


 トマが雪を固めて何かを作っている。


 熊かと思ったが、近づくと王都の城らしい。


 なぜか傾いている。


「その城、だいぶ不安定ですね」


 私が言うと、トマは振り返った。


「王都だから」


「評価が辛い」


「上の方だけ大きいと倒れるって父ちゃんが言ってた」


「政治風刺を雪で作らないでください」


 トマは鼻をこすった。


「リディア、今日帰るの?」


「出発は明日です。今日は最終確認です」


「最終って、もう来ないってこと?」


「また来ます」


「ほんと?」


「はい。王都からの返事を持って」


 言ってから、胃が痛んだ。


 約束が増える。


 約束は、言葉より重い。


 いや、言葉だから重いのかもしれない。


 トマは私をじっと見て、それからカイル様を見た。


「辺境伯様も?」


「ああ」


「じゃあ、待つ」


 短い。


 北方の人は、短い言葉で待つ。


 待つことに慣れてしまっているようで、胸が痛い。


 ナナが横から言った。


「王都の人たち、手紙読むかな」


「読ませます」


「リディアが読むの?」


「私は読みます。ほかの人にも読ませます」


「王太子も?」


 私は一瞬詰まった。


 カイル様がこちらを見る。


 トマも見る。


 子どもたちは容赦がない。


 私は咳払いした。


「……可能であれば」


「むり?」


「非常に難易度が高いです」


「王太子って字が読めないの?」


「読めます。たぶん」


 たぶん、と言ってしまった。


 王宮広報局員として不敬である。


 だが、これまでの謝罪文初稿を思い出すと断言できない。


 読む能力と読み取る能力は別である。


「ただ、読んだうえで何を考えるかは、また別の問題です」


「ふうん」


 トマは納得していない顔だった。


 私も納得していない。


 王太子人気が回復している。


 その背景に、「強い王が必要だ」という言葉が流れている。


 北方の補助金遅延まで、王太子派の物語に使われ始めた。


 ひどい話だ。


 だが、民衆の不満そのものは本物だ。


 王都の人々も、返事をもらえなかったのかもしれない。


 税の不満。


 治安への不安。


 貴族への怒り。


 王宮への不信。


 その声が、「強い王」というわかりやすい言葉に流れている。


 簡単な言葉は速い。


 丁寧な訂正は遅い。


 だから私は怖い。


 届く前に、誰かが別の物語で埋めてしまう。


 鐘楼の鐘が、風に揺れて小さく鳴った。


 一回ではない。


 二回でもない。


 ただ、金具が鳴っただけだ。


 それでも村人たちが一瞬、顔を上げる。


 この村には、噂を止める仕組みがある。


 王都には、まだない。


「リディア」


 カイル様が言った。


「はい」


「行くぞ」


「あ、はい」


 子どもたちに見送られながら、私たちは広場を離れた。


 村の外れへ向かう道は、雪で白く覆われている。


 遠くに北方の山が見えた。


 王都の絵師なら、ここを勇壮に描くだろう。


 冷たい山脈。


 厳しい風。


 寡黙な辺境伯。


 そして横に立つ私は、たぶん書類を抱えた胃痛顔だ。


 絵にならない。


 王都瓦版向きではない。


 だが、現実はだいたい絵にならない部分に人がいる。


「昨日の見出し」


 カイル様が言った。


「王太子派の記事ですか」


「ああ」


「北方の被害を、王太子殿下の『強さ』に結びつける記事ですね」


「利用された」


「はい」


 カイル様の口元が硬くなる。


 怒っている。


 当然だ。


 だが、彼は歩みを乱さない。


「斬れないのか」


「見出しは斬れません」


「記者は」


「斬れません」


「新聞社は」


「建物も斬れません」


「不便だな」


「文明社会ですので」


 カイル様は少し黙った。


「では、何をする」


「火元を見ます」


 私は即答した。


「誰が同じ文言を配っているのか。どの新聞社が同時に出したのか。資金はどこから流れているのか。水晶掲示板の投稿に同じ言い回しがないか。貴族サロンで誰が広めたのか」


「時間がかかる」


「かかります」


「その間に燃える」


「燃えます」


 私は足を止めた。


 雪の上に、自分の靴跡が残る。


 真っ白な道に、黒い線。


「それでも、早く間違えるよりは、遅くても正確に見ます」


 言ってから、私は胸が痛くなった。


 遅くても。


 その言葉は、北方では簡単に言えない。


 遅れたせいで、誰かが死んだ。


 遅れたせいで、手紙は読まれなかった。


 遅れたせいで、毛布も薬代も届かなかった。


 私は唇を噛んだ。


「……いえ」


 言い直す。


「正確に見る。でも、遅れすぎないようにする。そのために、北方の鐘三回の仕組みを王都向けに応用します」


「鐘を持っていくのか」


「物理的な鐘ではありません」


「残念だ」


「なぜ少し残念そうなんですか」


「王都で鐘を鳴らせば、よく聞こえる」


「苦情が来ます」


「聞け」


「そういう意味ではなく」


 私は手帳を開いた。


 昨夜考えた案がある。


 眠れなかったので、考えた。


 胃薬を飲んでも眠れない夜は、たいてい何かしら仕事が増える。


「王都用の噂確認手順です」


 カイル様が私の手元を見る。


「一つ、噂を見つけたら、すぐ否定しない。まず分類する」


「遅い」


「二つ、緊急性が高いものは『未確認、確認中、行動保留』の三語で広める」


「短い」


「三つ、公式確認が出るまで、群衆行動を控えるよう呼びかける」


「聞くか」


「聞かせる方法を考えます」


 私は息を吸った。


「北方では鐘三回で人を集める。王都では、水晶掲示板、灯火新聞、王宮広報局、貴族サロン、商会掲示板を同時に使います」


「多い」


「王都は広いので」


「燃えやすい」


「はい。とても」


 私は手帳を閉じた。


「でも、この仕組みがあれば、少なくとも『走る前に確認する』文化を作れるかもしれません」


「文化」


「はい」


 カイル様は遠くの山を見た。


「父の後に作った」


「鐘三回のルールですか」


「ああ」


 彼は珍しく、自分から話した。


「最初は誰も聞かなかった」


「そうなんですか」


「噂は速い。怒りはもっと速い」


 私は黙って聞く。


「鐘を鳴らしても、走る者はいた。武器を取る者もいた。王都の記事を焼く者もいた」


「……はい」


「止めた。殴ってでも止めた」


「辺境伯様」


「若かった」


 今も十分若いのでは、と思ったが言わない。


 大事な話の途中で火種を足す趣味はない。


「何年もかかった」


 カイル様は言う。


「鐘三回で止まるようになるまで」


「……そうですか」


「王都は、すぐには変わらない」


「はい」


「だが」


 彼は私を見た。


「君の言葉なら、届く気がする」


 風が止まったように感じた。


 もちろん実際には、北方の風は止まっていない。


 頬は冷たい。


 指先も冷たい。


 吐く息は白い。


 でも、胸の奥だけが不意に熱くなった。


「私の、言葉」


「ああ」


「王宮広報局の文書ではなく」


「君の言葉だ」


 私は何かを言わなければと思った。


 ありがとうございます。


 光栄です。


 責任重大です。


 燃えないよう努力します。


 どれも違う。


 違うというより、足りない。


 けれど、私の喉から出たのは、いつもの逃げ道だった。


「……過大評価です」


 カイル様は眉を寄せた。


「違う」


「でも、私は失敗します」


「知っている」


「知っているんですか」


「した」


「否定が早い」


「北方の記事の初稿」


 痛いところを突かれた。


 村長に「綺麗すぎるな」と言われた、あの原稿。


 北方の苦しみを、読まれやすい美談へ整えかけた。


 あれは確かに失敗だった。


「……はい」


「だが、直した」


「村長が言ってくれたからです」


「聞いたのは君だ」


 その言葉に、私は黙った。


 聞いた。


 そうだ。


 私は言われて、直した。


 それは当たり前のことのようで、王宮ではあまり当たり前ではない。


 上層部はよく聞く。


 聞いたふりをする。


 聞いたうえで返事をしない。


 王宮の壁にある標語を思い出す。


『王宮は、常に民の声を聞いております』


 聞いているなら返事をしてください。


 あのぼやきは、冗談だった。


 でも、だんだん冗談でなくなっている。


「私は、届かせられるかもしれないと思うと、怖いです」


 気づけば、そう言っていた。


 カイル様は何も言わない。


「届かなかった時、また誰かを傷つけるから」


 雪道に、自分の声が落ちる。


「届く言葉は、期待も連れてきます。返事が来るかもしれない。変わるかもしれない。そう思わせて、もし駄目だったら」


 トマの顔が浮かぶ。


 薬代の女性の声が浮かぶ。


 老人の「少し遅い」が浮かぶ。


 ミリア様の「パンがいいです」も浮かぶ。


 あの一言だって、もし記録の中で消されたら、どれほど残酷だろう。


「私は、また誰かに『読まれなかった』と言わせるかもしれません」


 カイル様はしばらく黙っていた。


 沈黙は冷たくなかった。


「俺も」


 彼が言った。


「はい」


「待たせた」


「誰をですか」


「領民を」


 カイル様は雪の向こうを見る。


「説明しなかった。王都は聞かないと思った。新聞はどうせ歪めると思った。だから、黙った」


「……はい」


「その間に、勝手に書かれた」


 沈黙は、他人に勝手な物語を書かれる余白になる。


 第四章のテーマを、私は今、目の前の人で見ている。


「君は、書く」


 カイル様は言った。


「俺は、黙らないようにする」


 短い。


 でも、大きな言葉だった。


 言葉を憎んでいる人が、黙らないようにすると言う。


 王都の甘すぎる菓子を嫌い、長い文書から逃げようとし、公式回答が『不快だ。撤回しろ』だった人が。


 私はうっかり泣きそうになった。


 危ない。


 北方の寒さのせいにできるだろうか。


 無理かもしれない。


「では、練習しましょう」


「何を」


「黙らない練習です」


 カイル様の顔が、明らかに嫌そうになった。


「今か」


「今です」


「雪道でか」


「逃げ場が少ないので」


「策士か」


「広報官です」


 私は手帳を開いた。


「王都に戻ったら、記者に聞かれる可能性が高い質問です」


「帰れ、は」


「禁止です」


「邪魔だ、は」


「もっと禁止です」


「確認中だ。決めつけるな」


「良いです。ただし、それだけでは足りない場合があります」


 カイル様は深刻な顔をした。


 まるで戦場に出る前のようだ。


 実際、彼にとって記者対応は戦場なのかもしれない。


「質問一。王太子殿下の人気回復について、どうお考えですか」


「知らん」


「却下です」


「興味がない」


「燃えます」


「勝手にしろ」


「大炎上です」


 カイル様は不服そうだった。


「では正解は」


「正解というより、安全で意味のある回答です」


 私は少し考える。


「『人気ではなく、事実で判断すべきだ。北方の被害を政治的装飾に使うことには反対する』」


「長い」


「では分割しましょう」


 私は言う。


「人気ではなく、事実で判断する」


 カイル様が繰り返す。


「人気ではなく、事実で判断する」


「北方の被害を飾りに使うな」


「北方の被害を飾りに使うな」


「よろしいです」


「短い」


「良い短さです」


 カイル様は少しだけ納得した顔をした。


「質問二。リディア・ノートン氏の言葉を信用しているのですか」


 口にしてから、私は自分で変な緊張を覚えた。


 これは、記者が本当に聞きそうな質問だ。


 癒着疑惑。


 辺境伯と下級広報官。


 今後必ず燃える。


 火種はまだ小さいが、見える。


【火種:辺境伯と広報官の私的関係疑惑】

【火種:北方による王宮広報介入】

【火種:リディア過大影響力】

【火種:身分差憶測】


 嫌な一覧である。


 カイル様は、私を見た。


「信用している」


 即答だった。


 私は息を詰めた。


「……もう少し、公的に」


「信用している」


「同じですね」


「ああ」


「理由を」


 カイル様は黙った。


 今度は長い沈黙だった。


 雪が枝から落ちる音がした。


 私は待つ。


 急かさない。


 彼は言葉を選んでいる。


 やがて、カイル様は言った。


「火を隠さない」


 私は瞬きをした。


「私が、ですか」


「ああ」


「隠せている火もあります」


「胃の火か」


「胃炎の話ではありません」


「違うのか」


「違います」


 私は少し笑ってしまった。


 でも、カイル様は真面目だった。


「君は、火があると言う」


「はい」


「自分が間違えた時も、直す」


「……毎回できるとは限りません」


「できなければ、また言う」


「誰が」


「俺が」


 その言葉に、胸の奥がきゅっとなった。


 信頼とは、完璧だと信じることではないのかもしれない。


 間違えた時に言ってくれる。


 直すと信じてくれる。


 それも、信頼なのかもしれない。


「その回答、使えます」


 私は手帳に書いた。


『リディア・ノートンは火を隠さない。間違えれば直す。だから信用している』


 書いてから、少し首を傾げる。


 長い。


 でも、良い。


 いや、良すぎる。


 妙に胸に悪い。


 胃ではない。


 別の場所に悪い。


「リディア」


「はい」


「顔が赤い」


「寒さです」


「そうか」


 カイル様はそれ以上聞かなかった。


 助かった。


 助かったが、少しだけ残念な気もした。


 何を期待しているのか。


 危険である。


 私は慌てて話題を変えた。


「質問三。王都の新聞社に一言」


「黙れ」


「禁止です」


「事実を書け」


「良いです」


「短い」


「良い短さです」


「ではそれで」


「ただし、記者が『一言で』と求めた場合のみです。通常は『事実を書いてください。誤報があれば訂正を求めます』くらいにしましょう」


「長い」


「王都基準では短いです」


 カイル様は不満そうだったが、逃げなかった。


 本当に変わり始めている。


 少しずつ。


 言葉へ向き合おうとしている。


 私はそれが嬉しかった。


 嬉しいと思った瞬間、怖くもなった。


 この人が言葉を信じ始めるなら。


 私の言葉がその一部なら。


 届かなかった時、どうなるのだろう。


 彼の父の時のように、遅れた言葉がまた誰かを殺したら。


 私の胸に、冷たい火種が灯る。


 火種感知ではない。


 自分の中の不安だ。


 私たちは村外れの丘まで来た。


 そこからは、村全体が見えた。


 小さな屋根。


 鐘楼。


 掲示板。


 雪道。


 遠くに兵舎。


 そのさらに先に、王都へ続く街道。


「王都に戻れば」


 私は言った。


「たぶん、次は新聞社との戦いになります」


「ああ」


「王太子殿下の人気が不自然に上がっています。王宮の中にも情報を流している人がいます。大手新聞社は敵に回るかもしれません」


「斬れない」


「斬れません」


「殴れない」


「殴れません」


「金は」


「出番があります」


 カイル様がこちらを見る。


 何か嬉しそうに見えた。


 怖い。


「広告費です」


「弾薬か」


「違います」


「似ている」


「似ていません」


 だが、実際この後、広告費は弾薬のように使われることになる。


 未来の私は、この時点の否定を撤回したい。


 非常に似ていた。


「次は誰を黙らせる」


 カイル様が言った。


 私は脱力した。


「せっかく良い流れだったのに」


「何が」


「信頼とか、言葉とか、届くとか」


「黙らせないのか」


「黙らせるのではなく、事実確認と訂正要求を行います」


「長い」


「仕事です」


「敵は喋る」


「はい」


「なら、黙らせる必要がある」


「物理的にも威圧的にもだめです」


「では」


「言い逃れできないようにします」


 カイル様は頷いた。


「同じだ」


「違います」


「結果は似ている」


「過程が大事です」


 私がそう言うと、カイル様は少し考えた。


「過程」


「はい」


「王都は過程を隠す」


「だから、燃えます」


 私は丘の上から村を見下ろした。


「事実だけ出しても、届かないことがあります。でも、過程を隠すと信頼を失います。どこまで確認したか。何が未確認か。誰に返事を求めているか。それを出す必要があります」


「全部出せば危険だ」


「はい。守るべき人の名前は伏せます。ですが、伏せた理由も記録します」


「難しい」


「難しいです」


 私は笑った。


「でも、簡単な言葉だけに任せると、ベルク様のような人に先に書かれます」


 名前を出した瞬間、空気が少し変わった。


 ベルク・アインハルト。


 宰相補佐(さいしょうほさ)


 冷たく整った言葉を使う人。


 美しい文で、人を配置する人。


 まだ表には出ていない。


 だが、彼の句読点はすでにあちこちに見えている。


「ベルク」


 カイル様が低く言った。


「はい」


「関わっているのか」


「まだ断定できません」


「断定できない、は便利だな」


「はい。便利で、不便です」


 断定できない。


 だから動けない。


 でも、断定しないまま殴れば、相手の物語になる。


 この辺りのもどかしさで、私は日々胃を痛めている。


「ただ、王太子派の記事には王宮文書の癖があります。新聞社単独ではないと思います」


「王宮内部か」


「はい」


「お前の敵は多い」


「増やした覚えはないんですが」


「火を見るからだ」


 カイル様は言った。


「火を見る者は、火を隠したい者に嫌われる」


 私は黙った。


 その通りだと思った。


 火を隠したい人は、火を見る人を嫌う。


 炎上対応係は、火消しであり、時に火元を照らす人間でもある。


 だから嫌われる。


「君の言葉なら届く気がする」


 さっきの言葉が、また胸の中で響く。


 届くなら、嫌われる。


 届くなら、期待される。


 届くなら、責任が生まれる。


 それは嬉しくて、怖い。


 私は手袋越しに胃のあたりを押さえた。


 カイル様が見た。


「胃か」


「心です」


「場所が近いのか」


「私の場合、だいたい同じです」


「そうか」


 納得しないでほしい。


 いや、合っているかもしれない。


 丘から戻る途中、村長宅の前で伝令が待っていた。


 王都からの新しい水晶通信(すいしょうつうしん)だ。


 私は凍った指で封を切った。


 差出人はエレオノーラ様。


 美しい文字。


 だが、筆圧が少し強い。


 怒っている時の字だ。


『リディアへ。


 王都では、王太子殿下を支持する動きが急速に広がっています。


 見出しは以下。


『迷いなき王こそ民を救う』

『謝罪より決断を』

『辺境を見捨てた弱い王宮に、強い後継者を』


 どれも聞こえはよろしいですわ。


 ですが、言葉の並びが不自然に揃っています。


 貴族サロンでも同一文言が流れています。


 水晶掲示板でも、同じ比喩が使われています。


 偶然ではありません。


 なお、大変遺憾ながら、王太子殿下ご本人はこの人気回復をかなり前向きに受け止めておいでです。


 つまり、喋りそうです。


 至急お戻りください、と言いたいところですが、北方の件を途中で放り出すこともできません。


 あなたが決めなさい。


 私は王都で火元を見ています。


 追伸。


 ミリア様の保護移管手続きはなお進行中。


 聖女候補辞退の正式受理は、神殿側が書類不備を理由に遅延させています。


 本人との面会は、現在も記録局(きろくきょく)立ち会いに限られています。


 彼女の言葉は、まだ細い糸です。


 切らせないで。


 エレオノーラ・グランフェルト』


 私は手紙を握ったまま、しばらく動けなかった。


 ミリア様の正式な辞退は、まだ受理されていない。


 あの「パンがいいです」は、まだ小さな部屋の中の言葉だ。


 王都中に届いてはいない。


 神殿はまだ、彼女を「静養中」として囲い込もうとしている。


 王都では王太子人気が上がり、北方の痛みが利用されている。


 公爵令嬢は王都で火元を見ている。


 私は北方で返事を待つ声を抱えている。


 届く言葉と、届かない言葉がある。


 私はその真ん中に立っている。


「リディア」


 カイル様が呼んだ。


「はい」


「戻るか」


 私は手紙を見た。


 村を見る。


 鐘楼を見る。


 掲示板を見る。


 トマたちが雪の城を作っている。


 王都への伝令は、今も雪道を進んでいる。


 七日以内の回答。


 北方は、返事を待っている。


 ここを空にして帰るわけにはいかない。


 でも、王都も待ってくれない。


 火は、こちらの都合で燃えない。


「明日、出発します」


 私は言った。


 カイル様は静かに頷いた。


「ただし」


 私は続ける。


「北方からの照会文、兵士家族の記録、子どもたちの手紙、すべて王都へ持ち帰ります。王都で燃えている火に、北方の声が勝手に使われないようにします」


「ああ」


「それと、王都に着いたら、まず新聞社の文言照合をします」


「ああ」


「王太子殿下が喋る前に、可能なら止めます」


「難しい」


「非常に」


「手伝う」


「では、殿下を見かけたら『確認中だ。決めつけるな』とだけ言ってください」


「殿下にか」


「はい」


「不敬では」


「事実です」


 カイル様は少しだけ口元を動かした。


 笑ったのかもしれない。


 雪のせいでよく見えない。


 いや、近くにいるので見えている。


 見えているが、認めると私の中で何かが燃える。


 危険だ。


 夕方、私は村長と最後の確認をした。


 王都への照会文控え。


 北方内での保全記録。


 回答期限。


 期限が過ぎた場合の掲示手順。


 鐘三回で集まる時の説明文。


 村長は一つずつ頷いた。


「王都から返事が来なかった時は」


「未回答として掲示してください」


「それは王都への喧嘩ではないか」


「返事をしない方が悪いです」


 言ってから、自分で驚いた。


 強い言い方だった。


 以前の私なら、「表現を調整しましょう」と言ったかもしれない。


 だが、ここでは違う。


 返事をしないことを、優しい言葉で包みすぎてはいけない。


 村長は少し笑った。


「王都の広報官も、言う時は言うのだな」


「胃は痛いです」


「なら、信用できる」


「判断基準が北方も胃になってきました」


「辺境伯様の影響だろう」


 やめてほしい。


 変なところで影響を受けている。


 夜、出発前最後の食事が用意された。


 硬い黒パン。


 豆の煮込み。


 焼いた肉。


 薬草茶。


 そして干し肉。


「ここでも干し肉」


 私が呟くと、トマが誇らしげに言った。


「北方だから」


「万能回答ですね」


 ナナが小さな包みを差し出してきた。


「これ、王都で食べて」


「ありがとうございます。中身は」


「干し肉」


「でしょうね」


 私は笑って受け取った。


 包みの紐は不器用だった。


 でも、丁寧に結ばれている。


「リディア」


 トマが言った。


「はい」


「王都でさ」


「はい」


「トマの手紙って言っていいよ」


 私は目を見開いた。


「名前を出してもいいんですか」


「うん」


 トマは少し顎を上げた。


「読まなかったの、王都だろ。隠れるのは変だ」


 強い。


 でも、子どもの強さをそのまま危険に晒してはいけない。


 私は膝を折って、視線を合わせた。


「トマ。名前を出すと、王都で勝手に使われるかもしれません」


「うん」


「かわいそうな北方の子、という見出しにされるかもしれません」


「やだ」


「でしょう」


「じゃあ、どうするの」


「最初は伏せます。でも、あなたが名前を出したいと言ったことは記録します」


「あとで出せる?」


「必要な時に、あなたとお父様に確認してから」


 トマは少し考えた。


「勝手に書かない?」


「書きません」


「勝手に守らない?」


「相談します」


「よし」


 何が「よし」なのか。


 でも、私は少し笑った。


「王都の広報官、採用試験に来ますか」


「やだ。燃えるんだろ」


「賢明です」


 トマが笑った。


 子どもたちが笑う。


 カイル様は黙って見ていた。


 食事が終わり、外に出ると、空には星が出ていた。


 北方の星は王都より近く見える。


 寒いからだろうか。


 余計なものが少ないからだろうか。


 私が空を見上げていると、カイル様が隣に立った。


「寒いか」


「寒いです」


「戻るか」


「もう少しだけ」


「ああ」


 沈黙。


 今日は、この沈黙が怖くない。


 怖くないことが、少し怖い。


 私は星を見ながら言った。


「辺境伯様」


「何だ」


「今日の言葉、嬉しかったです」


「どれだ」


 どれ。


 この人は本当に。


「君の言葉なら、届く気がする、です」


「ああ」


「でも、怖くもなりました」


「ああ」


「だから、届かせるために、私だけで背負わないようにします」


 カイル様がこちらを見る。


「北方の鐘三回。灯火新聞。エレオノーラ様の社交網。広報局の記録。ミリア様の保護記録。辺境伯府の照会文。全部使います」


「ああ」


「私は、私の言葉だけで国を救えるとは思いません」


「そうか」


「でも、誰かの言葉を勝手に消さないようにします」


 カイル様は少し黙った。


 そして言った。


「それが、君の言葉だ」


 また、胸の奥が熱くなる。


 どうしてこの人は、短いのに時々逃げ場を塞ぐのだろう。


「……辺境伯様」


「何だ」


「そういう発言は、事前に火種審査を通してください」


「燃えたか」


「私が」


 言ってから、自分で固まった。


 カイル様も固まった。


 夜の北方で、二人そろって固まる。


 寒さではない。


 私は慌てて咳払いした。


「いえ、比喩です」


「そうか」


「はい」


「消すか」


「消さなくていいです」


 沈黙。


 今度は、本当に危ない沈黙だった。


 私は心の中で胃薬を十粒飲んだ。


 実際には飲まない。


 用法用量は守るべきである。


 翌朝。


 出発の準備が整った。


 荷馬車には、資料箱と保存食が積まれている。


 保存食は当初予定より三分の二になった。


 半分にはできなかった。


 カイル様との交渉は、新聞社より難しいかもしれない。


 村人たちが見送りに集まってくれた。


 村長。


 兵士たち。


 薬代の女性。


 トマと子どもたち。


 老人は掲示板のそばに立っていた。


 私は一人ずつ頭を下げる。


「王都へ戻ります」


 村長が頷いた。


「返事を待つ」


「はい」


「遅れても、来るなら読む」


「遅れすぎないようにします」


 老人が静かに言った。


「今度は、少し早いといいな」


 私は胸が詰まった。


 今度は、記録した。


 手帳に、そのまま書く。


『今度は、少し早いといいな』


 この言葉は、持って帰る。


 王都へ。


 王宮へ。


 私自身へ。


 トマが叫んだ。


「王都が嘘ついたら、鐘三回な!」


「王都に鐘はありません!」


「作れ!」


「予算要求から始めます!」


「遅い!」


「ごもっともです!」


 子どもたちが笑った。


 笑い声の中で、馬車が動き出す。


 私は窓から村を見た。


 鐘楼。


 掲示板。


 雪の城。


 黒い釘跡。


 返事を待つ人たち。


 カイル様は向かいに座っている。


 膝の上には、珍しく文書束があった。


「読まれるんですか」


「読む」


「長いですよ」


「知っている」


「逃げませんか」


「逃げない」


 短い。


 でも、十分だった。


 馬車が雪道を進む。


 王都へ戻る。


 戻れば、大手新聞社が待っている。


 王太子人気の不自然な回復が待っている。


 水晶掲示板の同一文言が待っている。


 ベルクの影が待っている。


 そして、ミリア様の未受理の言葉が待っている。


 届く言葉と、届かない言葉がある。


 私はそのどちらも、なかったことにしたくない。


 王都から届いた最新報告には、短くこうあった。


『王太子派、大規模演説および広報展開を準備中』


『標語案――強い王が、遠き声にも即答する』


 私は紙を握った。


「即答」


 笑いそうになった。


 腹立たしくて。


「返事をしてこなかった王都が、即答を売りにするんですか」


 カイル様が顔を上げる。


「燃えるか」


「燃えます」


「消すか」


「消します」


「どうやって」


 私は窓の外を見た。


 雪の道の先に、遠い王都がある。


 そのずっと向こうで、すでに火が上がっている気がした。


「まず、誰がその言葉を書いたのか見ます」


「火元か」


「はい」


 私は手帳を開く。


 新しいページに、章のように一行を書く。


『王都瓦版戦争』


 その下に、もう一行。


『情報を売る者は、何を売っているのか』


 馬車が揺れる。


 インクが少し滲んだ。


 私はそれを指で押さえ、呟いた。


「本日も、返信を始めます」


 カイル様が短く言った。


「手伝う」


 まだ恋ではない。


 たぶん。


 少なくとも、私はそう分類している。


 けれど、この短い一言が隣にあるなら。


 私の言葉は、少しだけ遠くまで届く気がした。


 そして同時に、怖かった。


 届かなかった時、傷つく人がいる。


 届いたからこそ、傷つく人もいる。


 それでも、書く。


 勝手に続きを書かないために。


 勝手に消されないために。


 返事を待つ声を、燃え上がる前に届けるために。


 王都へ向かう馬車の中で、私は最初の見出し案を書いた。


『強い王より、返事をする王宮を』


 火種が、かすかに見えた。


【火種:王太子派反発】

【火種:王宮責任追及】

【火種:民衆期待拡大】


 私はペンを止める。


 燃える。


 でも、必要な火かもしれない。


 まだ早い。


 まだ整える。


 私はその見出しに線を引き、隣に書いた。


『未回答の記録を、王都は読むべきだ』


 地味だ。


 読まれにくい。


 でも、嘘ではない。


 ここからだ。


 王都瓦版戦争は、すでに始まっている。

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