新聞社が敵に回りました
王都は、雪の匂いがしなかった。
かわりに、焼き栗と馬糞と香水と、あと人の噂を煮詰めたような匂いがした。
懐かしい。
できれば懐かしみたくない種類の匂いである。
北方から戻った馬車が王宮広報局の裏門に入った時、私はまず深呼吸をした。
そして、即座に後悔した。
「王都の空気は濃いですね」
私が言うと、向かいに座っていたカイル様が短く答えた。
「甘い」
「菓子だけではなく空気までですか」
「嘘の匂いがする」
「詩的ですね」
「違う」
「はい」
辺境伯様に詩的表現を指摘すると、だいたい否定される。
だが、今回ばかりは私も否定しきれなかった。
裏門の掲示板に貼られていた号外が、風で揺れている。
大手紙、王都瓦版。
その見出しを見た瞬間、私の胃が職務復帰した。
『迷いなき王太子、辺境問題にも決断力を示す』
『北方混乱、弱腰王宮の責任か』
『謝罪より決断を。民が求めるのは強い王』
私は目を細めた。
見出しの文字が、やけに勇ましい。
勇ましい文字は、だいたい誰かを踏んで立っている。
その下には、小さな挿絵があった。
王太子ルーファス殿下が、剣を掲げている。
実物よりかなり賢そうに描かれていた。
肖像画に対する誇大広告である。
「……盛りましたね」
思わず呟く。
カイル様が号外を見た。
「誰だ」
「王太子殿下です」
「違う」
「だいぶ違いますが、王太子殿下です」
「絵師を呼べ」
「殴らないでください」
「確認するだけだ」
「顔が確認向きではありません」
私は号外を剥がして、紙面を確認した。
本文には、北方で発覚した補助金遅延問題が書かれている。
だが、構図が違う。
北方が長年返事を待っていた話ではない。
王宮が迷い、広報局が慎重すぎたせいで混乱が広がった、という話に組み替えられている。
そして、最後に王太子派の論調へ繋がる。
『今こそ、曖昧な調整ではなく、迷いなき決断を下せる指導者が求められている』
迷いなき。
決断。
強い王。
北方で受け取った王都からの報告と、同じ言葉だ。
私は紙面の端を指で押さえた。
視界に火種が浮かぶ。
【火種:王太子人気回復】
【火種:北方被害の政治利用】
【火種:王宮広報局批判】
【火種:慎重対応への不信】
【火種:辺境問題の単純化】
【火種:強い王待望論】
帰ってきた。
そう思った。
王都へ。
火元だらけの職場へ。
そして、第五章へ。
「リディア」
カイル様が低く言った。
「はい」
「斬れないな」
「斬れません」
「燃やせるか」
「物理は禁止です」
その時、裏門の内側から広報局の同僚が走ってきた。
顔色は紙より白い。
手には大量の新聞。
私を見るなり、彼は叫んだ。
「ノートンさん! お帰りなさい! 新聞社が敵に回りました!」
「開口一番で嫌な帰還挨拶をありがとうございます」
「本当に敵です!」
「敵の定義を慎重に」
「こちらです!」
差し出された新聞束を受け取る。
王都瓦版。
貴族通信。
朝露新聞。
商会速報。
どれも大手紙だ。
見出しは似ていた。
『王太子殿下、民の不安に即応』
『強さを求める声、王都で拡大』
『北方問題、王宮の長期放置が原因か』
『広報局の慎重姿勢に批判』
私は一枚ずつ見ていく。
紙面の構成。
見出しの配置。
使われている語句。
記事の締め方。
不自然なほど揃っている。
「同じ匂いがしますね」
私が呟くと、同僚が震えた。
「香水ですか?」
「文章です」
「文章に匂いが?」
「あります。王宮文書くさいです」
隣でカイル様が眉を寄せた。
「嘘の匂いか」
「近いです」
「やはり」
「納得しないでください。比喩です」
私は紙面の一部を指でなぞった。
『混乱を避けるため、王宮は迅速な意思決定を回復すべきである』
混乱を避けるため。
その言葉に、カイル様の表情がわずかに消えた。
ほんの一瞬。
北方の雪道で見た表情と同じだ。
私はすぐに新聞を畳んだ。
「今はここまでにしましょう」
「なぜだ」
「燃料が多すぎます」
「俺は読める」
「はい。でも、読む順番を選びます」
カイル様は黙った。
反論しない。
北方での短い練習が、少しだけ効いている。
いや、違う。
この人は、今、自分の怒りが利用されることを理解し始めている。
それが嬉しくて、同時に怖かった。
私の言葉が届き始めている。
だからこそ、間違えられない。
王宮広報局の廊下に入ると、空気がさらに重くなった。
廊下の端にある胃薬棚は、すでに半分空だった。
まだ午前である。
危機である。
同僚たちが資料を抱えて右往左往している。
奥の危機声明管理室からは、誰かの悲鳴が聞こえた。
「同じ見出しが三紙に! 誰か胃薬を!」
「胃薬は資料ではありません!」
「でも資料より効きます!」
職場だ。
帰ってきた実感が、胃に直接来る。
私は外套を脱ぎながら言った。
「状況確認を」
先輩が机から顔を上げた。
目の下に濃い影。
手元には三紙の切り抜き。
口元には諦め。
「おかえり、リディアちゃん。北方はどうだった?」
「寒くて誠実でした」
「王都は?」
「暖かくて燃えています」
「いつものことだね」
「いつものことにしないでください」
先輩は笑おうとして、胃を押さえた。
「昨日の朝から、大手紙が一斉に王太子寄りの記事を出し始めた。水晶掲示板も同時に同じ言葉で埋まってる」
「迷いなき王、謝罪より決断、強い王、ですね」
「そう、それ。北方の補助金遅延も、広報局と王宮上層部の優柔不断のせいにされ始めてる」
「事実の一部を使っていますね」
「一部どころか骨を抜いて、別の肉を詰めて焼いてる」
「食べ物で例えないでください。人間です」
「ごめん、腹が減って」
「この状況で?」
「胃が痛いと逆に空腹か分からなくなるんだ」
職場が末期である。
私は新聞を広げ、机に並べた。
カイル様も無言で立っている。
広報局員たちが一瞬、彼の後ろに積まれた北方の保存食を見た。
先輩が目を輝かせる。
「それ、差し入れ?」
「備蓄です」
私が答えると、カイル様が言った。
「感謝だ」
「どちらでもいいので後で配ります」
職場の空気が少しだけ和んだ。
干し肉は時に声明文より人心を安定させる。
悔しいが事実である。
私は切り抜きを分類した。
「まず、王太子殿下を持ち上げる記事が一群」
紙に印を付ける。
「次に、広報局批判」
二枚目。
「北方問題の単純化」
三枚目。
「そして、共通している語句」
私は赤インクで丸をつけた。
『迷いなき』
『即応』
『謝罪より決断』
『優しさでは国は守れない』
『混乱を避けるため』
どれも短い。
強い。
覚えやすい。
人に言わせやすい。
嫌になるほど、よくできている。
「誰かが配っています」
私は言った。
「新聞社がそれぞれ独自に書いたなら、ここまで揃いません」
先輩が渋い顔をした。
「王宮内部から?」
「可能性は高いです。ただし、断定はまだ危険です」
「その『断定はまだ危険です』って言葉、火消し係の呪文みたいだよね」
「唱えないと爆発します」
「やだなあ、この魔法体系」
その時、部屋の奥から若い局員がひょいと顔を出した。
「つまり新聞社が燃えてるんですよね?」
「新聞社が燃やしています」
「燃やしていいですか?」
「物理は禁止です」
「許可があれば?」
「許可は出ません」
「私的に?」
「もっとだめです」
カイル様が小さく言った。
「同感だ」
「辺境伯様も同感しないでください」
私は机を叩く代わりに、新聞を整えた。
机を叩くと、北方の誰かに悪い気がする。
まだ机は割れていない。
今は。
「新聞社を敵と決めつけるのは簡単です」
私は言った。
「でも、まず会いに行きます」
室内が静まった。
先輩が目を瞬く。
「今から?」
「今からです」
「帰ってきたばかりだよ?」
「帰ってきたら燃えていました」
「休まないの?」
「燃えている新聞は休ませてくれません」
カイル様が一歩前に出た。
「行く」
「辺境伯様は」
「行く」
「記者対応で『帰れ』と言わない自信は」
「……ある」
「今の間は何ですか」
「考えた」
「偉いです」
カイル様が少しだけ顎を引いた。
褒められ慣れていない大型犬のようだった。
違う。
大型犬ではない。
辺境伯である。
雪山の熊でもない。
同僚が恐る恐る手を挙げた。
「あの、ノートンさん。新聞社に直接行くなら、王宮側の正式訪問扱いですか? それとも非公式ですか?」
「正式照会の前段階です。会話は記録水晶で残します。こちらから圧力をかけたと言われないように、質問事項を明確化します」
「さすがです」
「さすがと言われると胃が痛いのでやめてください」
私は一枚の紙に質問項目を書いた。
一、記事の情報源。
二、同一語句の使用理由。
三、北方補助金遅延に関する確認資料の有無。
四、王太子派貴族からの広告・寄稿・資金提供の有無。
五、訂正依頼への対応基準。
書いていて、嫌な予感がした。
これらの質問に、相手はまともに答えない。
答えないだけならいい。
こちらを「情報統制」と見出しにする可能性がある。
火種が見える。
【火種:王宮による言論圧力】
【火種:広報局の検閲疑惑】
【火種:リディア情報統制官化】
【火種:辺境伯同行による威圧印象】
【火種:新聞社対王宮】
すばらしい。
胃が焼け野原である。
「辺境伯様」
「何だ」
「同行はしていただきますが、社内では後方にいてください」
「なぜ」
「威圧印象が出ます」
「立っているだけだ」
「立っているだけで威圧です」
「不便だ」
「文明社会ですので」
「またか」
「はい」
カイル様は少し考えた。
「では座る」
「座っていても威圧です」
「どうしろと」
「黙って、資料を持っていてください」
「荷物か」
「証拠保全担当です」
「……分かった」
納得してくれた。
成長が早い。
ただし表情は納得していない。
私は王宮広報局の腕章をつけ、記録水晶を鞄に入れた。
それから、北方から持ち帰った封印箱を一つ選ぶ。
中には、トマたちの手紙の写しと、兵士家族の証言記録が入っている。
王都の物語に勝手に使わせないための声。
まだ公表しない。
でも、存在する。
私は箱を撫でた。
「行きましょう」
王都瓦版社は、王都中央通りの東側にある。
大きな石造りの建物で、入口には銅板の看板。
『王都瓦版社――民の求める真実を』
私はその文字を見上げた。
「民の求める真実」
良い言葉だ。
良い言葉ほど危ない。
誰が求めたのか。
何を真実と呼ぶのか。
その二つを曖昧にすると、だいたい燃える。
入口では、記者らしき若者たちが忙しく出入りしていた。
私たちを見ると、すぐに視線が集まる。
「王宮広報局だ」
「例の火消し係か」
「辺境伯もいるぞ」
「でかい」
最後の人。
感想が素直すぎる。
カイル様がわずかに眉を動かした。
私は小声で言った。
「帰れ、禁止です」
「分かっている」
「邪魔だ、も禁止です」
「分かっている」
「でかい、への反応も禁止です」
「……分かった」
危なかった。
記録前に燃えるところだった。
受付で名乗ると、意外にもすぐ応接室へ通された。
待たされると思っていたので拍子抜けする。
通された部屋は広く、壁一面に過去の一面記事が飾られていた。
王族の即位。
戦勝報告。
商会の大不祥事。
神殿の祭典。
そして、最近のもの。
『悪役令嬢、聖女候補を威圧』
私はその見出しを見て、少しだけ目を細めた。
まだ飾っているのか。
訂正後も。
隣に訂正記事はない。
「嫌な内装ですね」
思わず呟くと、カイル様が言った。
「剥がすか」
「物理は禁止です」
「確認しただけだ」
「最近その確認が多いです」
扉が開いた。
入ってきたのは、五十代ほどの男性だった。
灰色の髪。
丸眼鏡。
上質な上着。
目は柔らかいが、笑っていない。
彼が王都瓦版社の社長、バルド・レインズ。
大手紙の主。
炎上を紙にして売る男である。
「これはこれは。王宮広報局のリディア・ノートン様。それに北方辺境伯閣下まで」
社長は丁寧に頭を下げた。
「遠路お疲れでしょうに、早速のご訪問とは」
「記事について確認したい点があります」
「でしょうな」
社長は笑った。
準備していた顔だ。
記者の顔ではない。
商人の顔だ。
「どうぞ、お座りください」
私は座った。
カイル様も座った。
椅子が少し悲鳴を上げた。
カイル様は何もしていない。
椅子が弱い。
広報上、そういうことにしておく。
「記録水晶を使用します」
私が言うと、社長は片眉を上げた。
「王宮の監視ですか?」
「いいえ。双方の発言確認です。後日の誤引用を避けるためです」
「誤引用、とはまた」
「訂正依頼の手間を減らしたいだけです」
社長は少し笑った。
「なるほど。あなたは噂通り、面白い広報官だ」
「面白さは職務評価に含まれません」
「では、怖い広報官だ」
「それも含まれません」
「では?」
「胃が痛い広報官です」
社長の笑みが一瞬深くなった。
油断ではない。
試している。
私は記録水晶を起動した。
淡い光が机上に広がる。
「まず、本日付の記事について伺います」
「どうぞ」
「複数紙において、『迷いなき王』『謝罪より決断』『強い王』等、同一または類似の表現が使われています。これらは王都瓦版社の独自判断ですか」
社長は手を組んだ。
「読者が求めるものを書いているだけです」
出た。
万能の盾。
読者。
民。
皆さま。
具体名を消す言葉は便利だ。
便利すぎる。
「読者が求めている、という根拠は」
「購読部数です」
社長は横に控えていた秘書に目をやった。
秘書が資料を差し出す。
私は受け取った。
月別購読部数。
号外販売数。
記事ごとの反響。
水晶掲示板で引用された見出し回数。
そして、王太子関連記事の伸び率。
数字は嘘をつかない。
だが、数字はとても上手に沈黙する。
私の視線が止まった。
王太子派記事の販売数が、確かに伸びている。
婚約破棄騒動直後は批判が多かった。
だが、最近の「強い王」路線に切り替わってから、購読数が増えている。
特に職人街、商会通り、下級貴族区。
王宮に不満を持つ層だ。
私は紙を置いた。
「売れていますね」
「ええ」
社長は穏やかに言った。
「民は複雑な説明に疲れているのです。謝罪、確認、調査、再発防止。結構なことです。しかし、腹が減っている時に、調査中と言われても腹は満ちません」
「だから強い王ですか」
「分かりやすいでしょう」
「分かりやすさと正確さは別です」
「正確さだけでは読まれません」
その言葉は、正しい。
嫌になるほど。
私は反論しようとして、少し止まった。
北方で、村長に言われた言葉がよみがえる。
綺麗すぎるな。
王都で、王太子派の記者に言われた言葉も。
あなたの言葉は正しいが、腹が立つ。
正しいだけでは届かない。
届かない正しさは、人を救えない。
だが、届くために歪めれば、それは別の刃になる。
社長は、私の沈黙を見逃さなかった。
「ノートン様。あなたもお分かりでしょう」
「何をですか」
「民は物語を求めている」
その言葉に、私はわずかに息を止めた。
ベルクが言いそうな言葉だ。
いや、似ている。
だが社長の口調は、ベルクほど冷たくない。
商人だ。
彼は支配ではなく、売上の話をしている。
だからこそ厄介だ。
「物語を売っているのですか」
「新聞を売っています」
「見出しで人の人生が変わることは」
「承知しています」
「承知していて、悪役令嬢の記事を今も壁に飾っているのですね」
社長の目が初めて少し細くなった。
壁の見出し。
『悪役令嬢、聖女候補を威圧』
エレオノーラ様を傷つけた言葉。
訂正が出ても、傷は残る。
「それは過去の紙面です」
「過去の誤報です」
「完全な誤報ではありません。会場に緊張があったのは事実です」
「事実の端をつまんで、人を刺した見出しです」
社長は沈黙した。
火種が見える。
【火種:新聞社対王宮】
【火種:訂正拒否再燃】
【火種:言論圧力印象】
【火種:エレオノーラ悪役令嬢再燃】
危険。
だが、言わずにいられなかった。
これが私の弱さだ。
正しいからといって、言い方がすべて正しいわけではない。
社長はゆっくりと口を開いた。
「ノートン様。あなた方王宮は、民から何を奪ってきたかご存じですか」
「返事です」
即答していた。
社長の表情が一瞬止まる。
「……ほう」
「王宮は聞いていると言いながら、返事をしてきませんでした。だから民は、返事をくれそうな物語に飛びつく」
私は購読部数表を指で押さえた。
「この数字は、王太子殿下への信頼だけではありません。王宮への不信です」
社長は小さく笑った。
「そこまで分かっているなら、なぜ止めるのです?」
「人の不信を使って、別の人を燃やしているからです」
「新聞とはそういうものです」
「違います」
「では、王宮広報は違うと?」
痛いところを突かれた。
私は一瞬、言葉に詰まる。
王宮広報は違う。
そう言いたかった。
だが、違うと言い切れるか。
婚約破棄会見の後、私は声明文を書いた。
人を守るためだった。
だが、その中でエレオノーラ様の怒りを柔らかくしすぎた。
ミリア様を守りやすい被害者にしようとした。
カイル様の言葉を、言いやすい形に押し込めようとした。
私も、言葉を整える側の人間だ。
「違う、と言い切れるほど立派ではありません」
私は言った。
カイル様がこちらを見た。
社長も黙った。
「だから確認に来ました。新聞社が悪だと断じる前に」
「面白い」
「面白くありません」
「危うい方だ」
「よく言われます」
「でしょうな」
社長は背もたれに身を預けた。
「では、こちらも正直に申し上げましょう」
空気が変わる。
社長は机の引き出しから、一枚の紙を取り出した。
「王太子派から広告費は来ています」
先輩が聞いたら胃薬を飲む声が聞こえそうだった。
「貴族派閥からですか」
「複数です。商会経由もあります」
「王宮内部からは」
「直接はありません」
「直接は」
社長は笑った。
「言葉の選び方がお上手で」
「あなたほどでは」
「王宮内の誰かが情報を流している可能性は否定しません。ですが、我々は情報源保護の義務があります」
「その情報源が意図的に世論操作をしていても?」
「それを判断するのは新聞社です」
「では判断基準を教えてください」
「売れるかどうか」
部屋の空気が凍った。
カイル様の手が、椅子の肘掛けにかかる。
危ない。
私はちらりと見る。
肘掛けが無事であることを祈った。
「冗談ですか」
「半分は」
「もう半分は」
「現実です」
社長は購読部数表を指で叩いた。
「読まれない真実は、力を持ちません。売れない新聞は、訂正も出せません」
「だから、売れる物語に寄せる」
「読者が求める入り口を作る」
「その入口で誰かが刺されても?」
社長は答えなかった。
答えない沈黙。
王宮と同じだ。
私は記録水晶を見た。
淡い光が、机の上で揺れている。
「では、王都瓦版社として、北方補助金遅延に関する王都側の未回答記録を掲載する意思はありますか」
「読者が読む形であれば」
「その形は、誰が決めますか」
「編集部です」
「証言者の保護は」
「配慮します」
「配慮では足りません。名前を勝手に出さないこと。子どもの手紙を情緒的見出しに使わないこと。北方を王太子派の装飾にしないこと」
私の声は少し強くなった。
社長の視線が鋭くなる。
「王宮からの条件ですか」
「いいえ。証言を預かった者としての条件です」
「王宮広報官として?」
私は一拍置いた。
「リディア・ノートンとして」
その瞬間、火種が見えた。
【火種:個人発言化】
【火種:越権疑惑】
【火種:リディア影響力拡大】
【火種:新聞社反発】
燃える。
だが、今回は撤回しなかった。
社長は私をじっと見た。
その目は初めて、少しだけ興味を帯びていた。
「あなたは王宮の人間にしては、不便なことを言いますね」
「よく言われます」
「北方辺境伯閣下は、どうお考えで?」
社長がカイル様へ視線を向けた。
来た。
狙いは分かる。
辺境伯に強い言葉を言わせる。
それを「王宮への圧力」と書く。
私は口を開きかけた。
だが、止めた。
ここで私が代弁すれば、また同じだ。
カイル様を見る。
彼は少しだけ目を伏せた。
言葉を探している。
長い沈黙。
社長は待つ。
記録水晶も待つ。
私は息を殺す。
やがて、カイル様は言った。
「北方の被害を、飾りに使うな」
短い。
でも、逃げていない。
社長の眉がわずかに動いた。
「それだけですか」
「事実を書け」
「強い言葉ですね」
「事実だ」
「読者は物語を求めています」
「なら、事実を読める形で書け」
私は思わずカイル様を見た。
彼はまっすぐ社長を見ている。
無口な人が、言葉から逃げていない。
短い。
でも、前よりずっと長い。
社長はしばらく黙り、それから小さく笑った。
「なるほど。北方辺境伯も変わられた」
「何が」
「以前なら、『黙れ』と仰ったでしょう」
「リディアに禁止された」
「……正直でいらっしゃる」
やめてください。
そこは言わなくていいです。
私はこめかみを押さえた。
社長はおかしそうに笑ったが、すぐ表情を戻した。
「本日の確認事項は承りました。ただし、当社は王宮の下請けではありません」
「承知しています」
「訂正は出すべき時に出します」
「出すべき時を逃すと、人が傷つきます」
「それは王宮にも言える」
「はい」
私は逃げなかった。
「だから、王宮にも返事を求めます」
社長は初めて、少しだけ黙った。
そして言った。
「あなた方が王宮から返事を引き出せるなら、記事にしましょう」
「条件ですか」
「読者は王宮の沈黙に飽きています。返事が出るなら売れます」
「そこも売上なんですね」
「新聞社ですので」
嫌な現実だ。
だが、現実だ。
正しさだけでは紙面を取れない。
売れるかどうか。
読まれるかどうか。
それが、情報の入口を決めてしまう。
私は社長を悪と断じたかった。
だが、目の前にある購読部数表は、その逃げ道を塞いでいた。
民は、本当にこの物語を求めている。
いや、求めたくなるほど追い詰められている。
そこを見なければ、私はまた「正しいが腹が立つ」文章を書く。
応接室を出る前、私は壁の過去記事を見た。
『悪役令嬢、聖女候補を威圧』
「社長」
「何でしょう」
「この紙面の隣に、訂正記事も飾ってください」
社長は笑った。
「検討します」
「それは飾らない人の返事です」
「手厳しい」
「訂正欄を小さくする新聞社は、誤報を大きくする資格がありません」
社長は答えなかった。
ただ、秘書に一度だけ目を向けた。
秘書が小さく頷く。
それが実行されるかは分からない。
だが、記録には残った。
王都瓦版社を出ると、外は夕方になっていた。
通りでは号外売りが走っている。
「王太子殿下、大演説準備か!」
「強い王を求める声、さらに拡大!」
「広報局、新聞社へ圧力か!」
早い。
早すぎる。
私は顔を引きつらせた。
「もう出てるんですか」
同僚が頭を抱えた。
「新聞社を出る前に記事になったんですか!?」
「見出しだけ先に走っていますね」
カイル様が低く言った。
「黙らせるか」
「だめです」
「だが」
「分かっています」
私は号外売りから一枚買った。
中身は薄い。
ほとんど推測だ。
だが見出しは強い。
『王宮広報局、新聞社へ圧力か』
火種が見える。
【火種:検閲疑惑】
【火種:新聞社対王宮】
【火種:リディア情報統制官印象】
【火種:王太子派追い風】
予想通り。
だが、予想通りでも胃は痛い。
「ノートンさん、どうします?」
同僚が聞く。
どうする。
訂正依頼。
反論声明。
記録公開。
全部できる。
だが、今すぐ全部出せば、相手の土俵に乗る。
私は号外を折り畳んだ。
「別の新聞社を探します」
「え?」
「大手紙だけでは入口を取られます。王都瓦版に正面からぶつかるだけでは、向こうの見出しになります」
「でも、大手以外に読まれる紙なんて」
同僚が言いかけて、黙った。
通りの隅。
目立たない紙売りがいた。
木箱の上に、小さな新聞束を置いている。
紙質は悪い。
印刷も少しずれている。
だが、見出しが目に入った。
『北方補助金遅延、未回答記録を追う』
私は足を止めた。
その下に、小さな欄がある。
『本紙訂正欄』
やけに大きい。
新聞名は――
『灯火新聞』
私はその紙を手に取った。
紙売りの少年が顔を上げる。
「一部、銅貨二枚です」
「この新聞、編集部はどこに?」
「西裏通りの古い印刷所です。行くんですか?」
「はい」
「珍しいですね。うち、あんまり読まれてないですよ」
正直だ。
とても良い。
私は銅貨を渡した。
「訂正欄が大きいですね」
少年は少し胸を張った。
「編集長が言ってました。間違えた時に小さい字で謝る新聞は、最初から大きい字で書くなって」
私はその場で動けなくなった。
カイル様が新聞を覗き込む。
「小さい」
「新聞は小さいですが、訂正欄は大きいです」
「変だな」
「いい意味で変です」
私は灯火新聞を握りしめた。
大手紙が敵に回った。
読者は強い物語を求めている。
王太子派は見出しを先に走らせている。
王宮内部からも、誰かが言葉を流している。
嫌な現実だ。
でも、全部が敵ではない。
小さな紙面の端に、まだ灯りがある。
「行きましょう」
「どこへ」
カイル様が聞く。
「灯火新聞です」
「弱いのか」
「弱いです」
「役に立つのか」
「訂正欄が大きい新聞社は、信用できます」
「そうか」
「それに」
私は灯火新聞の見出しを見た。
『未回答記録を追う』
派手ではない。
眠くなるほど真面目かもしれない。
でも、今の私が持ち帰った言葉に一番近い。
「真実は地味です。でも、地味な火でも、暗い場所なら灯りになります」
カイル様は少し考えて、頷いた。
「なら、行く」
「はい」
同僚が慌てて追いかけてくる。
「ノートンさん! 王宮には戻らないんですか!?」
「戻ったら胃薬棚が空になります。先に灯りを探します」
「名言っぽいけど労務的にはアウトです!」
「記録しておいてください」
「何を!?」
「新聞社が敵に回った初日から、味方候補を見つけたことを」
私は歩き出した。
王都の夕暮れに、号外売りの声が響く。
『強い王を!』
『迷いなき決断を!』
『王宮広報局、言論に圧力か!』
声は大きい。
速い。
強い。
けれど、私は手の中の小さな新聞を見た。
そこには、細い文字でこう書かれている。
『読者の皆様へ。昨日掲載した王都南区火災の死傷者数について、確認不足がありました。訂正してお詫びします』
訂正欄が大きい。
謝り方が逃げていない。
その地味さが、今はやけに眩しかった。
情報を売る者は、何を売っているのか。
恐怖か。
怒りか。
物語か。
それとも、遅れても届くかもしれない真実か。
王都瓦版戦争は始まった。
敵は、大手新聞社だけではない。
読まれたいという欲望。
分かりやすさへの誘惑。
正しさだけでは届かない現実。
そして、私自身の中にある「届く形に整えたい」という危うさ。
私は灯火新聞を鞄に入れ、胃のあたりを押さえた。
「……本当に、仕事量が増えていますね」
隣でカイル様が言った。
「手伝う」
「では、まず新聞社では椅子を壊さないでください」
「努力する」
「そこは約束してください」
「……約束する」
少し間があった。
でも、約束した。
短くても、逃げない言葉だった。
私は小さく笑って、西裏通りへ向かった。




