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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
北方辺境伯の悪評

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辺境伯様、ありがとうが短すぎます

 感謝の言葉には、適切な長さというものがある。


 短すぎれば伝わらない。


 長すぎれば疑われる。


 王宮広報局で謝罪文や礼状を扱っていると、この辺りの加減にはそれなりにうるさくなる。


 例えば、王族が国費を使った催事で民へ礼を述べる場合。


『皆さまの温かなご理解とご協力に、心より感謝申し上げます』


 これはまあ、標準的だ。


 少し堅いが燃えない。


 貴族家同士の礼状なら、もう少し装飾が増える。


『このたびのご厚情、深く胸に刻み、末永く家門の誉れとして――』


 長い。


 正直、途中で胃薬の瓶を探したくなる。


 だが、それでも礼は礼だ。


 相手に何へ感謝しているのか、どの程度重く受け止めているのか、伝えるための言葉がある。


 では、北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン様の感謝はどうか。


「助かった」


 以上。


 以上である。


 王宮広報局の礼状担当が見たら、赤字どころか紙ごと抱えて泣く。


 訂正記事が北方へ届いた翌朝。


 私は村長宅の客間で、王都への追加報告を書いていた。


 窓の外はまだ雪だ。


 昨日より少し弱いが、やむ気配はない。


 机の上には、灯火新聞(ともしびしんぶん)の号外、王都瓦版(おうとかわらばん)の訂正欄写し、北方兵給与帳簿の抜粋、子どもたちの手紙控え、それからエレオノーラ様から届いた手紙が並んでいる。


 情報量が多い。


 そして胃に悪い。


 私はペンを持ったまま、目の前に立つカイル様を見上げた。


「今、何とおっしゃいました?」


「助かった」


「もう一度お願いします」


「助かった」


「同じですね」


「ああ」


 カイル様は当然のように頷いた。


 大変潔い。


 潔すぎて、礼状としてはほぼ骨格だけである。


「辺境伯様」


「何だ」


「感謝の言葉としては、少々、短いです」


「足りないか」


「気持ちは伝わります」


「ならいい」


「ですが、広報官としては、もう一文欲しいです」


「なぜ」


「何に対して助かったのか、誰に向けた言葉なのか、今後どうするのか。その辺りが明確だと、誤解が減ります」


「今はお前に言った」


 私はペンを落としかけた。


 危ない。


 インクが報告書に飛んだら、王都への公式文書が黒い流血事件になるところだった。


「……私に、ですか」


「ああ」


「個人的な感謝」


「ああ」


「公式声明ではなく」


「ああ」


「では、もう少し長くても燃えません」


「なぜだ」


「私しか聞いていないので」


 言ってから、私は失敗したと思った。


 私しか聞いていない。


 その言葉は、思ったより部屋の中に残った。


 カイル様が黙る。


 私も黙る。


 薪のはぜる音だけが、やけに大きい。


 外では、子どもたちが雪を踏む音がしている。


 たぶん掲示板を見に行っているのだろう。


 昨日の号外は、雪除けの屋根の下に貼られたままだ。


 村人たちは、通るたびに立ち止まって読む。


 何度も読む。


 疑いながら。


 確かめながら。


 それでも、捨てずに読む。


「リディア」


 カイル様が言った。


「はい」


「助かった」


「三回目です」


「……それ以上は、今は出ない」


 その声は、いつもの低さだった。


 けれど、少しだけ違った。


 短い言葉の奥に、つかえているものがある。


 私は、それを勝手に続きを書かない。


 だから、軽く言った。


「では、正式な礼状は後日ということで」


「必要か」


「公的には必要です。私的には、三回聞いたので十分です」


「そうか」


「はい」


 カイル様は少しだけ視線を落とした。


 机の上に置かれた灯火新聞の記事を見る。


 昨日、彼はそれを二回読んだ。


 長文を二回。


 これは、北方辺境伯史に残してよいのではないかと思ったが、本人に止められた。


 残念である。


 彼は記事の端を指で押さえた。


「これは、王都に届くのか」


「すでに王都で出ています。北方に届いたのが昨日です」


「違う」


「え?」


「この村の反応だ」


 カイル様は、窓の外を見た。


「届くのか」


 私は、すぐに答えられなかった。


 村人が記事を読んだこと。


 老人が言った「届くのが、いつも少し遅い」という一文。


 トマが言った「勝手に守るな」。


 兵士が言った「両方書いてあるなら読む」。


 トマの父が読んだと聞いた時の、あの顔。


 届いた記事への反応は、私の報告書に入れられる。


 けれど、それが王都に“届く”かは別だ。


 王都の上層部は、必要な数字だけ読むかもしれない。


 新聞社は、使いやすい証言だけ拾うかもしれない。


 民衆は、見出しだけで判断するかもしれない。


 私自身だって、都合よく整えかける。


「届くように、書きます」


 私は答えた。


 カイル様は黙っている。


「届くとは言い切れません」


「ああ」


「でも、届くようにします」


「……そうか」


 カイル様は頷いた。


 その信頼が、少し重い。


 嬉しい。


 でも、重い。


 私はその重さを、まだうまく名前にできない。


 名前をつけると、別の火種が生まれそうな気がする。


 自意識過剰かもしれない。


 でも火種感知は、自分に関する炎には鈍い。


 恋愛方面など、特に危険である。


 公式分類がない。


 私が内心で胃薬を探していると、扉が叩かれた。


「リディア様、よろしいですか」


 村長の声だった。


「はい、どうぞ」


 入ってきた村長は、いつもより少し困った顔をしていた。


 その後ろには、トマとナナ、それから昨日手紙を書いた子どもたちが数人いる。


 さらに、大人が二人。


 一人はトマの父親だろう。


 目元が似ている。


 もう一人は、昨日「薬代のこと、載ったんだね」と言った兵士の妻だ。


 私は立ち上がった。


「何か、記事に問題がありましたか」


「問題というほどではない」


 村長が言った。


「ただ、次をどうするか聞きたい者が多い」


「次?」


 トマが一歩前に出た。


「返事」


 その言葉に、私は息を止めた。


「昨日、受け取ったって印が来た」


「はい」


「記事も来た」


「はい」


「じゃあ、次は返事だろ」


 まっすぐだった。


 子どもの言葉は時々、剣より逃げ場がない。


 私は椅子の背に手を置いた。


「……そうですね」


「王都は返事を書く?」


「まだ、わかりません」


「なんで」


「王都には、確認すべき部署が複数あります。請願がどこで止まったのか、誰が読んだのか、記録が残っているのか――」


「それ、王都の都合だよね」


 トマの父親が静かに言った。


 声は荒くない。


 だからこそ刺さった。


「はい」


 私は答える。


「王都の都合です」


 部屋が少し静かになる。


 認めると、火種が見えることがある。


【火種:王都都合への反発】

【火種:再度の未回答不信】

【火種:広報官への期待過多】

【火種:届かない場合の失望拡大】


 この火は消せない。


 誤魔化せば大きくなる。


 だから、私は言った。


「王都がすぐに返事を出せるとは、約束できません」


 トマの眉が寄る。


「じゃあ、また待てってこと?」


「はい」


「いつまで」


「期限を決めます」


 私が言うと、村長が顔を上げた。


「期限?」


「はい。こちらから王都へ照会を出します。北方からの過去請願、援軍要請、補助金遅延照会、児童書簡の受領後対応について、回答期限を設定します」


「王都が守るのか」


「守らせます」


 言ってしまった。


 言ってから、胃がきゅっと縮む。


 守らせます。


 大きく出た。


 今の私は王宮広報局の下級職員で、しかも北方滞在中の身である。


 職権でできる範囲は限られている。


 だが、言葉には出してしまった以上、責任がある。


 カイル様がこちらを見た。


 何も言わない。


 止めない。


 止めてほしいわけではない。


 でも、見られると少しだけ背筋が伸びる。


「王都が返事をしないなら、その事実も記録します」


 私は続けた。


「返事がない、という返事を、なかったことにはしません」


 トマは少し黙った。


「じゃあ、王都が黙ったら?」


「黙った、と書きます」


「ほんと?」


「はい」


「また勝手に綺麗にしない?」


「しません」


「約束?」


「約束です」


 トマは父親を見た。


 父親は黙って頷いた。


 その沈黙は、許可のようにも、警戒のようにも見えた。


 どちらかはわからない。


 わからないままでいい。


 勝手に続きを書かない。


 兵士の妻が、遠慮がちに口を開いた。


「薬代の件も、返事が来るんですか」


「王都補助金遅延の件に含めます。現物支給で補えなかった費用について、辺境伯府と王都の負担区分も確認します」


 言いながら、私は頭の中で文面を組み立てていた。


 北方兵給与遅延に関する追加照会。


 王都補助金の支給予定。


 遅延理由。


 補填責任。


 現物支給で補えない生活費への緊急措置。


 関係部署。


 宰相府財務調整局。


 王宮広報局。


 辺境伯府。


 そして、ベルク・アインハルト補佐官の部署印。


 あの印がある以上、王都の中に火元がある。


 まだ名指しはできない。


 でも、紙は残っている。


「難しい話だね」


 兵士の妻が言った。


「はい。難しいです」


「でも、薬代は難しくないよ」


 私は手を止めた。


「はい」


「払えなかった。それだけ」


「はい」


「そこ、忘れないで」


「忘れません」


 私は手帳を開こうとして、止めた。


 彼女を見る。


「書いてもいいですか」


 彼女は少し驚いた顔をした。


 それから、ゆっくり頷く。


「名前は」


「伏せますか」


「……夫に相談してから」


「わかりました。今は、名前なしで記録します」


 私は書いた。


『薬代は難しくない。払えなかった。それだけ。忘れないで』


 短い。


 強い。


 これが届くかどうかは、私の文章の腕だけではない。


 でも、届かせる形を考えるのが私の仕事だ。


 使いやすい見出しにしない。


 消さない。


 守る。


 この三つを同時にやるのは、思ったより難しい。


 前世の上司が見たら、きっと言う。


 面倒なことを増やすな。


 今世の私は言い返せる。


 面倒なことを減らした結果が、炎上です。


 やがて村人たちは部屋を出ていった。


 トマは最後に、こちらを振り返った。


「期限、忘れるなよ」


「忘れません」


「胃薬飲んでも忘れるな」


「胃薬に記憶消去作用はありません」


「よかった」


 よくはない。


 胃痛は消えない。


 トマが出ていった後、部屋には私とカイル様だけが残った。


 カイル様はしばらく黙っていた。


 沈黙。


 北方へ来てから、沈黙の種類が少しわかるようになった気がする。


 拒絶の沈黙。


 考える沈黙。


 怒りを押さえる沈黙。


 言葉を探す沈黙。


 今のカイル様は、たぶん最後だ。


「無理をした」


 彼が言った。


「私がですか」


「ああ」


「よくあります」


「よくあるのか」


「はい。王宮広報局では、無理は主食です」


「やめろ」


「私もやめたいです」


 カイル様は眉を寄せた。


「守らせる、と言った」


「言いました」


「守らなければ」


「燃えます」


「お前がか」


「王都が、です」


 私は苦笑した。


「あと、少し私も」


「困る」


「私も困ります」


「なら、俺が言う」


「何をですか」


「王都に返事を出させる」


「辺境伯様が強く言うと、圧力記事になります」


「では弱く言う」


「弱く言えるんですか」


 カイル様は黙った。


 正直な沈黙だった。


「……練習しますか」


「何を」


「圧力に見えない要請文」


 カイル様は嫌そうな顔をした。


 嫌そうな顔もだいぶわかるようになってきた。


 眉間の皺が半目盛り深くなる。


「文か」


「はい」


「長いか」


「短く始めましょう」


 私は新しい紙を出した。


「まず、辺境伯府から王都への照会文です」


「照会」


「質問状の丁寧な形です」


「質問でいい」


「公式には照会です」


 カイル様は椅子に座った。


 座った。


 逃げなかった。


 私は少しだけ感動した。


「最初の一文をどうぞ」


 カイル様は少し考えた。


 考えて、言った。


『返事を寄越せ』


「却下です」


「なぜ」


「怖いです」


「事実だ」


「事実をそのまま投げると鈍器になる場合があります」


 私は赤字を入れる。


『過去請願および補助金遅延照会に関し、王都側の受領・確認状況を回答されたい』


「長い」


「これでも短い方です」


「返事を寄越せ、でいい」


「だめです」


「なぜだ」


「王都が『辺境伯が威圧的要求』と書きます」


「またか」


 その低い声に、ほんの少しだけ冷えたものが混じった。


 私はペンを止める。


 カイル様の手が、手袋の縫い目に触れていた。


 ぎゅっと押さえている。


 彼はすぐに手を離した。


「……すまない」


「謝らなくて大丈夫です」


「燃えるか」


「今のは燃えません」


 カイル様は私を見る。


「なぜ」


「誰も傷つけていません。怒った理由もあります。あと、机も無事です」


「机」


「大事です。後々」


「そうか」


 この時の私はまだ知らない。


 後に本当に机が犠牲になるとは。


 未来の私は、今の自分に胃薬を送ってあげたい。


 それも大瓶で。


 カイル様はもう一度紙を見た。


「受領状況」


「はい」


「確認状況」


「はい」


「回答されたい」


「はい」


「……短くない」


「王都基準では短いです」


「王都はおかしい」


「そこは同意します」


 私は文案を整えた。


 カイル様の言葉を、怖くならない形にする。


 ただし、怒りを消しすぎない。


 この加減が難しい。


『北方辺境伯府は、過去に提出した援軍要請、補助金遅延照会、および今回提出された児童書簡について、王都側の受領・閲読・回答状況を確認する。回答期限は十日後。期限内に回答なき場合、未回答として北方領内記録に保全する』


 私は読み上げた。


 カイル様は聞いている。


 長い文を。


 逃げずに。


「どうでしょう」


「十日」


「短いですか」


「長い」


「王都相手なら短いです」


「五日」


「輸送に時間がかかります」


「七日」


「妥協案ですね。では七日」


 カイル様は頷いた。


「最後」


「最後?」


「俺の言葉を入れるのだろう」


 私は少し驚いた。


 カイル様が自分から。


 言葉を。


 公式文に。


 外は雪である。


 天変地異の前触れではないか。


「入れますか」


「ああ」


「では、どうぞ」


 カイル様は口を開きかけた。


 閉じた。


 また開く。


 閉じる。


 真剣だ。


 私は急かさない。


 薪が小さくはぜる。


 窓の外で、子どもたちの笑い声が遠ざかる。


 しばらくして、カイル様は言った。


「北方は、返事を待っている」


 短い。


 でも、逃げていない。


 私はそのまま書いた。


『北方は、返事を待っている』


 火種は見えなかった。


 胸の奥だけが、少し熱くなった。


「いい一文です」


「短いか」


「短いですが、今回はちょうどいいです」


「そうか」


 カイル様はわずかに息を吐いた。


 それは安堵に見えた。


 でも、見えただけだ。


 勝手に続きを書かない。


 昼過ぎには、照会文の清書が完成した。


 辺境伯府の印章を押し、伝令に持たせる。


 同時に、王宮広報局宛の私の報告書も送る。


 エレオノーラ様への返信も書いた。


『北方では訂正記事により一定の反応変化あり。ただし不信は継続。王都における王太子再評価の動きについて、発信源、同一文言、資金経路の確認をお願いします』


 最後に、少し迷って追記する。


『ミリア様の件、引き続き記録局立ち会いの状況確認をお願いします。本人の言葉がまた囲い込まれないよう、外部記録の保全を優先してください』


 ミリア様はここにいない。


 同行していない。


 自由に動けない。


 それでも、彼女の言葉は王都のどこかで、細い糸のように外へ出ようとしている。


 その糸を、今ここで切らせるわけにはいかない。


 手紙を畳んだところで、村長宅の裏口が騒がしくなった。


「リディア様!」


 村の若い兵士が、両手に大きな布袋を抱えて入ってきた。


 その後ろにも二人。


 袋。


 箱。


 さらに袋。


 嫌な予感がした。


「これは何ですか」


「辺境伯様から、王都への帰路用にと」


 私はカイル様を見る。


 カイル様は平然としている。


「保存食だ」


「量」


「足りないか」


「足りすぎます」


 袋の口を開ける。


 干し肉。


 干し肉。


 干し肉。


 硬い黒パン。


 塩漬け肉。


 乾燥豆。


 薬草茶。


 そして胃薬。


 胃薬だけはありがたい。


 だが全体としては、これはもう一人旅用ではなく小隊の補給物資である。


「辺境伯様」


「何だ」


「これ、感謝ですか、備蓄ですか」


 カイル様は答えない。


 沈黙。


 この沈黙は、たぶん逃げである。


「辺境伯様」


「持て」


「答えになっていません」


「必要だ」


「量が必要を超えています」


「王都は菓子が甘すぎる」


「だから干し肉を大量に?」


「腹は満ちる」


「感謝表現が保存食に偏っています」


「悪いか」


「悪くはありませんが、恋愛小説ならここで花束です」


 言ってから、私は固まった。


 なぜ恋愛小説と言った。


 私の口は時々、広報審査を通さずに勝手に発表する。


 危機管理上、大変よろしくない。


 カイル様も固まっている。


 村長が咳払いした。


 兵士たちが明後日の方向を見た。


 空気が不自然に乾いた。


 雪国なのに。


「……花は」


 カイル様が低く言った。


「はい」


「北方の冬には少ない」


「そうですね」


「干し肉はある」


「はい」


「なら、干し肉だ」


 理屈は通っている。


 通っているが、なぜだろう。


 胸が少し変な方向に揺れた。


 私は袋の中の干し肉を見る。


 花束ではない。


 香りもしない。


 いや、香りはする。


 燻製くんせいの。


 恋愛小説としてはだいぶ塩気が強い。


 でも、これはこの人なりの、差し出せるものなのだ。


 言葉ではなく。


 花ではなく。


 北方で生き延びるためのもの。


 私は、笑ってしまった。


「ありがとうございます」


「ああ」


「ただし、次回から量は相談してください」


「次回」


「……あるかもしれませんので」


 カイル様は何も言わなかった。


 けれど、目が少しだけ静かになった気がした。


 気がしただけだ。


 勝手に続きを書かない。


 その日の夕方、王都からさらに水晶通信(すいしょうつうしん)が入った。


 通信水晶に映ったのは、王宮広報局おうきゅうこうほうきょくの先輩だった。


 目の下にくま


 髪は乱れ。


 背景には紙束。


 おそらく、炎上である。


『リディア、生きてる?』


「かろうじて」


『こっちもかろうじて』


「胃薬は?」


『棚が空』


「末期ですね」


『そっちは?』


「干し肉で埋まりそうです」


『何が?』


「部屋が」


『北方こわい』


 先輩は遠い目をした。


 冗談を言えるなら、まだ少し余裕がある。


 そう思った瞬間、通信水晶の横に紙が差し出された。


 先輩の顔が一気に暗くなる。


『王都、変なことになってる』


「エレオノーラ様の手紙にもありました。王太子再評価の件ですね」


『そう。「強い王が必要だ」って文言が、掲示板と瓦版とサロンで同時に出てる』


「同時に」


『同時に』


 私は眉を寄せた。


「発信源は」


『まだ不明。ただ、文章が妙に整ってる。庶民の怒りっぽいのに、句読点が官僚』


 官僚の句読点。


 嫌な言葉だ。


 私は思い出す。


 婚約破棄会見で、妙に丁寧な句読点でメモを取っていた記者。


 エレオノーラ様が気づいた王宮文書の癖。


 ベルクの、整いすぎた言葉。


『王太子殿下本人は、人気が戻ってきたって喜んでる』


「殿下は、今こそ黙っていていただきたいです」


『無理だと思う』


「知っています」


『あと、王太子派の記者が北方記事を逆利用し始めた』


「どういうことですか」


 先輩は苦々しい顔で紙を掲げた。


『北方の補助金遅延は、弱い王宮の象徴だって。強い王が即断すれば、辺境も救われる、って論調』


 私は目を閉じた。


 来た。


 北方の痛みを、王太子人気回復に使う気だ。


 やはり、火は単独では燃えない。


 どこかの火が、別の燃料に接続される。


【火種:北方被害の王太子派利用】

【火種:強い王論への接続】

【火種:王宮批判の方向転換】

【火種:辺境支援を名目とした権力集中】

【火種:カイル発言の政治利用】


 私は口元を押さえた。


 胃ではなく、言葉を押さえるために。


 ここで怒りのままに返すと、燃える。


 わかっている。


 でも、腹が立つ。


「先輩」


『うん』


「王太子派の記事、全部写しを送ってください。見出し、本文、配布場所、発行元、同じ文言の掲示板投稿も」


『了解。こっちは胃薬なしで戦う』


「生きてください」


『干し肉送って』


「本気で余っています」


『やった』


 通信が切れる直前、先輩が小声で言った。


『リディア』


「はい」


『戻る?』


 同じ問い。


 カイル様にも聞かれた。


 エレオノーラ様にも、手紙で委ねられた。


 王都が燃え始めている。


 でも、北方もまだ燃えている。


 ここで帰れば、北方の返事はまた後回しになるかもしれない。


 ここに残れば、王都の火は広がるかもしれない。


 どちらを選んでも、遅れる。


 届くのが、いつも少し遅い。


 老人の声が胸に残る。


「まだ戻りません」


 私は言った。


「北方から、王都へ返事を出させます。その上で戻ります」


『了解』


「先輩」


『何』


「王太子殿下を、できるだけ喋らせないでください」


『一番難しい任務来た』


「王国の命運がかかっています」


『胃薬なしで?』


「干し肉を送ります」


『戦える気がしてきた』


 通信が切れた。


 私は深く息を吐く。


 窓の外は暗くなり始めていた。


 雪はまだ降っている。


 カイル様は、部屋の隅で黙って通信を聞いていた。


「王都か」


「はい」


「燃えたか」


「燃え始めています」


「戻るか」


 また問われる。


 私は首を振った。


「ここも燃えています」


 カイル様は頷いた。


「なら、消す」


「はい」


「王都は」


「次に消します」


「一人でか」


 私は少しだけ笑った。


「無理ですね」


 カイル様の目が動いた。


「だから、手伝ってください」


 言ってから、また少しだけ恥ずかしくなる。


 手伝ってください。


 仕事の言葉だ。


 でも、今はそれだけではない何かが混じった気がした。


 いや、混じっていないかもしれない。


 混じったと判断するのは危険だ。


 火種感知は自分の炎に鈍い。


 私は胃薬の瓶を握った。


 カイル様は短く答えた。


「手伝う」


 胸の奥が、また少し温かくなった。


 短い。


 やはり短い。


 でも、不思議と足りた。


 その後、私は夜遅くまで文書を書いた。


 王都への照会文。


 王宮広報局への報告。


 エレオノーラ様への返信。


 灯火新聞への追加資料。


 北方兵家族への聞き取り予定表。


 子どもたちの手紙の回答期限管理表。


 そして、保存食の輸送目録。


 最後の一つは本来私の仕事ではない。


 しかし、干し肉の量が想定外すぎて、目録が必要になった。


 項目名。


『辺境伯様より提供された保存食一式』


 備考。


『感謝または備蓄。判別不能』


 私はそこまで書いて、少し笑った。


 でも、笑いはすぐに消えた。


 王都では、王太子人気が回復し始めている。


 北方の痛みが、別の物語に使われようとしている。


 強い王。


 迷いのない王。


 優しさでは国は守れない。


 その言葉はわかりやすい。


 わかりやすい言葉は、火がつきやすい。


 私はペンを置き、窓の外を見た。


 雪の向こうに、村の鐘楼がある。


 一回はごはん。


 二回は熊。


 三回は噂。


 王都にも、あの鐘があればいいのに。


 噂が走る前に、人を集めて、確認する。


 勝手に走らない。


 勝手に書かない。


 勝手に燃やさない。


 そんな仕組みが、王都にはない。


 あるのは、掲示板と新聞とサロンと、誰かが整えた言葉だけ。


 私は胸の奥に残る老人の言葉を、まだ書かないまま抱えていた。


 届くのが、いつも少し遅い。


 遅れた言葉で、人が死ぬこともある。


 カイル様は、それを知っている。


 私は、まだ知り始めたばかりだ。


 翌朝、王都へ向かう伝令が出立した。


 七日以内の回答を求める照会文。


 北方は、返事を待っている。


 その一文を乗せて。


 伝令の馬が雪道を進む。


 トマたちが見送る。


 村長が黙って立つ。


 兵士の妻が、胸の前で手を組む。


 カイル様は何も言わない。


 私はただ、馬の背が白い道の向こうに消えるまで見ていた。


「届きますかね」


 思わず呟く。


 カイル様が隣で言った。


「届かせる」


 短い。


 でも、逃げていない。


 私は頷いた。


「はい」


 その時、王都から二羽目の通信鳥が飛び込んできた。


 足に結ばれた紙片には、灯火新聞の編集長の印。


 私は素早く封を解いた。


 中には、王都で出始めた新しい見出しの写しが入っていた。


『ルーファス殿下、辺境支援の遅れに心痛』

『強い王こそ、遠き地の声を即座に救う』

『迷える王宮に代わり、決断する王太子を』


 私は紙を握りしめた。


 カイル様が横から見る。


「ルーファス」


「はい」


「支援したのか」


「していません」


「なら、なぜ心痛」


「心を痛めるのは無料だからです」


 言ってから、自分の声が少し冷たいことに気づいた。


 カイル様は何も言わない。


 紙の最後に、編集長の走り書きがある。


『王太子派、大規模キャンペーン準備中。急げ』


 王都で、次の炎上が始まっている。


 北方の雪は、まだやまない。


 私は紙を畳み、懐に入れた。


 ここも燃えている。


 王都も燃え始めた。


 なら、どちらかを捨てるのではなく、火の流れを見なければならない。


 火元を見る。


 燃えている人ではなく、火をつけた場所を見る。


 私はカイル様を見上げた。


「辺境伯様」


「何だ」


「王都に戻る準備も始めます」


「ああ」


「でも、その前に、北方からの返事を形にします」


「わかった」


「それと、保存食の量は半分にしてください」


「足りない」


「足ります」


「王都は遠い」


「胃より先に荷馬車が悲鳴を上げます」


 カイル様は少しだけ不満そうだった。


 その顔を見て、私は笑ってしまう。


 笑ってから、ほんの少しだけ寂しくなった。


 この雪の村を離れる日が近い。


 まだ完全に火は消えていないのに。


 まだ、返事は届いていないのに。


 それでも、次の火が呼んでいる。


 炎上対応係に、穏やかな別れの余裕などない。


 私は手帳を開き、今日の予定を書いた。


『北方照会文発送確認』

『兵士家族聞き取り』

『子ども手紙回答期限管理』

『王太子派見出し分析』

『保存食削減交渉』


 最後だけ、やたら生活感がある。


 でも、これも現場だ。


 人は声明文だけで生きているわけではない。


 干し肉も、薬代も、返事も必要だ。


 私はペンを握った。


 北方は、返事を待っている。


 王都は、次の物語を作り始めている。


 その間で、私はまた言葉を書く。


 他人の言葉を。


 届くように。


 遅れすぎないように。


 そして、できれば。


 勝手に続きを書かないように。

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