辺境伯様、ありがとうが短すぎます
感謝の言葉には、適切な長さというものがある。
短すぎれば伝わらない。
長すぎれば疑われる。
王宮広報局で謝罪文や礼状を扱っていると、この辺りの加減にはそれなりにうるさくなる。
例えば、王族が国費を使った催事で民へ礼を述べる場合。
『皆さまの温かなご理解とご協力に、心より感謝申し上げます』
これはまあ、標準的だ。
少し堅いが燃えない。
貴族家同士の礼状なら、もう少し装飾が増える。
『このたびのご厚情、深く胸に刻み、末永く家門の誉れとして――』
長い。
正直、途中で胃薬の瓶を探したくなる。
だが、それでも礼は礼だ。
相手に何へ感謝しているのか、どの程度重く受け止めているのか、伝えるための言葉がある。
では、北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン様の感謝はどうか。
「助かった」
以上。
以上である。
王宮広報局の礼状担当が見たら、赤字どころか紙ごと抱えて泣く。
訂正記事が北方へ届いた翌朝。
私は村長宅の客間で、王都への追加報告を書いていた。
窓の外はまだ雪だ。
昨日より少し弱いが、やむ気配はない。
机の上には、灯火新聞の号外、王都瓦版の訂正欄写し、北方兵給与帳簿の抜粋、子どもたちの手紙控え、それからエレオノーラ様から届いた手紙が並んでいる。
情報量が多い。
そして胃に悪い。
私はペンを持ったまま、目の前に立つカイル様を見上げた。
「今、何とおっしゃいました?」
「助かった」
「もう一度お願いします」
「助かった」
「同じですね」
「ああ」
カイル様は当然のように頷いた。
大変潔い。
潔すぎて、礼状としてはほぼ骨格だけである。
「辺境伯様」
「何だ」
「感謝の言葉としては、少々、短いです」
「足りないか」
「気持ちは伝わります」
「ならいい」
「ですが、広報官としては、もう一文欲しいです」
「なぜ」
「何に対して助かったのか、誰に向けた言葉なのか、今後どうするのか。その辺りが明確だと、誤解が減ります」
「今はお前に言った」
私はペンを落としかけた。
危ない。
インクが報告書に飛んだら、王都への公式文書が黒い流血事件になるところだった。
「……私に、ですか」
「ああ」
「個人的な感謝」
「ああ」
「公式声明ではなく」
「ああ」
「では、もう少し長くても燃えません」
「なぜだ」
「私しか聞いていないので」
言ってから、私は失敗したと思った。
私しか聞いていない。
その言葉は、思ったより部屋の中に残った。
カイル様が黙る。
私も黙る。
薪のはぜる音だけが、やけに大きい。
外では、子どもたちが雪を踏む音がしている。
たぶん掲示板を見に行っているのだろう。
昨日の号外は、雪除けの屋根の下に貼られたままだ。
村人たちは、通るたびに立ち止まって読む。
何度も読む。
疑いながら。
確かめながら。
それでも、捨てずに読む。
「リディア」
カイル様が言った。
「はい」
「助かった」
「三回目です」
「……それ以上は、今は出ない」
その声は、いつもの低さだった。
けれど、少しだけ違った。
短い言葉の奥に、つかえているものがある。
私は、それを勝手に続きを書かない。
だから、軽く言った。
「では、正式な礼状は後日ということで」
「必要か」
「公的には必要です。私的には、三回聞いたので十分です」
「そうか」
「はい」
カイル様は少しだけ視線を落とした。
机の上に置かれた灯火新聞の記事を見る。
昨日、彼はそれを二回読んだ。
長文を二回。
これは、北方辺境伯史に残してよいのではないかと思ったが、本人に止められた。
残念である。
彼は記事の端を指で押さえた。
「これは、王都に届くのか」
「すでに王都で出ています。北方に届いたのが昨日です」
「違う」
「え?」
「この村の反応だ」
カイル様は、窓の外を見た。
「届くのか」
私は、すぐに答えられなかった。
村人が記事を読んだこと。
老人が言った「届くのが、いつも少し遅い」という一文。
トマが言った「勝手に守るな」。
兵士が言った「両方書いてあるなら読む」。
トマの父が読んだと聞いた時の、あの顔。
届いた記事への反応は、私の報告書に入れられる。
けれど、それが王都に“届く”かは別だ。
王都の上層部は、必要な数字だけ読むかもしれない。
新聞社は、使いやすい証言だけ拾うかもしれない。
民衆は、見出しだけで判断するかもしれない。
私自身だって、都合よく整えかける。
「届くように、書きます」
私は答えた。
カイル様は黙っている。
「届くとは言い切れません」
「ああ」
「でも、届くようにします」
「……そうか」
カイル様は頷いた。
その信頼が、少し重い。
嬉しい。
でも、重い。
私はその重さを、まだうまく名前にできない。
名前をつけると、別の火種が生まれそうな気がする。
自意識過剰かもしれない。
でも火種感知は、自分に関する炎には鈍い。
恋愛方面など、特に危険である。
公式分類がない。
私が内心で胃薬を探していると、扉が叩かれた。
「リディア様、よろしいですか」
村長の声だった。
「はい、どうぞ」
入ってきた村長は、いつもより少し困った顔をしていた。
その後ろには、トマとナナ、それから昨日手紙を書いた子どもたちが数人いる。
さらに、大人が二人。
一人はトマの父親だろう。
目元が似ている。
もう一人は、昨日「薬代のこと、載ったんだね」と言った兵士の妻だ。
私は立ち上がった。
「何か、記事に問題がありましたか」
「問題というほどではない」
村長が言った。
「ただ、次をどうするか聞きたい者が多い」
「次?」
トマが一歩前に出た。
「返事」
その言葉に、私は息を止めた。
「昨日、受け取ったって印が来た」
「はい」
「記事も来た」
「はい」
「じゃあ、次は返事だろ」
まっすぐだった。
子どもの言葉は時々、剣より逃げ場がない。
私は椅子の背に手を置いた。
「……そうですね」
「王都は返事を書く?」
「まだ、わかりません」
「なんで」
「王都には、確認すべき部署が複数あります。請願がどこで止まったのか、誰が読んだのか、記録が残っているのか――」
「それ、王都の都合だよね」
トマの父親が静かに言った。
声は荒くない。
だからこそ刺さった。
「はい」
私は答える。
「王都の都合です」
部屋が少し静かになる。
認めると、火種が見えることがある。
【火種:王都都合への反発】
【火種:再度の未回答不信】
【火種:広報官への期待過多】
【火種:届かない場合の失望拡大】
この火は消せない。
誤魔化せば大きくなる。
だから、私は言った。
「王都がすぐに返事を出せるとは、約束できません」
トマの眉が寄る。
「じゃあ、また待てってこと?」
「はい」
「いつまで」
「期限を決めます」
私が言うと、村長が顔を上げた。
「期限?」
「はい。こちらから王都へ照会を出します。北方からの過去請願、援軍要請、補助金遅延照会、児童書簡の受領後対応について、回答期限を設定します」
「王都が守るのか」
「守らせます」
言ってしまった。
言ってから、胃がきゅっと縮む。
守らせます。
大きく出た。
今の私は王宮広報局の下級職員で、しかも北方滞在中の身である。
職権でできる範囲は限られている。
だが、言葉には出してしまった以上、責任がある。
カイル様がこちらを見た。
何も言わない。
止めない。
止めてほしいわけではない。
でも、見られると少しだけ背筋が伸びる。
「王都が返事をしないなら、その事実も記録します」
私は続けた。
「返事がない、という返事を、なかったことにはしません」
トマは少し黙った。
「じゃあ、王都が黙ったら?」
「黙った、と書きます」
「ほんと?」
「はい」
「また勝手に綺麗にしない?」
「しません」
「約束?」
「約束です」
トマは父親を見た。
父親は黙って頷いた。
その沈黙は、許可のようにも、警戒のようにも見えた。
どちらかはわからない。
わからないままでいい。
勝手に続きを書かない。
兵士の妻が、遠慮がちに口を開いた。
「薬代の件も、返事が来るんですか」
「王都補助金遅延の件に含めます。現物支給で補えなかった費用について、辺境伯府と王都の負担区分も確認します」
言いながら、私は頭の中で文面を組み立てていた。
北方兵給与遅延に関する追加照会。
王都補助金の支給予定。
遅延理由。
補填責任。
現物支給で補えない生活費への緊急措置。
関係部署。
宰相府財務調整局。
王宮広報局。
辺境伯府。
そして、ベルク・アインハルト補佐官の部署印。
あの印がある以上、王都の中に火元がある。
まだ名指しはできない。
でも、紙は残っている。
「難しい話だね」
兵士の妻が言った。
「はい。難しいです」
「でも、薬代は難しくないよ」
私は手を止めた。
「はい」
「払えなかった。それだけ」
「はい」
「そこ、忘れないで」
「忘れません」
私は手帳を開こうとして、止めた。
彼女を見る。
「書いてもいいですか」
彼女は少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり頷く。
「名前は」
「伏せますか」
「……夫に相談してから」
「わかりました。今は、名前なしで記録します」
私は書いた。
『薬代は難しくない。払えなかった。それだけ。忘れないで』
短い。
強い。
これが届くかどうかは、私の文章の腕だけではない。
でも、届かせる形を考えるのが私の仕事だ。
使いやすい見出しにしない。
消さない。
守る。
この三つを同時にやるのは、思ったより難しい。
前世の上司が見たら、きっと言う。
面倒なことを増やすな。
今世の私は言い返せる。
面倒なことを減らした結果が、炎上です。
やがて村人たちは部屋を出ていった。
トマは最後に、こちらを振り返った。
「期限、忘れるなよ」
「忘れません」
「胃薬飲んでも忘れるな」
「胃薬に記憶消去作用はありません」
「よかった」
よくはない。
胃痛は消えない。
トマが出ていった後、部屋には私とカイル様だけが残った。
カイル様はしばらく黙っていた。
沈黙。
北方へ来てから、沈黙の種類が少しわかるようになった気がする。
拒絶の沈黙。
考える沈黙。
怒りを押さえる沈黙。
言葉を探す沈黙。
今のカイル様は、たぶん最後だ。
「無理をした」
彼が言った。
「私がですか」
「ああ」
「よくあります」
「よくあるのか」
「はい。王宮広報局では、無理は主食です」
「やめろ」
「私もやめたいです」
カイル様は眉を寄せた。
「守らせる、と言った」
「言いました」
「守らなければ」
「燃えます」
「お前がか」
「王都が、です」
私は苦笑した。
「あと、少し私も」
「困る」
「私も困ります」
「なら、俺が言う」
「何をですか」
「王都に返事を出させる」
「辺境伯様が強く言うと、圧力記事になります」
「では弱く言う」
「弱く言えるんですか」
カイル様は黙った。
正直な沈黙だった。
「……練習しますか」
「何を」
「圧力に見えない要請文」
カイル様は嫌そうな顔をした。
嫌そうな顔もだいぶわかるようになってきた。
眉間の皺が半目盛り深くなる。
「文か」
「はい」
「長いか」
「短く始めましょう」
私は新しい紙を出した。
「まず、辺境伯府から王都への照会文です」
「照会」
「質問状の丁寧な形です」
「質問でいい」
「公式には照会です」
カイル様は椅子に座った。
座った。
逃げなかった。
私は少しだけ感動した。
「最初の一文をどうぞ」
カイル様は少し考えた。
考えて、言った。
『返事を寄越せ』
「却下です」
「なぜ」
「怖いです」
「事実だ」
「事実をそのまま投げると鈍器になる場合があります」
私は赤字を入れる。
『過去請願および補助金遅延照会に関し、王都側の受領・確認状況を回答されたい』
「長い」
「これでも短い方です」
「返事を寄越せ、でいい」
「だめです」
「なぜだ」
「王都が『辺境伯が威圧的要求』と書きます」
「またか」
その低い声に、ほんの少しだけ冷えたものが混じった。
私はペンを止める。
カイル様の手が、手袋の縫い目に触れていた。
ぎゅっと押さえている。
彼はすぐに手を離した。
「……すまない」
「謝らなくて大丈夫です」
「燃えるか」
「今のは燃えません」
カイル様は私を見る。
「なぜ」
「誰も傷つけていません。怒った理由もあります。あと、机も無事です」
「机」
「大事です。後々」
「そうか」
この時の私はまだ知らない。
後に本当に机が犠牲になるとは。
未来の私は、今の自分に胃薬を送ってあげたい。
それも大瓶で。
カイル様はもう一度紙を見た。
「受領状況」
「はい」
「確認状況」
「はい」
「回答されたい」
「はい」
「……短くない」
「王都基準では短いです」
「王都はおかしい」
「そこは同意します」
私は文案を整えた。
カイル様の言葉を、怖くならない形にする。
ただし、怒りを消しすぎない。
この加減が難しい。
『北方辺境伯府は、過去に提出した援軍要請、補助金遅延照会、および今回提出された児童書簡について、王都側の受領・閲読・回答状況を確認する。回答期限は十日後。期限内に回答なき場合、未回答として北方領内記録に保全する』
私は読み上げた。
カイル様は聞いている。
長い文を。
逃げずに。
「どうでしょう」
「十日」
「短いですか」
「長い」
「王都相手なら短いです」
「五日」
「輸送に時間がかかります」
「七日」
「妥協案ですね。では七日」
カイル様は頷いた。
「最後」
「最後?」
「俺の言葉を入れるのだろう」
私は少し驚いた。
カイル様が自分から。
言葉を。
公式文に。
外は雪である。
天変地異の前触れではないか。
「入れますか」
「ああ」
「では、どうぞ」
カイル様は口を開きかけた。
閉じた。
また開く。
閉じる。
真剣だ。
私は急かさない。
薪が小さくはぜる。
窓の外で、子どもたちの笑い声が遠ざかる。
しばらくして、カイル様は言った。
「北方は、返事を待っている」
短い。
でも、逃げていない。
私はそのまま書いた。
『北方は、返事を待っている』
火種は見えなかった。
胸の奥だけが、少し熱くなった。
「いい一文です」
「短いか」
「短いですが、今回はちょうどいいです」
「そうか」
カイル様はわずかに息を吐いた。
それは安堵に見えた。
でも、見えただけだ。
勝手に続きを書かない。
昼過ぎには、照会文の清書が完成した。
辺境伯府の印章を押し、伝令に持たせる。
同時に、王宮広報局宛の私の報告書も送る。
エレオノーラ様への返信も書いた。
『北方では訂正記事により一定の反応変化あり。ただし不信は継続。王都における王太子再評価の動きについて、発信源、同一文言、資金経路の確認をお願いします』
最後に、少し迷って追記する。
『ミリア様の件、引き続き記録局立ち会いの状況確認をお願いします。本人の言葉がまた囲い込まれないよう、外部記録の保全を優先してください』
ミリア様はここにいない。
同行していない。
自由に動けない。
それでも、彼女の言葉は王都のどこかで、細い糸のように外へ出ようとしている。
その糸を、今ここで切らせるわけにはいかない。
手紙を畳んだところで、村長宅の裏口が騒がしくなった。
「リディア様!」
村の若い兵士が、両手に大きな布袋を抱えて入ってきた。
その後ろにも二人。
袋。
箱。
さらに袋。
嫌な予感がした。
「これは何ですか」
「辺境伯様から、王都への帰路用にと」
私はカイル様を見る。
カイル様は平然としている。
「保存食だ」
「量」
「足りないか」
「足りすぎます」
袋の口を開ける。
干し肉。
干し肉。
干し肉。
硬い黒パン。
塩漬け肉。
乾燥豆。
薬草茶。
そして胃薬。
胃薬だけはありがたい。
だが全体としては、これはもう一人旅用ではなく小隊の補給物資である。
「辺境伯様」
「何だ」
「これ、感謝ですか、備蓄ですか」
カイル様は答えない。
沈黙。
この沈黙は、たぶん逃げである。
「辺境伯様」
「持て」
「答えになっていません」
「必要だ」
「量が必要を超えています」
「王都は菓子が甘すぎる」
「だから干し肉を大量に?」
「腹は満ちる」
「感謝表現が保存食に偏っています」
「悪いか」
「悪くはありませんが、恋愛小説ならここで花束です」
言ってから、私は固まった。
なぜ恋愛小説と言った。
私の口は時々、広報審査を通さずに勝手に発表する。
危機管理上、大変よろしくない。
カイル様も固まっている。
村長が咳払いした。
兵士たちが明後日の方向を見た。
空気が不自然に乾いた。
雪国なのに。
「……花は」
カイル様が低く言った。
「はい」
「北方の冬には少ない」
「そうですね」
「干し肉はある」
「はい」
「なら、干し肉だ」
理屈は通っている。
通っているが、なぜだろう。
胸が少し変な方向に揺れた。
私は袋の中の干し肉を見る。
花束ではない。
香りもしない。
いや、香りはする。
燻製の。
恋愛小説としてはだいぶ塩気が強い。
でも、これはこの人なりの、差し出せるものなのだ。
言葉ではなく。
花ではなく。
北方で生き延びるためのもの。
私は、笑ってしまった。
「ありがとうございます」
「ああ」
「ただし、次回から量は相談してください」
「次回」
「……あるかもしれませんので」
カイル様は何も言わなかった。
けれど、目が少しだけ静かになった気がした。
気がしただけだ。
勝手に続きを書かない。
その日の夕方、王都からさらに水晶通信が入った。
通信水晶に映ったのは、王宮広報局の先輩だった。
目の下に隈。
髪は乱れ。
背景には紙束。
おそらく、炎上である。
『リディア、生きてる?』
「かろうじて」
『こっちもかろうじて』
「胃薬は?」
『棚が空』
「末期ですね」
『そっちは?』
「干し肉で埋まりそうです」
『何が?』
「部屋が」
『北方こわい』
先輩は遠い目をした。
冗談を言えるなら、まだ少し余裕がある。
そう思った瞬間、通信水晶の横に紙が差し出された。
先輩の顔が一気に暗くなる。
『王都、変なことになってる』
「エレオノーラ様の手紙にもありました。王太子再評価の件ですね」
『そう。「強い王が必要だ」って文言が、掲示板と瓦版とサロンで同時に出てる』
「同時に」
『同時に』
私は眉を寄せた。
「発信源は」
『まだ不明。ただ、文章が妙に整ってる。庶民の怒りっぽいのに、句読点が官僚』
官僚の句読点。
嫌な言葉だ。
私は思い出す。
婚約破棄会見で、妙に丁寧な句読点でメモを取っていた記者。
エレオノーラ様が気づいた王宮文書の癖。
ベルクの、整いすぎた言葉。
『王太子殿下本人は、人気が戻ってきたって喜んでる』
「殿下は、今こそ黙っていていただきたいです」
『無理だと思う』
「知っています」
『あと、王太子派の記者が北方記事を逆利用し始めた』
「どういうことですか」
先輩は苦々しい顔で紙を掲げた。
『北方の補助金遅延は、弱い王宮の象徴だって。強い王が即断すれば、辺境も救われる、って論調』
私は目を閉じた。
来た。
北方の痛みを、王太子人気回復に使う気だ。
やはり、火は単独では燃えない。
どこかの火が、別の燃料に接続される。
【火種:北方被害の王太子派利用】
【火種:強い王論への接続】
【火種:王宮批判の方向転換】
【火種:辺境支援を名目とした権力集中】
【火種:カイル発言の政治利用】
私は口元を押さえた。
胃ではなく、言葉を押さえるために。
ここで怒りのままに返すと、燃える。
わかっている。
でも、腹が立つ。
「先輩」
『うん』
「王太子派の記事、全部写しを送ってください。見出し、本文、配布場所、発行元、同じ文言の掲示板投稿も」
『了解。こっちは胃薬なしで戦う』
「生きてください」
『干し肉送って』
「本気で余っています」
『やった』
通信が切れる直前、先輩が小声で言った。
『リディア』
「はい」
『戻る?』
同じ問い。
カイル様にも聞かれた。
エレオノーラ様にも、手紙で委ねられた。
王都が燃え始めている。
でも、北方もまだ燃えている。
ここで帰れば、北方の返事はまた後回しになるかもしれない。
ここに残れば、王都の火は広がるかもしれない。
どちらを選んでも、遅れる。
届くのが、いつも少し遅い。
老人の声が胸に残る。
「まだ戻りません」
私は言った。
「北方から、王都へ返事を出させます。その上で戻ります」
『了解』
「先輩」
『何』
「王太子殿下を、できるだけ喋らせないでください」
『一番難しい任務来た』
「王国の命運がかかっています」
『胃薬なしで?』
「干し肉を送ります」
『戦える気がしてきた』
通信が切れた。
私は深く息を吐く。
窓の外は暗くなり始めていた。
雪はまだ降っている。
カイル様は、部屋の隅で黙って通信を聞いていた。
「王都か」
「はい」
「燃えたか」
「燃え始めています」
「戻るか」
また問われる。
私は首を振った。
「ここも燃えています」
カイル様は頷いた。
「なら、消す」
「はい」
「王都は」
「次に消します」
「一人でか」
私は少しだけ笑った。
「無理ですね」
カイル様の目が動いた。
「だから、手伝ってください」
言ってから、また少しだけ恥ずかしくなる。
手伝ってください。
仕事の言葉だ。
でも、今はそれだけではない何かが混じった気がした。
いや、混じっていないかもしれない。
混じったと判断するのは危険だ。
火種感知は自分の炎に鈍い。
私は胃薬の瓶を握った。
カイル様は短く答えた。
「手伝う」
胸の奥が、また少し温かくなった。
短い。
やはり短い。
でも、不思議と足りた。
その後、私は夜遅くまで文書を書いた。
王都への照会文。
王宮広報局への報告。
エレオノーラ様への返信。
灯火新聞への追加資料。
北方兵家族への聞き取り予定表。
子どもたちの手紙の回答期限管理表。
そして、保存食の輸送目録。
最後の一つは本来私の仕事ではない。
しかし、干し肉の量が想定外すぎて、目録が必要になった。
項目名。
『辺境伯様より提供された保存食一式』
備考。
『感謝または備蓄。判別不能』
私はそこまで書いて、少し笑った。
でも、笑いはすぐに消えた。
王都では、王太子人気が回復し始めている。
北方の痛みが、別の物語に使われようとしている。
強い王。
迷いのない王。
優しさでは国は守れない。
その言葉はわかりやすい。
わかりやすい言葉は、火がつきやすい。
私はペンを置き、窓の外を見た。
雪の向こうに、村の鐘楼がある。
一回はごはん。
二回は熊。
三回は噂。
王都にも、あの鐘があればいいのに。
噂が走る前に、人を集めて、確認する。
勝手に走らない。
勝手に書かない。
勝手に燃やさない。
そんな仕組みが、王都にはない。
あるのは、掲示板と新聞とサロンと、誰かが整えた言葉だけ。
私は胸の奥に残る老人の言葉を、まだ書かないまま抱えていた。
届くのが、いつも少し遅い。
遅れた言葉で、人が死ぬこともある。
カイル様は、それを知っている。
私は、まだ知り始めたばかりだ。
翌朝、王都へ向かう伝令が出立した。
七日以内の回答を求める照会文。
北方は、返事を待っている。
その一文を乗せて。
伝令の馬が雪道を進む。
トマたちが見送る。
村長が黙って立つ。
兵士の妻が、胸の前で手を組む。
カイル様は何も言わない。
私はただ、馬の背が白い道の向こうに消えるまで見ていた。
「届きますかね」
思わず呟く。
カイル様が隣で言った。
「届かせる」
短い。
でも、逃げていない。
私は頷いた。
「はい」
その時、王都から二羽目の通信鳥が飛び込んできた。
足に結ばれた紙片には、灯火新聞の編集長の印。
私は素早く封を解いた。
中には、王都で出始めた新しい見出しの写しが入っていた。
『ルーファス殿下、辺境支援の遅れに心痛』
『強い王こそ、遠き地の声を即座に救う』
『迷える王宮に代わり、決断する王太子を』
私は紙を握りしめた。
カイル様が横から見る。
「ルーファス」
「はい」
「支援したのか」
「していません」
「なら、なぜ心痛」
「心を痛めるのは無料だからです」
言ってから、自分の声が少し冷たいことに気づいた。
カイル様は何も言わない。
紙の最後に、編集長の走り書きがある。
『王太子派、大規模キャンペーン準備中。急げ』
王都で、次の炎上が始まっている。
北方の雪は、まだやまない。
私は紙を畳み、懐に入れた。
ここも燃えている。
王都も燃え始めた。
なら、どちらかを捨てるのではなく、火の流れを見なければならない。
火元を見る。
燃えている人ではなく、火をつけた場所を見る。
私はカイル様を見上げた。
「辺境伯様」
「何だ」
「王都に戻る準備も始めます」
「ああ」
「でも、その前に、北方からの返事を形にします」
「わかった」
「それと、保存食の量は半分にしてください」
「足りない」
「足ります」
「王都は遠い」
「胃より先に荷馬車が悲鳴を上げます」
カイル様は少しだけ不満そうだった。
その顔を見て、私は笑ってしまう。
笑ってから、ほんの少しだけ寂しくなった。
この雪の村を離れる日が近い。
まだ完全に火は消えていないのに。
まだ、返事は届いていないのに。
それでも、次の火が呼んでいる。
炎上対応係に、穏やかな別れの余裕などない。
私は手帳を開き、今日の予定を書いた。
『北方照会文発送確認』
『兵士家族聞き取り』
『子ども手紙回答期限管理』
『王太子派見出し分析』
『保存食削減交渉』
最後だけ、やたら生活感がある。
でも、これも現場だ。
人は声明文だけで生きているわけではない。
干し肉も、薬代も、返事も必要だ。
私はペンを握った。
北方は、返事を待っている。
王都は、次の物語を作り始めている。
その間で、私はまた言葉を書く。
他人の言葉を。
届くように。
遅れすぎないように。
そして、できれば。
勝手に続きを書かないように。




