北方辺境伯は冷血公らしいです
聖女ブームは、鎮火し始めた。
始めた、である。
完了形ではない。
この違いは大事だ。
広報において完了形は危険である。
完了したと思った瞬間、だいたい別の場所から煙が上がる。
現に、私の机の上には煙どころか、もう立派な火柱が二本立っていた。
一つは、ミリア・セレス様の保護移管手続きに関する報告書。
もう一つは、北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン様に関する悪評記事の束。
胃が、どちらを先に痛がればいいのか迷っている。
「胃にも優先順位表が必要ですね」
私は呟いた。
隣で資料を仕分けしていたセラさんが、疲れた顔でこちらを見る。
「リディアさん、胃に業務を振らないでください」
「でも最近、私より胃の方が状況判断が早いんです」
「それはもう治療対象です」
否定できない。
私は胃薬の包みをひとつ机の隅へ寄せ、まず王宮記録局から届いた報告書を開いた。
『ミリア・セレス本人は聖女候補辞退の意思を示しているが、神殿側の正式受理は未了。現在、外部接触は記録局立ち会いに限定する』
私はその一文に赤線を引いた。
未了。
限定。
こういう言葉は、燃えにくい顔をしている。
でも、人を閉じ込める時にも使われる。
ミリア様は「パンがいい」と言った。
自分で選んだ。
それは確かに小さな一歩だった。
けれど、彼女はまだ神殿管理下から完全には出ていない。
王宮記録局の保護へ移る手続きの途中。
神殿監察官の聴取も続いている。
外部との接触は制限され、発言は記録水晶越しに保全される。
つまり、彼女はまだ自由にこの作業室へ来られない。
一緒に帳簿を広げることもない。
神殿の不正を横で見て「ここも変です」と指摘することもない。
彼女の言葉は、今も細い通路を通って届いている。
届いたら、落とさない。
それが今の私にできることだった。
「ミリア様の件、気になりますわね」
向かいの椅子に座っていたエレオノーラ様が、静かに言った。
今日は淡い灰青のドレスを着ている。
喪服ではない。
けれど、白でもない。
神殿の白を見続けた後だからか、その色が少しだけ優しく見えた。
「はい。まだ終わっていません」
「ええ。ですが」
エレオノーラ様の扇の先が、もう一つの紙束を示す。
「そちらも、なかなか愉快ではなさそうですわ」
「愉快だったら胃薬は要りません」
私は紙束を引き寄せた。
王都瓦版。
貴族向け小新聞。
水晶掲示板の写し。
商会の回覧紙。
どれも同じ方向を向いていた。
『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン、冷血公の実態』
『民を酷使する雪の領主』
『王都を嫌う危険人物、神殿関係者へ圧力か』
『沈黙は肯定か。辺境伯、疑惑に答えず』
見出しだけなら、ずいぶん立派な悪役である。
氷の城に住み、民から税を搾り取り、王都への憎悪を煽り、夜な夜な雪原で反乱の練習でもしていそうだ。
実物は、干し肉を差し入れに持ってくる無口な熊……ではなく、辺境伯である。
熊ではない。
たぶん。
記事の本文を読む。
完全な嘘ではなかった。
そこが厄介だ。
カイル様は無口だ。
王都が嫌いだ。
軍事を優先する。
取材対応が絶望的に下手だ。
このあたりは、残念ながら事実である。
だが記事は、それを丁寧に並べ替えていた。
無口は「民へ説明責任を果たさない冷酷さ」に。
王都嫌いは「王家への敵意」に。
軍事優先は「民生軽視」に。
取材対応の下手さは「報道への威圧」に。
そして、神殿の不正追及は「信仰勢力への圧力」に。
事実を使って嘘を作る、いつものやつだ。
私は記事の余白に赤字を書き込む。
『事実A+印象B=悪意ある見出し』
セラさんが覗き込んで、苦笑した。
「式みたいですね」
「炎上数学です」
「嫌な学問ですね」
「必修です」
その時、扉が低く叩かれた。
入ってきたのは、噂の中心人物だった。
カイル・ヴァレンシュタイン様。
黒い外套に雪国の匂いをまとった、北方辺境伯。
王都の室内なのに、彼が立つだけで少し寒い気がする。
気のせいであってほしい。
暖房費が燃える。
「呼んだか」
「呼びました」
私は記事の束を持ち上げる。
「大変です。新聞に嫌われています」
カイル様は紙束を一瞥した。
「いつものことだ」
「いつものことにしないでください。悪評にも鮮度と蓄積があります」
「好きに言わせろ」
出た。
私は思わず、机に両手をつきそうになった。
つかなかった。
机に罪はない。
「好きに言わせた結果、人が死ぬこともあります」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
カイル様の表情は動かない。
けれど、彼の右手が一瞬だけ、手袋の縫い目を押さえた。
ほんの短い動きだった。
私は見た。
見たけれど、まだ聞かなかった。
今ここで踏み込めば、私はまた勝手に続きを書く。
それは、たぶん違う。
カイル様は短く言った。
「大げさだ」
「大げさではありません。人は見出しで判断します。本文を読まない人もいます。本文を読んでも、最初に刺さった印象は残ります」
「なら読ませるな」
「新聞社を封鎖しないでください」
「燃やすか」
「物理は禁止です」
「では凍らせる」
「季節感で犯罪を薄めないでください。第30話でも言いました」
「覚えている」
「覚えているなら実行しないでください」
カイル様は不満そうに黙った。
ここで黙られると困る。
黙れば、また別の誰かが続きを書く。
私は一枚の紙を差し出した。
「反論案です」
カイル様は受け取る前から嫌そうだった。
紙を嫌う大型犬のような顔である。
大型犬に失礼かもしれない。
紙に書いてあるのは、私が仮に作った声明案だ。
『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインは、現在流布している一部報道について、事実確認を求める。北方領における統治実態、兵站管理、領民支援、王宮との連絡記録については、確認可能な範囲で資料を公開する用意がある。なお、神殿不正調査に関する対応は、孤児院支援および寄進金流用疑惑の確認を目的とするものであり、信仰そのものへの圧力ではない』
カイル様は半分まで読んで、紙を下ろした。
「長い」
「まだ半分です」
「敵意は理解した」
「これは味方の文です」
「なら、もっと悪い」
「どうしてですか」
「味方がこれだけ長いなら、敵はもっと長い」
私は目を閉じた。
その理論、間違っているのに少しだけわかるのが悔しい。
「では、カイル様の案をお願いします」
カイル様は少し考えた。
そして、私の机からペンを取る。
珍しい。
自分から書くとは。
私は少し期待した。
カイル様は紙に二文だけ書いた。
『事実無根。以上。』
私は即答した。
「以上ではありません」
「十分だ」
「不十分です」
「事実無根だ」
「それはわかります」
「以上だ」
「以上ではありません」
「なぜだ」
「なぜなら、読者は『どこが』『なぜ』『何を根拠に』事実無根なのかを知りたいからです。あと、『以上』は喧嘩を売っているように見えます」
「売っている」
「売らないでください」
「買われた」
「買い戻さないでください」
カイル様の顔が、ほんの少し険しくなった。
「俺は、王都に説明する義務はない」
その言葉は硬かった。
怒鳴ってはいない。
でも、閉じていた。
私は反射的に言い返す。
「王都に説明しなければ、王都は勝手に書きます」
「書かせろ」
「書かせた結果がこれです」
「俺は困らない」
「領民が困ります」
カイル様が黙った。
私は続けてしまった。
止まれなかった。
「領民への説明、王都への訂正、新聞社への抗議、全部必要です。最低でも三文。できれば五文。見出しに使える一文も欲しいです。短くてもいいです。でも、逃げない言葉が必要です」
「いらん」
「いります」
「言いたくない」
「言わないと書かれます」
「書かせろ」
「書かせた結果がこれです」
同じ言葉を繰り返した瞬間、自分の声が強くなりすぎていることに気づいた。
でも、遅かった。
カイル様の顔が硬くなる。
感情が消えたように見える顔。
初めて会った時の、王宮の言葉を信用しない男の顔。
「俺の言葉を」
カイル様は低く言った。
「お前が決めるのか」
胸の奥が、冷えた。
違う。
違う、と言いたかった。
けれど、言えなかった。
さっきから私は、カイル様に必要な文数を決めていた。
見出しに使える一文を求めていた。
領民のため、王都のため、炎上を止めるため。
全部、正しい理由だ。
たぶん。
でも。
私は今、この人を「守りやすい形」に整えようとしていなかっただろうか。
エレオノーラ様の怒りを柔らかくしようとした時と同じように。
ミリア様の弱さを安全な言葉に包もうとした時と同じように。
カイル様は紙を机に置いた。
「好きにしろ」
そのまま背を向ける。
「カイル様」
呼んだ。
けれど、その先が出なかった。
謝罪?
説明?
引き止め?
どれも、また言葉を押しつける気がした。
扉が閉まる。
作業室に、紙の匂いだけが残った。
しばらく、誰も話さなかった。
最初に沈黙を破ったのは、エレオノーラ様だった。
「リディア」
「はい」
「あなた、今度はカイル様を守りやすい形に整えようとしていませんこと?」
その言葉は、刺さった。
綺麗に。
的確に。
貴族令嬢の扇は、時々、刃物より鋭い。
「……そう、かもしれません」
「かもしれない、ではなく?」
「そうです」
私は机の上の『事実無根。以上。』を見下ろした。
短い。
不十分。
燃える。
なのに、そこには確かにカイル様の怒りがあった。
逃げもあった。
拒絶もあった。
そして、たぶん傷もあった。
私はそれを、見出しに耐えられる形へ整えようとした。
本人がまだ、その傷の名前を出していないのに。
「私は、焦っていました」
「でしょうね」
「北方の悪評が広がれば、また誰かが傷つくかもしれません」
「ええ」
「だから、早く言葉を出さなきゃと」
「それも正しいですわ」
エレオノーラ様は紅茶に手を伸ばした。
けれど、飲まなかった。
「でも、正しいことが、いつも相手の呼吸に合うとは限りません」
私は黙った。
それは、彼女自身のことでもあったのかもしれない。
でも、聞けなかった。
聞かないことが、今は必要な気がした。
セラさんが恐る恐る言う。
「では、どうしますか? 記事への対応は必要ですよね」
「必要です」
私は記事の束をもう一度見た。
放置はできない。
けれど、カイル様の言葉を勝手に作るわけにもいかない。
王都で机に向かって、北方のことをわかったように書くのも違う。
私はまだ、北方を見ていない。
カイル様の領地を知らない。
冷血公と呼ばれた男が、領民にどう見られているのか。
王都の新聞が何を見ていないのか。
それを知らないまま、訂正記事を書く。
それは、別の意味で危険だ。
私は立ち上がった。
「北方へ行きます」
セラさんが書類を取り落としかけた。
「はい?」
「北方領へ行きます。現地確認です」
「い、今ですか? ミリア様の件もまだ」
「ミリア様の件は、記録局の手続きが続いています。外部接触は限定中。私が作業室に張りついていても、彼女の自由が早まるわけではありません」
言いながら、胸が少し痛んだ。
言い訳のようにも聞こえる。
でも、今燃えている火を見ない理由にはならない。
「神殿側から新しい動きがあれば、即時連絡をお願いします。声明文の修正権限はセラさんに預けます。エレオノーラ様にも確認を」
「私を巻き込むのがお上手になりましたわね」
「成長しました」
「褒めてはいませんわ」
「知っています」
セラさんが慌ててメモを取る。
「北方へは、誰と?」
「カイル様と」
「さっき出て行かれましたが」
「追いかけます」
私は扉へ向かった。
そして一度、立ち止まる。
追いかけられなかった。
さっきは。
追えば、言葉を押しつける気がしたから。
でも今追いかけるのは、押しつけるためではない。
聞くためだ。
たぶん。
そうであってほしい。
廊下へ出ると、カイル様は遠くへ行っていなかった。
窓際に立っていた。
王宮の中庭を見下ろしている。
背筋はまっすぐで、表情は見えない。
ただ、右手が手袋の縫い目を押さえていた。
「カイル様」
呼ぶと、彼は振り返らずに言った。
「文は好きに書け」
「書きません」
ようやく、彼がこちらを見た。
「何?」
「北方を見てから書きます」
彼の眉がわずかに動く。
「来るのか」
「はい」
「遠い」
「知っています」
「寒い」
「厚着します」
「王都の菓子はない」
「それは耐えます」
「馬車で酔うぞ」
「そこは耐えたくありません」
カイル様は黙った。
少しだけ、空気が緩んだ気がした。
気のせいかもしれない。
でも、先ほどよりは冷たくない。
「なぜ来る」
彼が聞く。
私は答えを探した。
火種を見るため。
現場確認のため。
訂正記事の根拠を得るため。
どれも正しい。
けれど、今はそれだけでは足りない。
「勝手に続きを書かないためです」
カイル様の目が、ほんの少しだけ動いた。
私は続けた。
「私はさっき、カイル様の言葉を決めようとしました。すみません」
「……」
「でも、何も書かないわけにはいきません。だから、見に行きます。北方を。領民を。記事が何を歪めているのかを」
言葉を切る。
それから、少しだけ付け足した。
「カイル様が、何を黙っているのかも。聞ける範囲で」
聞ける範囲。
そこに線を引く。
踏み込みすぎないように。
でも、逃げないように。
カイル様はしばらく黙っていた。
その沈黙は、拒絶なのか、考えているのか、私にはまだわからない。
やがて彼は短く言った。
「勝手に書くな」
「はい」
「勝手に慰めるな」
「はい」
「勝手に謝るな」
「……はい」
最後の言葉は、少し刺さった。
でも、必要な釘だった。
私は頷く。
「では、同行を許可していただけますか」
カイル様は窓の外へ視線を戻した。
「勝手に来い」
許可なのか拒否なのか曖昧すぎる。
だが、彼にしては十分に招待状だった。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。まだ許していない」
「では、仮受付として処理します」
「何だそれは」
「王宮式です。だいたい面倒な時に使います」
「嫌な文化だ」
「否定できません」
私はその場で、北方行きの準備項目を頭の中に並べ始めた。
防寒具。
記録水晶。
胃薬。
新聞記事の原本。
灯火新聞への連絡。
王宮記録局へのミリア様案件引き継ぎ。
エレオノーラ様への共有。
胃薬。
胃薬。
胃薬が二回入ったが、必要なのでそのままにした。
その夜、私は北方行きの申請書を書いた。
理由欄にはこう記した。
『北方辺境伯に関する報道内容の事実確認および領内状況調査のため』
上司はその申請書を見て、顔を引きつらせた。
「リディア君、今度は北方を燃やす気か」
「燃やしません。火元確認です」
「君が行くところ、だいたい燃えていないか」
「燃えているところに呼ばれているだけです」
「鶏と卵みたいな話をするな」
「卵ならまだ調理できますが、炎上は焦げます」
「うまいこと言った顔をするな」
していません。
たぶん。
上司は頭を抱えながらも、最終的に許可印を押した。
理由は簡単だ。
王都で記事を書き続けるより、現地確認をした方が燃えにくい。
それに、北方辺境伯本人が同行するなら、安全面でも問題は少ない。
問題があるとすれば、本人が時々物理で解決しようとすることくらいだ。
大問題だった。
出発前、エレオノーラ様が私に一通の封書を渡した。
「ミリア様の件で、新しい報告があれば王都から送らせますわ」
「ありがとうございます」
「それから」
彼女は少し間を置いた。
「カイル様の沈黙を、全部あなたへの拒絶だと思わないこと」
私は封書を受け取る手を止めた。
「……はい」
「でも、全部傷だと決めつけてもいけませんわ」
「難しいですね」
「人間ですもの」
エレオノーラ様は優雅に微笑んだ。
「声明文より難しくて当然です」
まったくその通りだった。
私は深く頭を下げる。
そして、王宮の馬車留めへ向かった。
カイル様はすでに待っていた。
荷物は少ない。
剣。
外套。
書類袋。
以上。
この人の旅支度も短すぎる。
「荷物、それだけですか」
「足りる」
「私は足りません」
「多い」
「胃薬があります」
「必要だ」
「そこだけ即答しないでください」
馬車に乗り込むと、王都の石畳がゆっくり遠ざかっていく。
窓の外には、まだ神殿の白い尖塔が見えた。
ミリア様は、あの白のどこかから、今も手続きの中にいる。
パンがいい、と言った声を、私は置いてきた。
置き去りにしたわけではない。
そう信じたい。
そして、馬車は北へ向かう。
王都の噂が届くより遅く、王都の訂正が届くよりさらに遅い場所へ。
カイル様は窓の外を見ている。
私は記事の束を膝に置いた。
『冷血公』
『民を酷使する』
『王都を嫌う危険人物』
見出しは、まだ紙の上で黒々と燃えている。
火元は、北方。
燃えているのは、たぶん沈黙。
そして私はまだ、その沈黙の温度を知らない。




