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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
北方辺境伯の悪評

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32/100

噂で殺された領地

 北方へ向かう馬車は、王都を出て三日目に雪の匂いを連れてきた。


 空気が変わる。


 乾いて、冷たくて、音が遠い。


 王都の冬は、窓の向こうにある季節だった。


 北方の冬は、馬車の隙間から勝手に入ってくる上司である。


 遠慮がない。


「寒いですね」


 私は膝掛けを引き上げた。


 隣ではカイル様が平然としている。


 外套がいとう一枚で、まるで暖炉を内蔵しているかのような顔だ。


「まだ寒くない」


「今の発言、王都基準では虚偽表示です」


「北方基準では春先だ」


「北方の春、職員の福利厚生に向いていませんね」


「慣れる」


「慣れる前に凍ります」


 カイル様は短く息を吐いた。


 笑ったのか、ただ呼吸したのか、判断が難しい。


 この人の感情表示は、王宮文書の脚注より控えめである。


 馬車の窓から外を見ると、街道沿いの景色は王都周辺の華やかさを失い、硬い土と低い木立へ変わっていた。


 ところどころに小さな村がある。


 畑は雪を待つように静まり、道端の掲示板には古い紙が何枚も重なって貼られていた。


 私は思わず身を乗り出す。


「掲示板がありますね」


「ある」


「王都からの布告ですか?」


「一部は」


「一部?」


「残りは噂避けだ」


「噂避け」


 聞き慣れない言葉に、私は鞄から記録帳を出した。


 カイル様の視線がすぐにそれを捉える。


「書くのか」


「記録です」


「まだ何も話していない」


「今、噂避けという重要語句が出ました」


「重要か」


「とても」


 カイル様はしばらく黙った。


 馬車の車輪が凍りかけた土を踏む音だけが続く。


 やがて、彼は外を見たまま言った。


「北方では、噂が来たら鐘を鳴らす」


「鐘?」


「村ごとに」


「噂で鐘を?」


「動くな、確認を待て、という合図だ」


 私はペンを止めた。


 鐘。


 噂。


 確認を待て。


 王都では噂が出れば、水晶掲示板が燃え、新聞社が走り、貴族サロンがお茶を三杯分消費する。


 北方では鐘を鳴らす。


 その違いだけで、胸の奥に小さなとげが刺さった。


「それは、カイル様が作った仕組みですか」


「父の後だ」


 短い答えだった。


 父。


 その単語が、馬車の中に落ちる。


 拾っていいのか、迷う。


 私はペン先を紙から離した。


「お父上の……」


「書くな」


 低い声だった。


 怒鳴ってはいない。


 でも、馬車の中の温度が少し下がった気がした。


 私はすぐに記録帳を閉じた。


「すみません」


「聞くな、とは言っていない」


 カイル様は言った。


 それから、少し間を置く。


「勝手に書くな」


 その言葉は、第31話で言われたものと同じだった。


 勝手に書くな。


 勝手に慰めるな。


 勝手に謝るな。


 私は頷く。


「はい」


 馬車は進む。


 沈黙も一緒に進む。


 この沈黙を、私は何度も埋めたくなった。


 何か言わなければ。


 質問しなければ。


 場を和ませなければ。


 それは職業病である。


 炎上対応係は、空白を見るとすぐ想定問答を置こうとする。


 空白は危険だから。


 でも、人の沈黙は、全部が火種ではない。


 隠れ場所の時もある。


 私は手袋の中で指を握った。


 今は、待つ。


 待つのも仕事だ。


 たぶん。


「父は」


 カイル様が言った。


 私は顔を上げる。


 彼は窓の外を見たままだった。


「援軍を求めた」


 それだけだった。


 でも、その一文の後ろには、こちらが勝手に書きたくなる余白がありすぎた。


 私は黙って聞いた。


「魔物の群れが南下した」


 魔物。


 北方の雪山から降りてくる、冬の災厄。


 王都では紙面の端に載る討伐報告。


 北方では生活のすぐ隣にある死。


「王都へ書状を送った」


「……はい」


「一度ではない」


 カイル様の手が、外套の内側に触れた。


 そこに何があるのか、私は知らない。


 剣ではなかった。


 紙かもしれない。


 古い何かかもしれない。


「返事は遅れた」


 その言葉が、馬車の床に落ちた。


 遅れた。


 遅れた、という言葉は残酷だ。


 断られた、よりも曖昧で。


 無視された、よりも言い逃れしやすくて。


 でも、間に合わなかった結果だけは同じになる。


「王都では」


 カイル様は続けた。


「新聞が先に届いた」


 私は息を止めた。


 新聞。


 嫌な予感が、火種より先に胸を焼く。


「何と……書かれていたのですか」


 聞いてから、少し後悔した。


 でも、カイル様は答えた。


「北方が反乱準備か」


 短い。


 削られたような声だった。


「混乱を避けるため、援軍派遣は慎重に判断すべき」


 私は、膝の上で手を握りしめた。


 頭の奥に、別の見出しが重なる。


『北方辺境伯、混乱を招く動き』


『王都は秩序維持のため、援軍判断を慎重化』


 まだ第56話ではない。


 けれど、この言葉はそこへ向かっている。


 まだ火は小さい。


 でも、火元はここにあった。


「その記事のせいで、援軍が遅れたのですか」


 私の声は小さかった。


 カイル様はしばらく答えなかった。


 やがて言う。


「記事だけではない」


 私は口を閉じる。


「王都の疑い」


 少し間。


「貴族の会議」


 また間。


「神殿の祈祷日程」


 さらに間。


「新聞」


 その四つの言葉で、十分だった。


 誰か一人が殺したのではない。


 一枚の記事だけが殺したのでもない。


 疑い、会議、祈り、新聞。


 全部が少しずつ遅らせた。


 遅らせた結果、人が死んだ。


「お父上は……」


 私は言いかけた。


 死んだのですか。


 その言葉を、口にしていいのか迷った。


 カイル様は私の迷いを待たずに言った。


「死んだ」


 馬車の音が、やけに大きく聞こえた。


「最後の書状は、父の死後に王都へ着いた」


 私は目を伏せた。


 慰めの言葉がいくつも浮かぶ。


 お辛かったでしょう。


 王都の対応は誤っていました。


 それは許されないことです。


 申し訳ありません。


 全部、正しい。


 たぶん、全部だめだ。


 私が今それを言えば、王都の人間が安全な馬車の中で、過去の死にきれいな布をかけるだけになる。


 でも、黙っているのも怖かった。


 沈黙は、相手に勝手な解釈を許す余白になる。


 私がそう言ったのだ。


 カイル様にも。


 だから、何かを言わなければと思ってしまう。


「私は」


 言葉が出た。


 出てしまった。


「王都の広報官として――」


「やめろ」


 鋭い声だった。


 私は肩を跳ねさせる。


 カイル様がこちらを見る。


 その目は怒っていた。


 静かに。


「お前が謝るな」


 私は息を呑んだ。


「でも」


「お前はその時いなかった」


「王宮の人間です」


「違う」


 即答だった。


「お前は、今ここにいる」


 言葉は短い。


 でも、妙に逃げ場がない。


 私は何も返せなかった。


 カイル様は視線を戻す。


「勝手に背負うな」


 胸の奥が、少し痛んだ。


 私は前世でも今世でも、誰かの失敗を背負うことに慣れすぎていた。


 会社の謝罪文。


 上司の責任。


 王太子の失言。


 王宮の沈黙。


 背負えば仕事になる。


 背負えば、自分の居場所がある気がする。


 でも、今カイル様はそれを拒んだ。


 あなたの傷を、私の仕事にするな。


 そう言われた気がした。


 もちろん、彼はそこまで説明してくれない。


 この人の言葉はいつも雪の中の足跡みたいだ。


 途中で途切れる。


 でも、方向だけ残る。


「……すみません」


 私は小さく言った。


「謝るなと言った」


「今のは、私自身の不用意な発言についての謝罪です」


 カイル様は黙った。


 私は少しだけ息を吸う。


「お父上のことを、私が王都代表みたいに謝るのは違いました」


「そうだ」


「でも、聞いたことは、忘れません」


 カイル様の横顔は動かない。


「それを記事にするか」


「今はしません」


「今は?」


「本人の許可がないので」


「許可しない」


「では書きません」


 そう言うと、カイル様は少しだけこちらを見た。


 疑っている目だった。


 当然だ。


 王宮広報官である。


 言葉で飾る者は信用しない。


 彼は最初にそう言った。


「ただ」


 私は続けた。


「王都が北方に何をしたのか。その仕組みは、見ます」


「仕組み」


「はい。記事だけではない、とおっしゃいました。疑い、会議、祈祷、新聞。誰か一人の悪意ではなく、いくつもの遅れが重なったなら、それは構造です」


 言った瞬間、少し固すぎると思った。


 構造。


 広報官の言葉だ。


 人の死を分析表に置く時の言葉だ。


 私は慌てて付け足そうとする。


「いえ、つまり――」


「わかる」


 カイル様が言った。


 意外だった。


「構造、という言葉は嫌いだ」


「……はい」


「だが、たぶんそうだ」


 彼は窓の外へ目を向ける。


「父を殺した者を一人探しても、誰もいなかった」


 私は何も言えなかった。


「新聞記者は、聞いた話を書いただけだと言った」


 車輪が石を踏む。


「王宮の役人は、正式確認を待っただけだと言った」


 遠くで鳥が飛び立つ。


「神殿は、民の不安を鎮めるために祈っただけだと言った」


 カイル様の手が、膝の上で握られる。


「皆、だけだった」


 私は、その言葉に胸を刺された。


 だけ。


 たったそれだけ。


 けれど、それだけが積もると人は死ぬ。


 王都の言葉は、北方に届くころには刃になる。


 第17話で、カイル様はそう言った。


 あの時、私はそれを取材対応の不満だと思った。


 違った。


 刃は比喩ではなかった。


 彼は本当に、王都の言葉で大切な人を失っていた。


「だから、長い言葉は信用できないのですか」


 口にしてしまった。


 聞き方が直接的すぎた。


 しまった、と思った時にはもう遅い。


 カイル様はしばらく黙った。


 その沈黙は硬かった。


 私は身構える。


 怒られるかもしれない。


 拒絶されるかもしれない。


 でも、彼は低く言った。


「長い言葉は、逃げ道が多い」


 私は目を上げた。


「言い訳を隠せる」


 カイル様は続ける。


「責任を薄められる」


 それから、少しだけ唇を歪めた。


 笑いではない。


「死んだ後に、仕方なかったと書ける」


 馬車の中が、静かになった。


 私は前世の記憶を思い出す。


『誠意を見せて。ただし責任は認めないで』


『関係各所と協議中』


『再発防止に努める』


『混乱を避けるため、詳細は控える』


 長い言葉。


 丁寧な言葉。


 燃えにくい言葉。


 でも、それは誰かの傷を薄めるためにも使える。


 私はそれを知っていた。


 知っていたのに、便利だから使ってきた。


 喉の奥が苦くなる。


「王都の菓子は甘すぎる」


 カイル様が突然言った。


 私は瞬きをした。


「……今ですか?」


「今だ」


「話題転換が北方の雪道くらい急ですね」


「甘すぎる」


「それは前にも聞きました」


「歯に残る」


「声明文と同じですね」


 言ってから、少しだけ空気が緩んだ。


 カイル様がこちらを見る。


「俺の声明文は甘いか」


「苦すぎます」


「ならいい」


「よくありません。読者が歯どころか心を欠きます」


「弱い」


「読者を鍛えないでください」


 カイル様は外を見た。


 今度こそ、少しだけ笑った気がした。


 たぶん。


 おそらく。


 希望的観測込みで。


 馬車は小さな宿場へ入った。


 北方へ向かう最後の大きな宿場だという。


 ここから先は、雪深い道が増えるらしい。


 宿場の入り口には掲示板があった。


 私は馬車を降りるなり、そこへ向かった。


「リディア」


 カイル様が呼ぶ。


「はい」


「滑る」


「大丈夫です。王宮廊下で何度も足元をすくわれています」


「物理の話だ」


 その瞬間、私は見事に凍った土で足を滑らせた。


 カイル様の手が、私の腕を掴む。


 速い。


 無言。


 強い。


「……ありがとうございます」


「言った」


「はい。物理でした」


 腕を離される。


 そこに変な余韻が残る。


 恋愛小説なら、ここで見つめ合うところかもしれない。


 現実は、私の靴底に泥がついている。


 非常に情緒が低い。


 私は咳払いし、掲示板を見た。


 貼られていたのは、王都から流れてきた古い記事の写しだった。


『北方領にて軍備拡張か』


『辺境伯家、王都の指示を待たず独自行動』


『混乱を避けるため、続報を待たれたい』


 また、混乱。


 私は思わず記事の端を握った。


 紙は古く、雪と雨で字がにじんでいる。


 それでも「混乱」の二文字は読めた。


 やけに、はっきりと。


 カイル様はその紙を見ない。


 見ていないのに、そこに何があるかわかっているようだった。


「これは」


 私は言いかける。


 けれど、言葉を変えた。


「古い記事ですか」


「父の死後」


「貼ったのは?」


「村人」


「なぜ」


「忘れないため」


 私は紙を見る。


 王都なら、炎上した記事はすぐ流れて消える。


 次の失言。


 次の噂。


 次の謝罪文。


 でも北方では、紙が残っている。


 雪で濡れ、風で破れ、釘の跡を残して。


 記事は過去ではなく、傷跡として掲示板に貼られていた。


「剥がさないのですか」


「剥がした」


 カイル様は言った。


「何度も」


「でも」


「また誰かが貼った」


 私は黙った。


 その誰かを、私は責められなかった。


 忘れたくなかったのかもしれない。


 忘れられなかったのかもしれない。


 王都に見せるためではなく、自分たちが同じ噂に殺されないために。


 ふいに、宿場の鐘が鳴った。


 一回。


 広場にいた人々が顔を上げる。


 誰かが笑いながら言った。


「飯だな」


 鐘一回はごはん。


 第31話で聞いた言葉を思い出す。


 私は思わず呟く。


「一回はごはん」


 カイル様がこちらを見る。


「覚えたか」


「はい。二回は熊」


「熊ではない」


「まだ何も言っていません」


「目が言った」


「目まで取材対象にしないでください」


 少しだけ、空気が戻る。


 宿の食堂では、王都の菓子とは正反対の料理が出た。


 黒パン。


 塩気の強い肉。


 根菜の煮込み。


 湯気の立つ薬草茶。


 どれも素朴で、強い。


 私は黒パンを一口かじった。


「硬いですね」


「普通だ」


「王都基準では武器です」


「食える」


「食べています。歯が会議しています」


 カイル様は自分の皿の肉を少しこちらへ寄せた。


「食え」


「ありがとうございます。でも量が増えました」


「寒い」


「食事で防寒する文化ですか」


「倒れるな」


 その一言で、私は少しだけ口を閉じた。


 倒れるな。


 第18話の「休め」と似ている。


 乱暴で、短くて、飾らない。


 でも、そこに何かがある。


 私は肉を食べた。


 塩辛い。


 けれど、冷えた体には不思議と合った。


 食後、宿の主人がカイル様に挨拶へ来た。


 大柄な男性で、片足を少し引きずっている。


「閣下、北へ戻られるとは聞いておりましたが、早いお帰りで」


「王都が騒がしい」


「王都はいつも騒がしいでしょう」


「今回は紙が多い」


 主人は苦笑した。


 それから、私へ視線を向ける。


「こちらは?」


「王宮広報局のリディア・ノートンです。北方に関する報道の事実確認に参りました」


 私が名乗ると、主人の表情が少し変わった。


 警戒。


 嫌悪まではいかない。


 でも、距離ができる。


「王宮の方ですか」


「はい」


「では、紙を書く方で」


「……はい」


 その言い方に、私は言葉を失った。


 紙を書く方。


 名前ではなく、役割でもなく、傷の側の呼び方。


 カイル様が主人を見た。


「責めるな」


「責めてはおりませんよ、閣下」


 主人は笑った。


 笑ったのに、目は笑っていなかった。


「ただ、北方では紙は遅れて届きますからな」


 遅れて。


 また、その言葉。


「届いた時には、凍っていることもある」


 主人はそう言って、空いた皿を下げた。


 私の胃が重くなる。


 王都で書く紙は、いつも出した瞬間が仕事の終わりだと思っていた。


 声明を出す。


 訂正を出す。


 照会を出す。


 送信完了。


 掲示完了。


 公開完了。


 でも、届くまでの時間がある。


 届いた後の温度がある。


 読んだ人の冬がある。


 そんな当たり前のことを、私はまだ知らなかった。


 夜、宿の小さな部屋で、私は記録帳を開いた。


 書き出しに迷う。


『北方では噂に対して鐘を鳴らす』


 事実。


『王都の情報遅延が北方に深刻な被害を与えた可能性』


 分析。


『カイル様の父は、噂と遅延により援軍を得られず死亡』


 書きかけて、手が止まった。


 違う。


 これは、私が勝手にまとめた言葉だ。


 彼は「父は死んだ」と言った。


 けれど、私にその死を一文で整理する許可は出していない。


 私はその行を消した。


 代わりに書く。


『父。援軍。王都。新聞。遅れた返事。』


 断片だけ。


 カイル様が話したまま。


 整理しない。


 綺麗にしない。


 意味を急がない。


 それでも、手が震えた。


 広報官としては、情報を整理したくなる。


 でも今は、整理することが消すことに近い。


 窓の外で風が鳴った。


 雪の匂いが強くなる。


 私は記録帳を閉じようとして、最後に一行だけ書いた。


『長い言葉は、逃げ道が多い』


 これは、カイル様の言葉だ。


 許可は取っていない。


 でも、これは記事に使うためではない。


 私が忘れないための記録だった。


 翌朝、出発前に王都からの伝令鳥が届いた。


 白い小さな鳥が、宿の窓を叩く。


 私は慌てて窓を開けた。


 鳥の脚には、王宮記録局の筒が結ばれている。


 ミリア様の件だ。


 心臓が少し跳ねる。


 紙を開く。


『ミリア・セレスの聖女候補辞退申請について、神殿側は受理判断を保留。本人の心身安定を理由に、次回聴取は三日後へ延期』


 私は息を吐いた。


 また、保留。


 また、延期。


 言葉が届いているのに、返事が遅れる。


 王都でも、神殿でも、北方でも。


 遅れる言葉は、人を閉じ込める。


 カイル様が背後から聞いた。


「ミリアか」


「はい」


「悪いのか」


「悪い、というより……進んでいません」


「そうか」


 それだけだった。


 けれど、彼は少しだけ眉を寄せた。


 ミリア様はここにいない。


 同行していない。


 彼女はまだ、記録局立ち会いの手続きの中にいる。


 でも、その遅れもまた、私たちの旅に影を落としていた。


「戻るか」


 カイル様が聞いた。


 第39話で聞く予定だった言葉を、彼は少し早く言った。


 私は紙を畳む。


「戻りません」


 言った後で、胸が痛む。


 ミリア様を置いていくような罪悪感がある。


 でも、戻ったところで神殿の保留が破れるわけではない。


 私はリディア・ノートンであって、万能の鍵ではない。


 残念ながら。


「王都へは返信を出します。記録局には、面会時に本人の昼食希望を必ず本人へ確認するよう再度要請します」


「昼食?」


「重要です」


 カイル様は不思議そうにした。


「パンか」


「はい」


「それは重要だ」


 意外と真面目に頷かれた。


 私は少し笑いそうになる。


 笑っていいのかわからないまま、笑った。


 馬車はさらに北へ進んだ。


 道は白くなっていく。


 木々は低くなり、空は近くなる。


 やがて、遠くに村が見えた。


 煙突から細い煙が上がっている。


 柵。


 見張り台。


 鐘楼。


 そして、村の入り口に掲げられた古い木札。


 北方第七村。


 カイル様が少しだけ姿勢を正した。


 村の方から、小さな影がいくつも駆けてくる。


 子どもたちだ。


 雪を蹴って、真っ直ぐこちらへ。


「カイル様!」


「閣下!」


「帰ってきた!」


 一人の子どもが、誰よりも先に叫んだ。


「雪山の熊が帰ってきた!」


 カイル様は即座に言った。


「熊ではない」


 私は馬車の中で、思わず顔を伏せた。


 笑ってはいけない。


 笑ってはいけないが、無理かもしれない。


 子どもたちはカイル様の周りへ駆け寄る。


 怖がっていない。


 怯えていない。


 冷血公と呼ばれた男の外套を、遠慮なく引っ張っている。


 王都の記事とは、まるで違う光景だった。


 私は馬車を降りた。


 冷たい空気が頬を刺す。


 でも、その痛みは紙面からは絶対にわからないものだった。


 カイル様は子どもたちに囲まれたまま、こちらを見る。


「着いた」


 短い。


 けれど、今度は足りないとは思わなかった。


 私は頷く。


「はい」


 ここから先は、王都の紙ではなく、この土地の声を聞く時間だ。


 噂で殺された領地。


 そう書くのは、まだ早い。


 でも、王都の言葉がここで何をしたのか。


 私は、ようやくその雪の上に立った。

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