聖女ブーム、鎮火します
炎上には、消えたように見えて、まだ床下で燻っているものがある。
表面の火が消えたからといって、手を突っ込んではいけない。
だいたい、火傷する。
そして、火傷をした後で気づくのだ。
あ、これ、鎮火ではなく延焼待ちだったな、と。
「リディア、顔が大変なことになっていますわ」
グランフェルト公爵家から借りた臨時作業室で、エレオノーラ様が優雅に紅茶を置いた。
私は机に広げられた帳簿、契約書、神殿布告、寄進記録、商会広告、そして胃薬の包みを見比べる。
「大変なのは顔ではなく、神殿の帳簿です」
「顔もですわ」
「顔は後で訂正声明を出します」
「ご自分の顔に?」
「はい。『本官の顔色について一部不安を招いたことは事実ですが、ただちに生命活動へ重大な影響を及ぼすものではありません』と」
「その声明、たぶん余計に心配されますわ」
そうですね。
燃料です。
私は胃のあたりを押さえながら、机の上の帳簿に目を落とした。
神殿内部の帳簿が流出したのは、昨日の夜だった。
差出人は不明。
封筒には、ただ一文。
『数字は祈りません』
非常にいい煽り文句である。
褒めている場合ではないが、広報官としては少し悔しい。
中に入っていた帳簿の写しには、孤児院寄付金、祈りの布の売上、香油の売上、絵姿使用料、神殿講話料、そして聖女候補ミリア・セレスの名義で集められた慈善金の流れが記されていた。
数字は、神殿の発表と合っていなかった。
合っていないどころではない。
発表上は孤児院へ届けられたはずの冬毛布代が、神殿広報部門の「祝祭演出費」に振り替えられている。
孤児院への食糧支援費が、ミリア様の新しい白衣装の染料費に混ざっている。
祈りの布の売上の一部は、聖女候補の巡礼馬車の装飾費になっていた。
清らかさにも、だいぶ予算がかかるらしい。
いや、そうではない。
「これは……燃えますね」
先輩職員のセラさんが、真っ青な顔で帳簿を覗き込んだ。
「燃えます。よく燃えます。乾燥した薪に油をかけて『これは祈りです』と言い張っている状態です」
「言い方」
「神殿風に整えましょうか。『これは信仰の熱量です』」
「悪化しました」
その時、部屋の隅で腕を組んでいたカイル様が短く言った。
「神殿を潰せ」
「潰しません」
「燃やすか」
「物理は禁止です」
「では、凍らせる」
「季節感で犯罪を薄めないでください」
カイル様は不満そうに黙った。
最近、彼の選択肢はだいたい「斬る」「潰す」「凍らせる」の三つで構成されている。
神殿広報官オルド様の「民は三つ以上覚えられない」という理論に、別方向から適応しないでほしい。
私は帳簿の上に、赤い紐を置いた。
孤児院へ届いた金額。
神殿が発表した金額。
商会が受け取った金額。
ミリア様名義で集められた金額。
線で結ぶと、そこに浮かび上がるのは美談ではなかった。
商売だった。
それも、人の涙と名前を使った商売だ。
「オルド神殿広報官は?」
エレオノーラ様が尋ねる。
私は別紙を差し出した。
「今朝、神殿内で職務停止になりました。表向きは『不適切な広報処理』です」
「不適切」
エレオノーラ様が扇を開いた。
「便利な言葉ですわね。どれほど汚れていても、布を一枚かければ家具に見える、みたいな」
「王宮でもよく使います」
「燃やしましょうか」
「物理は禁止です」
私はもう一枚、神殿から届いた声明案を広げた。
そこには、整いすぎた文字でこう書かれていた。
『このたび、神殿広報部門における一部運用に不備が確認された。神殿は深く遺憾の意を表し、関係者の処分および再発防止に努める。なお、聖女候補ミリア・セレスは心身の安定を優先するため静養に入り、今後の発言は神殿が適切に取り次ぐものとする』
私は読み終えた瞬間、胃のあたりを押さえた。
出た。
王宮でも神殿でも新聞社でもよく見る、責任を四方八方へ薄く伸ばして、最終的に誰の手にも残らないようにする文章だ。
「これは謝罪ではありません」
私は言った。
「逃亡経路図です」
セラさんが小さく呻く。
「神殿は、オルド様個人に責任を押しつけて終わらせるつもりですね」
「はい。そしてミリア様を『精神的に不安定な少女』として囲い直すつもりです」
私は声明案の最後の一文に赤線を引いた。
『今後の発言は神殿が適切に取り次ぐものとする』
ここだ。
ここが火元だ。
いや、正確には火元の蓋だ。
蓋をして、燃えているものをなかったことにしようとしている。
【火種:責任の個人化】
【火種:神殿組織責任の希薄化】
【火種:ミリア発言権の再封鎖】
【火種:聖女候補の精神不安定化印象】
【火種:被害者兼当事者の沈黙固定】
【火種:神殿再炎上】
視界に浮かぶ文字を見て、私は息を吐いた。
神殿大集会で、ミリア様は台本を閉じた。
「怖かった」と言った。
「聖女候補でいられる間は、誰かに必要とされている気がしました」とも言った。
あの言葉は綺麗ではなかった。
だからこそ、神殿は消したがっている。
綺麗な聖女候補なら売れる。
可哀想な少女なら保護できる。
けれど、必要とされたかったと認める少女は扱いづらい。
美談にも、謝罪文にも、広告にも向かない。
だからこそ、残さなければならない。
「こちらの声明を出します」
私は自分の文案を広げた。
ミリア様を加害者としてだけ扱わない。
利用された責任と、本人が向き合うべき責任を分ける。
神殿の組織責任を曖昧にしない。
孤児院への未払い、寄付金の流れ、演出台本の存在を確認済み事実として並べる。
未確認部分は未確認と明記する。
いつものやつだ。
事実確認。
責任範囲。
訂正。
再発防止。
胃痛。
だが、私が読み上げた初稿に、エレオノーラ様は少しだけ眉を動かした。
「綺麗ですわね」
私は手を止める。
褒め言葉ではない。
最近、それくらいはわかるようになった。
「……綺麗すぎますか」
「ええ」
エレオノーラ様は扇の先で、文面の一箇所を示した。
『ミリア・セレス様は、神殿広報に利用された被害者であり、本人の意思確認が不十分なまま、聖女候補として扱われていた』
「これは事実ですわ」
「はい」
「でも、これだけではミリア様が言った、あの言葉が消えます」
あの言葉。
『聖女候補でいられる間は、誰かに必要とされている気がしました』
私は唇を噛んだ。
「入れれば、燃えます」
「でしょうね」
「ミリア様が叩かれます」
「叩かれるでしょうね」
「では――」
「でも、消せば誰が喜びますの?」
私は答えられなかった。
作業室が静かになる。
外では、王都瓦版の号外売りの声が聞こえる。
『神殿帳簿流出!』
『聖女候補ブームに不正疑惑!』
『寄付金はどこへ消えた!』
大衆は速い。
昨日まで祈りの布を買っていた人々が、今日は神殿を罵っている。
それが正義感からなのか、自分が騙された怒りからなのか、面白い火を見つけたからなのか。
たぶん、全部だ。
私は机上の文案を見下ろした。
ミリア様を守りたい。
それは本当だ。
でも、私の「守りたい」は、時々、人を守りやすい形に削る。
エレオノーラ様の怒りを柔らかくしようとした時と、同じだ。
「……ミリア様本人に確認します」
私は言った。
セラさんが目を見開く。
「ですが、ミリア様はまだ神殿管理下です。直接こちらへ呼ぶことはできません」
「呼びません。王宮記録局に立ち会いを要請します。神殿監察官も同席させます。こちらの文案を読み上げ、本人が修正を望むか確認します」
カイル様が言う。
「神殿が拒む」
「拒んだら、その事実を書きます」
「燃える」
「もう燃えています」
自分で言って、胃が痛くなった。
燃えているから、さらに燃やしていいわけではない。
でも、火を見ないふりをすれば、人が中に残る。
私は記録局への依頼文を書いた。
『王宮広報局は、本件声明に先立ち、ミリア・セレス様本人の意思確認を求める。
本確認は、発言を強制するものではなく、本人の言葉を保全するためのものである。
なお、確認にあたっては王宮記録局職員、神殿監察官、ならびに中立記録水晶の立ち会いを必須とする』
カイル様が覗き込む。
「長い」
「必要です」
「短くすると?」
「『本人に聞かせろ』です」
「それでいい」
「よくありません」
よくない。
でも、少しだけ羨ましい。
その短さで燃えない世界だったら、私はどれだけ胃薬を節約できただろう。
確認面会は、その日の午後に認められた。
早すぎる。
それ自体が、神殿側の焦りを示していた。
場所は、神殿ではなく王宮記録局の小室。
とはいえ、ミリア様が自由に来たわけではない。
彼女は神殿の侍女二人に付き添われ、神殿監察官と王宮記録官に挟まれるようにして席に着いた。
白い衣装は以前より簡素だった。
だが、白は白だ。
まるで、神殿がまだ彼女を手放していないと主張しているようだった。
私は対面の椅子に座る。
エレオノーラ様は少し離れた位置に立った。
カイル様はさらに後ろだ。
壁と同化しようとしているが、存在感が雪山の熊である。
熊ではないが。
記録官が告げる。
「これより、ミリア・セレス様本人への文面確認を行います。発言はすべて記録水晶へ保存されます。発言を拒否する権利もあります」
ミリア様は小さく頷いた。
その頷きが、誰かに教えられたものか、自分で選んだものか。
火種感知は教えてくれない。
私は文案を読み上げた。
神殿広報に不正があったこと。
寄付金の一部が孤児院へ届いていなかったこと。
ミリア様名義の美談が、神殿により演出されていたこと。
ミリア様本人の意思確認が不十分だったこと。
聖女候補辞退の意思が示されていること。
神殿監察と王宮記録局による正式な聴取が必要であること。
そして、問題の一文。
『ミリア・セレス様は、神殿広報に利用された被害者であり、本人の意思確認が不十分なまま、聖女候補として扱われていた』
読み終えると、小室は静かになった。
記録水晶の淡い光だけが、机の上で揺れている。
ミリア様は、長い間、何も言わなかった。
神殿の侍女が口を開きかける。
記録官が視線だけで制した。
さらに沈黙。
私は言いたくなる。
沈黙していいんです、と。
けれど、それもまた命令になるかもしれない。
だから黙った。
黙って、待った。
ミリア様の指が、膝の上で白い布を握った。
やがて、彼女は首を横に振った。
「それでは」
声は小さかった。
「私が、選ばれたかったことが、消えてしまいます」
私は息を止めた。
神殿の侍女が目を伏せる。
エレオノーラ様の扇が、音もなく閉じた。
ミリア様は続けた。
「私は、怖かったです」
一度、言葉が途切れる。
「でも、聖女候補と呼ばれて、ほっとした日もありました」
記録水晶の光が揺れる。
「誰かに必要とされるなら、私には価値があるのだと思いました」
その言葉は、整っていなかった。
美しくもない。
安全でもない。
出せば燃える。
ミリア様を責める人が出る。
被害者なのに喜んでいたのか、と。
利用されていたのに誇らしかったのか、と。
だから同罪ではないか、と。
いくらでも悪意ある見出しにできる。
【火種:ミリア責任追及】
【火種:被害者資格への攻撃】
【火種:聖女候補自己承認欲求批判】
【火種:神殿責任のすり替え】
【火種:エレオノーラ被害感情再燃】
火種は見えた。
けれど私は、紙の上に指を置いたまま動けなかった。
これを消したら。
また、ミリア様の言葉を「皆さま」の中へ戻してしまう。
私はゆっくり息を吐いた。
「確認しました」
声が少し掠れた。
「文面を修正します」
神殿監察官がわずかに身じろぎした。
「リディア殿、その発言をそのまま声明に載せるのは、ミリア様への負担が大きいのでは」
「そのままは載せません」
私は答えた。
「ですが、なかったことにもしません」
エレオノーラ様が小さく微笑んだ。
私は文案に新しい一文を書き加える。
『また、ミリア・セレス様本人は、聖女候補として扱われることに救われていた時期があったことを認め、その上で、神殿による言葉と姿の管理が自らの判断を狭めていたことについて、今後正式な聴取に応じる意思を示している』
長い。
堅い。
重い。
でも、逃げていない。
カイル様なら一文で「ミリアは嘘をつかない。神殿は逃げるな」と書くだろう。
それはそれで少し読んでみたいが、今は胃に悪い。
「ミリア様」
私は顔を上げた。
「この文面で、あなたの言葉を完全に表せているとは思いません」
ミリア様が私を見る。
「でも、消してはいません。これでよろしいですか」
ミリア様は、すぐには頷かなかった。
白い布を握っていた指が、少しだけ緩む。
「……はい」
その一言は、小さかった。
けれど、記録水晶は確かに拾った。
その後、ミリア様は聖女候補辞退の意思を正式に示した。
ただし、受理は即時ではない。
神殿監察。
王宮記録局の確認。
寄付金調査。
孤児院への補填手続き。
関係者聴取。
紙が増える。
つまり、仕事が増える。
つまり、胃薬が減る。
世界とは、だいたいそういう仕組みでできている。
面会終了前、記録官が形式的に尋ねた。
「本日の昼食について、ご希望はありますか」
その場の全員が、なぜ今それを聞く、という顔になった。
いや、手続き上は必要なのだろう。
保護移管中の本人待遇確認欄。
昼食希望。
書類というものは、時にとんでもない角度から人間へ踏み込んでくる。
ミリア様は固まった。
神殿の侍女が横で息を呑む。
私も何か言いそうになった。
けれど、黙った。
エレオノーラ様も黙っている。
カイル様も黙っている。
沈黙が、今度は命令ではなく、余白になるように。
長い沈黙のあと。
ミリア様が、小さく言った。
「パンがいいです」
記録官が真面目に書き留める。
『昼食希望:パン』
私は胸の奥で、何かがほどける音を聞いた気がした。
そして、いつもの調子を少しだけ取り戻して言った。
「歴史的第一声です」
ミリア様は笑わなかった。
けれど、視線だけが少し上がった。
その目はまだ怯えていた。
自由な人の目ではなかった。
でも、台本だけを見ていた頃とは違った。
面会が終わり、ミリア様は神殿の侍女と記録局職員に付き添われて部屋を出ていく。
リディアたちの作業室へ来るわけではない。
一緒に帳簿を整理するわけでもない。
まだ、彼女は火の外には出ていない。
ただ、火の中から自分の声を一つ投げた。
それを、こちらが落とさなかっただけだ。
夕方、王宮声明と灯火新聞の号外が同時に出た。
神殿の寄付金横領。
孤児院への未払い。
演出台本の存在。
オルド神殿広報官の職務停止。
神殿監察の開始。
ミリア・セレス本人の聖女候補辞退意思。
王都は燃えた。
しかし今度の炎は、神殿が積み上げた白い包装紙を焼いていた。
『祈りの布、返金されるのか?』
『孤児院に毛布を届けろ』
『ミリア様も悪いのか?』
『いや、神殿が利用したんだろ』
『でも本人も選ばれたかったって認めたんだろ』
『それを言えるなら本物では』
『聖女じゃなくてもいいから、あの子にパンを食わせろ』
掲示板は混乱していた。
怒りもある。
同情もある。
勝手な断罪もある。
妙に生活感のある心配もある。
鎮火とは言いがたい。
けれど、聖女ブームは確かに崩れ始めていた。
清らかな広告塔。
泣く位置まで決められた少女。
皆さまのために祈る存在。
その白い像は、ひび割れた。
中から出てきたのは、完璧な聖女ではなかった。
怖がりで、少し弱くて、必要とされたかったことを認めた少女だった。
私は声明の控えを閉じる。
「……聖女ブーム、鎮火ですね」
セラさんが慎重に言った。
私は首を横に振る。
「鎮火し始めました、です」
「違うんですか」
「違います。鎮火しました、と書くと燃えます」
カイル様がこちらを見る。
「面倒だな」
「広報とは、面倒を文章にする仕事です」
「なら、向いている」
「褒めていますか、それ」
「たぶん」
「たぶんで人を褒めないでください」
その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
若い記録局員が、息を切らして駆け込んでくる。
「リディアさん!」
「はい。火事ですか、炎上ですか、胃痛案件ですか」
「全部ではありませんが、近いです!」
「近いんですね」
私は胃薬の包みに手を伸ばした。
記録局員は一枚の王都瓦版を差し出す。
大きな見出しが、紙面を黒々と埋めていた。
『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン、冷血公の実態』
『民を酷使し、王都への敵意を煽動か』
『神殿関係者、辺境伯の圧力を証言』
カイル様の表情は変わらなかった。
けれど、部屋の温度が少し下がった気がした。
私は見出しを見つめる。
神殿の火が、北方へ飛んだ。
白い煙の向こうから、今度は雪国の火種が顔を出している。
【火種:辺境伯冷血公印象】
【火種:北方差別再燃】
【火種:神殿対辺境伯】
【火種:王都対北方】
【火種:リディア癒着疑惑再接続】
【火種:父の悪評死への接続】
私はそっと胃薬を飲んだ。
聖女ブームは、鎮火し始めた。
けれど、炎上対応係の仕事は終わらない。
むしろ、次の火元はもう燃えている。
私は新聞を畳み、カイル様を見た。
「辺境伯様」
「何だ」
「新聞に嫌われすぎです」
カイル様は少しだけ眉を動かした。
「好きに言わせろ」
私は即答した。
「好きに言わせた結果、人が死ぬこともあります」
その言葉に、カイル様の目が一瞬だけ古い雪の色になった。
私はまだ、その意味を全部知らない。
でも、今度は見逃してはいけないと思った。
火元は、北方。
燃えているのは、沈黙だった。




