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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
聖女ブームと神殿の広告塔

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29/100

神殿声明を差し戻します

 神殿から届いた声明案は、白かった。


 紙も白い。


 封蝋ふうろうも白い。


 文面も白い。


 清らかで、丁寧で、柔らかくて、どこにも血がついていないように見える。


 だからこそ、私は胃の奥が冷えた。


 白すぎる文章は、時々、何かを隠す。


 神殿からの声明案は、こう始まっていた。


『本日、神殿大広場において行われた慈善祈祷会にて、聖女候補ミリア・セレスに一時的な心身の動揺が見られた』


 まず一文目。


 心身の動揺。


 便利な言葉だ。


 本人が何かを言った時、その言葉を「状態」のせいにできる。


『当該発言は、精神的疲労による混乱の中で発せられたものであり、神殿の正式見解および聖女候補本人の安定した意思を示すものではない』


 二文目。


 私は赤ペンを握った。


 握りすぎて、軸が少しきしむ。


『神殿は、ミリア・セレスの静養を最優先とし、外部関係者による接触を当面制限する』


 三文目。


 外部関係者。


 王宮。


 公爵家。


 孤児院。


 記者。


 そして、ミリア様の言葉を聞こうとするすべての人。


 全部を、外に置く言葉。


『なお、本日の一部発言について、悪意ある解釈や政治利用が行われないよう、民の皆さまには冷静な受け止めを求める』


 四文目。


 冷静な受け止め。


 これも便利だ。


 受け止めるな、と書かずに、都合よく受け止めろと言える。


 私は全文を読み終えた。


 そして、赤ペンを一行目に置いた。


 横でセーラ先輩が、祈るような顔で胃薬の瓶を握っている。


「リディア。赤、足りる?」


「足りなければ血で書きます」


「怖いわよ」


「冗談です」


「目が冗談じゃないのよ」


 仕方がない。


 私は今、かなり本気で怒っている。


 怒っているが、怒りのまま書いた文書は燃える。


 燃える文書は、だいたい書いた本人の手元から燃える。


 私は深呼吸をした。


 吸って。


 吐く。


 もう一度、声明案を見る。


 視界の端に火種が浮かんだ。


【火種:本人発言の無効化】


【火種:神殿責任回避】


【火種:ミリア隔離】


【火種:公爵家への責任転嫁】


【火種:王宮介入批判】


【火種:寄進金疑惑隠蔽】


【火種:聖女候補異端化準備】


 はい。


 多いですね。


 火種の大収穫祭です。


 誰も招待していません。


「これは、声明ではありません」


 私は言った。


 セーラ先輩が眉を上げる。


「何?」


「人を二度黙らせる文書です」


 私の声は、自分で思ったより低かった。


 神殿大集会で、ミリア様は台本を閉じた。


 そして言った。


 怖かった。


 聖女候補でいられる間は、誰かに必要とされている気がした。


 清らかではない。


 でも、祈りがすべて嘘だったとも言えない。


 あれは綺麗な言葉ではなかった。


 被害者としても、加害者としても、扱いにくい言葉だった。


 だからこそ、本人の言葉だった。


 それを、神殿は「精神的疲労による混乱」にしようとしている。


 神殿が用意した台本を読まなかった少女に、次は「不安定だった」という台本を着せようとしている。


 私は一行目に赤字を入れた。


『本人の発言を、本人不在で無効化しないでください』


 セーラ先輩が小さく息を吐く。


「強いわね」


「弱く書くと、すり抜けられます」


「強く書くと?」


「燃えます」


「どうするの」


「燃え方を選びます」


 セーラ先輩は、胃薬瓶をそっと机に置いた。


「名言っぽいけど、職場で聞きたくないわね」


「私も言いたくありません」


 そこへ、扉が開いた。


 エレオノーラ様が入ってくる。


 大集会のあとだというのに、背筋はまっすぐだった。


 灰紫のドレスに乱れはない。


 髪も、表情も、貴族令嬢として完璧に整えられている。


 ただ、手袋だけが新しくなっていた。


 さっき壇上で扇を握りしめていた手袋ではない。


 私は気づいたが、口には出さなかった。


 人には、記録されない余白も必要だ。


「神殿声明、届きましたのね」


「はい」


「白い紙ですこと」


「内容は黒寄りです」


「燃やします?」


「物理は禁止です」


「残念」


 エレオノーラ様は優雅に椅子へ座る。


 そして声明案を読んだ。


 読み終わるまで、表情は変わらなかった。


 ただ、最後の一文で、扇がぱちりと閉じる。


「なるほど」


 その一言が怖い。


 とても怖い。


 王太子殿下の失言より怖い。


 失言は予測できるが、エレオノーラ様の「なるほど」は、だいたい誰かの社会的寿命に関わる。


「ミリア様は、精神的に不安定であった。したがって、あの発言は有効ではない」


「そういう構造です」


「便利ですわね。女の言葉を消す時、昔からよく使われる手ですわ」


 声は穏やかだった。


 けれど、私は背筋が冷えた。


「泣けば感情的。泣かなければ冷酷。怒れば傲慢。黙れば後ろ暗い。話せば不安定」


 エレオノーラ様は声明案を机に置く。


「まるで、最初から正しい話し方など存在しないみたいですわね」


 私は赤ペンを持つ手を止めた。


 その通りだった。


 エレオノーラ様は「泣かないから悪女」にされた。


 ミリア様は「話したから不安定」にされようとしている。


 どちらも、本人の言葉を聞かないための理由だ。


「エレオノーラ様」


「何かしら」


「証人になっていただけますか」


 私がそう言うと、セーラ先輩がぎょっとした。


 エレオノーラ様は、眉一つ動かさなかった。


「何の証人ですの?」


「大集会において、ミリア様が台本を閉じたこと。本人の意思として発言したこと。神殿関係者が中断を試みたこと。そして、エレオノーラ様が発言を聞く意思を示したことです」


「つまり、私がいたと証言しろと」


「はい」


「それはまた、私が神殿と対立した見出しになりますわね」


「なります」


 私は正直に答えた。


 火種は見えている。


【火種:公爵家による神殿批判】


【火種:悪役令嬢再燃】


【火種:聖女候補利用疑惑】


【火種:公爵家対信仰】


 でも、だからといって黙れば、ミリア様の発言は消される。


 そしてエレオノーラ様の隣に座った行為も、別の形に書き換えられる。


 悪役令嬢が聖女候補を威圧した。


 神殿は必ず、その方向へ戻そうとする。


 エレオノーラ様は、しばらく私を見た。


 それから、ゆっくり微笑む。


「よろしくてよ」


「ありがとうございます」


「ただし、条件があります」


「はい」


「私を、寛大な公爵令嬢として書かないで」


 私は息を止めた。


 エレオノーラ様は続ける。


「私はミリア様を許していません。あの場で彼女の隣に座ったのは、彼女を救うためだけではありませんわ。私の言葉を、私の傷を、また神殿の物語に利用させないためでもあります」


「……はい」


「私は怒っています。そこを削らないでくださいませ」


 私は、赤ペンを机に置いた。


 前に、私はエレオノーラ様の怒りを柔らかくしようとして失敗した。


 守るつもりで、本人の輪郭を削りかけた。


 同じことをしてはいけない。


「削りません」


 私が答えると、エレオノーラ様は少しだけ目元を緩めた。


「なら、証言いたします」


「ありがとうございます」


「それと」


「はい」


「ミリア様の“必要とされている気がしました”という発言も、消してはいけませんわ」


 胸の奥に、小さく痛みが走った。


 まさに、私が迷っていたところだった。


 私はミリア様を守りたい。


 そう思う。


 だが、彼女のあの言葉は危うい。


 王都の新聞社にかかれば、いくらでも悪意ある見出しにできる。


『聖女候補、称賛欲しさに祈りを演じたか』


『必要とされたかった少女、寄付金疑惑の中心に』


『清らかな祈りは承認欲求だった?』


 見える。


 見えすぎる。


 胃が痛い。


 だから、伏せたい。


 全文記録には残しても、公式異議文では触れずに済ませたい。


 そう考えた。


 守るために。


 けれど。


「美しくない言葉ほど、消されやすいですわ」


 エレオノーラ様が言った。


 静かな声だった。


「ミリア様は、清らかな被害者としてなら救われやすいでしょう。神殿に利用された少女。台本を読まされた少女。涙を商品にされた少女」


「……はい」


「でも、彼女はそう言いませんでした」


 エレオノーラ様は、声明案を指先で軽く叩いた。


「必要とされたかった。嬉しい時もあった。祈りが全部嘘ではなかった。そう言った。そこを消して守れば、神殿と違う形で彼女を整えることになりますわ」


 私は黙った。


 言い返せなかった。


 正しいからだ。


 でも、正しいだけでは済まない。


「記録に残せば、彼女は叩かれます」


「残さなくても、叩かれますわ」


「……はい」


「なら、本人の言葉が残るほうがいい」


 エレオノーラ様の声は、少しだけ苦かった。


「私も、そうしてほしかったもの」


 その一言に、私は何も言えなくなった。


 第十九話の会見。


 第二十話の名誉回復会見。


 私は、エレオノーラ様の言葉を記録し、守ったつもりでいた。


 けれど、彼女の沈黙や震えや、言わなかった傷を、全部は見られていなかった。


 記録するとは、難しい。


 書くとは、怖い。


 書けば残る。


 書かなければ消える。


 どちらも、人を傷つける可能性がある。


 そこへ、今度は重い足音が近づいてきた。


 扉がまた開く。


 カイル様だった。


 黒い外套に雪の匂いをまとったまま、手に一枚の紙を持っている。


 嫌な予感がする。


 カイル様が紙を机に置いた。


「書いた」


「何をですか」


「神殿への文書」


 私は紙を見る。


 そこには、力強い筆跡で一文だけ書かれていた。


『支援を止める。理由は不誠実。』


 私は目を閉じた。


 深く、深く息を吸う。


 今日何度目の深呼吸でしょうか。


 そろそろ肺から広報局の煙が出そうです。


「カイル様」


「何だ」


「短いにも限度があると、何度申し上げればよろしいですか」


「必要なことは書いた」


「必要最低限すぎます」


「不誠実だ」


「わかります。でも、支援を止める理由を一文にすると、恐喝文に見えます」


 カイル様は少し考えた。


「違う」


「その一言も足さないでください」


 エレオノーラ様が扇で口元を隠している。


 笑っていますね。


 笑っていますよね。


 私の胃は笑っていません。


 私はカイル様の文書を読み直した。


 北方辺境伯領は、神殿経由でいくつかの孤児院へ物資支援をしている。


 その支援を「不誠実だから止める」と出せば、確かに神殿への圧力になる。


 だが、誤ればこう報じられる。


『辺境伯、聖女候補発言を盾に孤児院支援停止』


『北方、神殿へ経済圧力』


『孤児を人質に神殿批判か』


 火種が、容赦なく浮かぶ。


【火種:孤児院支援停止批判】


【火種:辺境伯の威圧印象】


【火種:神殿対北方】


【火種:ミリア発言の政治利用】


【火種:王宮との連携疑惑】


 胃が痛い。


 でも、カイル様の怒りもわかる。


 孤児院への支援を美談に利用しながら、実際の寄進金は届いていない可能性がある。


 神殿は、ミリア様の言葉を消そうとしている。


 不誠実。


 本当に、その一言で済ませたいくらい不誠実だ。


 ただし、一言で済ませると燃える。


「補足文をつけます」


 私が言うと、カイル様は少し眉を寄せた。


「長くなる」


「長くします」


「読まれない」


「読ませる努力をします」


「神殿は読むか」


「読ませます」


 私はカイル様の文書の下に、別紙を置いた。


「カイル様の一文は、趣旨として残します。ただし、正式文書としてはこうします」


 私は書き始めた。


『北方辺境伯領は、神殿を通じて実施している孤児院支援について、寄進金および物資の配分状況に重大な疑義が生じたため、以後の新規支援契約を一時保留する』


「保留?」


 カイル様が聞く。


「止める、より燃えにくいです」


「止める」


「実務上は保留です」


「止める」


「保留です」


 見つめ合う。


 沈黙。


 エレオノーラ様が楽しそうに見ている。


 セーラ先輩が小声で言った。


「似た者同士ね」


「どこがですか」


「譲らないところ」


 不本意です。


 大変不本意です。


 私は続けて書いた。


『本措置は、孤児院および支援対象児童への物資供給を停止するものではない。北方辺境伯領は、神殿を経由しない直接支援の手段を同時に確保する』


 カイル様が少しだけ頷いた。


「それならいい」


「よかったです」


「支援は止めない」


「はい」


「神殿には渡さない」


「それを文書で丁寧に言います」


「面倒だ」


「面倒を省くと、人が燃えます」


 カイル様は黙った。


 その沈黙は、以前より少し違う。


 不満ではなく、考えている沈黙だ。


 私は三枚目の補足文を書き始めた。


『神殿に対し、以下の資料提出を求める。一、寄進金の収入総額。二、必要経費の内訳。三、各孤児院への配分額。四、聖女候補ミリア・セレス名義を用いた商会契約の写し。五、本人署名に際する説明記録』


 セーラ先輩が覗き込んで、うわ、と声を漏らした。


「これは嫌ね」


「嫌な文書ほど必要です」


「神殿、絶対嫌がるわよ」


「嫌がるところが火元です」


 エレオノーラ様が頷く。


「よろしいですわね。数字は祈りより嘘をつきにくいですもの」


「数字も嘘をつきます」


「まあ」


「ただ、嘘の癖が文章より残りやすいです」


 私は契約書の写しを横に出した。


 第二十三話で見つけた、ミリア様署名入りの契約書。


 商会との祈りの布販売契約。


 香油の宣伝契約。


 孤児院寄付金配分表。


 どれも綺麗な言葉で書かれている。


『一部を寄進』


『必要経費控除後』


『神殿広報局の判断により適切に配分』


 綺麗だ。


 綺麗すぎる。


 そして、具体的な数字から逃げている。


「神殿声明への差し戻し理由は三つにします」


 私は紙を分けた。


「一つ目。ミリア様の発言を、本人不在で無効化していること」


 赤字で書く。


『発言内容の有効性に疑義を示す場合、本人への再確認、第三者立会、全文記録との照合が必要です』


「二つ目。外部接触制限により、本人の発言機会をさらに奪うおそれがあること」


『静養は必要であるが、静養を理由に本人の意思確認を遮断してはならない』


「三つ目。大集会で明らかになった寄進金および名義利用の疑義に触れていないこと」


『本件は心身不安定の問題ではなく、神殿による聖女候補の発言管理、名義利用、寄進金配分の透明性に関する問題を含む』


 書きながら、私は手を止めた。


 含む。


 便利な言葉だ。


 逃げられる。


 でも、ここで断定しすぎると、未確認情報で殴ることになる。


 まだ帳簿は出ていない。


 まだ神殿内部の証言も足りない。


 まだ、オルドの関与を完全には証明できない。


 疑義。


 疑い。


 確認を求める。


 慎重すぎる。


 でも、それが必要だ。


 正義感で断定すると、相手の物語にされる。


 私は書き直さず、そのまま残した。


 カイル様が横から見ていた。


「弱い」


「はい」


「だが、斬れない」


「斬らない文書です」


「刺すのか」


「刺すというより、逃げ道を狭めます」


 カイル様は少しだけ考えた。


「罠か」


「手続きです」


「同じか」


「違います」


 エレオノーラ様が笑った。


「広報官の罠は手続きの形をしているのですわ」


「エレオノーラ様」


「褒めています」


「ありがとうございます。微妙に嬉しくありません」


 そこへ、若い記録官が慌てて入ってきた。


 顔色が悪い。


 広報局ではよく見る顔色だ。


 胃薬を勧めたくなる。


「リディア様、王都掲示板で神殿側の速報が流れ始めています」


「読み上げてください」


 記録官は水晶板を開いた。


『聖女候補ミリア様、心労により一時休養へ』


『公爵令嬢同席後に混乱発言か』


『神殿、ミリア様保護のため外部接触制限』


『王宮関係者による誘導の可能性も』


 部屋の空気が冷えた。


 早い。


 声明案がまだ王宮へ正式提出されていない段階で、もう見出しが出ている。


 つまり、文面は先に新聞社へ渡っている。


 まただ。


 また、本人より先に物語が走る。


 火種が浮かぶ。


【火種:エレオノーラ再悪役化】


【火種:王宮誘導疑惑】


【火種:ミリア保護名目隔離】


【火種:神殿正当化】


【火種:本人発言の混乱扱い】


 エレオノーラ様は、ゆっくり扇を閉じた。


「私の同席が原因、という形にしたいのですわね」


「はい」


 私の声は硬かった。


「ミリア様の言葉を聞いたことを、混乱の原因にするつもりです」


 セーラ先輩が低く呟く。


「性格が悪いわね」


「文面は丁寧です」


「余計悪いわ」


 その通りです。


 カイル様が水晶板を見た。


 目が冷たい。


「神殿に行く」


「駄目です」


「早い」


「物理は早いですが、燃えます」


「燃えている」


「さらに燃えます」


 カイル様は不満そうに黙った。


 彼の手袋の縫い目が、少しだけ歪んでいる。


 前回、オルドが「混乱を避けるため」と言った時、カイル様は同じように手袋を押さえていた。


 まだ理由は聞かない。


 聞くべき時ではない。


 今、彼の怒りをここで開けたら、神殿に利用される。


 私はカイル様の一文を見る。


『支援を止める。理由は不誠実。』


 短い。


 荒い。


 でも、逃げてはいない。


「この文書、出します」


 カイル様がこちらを見る。


「出すのか」


「出します。ただし補足付きで」


「三枚か」


「四枚に増えました」


「長い」


「燃えないためです」


「読まれない」


「見出し用の要約も付けます」


 私は別紙に短く書いた。


『孤児院支援は止めません。神殿経由を一時保留し、直接支援へ切り替えます。理由は、寄進金配分と本人名義利用に重大な確認事項があるためです』


 カイル様が読んだ。


「長い」


「これでも要約です」


「俺のほうが短い」


「短ければ勝ちではありません」


 カイル様は少しだけ目を伏せた。


「だが、俺の言葉も入るか」


 私は一瞬、手を止めた。


 彼にしては珍しい確認だった。


 自分の言葉が残るかどうかを、気にしている。


 私は頷く。


「入れます」


 そして、要約の最後に一文を足した。


『北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタインは、神殿の対応を不誠実と判断し、支援対象を守るため、経路の見直しを求めます』


 カイル様が読んだ。


「俺はこう言っていない」


「言っていませんが、意味は合っています」


「不誠実、はある」


「あります」


「ならいい」


 よかった。


 そこはいいんですね。


 私が文書を整えている間、エレオノーラ様は窓辺に立っていた。


 外では、神殿大集会から帰る人々の声がまだ聞こえる。


 祝福の声。


 戸惑いの声。


 怒りの声。


 誰かが言っている。


「ミリア様、かわいそう」


 別の誰かが言う。


「でも、寄付はどうなったんだ」


「公爵令嬢が何か言わせたんじゃないのか」


「神殿が隠してるって本当か?」


 声は混ざる。


 誰か一人の悪意ではない。


 善意も、不安も、怒りも、信仰も、疑いも混ざっている。


 だから難しい。


 だから、雑に切ってはいけない。


 私は神殿声明への正式差し戻し文を書き上げた。


『神殿提出声明案について、王宮広報局危機声明管理室は、現時点での公表を不適切と判断し、以下の理由により差し戻します』


 第一。


『ミリア・セレス様本人の発言を、本人への再確認なく「無効」と扱う表現は、発言機会の侵害にあたるおそれがあります』


 第二。


『静養を理由とする外部接触制限は、本人保護のために必要な範囲を明確化してください。現案では、本人の意思確認および記録保全を阻害するおそれがあります』


 第三。


『大集会における発言には、寄進金配分、名義利用、会見台本等に関する確認事項が含まれます。これらを「精神的疲労」による混乱として一括処理することは、事実確認を妨げます』


 第四。


『公爵令嬢エレオノーラ・グランフェルト様の同席を、聖女候補の混乱原因とする趣旨の表現は、現時点で確認された事実に基づきません』


 第五。


『本人の言葉が美しくないことは、その言葉を消す理由にはなりません』


 書いた瞬間、部屋が静かになった。


 セーラ先輩が、そっと私を見る。


「最後の一文、公式文書?」


「……少し感情的ですか」


「少しどころではないわね」


 私は赤ペンを置いた。


 消すべきか。


 火種を見る。


【火種:王宮広報官の主観混入】


【火種:神殿反発】


【火種:ミリア発言再注目】


【火種:公爵家擁護印象】


 燃える。


 燃えるが。


 私は消せなかった。


 すると、エレオノーラ様が近づいてきた。


 文面を読む。


 そして、静かに言った。


「残しなさい」


「ですが」


「そこを消したら、あなたが一番言いたかったことが消えます」


 私は言葉に詰まる。


 カイル様も文書を覗き込んだ。


「悪くない」


「カイル様が長文の評価を」


「最後だけ読んだ」


「読んでください、全部」


 カイル様は少し嫌そうな顔をした。


 でも、紙を持ち直した。


 読むつもりはあるらしい。


 奇跡です。


 後世に記録してください。


 いや、そこまではいいです。


 私は差し戻し文を清書した。


 王宮広報局の印。


 危機声明管理室の副署名。


 記録局立会印。


 公爵家証人添付。


 北方辺境伯領の支援経路見直し通知。


 灯火新聞への全文記録保全通知。


 全部を一組にする。


 紙の束は、かなり厚くなった。


 カイル様が言う。


「武器か」


「文書です」


「重い」


「今回は、重さも大事です」


 神殿は美しい一枚で、ミリア様の言葉を消そうとした。


 ならこちらは、消せないほどの記録で返す。


 綺麗ではない。


 軽くもない。


 でも、逃げない。


 若い記録官に文書を渡すと、彼は緊張した顔で受け取った。


「至急、神殿へ?」


「はい。写しは王宮記録局、公爵家、北方辺境伯領、灯火新聞へ」


「灯火新聞にもですか」


「全文保全用です。切り抜き対策です」


 記録官が頷き、走っていく。


 その背中を見送りながら、私はようやく椅子に座った。


 胃が痛い。


 喉も乾いた。


 怒りは、静かになったわけではない。


 紙になっただけだ。


 セーラ先輩が薬草茶を置いてくれる。


「飲みなさい。今日のあなたは赤ペンで殴りすぎ」


「殴っていません。差し戻しました」


「広報局では同義よ」


 私は薬草茶を飲んだ。


 苦い。


 カイル様の差し入れと同じ味がする。


 つまり、効きそうで恋愛味はしない。


 その時、水晶板が強く光った。


 速報だ。


 またか。


 今日の水晶板は休暇申請を出していいと思う。


 セーラ先輩が読み上げる。


『神殿、王宮からの差し戻しを受領』


『神殿関係者「王宮は信仰の領域に踏み込みすぎている」』


『一方、灯火新聞が大集会全文記録の一部公開を予告』


『北方辺境伯領、孤児院支援の直接化を検討』


 続いて、掲示板。


『ミリア様の発言、無効にするのは違うのでは』


『でも精神的に不安定だったなら休ませるべき』


『休ませるのと黙らせるのは違うだろ』


『寄付金の数字を出してほしい』


『エレオノーラ様、許してないって言ったの逆に信用できる』


『辺境伯の文書、たぶん本文は「不誠実」だけだっただろ』


 私は顔を上げた。


「なぜばれているんですか」


 カイル様が、わずかに目をそらした。


「そう見えるのだろう」


「自覚はあるんですね」


「ある」


 あるなら、もう少し書いてください。


 だが、掲示板の流れは完全に神殿側一色ではない。


 迷いが生まれている。


 疑問が生まれている。


 炎上はしている。


 けれど、ただ誰かを焼く炎ではなくなりつつある。


 確認しろ。


 数字を出せ。


 本人に聞け。


 そういう声が混じっている。


 私は小さく息を吐いた。


「鎮火はしていません」


 セーラ先輩が頷く。


「でしょうね」


「でも、火の向きは変わりました」


 エレオノーラ様が窓の外を見たまま言う。


「神殿は、次に何をしますの?」


「ミリア様を隔離しようとします」


「でしょうね」


「その前に、本人の再確認を取ります。記録局立会で」


「神殿が拒めば?」


「拒否理由を記録します」


 エレオノーラ様が楽しげに笑う。


「あなた、本当に嫌な戦い方を覚えましたわね」


「必要に迫られました」


 カイル様が短く言う。


「いい」


「ありがとうございます」


「嫌な相手には、嫌な手が効く」


「それはやや物騒ですが、方向性は合っています」


 その時だった。


 外から駆け込んできた別の記録官が、息を切らして叫んだ。


「リディア様! 神殿内部から匿名の封書が届きました!」


 部屋の空気が変わる。


 私は立ち上がった。


「差出人は?」


「不明です。ただ、神殿会計局の内封が使われています」


 会計局。


 私はエレオノーラ様と目を合わせた。


 カイル様も立ち上がる。


 封書は震える手で差し出された。


 私は封を確認する。


 神殿の内封。


 改ざん防止の細い銀糸。


 開封痕はない。


 中には、数枚の写しが入っていた。


 寄進金台帳。


 商会支払い記録。


 孤児院配分予定表。


 そして、神殿広報局の内部覚書。


 最初の一行を読んだ瞬間、私の胃痛は別の種類に変わった。


『聖女候補関連収益について、孤児院配分は広報施策終了後、民衆反応を見て調整する』


 配分は、まだされていない。


 さらに次の紙。


『ミリア・セレス本人への説明は、祈祷会後に簡略化して実施予定』


 説明は、署名前ではない。


 後だ。


 さらに、別の台帳。


 祈りの布。


 香油。


 絵姿。


 小冊子。


 収益。


 必要経費。


 神殿広報局管理費。


 商会手数料。


 装飾費。


 警備費。


 祈祷会演出費。


 そして孤児院配分額。


 数字が、合わない。


 発表より、はるかに少ない。


 いや、少ないどころではない。


 まだ届いていない支援がある。


 私は紙を握りしめた。


 赤ペンでは足りない。


 これはもう、帳簿そのものが叫んでいる。


 セーラ先輩が覗き込み、顔色を変えた。


「これ……」


 エレオノーラ様の声が冷たくなる。


「美談の裏側ですわね」


 カイル様が短く言った。


「不誠実」


「今回は完全にその通りです」


 私は、内部覚書の最後の一文を見た。


『発言管理に支障が出た場合、聖女候補本人の心身不安定を理由として一時保護措置を行う』


 その瞬間、火種が一気に燃え上がった。


【火種:神殿内部不正】


【火種:寄進金未配分】


【火種:聖女候補署名手続き不備】


【火種:本人隔離計画】


【火種:孤児院支援未達】


【火種:神殿広報局責任】


 私は静かに紙を置いた。


 神殿声明を差し戻した。


 その結果、神殿の中から誰かが火元を投げてきた。


 いや。


 これは火元ではない。


 火元に続く、焦げた導火線だ。


「記録を保全します」


 私は言った。


「写しを三部。原本は封印。灯火新聞にはまだ出しません。まず記録局、会計監査、孤児院支援担当へ照合依頼」


 セーラ先輩が頷く。


「神殿には?」


「まだ出しません」


 エレオノーラ様が微笑む。


「相手に弁解文を書く時間を与えないため?」


「いえ」


 私は台帳を見下ろした。


 そこには、数字が並んでいる。


 人の名前は少ない。


 孤児院名も、記号のように扱われている。


 東二区孤児院。


 北方第七孤児院。


 西市場救護院。


 名前の向こうに、子どもたちがいる。


 リナがいる。


 冬の毛布は来なかった、と言った子がいる。


「まず、届いていない場所を確認します」


 私の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「帳簿の数字だけでは、人を守れません」


 カイル様が頷いた。


「行くか」


「はい」


 私は封書を閉じた。


 神殿の白い声明は、差し戻した。


 今度はこちらが、白い紙の裏に隠された数字を見に行く番だ。


 美しくない言葉を消させないために。


 届いていない毛布の数を、誰かの祈りでごまかさせないために。


 私は赤ペンを胸ポケットに戻した。


「次は、帳簿です」


 セーラ先輩が小さく呻く。


「地味ね」


「はい」


 私は頷く。


「でも、地味な数字ほど、人を裏切った時に燃えます」


 神殿の鐘が、遠くで鳴っていた。


 祈りの音に聞こえるそれが、今は帳簿を閉じる音のように聞こえた。


 聖女ブームの火は、まだ消えていない。


 けれど、その白い炎の下から、黒い数字が顔を出し始めていた。

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