悪役令嬢と聖女候補、同じ席に座る
台本が閉じられた音は、小さかった。
大広場に集まった民衆のほとんどには、聞こえなかったと思う。
けれど、私には聞こえた。
ぱたり。
紙が閉じる音。
誰かが用意した物語が、少女の手の中で一度、息を止めた音。
聖女候補ミリア・セレス様は、壇上に立っていた。
白い衣装。
白い花びら。
白いヴェール。
白い祈りの旗。
神殿大広場は、どこもかしこも白かった。
白は清らかに見える。
けれど、あまりにも白すぎる場所では、人の顔色の悪さがよくわかる。
ミリア様の唇は、血の気を失っていた。
彼女は閉じた台本を両手で抱えたまま、群衆を見下ろしている。
群衆は待っていた。
清らかな祈りを。
美しい涙を。
悪役令嬢を許す聖女候補を。
神殿が売り出した物語の続きを。
けれど、壇上の少女は、続きを読まなかった。
私は記録水晶の横に立っていた。
指先が冷たい。
さっきから、視界の端に火種が浮かび続けている。
【火種:進行停止】
【火種:聖女候補動揺】
【火種:神殿管理不備】
【火種:王宮介入疑惑】
【火種:民衆不安拡大】
【火種:公爵令嬢再悪役化】
やめてください。
今、一斉に出勤しないでください。
胃が対応不能です。
司祭席のほうで、神殿関係者たちがざわめいた。
白い法衣の袖が揺れる。
オルド神殿広報官は、壇下の横手に立っていた。微笑みはまだ消えていない。だが、その目だけが笑っていなかった。
彼は一歩、壇へ近づこうとした。
私は反射的に前へ出そうになった。
助け舟を出すべきか。
王宮立会人として、説明すべきか。
聖女候補は緊張しています。
祈りの前に沈黙を置いています。
体調を確認します。
この場はいったん休憩といたします。
言える。
いくらでも言える。
私はそういう言葉を作るために、これまで生きてきた。
でも。
ここで私が言葉を与えれば、それはまた、ミリア様の代わりに誰かが話すことになる。
神殿の台本を閉じた少女に、今度は王宮の台本を渡すことになる。
私は動けなかった。
情けないくらい、動けなかった。
「リディア」
低い声が横からした。
カイル様だ。
彼は私を見ず、壇上を見ている。
「動くな、ではない」
「……はい」
「見ろ」
短い。
でも、その短さに助けられた。
私は息を吸い、記録水晶へ手を置いた。
記録する。
今、私にできることは、それだけかもしれない。
壇上で、ミリア様が口を開いた。
「皆さまのために……」
いつもの言葉。
聞き慣れすぎて、本人の声なのに本人のものに聞こえない言葉。
群衆の一部が、ほっとしたように息を吐いた。
神殿関係者の肩も少し下がる。
オルドが微笑む。
戻る。
台本へ戻る。
そう思った瞬間、ミリア様の声が途切れた。
彼女は台本を抱いたまま、目を伏せた。
「皆さまのために、祈ります」
言った。
だが、そのあとに続くはずの文が出てこない。
台本では、ここで民衆へ向けて微笑む。
次に、エレオノーラ様を見て、許しの言葉を述べる。
そして涙。
美しい涙。
信仰を強める涙。
ミリア様の指が、台本の表紙を白くなるほど握った。
「わたしは」
その声は小さかった。
でも、記録水晶は拾った。
間違いなく。
「わたしは、怖かったです」
広場が静まり返った。
鳥の羽音すら、遠くなった気がした。
怖かった。
たったそれだけの言葉。
でも、それは台本のどこにもなかった。
神殿の布告にも、商会広告にも、祈りの布にも、香油の宣伝文にもなかった。
清らかではない。
整っていない。
役に立つ見出しにもなりにくい。
でも、本人の言葉だった。
私は奥歯を噛んだ。
よかった。
そう思いかけて、すぐに自分を止める。
よかった、で済ませてはいけない。
ミリア様は今、火の上に立っている。
この言葉は、水にもなる。
燃料にもなる。
私は火種を見る。
【火種:聖女候補の弱さ露出】
【火種:神殿管理批判】
【火種:民衆失望】
【火種:公爵令嬢への同情反転】
【火種:ミリア本人への攻撃】
全部あり得る。
どれも燃える。
けれど、火種の奥に、別のものが見えた気がした。
火ではない。
まだ名前をつけられない、小さな揺らぎ。
ミリア様は震えながら続けた。
「怖かったです。皆さまの前で話すことも。王太子殿下のそばにいることも。公爵令嬢様に見られることも。神殿の方々の期待に応えられないことも」
神殿席がざわめく。
オルドの笑みが、一瞬だけ固まった。
ミリア様は顔を上げない。
「でも」
その一言で、私は嫌な予感がした。
でも。
人はそこから、自分でも予想していなかった本音を落とすことがある。
ミリア様は、胸の前で台本を抱きしめた。
「でも、聖女候補でいられる間は」
息を飲む音が、近くで聞こえた。
私のものかもしれない。
「誰かに必要とされている気がしました」
広場が凍った。
白い花びらが一枚、壇上に落ちる。
ミリア様の足元に。
誰もすぐには動けなかった。
被害者の言葉としては、綺麗ではない。
清らかな少女が、ただ利用されていただけ。
そういう物語なら、民衆は受け入れやすかっただろう。
神殿が悪い。
ミリア様はかわいそう。
エレオノーラ様も被害者。
王宮は調整役。
それで済む。
けれど、今の言葉は違った。
必要とされている気がした。
そこには、弱さがあった。
ほんの少しの安堵があった。
選ばれたことを、すべて嫌だったとは言えない少女がいた。
私は唇を噛む。
どうする。
守るべきか。
訂正すべきか。
補足すべきか。
これは利用された少女の混乱した発言です。
神殿の管理下における心理的負荷の結果です。
発言の意図を正確に把握する必要があります。
いくらでも言える。
でも、それは本当に守る言葉か。
それとも、彼女の美しくない本音を包んで見えなくする言葉か。
私は動けない。
まただ。
私は正しい言葉を探して、本人の言葉の前で動けなくなる。
壇上の横から、司祭の一人が立ち上がった。
「ミリア様は、少々お疲れのようです」
その声は大きい。
よく通る。
場を回収するための声だ。
「本日の発言は、神殿にて後ほど正式に――」
その時。
ぱちん、と扇が閉じる音がした。
エレオノーラ様だった。
彼女は客席側の貴族席から、ゆっくり立ち上がった。
誰かが息を飲んだ。
悪役令嬢。
聖女候補を威圧したと報じられた公爵令嬢。
その彼女が、聖女候補の発言直後に立つ。
最悪の見出しが、頭の中を駆け抜けた。
【火種:公爵令嬢による威圧】
【火種:聖女候補発言封じ】
【火種:悪役令嬢再燃】
【火種:神殿対公爵家】
【火種:王宮調整失敗】
やめてください。
火種たち、今は本当にやめてください。
私は一歩、踏み出しかけた。
止めるべきだ。
エレオノーラ様、今動けば燃えます。
そう言うべきだ。
でも、エレオノーラ様は私を見なかった。
壇上のミリア様だけを見ていた。
その横顔に、怒りはあった。
痛みもあった。
でも、それだけではなかった。
彼女は背筋を伸ばして歩き出す。
白い花びらの上を、灰紫の裾が滑る。
民衆が割れる。
貴族たちがざわめく。
神殿関係者が止めようとする。
しかし、エレオノーラ様は足を止めない。
「グランフェルト公爵令嬢」
オルドが前に出た。
「壇上への立ち入りは、進行上――」
「進行?」
エレオノーラ様は微笑んだ。
「今日一番、不要なものですわね」
オルドの笑みが薄くなる。
エレオノーラ様は彼を見ずに、壇上へ上がった。
そして。
ミリア様の隣に座った。
立ちはだかるのではなく。
責めるのでもなく。
見下ろすのでもなく。
同じ高さに腰を下ろした。
広場が、さらに静かになった。
私も、たぶん口を開けていた。
カイル様が隣で短く言う。
「座った」
「見ればわかります」
「強い」
「はい」
強い。
でも、たぶんそれは、傷つかない強さではない。
傷ついたまま隣に座る強さだ。
エレオノーラ様は、ミリア様に向き直った。
「ミリア様」
ミリア様の肩が震える。
「は、はい」
「私はあなたを許すための背景ではありません」
ミリア様の顔が青くなる。
群衆がざわつく。
リディア・ノートン、動け。
これは燃える。
絶対に燃える。
だが、エレオノーラ様は続けた。
「そして、あなたを罰するためにここへ来たわけでもありません」
ざわめきが止まった。
エレオノーラ様の声は、会見の時と同じくらい落ち着いていた。
けれど、近くで見ている私にはわかる。
扇を持つ指が、少しだけ強く握られている。
彼女も怖いのだ。
こんな大勢の前で。
自分を悪役にした相手の隣に座って。
自分の傷を、綺麗な許しで処理されないようにしながら。
それでも、相手の言葉を聞こうとしている。
「あなたの言葉を聞きます」
その一文は、会場の白さの中で、静かに落ちた。
ミリア様は目を見開いた。
泣きそうな顔だった。
でも、台本に指定された涙ではない。
「私の……言葉」
「ええ」
エレオノーラ様は頷く。
「神殿の言葉ではなく。王宮の言葉でもなく。私に都合のよい言葉でもなく。あなたにとって、できる限り近い言葉を」
ミリア様の唇が震えた。
「そんなもの、わかりません」
「では、わからないと言えばよろしいのです」
「わからないまま話したら、また間違えます」
「人はよく間違えますわ」
エレオノーラ様は、ほんの少しだけこちらを見た。
私と目が合った。
なぜ今こちらを見るのですか。
心当たりがありすぎて胃が痛いです。
「私も間違えます。リディアも間違えます。王太子殿下など、もはや間違いの社交界です」
広場の一部から、かすかな笑いが漏れた。
セーラ先輩が後方で肩を震わせている。
神殿関係者は笑っていない。
オルドも笑っていない。
だが、空気が少しだけ変わった。
完全な聖女と完全な悪女の場ではなくなった。
間違える人間が二人、同じ壇上に座っている場になった。
ミリア様は台本を見た。
それから、エレオノーラ様を見た。
「私は」
声が震えている。
「エレオノーラ様が、怖かったです」
広場がざわつく。
エレオノーラ様は動かない。
「そうでしょうね」
短い返事だった。
責めもしない。
許しもしない。
ミリア様は戸惑ったように瞬きをする。
「怒って、いないのですか」
「怒っていますわ」
即答だった。
広場がまた静まる。
エレオノーラ様は背筋を伸ばしたまま言った。
「私は怒っています。あなたに対しても。王太子殿下に対しても。神殿に対しても。私を勝手な物語に押し込めたすべてに対して」
ミリア様の目に涙が浮かんだ。
今度は、誰にも指定されていない涙だ。
「ごめんなさい」
小さな声。
それは、謝罪として十分ではなかった。
何に対しての謝罪かも、まだ曖昧だ。
でも、台本の許しよりは、ずっと危うくて、ずっと本人に近かった。
エレオノーラ様はすぐに「許します」とは言わなかった。
代わりに、こう言った。
「その謝罪を、今ここで綺麗に終わらせるつもりはありません」
ミリア様が息を止める。
「私の名誉は傷つきました。あなたの言葉や涙が、私を悪女にするために使われました。あなたが望んだことだけではないでしょう。けれど、あなたが何も感じなかったわけでもない」
ミリア様は俯く。
エレオノーラ様は少しだけ声を柔らかくした。
「だから、ここで簡単に許して終わりにしたら、また誰かの都合のよい物語になりますわ」
私は、記録水晶に手を置いたまま、息を忘れていた。
正しい。
でも、痛い。
優しい。
でも、甘くない。
たぶん、これが必要だった。
ミリア様は、台本を膝の上に置いた。
その動作だけで、神殿席がざわめいた。
「私は」
彼女は言った。
「聖女候補と呼ばれるのが、嫌でした」
少し間を置いて、続ける。
「でも、嬉しい時もありました」
ざわめきが大きくなる。
ミリア様は、もう止まらなかった。
止まれなかったのかもしれない。
「孤児院にいた頃、私の名前を呼ぶ人は少なかったです。神殿に来て、聖女候補と呼ばれて、白い服を着せられて、皆が頭を下げてくれて……怖かったけれど、少し、安心しました」
白い広場に、綺麗ではない言葉が落ちていく。
「必要とされていると思いました。私が祈れば、誰かが喜びました。私が泣けば、皆が優しくしてくれました。だから、言われる通りにしました。皆さまのために祈ります、と言いました」
ミリア様は、台本に視線を落とす。
「本当は、皆さまが誰なのか、わかっていませんでした」
誰かが息を飲んだ。
私の胸が、きゅっと痛んだ。
皆さま。
広く、清らかで、誰も傷つけない言葉。
けれど、広すぎる言葉は、ときどき誰にも届かない。
ミリア様は両手を握りしめた。
「エレオノーラ様を傷つけたと思います」
エレオノーラ様は頷いた。
「はい」
「孤児院の子たちにも、嘘をついたかもしれません。寄付が届いていると思っていました。でも、確認しませんでした。私は、知らないまま、ありがとうと言われていました」
神殿席から、司祭の一人が立ち上がる。
「ミリア様、そのようなお話はこの場にふさわしくありません」
オルドも動いた。
「大集会の趣旨から外れています」
私は一歩前に出た。
今度は、動く。
代弁ではない。
発言機会を守るためだ。
「王宮立会人として確認します」
声が思ったより通った。
胃は痛いが、声は出た。
「現在、聖女候補ミリア・セレス様は、自身の発言として話されています。発言中断を求める場合、その理由と権限を記録水晶へ明示してください」
司祭が詰まった。
オルドが私を見る。
「リディア様。これは信仰上の――」
「信仰上の理由であれば、その根拠となる神殿規定番号をお願いします」
セーラ先輩が後ろで小さく呟いた。
「出た。規定番号攻撃」
便利です。
大抵の感情的圧力は、規定番号を求めると一度止まる。
ただし、使いすぎると嫌われます。
もうだいぶ嫌われているので誤差です。
オルドの笑顔が薄くなった。
その時、カイル様が私の隣に立った。
何も言わない。
ただ立った。
神殿関係者の視線が、一斉に彼へ向く。
北方辺境伯。
沈黙の圧力。
火種が出る。
【火種:辺境伯による神殿威圧】
【火種:王宮・公爵家・北方の連携疑惑】
【火種:神殿対世俗権力】
はい、わかっています。
でも、今だけはありがたい。
私は小声で言った。
「睨まないでください」
「普通だ」
「王都基準では砦です」
「弱める」
カイル様は少し目を伏せた。
威圧感が、処刑台から取調室くらいになった。
努力は確認しました。
壇上で、ミリア様がエレオノーラ様を見た。
「私は、あなたが怖かったです」
「聞きましたわ」
「でも、たぶん……あなたが怖かったのではなくて」
ミリア様は言葉を探す。
誰も助けない。
誰も続きを書かない。
彼女は、自分で続きを探した。
「あなたの前では、私が聖女候補ではないことが、ばれそうで怖かったのだと思います」
エレオノーラ様の扇が、膝の上で止まった。
その表情は読めない。
ミリア様は泣いていた。
けれど、泣き方は美しく整っていない。
声も震えている。
鼻も少し赤い。
絵姿の聖女候補なら、絶対に描かれない顔だった。
「私は、清らかではありません」
その言葉に、広場が大きく揺れた。
祈りの旗が風に鳴る。
白い花びらが舞う。
オルドが動きかける。
私は記録水晶を握った。
止めない。
止めさせない。
ミリア様は、台本を両手で持ち上げた。
破るのかと思った。
だが、彼女は破らなかった。
ただ、膝の上に置いた。
「でも、祈ったこと全部が嘘だったとも言えません」
その一言に、私は息を止めた。
そうだ。
そこだ。
単純にしてはいけない。
神殿が悪い。
ミリア様はただの被害者。
そう言えば楽だ。
でも、それでは彼女の弱さも、少しの願いも、祈りの中に本当にあったかもしれない温度も消してしまう。
「孤児院のリナに、寒くないようにって祈りました。病気の子に、苦しくないようにって祈りました。井戸の水が濁った時、怖くて、でも本当に、綺麗になればいいと思いました」
ミリア様はエレオノーラ様を見た。
「でも、その祈りが誰かを傷つける道具になっていることを、私は見ませんでした」
エレオノーラ様は、長く黙った。
広場全体が、その沈黙を聞いている。
リディア・ノートンとしては、ここで何か補足したくなる。
この沈黙は危険だ。
切り抜かれる。
悪意ある見出しになる。
『公爵令嬢、聖女候補の謝罪を黙殺』
見える。
とても見える。
火種も浮かぶ。
【火種:謝罪拒絶印象】
【火種:公爵令嬢冷酷説】
【火種:ミリア同情再燃】
動くべきか。
いや。
待つべきか。
私は手を握りしめた。
今までの私は、沈黙を空白として怖がっていた。
空白は、他人に勝手な物語を書かれる余地だから。
でも、すべての沈黙を即座に埋めれば、人は自分の言葉を探せない。
エレオノーラ様が、ようやく口を開いた。
「ミリア様」
「はい」
「私は、あなたを今日ここで許すとは言いません」
ミリア様は小さく頷いた。
今度は怯えていなかった。
泣いてはいたけれど、受け止めていた。
「ですが」
エレオノーラ様は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「あなたが今、台本を閉じたことは、記録されるべきです」
私は記録水晶へ視線を落とした。
淡い光が揺れている。
記録されている。
消えない。
消させない。
「あなたが怖かったことも。必要とされたかったことも。祈りがすべて嘘ではなかったことも。私を傷つけたことも」
エレオノーラ様は、少しだけ声を低くした。
「どれか一つだけを切り取れば、また誰かの物語になりますわ」
私は胸の奥で、静かに頷いた。
そう。
それだ。
人は一文ではない。
見出しではない。
清らかな聖女でも、冷たい悪役令嬢でもない。
矛盾したまま、傷つけたり、傷ついたり、少しだけ救われたがったりする。
だから、厄介で。
だから、記録しなければいけない。
民衆の中から、声が上がった。
「じゃあ、寄付金はどうなったんだ!」
別の声。
「ミリア様は悪くないだろ!」
「でも知らなかったで済むのか!」
「神殿は説明しろ!」
ざわめきが広がる。
火が移る。
だが、さっきとは違う。
聖女候補を讃える熱ではない。
悪役令嬢を責める熱でもない。
問いが生まれている。
危険だ。
でも、必要な危険だった。
私は呟いた。
「予定外発言です」
セーラ先輩が横で聞き返す。
「燃料?」
私は火種を見た。
確かにある。
火はある。
でも、さっきまでと色が違う。
誰かを焼くためだけの火ではない。
暗い場所を照らす火にも、なりうる。
「……今回は、燃料ではなく水です」
言ってから、少し考える。
「いえ、水というより、泥水です」
「泥水」
「綺麗ではありません。でも、乾いた場所には必要です」
セーラ先輩は、変な顔をした。
「あなた、たまに詩人になるわね」
「疲労です」
壇上では、エレオノーラ様が立ち上がった。
ミリア様も、少し遅れて立つ。
二人が並ぶ。
悪役令嬢と聖女候補。
そう呼ばれた二人。
でも今は、その見出しが少しだけ狭く見えた。
オルドが進み出る。
その笑顔はもう、薄い。
「本日の発言については、神殿として後ほど正式な見解を――」
「必要ですわね」
エレオノーラ様が言った。
「ええ。正式な見解を、ぜひ」
その声は穏やかだった。
穏やかすぎて怖い。
「ただし、全文記録が残っております。発言順も、沈黙も、誰が中断しようとしたかも」
オルドの目が細くなる。
私は即座に補足した。
「王宮記録水晶、公爵家記録水晶、第三者立会記録水晶の三系統で保全しています」
セーラ先輩が小声で言う。
「三つ揃えると説得力が増すの、神殿から学んだわね」
「嫌な学習効果です」
ミリア様は、そのやり取りを聞いて、少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
絵姿に描かれるような清らかな笑みではない。
泣いた後の、困ったような、下手な笑み。
そのほうが、ずっと本人らしい気がした。
広場のざわめきは収まらない。
むしろ、これから燃える。
神殿は必ず動く。
ミリア様を守るのではなく、切り離す方向へ。
発言を無効化する。
精神的に不安定だったと言う。
神殿の正式見解ではないと言う。
あのオルドなら、笑顔でそれをやる。
私はもう見えていた。
【火種:ミリア異端化】
【火種:発言無効化】
【火種:神殿責任回避】
【火種:公爵家利用疑惑】
【火種:王宮介入批判】
【火種:寄付金問題再燃】
ええ。
燃えますね。
知っています。
私は記録水晶を抱え直した。
胃が痛い。
とても痛い。
でも、今日の痛みは、少しだけ仕事らしい痛みだった。
ミリア様が壇上から降りる時、足元がふらついた。
エレオノーラ様が手を伸ばしかける。
けれど、触れる直前で止めた。
ミリア様は自分で一歩を踏みしめる。
それから、ほんの少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
エレオノーラ様は答えない。
ただ、扇を開いた。
その沈黙を、私は記録しなかった。
全部を記録すればいいわけではない。
人には、記録されない余白も必要だ。
控えの間へ戻ると、カイル様が短く言った。
「燃えるな」
「燃えます」
「消すか」
「いえ」
私は台本を見た。
閉じられたままの台本。
使われなかった涙。
流れてしまった、本物に近い涙。
「まず、火元を見ます」
カイル様は頷いた。
エレオノーラ様は、白い布の向こうを見ている。
ミリア様は、台本を両手で抱えたまま、椅子に座っていた。
誰もすぐには話さなかった。
沈黙があった。
でも、それは空っぽではなかった。
その沈黙の中で、神殿の鐘が鳴る。
高く、澄んだ音。
祈りの終わりを告げる鐘。
けれど私には、別のものの始まりに聞こえた。
神殿は、このままでは終わらせない。
ミリア様の言葉を、必ず「なかったこと」にしようとする。
私は記録水晶を見下ろした。
そこには、たしかに残っている。
怖かった。
必要とされている気がしました。
清らかではありません。
祈りがすべて嘘だったとも言えません。
美しくない言葉ほど、消されやすい。
だから、消させてはいけない。
私は息を吸った。
「神殿声明を確認します」
セーラ先輩が顔をしかめる。
「もう出ると思う?」
「出ます。早いはずです」
なぜなら、火消しより早いのが、火元の言い訳だから。
その予想は、残念ながら当たった。
大集会終了から半刻も経たないうちに、神殿から王宮へ第一報が届いた。
『聖女候補ミリア・セレスは、精神的疲労により一時的に発言内容の整理が困難な状態にあった』
『本日の壇上における一部発言は、神殿の正式見解ではなく、本人の心身不安定による混乱と見なす』
『神殿は、聖女候補の静養を最優先とし、外部からの接触を制限する』
私は文面を最後まで読んだ。
胃が、きゅっと縮む。
火種が浮かぶ。
【火種:発言無効化】
【火種:本人隔離】
【火種:神殿責任回避】
【火種:ミリア再管理】
【火種:王宮・公爵家への接触遮断】
【火種:異端化準備】
私は静かに紙を置いた。
そして、赤ペンを取る。
「差し戻します」
セーラ先輩が、疲れた顔で笑った。
「理由は?」
私は赤字で一行目に書いた。
『本人の発言を、本人不在で無効化しないでください』
それから顔を上げる。
「理由は、燃えるからです」
少し考えて、付け加えた。
「それと」
赤ペンを握る指に力を込める。
「人を、二度黙らせる文章だからです」
白い神殿大集会は終わった。
けれど、白い布の下で隠されていた火元は、ようやく見え始めたばかりだった。




