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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
聖女ブームと神殿の広告塔

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28/100

悪役令嬢と聖女候補、同じ席に座る

 台本が閉じられた音は、小さかった。


 大広場に集まった民衆のほとんどには、聞こえなかったと思う。


 けれど、私には聞こえた。


 ぱたり。


 紙が閉じる音。


 誰かが用意した物語が、少女の手の中で一度、息を止めた音。


 聖女候補(せいじょこうほ)ミリア・セレス様は、壇上に立っていた。


 白い衣装。


 白い花びら。


 白いヴェール。


 白い祈りの旗。


 神殿大広場は、どこもかしこも白かった。


 白は清らかに見える。


 けれど、あまりにも白すぎる場所では、人の顔色の悪さがよくわかる。


 ミリア様の唇は、血の気を失っていた。


 彼女は閉じた台本を両手で抱えたまま、群衆を見下ろしている。


 群衆は待っていた。


 清らかな祈りを。


 美しい涙を。


 悪役令嬢を許す聖女候補を。


 神殿が売り出した物語の続きを。


 けれど、壇上の少女は、続きを読まなかった。


 私は記録水晶の横に立っていた。


 指先が冷たい。


 さっきから、視界の端に火種が浮かび続けている。


【火種:進行停止】


【火種:聖女候補動揺】


【火種:神殿管理不備】


【火種:王宮介入疑惑】


【火種:民衆不安拡大】


【火種:公爵令嬢再悪役化】


 やめてください。


 今、一斉に出勤しないでください。


 胃が対応不能です。


 司祭席のほうで、神殿関係者たちがざわめいた。


 白い法衣の袖が揺れる。


 オルド神殿広報官は、壇下の横手に立っていた。微笑みはまだ消えていない。だが、その目だけが笑っていなかった。


 彼は一歩、壇へ近づこうとした。


 私は反射的に前へ出そうになった。


 助け舟を出すべきか。


 王宮立会人として、説明すべきか。


 聖女候補は緊張しています。

 祈りの前に沈黙を置いています。

 体調を確認します。

 この場はいったん休憩といたします。


 言える。


 いくらでも言える。


 私はそういう言葉を作るために、これまで生きてきた。


 でも。


 ここで私が言葉を与えれば、それはまた、ミリア様の代わりに誰かが話すことになる。


 神殿の台本を閉じた少女に、今度は王宮の台本を渡すことになる。


 私は動けなかった。


 情けないくらい、動けなかった。


「リディア」


 低い声が横からした。


 カイル様だ。


 彼は私を見ず、壇上を見ている。


「動くな、ではない」


「……はい」


「見ろ」


 短い。


 でも、その短さに助けられた。


 私は息を吸い、記録水晶へ手を置いた。


 記録する。


 今、私にできることは、それだけかもしれない。


 壇上で、ミリア様が口を開いた。


「皆さまのために……」


 いつもの言葉。


 聞き慣れすぎて、本人の声なのに本人のものに聞こえない言葉。


 群衆の一部が、ほっとしたように息を吐いた。


 神殿関係者の肩も少し下がる。


 オルドが微笑む。


 戻る。


 台本へ戻る。


 そう思った瞬間、ミリア様の声が途切れた。


 彼女は台本を抱いたまま、目を伏せた。


「皆さまのために、祈ります」


 言った。


 だが、そのあとに続くはずの文が出てこない。


 台本では、ここで民衆へ向けて微笑む。


 次に、エレオノーラ様を見て、許しの言葉を述べる。


 そして涙。


 美しい涙。


 信仰を強める涙。


 ミリア様の指が、台本の表紙を白くなるほど握った。


「わたしは」


 その声は小さかった。


 でも、記録水晶は拾った。


 間違いなく。


「わたしは、怖かったです」


 広場が静まり返った。


 鳥の羽音すら、遠くなった気がした。


 怖かった。


 たったそれだけの言葉。


 でも、それは台本のどこにもなかった。


 神殿の布告にも、商会広告にも、祈りの布にも、香油の宣伝文にもなかった。


 清らかではない。


 整っていない。


 役に立つ見出しにもなりにくい。


 でも、本人の言葉だった。


 私は奥歯を噛んだ。


 よかった。


 そう思いかけて、すぐに自分を止める。


 よかった、で済ませてはいけない。


 ミリア様は今、火の上に立っている。


 この言葉は、水にもなる。


 燃料にもなる。


 私は火種を見る。


【火種:聖女候補の弱さ露出】


【火種:神殿管理批判】


【火種:民衆失望】


【火種:公爵令嬢への同情反転】


【火種:ミリア本人への攻撃】


 全部あり得る。


 どれも燃える。


 けれど、火種の奥に、別のものが見えた気がした。


 火ではない。


 まだ名前をつけられない、小さな揺らぎ。


 ミリア様は震えながら続けた。


「怖かったです。皆さまの前で話すことも。王太子殿下のそばにいることも。公爵令嬢様に見られることも。神殿の方々の期待に応えられないことも」


 神殿席がざわめく。


 オルドの笑みが、一瞬だけ固まった。


 ミリア様は顔を上げない。


「でも」


 その一言で、私は嫌な予感がした。


 でも。


 人はそこから、自分でも予想していなかった本音を落とすことがある。


 ミリア様は、胸の前で台本を抱きしめた。


「でも、聖女候補でいられる間は」


 息を飲む音が、近くで聞こえた。


 私のものかもしれない。


「誰かに必要とされている気がしました」


 広場が凍った。


 白い花びらが一枚、壇上に落ちる。


 ミリア様の足元に。


 誰もすぐには動けなかった。


 被害者の言葉としては、綺麗ではない。


 清らかな少女が、ただ利用されていただけ。


 そういう物語なら、民衆は受け入れやすかっただろう。


 神殿が悪い。


 ミリア様はかわいそう。


 エレオノーラ様も被害者。


 王宮は調整役。


 それで済む。


 けれど、今の言葉は違った。


 必要とされている気がした。


 そこには、弱さがあった。


 ほんの少しの安堵があった。


 選ばれたことを、すべて嫌だったとは言えない少女がいた。


 私は唇を噛む。


 どうする。


 守るべきか。


 訂正すべきか。


 補足すべきか。


 これは利用された少女の混乱した発言です。

 神殿の管理下における心理的負荷の結果です。

 発言の意図を正確に把握する必要があります。


 いくらでも言える。


 でも、それは本当に守る言葉か。


 それとも、彼女の美しくない本音を包んで見えなくする言葉か。


 私は動けない。


 まただ。


 私は正しい言葉を探して、本人の言葉の前で動けなくなる。


 壇上の横から、司祭の一人が立ち上がった。


「ミリア様は、少々お疲れのようです」


 その声は大きい。


 よく通る。


 場を回収するための声だ。


「本日の発言は、神殿にて後ほど正式に――」


 その時。


 ぱちん、と扇が閉じる音がした。


 エレオノーラ様だった。


 彼女は客席側の貴族席から、ゆっくり立ち上がった。


 誰かが息を飲んだ。


 悪役令嬢。


 聖女候補を威圧したと報じられた公爵令嬢。


 その彼女が、聖女候補の発言直後に立つ。


 最悪の見出しが、頭の中を駆け抜けた。


【火種:公爵令嬢による威圧】


【火種:聖女候補発言封じ】


【火種:悪役令嬢再燃】


【火種:神殿対公爵家】


【火種:王宮調整失敗】


 やめてください。


 火種たち、今は本当にやめてください。


 私は一歩、踏み出しかけた。


 止めるべきだ。


 エレオノーラ様、今動けば燃えます。


 そう言うべきだ。


 でも、エレオノーラ様は私を見なかった。


 壇上のミリア様だけを見ていた。


 その横顔に、怒りはあった。


 痛みもあった。


 でも、それだけではなかった。


 彼女は背筋を伸ばして歩き出す。


 白い花びらの上を、灰紫の裾が滑る。


 民衆が割れる。


 貴族たちがざわめく。


 神殿関係者が止めようとする。


 しかし、エレオノーラ様は足を止めない。


「グランフェルト公爵令嬢」


 オルドが前に出た。


「壇上への立ち入りは、進行上――」


「進行?」


 エレオノーラ様は微笑んだ。


「今日一番、不要なものですわね」


 オルドの笑みが薄くなる。


 エレオノーラ様は彼を見ずに、壇上へ上がった。


 そして。


 ミリア様の隣に座った。


 立ちはだかるのではなく。


 責めるのでもなく。


 見下ろすのでもなく。


 同じ高さに腰を下ろした。


 広場が、さらに静かになった。


 私も、たぶん口を開けていた。


 カイル様が隣で短く言う。


「座った」


「見ればわかります」


「強い」


「はい」


 強い。


 でも、たぶんそれは、傷つかない強さではない。


 傷ついたまま隣に座る強さだ。


 エレオノーラ様は、ミリア様に向き直った。


「ミリア様」


 ミリア様の肩が震える。


「は、はい」


「私はあなたを許すための背景ではありません」


 ミリア様の顔が青くなる。


 群衆がざわつく。


 リディア・ノートン、動け。


 これは燃える。


 絶対に燃える。


 だが、エレオノーラ様は続けた。


「そして、あなたを罰するためにここへ来たわけでもありません」


 ざわめきが止まった。


 エレオノーラ様の声は、会見の時と同じくらい落ち着いていた。


 けれど、近くで見ている私にはわかる。


 扇を持つ指が、少しだけ強く握られている。


 彼女も怖いのだ。


 こんな大勢の前で。


 自分を悪役にした相手の隣に座って。


 自分の傷を、綺麗な許しで処理されないようにしながら。


 それでも、相手の言葉を聞こうとしている。


「あなたの言葉を聞きます」


 その一文は、会場の白さの中で、静かに落ちた。


 ミリア様は目を見開いた。


 泣きそうな顔だった。


 でも、台本に指定された涙ではない。


「私の……言葉」


「ええ」


 エレオノーラ様は頷く。


「神殿の言葉ではなく。王宮の言葉でもなく。私に都合のよい言葉でもなく。あなたにとって、できる限り近い言葉を」


 ミリア様の唇が震えた。


「そんなもの、わかりません」


「では、わからないと言えばよろしいのです」


「わからないまま話したら、また間違えます」


「人はよく間違えますわ」


 エレオノーラ様は、ほんの少しだけこちらを見た。


 私と目が合った。


 なぜ今こちらを見るのですか。


 心当たりがありすぎて胃が痛いです。


「私も間違えます。リディアも間違えます。王太子殿下など、もはや間違いの社交界です」


 広場の一部から、かすかな笑いが漏れた。


 セーラ先輩が後方で肩を震わせている。


 神殿関係者は笑っていない。


 オルドも笑っていない。


 だが、空気が少しだけ変わった。


 完全な聖女と完全な悪女の場ではなくなった。


 間違える人間が二人、同じ壇上に座っている場になった。


 ミリア様は台本を見た。


 それから、エレオノーラ様を見た。


「私は」


 声が震えている。


「エレオノーラ様が、怖かったです」


 広場がざわつく。


 エレオノーラ様は動かない。


「そうでしょうね」


 短い返事だった。


 責めもしない。


 許しもしない。


 ミリア様は戸惑ったように瞬きをする。


「怒って、いないのですか」


「怒っていますわ」


 即答だった。


 広場がまた静まる。


 エレオノーラ様は背筋を伸ばしたまま言った。


「私は怒っています。あなたに対しても。王太子殿下に対しても。神殿に対しても。私を勝手な物語に押し込めたすべてに対して」


 ミリア様の目に涙が浮かんだ。


 今度は、誰にも指定されていない涙だ。


「ごめんなさい」


 小さな声。


 それは、謝罪として十分ではなかった。


 何に対しての謝罪かも、まだ曖昧だ。


 でも、台本の許しよりは、ずっと危うくて、ずっと本人に近かった。


 エレオノーラ様はすぐに「許します」とは言わなかった。


 代わりに、こう言った。


「その謝罪を、今ここで綺麗に終わらせるつもりはありません」


 ミリア様が息を止める。


「私の名誉は傷つきました。あなたの言葉や涙が、私を悪女にするために使われました。あなたが望んだことだけではないでしょう。けれど、あなたが何も感じなかったわけでもない」


 ミリア様は俯く。


 エレオノーラ様は少しだけ声を柔らかくした。


「だから、ここで簡単に許して終わりにしたら、また誰かの都合のよい物語になりますわ」


 私は、記録水晶に手を置いたまま、息を忘れていた。


 正しい。


 でも、痛い。


 優しい。


 でも、甘くない。


 たぶん、これが必要だった。


 ミリア様は、台本を膝の上に置いた。


 その動作だけで、神殿席がざわめいた。


「私は」


 彼女は言った。


「聖女候補と呼ばれるのが、嫌でした」


 少し間を置いて、続ける。


「でも、嬉しい時もありました」


 ざわめきが大きくなる。


 ミリア様は、もう止まらなかった。


 止まれなかったのかもしれない。


「孤児院にいた頃、私の名前を呼ぶ人は少なかったです。神殿に来て、聖女候補と呼ばれて、白い服を着せられて、皆が頭を下げてくれて……怖かったけれど、少し、安心しました」


 白い広場に、綺麗ではない言葉が落ちていく。


「必要とされていると思いました。私が祈れば、誰かが喜びました。私が泣けば、皆が優しくしてくれました。だから、言われる通りにしました。皆さまのために祈ります、と言いました」


 ミリア様は、台本に視線を落とす。


「本当は、皆さまが誰なのか、わかっていませんでした」


 誰かが息を飲んだ。


 私の胸が、きゅっと痛んだ。


 皆さま。


 広く、清らかで、誰も傷つけない言葉。


 けれど、広すぎる言葉は、ときどき誰にも届かない。


 ミリア様は両手を握りしめた。


「エレオノーラ様を傷つけたと思います」


 エレオノーラ様は頷いた。


「はい」


「孤児院の子たちにも、嘘をついたかもしれません。寄付が届いていると思っていました。でも、確認しませんでした。私は、知らないまま、ありがとうと言われていました」


 神殿席から、司祭の一人が立ち上がる。


「ミリア様、そのようなお話はこの場にふさわしくありません」


 オルドも動いた。


「大集会の趣旨から外れています」


 私は一歩前に出た。


 今度は、動く。


 代弁ではない。


 発言機会を守るためだ。


「王宮立会人として確認します」


 声が思ったより通った。


 胃は痛いが、声は出た。


「現在、聖女候補ミリア・セレス様は、自身の発言として話されています。発言中断を求める場合、その理由と権限を記録水晶へ明示してください」


 司祭が詰まった。


 オルドが私を見る。


「リディア様。これは信仰上の――」


「信仰上の理由であれば、その根拠となる神殿規定番号をお願いします」


 セーラ先輩が後ろで小さく呟いた。


「出た。規定番号攻撃」


 便利です。


 大抵の感情的圧力は、規定番号を求めると一度止まる。


 ただし、使いすぎると嫌われます。


 もうだいぶ嫌われているので誤差です。


 オルドの笑顔が薄くなった。


 その時、カイル様が私の隣に立った。


 何も言わない。


 ただ立った。


 神殿関係者の視線が、一斉に彼へ向く。


 北方辺境伯。


 沈黙の圧力。


 火種が出る。


【火種:辺境伯による神殿威圧】


【火種:王宮・公爵家・北方の連携疑惑】


【火種:神殿対世俗権力】


 はい、わかっています。


 でも、今だけはありがたい。


 私は小声で言った。


「睨まないでください」


「普通だ」


「王都基準では砦です」


「弱める」


 カイル様は少し目を伏せた。


 威圧感が、処刑台から取調室くらいになった。


 努力は確認しました。


 壇上で、ミリア様がエレオノーラ様を見た。


「私は、あなたが怖かったです」


「聞きましたわ」


「でも、たぶん……あなたが怖かったのではなくて」


 ミリア様は言葉を探す。


 誰も助けない。


 誰も続きを書かない。


 彼女は、自分で続きを探した。


「あなたの前では、私が聖女候補ではないことが、ばれそうで怖かったのだと思います」


 エレオノーラ様の扇が、膝の上で止まった。


 その表情は読めない。


 ミリア様は泣いていた。


 けれど、泣き方は美しく整っていない。


 声も震えている。


 鼻も少し赤い。


 絵姿の聖女候補なら、絶対に描かれない顔だった。


「私は、清らかではありません」


 その言葉に、広場が大きく揺れた。


 祈りの旗が風に鳴る。


 白い花びらが舞う。


 オルドが動きかける。


 私は記録水晶を握った。


 止めない。


 止めさせない。


 ミリア様は、台本を両手で持ち上げた。


 破るのかと思った。


 だが、彼女は破らなかった。


 ただ、膝の上に置いた。


「でも、祈ったこと全部が嘘だったとも言えません」


 その一言に、私は息を止めた。


 そうだ。


 そこだ。


 単純にしてはいけない。


 神殿が悪い。


 ミリア様はただの被害者。


 そう言えば楽だ。


 でも、それでは彼女の弱さも、少しの願いも、祈りの中に本当にあったかもしれない温度も消してしまう。


「孤児院のリナに、寒くないようにって祈りました。病気の子に、苦しくないようにって祈りました。井戸の水が濁った時、怖くて、でも本当に、綺麗になればいいと思いました」


 ミリア様はエレオノーラ様を見た。


「でも、その祈りが誰かを傷つける道具になっていることを、私は見ませんでした」


 エレオノーラ様は、長く黙った。


 広場全体が、その沈黙を聞いている。


 リディア・ノートンとしては、ここで何か補足したくなる。


 この沈黙は危険だ。


 切り抜かれる。


 悪意ある見出しになる。


 『公爵令嬢、聖女候補の謝罪を黙殺』


 見える。


 とても見える。


 火種も浮かぶ。


【火種:謝罪拒絶印象】


【火種:公爵令嬢冷酷説】


【火種:ミリア同情再燃】


 動くべきか。


 いや。


 待つべきか。


 私は手を握りしめた。


 今までの私は、沈黙を空白として怖がっていた。


 空白は、他人に勝手な物語を書かれる余地だから。


 でも、すべての沈黙を即座に埋めれば、人は自分の言葉を探せない。


 エレオノーラ様が、ようやく口を開いた。


「ミリア様」


「はい」


「私は、あなたを今日ここで許すとは言いません」


 ミリア様は小さく頷いた。


 今度は怯えていなかった。


 泣いてはいたけれど、受け止めていた。


「ですが」


 エレオノーラ様は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「あなたが今、台本を閉じたことは、記録されるべきです」


 私は記録水晶へ視線を落とした。


 淡い光が揺れている。


 記録されている。


 消えない。


 消させない。


「あなたが怖かったことも。必要とされたかったことも。祈りがすべて嘘ではなかったことも。私を傷つけたことも」


 エレオノーラ様は、少しだけ声を低くした。


「どれか一つだけを切り取れば、また誰かの物語になりますわ」


 私は胸の奥で、静かに頷いた。


 そう。


 それだ。


 人は一文ではない。


 見出しではない。


 清らかな聖女でも、冷たい悪役令嬢でもない。


 矛盾したまま、傷つけたり、傷ついたり、少しだけ救われたがったりする。


 だから、厄介で。


 だから、記録しなければいけない。


 民衆の中から、声が上がった。


「じゃあ、寄付金はどうなったんだ!」


 別の声。


「ミリア様は悪くないだろ!」


「でも知らなかったで済むのか!」


「神殿は説明しろ!」


 ざわめきが広がる。


 火が移る。


 だが、さっきとは違う。


 聖女候補を讃える熱ではない。


 悪役令嬢を責める熱でもない。


 問いが生まれている。


 危険だ。


 でも、必要な危険だった。


 私は呟いた。


「予定外発言です」


 セーラ先輩が横で聞き返す。


「燃料?」


 私は火種を見た。


 確かにある。


 火はある。


 でも、さっきまでと色が違う。


 誰かを焼くためだけの火ではない。


 暗い場所を照らす火にも、なりうる。


「……今回は、燃料ではなく水です」


 言ってから、少し考える。


「いえ、水というより、泥水です」


「泥水」


「綺麗ではありません。でも、乾いた場所には必要です」


 セーラ先輩は、変な顔をした。


「あなた、たまに詩人になるわね」


「疲労です」


 壇上では、エレオノーラ様が立ち上がった。


 ミリア様も、少し遅れて立つ。


 二人が並ぶ。


 悪役令嬢と聖女候補。


 そう呼ばれた二人。


 でも今は、その見出しが少しだけ狭く見えた。


 オルドが進み出る。


 その笑顔はもう、薄い。


「本日の発言については、神殿として後ほど正式な見解を――」


「必要ですわね」


 エレオノーラ様が言った。


「ええ。正式な見解を、ぜひ」


 その声は穏やかだった。


 穏やかすぎて怖い。


「ただし、全文記録が残っております。発言順も、沈黙も、誰が中断しようとしたかも」


 オルドの目が細くなる。


 私は即座に補足した。


「王宮記録水晶、公爵家記録水晶、第三者立会記録水晶の三系統で保全しています」


 セーラ先輩が小声で言う。


「三つ揃えると説得力が増すの、神殿から学んだわね」


「嫌な学習効果です」


 ミリア様は、そのやり取りを聞いて、少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 絵姿に描かれるような清らかな笑みではない。


 泣いた後の、困ったような、下手な笑み。


 そのほうが、ずっと本人らしい気がした。


 広場のざわめきは収まらない。


 むしろ、これから燃える。


 神殿は必ず動く。


 ミリア様を守るのではなく、切り離す方向へ。


 発言を無効化する。


 精神的に不安定だったと言う。


 神殿の正式見解ではないと言う。


 あのオルドなら、笑顔でそれをやる。


 私はもう見えていた。


【火種:ミリア異端化】


【火種:発言無効化】


【火種:神殿責任回避】


【火種:公爵家利用疑惑】


【火種:王宮介入批判】


【火種:寄付金問題再燃】


 ええ。


 燃えますね。


 知っています。


 私は記録水晶を抱え直した。


 胃が痛い。


 とても痛い。


 でも、今日の痛みは、少しだけ仕事らしい痛みだった。


 ミリア様が壇上から降りる時、足元がふらついた。


 エレオノーラ様が手を伸ばしかける。


 けれど、触れる直前で止めた。


 ミリア様は自分で一歩を踏みしめる。


 それから、ほんの少しだけ頭を下げた。


「ありがとうございます」


 エレオノーラ様は答えない。


 ただ、扇を開いた。


 その沈黙を、私は記録しなかった。


 全部を記録すればいいわけではない。


 人には、記録されない余白も必要だ。


 控えの間へ戻ると、カイル様が短く言った。


「燃えるな」


「燃えます」


「消すか」


「いえ」


 私は台本を見た。


 閉じられたままの台本。


 使われなかった涙。


 流れてしまった、本物に近い涙。


「まず、火元を見ます」


 カイル様は頷いた。


 エレオノーラ様は、白い布の向こうを見ている。


 ミリア様は、台本を両手で抱えたまま、椅子に座っていた。


 誰もすぐには話さなかった。


 沈黙があった。


 でも、それは空っぽではなかった。


 その沈黙の中で、神殿の鐘が鳴る。


 高く、澄んだ音。


 祈りの終わりを告げる鐘。


 けれど私には、別のものの始まりに聞こえた。


 神殿は、このままでは終わらせない。


 ミリア様の言葉を、必ず「なかったこと」にしようとする。


 私は記録水晶を見下ろした。


 そこには、たしかに残っている。


 怖かった。


 必要とされている気がしました。


 清らかではありません。


 祈りがすべて嘘だったとも言えません。


 美しくない言葉ほど、消されやすい。


 だから、消させてはいけない。


 私は息を吸った。


「神殿声明を確認します」


 セーラ先輩が顔をしかめる。


「もう出ると思う?」


「出ます。早いはずです」


 なぜなら、火消しより早いのが、火元の言い訳だから。


 その予想は、残念ながら当たった。


 大集会終了から半刻も経たないうちに、神殿から王宮へ第一報が届いた。


『聖女候補ミリア・セレスは、精神的疲労により一時的に発言内容の整理が困難な状態にあった』


『本日の壇上における一部発言は、神殿の正式見解ではなく、本人の心身不安定による混乱と見なす』


『神殿は、聖女候補の静養を最優先とし、外部からの接触を制限する』


 私は文面を最後まで読んだ。


 胃が、きゅっと縮む。


 火種が浮かぶ。


【火種:発言無効化】


【火種:本人隔離】


【火種:神殿責任回避】


【火種:ミリア再管理】


【火種:王宮・公爵家への接触遮断】


【火種:異端化準備】


 私は静かに紙を置いた。


 そして、赤ペンを取る。


「差し戻します」


 セーラ先輩が、疲れた顔で笑った。


「理由は?」


 私は赤字で一行目に書いた。


『本人の発言を、本人不在で無効化しないでください』


 それから顔を上げる。


「理由は、燃えるからです」


 少し考えて、付け加えた。


「それと」


 赤ペンを握る指に力を込める。


「人を、二度黙らせる文章だからです」


 白い神殿大集会は終わった。


 けれど、白い布の下で隠されていた火元は、ようやく見え始めたばかりだった。

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