聖女の涙を商品にしないでください
清らかさにも、段取りがあるらしい。
少なくとも、神殿の資料棚から持ち出された台本には、そう書いてあった。
『ここで一歩前へ出る』
『ここで民へ向けて微笑む』
『ここで公爵令嬢エレオノーラ・グランフェルトを許す旨を述べる』
『ここで涙』
『涙の後、三呼吸置く』
『ここで清らかに微笑む』
私はその最後の一文を見つめた。
清らかに。
微笑む。
指定が雑すぎる。
「清らかさの指定が雑です」
思わず呟くと、隣で資料を覗き込んでいたセーラ先輩が、紙束から顔を上げた。
「雑なのはそこ? 涙の位置まで指定されていることではなく?」
「もちろん全部ひどいです。ただ、清らかさを副詞で済ませる雑さに、広報資料としての怠慢を感じます」
「怒る場所が職業病ね」
「怒りは全方向にあります」
私は台本を机に置いた。
置いた、というより、置かなければ破りそうだった。
ここは王宮広報局ではない。
神殿大集会の会場裏にある、白布で仕切られた控えの間である。
王宮からの立会人として、私はここにいた。
名目は、聖女候補ミリア・セレス様の発言内容が、王宮、神殿、公爵家、そして民衆に与える影響の確認。
実態は、燃えそうなものを見つけた瞬間に水をかける係。
いつもの仕事である。
ただし、今日燃やされようとしているのは、書類ではない。
十八歳の少女の涙だった。
控えの間の外では、鐘が鳴っている。
高く、澄んだ音だ。
白い花びらが撒かれ、香油の匂いが空気に薄く混じっている。神殿の大広場には、王都中から人が集まっていた。
聖女候補ミリア様による、慈悲の祈り。
神殿はそう告知した。
王都の広場には、朝から白い布が張られ、祈りの旗が揺れている。露店では、ミリア様の絵姿入りの祈り札、香油、白いリボン、そして例の問題商品が売られていた。
『一滴で心清らかに』
心は香油で洗浄できない。
できたら広報局員の胃はもっと白く輝いている。
だが、売れている。
とても売れている。
人は、清らかな物語を欲しがる。
悪女がいて、傷ついた聖女がいて、その聖女が悪女を許す。
わかりやすい。
涙があれば、さらにわかりやすい。
そして、わかりやすい物語は売れる。
売れるものは、増やされる。
増やされたものは、やがて本人より大きくなる。
私はもう一度、台本を見た。
『ここで涙』
火種が浮かぶ。
【火種:聖女候補の商品化】
【火種:涙の演出化】
【火種:エレオノーラ再悪役化】
【火種:本人意思不明】
【火種:神殿権威拡大】
【火種:信仰と商売の混線】
そして、小さく遅れて、もう一つ。
【火種:王宮による介入印象】
私は眉間を押さえた。
どこを踏んでも鳴る床である。
しかも全部、爆発物付き。
「台本、どこから手に入れたの?」
セーラ先輩が小声で聞いた。
「神殿側の若い記録係が、写しを間違えて王宮立会人用の資料束に入れました」
「間違えたの?」
「目が合った時、震えていました」
「なるほど。間違えたのね」
「はい。大変ありがたい間違いです」
若い記録係は、たぶん今頃、胃を痛めている。
同業者として親近感が湧く。
ただし、この台本を手にしただけでは足りない。
これを突きつけて「神殿が演出していました」と叫べば、火は上がる。
神殿は「王宮が聖女候補の祈りを妨害した」と言うだろう。
オルド神殿広報官は、必ずそう言う。
民衆は、清らかな祈りを邪魔されたと思うかもしれない。
エレオノーラ様は再び、聖女候補を追い詰めた悪役令嬢にされる。
ミリア様本人は、台本からも神殿からも王宮からも、さらに遠くなる。
では、どうする。
台本を燃やすか。
いや、物理的な放火は職務規定上よろしくない。
心の中では三回ほど燃やした。
「リディア」
低い声がした。
振り向くと、控えの間の入口近くにカイル様が立っていた。
黒い軍装ではなく、今日は控えめな礼装だ。控えめと言っても、辺境の冬山が人型になったような威圧感は残っている。
神殿関係者が彼を避けて通るたび、白い布が微妙に揺れた。
「顔色が悪い」
「通常運転です」
「悪い通常は、悪い」
「正論を短く投げないでください。刺さります」
カイル様は台本に視線を落とした。
紙面に並ぶ指示を、一行ずつ読む。
長い文章が苦手な人なのに、今日は逃げない。
しばらくして、彼の指が止まった。
『混乱を避けるため、聖女候補ミリア・セレスは公爵令嬢を許す姿勢を示す』
その一文。
カイル様の手袋の縫い目が、きしむほど押し込まれた。
彼は何も言わなかった。
何も言わないまま、紙から手を離した。
私は、その沈黙の意味を聞かなかった。
聞けば、今この場で別の火が開く気がした。
その時、白布の向こうから柔らかな声が届いた。
「皆様、お揃いで」
オルド神殿広報官だった。
今日も彼は、よく磨かれた笑顔をしている。
髪は整い、白い神殿服には皺ひとつない。襟元の銀糸が光を拾って、彼の笑みをさらに清潔に見せていた。
清潔な顔で、人を道具にできる人間は厄介だ。
「リディア・ノートン様。台本をご覧になりましたか」
隠す気がない。
むしろ、見せた上で問題ないと思っている顔だった。
「拝見しました」
「でしたらご安心ください。本日の流れは、すべて整っております」
「整いすぎています」
「混乱を避けるためです」
カイル様の横顔が、わずかに固まった。
ほんの一瞬。
普通なら見逃すくらいの変化。
けれど、私は見た。
そして、見なかったことにできなかった。
オルドは続ける。
「民は不安を抱いています。公爵令嬢と聖女候補の対立。王宮の介入。王太子殿下の発言。神殿への疑念。今、必要なのは、対立ではなく和解の物語です」
「物語」
私は繰り返した。
「はい」
オルドは微笑む。
「民には信じる物語が必要です」
第26話で聞いた言葉だ。
ベルク宰相補佐と同じ匂いがする。
嘘とは言わない。
演出とも言わない。
物語。
その言葉に包むと、誰かの涙も祈りも沈黙も、少しだけ綺麗なものに見える。
「ミリア様ご本人の意思は確認されていますか」
「もちろんです。ミリア様は民のために祈ることを望んでおられます」
「台本通りに?」
「台本は、迷わずに済むための道標です」
「涙の位置まで指定されています」
「ミリア様はお優しい方です。自然に涙されるでしょう」
「自然に涙が出る予定表を作るのは、不自然です」
オルドの笑みは崩れない。
この人の笑顔は、まるで頑丈な扉だ。
叩いても音がしない。
「美しい涙は信仰を強めます」
その瞬間、白布の向こうから扇を閉じる音がした。
ぱちん、と硬く。
エレオノーラ様が立っていた。
淡い灰紫のドレス。白の多い会場の中で、その色は静かな影のように見えた。
悪役令嬢と呼ばれた人は、今日も美しかった。
ただ、笑みだけが少し冷たい。
「醜い本音はお嫌い?」
オルドは一礼した。
「グランフェルト公爵令嬢。本日はご臨席いただき、感謝いたします」
「私が参りましたのは、見世物になるためではありませんわ」
「もちろんです。今日の主役はミリア様です」
「主役にしては、本人の台詞が少なすぎますわね」
エレオノーラ様の言葉は鋭い。
けれど、彼女は怒鳴らない。
怒鳴らないぶん、余計に怖い。
オルドは困ったように眉を下げた。
「彼女はまだ若く、繊細です。大勢の前では、何を話せばよいかわからなくなることもあるでしょう。だからこそ、神殿が支えるのです」
「支える手と、口を塞ぐ手は似ていますのね」
沈黙が落ちた。
オルドは一瞬だけ、目を細めた。
本当に一瞬だ。
次にはもう、柔らかな笑顔に戻っていた。
「誤解です」
「便利なお言葉」
エレオノーラ様は微笑んだ。
「誤解、配慮、混乱防止、物語。並べれば大抵の鎖は絹紐に見えますもの」
私は胸の中で、静かに拍手した。
声に出すと燃えるので、心の中で。
その時、控えの間の奥から小さな物音がした。
ミリア様だった。
白い衣装を着せられている。
白、白、白。
髪には薄いヴェール。胸元には神殿の銀飾り。袖は祈る時に美しく見えるよう、軽く広がっていた。
絵姿の中の聖女候補と、よく似ていた。
似すぎていた。
本人より、絵姿に近づけられている。
ミリア様は私たちを見て、すぐに視線を落とした。
手には台本が握られている。
端が少し潰れていた。
強く握っていたのだろう。
「ミリア様」
私が声をかけると、彼女の肩が揺れた。
「はい」
返事は小さい。
オルドがすぐに横へ立つ。
「ご心配なく。ミリア様は準備できております」
私はオルドを見た。
「私は、ミリア様に聞いています」
言った瞬間、火種が浮かんだ。
【火種:神殿権威への反発】
【火種:王宮による聖女候補囲い込み】
【火種:発言強要印象】
はいはい、こんにちは。
今日も元気ですね、火種たち。
胃が痛い。
でも、ここで引けば、彼女の声はまた誰かの声に置き換えられる。
私はミリア様へ向き直った。
「ミリア様。今日の大集会で話す内容について、確認させてください」
ミリア様は台本を握ったまま頷いた。
「皆さまのために、祈ります」
定型句。
白く、薄く、何度も磨かれて、本人の温度が消えた言葉。
「それは、台本の言葉ですか」
ミリア様の唇が震えた。
オルドが静かに言う。
「リディア様。その問い方は、ミリア様を追い詰めます」
正しい。
正しいから、腹が立つ。
私は一度、息を吸った。
前回、私はミリア様に「あなたは何が嫌でしたか」と聞いた。
あれは正しい質問だった。
でも、正しい質問は、答える準備のない人にとっては刃物になる。
今の私の言葉も、そうかもしれない。
台本を奪って、「さあ自由に話してください」と言うこと。
それは本当に自由なのか。
別の命令ではないのか。
沈黙していい。
そう言うことすら、彼女には「沈黙しなければいけない」に聞こえるかもしれない。
喉の奥が詰まった。
時間がない。
それでも、雑に救ってはいけない。
「ミリア様」
私は声を落とした。
「台本通りに話しても、構いません」
ミリア様が目を上げた。
オルドも、エレオノーラ様も、カイル様も、私を見た。
たぶん全員、予想外だったのだろう。
私自身も少し予想外だった。
「ただし、台本通りに話すなら、それが台本であることを、あなた自身が知っていてください」
ミリア様の指が、紙の端を擦った。
「台本は悪ではありません。人前で話す時、言葉を助けるものでもあります。私も何度も書きます。想定問答、声明案、訂正文、謝罪文。書類にしなければ、言葉は迷子になります」
オルドが微笑んだ。
「でしたら――」
「でも」
私は遮った。
「台本が、その人の代わりに生き始めたら、それは助けではありません」
オルドの笑みが少し薄くなる。
「リディア様。抽象的なお話は、今は――」
「具体的に言います」
私は台本を開いた。
『ここで涙』
その一文を指で示す。
「ここにある涙は、ミリア様のものですか」
ミリア様は答えない。
「それとも、神殿のものですか」
白布の向こうから、歓声が聞こえた。
集会の開始が近い。
外の群衆は、聖女候補を待っている。
清らかな涙を待っている。
許しの物語を待っている。
誰も、控えの間で少女が台本を握り潰していることなど知らない。
私はさらに言った。
「話したくないなら、沈黙していいんです」
ミリア様の睫毛が震えた。
言った後で、胸が冷えた。
違う。
違うかもしれない。
それもまた、私の命令かもしれない。
沈黙していい。
話していい。
泣いていい。
泣かなくていい。
どの言葉も、上から差し出せば鎖になる。
私は唇を噛んだ。
「……すみません。今の言い方も、押しつけでした」
ミリア様が、ほんの少しだけ目を見開いた。
オルドの眉が動く。
私は続けた。
「私は、あなたの代わりに正解を決めたいわけではありません。ですが、今ここで、あなたが何かを選ぶ時間も奪われている」
大広場の鐘が、また鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
白布の向こうで、司祭の声が響く。
「これより、聖女候補ミリア・セレス様による慈悲の祈りを執り行います」
もう始まる。
時間がない。
リディア・ノートン、危機声明管理室所属。
炎上対応係。
通常なら、ここで最適解を出す。
燃えにくい言葉を選び、火種を分類し、関係者全員が最低限の面子を保てる落としどころを探る。
でも、今日の中心にいる人は、火種ではない。
少女だ。
聖女候補という名前の、少女だ。
「ミリア様」
私は台本を閉じた。
「台本を持って壇上に上がってください」
ミリア様の手が止まった。
「持って……?」
「はい」
「閉じなくて、いいのですか」
「閉じるかどうかは、壇上で決めてください」
オルドが初めて、少し強い声を出した。
「リディア様。それは危険です」
「危険です」
私は認めた。
「ですが、台本をこの場で奪えば、私がミリア様の選択を奪います」
オルドの目が冷える。
「王宮広報局は、神殿の進行を妨げるおつもりですか」
「いいえ。王宮広報局は、聖女候補ご本人の発言機会を確認します」
「言葉遊びですね」
「広報官の仕事ですので」
セーラ先輩が後ろで小さく吹き出した。
すぐ咳払いでごまかしていた。
ありがとう先輩。今は笑う場所ではありません。
でも助かります。
エレオノーラ様がミリア様へ近づいた。
足音が静かだった。
「ミリア様」
ミリア様は顔を上げる。
エレオノーラ様は、責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ見た。
「私は、あなたを許すための背景になりに来たわけではありません」
ミリア様の肩が震えた。
「……はい」
「ですが、あなたを責めるためだけに来たわけでもありません」
ミリア様は、何も言わなかった。
エレオノーラ様はそれ以上、踏み込まなかった。
美しい言葉で抱きしめることも、正しい言葉で追い詰めることもしなかった。
ただ、一歩引いた。
その余白が、今のミリア様には必要なのだと思った。
カイル様が、短く言う。
「行けるか」
ミリア様は、カイル様を見た。
北方の熊に似た辺境伯を。
いや、熊ではない。
たぶん。
ミリア様は少しだけ、困ったような顔をした。
「……怖いです」
カイル様は頷いた。
「そうか」
それだけだった。
励まさない。
否定しない。
怖くないとは言わない。
それは不器用で、短くて、でも嘘がなかった。
ミリア様は、台本を胸に抱いた。
「私は」
声が細い。
「私は、何を話せばいいのか、わかりません」
オルドがすぐに口を開きかける。
私は手を上げて止めた。
ミリア様は続けた。
「でも、何を話せば褒められるのかは、わかります」
控えの間が静まり返った。
その言葉は、清らかではなかった。
美談にもならない。
けれど、私はそれを聞いて、息を止めた。
台本のどこにもない言葉だった。
ミリア様は視線を落とす。
「それが、怖いです」
オルドの表情が消えた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
次にはもう、彼は笑っていた。
「ミリア様は緊張しておられます。大勢の前では、予定通り進めるのが――」
「予定」
エレオノーラ様が言った。
「今日一番、醜い言葉ですわね」
鐘が三度目を告げた。
司祭の声が響く。
「聖女候補ミリア・セレス様」
呼ばれている。
白い布の向こうで、群衆がざわめく。
ミリア様は台本を持ったまま、出口へ向かった。
足取りは頼りない。
でも、誰かに引かれてはいない。
一歩。
もう一歩。
私はその背を見ていた。
助けたい。
止めたい。
守りたい。
でも、今ここで腕を掴めば、それもまた別の支配だ。
ミリア様が白布の前で立ち止まる。
振り向いた。
その目は、泣きそうだった。
けれど、涙はまだ落ちていない。
台本には、『ここで涙』と書かれている。
まだ、その位置ではない。
私は小さく頭を下げた。
行ってください、とは言わなかった。
頑張ってください、とも言わなかった。
あなたの言葉で、とも言えなかった。
どれも、少しだけ重すぎる。
だから私は、ただ言った。
「記録します」
ミリア様は、ほんの少しだけ頷いた。
白布が開く。
光が差し込む。
大広場の歓声が、波のように押し寄せた。
ミリア様は壇上へ上がる。
神殿の白い花びらが舞う。
祈りの鐘が鳴る。
オルドが満足げに微笑む。
エレオノーラ様は、扇を握りしめている。
カイル様は無言で立っている。
私は記録水晶の起動を確認した。
壇上で、ミリア様が台本を開く。
白い指が、紙面をなぞる。
最初の一文。
『皆さまのために祈ります』
何度も聞いた言葉。
何度も磨かれた言葉。
ミリア様の唇が動く。
「皆さまのために――」
そこで、止まった。
広場が静かになる。
ミリア様は台本を見ていた。
長い沈黙だった。
私の視界に火種が浮かぶ。
【火種:進行停止】
【火種:聖女候補動揺】
【火種:神殿管理不備】
【火種:王宮介入疑惑】
【火種:民衆不安拡大】
喉が乾く。
今なら、まだ助け舟を出せる。
王宮立会人として、説明できる。
体調不良。
緊張。
祈りの前の沈黙。
いくらでも言い換えられる。
私は一歩、前に出かけた。
その時、カイル様の手が私の袖を軽く押さえた。
止めるほど強くない。
気づかせるだけの力だった。
私は動きを止めた。
ミリア様が、ゆっくりと顔を上げる。
台本を持つ指が震えている。
そして。
彼女は、台本を閉じた。
ぱたり、と小さな音がした。
広場全体には届かなかっただろう。
けれど、私には聞こえた。
何かが燃え尽きる音ではない。
何かが、初めて息をした音だった。
私は記録水晶を見た。
赤い警告は出ていない。
ただ、小さな火種だけが浮かんでいた。
【火種:予定外発言】
私は、胸の奥で呟いた。
予定外で結構。
今日は、それを記録するために来たのだから。




