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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
聖女ブームと神殿の広告塔

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26/100

神殿広報官、笑顔で嘘をつく

 数字は、祈らない。


 契約書は、泣かない。


 帳簿は、清らかな微笑みを浮かべない。


 だから私は、数字と契約書と帳簿が好きだ。


 少なくとも、彼らは「皆さまのために」と言いながら誰かの口を塞いだりしない。


「……つまり、孤児院への寄付金は、ミリア様から直接渡されたものではなく、神殿を経由していた」


 王宮広報局、危機声明管理室。


 通称、炎上対応係。


 その机の上には、今朝からずっと、神殿関連の資料が積み上がっていた。


 寄付契約書。


 神殿布告。


 孤児院への支援報告。


 王都瓦版の美談記事。


 聖女候補ミリア・セレス様の絵姿つき広告。


 そして、私の胃薬。


 最後の一つだけは、私物である。


「さらに、発表上は『孤児院の冬支度のため』となっていた支援金の一部が、神殿の広報費へ振り替えられている可能性があります」


 私がそう言うと、向かいの席で先輩が乾いた笑いを漏らした。


「冬支度って、もしかしてミリア様の白い外套のこと?」


「孤児院の子どもたちが外套を着られていないので、違うと思いたいです」


「思いたい、かあ」


「断定できる資料がない段階で断定すると燃えます」


「リディアちゃん、燃える燃えない以前に、そろそろ目が死んでる」


「数字を見ている時の目はだいたい死にます」


 嘘である。


 数字だけなら、まだ生きていられる。


 問題は、数字の横に、美しい言葉が並んでいる時だ。


『聖女候補ミリア様、祈りとともに孤児院へ温かな支援を』


『幼き子らの笑顔は、神殿の慈愛の証』


『皆さまの善意が、聖女候補の祈りを通じて届きます』


 届いていない。


 少なくとも、第七孤児院の食卓には、届いていなかった。


 届いていたのは、薄いスープと、硬いパンと、「ミリア様は優しい」という子どもたちの信頼だけだ。


 それが、いちばん厄介だった。


 神殿の美談は、全部が嘘ではない。


 ミリア様は本当に孤児院を気にかけていた。


 子どもたちは本当に彼女を慕っていた。


 彼女が訪ねた日、リナという少女は、宝物みたいに古い白いリボンを見せてくれた。


『ミリア様が、結んでくれたの』


 その時のリナの顔を思い出すと、私は赤字を入れる手が鈍る。


 全部を嘘だと言えば、リナの笑顔まで嘘にしてしまう。


 けれど、美談の裏でお金が止まっていたなら、それもまた消してはいけない。


 炎上対応係の仕事は、火を消すことだ。


 でも、火を消すために灰の下の骨をなかったことにはできない。


「……胃が痛い」


「いつも通りだね」


「平常運転を胃痛で測る職場、改善が必要です」


 私が胃薬に手を伸ばしたところで、扉が叩かれた。


 ノックは三回。


 丁寧で、間隔が正確すぎる。


 嫌な予感がした。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、白と金の神殿服をまとった男だった。


 年齢は三十前後だろうか。


 淡い金髪を後ろで整え、穏やかな灰色の目をしている。


 笑みは柔らかい。


 所作は静か。


 声は聞き取りやすい。


 そして、全体的に腹が立つほど完成度が高い。


「神殿広報官、オルド・レイヴンと申します」


 男は美しく一礼した。


 部屋の空気が、すっと冷える。


 炎上対応係は、王族の失言にも、貴族の圧にも、新聞社の挑発にも慣れている。


 それでも、神殿の広報官という肩書きは少し特殊だ。


 王宮の言葉には権力が乗る。


 新聞の言葉には拡散力が乗る。


 そして、神殿の言葉には信仰が乗る。


 この三つの中で、訂正がいちばん面倒なのは、たぶん信仰だ。


 なぜなら、信じたい人は、訂正を攻撃だと思うから。


「リディア・ノートン様ですね」


「はい」


「聖女候補ミリア・セレス様に関する照会文を拝見しました」


 オルドは微笑んだまま、私の机へ視線を落とした。


 資料の束。


 赤字。


 帳簿の写し。


 孤児院の聞き取りメモ。


 そして胃薬。


 一瞬だけ、彼の目が胃薬で止まった気がした。


 見ないでください。


 これは王宮機密ではありませんが、職場の生命線です。


「ずいぶん熱心にお調べのようで」


「確認が必要な点が多かったものですから」


「神殿としても、王宮のご懸念には誠実に対応したいと考えております」


 誠実。


 便利な言葉だ。


 言っているだけなら、無料で使える。


「では、ミリア様ご本人への再面会を許可していただけますか」


 オルドの笑みは変わらなかった。


 けれど、空気の温度がほんの少し下がった。


「ミリア様は現在、心身の静養を必要としております」


「昨日、直接お会いした時点では、ご本人は会話可能な状態でした」


「会話が可能であることと、心が安定していることは同義ではありません」


「それはそうですね。では、心身の静養を必要とするという判断は、どなたが?」


「神殿医です」


「診断記録は?」


「信仰上の守秘がございます」


「本人意思の確認は?」


「ミリア様は、皆さまのために祈ることを望んでおられます」


 出た。


 皆さま。


 便利で、広くて、誰の顔も見えない言葉。


 私は筆を置いた。


「オルド様。私は、ミリア様が“皆さま”のために祈るお気持ちを否定しているわけではありません」


「ええ、承知しております」


「私が確認したいのは、その“皆さま”の中に、ミリア様ご本人が含まれているかどうかです」


 先輩が小さく息を呑んだ。


 オルドは微笑んだ。


 とても綺麗に。


「ご本人の幸福は、神殿が最も大切にしております」


「それを、ご本人の言葉で確認したいのです」


「リディア様」


 彼は、まるで聞き分けのない子どもを諭すように、少しだけ声を柔らかくした。


「民には、信じる物語が必要です」


 その瞬間、私は胃薬を飲んでいないことを後悔した。


 胃が、きゅっと縮んだ。


 物語。


 ベルク・アインハルト宰相補佐も、似たような言葉を使った。


『物語の修正がお上手だ』


 あの時も、冷たかった。


 でも、この男の言葉は違う冷たさだった。


 ベルクの言葉は、氷の刃みたいだった。


 オルドの言葉は、白い布だった。


 柔らかくて、清潔で、息ができなくなる。


「物語、ですか」


「はい。人々は、ただ事実を渡されても迷います。苦しみの意味を見いだせない。けれど、祈りがあれば耐えられる。聖女候補という存在は、そのためにあります」


「ミリア様ご本人は、そのために存在しているのですか」


「ミリア様は選ばれた方です」


「選ばれたら、自分の言葉を失ってもいいのですか」


 少し、声が硬くなった。


 いけない。


 怒るな。


 ここで怒鳴れば、相手に見出しを渡す。


『王宮広報官、神殿広報官を威圧』


『聖女候補保護をめぐり王宮が圧力』


『信仰への干渉か』


 視界の端に火種が揺れる。


【火種:王宮による神殿干渉印象】


【火種:聖女候補保護妨害】


【火種:公爵家・王宮連携による圧力疑惑】


【火種:信仰対王権】


 はい、見えています。


 見えていますとも。


 見えているから胃が痛いんです。


 オルドは私の沈黙をどう受け取ったのか、さらに穏やかに続けた。


「ミリア様の涙は、多くの民の心を慰めました」


「涙を慰めの道具にするおつもりですか」


「道具とは申しません。象徴です」


「同じ棚に置かないでください」


「リディア様は、言葉にとても厳格でいらっしゃる」


「職業病です」


「美しい涙は、信仰を強めます」


 その言葉で、部屋の空気が変わった。


 先輩が口を閉じる。


 広報局員たちが視線を落とす。


 私の手は、机の下で拳になっていた。


 美しい涙。


 誰かの涙を、そんなふうに言う人間を、私は何度も見てきた。


 前世でも。


 被害者説明会の後、上司が言った。


『泣いてくれた方が、誠意は伝わるんだけどね』


 その時、私は何も言えなかった。


 言わなかった。


 代わりに、無難な議事録を書いた。


 今ならわかる。


 あれは、最低だった。


 私は息を吸った。


 怒鳴るな。


 怒鳴らずに刺せ。


 言葉で。


「オルド様」


「はい」


「涙は、信仰強化素材ではありません」


 先輩が横で小さく「素材」と呟いた。


 そこ、拾わなくていいです。


 オルドは笑みを深めた。


「例えとしては、少々刺激的ですね」


「刺激的なのは、泣く位置まで指定した台本の方です」


 彼の目が、初めてほんの少しだけ動いた。


 本当に一瞬だった。


 けれど、見逃すほど私は素直ではない。


「台本、ですか」


「神殿大集会用の発言案です。表情、沈黙、涙の位置まで指定されていました」


「聖女候補が民の前に立つ以上、混乱を避けるための準備は必要です」


「混乱を避けるために、本人の感情まで配置するのですか」


「感情にも、導きが必要な時があります」


 導き。


 また便利な言葉が出た。


 案内にもなる。


 支配にもなる。


 本人が同意していれば前者。


 本人が言えないなら後者だ。


 私はそう言いたかった。


 だが、その時、背後から涼やかな声がした。


「醜い本音はお嫌い?」


 エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢が、いつの間にか扉の近くに立っていた。


 今日も美しい。


 背筋は伸び、扇は優雅に開かれている。


 だが、目だけは笑っていなかった。


 彼女の隣には、カイル・ヴァレンシュタイン辺境伯がいる。


 黒い外套。


 無表情。


 王宮の廊下に雪山が立っているような圧。


 孤児院の子どもが「雪山の熊?」と聞いたのも、少しだけわかる。


 口には出さない。


 燃えるから。


「グランフェルト公爵令嬢」


 オルドは丁寧に礼をした。


「先日の会見、拝見いたしました。実に堂々たるお姿で」


「あら。悪役令嬢らしかったかしら」


「ご自身を卑下なさらないでください。民には、さまざまな受け取り方がございます」


「便利な言い方ですこと」


 エレオノーラは微笑む。


「民が勝手に受け取った。神殿はそう言えば済みますものね」


 オルドの笑みは崩れない。


「我々は民の信仰に寄り添っているだけです」


「寄り添うにしては、ずいぶん先回りして台本を書かれますのね」


 扇が、ぱちりと小さく鳴った。


 オルドは静かに言った。


「グランフェルト公爵令嬢。あなたの怒りもまた、民には強く映ります。聖女候補を怯えさせる姿として、誤解されることもありましょう」


 火種が見えた。


【火種:エレオノーラ威圧印象再燃】


【火種:悪役令嬢像固定】


【火種:聖女候補被害者化】


 私は一歩出ようとした。


 けれど、エレオノーラが私を見ずに、扇を少しだけ傾けた。


 来るな。


 そう言われた気がした。


「ご心配ありがとう」


 エレオノーラは笑った。


「ですが、私はすでに悪役令嬢だそうですから。多少の誤解は衣装の一部ですわ」


 先輩が小声で「衣装扱い」と呟く。


 やめてください、先輩。


 今、笑うと負けます。


 オルドは首を横に振った。


「誤解を重ねることは、あなたのためにもなりません」


「私のため?」


「はい。あなたが怒りを見せれば、民は怯えます。あなたが沈黙すれば、民は想像します。あなたが反論すれば、争いは深まる。だからこそ、物語には秩序が必要なのです」


 美しい言葉だった。


 整っている。


 無駄がない。


 そして、最悪だった。


 怒るな。


 黙れ。


 反論するな。


 そう言っているのと同じなのに、表面だけが上品だ。


 エレオノーラは微笑んでいた。


 けれど、扇の骨が一本、かすかに軋んだ。


 その音が、妙に耳に残った。


 私は、彼女が今どんな顔をしているのか見ようとして、やめた。


 見るべきではない気がした。


 見たら、私はきっと怒りを抑えられない。


 カイルが一歩、前に出た。


 部屋の温度がさらに下がる。


 オルドは、そこで初めてカイルへ視線を向けた。


「ヴァレンシュタイン辺境伯」


「……」


「辺境伯閣下も、本件に強い関心をお持ちのようですね」


「孤児院の金が消えた」


 短い。


 重い。


 カイルの言葉に、オルドは眉一つ動かさない。


「消えたのではありません。適切な運用の過程で、一時的に保留されているものもございます」


「子どもは腹を空かせていた」


「支援には段階があります」


「冬は待たない」


 それだけ言って、カイルは口を閉じた。


 私は少し驚いた。


 いつもの彼なら、ここで「不誠実だ」くらいは言う。


 あるいは「斬る」方向へ飛ぶ。


 飛ばないでほしい。


 主に炎上対応係の胃のために。


 だが、彼は黙っていた。


 黙って、手袋の縫い目を親指で押さえている。


 一度。


 二度。


 強く。


 私はその動きを見た。


 何かを堪えているように見えた。


 でも、何を、とまではわからない。


 オルドは穏やかに言う。


「辺境伯閣下は、率直でいらっしゃる」


「遠回しに言うと、遅れる」


「言葉には、時に距離が必要です」


「その距離で死ぬ者がいる」


 部屋が静まり返った。


 私はカイルを見た。


 彼はもう何も言わなかった。


 ただ、灰色の目が、机の上の契約書ではなく、どこか遠いものを見ていた。


 オルドも一瞬だけ黙った。


 だが、すぐに微笑みを戻す。


「だからこそ、我々は民に混乱を与えない言葉を選ぶのです」


 違う。


 今、違うことがあった。


 言葉の流れでは拾える。


 でも、感情までは拾えない。


 私は、それを説明しそうになって、やめた。


 カイルがなぜその言葉を言ったのか。


 私はまだ知らない。


 知らないものを、私の中で勝手に説明してはいけない。


 火種感知は、真実を教えてくれる力ではない。


 まして、人の心を読む力ではない。


 ただ、危険な燃え方を知らせるだけだ。


 私は息を整えた。


「オルド様。王宮としては、ミリア様ご本人の自由意思による発言機会の確保を求めます」


「大集会では、ミリア様ご本人が民へお言葉を届けます」


「台本ではなく、本人の言葉で」


「台本は支えです」


「支えが喉を塞いでいないか確認したいのです」


 オルドの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


「リディア様は、聖女候補という役割を軽んじていらっしゃる」


「役割のために人を消すことを重んじていないだけです」


「民は、ただの少女を求めているのではありません」


「ミリア様は、ただの少女です」


 言ってから、しまったと思った。


 強すぎた。


 いや、正しい。


 でも、今の言い方は燃える。


 視界に火種が浮かぶ。


【火種:聖女候補の権威否定】


【火種:王宮による信仰軽視】


【火種:神殿支持層反発】


 くっ。


 私の口。


 もう少し危機管理意識を持ってください。


 オルドは微笑んだ。


「そのお言葉、民が聞けば悲しむでしょう」


「今のは不適切でした」


 私はすぐに言った。


 部屋の全員が、少し驚いた顔をした。


 オルドだけは表情を変えない。


 私は続ける。


「訂正します。ミリア様は聖女候補という役割を担っておられます。しかし、その前に、本人の意思と感情を持つ一人の方です。王宮として確認したいのは、その本人の意思です」


 言い直した。


 燃えないように。


 でも、逃げないように。


 完璧ではない。


 さっきの言葉は、たぶんオルドに利用される。


 けれど、間違えた時に訂正するしかない。


 オルドは穏やかに頷いた。


「訂正の早い方ですね」


「仕事柄」


「ですが、訂正できる言葉ばかりではありません」


「だから最初から慎重に扱います」


「それでも、人は傷つきます」


「はい」


 私は、オルドを見返した。


「だから、傷ついた人の言葉も聞きます」


 沈黙。


 ほんの短い沈黙だった。


 だが、私はその沈黙に、少しだけ違和感を覚えた。


 オルドは笑っている。


 けれど、目が一瞬だけ笑わなかった。


 その理由はわからない。


 わからないまま、残した。


 オルドは軽く礼をした。


「三日後の大集会には、王宮関係者の席もご用意いたします」


「ありがとうございます」


「ただし、ミリア様への過度な接触はお控えください。彼女の心を守るためです」


 守る。


 また白い布の言葉だ。


「承知しました。では、接触の定義を文書で確認させてください」


「……定義、ですか」


「はい。挨拶、視線、発言促し、台本確認、衣装調整、涙のタイミング指定。どこまでが保護で、どこからが干渉か、相互確認が必要です」


 先輩が小声で言った。


「リディアちゃんが一番怖い時のやつだ」


 聞こえています。


 オルドは、少しだけ目を細めた。


「王宮広報局は、細やかなのですね」


「炎上は細部から火が出ますので」


「では、後ほど文書で」


「お待ちしております」


 オルドは最後に、エレオノーラとカイルにも礼をした。


「皆さまに、祈りがありますように」


 美しい退室だった。


 背筋、歩幅、扉の閉め方。


 どれも整っている。


 扉が閉まった瞬間、先輩が机に突っ伏した。


「うわあ」


「語彙が死んでますよ、先輩」


「いや、だって、うわあ、でしょ。あれは」


「否定できません」


 私は椅子に座り直した。


 胃が痛い。


 でも、今は胃薬より先に記録だ。


 私はメモを取る。


 オルド発言。


『民には、信じる物語が必要です』


『美しい涙は、信仰を強めます』


『感情にも、導きが必要な時があります』


『訂正できる言葉ばかりではありません』


 並べると、ぞっとするほど綺麗だった。


 綺麗な言葉は、時々、刃物より扱いにくい。


 汚れていない分、切られた方が悪いように見える。


「リディア」


 エレオノーラが私の名を呼んだ。


「はい」


「あなた、途中で一度、怒鳴りそうになりましたわね」


「……なりました」


「怒鳴ってもよかったのに」


 私は顔を上げた。


 エレオノーラは、いつも通り微笑んでいた。


 美しく、余裕があるように見える。


 でも、扇の骨が一本、少し曲がっていた。


 いつ曲がったのか、私は見ていない。


「怒鳴ったら燃えます」


「ええ」


「敵の見出しになります」


「ええ」


「ミリア様を守れなくなります」


「ええ」


「……でも、怒鳴りたかったです」


 エレオノーラは、少しだけ目を伏せた。


「それでよろしいのではなくて?」


「よろしいんですか」


「怒りがない言葉は、時々、薄いですわ」


 私は返事ができなかった。


 怒りは危険だ。


 でも、怒りがなければ見えないものがある。


 それはわかる。


 わかるけれど、怒りは簡単に誰かの見出しになる。


 私は火消しだ。


 火を増やしてはいけない。


 でも、火を恐れすぎて、熱まで消してしまったら。


 それは何になるのだろう。


「リディア」


 今度はカイルが呼んだ。


「はい」


「三日後、俺も行く」


「神殿大集会に、ですか」


「ああ」


「……取材対応が発生します」


「知っている」


「神殿関係者とも接触します」


「知っている」


「短すぎる発言は、また他人に続きを書かれます」


「確認中だ。決めつけるな」


 私は瞬いた。


 カイルは真顔だった。


 本気で言っている。


 以前、私が教えた言葉だ。


「覚えていらしたんですね」


「使える」


「はい。使えます」


 少しだけ、胸の奥が温かくなった。


 この人は、言葉を信用していない。


 それでも、必要なら使おうとしている。


 たぶん、それは小さな変化だ。


 火種感知には見えない種類の変化。


 見えないからこそ、私は大事にしたいと思った。


「ただし、辺境伯様」


「何だ」


「神殿内で『斬る』は禁止です」


「言っていない」


「顔が言う場合があります」


「顔にも訂正文が必要か」


「必要です」


 先輩が横で吹き出した。


 エレオノーラも扇の陰で笑った。


 カイルだけが、真剣に頷いた。


「わかった」


「わかったんですか」


「顔を訂正する」


「できるんですか」


「努力する」


 その努力がどこへ向かうのか不安だが、今は受け取っておこう。


 私は大集会用の対応案を書き始めた。


 王宮関係者の立ち位置。


 記録水晶の配置。


 ミリア様への直接接触の制限。


 神殿側台本の確認要求。


 公爵家に関する質問が出た場合の対応。


 エレオノーラ様の安全確保。


 辺境伯様の顔面訂正。


 最後の項目は書きかけて消した。


 公文書にしてはいけない。


 だが、問題は山ほどある。


 神殿はミリア様を美談として使うつもりだ。


 王宮が止めれば、信仰への干渉になる。


 エレオノーラ様が動けば、悪役令嬢の圧力になる。


 カイル様が睨めば、辺境伯の威圧になる。


 私が説明しすぎれば、王宮の情報統制になる。


 何をしても燃える。


 何もしなくても燃える。


 炎上対応係としては最悪の盤面だ。


 でも、ミリア様の言葉は、あの白い台本の中にはない。


 それだけは、わかる。


「リディア様」


 若い記録係が、扉の外から顔を出した。


「神殿大集会の進行案、写しが届きました」


「ありがとうございます」


 私は受け取った。


 封を開く。


 白い紙。


 金の縁取り。


 香まで焚きしめてある。


 公文書に香りをつけないでください。


 保存時に他の文書へ移ります。


 中身を読み、私は無言になった。


 進行案は完璧だった。


 祈り。


 沈黙。


 涙。


 許し。


 民衆への感謝。


 神殿への導き。


 そして、最後にこうある。


『聖女候補ミリア・セレスは、エレオノーラ・グランフェルト嬢を責めることなく、すべてを祈りに昇華する』


 祈りに昇華。


 便利な言葉だ。


 怒りも、恐怖も、疑問も、全部上へ飛ばして、地上から消す。


 私は赤筆を取った。


 書き込みかけて、手を止める。


 違う。


 これは、私が直す台本ではない。


 台本を燃えにくく整えたところで、ミリア様の言葉にはならない。


 私は赤筆を置いた。


 その代わり、別紙を出す。


 神殿宛照会。


『大集会における聖女候補ミリア・セレス氏の発言について、本人の自由意思による発言機会を確保されたい』


 そこまで書いて、止まる。


 自由意思。


 また、綺麗な言葉だ。


 本人の自由意思による発言機会。


 正しい。


 けれど、この言葉すら、ミリア様には新しい台本に見えるかもしれない。


 昨日、彼女は昼食の希望を聞かれただけで固まった。


 嫌だったことを聞かれて、泣いた。


 ずっと「皆さま」の中に閉じ込められていた人に、「自由に話していい」と言うだけで、本当に自由になるのか。


 わからない。


 私は、わからないと書きたかった。


 でも公文書に「わからない」は書けない。


 だから、別の形にする。


『なお、本人が発言しないことを選択した場合にも、その沈黙を神殿または王宮の意向として代弁しないこと』


 書いた後、私はしばらくその一文を見つめた。


 沈黙を、勝手に代弁しない。


 これは、ミリア様のためだけではない。


 エレオノーラ様にも。


 カイル様にも。


 たぶん、私自身にも必要な言葉だ。


「リディア」


 エレオノーラが静かに言った。


「その一文、悪くありませんわ」


「ありがとうございます」


「でも、硬いですわね」


「公文書なので」


「あなた、私への声明の時より硬くありません?」


「神殿相手なので」


「敵が神聖だと文章も肩こりしますのね」


「肩どころか胃に来ます」


 カイルが書面を覗き込む。


 眉間にしわが寄る。


「長い」


「読んでください」


「読んだ」


「本当ですか?」


「沈黙を勝手に使うな、ということだろう」


 私は少し驚く。


「はい。そうです」


「なら短く書け」


「短く書いたら燃えます」


「なぜだ」


「短い言葉は、他人に続きを書かれるからです」


 カイルは黙った。


 それから、小さく頷いた。


「そうだった」


 そうだった。


 その一言が、妙に素直だったので、私は少しだけ笑いそうになった。


 笑わなかった。


 代わりに、文書を仕上げる。


 送信水晶へ載せ、記録を残す。


 神殿へ照会文を送る。


 水晶が淡く光り、文字を吸い込んだ。


 これで、こちらの言葉は届く。


 返事があるかは、別問題だ。


 壁の標語が目に入る。


『王宮は、常に民の声を聞いております』


 私は小さく呟いた。


「聞いているなら、返事をしてください」


「何か言ったか」


 カイルが聞く。


「いつもの愚痴です」


「そうか」


 彼はそれ以上聞かなかった。


 聞かれなかったことに、少しだけ救われる時もある。


 夕刻。


 神殿から返信が来た。


 早すぎる。


 早すぎる返信は、だいたい燃料である。


 私は封を開いた。


『王宮広報局の懸念は理解した。神殿大集会においては、聖女候補ミリア・セレス本人の心身の安定を最優先とし、必要に応じて神殿広報官が補助する』


 必要に応じて。


 補助。


 白い布の言葉がまた来た。


 私は赤筆を持ちかける。


 けれど、次の一文で手が止まった。


『なお、民衆の混乱を避けるため、進行は神殿側の責任において管理する』


 混乱を避けるため。


 私はその言葉を見た。


 カイルも、横から見ていた。


 彼の表情が変わったかどうかは、わからない。


 ただ、手袋の縫い目を押さえる指だけが、少し強くなった。


 私は何も聞かなかった。


 今聞いても、きっと彼は答えない。


 答えないことにも、理由がある。


 私はその空白を、勝手に埋めなかった。


 代わりに、文書を机に置く。


「三日後、神殿大集会です」


 先輩が天井を見上げた。


「燃える?」


「燃えます」


「断言した」


「断言できる火種です」


 私は資料をまとめた。


 ミリア様の台本。


 孤児院の聞き取り。


 寄付契約書。


 神殿進行案。


 王宮照会文。


 胃薬。


 最後の一つは鞄に二瓶入れる。


 念のためだ。


 エレオノーラが扇を閉じる。


「リディア」


「はい」


「ミリア様が、何も話せなかったら?」


 私は答えようとした。


 火種を見て、対応案を考えようとした。


 けれど、答えが出なかった。


「……その時は」


 私は言葉を探す。


「誰も、勝手に続きを書かないようにします」


 エレオノーラは、少しだけ笑った。


「よろしい」


 カイルが短く言う。


「守る」


 誰を、とは言わなかった。


 ミリア様か。


 エレオノーラ様か。


 孤児院か。


 それとも、言葉そのものか。


 私は聞かなかった。


 聞かない方が、今はよかった。


 窓の外では、王都の夕暮れが赤く染まっている。


 火事ではない。


 ただの夕焼けだ。


 それでも、私の目には、あちこちに火種が見えた。


【火種:聖女候補の公開利用】


【火種:沈黙の代弁】


【火種:神殿による発言管理】


【火種:エレオノーラ悪役再固定】


【火種:王宮の信仰干渉印象】


【火種:本人意思の消失】


 多い。


 多すぎる。


 胃薬の在庫が心配になる量だ。


 私は鞄を閉じ、立ち上がる。


 神殿の大集会まで、あと三日。


 ミリア様が何を言うのか、私は知らない。


 言えるのかどうかも、わからない。


 ただ一つだけ、決めている。


 彼女の沈黙を、誰かの都合のいい祈りにさせない。


 それだけは、絶対に。


 その時、記録係が慌てて駆け込んできた。


「リディアさん!」


「どうしました」


「水晶掲示板に、神殿大集会の予告が出ました。もう王都中に広がっています」


 嫌な予感がして、私は水晶を覗き込む。


 そこには、白い文字が踊っていた。


『聖女候補ミリア様、涙の祈りへ』


『悪意を許す清らかな心』


『大集会にて、すべてを祈りに変える』


 まだ何も話していない。


 まだ涙も流していない。


 まだ許してもいない。


 なのに、見出しはもう完成している。


 私はゆっくり息を吐いた。


「……涙の予約販売ですか」


 先輩が呻く。


「嫌な商売だなあ」


 カイルが水晶を見下ろす。


 低い声で言った。


「燃やす気だ」


 私は頷く。


「はい」


 神殿は、美談を作るつもりだ。


 ミリア様が何を言っても。


 何も言えなくても。


 涙を流しても。


 流さなくても。


 全部、祈りに変えるつもりなのだ。


 エレオノーラが微笑んだ。


「では、舞台を壊す準備をいたしましょう」


「物理的には壊しません」


「比喩ですわ」


 カイルが少しだけこちらを見た。


「比喩か」


「辺境伯様は確認しないと危ないですからね」


「壊さない」


「ありがとうございます」


 私は水晶掲示板の見出しを記録保存した。


 証拠。


 火種。


 そして、次の会見の材料。


 ただし、今度は私が全部書かない。


 ミリア様の言葉を、私が代わりに用意しない。


 それが一番難しい。


 炎上対応係なのに、火を前にして待たなければならない。


 正しい言葉を持っていても、すぐに差し出してはいけない。


 相手が、自分の言葉を探す時間を奪ってはいけない。


 私は鞄の中の胃薬を確認した。


 二瓶。


 足りるだろうか。


 たぶん足りない。


 でも、行くしかない。


 神殿の白い舞台へ。


 祈りという名前の台本の中へ。


 その奥に閉じ込められた、まだ形になっていない言葉を聞きに。


 私は水晶の光を消した。


 部屋が少し暗くなる。


 その暗さの中で、カイルが短く言った。


「聞きに行くぞ」


 私は頷いた。


「はい」


 火元は、神殿の大広間。


 燃やされようとしているのは、聖女候補の涙。


 そして、まだ誰のものにもなっていない沈黙だった。

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