神殿広報官、笑顔で嘘をつく
数字は、祈らない。
契約書は、泣かない。
帳簿は、清らかな微笑みを浮かべない。
だから私は、数字と契約書と帳簿が好きだ。
少なくとも、彼らは「皆さまのために」と言いながら誰かの口を塞いだりしない。
「……つまり、孤児院への寄付金は、ミリア様から直接渡されたものではなく、神殿を経由していた」
王宮広報局、危機声明管理室。
通称、炎上対応係。
その机の上には、今朝からずっと、神殿関連の資料が積み上がっていた。
寄付契約書。
神殿布告。
孤児院への支援報告。
王都瓦版の美談記事。
聖女候補ミリア・セレス様の絵姿つき広告。
そして、私の胃薬。
最後の一つだけは、私物である。
「さらに、発表上は『孤児院の冬支度のため』となっていた支援金の一部が、神殿の広報費へ振り替えられている可能性があります」
私がそう言うと、向かいの席で先輩が乾いた笑いを漏らした。
「冬支度って、もしかしてミリア様の白い外套のこと?」
「孤児院の子どもたちが外套を着られていないので、違うと思いたいです」
「思いたい、かあ」
「断定できる資料がない段階で断定すると燃えます」
「リディアちゃん、燃える燃えない以前に、そろそろ目が死んでる」
「数字を見ている時の目はだいたい死にます」
嘘である。
数字だけなら、まだ生きていられる。
問題は、数字の横に、美しい言葉が並んでいる時だ。
『聖女候補ミリア様、祈りとともに孤児院へ温かな支援を』
『幼き子らの笑顔は、神殿の慈愛の証』
『皆さまの善意が、聖女候補の祈りを通じて届きます』
届いていない。
少なくとも、第七孤児院の食卓には、届いていなかった。
届いていたのは、薄いスープと、硬いパンと、「ミリア様は優しい」という子どもたちの信頼だけだ。
それが、いちばん厄介だった。
神殿の美談は、全部が嘘ではない。
ミリア様は本当に孤児院を気にかけていた。
子どもたちは本当に彼女を慕っていた。
彼女が訪ねた日、リナという少女は、宝物みたいに古い白いリボンを見せてくれた。
『ミリア様が、結んでくれたの』
その時のリナの顔を思い出すと、私は赤字を入れる手が鈍る。
全部を嘘だと言えば、リナの笑顔まで嘘にしてしまう。
けれど、美談の裏でお金が止まっていたなら、それもまた消してはいけない。
炎上対応係の仕事は、火を消すことだ。
でも、火を消すために灰の下の骨をなかったことにはできない。
「……胃が痛い」
「いつも通りだね」
「平常運転を胃痛で測る職場、改善が必要です」
私が胃薬に手を伸ばしたところで、扉が叩かれた。
ノックは三回。
丁寧で、間隔が正確すぎる。
嫌な予感がした。
「失礼いたします」
入ってきたのは、白と金の神殿服をまとった男だった。
年齢は三十前後だろうか。
淡い金髪を後ろで整え、穏やかな灰色の目をしている。
笑みは柔らかい。
所作は静か。
声は聞き取りやすい。
そして、全体的に腹が立つほど完成度が高い。
「神殿広報官、オルド・レイヴンと申します」
男は美しく一礼した。
部屋の空気が、すっと冷える。
炎上対応係は、王族の失言にも、貴族の圧にも、新聞社の挑発にも慣れている。
それでも、神殿の広報官という肩書きは少し特殊だ。
王宮の言葉には権力が乗る。
新聞の言葉には拡散力が乗る。
そして、神殿の言葉には信仰が乗る。
この三つの中で、訂正がいちばん面倒なのは、たぶん信仰だ。
なぜなら、信じたい人は、訂正を攻撃だと思うから。
「リディア・ノートン様ですね」
「はい」
「聖女候補ミリア・セレス様に関する照会文を拝見しました」
オルドは微笑んだまま、私の机へ視線を落とした。
資料の束。
赤字。
帳簿の写し。
孤児院の聞き取りメモ。
そして胃薬。
一瞬だけ、彼の目が胃薬で止まった気がした。
見ないでください。
これは王宮機密ではありませんが、職場の生命線です。
「ずいぶん熱心にお調べのようで」
「確認が必要な点が多かったものですから」
「神殿としても、王宮のご懸念には誠実に対応したいと考えております」
誠実。
便利な言葉だ。
言っているだけなら、無料で使える。
「では、ミリア様ご本人への再面会を許可していただけますか」
オルドの笑みは変わらなかった。
けれど、空気の温度がほんの少し下がった。
「ミリア様は現在、心身の静養を必要としております」
「昨日、直接お会いした時点では、ご本人は会話可能な状態でした」
「会話が可能であることと、心が安定していることは同義ではありません」
「それはそうですね。では、心身の静養を必要とするという判断は、どなたが?」
「神殿医です」
「診断記録は?」
「信仰上の守秘がございます」
「本人意思の確認は?」
「ミリア様は、皆さまのために祈ることを望んでおられます」
出た。
皆さま。
便利で、広くて、誰の顔も見えない言葉。
私は筆を置いた。
「オルド様。私は、ミリア様が“皆さま”のために祈るお気持ちを否定しているわけではありません」
「ええ、承知しております」
「私が確認したいのは、その“皆さま”の中に、ミリア様ご本人が含まれているかどうかです」
先輩が小さく息を呑んだ。
オルドは微笑んだ。
とても綺麗に。
「ご本人の幸福は、神殿が最も大切にしております」
「それを、ご本人の言葉で確認したいのです」
「リディア様」
彼は、まるで聞き分けのない子どもを諭すように、少しだけ声を柔らかくした。
「民には、信じる物語が必要です」
その瞬間、私は胃薬を飲んでいないことを後悔した。
胃が、きゅっと縮んだ。
物語。
ベルク・アインハルト宰相補佐も、似たような言葉を使った。
『物語の修正がお上手だ』
あの時も、冷たかった。
でも、この男の言葉は違う冷たさだった。
ベルクの言葉は、氷の刃みたいだった。
オルドの言葉は、白い布だった。
柔らかくて、清潔で、息ができなくなる。
「物語、ですか」
「はい。人々は、ただ事実を渡されても迷います。苦しみの意味を見いだせない。けれど、祈りがあれば耐えられる。聖女候補という存在は、そのためにあります」
「ミリア様ご本人は、そのために存在しているのですか」
「ミリア様は選ばれた方です」
「選ばれたら、自分の言葉を失ってもいいのですか」
少し、声が硬くなった。
いけない。
怒るな。
ここで怒鳴れば、相手に見出しを渡す。
『王宮広報官、神殿広報官を威圧』
『聖女候補保護をめぐり王宮が圧力』
『信仰への干渉か』
視界の端に火種が揺れる。
【火種:王宮による神殿干渉印象】
【火種:聖女候補保護妨害】
【火種:公爵家・王宮連携による圧力疑惑】
【火種:信仰対王権】
はい、見えています。
見えていますとも。
見えているから胃が痛いんです。
オルドは私の沈黙をどう受け取ったのか、さらに穏やかに続けた。
「ミリア様の涙は、多くの民の心を慰めました」
「涙を慰めの道具にするおつもりですか」
「道具とは申しません。象徴です」
「同じ棚に置かないでください」
「リディア様は、言葉にとても厳格でいらっしゃる」
「職業病です」
「美しい涙は、信仰を強めます」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
先輩が口を閉じる。
広報局員たちが視線を落とす。
私の手は、机の下で拳になっていた。
美しい涙。
誰かの涙を、そんなふうに言う人間を、私は何度も見てきた。
前世でも。
被害者説明会の後、上司が言った。
『泣いてくれた方が、誠意は伝わるんだけどね』
その時、私は何も言えなかった。
言わなかった。
代わりに、無難な議事録を書いた。
今ならわかる。
あれは、最低だった。
私は息を吸った。
怒鳴るな。
怒鳴らずに刺せ。
言葉で。
「オルド様」
「はい」
「涙は、信仰強化素材ではありません」
先輩が横で小さく「素材」と呟いた。
そこ、拾わなくていいです。
オルドは笑みを深めた。
「例えとしては、少々刺激的ですね」
「刺激的なのは、泣く位置まで指定した台本の方です」
彼の目が、初めてほんの少しだけ動いた。
本当に一瞬だった。
けれど、見逃すほど私は素直ではない。
「台本、ですか」
「神殿大集会用の発言案です。表情、沈黙、涙の位置まで指定されていました」
「聖女候補が民の前に立つ以上、混乱を避けるための準備は必要です」
「混乱を避けるために、本人の感情まで配置するのですか」
「感情にも、導きが必要な時があります」
導き。
また便利な言葉が出た。
案内にもなる。
支配にもなる。
本人が同意していれば前者。
本人が言えないなら後者だ。
私はそう言いたかった。
だが、その時、背後から涼やかな声がした。
「醜い本音はお嫌い?」
エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢が、いつの間にか扉の近くに立っていた。
今日も美しい。
背筋は伸び、扇は優雅に開かれている。
だが、目だけは笑っていなかった。
彼女の隣には、カイル・ヴァレンシュタイン辺境伯がいる。
黒い外套。
無表情。
王宮の廊下に雪山が立っているような圧。
孤児院の子どもが「雪山の熊?」と聞いたのも、少しだけわかる。
口には出さない。
燃えるから。
「グランフェルト公爵令嬢」
オルドは丁寧に礼をした。
「先日の会見、拝見いたしました。実に堂々たるお姿で」
「あら。悪役令嬢らしかったかしら」
「ご自身を卑下なさらないでください。民には、さまざまな受け取り方がございます」
「便利な言い方ですこと」
エレオノーラは微笑む。
「民が勝手に受け取った。神殿はそう言えば済みますものね」
オルドの笑みは崩れない。
「我々は民の信仰に寄り添っているだけです」
「寄り添うにしては、ずいぶん先回りして台本を書かれますのね」
扇が、ぱちりと小さく鳴った。
オルドは静かに言った。
「グランフェルト公爵令嬢。あなたの怒りもまた、民には強く映ります。聖女候補を怯えさせる姿として、誤解されることもありましょう」
火種が見えた。
【火種:エレオノーラ威圧印象再燃】
【火種:悪役令嬢像固定】
【火種:聖女候補被害者化】
私は一歩出ようとした。
けれど、エレオノーラが私を見ずに、扇を少しだけ傾けた。
来るな。
そう言われた気がした。
「ご心配ありがとう」
エレオノーラは笑った。
「ですが、私はすでに悪役令嬢だそうですから。多少の誤解は衣装の一部ですわ」
先輩が小声で「衣装扱い」と呟く。
やめてください、先輩。
今、笑うと負けます。
オルドは首を横に振った。
「誤解を重ねることは、あなたのためにもなりません」
「私のため?」
「はい。あなたが怒りを見せれば、民は怯えます。あなたが沈黙すれば、民は想像します。あなたが反論すれば、争いは深まる。だからこそ、物語には秩序が必要なのです」
美しい言葉だった。
整っている。
無駄がない。
そして、最悪だった。
怒るな。
黙れ。
反論するな。
そう言っているのと同じなのに、表面だけが上品だ。
エレオノーラは微笑んでいた。
けれど、扇の骨が一本、かすかに軋んだ。
その音が、妙に耳に残った。
私は、彼女が今どんな顔をしているのか見ようとして、やめた。
見るべきではない気がした。
見たら、私はきっと怒りを抑えられない。
カイルが一歩、前に出た。
部屋の温度がさらに下がる。
オルドは、そこで初めてカイルへ視線を向けた。
「ヴァレンシュタイン辺境伯」
「……」
「辺境伯閣下も、本件に強い関心をお持ちのようですね」
「孤児院の金が消えた」
短い。
重い。
カイルの言葉に、オルドは眉一つ動かさない。
「消えたのではありません。適切な運用の過程で、一時的に保留されているものもございます」
「子どもは腹を空かせていた」
「支援には段階があります」
「冬は待たない」
それだけ言って、カイルは口を閉じた。
私は少し驚いた。
いつもの彼なら、ここで「不誠実だ」くらいは言う。
あるいは「斬る」方向へ飛ぶ。
飛ばないでほしい。
主に炎上対応係の胃のために。
だが、彼は黙っていた。
黙って、手袋の縫い目を親指で押さえている。
一度。
二度。
強く。
私はその動きを見た。
何かを堪えているように見えた。
でも、何を、とまではわからない。
オルドは穏やかに言う。
「辺境伯閣下は、率直でいらっしゃる」
「遠回しに言うと、遅れる」
「言葉には、時に距離が必要です」
「その距離で死ぬ者がいる」
部屋が静まり返った。
私はカイルを見た。
彼はもう何も言わなかった。
ただ、灰色の目が、机の上の契約書ではなく、どこか遠いものを見ていた。
オルドも一瞬だけ黙った。
だが、すぐに微笑みを戻す。
「だからこそ、我々は民に混乱を与えない言葉を選ぶのです」
違う。
今、違うことがあった。
言葉の流れでは拾える。
でも、感情までは拾えない。
私は、それを説明しそうになって、やめた。
カイルがなぜその言葉を言ったのか。
私はまだ知らない。
知らないものを、私の中で勝手に説明してはいけない。
火種感知は、真実を教えてくれる力ではない。
まして、人の心を読む力ではない。
ただ、危険な燃え方を知らせるだけだ。
私は息を整えた。
「オルド様。王宮としては、ミリア様ご本人の自由意思による発言機会の確保を求めます」
「大集会では、ミリア様ご本人が民へお言葉を届けます」
「台本ではなく、本人の言葉で」
「台本は支えです」
「支えが喉を塞いでいないか確認したいのです」
オルドの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「リディア様は、聖女候補という役割を軽んじていらっしゃる」
「役割のために人を消すことを重んじていないだけです」
「民は、ただの少女を求めているのではありません」
「ミリア様は、ただの少女です」
言ってから、しまったと思った。
強すぎた。
いや、正しい。
でも、今の言い方は燃える。
視界に火種が浮かぶ。
【火種:聖女候補の権威否定】
【火種:王宮による信仰軽視】
【火種:神殿支持層反発】
くっ。
私の口。
もう少し危機管理意識を持ってください。
オルドは微笑んだ。
「そのお言葉、民が聞けば悲しむでしょう」
「今のは不適切でした」
私はすぐに言った。
部屋の全員が、少し驚いた顔をした。
オルドだけは表情を変えない。
私は続ける。
「訂正します。ミリア様は聖女候補という役割を担っておられます。しかし、その前に、本人の意思と感情を持つ一人の方です。王宮として確認したいのは、その本人の意思です」
言い直した。
燃えないように。
でも、逃げないように。
完璧ではない。
さっきの言葉は、たぶんオルドに利用される。
けれど、間違えた時に訂正するしかない。
オルドは穏やかに頷いた。
「訂正の早い方ですね」
「仕事柄」
「ですが、訂正できる言葉ばかりではありません」
「だから最初から慎重に扱います」
「それでも、人は傷つきます」
「はい」
私は、オルドを見返した。
「だから、傷ついた人の言葉も聞きます」
沈黙。
ほんの短い沈黙だった。
だが、私はその沈黙に、少しだけ違和感を覚えた。
オルドは笑っている。
けれど、目が一瞬だけ笑わなかった。
その理由はわからない。
わからないまま、残した。
オルドは軽く礼をした。
「三日後の大集会には、王宮関係者の席もご用意いたします」
「ありがとうございます」
「ただし、ミリア様への過度な接触はお控えください。彼女の心を守るためです」
守る。
また白い布の言葉だ。
「承知しました。では、接触の定義を文書で確認させてください」
「……定義、ですか」
「はい。挨拶、視線、発言促し、台本確認、衣装調整、涙のタイミング指定。どこまでが保護で、どこからが干渉か、相互確認が必要です」
先輩が小声で言った。
「リディアちゃんが一番怖い時のやつだ」
聞こえています。
オルドは、少しだけ目を細めた。
「王宮広報局は、細やかなのですね」
「炎上は細部から火が出ますので」
「では、後ほど文書で」
「お待ちしております」
オルドは最後に、エレオノーラとカイルにも礼をした。
「皆さまに、祈りがありますように」
美しい退室だった。
背筋、歩幅、扉の閉め方。
どれも整っている。
扉が閉まった瞬間、先輩が机に突っ伏した。
「うわあ」
「語彙が死んでますよ、先輩」
「いや、だって、うわあ、でしょ。あれは」
「否定できません」
私は椅子に座り直した。
胃が痛い。
でも、今は胃薬より先に記録だ。
私はメモを取る。
オルド発言。
『民には、信じる物語が必要です』
『美しい涙は、信仰を強めます』
『感情にも、導きが必要な時があります』
『訂正できる言葉ばかりではありません』
並べると、ぞっとするほど綺麗だった。
綺麗な言葉は、時々、刃物より扱いにくい。
汚れていない分、切られた方が悪いように見える。
「リディア」
エレオノーラが私の名を呼んだ。
「はい」
「あなた、途中で一度、怒鳴りそうになりましたわね」
「……なりました」
「怒鳴ってもよかったのに」
私は顔を上げた。
エレオノーラは、いつも通り微笑んでいた。
美しく、余裕があるように見える。
でも、扇の骨が一本、少し曲がっていた。
いつ曲がったのか、私は見ていない。
「怒鳴ったら燃えます」
「ええ」
「敵の見出しになります」
「ええ」
「ミリア様を守れなくなります」
「ええ」
「……でも、怒鳴りたかったです」
エレオノーラは、少しだけ目を伏せた。
「それでよろしいのではなくて?」
「よろしいんですか」
「怒りがない言葉は、時々、薄いですわ」
私は返事ができなかった。
怒りは危険だ。
でも、怒りがなければ見えないものがある。
それはわかる。
わかるけれど、怒りは簡単に誰かの見出しになる。
私は火消しだ。
火を増やしてはいけない。
でも、火を恐れすぎて、熱まで消してしまったら。
それは何になるのだろう。
「リディア」
今度はカイルが呼んだ。
「はい」
「三日後、俺も行く」
「神殿大集会に、ですか」
「ああ」
「……取材対応が発生します」
「知っている」
「神殿関係者とも接触します」
「知っている」
「短すぎる発言は、また他人に続きを書かれます」
「確認中だ。決めつけるな」
私は瞬いた。
カイルは真顔だった。
本気で言っている。
以前、私が教えた言葉だ。
「覚えていらしたんですね」
「使える」
「はい。使えます」
少しだけ、胸の奥が温かくなった。
この人は、言葉を信用していない。
それでも、必要なら使おうとしている。
たぶん、それは小さな変化だ。
火種感知には見えない種類の変化。
見えないからこそ、私は大事にしたいと思った。
「ただし、辺境伯様」
「何だ」
「神殿内で『斬る』は禁止です」
「言っていない」
「顔が言う場合があります」
「顔にも訂正文が必要か」
「必要です」
先輩が横で吹き出した。
エレオノーラも扇の陰で笑った。
カイルだけが、真剣に頷いた。
「わかった」
「わかったんですか」
「顔を訂正する」
「できるんですか」
「努力する」
その努力がどこへ向かうのか不安だが、今は受け取っておこう。
私は大集会用の対応案を書き始めた。
王宮関係者の立ち位置。
記録水晶の配置。
ミリア様への直接接触の制限。
神殿側台本の確認要求。
公爵家に関する質問が出た場合の対応。
エレオノーラ様の安全確保。
辺境伯様の顔面訂正。
最後の項目は書きかけて消した。
公文書にしてはいけない。
だが、問題は山ほどある。
神殿はミリア様を美談として使うつもりだ。
王宮が止めれば、信仰への干渉になる。
エレオノーラ様が動けば、悪役令嬢の圧力になる。
カイル様が睨めば、辺境伯の威圧になる。
私が説明しすぎれば、王宮の情報統制になる。
何をしても燃える。
何もしなくても燃える。
炎上対応係としては最悪の盤面だ。
でも、ミリア様の言葉は、あの白い台本の中にはない。
それだけは、わかる。
「リディア様」
若い記録係が、扉の外から顔を出した。
「神殿大集会の進行案、写しが届きました」
「ありがとうございます」
私は受け取った。
封を開く。
白い紙。
金の縁取り。
香まで焚きしめてある。
公文書に香りをつけないでください。
保存時に他の文書へ移ります。
中身を読み、私は無言になった。
進行案は完璧だった。
祈り。
沈黙。
涙。
許し。
民衆への感謝。
神殿への導き。
そして、最後にこうある。
『聖女候補ミリア・セレスは、エレオノーラ・グランフェルト嬢を責めることなく、すべてを祈りに昇華する』
祈りに昇華。
便利な言葉だ。
怒りも、恐怖も、疑問も、全部上へ飛ばして、地上から消す。
私は赤筆を取った。
書き込みかけて、手を止める。
違う。
これは、私が直す台本ではない。
台本を燃えにくく整えたところで、ミリア様の言葉にはならない。
私は赤筆を置いた。
その代わり、別紙を出す。
神殿宛照会。
『大集会における聖女候補ミリア・セレス氏の発言について、本人の自由意思による発言機会を確保されたい』
そこまで書いて、止まる。
自由意思。
また、綺麗な言葉だ。
本人の自由意思による発言機会。
正しい。
けれど、この言葉すら、ミリア様には新しい台本に見えるかもしれない。
昨日、彼女は昼食の希望を聞かれただけで固まった。
嫌だったことを聞かれて、泣いた。
ずっと「皆さま」の中に閉じ込められていた人に、「自由に話していい」と言うだけで、本当に自由になるのか。
わからない。
私は、わからないと書きたかった。
でも公文書に「わからない」は書けない。
だから、別の形にする。
『なお、本人が発言しないことを選択した場合にも、その沈黙を神殿または王宮の意向として代弁しないこと』
書いた後、私はしばらくその一文を見つめた。
沈黙を、勝手に代弁しない。
これは、ミリア様のためだけではない。
エレオノーラ様にも。
カイル様にも。
たぶん、私自身にも必要な言葉だ。
「リディア」
エレオノーラが静かに言った。
「その一文、悪くありませんわ」
「ありがとうございます」
「でも、硬いですわね」
「公文書なので」
「あなた、私への声明の時より硬くありません?」
「神殿相手なので」
「敵が神聖だと文章も肩こりしますのね」
「肩どころか胃に来ます」
カイルが書面を覗き込む。
眉間にしわが寄る。
「長い」
「読んでください」
「読んだ」
「本当ですか?」
「沈黙を勝手に使うな、ということだろう」
私は少し驚く。
「はい。そうです」
「なら短く書け」
「短く書いたら燃えます」
「なぜだ」
「短い言葉は、他人に続きを書かれるからです」
カイルは黙った。
それから、小さく頷いた。
「そうだった」
そうだった。
その一言が、妙に素直だったので、私は少しだけ笑いそうになった。
笑わなかった。
代わりに、文書を仕上げる。
送信水晶へ載せ、記録を残す。
神殿へ照会文を送る。
水晶が淡く光り、文字を吸い込んだ。
これで、こちらの言葉は届く。
返事があるかは、別問題だ。
壁の標語が目に入る。
『王宮は、常に民の声を聞いております』
私は小さく呟いた。
「聞いているなら、返事をしてください」
「何か言ったか」
カイルが聞く。
「いつもの愚痴です」
「そうか」
彼はそれ以上聞かなかった。
聞かれなかったことに、少しだけ救われる時もある。
夕刻。
神殿から返信が来た。
早すぎる。
早すぎる返信は、だいたい燃料である。
私は封を開いた。
『王宮広報局の懸念は理解した。神殿大集会においては、聖女候補ミリア・セレス本人の心身の安定を最優先とし、必要に応じて神殿広報官が補助する』
必要に応じて。
補助。
白い布の言葉がまた来た。
私は赤筆を持ちかける。
けれど、次の一文で手が止まった。
『なお、民衆の混乱を避けるため、進行は神殿側の責任において管理する』
混乱を避けるため。
私はその言葉を見た。
カイルも、横から見ていた。
彼の表情が変わったかどうかは、わからない。
ただ、手袋の縫い目を押さえる指だけが、少し強くなった。
私は何も聞かなかった。
今聞いても、きっと彼は答えない。
答えないことにも、理由がある。
私はその空白を、勝手に埋めなかった。
代わりに、文書を机に置く。
「三日後、神殿大集会です」
先輩が天井を見上げた。
「燃える?」
「燃えます」
「断言した」
「断言できる火種です」
私は資料をまとめた。
ミリア様の台本。
孤児院の聞き取り。
寄付契約書。
神殿進行案。
王宮照会文。
胃薬。
最後の一つは鞄に二瓶入れる。
念のためだ。
エレオノーラが扇を閉じる。
「リディア」
「はい」
「ミリア様が、何も話せなかったら?」
私は答えようとした。
火種を見て、対応案を考えようとした。
けれど、答えが出なかった。
「……その時は」
私は言葉を探す。
「誰も、勝手に続きを書かないようにします」
エレオノーラは、少しだけ笑った。
「よろしい」
カイルが短く言う。
「守る」
誰を、とは言わなかった。
ミリア様か。
エレオノーラ様か。
孤児院か。
それとも、言葉そのものか。
私は聞かなかった。
聞かない方が、今はよかった。
窓の外では、王都の夕暮れが赤く染まっている。
火事ではない。
ただの夕焼けだ。
それでも、私の目には、あちこちに火種が見えた。
【火種:聖女候補の公開利用】
【火種:沈黙の代弁】
【火種:神殿による発言管理】
【火種:エレオノーラ悪役再固定】
【火種:王宮の信仰干渉印象】
【火種:本人意思の消失】
多い。
多すぎる。
胃薬の在庫が心配になる量だ。
私は鞄を閉じ、立ち上がる。
神殿の大集会まで、あと三日。
ミリア様が何を言うのか、私は知らない。
言えるのかどうかも、わからない。
ただ一つだけ、決めている。
彼女の沈黙を、誰かの都合のいい祈りにさせない。
それだけは、絶対に。
その時、記録係が慌てて駆け込んできた。
「リディアさん!」
「どうしました」
「水晶掲示板に、神殿大集会の予告が出ました。もう王都中に広がっています」
嫌な予感がして、私は水晶を覗き込む。
そこには、白い文字が踊っていた。
『聖女候補ミリア様、涙の祈りへ』
『悪意を許す清らかな心』
『大集会にて、すべてを祈りに変える』
まだ何も話していない。
まだ涙も流していない。
まだ許してもいない。
なのに、見出しはもう完成している。
私はゆっくり息を吐いた。
「……涙の予約販売ですか」
先輩が呻く。
「嫌な商売だなあ」
カイルが水晶を見下ろす。
低い声で言った。
「燃やす気だ」
私は頷く。
「はい」
神殿は、美談を作るつもりだ。
ミリア様が何を言っても。
何も言えなくても。
涙を流しても。
流さなくても。
全部、祈りに変えるつもりなのだ。
エレオノーラが微笑んだ。
「では、舞台を壊す準備をいたしましょう」
「物理的には壊しません」
「比喩ですわ」
カイルが少しだけこちらを見た。
「比喩か」
「辺境伯様は確認しないと危ないですからね」
「壊さない」
「ありがとうございます」
私は水晶掲示板の見出しを記録保存した。
証拠。
火種。
そして、次の会見の材料。
ただし、今度は私が全部書かない。
ミリア様の言葉を、私が代わりに用意しない。
それが一番難しい。
炎上対応係なのに、火を前にして待たなければならない。
正しい言葉を持っていても、すぐに差し出してはいけない。
相手が、自分の言葉を探す時間を奪ってはいけない。
私は鞄の中の胃薬を確認した。
二瓶。
足りるだろうか。
たぶん足りない。
でも、行くしかない。
神殿の白い舞台へ。
祈りという名前の台本の中へ。
その奥に閉じ込められた、まだ形になっていない言葉を聞きに。
私は水晶の光を消した。
部屋が少し暗くなる。
その暗さの中で、カイルが短く言った。
「聞きに行くぞ」
私は頷いた。
「はい」
火元は、神殿の大広間。
燃やされようとしているのは、聖女候補の涙。
そして、まだ誰のものにもなっていない沈黙だった。




