表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
聖女ブームと神殿の広告塔

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
25/100

ミリア様、それはあなたの言葉ですか

 神殿広報官オルド・レイスは、孤児院の庭に立っていた。


 白い法衣。


 乱れのない銀縁眼鏡。


 穏やかな微笑み。


 そして、こちらの鞄に入った帳簿の写しを、見ていないふりで確実に見ている目。


 私の胃は、二粒飲んだ胃薬に追加支援を求め始めていた。


「このような場所でお会いするとは、奇遇ですね」


 オルドは、まるで春の庭で旧友に会ったかのような声で言った。


 奇遇。


 便利な言葉だ。


 偶然を装う時にも、監視を柔らかく包む時にも使える。


 私は営業用の笑顔を浮かべた。


「奇遇ですね、オルド広報官。こちらは事前申請済みの正式な事実確認です。どうぞ、記録水晶の前でご説明ください」


 私の手元で、記録水晶が淡く光る。


 オルドの笑みは崩れない。


 ただ、眼鏡の奥の目だけが、ほんの少し細くなった。


「もちろんです。神殿は常に、王宮との協力を重んじております」


 協力。


 これも便利な言葉である。


 協力しましょうと言いながら、相手の手首に柔らかい紐を巻くこともできる。


「孤児院支援について、いくつか確認させてください」


「ええ。民の善意が正しく届いているかを確認することは重要です」


 オルドは、言葉だけなら模範解答だった。


 完璧すぎて腹が立つ。


 完璧な文章は、時々中身を隠すために使われる。


「まず、祈りの布と香油の売上のうち、実際に孤児院支援へ回された割合を確認したいのですが」


「詳細な会計資料は神殿慈善部の管理です。こちらでは即答いたしかねます」


「では、後日提出を」


「検討いたします」


「提出ではなく検討ですか」


「神殿内部規定がございますので」


 はい、出た。


 内部規定。


 前世の会社でも、都合の悪い書類はだいたい内部規定の奥に隠された。


 内部規定は、迷宮である。


 出口にたどり着くころには担当者が異動している。


「では、ミリア様の署名がある寄付契約について確認します」


 私がそう言うと、オルドの表情がほんの少しだけ変わった。


 本当に少しだ。


 普通の人なら気づかない。


 だが私は炎上対応係である。


 上司の「ちょっと相談があるんだけど」の中に徹夜の火種を感じ取ってきた女だ。


 この程度の微細な変化は見逃さない。


「ミリア様は、その契約内容を理解されたうえで署名なさったのでしょうか」


「もちろんです。ミリア様は、神殿の導きに従い、清らかなお心で孤児たちへの祈りを捧げておられます」


「祈りではなく契約内容について伺っています」


「契約もまた、祈りを形にする手段です」


「法務部が聞いたら倒れそうな表現ですね」


 思わず本音が出た。


 エレオノーラ様が扇で口元を隠した。


 カイル様は無言でオルドを見ている。


 その視線は、熊ではないが熊に近い圧があった。


 リナたち孤児院の子どもたちは、院長先生に連れられて建物の奥へ移動している。


 よかった。


 子どもたちの前で、契約と祈りの概念戦争を見せたくない。


「ミリア様ご本人に確認させていただきます」


 私が言うと、オルドは柔らかく首を傾けた。


「ミリア様は現在、多くの祈りと慈善活動でお疲れです」


「先日から、そう伺っています」


「ご負担を増やすのは、いかがなものでしょう」


「本人の署名がある契約について、本人に確認することは負担ではなく手続きです」


「手続きよりも、人の心を守ることが大切ではありませんか」


 うまい。


 うまいな、この人。


 手続きの話を、心の話にすり替える。


 さらに、こちらが確認を求めれば「心を傷つける側」に見える構図を作る。


 敵。


 被害者。


 救済者。


 神殿の得意な三点構図だ。


 私の視界に、小さな火種が浮かぶ。


【火種:王宮による聖女候補への圧力印象】


【火種:本人確認の妨害】


【火種:契約責任の曖昧化】


【火種:善意批判への反発】


 燃えやすい。


 非常に燃えやすい。


 だが、ここで引くと、ミリア様の言葉はまた誰かの綺麗な文章に包まれてしまう。


「オルド広報官」


 私は記録水晶の光を確かめながら言った。


「こちらはミリア様を責めるために確認を求めているのではありません。契約の成立過程と、寄付金の流れを確認するためです」


「それは、ミリア様の善意を疑うということですか」


「いいえ」


 私は即答した。


「善意が利用されていないかを確認します」


 オルドの笑みが、初めてほんの少しだけ薄くなった。


 エレオノーラ様が静かに扇を閉じる。


「善意とは、持ち主本人の手にあって初めて尊いものですわ。他人の看板にされた時点で、それは商品です」


 さすがエレオノーラ様。


 優雅な言葉で急所を刺す。


 カイル様が短く言った。


「会わせろ」


 短い。


 短いが、圧が強い。


 私はすぐに補足した。


「正式な面談として、記録水晶同席、質問内容の範囲明示、ミリア様の休憩権確保を条件にお願いします」


 カイル様の「会わせろ」だけだと、脅迫見出し一直線である。


 私の補足文は三枚必要だ。


 オルドは少し沈黙した。


 庭の風が、白い法衣の裾を揺らす。


 その沈黙すら、計算された間に見える。


「……よろしいでしょう」


 やがて、彼は微笑んだ。


「ただし、ミリア様のお心を守るため、神殿側の立会人を置かせていただきます」


「立会人は構いません。ただし、質問中の助言、誘導、合図は禁止します」


「もちろんです」


 信用できない。


 もちろんです、と言う人間ほど、もちろんではないことをやる。


 私は心の中で赤字を入れた。


 面談は、その日の午後、神殿付属の小応接室で行われることになった。


 移動の馬車の中、カイル様はずっと黙っていた。


 普段から黙っているのだが、今日は少し違う。


 黙り方が重い。


「カイル様」


「何だ」


「怒っていますか」


「少し」


 少し。


 カイル様の少しは、普通の人のかなりである。


 私は慎重に言葉を選んだ。


「孤児院のことですか」


「子どもを盾にするのは嫌いだ」


 短い言葉だった。


 けれど、十分だった。


「同感です」


 私は鞄を抱え直した。


 中には帳簿の写しがある。


 数字は合っていない。


 でも、それだけでは足りない。


 ミリア様本人の言葉が必要だ。


 ただし、その言葉が本当に本人のものなら。


 神殿の小応接室は、異様に白かった。


 壁も白い。


 カーテンも白い。


 卓上の花も白い。


 椅子の布張りまで白い。


 清らかさの過剰包装である。


 ここまで白いと、逆に胃に悪い。


 汚してはいけない圧がすごい。


 私は自分のインク壺を見て、そっと鞄の奥へしまった。


 ここでこぼしたら、それだけで神殿布告が出そうだ。


『王宮広報官、聖なる応接室を黒く染める』


 燃える。


 非常に燃える。


 エレオノーラ様は白い室内でも完璧に美しかった。


 なぜこの人は、どの背景でも勝てるのだろう。


 カイル様は白い部屋にいると、黒い岩のようだった。


 存在感が浮きすぎている。


 神殿の侍女が、部屋の隅に立つ。


 彼女は無表情だが、袖口で指を強く握っていた。


 緊張している。


 あるいは、何かを恐れている。


 私は記録水晶を卓上に置いた。


「これより、聖女候補ミリア・セレス様の署名契約および孤児院支援に関する事実確認を行います。質問は契約内容、寄付金の流れ、本人意思の確認に限ります。ミリア様は回答を拒否できます。途中で休憩を求めることもできます」


 侍女が少し目を見開いた。


 神殿側の立会人が、回答拒否や休憩権を明示されることに驚く。


 その事実だけで、だいぶ嫌な気配がした。


 扉が開く。


 ミリア様が入ってきた。


 白い衣。


 淡い金髪。


 胸の前で組まれた手。


 穏やかな微笑み。


 街で売られていた絵姿と、ほとんど同じ。


 いや、同じすぎた。


 人間は、絵姿と同じ角度で微笑み続けたりしない。


 それはもう、姿勢ではなく型だ。


「皆さまに、神殿の光がありますように」


 ミリア様は、柔らかい声で言った。


 美しい声だった。


 透き通っている。


 けれど、その言葉は部屋のどこにも着地しなかった。


 私の火種感知は反応しない。


 燃えない。


 でも、温度もない。


 火種ではない。


 空白だ。


「ミリア様。本日はお時間をいただきありがとうございます」


「皆さまのために祈れることは、私の喜びです」


「今日は祈りではなく、確認です」


「はい。神殿の導きのままに」


 神殿の導き。


 出た。


 私は羽ペンを持ち直した。


「では、最初に確認します。ミリア様、こちらの契約書に署名したことを覚えていらっしゃいますか」


 契約書の写しを机に置く。


 ミリア様はそれを見た。


 目が、ほんの一瞬だけ揺れる。


 けれどすぐに、微笑みが戻った。


「神殿の導きに従い、皆さまのために祈りました」


「署名したことを覚えている、という意味でよろしいですか」


「皆さまのお役に立てるなら、それは喜ばしいことです」


「契約内容は読まれましたか」


「神殿の導きです」


「ミリア様ご自身が、内容を理解したうえで署名しましたか」


「皆さまのために祈ります」


 会話が進まない。


 いや、進まないように訓練されている。


 質問が具体的になるたび、ミリア様の言葉は定型句へ戻る。


 皆さま。


 祈り。


 導き。


 抽象語の避難所だ。


 私は問い方を変えた。


「ミリア様。東七番孤児院をご存じですね」


 その瞬間、ミリア様の指がわずかに動いた。


「はい。神殿の慈善訪問で伺いました」


「リナさんという女の子を覚えていますか」


 ミリア様の瞳が大きくなる。


 ほんの少しだけ、絵姿ではない顔になった。


「リナ……」


 声が小さかった。


 だが、確かに名前を呼んだ。


 部屋の隅の侍女が、微かに息を飲む。


 ミリア様はすぐに唇を閉じた。


 そして、また微笑む。


「孤児たち皆さまのために、祈っております」


 戻った。


 戻されている。


 私は胸の奥が痛くなるのを感じた。


「リナさんは、ミリア様が読んでくれた絵本のことを覚えていました」


 ミリア様の睫毛が震えた。


「パンを半分こするお話だそうです」


「……古い本でした」


 小さな声。


 定型句ではない。


 私はすぐに追いかけた。


「ミリア様が持っていかれたのですか」


「捨てられるところでした。まだ読めたので……」


 そこまで言って、ミリア様ははっとしたように口を閉じた。


 侍女の視線が動く。


 部屋の外に誰かいる。


 たぶん、オルドだ。


 直接立ち会わず、しかし聞こえる場所にいる。


 私は記録水晶の位置を少しだけ変えた。


「今のご発言を確認します。絵本はミリア様ご自身の判断で持参されたのですね」


 ミリア様は固まった。


 唇が動く。


「神殿の……」


 また戻る。


「神殿の導きです」


 私は羽ペンを置いた。


 正面から契約を聞いてもだめだ。


 孤児院の話なら少し出る。


 でも、本人の判断を問うと定型句へ逃げる。


 逃げる、というより、戻される。


 言葉の首輪が見えるようだった。


 エレオノーラ様が静かに言った。


「ミリア様」


 ミリア様の肩がぴくりと動いた。


 エレオノーラ様は、責める声ではなかった。


「私のことを、怖いと思われましたか」


 部屋の空気が変わった。


 ミリア様の顔から、少し血の気が引く。


「私は、皆さまのために祈ります」


「私を嫌っていらっしゃいますか」


「皆さまのために……」


「私を憎んでいらっしゃいますか」


「祈り……」


「ミリア様」


 エレオノーラ様の声は穏やかだった。


 けれど、痛かった。


「嫌いなら、嫌いで構いませんの。私は、あなたに傷つけられた部分があります。ですが、あなたが私をどう思ったのかを、誰かの言葉ではなく知りたいのです」


 ミリア様の瞳に涙が浮かんだ。


 美しい涙だった。


 神殿なら、見出しにしたくなるような涙。


 だが、ここには記者はいない。


 売るための観客もいない。


 その涙は、ただ彼女の目に浮かんでいた。


「私は……」


 ミリア様の唇が震える。


「私は、皆さまのために祈ります」


 出てきたのは、やはり同じ言葉だった。


 エレオノーラ様は目を伏せた。


 怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。


 たぶん、両方だ。


 私は深く息を吸った。


 契約。


 寄付。


 エレオノーラ様への感情。


 どれも重要だ。


 だが、今のミリア様にそれを聞いても、答えられない。


 答えるための足場がない。


「ミリア様」


 私は声を柔らかくした。


「少し、質問を変えます」


「……はい」


「あなたは、何が嫌でしたか」


 ミリア様が瞬きをした。


「え?」


「孤児院訪問でも、会見でも、神殿での祈りでも、何でも構いません。何が嫌でしたか」


 沈黙。


 白い部屋の中で、沈黙だけが重く落ちた。


 ミリア様は私を見ている。


 まるで、知らない言語を聞いたような顔だった。


「嫌……」


「はい」


「嫌なことは……」


 ミリア様は言いかけて、止まった。


 目に涙が溜まる。


「嫌なことなど、ありません」


「本当に?」


「皆さまのために祈ることは、喜びです」


「祈ること以外で」


「神殿の導きは、私の道です」


「導き以外で」


「私は……」


 ミリア様の呼吸が浅くなった。


 指先が白くなるほど、膝の上で手を握っている。


 侍女が一歩動きかけた。


 私は手で制した。


「答えなくても構いません」


 ミリア様の目から、涙が一粒落ちた。


 音はしなかった。


 でも、私には聞こえた気がした。


 言葉にならないものが落ちる音。


「わかりません」


 小さな声だった。


「何が嫌なのか、わかりません」


 その一言に、私の火種感知は反応しなかった。


 火種ではない。


 これは、燃える前の紙ですらない。


 まだ文字を書かれていない、白い紙だった。


 ミリア様は泣いている。


 けれど、泣き方すら、どこかぎこちない。


 泣いていいのか確かめながら泣いているようだった。


 私は、胸の奥が冷えるのを感じた。


 人は、自分が何を嫌だと思ったのかさえ、奪われることがあるのか。


 前世で、上司に何度も言われた。


 これはあなたのためでもある。


 会社を守ることが、結果的にみんなを守る。


 今だけ我慢して。


 大人なんだから。


 誠意を見せて。


 あの時の私は、何が嫌なのかを考える余裕もなく、ただ謝罪文を書いていた。


 ミリア様は、それよりずっと若い。


 十八歳。


 本来なら、今日の昼食に何を食べたいかで悩んでいてもいい年齢だ。


 私はあえて、まったく違う方向へ話を向けた。


「では、もっと簡単な質問にします」


 ミリア様が涙の残る目で私を見る。


「神殿の導き以外で、今日の昼食の希望は?」


 沈黙。


 今までで一番深い沈黙だった。


 ミリア様は完全に固まった。


 カイル様がこちらを見た。


 エレオノーラ様も瞬きをする。


 侍女まで固まった。


 私は大真面目である。


 昼食は重要だ。


 人間の意思表示は、時に国家声明より昼食から始まる。


「昼食、ですか」


「はい。パン、粥、肉、野菜、甘いもの。食べたいものはありますか」


「私は……」


 ミリア様は本気で考えている。


 眉が小さく寄る。


 広告の聖女候補なら絶対に見せない顔だった。


「神殿で出されるものを……」


「出されるものではなく、希望です」


「希望……」


「嫌いなものでも構いません。食べたくないもの」


「食べたくない……」


 ミリア様は震えた。


「そんなことを言っても、いいのですか」


 その問いに、私は返事が一瞬遅れた。


 言ってもいいのですか。


 昼食の希望ですら、許可が必要なのか。


 エレオノーラ様の扇を持つ手に力が入る。


 カイル様の空気が冷えた。


 怒っている。


 だが、彼は黙っていた。


 今ここで怒りを見せれば、ミリア様がさらに怯えるとわかっているのだ。


 私はゆっくり頷いた。


「いいんです」


「でも、わがままでは」


「昼食の希望は、わがままではありません」


「でも」


「ミリア様」


 私はできるだけ静かに言った。


「自分が何を食べたいか言うことは、誰かを傷つけることではありません」


 ミリア様は、ぽろぽろと涙をこぼした。


 美しい泣き方ではなかった。


 鼻を少し赤くして、息を詰まらせながら、子どものように泣いた。


 私はそのほうが、ずっと人間らしいと思った。


「わかりません」


 ミリア様は言った。


「何を食べたいのかも、わかりません」


 部屋の中が静まり返った。


 私は何も書けなかった。


 記録係としては失格かもしれない。


 でも、その瞬間だけ、羽ペンが動かなかった。


 言葉の空白。


 それは、単に黙っていることではない。


 言葉を置く場所そのものが奪われている状態だ。


 ミリア様は敵なのか。


 利用された被害者なのか。


 加害に関わった責任はあるのか。


 全部、簡単には答えられない。


 でも一つだけ、今はっきりした。


 この人の言葉は、この人の手元にない。


 私は記録水晶を止めた。


「本日の確認は、ここまでにします」


 侍女が驚いたように顔を上げる。


 ミリア様も、涙で濡れた顔のまま私を見た。


「まだ、質問が」


「続ければ、答えではなく定型句が増えます」


 私は書類をまとめた。


「それは確認ではありません。消耗です」


 カイル様が短く頷いた。


「終われ」


「辺境伯様、命令ではなく同意として受け取ります」


「同意だ」


 エレオノーラ様がミリア様を見た。


「ミリア様」


 その声は、先ほどより柔らかかった。


「私はあなたを、簡単には許せません」


 ミリア様の顔がこわばる。


「ですが、あなたが何を思っていたのかを知る前に、憎み切ることもできません」


 エレオノーラ様は立ち上がる。


「次にお会いする時は、祈りではなく、昼食の話から始めましょう」


 ミリア様の唇が震えた。


 泣きながら、ほんの少しだけ笑ったように見えた。


 その時、扉の外から控えめなノックがした。


 侍女がびくりと肩を震わせる。


 扉が開く前に、彼女は素早くミリア様へ近づき、白い布で涙を拭った。


 その動きは、慣れすぎていた。


 ミリア様もまた、慣れすぎた動きで背筋を伸ばす。


 涙を止める。


 微笑む。


 さっきまで泣いていた少女が、一瞬で絵姿に戻る。


 私はぞっとした。


 扉が開く。


 そこに立っていたのは、オルドだった。


「面談はお済みでしょうか」


 彼は穏やかに聞いた。


 ミリア様は即座に言った。


「はい。皆さまのために祈ります」


 完璧な声。


 完璧な微笑み。


 完璧な空白。


 私は手の中の羽ペンを折りそうになった。


 いけない。


 物理は禁止。


 羽ペンも経費だ。


「本日の確認は終了しました」


 私は言った。


「後日、追加確認を申請します」


「ミリア様のご負担にならない範囲でお願いいたします」


「もちろんです」


 私は微笑んだ。


「ご負担の原因がどこにあるのかも含めて、確認いたします」


 オルドの笑みが、薄くなった。


 ほんの少しだけ。


 だが、確かに。


 私たちは応接室を出た。


 白い廊下を歩く間、誰も話さなかった。


 カイル様の歩幅はいつもより少し遅い。


 私に合わせているのだと気づいて、また胸が変なふうに痛くなる。


 神殿を出る直前、先ほどの侍女が小走りで近づいてきた。


「ノートン様」


 小さな声だった。


 彼女は周囲を気にしながら、私の手に何かを押し込む。


「これを」


「あなたは」


「私は何も」


 侍女はそれだけ言うと、すぐに頭を下げて去っていった。


 手の中には、小さな鍵があった。


 そして、紙片が一枚。


 震える字で、こう書かれていた。


『ミリア様の控え室。東廊下奥。祈りの準備室』


 私は息を飲んだ。


 エレオノーラ様が紙片を見る。


「罠の可能性もありますわ」


「はい」


 カイル様が言った。


「行くな」


「行きます」


「危険だ」


「危険だから、三人で行きます」


 カイル様は眉を寄せた。


「理屈がおかしい」


「炎上対応係の理屈はだいたい胃に悪いんです」


「知っている」


 知っている、と言われてしまった。


 私たちは神殿の東廊下奥へ向かった。


 白い壁。


 白い扉。


 誰もいない廊下。


 鍵は、驚くほど簡単に回った。


 扉を開けると、小さな部屋があった。


 控え室というより、物置に近い。


 白い衣装。


 予備の祈り布。


 香油の瓶。


 そして、机の上と棚に積まれた大量の紙束。


 私は一枚を手に取った。


『慈善訪問用応答案』


『記者質問想定問答』


『涙を見せる位置』


『孤児に触れる際の注意』


『エレオノーラ・グランフェルト公爵令嬢に関する言及禁止事項』


 喉が詰まる。


 さらに別の紙束をめくる。


『質問:王太子殿下を愛しているのですか』


『回答:私個人の願いではなく、皆さまの幸福を祈っております』


『質問:公爵令嬢をどう思いますか』


『回答:どなたのことも責めるつもりはありません。皆さまの心が光に包まれますように』


『質問:あなた自身はどうしたいのですか』


『回答:神殿の導きに従います』


 文字が整いすぎている。


 ミリア様の筆跡ではない。


 そして、最後の紙に、赤い字で大きく書かれていた。


『困った時は、祈りへ戻ること』


『個人名への言及は避けること』


『皆さま、という言葉を用いること』


 私は紙を握りしめた。


 だから、リナの名前を呼べなかった。


 だから、エレオノーラ様への気持ちを言えなかった。


 だから、自分の昼食すら選べなかった。


 彼女は、言葉を持っていないのではない。


 持つことを禁じられていたのだ。


 エレオノーラ様が静かに言った。


「……見事な台本ですわね」


 その声は冷たかった。


 けれど、怒りの奥に痛みがある。


 カイル様は紙束を見て、短く言った。


「鎖だな」


 私は頷いた。


「はい」


 紙の鎖。


 白くて、清らかで、美しい言葉でできた鎖。


 私はその束を記録水晶に写した。


 胃が痛い。


 手も震えている。


 でも、今度は恐怖だけではなかった。


 怒りだ。


 美談は人を救うこともある。


 リナが覚えていた絵本のように。


 熱を出した子に寄り添った手のように。


 でも、美談は人を縛ることもある。


 この部屋いっぱいの台本のように。


 私は赤字で見出しを書き換えるような気持ちで、心の中で言った。


 聖女候補ミリア様。


 それは、あなたの言葉ですか。


 答えは、もう半分出ていた。


 いいえ。


 少なくとも今の彼女の言葉は、彼女だけのものではない。


 廊下の向こうから、足音が聞こえた。


 規則正しい。


 複数人。


 神殿の者だ。


 カイル様が扉の前に立つ。


 エレオノーラ様が扇を構える。


 私は紙束を鞄に入れ、記録水晶を握った。


 次に燃えるのは、神殿か。


 それとも、私たちか。


 どちらにせよ、火元は見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ