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王宮炎上対応係の私、婚約破棄会見を止めたら無口な辺境伯に溺愛されました 〜王太子殿下、その発言は国が燃えます〜  作者: 磯辺
聖女ブームと神殿の広告塔

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美談の裏に契約書があります

 美談びだんの裏には、だいたい契約書けいやくしょがある。


 前世ぜんせで私は、それを嫌というほど知っていた。


 心温まる社会貢献活動しゃかいこうけんかつどうの裏には、協賛企業きょうさんきぎょうのロゴ位置指定があり。


 感動的な謝罪会見しゃざいかいけんの裏には、責任範囲せきにんはんいを極限まで薄めた法務確認済ほうむかくにんずみ文書があり。


 清らかな慈善広告じぜんこうこくの裏には、手数料てすうりょう管理費かんりひと、読めば読むほど胃が痛くなるただし書きがある。


 だから、神殿しんでんから届いた契約書の束を前にして、私は思った。


 ああ。


 帰ってきた。


 前世の地獄じごくが、白い神殿印しんでんいんを押して帰ってきた。


「リディア、顔が死んでる」


 先輩職員が、私の横から契約書をのぞき込んだ。


「生きています」


「本当に?」


業務上ぎょうむじょうは」


「それ、生存確認として弱くない?」


 弱い。


 けれど、今倒れるわけにはいかない。


 机の上には、神殿広報官しんでんこうほうかんオルド・レイスから提出された資料が積まれている。


 慈善祈祷会じぜんきとうかいの収支予定表。


 祈りの布の販売契約。


 清らかな香油こうゆの商会契約。


 ミリア様の絵姿えすがた使用許諾書しようきょだくしょ


 孤児院こじいん寄進きしんに関する覚書おぼえがき


 そして、聖女候補せいじょこうほミリア・セレス本人の署名しょめいが入った同意書どういしょ


 全部、白い紙だ。


 なのに、私には赤黒い火種ひだねが見える。


【火種:慈善名目による収益化】


【火種:本人意思の不透明】


【火種:寄進額の過少】


【火種:神殿管理費の肥大化】


【火種:聖女候補の商品化】


【火種:反論封じの美談化】


 私は深く息を吸った。


 胃がきゅっと縮む。


 薬草茶やくそうちゃを飲むべきか、胃薬を飲むべきか。


 迷っていると、部屋のすみから低い声がした。


「読め」


 カイル・ヴァレンシュタイン辺境伯へんきょうはくである。


 なぜか今朝から危機声明管理室ききせいめいかんりしつにいる。


 正確には、エレオノーラ様の名誉回復会見めいよかいふくかいけん後、神殿側が反発を強めたため、北方関係者への飛び火を警戒して、王宮側が彼にも情報共有を求めたのだ。


 本人は来るなり、


「面倒だ」


 と言った。


 しかし帰らなかった。


 面倒だと言いながら部屋の隅に座り、書類を渡されるたび眉間みけんにしわを寄せ、時々干し肉をんでいる。


 不機嫌な大型犬みたいだ。


 いや、大型犬に失礼かもしれない。


 雪山のおおかみだろうか。


「読みます」


 私は契約書の一枚目を手に取った。


「まず、祈りの布の販売契約です」


 先輩がうんざりした顔をする。


「布だよね?」


「布です」


「祈りの布って、つまり布だよね?」


「広告上は、心を清める祈りが込められた布です」


「法的には?」


「布です」


「だよね」


 私は契約書の条項じょうこうを追った。


「製造はルベール商会。販売名義は神殿慈善部。広告にはミリア様の絵姿と署名文を使用」


「署名文?」


 エレオノーラ様が、向かいの席で顔を上げた。


 今日の彼女は淡い青のドレスを着ている。


 神殿の白に対抗するような、静かな湖の色だ。


「はい。こちらです」


 私は広告案を読み上げた。


「『この布に触れるたび、皆さまの心が安らぎますように。ミリア・セレス』」


 部屋が沈黙した。


 先輩がぽつりと言う。


「言いそう」


「言いそうです」


 私はうなずいた。


「でも、言いそうな言葉と本人が言った言葉は違います」


 エレオノーラ様が目を細める。


「その文面は、誰が作ったのかしら」


「契約書上は、神殿広報部が作成し、ミリア様が承認しょうにんしたことになっています」


「ことになっている」


 エレオノーラ様はその言い方を繰り返した。


 笑みはない。


「便利な言葉ですわね」


「はい。便利すぎて燃えます」


 私は次の条項を確認した。


「売上総額から製造費、流通費、商会手数料、神殿管理費、広報費、祈祷会運営費を差し引いた残額ざんがくの一部を孤児院へ寄進」


 先輩が首をかしげる。


「差し引くもの、多くない?」


「多いです」


「残ったものの一部って、どの一部?」


「書かれていません」


「燃えるね」


「燃えます」


 私は赤インクで線を引いた。


 紙に赤い線が増えていく。


 前世でもよく見た光景だ。


 きれいな言葉の下に、小さな文字で責任の逃げ道が並んでいる。


 読まない人には美談に見える。


 読む人にはわなに見える。


 問題は、多くの人が読まないことだ。


「次に、香油の契約です」


 私は二枚目を開いた。


「商品名は『聖女候補の清らかな祈り香油』」


 カイルが眉を動かした。


「長い」


「商品名です」


「長い」


「私もそう思います」


 先輩が小声で言う。


略称りゃくしょうは?」


「祈り香油、でしょうか」


効能こうのうは?」


「広告案には『一滴で心清らかに』とあります」


「前も見たね、それ」


「はい。法的に危ない効能表記こうのうひょうきです」


 私は広告文の横に赤丸をつけた。


「病気が治るとは言っていません。でも、精神的な不安を改善するかのような印象を与えます。信仰商品なので規制きせいの線引きが難しいですが、誤認ごにんの恐れがあります」


「誤認」


 エレオノーラ様が静かに言った。


「また便利な言葉ですわね」


「ええ。売る側は『祈りの比喩ひゆです』と言える。買う側は『心が清らかになる』と信じる」


「そして、誰が得をするのかしら」


 私は収支表を見た。


「神殿管理費と商会手数料が大きいです」


 先輩が顔をしかめる。


「孤児院支援じゃなかったの?」


「広告上は」


「契約上は?」


「神殿が慈善活動を実施するための収益事業しゅうえきじぎょうです」


 先輩は天井を見た。


「白い」


「白いですね」


「白いのに腹黒い」


「先輩、記録に残る場所で言わないでください」


「今の消して」


「口頭発言は消せません」


 そう言いながら、私は記録係の水晶を一時停止した。


 優しさである。


 ただし、二回目は止めない。


 カイルが無言で契約書を手に取った。


 読んでいる。


 たぶん読んでいる。


 眉間のしわが深くなっているので、少なくとも文字とは戦っている。


「……長い」


「契約書ですから」


「敵意を感じる」


「契約書にですか?」


「文字に」


「文字全体を敵にしないでください」


 カイルはしばらく紙を見ていたが、ある行で手を止めた。


「ここ」


 短い。


 だが、彼が指差した箇所は重要だった。


 私は身を乗り出す。


「『聖女候補ミリア・セレスの名、肖像しょうぞう、祈りの文言、祝福行為しゅくふくこういおよび公的発言に関する利用権は、神殿慈善部が管理する』」


 読み上げた瞬間、部屋の空気が冷えた。


 先輩が目を丸くする。


「それ、つまり?」


「ミリア様の名前、顔、祈りの言葉、公の発言を、神殿が管理できるということです」


「本人の言葉も?」


「公的発言に関する、とあります」


 エレオノーラ様の指先が、机の上を一度だけ叩いた。


随分ずいぶんと便利な管理ですわね」


「はい」


 私は契約書をさらに読む。


「しかも、契約期間は聖女候補である限り自動更新じどうこうしん解除かいじょには神殿慈善部と後見監督官こうけんかんとくかんの承認が必要」


「後見監督官?」


「ミリア様は平民出身で、神殿預かりの聖女候補という扱いです。身分上の後見こうけんを神殿が担っているようです」


 先輩がうめく。


「本人がやめたいって言っても?」


「契約上は、本人だけでは難しい可能性があります」


「うわあ」


 うわあ、で済ませたい。


 でも済まない。


 私は別紙をめくった。


 そこに、ミリア様の署名があった。


 ミリア・セレス。


 細い文字。


 整っている。


 けれど、最後のスの線が揺れている。


 私はじっと見る。


 何度も見る。


 書類の他の筆跡と比べる。


 署名だけが、微妙に震えている。


「……ここ」


 私は赤インクではなく、鉛筆で小さく囲んだ。


 赤で囲むのが、少し怖かった。


「署名が震えています」


 先輩が覗き込む。


「緊張してたのかな」


「その可能性もあります」


 私は慎重に答えた。


「でも、内容を理解して署名したかどうかは確認が必要です」


 火種感知ひだねかんちは、真実を教えてくれる能力ではない。


 誰が嘘をついたか。


 誰が悪意を持っているか。


 それは見えない。


 見えるのは、燃える危険。


 だから断定してはいけない。


 契約書の署名が震えている。


 それだけで、ミリア様がおどされたとは言えない。


 けれど、確認しないまま清らかな美談として売り出すには、危険すぎる。


 私は署名欄の横に書いた。


『本人理解の確認が必要』


 カイルが椅子を引いた。


 がたん、と音が鳴る。


「どこへ行かれるんですか」


 私は反射的に聞いた。


「出る」


「逃げないでください」


「長すぎる」


「辺境伯様」


「文字が多い」


「まだ三分の一です」


 カイルの表情が、初めて少しだけ絶望に近づいた。


 北方の魔物を斬ってきた男が、契約書三分の一で揺らいでいる。


 契約書、強い。


「辺境伯様、座ってください」


「必要か」


「必要です」


「なぜ」


「あなたは、短い言葉がどこで危険になるかを知っています。そして、長い言葉がどこで人を隠すかを嫌っています」


 カイルの動きが止まった。


 私は契約書を指で押さえる。


「この書類は、長い言葉でミリア様本人を隠している可能性があります」


 カイルは黙った。


 その沈黙は、拒絶ではなかった。


 たぶん、考えている。


 やがて、彼はゆっくり座り直した。


「続けろ」


「ありがとうございます」


「短く」


「努力します」


 努力はする。


 結果は保証しない。


 契約書という敵は、そもそも短く説明されることを拒んでいる。


 私は三枚目を開いた。


「こちらは孤児院寄進に関する覚書です」


 エレオノーラ様が身を乗り出す。


「寄進先は明記されていて?」


「一部だけ」


「一部?」


「『王都内および近郊の認定孤児院にんていこじいん』とあります。具体名は別紙、とありますが、別紙がついていません」


 先輩が額を押さえる。


「別紙どこ」


「神殿に確認します」


「確認って言葉、今日何回目?」


「数えたら胃が燃えます」


 私は収支予定表と覚書を重ねた。


 数字を追う。


 売上見込みは大きい。


 宣伝費も大きい。


 神殿管理費も大きい。


 孤児院寄進予定額は、妙に小さい。


 しかも、寄進の時期が遅い。


「祈祷会終了後、収益確定から三か月以内に寄進」


 私は読み上げた。


 先輩が首をかしげる。


「三か月?」


「はい」


「遅くない?」


「遅いです。少なくとも、緊急支援をうたうなら遅い」


 エレオノーラ様が言う。


「その間、資金はどこに?」


「神殿慈善部の管理口座です」


運用益うんようえきは?」


「記載がありません」


 私はまた赤線を引いた。


 紙が少しずつ赤くなる。


 王太子殿下の謝罪文ほどではないが、かなり赤い。


 白い神殿資料が、私の手で赤くなっていく。


 先輩がそれを見て小声で言った。


「祈りの布じゃなくて、赤字の布になりそう」


「先輩」


「はい」


「その冗談、嫌いではありませんが記録には残せません」


「また消して」


「二回目は消しません」


「厳しい」


 私は記録水晶を確認した。


 ちゃんと回っている。


 よし。


 カイルが横から口を挟んだ。


「結論」


「まだ断定できません」


「短く」


「神殿は、ミリア様の名前と祈りを使って商品を売り、孤児院支援をうたいながら、実際にどれだけ孤児院へ届くかを曖昧にしています。さらに、ミリア様本人が契約内容を理解していたか疑問があります」


「長い」


「これ以上短くすると危険です」


「そうか」


 カイルは少し考えた後、言った。


「悪い匂いがする」


 それはたぶん、彼なりの要約だった。


 非常に短い。


 そして的確だ。


「はい。悪い匂いがします。ただし、匂いだけでは告発こくはつできません」


「証拠」


「必要です」


「取りに行く」


「物理的に押収おうしゅうしないでくださいね」


「しない」


 一拍。


「今は」


「今後もしないでください」


 エレオノーラ様が口元に手を当てて笑った。


「お二人の会話、だんだん手綱たづなが見えてきましたわね」


「手綱?」


 カイルが低く聞き返す。


 私はすぐに割って入った。


「比喩です」


「俺は馬ではない」


「存じております」


「熊でもない」


「存じております」


 なぜ先回りしたのだろう。


 たぶん、孤児院に行ったら誰かに言われそうな予感がしたからだ。


 北方辺境伯は、子どもに熊扱いされる雰囲気がある。


 本人には言わない。


 今、ちょっと言ったけれど。


 私は資料を整理し直した。


「必要なのは三つです」


 カイルがこちらを見た。


「三つ」


「はい。まず、寄進先の孤児院名と実際の受領額じゅりょうがく。次に、商会と神殿の資金の流れ。そして、ミリア様本人の意思確認です」


 エレオノーラ様が頷く。


「ミリア様と直接会う必要がありますわね」


「はい」


「神殿が簡単に会わせるかしら」


「会わせないでしょう」


 だから、方法を考えなければならない。


 正面から面会を申し込めば、神殿は整った理由で延期する。


 祈祷準備。


 体調不良。


 精神的負担。


 信仰上の静養。


 理由はいくらでも作れる。


 でも、会わなければわからない。


 契約書に震える署名がある。


 でも、その震えが何を意味するのかは、本人の言葉を聞かなければならない。


 私は紙の端に書いた。


『あなたは何を理解して署名しましたか』


 少し考えて、消した。


 質問として硬すぎる。


 ミリア様は、きっと答えられない。


 神殿の言葉で返してくる。


『皆さまのために』


『神殿の導きです』


『祈りを捧げたいのです』


 その定型句ていけいくの奥に、本人がいるかどうか。


 私はそこまで行かなければならない。


「リディア」


 エレオノーラ様が静かに呼んだ。


「はい」


「あなた、ミリア様を救いたいのね」


 私はすぐに答えられなかった。


 救いたい。


 そう言えば、エレオノーラ様を傷つけた構造を軽く見ているように聞こえるかもしれない。


 でも、救いたくないと言えば、ミリア様を役割に押し込めることになる。


 敵。


 被害者。


 救済者。


 神殿の構図を否定している私が、彼女を敵の役に固定してはいけない。


「……救いたい、というより」


 私は言葉を探した。


「本人の言葉を確認したいです」


 エレオノーラ様は私を見つめる。


「ミリア様が自分の意思で私を傷つけたなら、私は怒ります」


「はい」


「利用されていただけでも、私が傷ついた事実は消えません」


「はい」


「でも」


 エレオノーラ様は視線を契約書へ落とした。


「本人の言葉を奪われていたなら、それはそれで、別の罪ですわ」


 胸の奥が少し熱くなった。


 エレオノーラ様は強い。


 でも、強いだけではない。


 自分が傷ついていても、他人が奪われたものを見ようとする。


 それは簡単な優しさではない。


 痛みのある公平さだ。


「必ず分けます」


 私は言った。


「ミリア様が負うべき責任と、神殿が負うべき責任を混ぜません。エレオノーラ様が受けた傷も、曖昧にしません」


「なら、よろしいですわ」


 エレオノーラ様は微笑んだ。


「火消しはあなたに任せます」


「燃やす相手は?」


「今のところ、神殿の契約書ですわね」


「物理的には燃やさないでください」


「比喩ですわ」


 比喩に聞こえないところが怖い。


 私は契約書を束ねた。


「まず、神殿へ正式に照会しょうかいを出します」


 先輩が羽ペンを構える。


「文面は?」


「孤児院寄進の対象施設、金額、支払い時期、商会手数料の算定根拠さんていこんきょ、神殿管理費の内訳うちわけ、ミリア様の契約時説明記録、署名時の立会人たちあいにんを求めます」


「長い」


 カイルが言った。


「必要です」


「相手は出すか」


「出さないでしょう」


「ならなぜ」


「出さなかった記録が残ります」


 カイルは黙った。


 少しだけ、目がこちらを見た。


「……記録」


「はい。相手が説明を拒んだ、という事実は残せます」


「言葉は面倒だ」


「面倒ですが、逃げ道をふさぐこともできます」


「塞ぐ」


 カイルはその言葉を気に入ったようだった。


 短く頷く。


「いい」


 いい、いただきました。


 何が「いい」なのか細部は不明だが、たぶん賛成だ。


 私は照会文の下書きを始めた。


 同時に、別の紙へ非公式の面会案を書く。


 ミリア様に直接会うためには、神殿の正面扉から入っても止められる。


 なら、慈善祈祷会の準備過程。


 商会との打ち合わせ。


 孤児院訪問。


 どこかに接点があるはずだ。


「孤児院」


 私は呟いた。


 エレオノーラ様が顔を上げる。


「寄進先を確認するのですか」


「はい。契約書に名前が出ていないなら、現場から確認します。神殿が支援していると発表している孤児院を調べます」


「神殿が先に手を回す可能性は?」


「あります」


 だから急がなければならない。


 収支表の数字が正しいのか。


 孤児院に本当に支援が届いているのか。


 子どもたちはミリア様をどう見ているのか。


 ミリア様は、本当に孤児院を気にかけていたのか。


 美談が完全な嘘とは限らない。


 むしろ、完全な嘘より厄介やっかいだ。


 本当の善意が少し混じっているから、人は信じる。


 その善意を包んで、商品にして、売っている者がいる。


「明日、孤児院へ行きます」


 私が言うと、カイルが即座に立ち上がった。


「行く」


「辺境伯様も?」


「護衛」


「王宮の護衛がつきます」


「足りない」


「即答ですね」


「神殿は笑顔で来る」


 私は一瞬、言葉に詰まった。


 それは、カイルにしてはかなり鋭い表現だった。


 神殿は笑顔で来る。


 剣を持っていなくても、人を囲める。


 柔らかい言葉で、帰り道を消せる。


「……では、お願いします」


 私が言うと、カイルは短く頷いた。


「守る」


 その一言は、まっすぐだった。


 不意に胸の奥が跳ねる。


 違う。


 これは業務上の護衛である。


 業務上の安全確保である。


 恋愛小説ならここで何か始まるのかもしれないが、机の上には契約書がある。


 契約書と恋愛は相性が悪い。


 たぶん。


 いや、婚約契約というものもあるから、一概には言えない。


 何を考えているのだ私は。


 胃が疲れている。


「リディア?」


 先輩が不思議そうにこちらを見る。


「顔が赤いけど、発熱?」


「契約書熱です」


「嫌な病名だね」


「感染力があります」


「じゃあ離れる」


「逃げないでください。照会文を書きます」


「はいはい」


 私は羽ペンを握った。


 神殿への照会文。


 孤児院訪問の申請。


 ミリア様への面会希望。


 三つの文書を同時に作る。


 相手が三つの構図で人を動かすなら、こちらは三つの確認で火元へ近づく。


 事実。


 数字。


 本人の言葉。


 その三つを混ぜない。


 逃がさない。


 私は書き出した。


『王宮広報局危機声明管理室は、慈善祈祷会および関連商品販売に伴う孤児院寄進について、事実確認のため以下の資料提出を求めます』


 硬い。


 非常に硬い。


 でも、今はこれでいい。


 柔らかい美談に対抗するには、まず硬い事実が必要だ。


 その時、職員がまた扉を叩いた。


 今日も扉が過労である。


「リディアさん、神殿から追加の伝言です」


「今度は何ですか」


「ミリア様は祈祷会準備のため、当面、外部との面会を控えるとのことです」


 予想通り。


 でも、早い。


 早すぎる。


 こちらが面会を申し込む前に、先回りして塞いできた。


 私は羽ペンを止めた。


 カイルの目が細くなる。


 エレオノーラ様の笑みが冷える。


 先輩が小声で言った。


「答え合わせが早い」


「はい」


 神殿は、ミリア様に会わせたくない。


 それだけは、はっきりした。


 私は照会文の末尾に一文を足した。


『なお、本人意思確認のため、ミリア・セレス様との直接面会を改めて正式に求めます』


 火種が揺れる。


【火種:神殿反発】


【火種:聖女候補隔離疑惑】


【火種:王宮対神殿】


 燃える。


 でも、ここで引けば、誰かの言葉がまた白い布の下に隠される。


 私は文書に署名した。


「明日、孤児院へ行きます」


 今度は、誰も止めなかった。


 机の上で、ミリア様の震えた署名が静かにこちらを見ている。


 その線の揺れが、私には声にならなかった言葉のように見えた。


 だから私は、聞きに行く。


 それがたとえ、神殿の白い火の中だとしても。

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