無口な男の一言が、なぜか刺さる
「王都は、北方の言葉を聞かない」
カイル・ヴァレンシュタイン辺境伯がそう言った時、私はすぐに返事ができなかった。
いつもの私なら、たぶん言えた。
その表現は強すぎます。
王都全体を主語にすると火種になります。
北方と王都の対立構造を固定します。
言い換えるなら「北方の実情が正しく伝わっていないと感じている」です。
そんなふうに、赤字を入れるみたいに。
けれど、その時のカイル様の横顔は、添削待ちの声明文ではなかった。
雪の下に埋まった、古い傷のようだった。
だから私は、何も言えなかった。
そして、何も言えなかったことを後悔する暇もなく、王宮広報局危機声明管理室――通称、火消し部屋は、いつも通り燃えていた。
「リディア! 水晶掲示板、また伸びてる!」
「王都瓦版の記者が『辺境伯、沈黙で圧力』って見出しを準備してます!」
「神殿から追加布告です! 聖女候補ミリア様の心痛について!」
「公爵家から、名誉回復会見の確認事項が届いてます!」
「胃薬棚、右から二番目が空です!」
最後の報告、誰ですか。
でも重要です。非常に重要です。
私は机に積まれた紙束を見た。
一番上には、先ほどの取材対応の覚え書きがある。
カイル様の回答。
「違う」
「知らん」
「帰れ」
潔い。
潔すぎて、新聞社が喜んで火をつける。
私は頭を抱えた。
「帰れ、はやはり強いですね……」
向かいの席で、先輩職員が弱々しく笑った。
「でも辺境伯様にしては、だいぶ穏当だったんじゃない?」
「先輩、基準が戦場です」
「ここも戦場よ」
「否定できないのが嫌です」
私は羽ペンを取った。
カイル様の取材対応をこのまま放置すると、明日の王都瓦版にはこう出る。
『北方辺境伯、記者を威圧』
『王宮内で「帰れ」発言』
『公爵令嬢擁護の裏に辺境勢力か』
『下級広報官リディア氏、辺境伯を操作か』
見た瞬間、私の視界に火種が浮かぶ。
【火種:辺境伯による威圧印象】
【火種:北方反乱説の再燃】
【火種:リディア癒着疑惑】
【火種:公爵家への政治圧力疑惑】
【火種:神殿との対立煽動】
【火種:王都対北方】
「多い」
思わず声が漏れた。
先輩が隣から覗き込む。
「何が?」
「燃えます」
「いつものことね」
「いつものことにしないでください」
私は紙を一枚引き寄せ、応急の対応文案を書き始めた。
『本日、北方辺境伯カイル・ヴァレンシュタイン閣下への一部取材において、複数の未確認情報を前提とした質問が行われました。閣下の回答は、未確認情報に基づく断定を避ける趣旨のものであり――』
書きながら、止まる。
違う。
これは整っている。
燃えにくい。
けれど、カイル様の言葉ではない。
カイル様が言ったのは、もっと短い。
違う。
知らん。
帰れ。
あれをそのまま出したら燃える。
でも全部を整えすぎると、今度は彼の怒りも不信も消えてしまう。
私は額を押さえた。
「難しい……」
「リディアが難しいって言うと、周囲の胃が痛くなるからやめて」
「私の胃はもう痛いです」
「でしょうね」
先輩が机の隅から胃薬の瓶を滑らせてくる。
「ありがとうございます」
「いいのよ。火消し部屋は胃薬でできてるから」
「建材としては不安です」
そう言いながら、私は胃薬を水で流し込んだ。
その瞬間、机の上の水晶板が淡く光った。
新着速報。
『聖女候補ミリア様、心痛により王宮との面会延期か』
『神殿関係者「ミリア様は皆さまのため祈り続けている」』
『公爵令嬢側の圧力を懸念する声も』
私は水晶板を凝視した。
喉の奥が、すっと冷える。
「早い」
あまりにも早い。
ミリア様との面会延期について、王宮側の正式発表はまだ出していない。
記録局との調整も終わっていない。
神殿からの正式文書すら、まだこちらに届いていない。
なのに、もう記事が出ている。
つまり。
「火元が、こちらより先に煙を出しています」
先輩の顔から血の気が引いた。
「それ、最悪のやつじゃない?」
「はい。最悪寄りの中火です」
「中火で済む?」
「今のところは」
「今のところって言うのやめて。未来が怖い」
私は水晶板に表示された記事文を読み込む。
『聖女候補ミリア様は、度重なる心労にもかかわらず、皆さまのために祈り続けているという。神殿関係者は、王宮側との面会について「ミリア様の心身の安定を第一に考え、慎重に対応する」と述べた』
視界に火種が浮かぶ。
【火種:接触遮断】
【火種:聖女候補の被害者固定】
【火種:王宮加害印象】
【火種:公爵家圧力疑惑】
【火種:本人意思不明】
【火種:保護名目による管理】
そして、文章の奥にまた、白い空白があった。
ミリア様本人の言葉がない。
あるのは、神殿関係者の言葉。
神殿の布告。
神殿が用意した「皆さま」。
ミリア様の手紙には、震えがあった。
『一度だけ、お話をさせていただけないでしょうか』
あの一文には、火種がなかった。
整っていなかった。
弱かった。
けれど、本人の気配があった。
今の記事には、それがない。
綺麗すぎる。
白すぎる。
人間の体温がない。
「リディア」
低い声がした。
振り向くと、カイル様が入口に立っていた。
取材のあと、別室で待機してもらっていたはずだ。
なのに、いつの間にか火消し部屋まで来ている。
室内の職員たちが一斉に背筋を伸ばした。
この人が黙って立っているだけで、空気が軍議になる。
「辺境伯様、こちらは関係者以外――」
先輩が言いかけて、私を見た。
私も見た。
机の上の紙束。
水晶板。
神殿布告。
胃薬。
赤字だらけの文案。
関係者以外とは。
もはや誰が関係者で、誰が巻き込まれた被害者で、誰が火元なのか、よくわからない。
カイル様は短く言った。
「顔色が悪い」
「通常運転です」
「悪い」
「火消し部屋基準では普通です」
「基準が壊れている」
正論だった。
やめてください。
正論は時々、人の逃げ道を燃やします。
私は羽ペンを持ち直した。
「大丈夫です。今、神殿の面会延期記事への対応文を――」
「休め」
短い言葉だった。
ただ二文字。
けれど、その言葉は、私の中のどこかに深く刺さった。
休め。
命令のようだった。
でも、責めているのではなかった。
急かしているのでもない。
追い詰めているのでもない。
ただ、私が倒れそうに見えるから、休めと言っている。
それだけの言葉。
それだけなのに。
私は一瞬、呼吸を忘れた。
前世で、そんな言葉を言われたことがあっただろうか。
会社の蛍光灯。
深夜の会議室。
鳴り続ける通知音。
炎上した投稿。
謝罪文の第七稿。
上司の声。
『休むなら引き継ぎしてからにして』
『今抜けられると困るんだよ』
『君しかわからないでしょ』
『被害者対応、今日中に片づけて』
『誠意を見せて。ただし責任は認めないで』
休め、とは言われなかった。
倒れるな、とは言われた。
逃げるな、とは言われた。
責任を持て、とは言われた。
でも、休めとは。
私が休んでもいい人間だと、誰も言ってくれなかった。
「……リディア?」
先輩の声で、私は現実に戻った。
羽ペンを握る手に力が入りすぎて、指先が白くなっている。
私は慌てて笑おうとした。
「すみません。少し、ぼんやりしました」
「ぼんやりじゃないわよ。今、魂が前世に出張してた顔だったわよ」
「業務外出張です」
「申請して」
「却下されそうです」
軽口を返したつもりだった。
けれど、自分の声が少し震えているのがわかった。
カイル様が机の前まで来た。
大きな手が、私の持っていた羽ペンをそっと取り上げる。
奪うというより、落ちる前に受け止めるみたいに。
「倒れる者に仕事をさせる組織は弱い」
また、短い言葉。
けれど今度は、まっすぐ私に向いていた。
「私は倒れていません」
「倒れかけている」
「広報官は、倒れる直前まで書類を書けます」
「それを誇るな」
「……はい」
反論しようとして、できなかった。
なぜだろう。
王太子には言い返せる。
記者にも言い返せる。
神殿布告にも赤字を入れられる。
でも、この人の「休め」には勝てない。
カイル様は持っていた包みを机に置いた。
どさり。
いい音がした。
花束ではない音だった。
「差し入れだ」
「……ありがとうございます」
私は包みを開けた。
干し肉。
薬草茶。
胃薬。
以上。
私は無言で見つめた。
恋愛小説なら花束では。
いや、待って。
これは恋愛小説なのだろうか。
少なくとも職場は完全に労災小説である。
先輩が横から覗き込んだ。
「干し肉、薬草茶、胃薬……」
広報局員の一人が小声で言う。
「実用性が高いですね」
別の職員が真顔で頷く。
「火消し部屋基準では、かなり好感度が高いです」
「待ってください。好感度の基準を胃薬にしないでください」
私が言うと、カイル様は少しだけ眉を寄せた。
「不要か」
「不要ではありません」
即答してしまった。
胃が、現実的だった。
カイル様は頷く。
「なら食え」
「胃薬は食べ物ではありません」
「干し肉」
「今ですか?」
「今だ」
私は干し肉を見た。
硬そうだった。
非常に硬そうだった。
噛むだけで顎が鍛えられそうだった。
先輩がそっと囁く。
「リディア、食べなさい。辺境伯様の善意よ」
「善意が干されています」
「保存性が高い善意ね」
私は小さくため息をつき、干し肉を一切れ口に入れた。
硬い。
でも、味は悪くない。
噛んでいるうちに、少しずつ体が現実に戻ってくる。
胃の痛みも、気のせいか少しだけ落ち着いた。
カイル様は私が飲んだ薬草茶を確認してから、ようやく視線を水晶板へ移した。
「神殿か」
「はい。ミリア様との面会延期を、こちらの正式確認前に記事化されています」
「早い」
「早すぎます」
「火元か」
私は少し驚いた。
カイル様が、私の言葉を覚えていた。
「はい。火元の可能性があります。ただ、神殿そのものが火元なのか、神殿を使っている誰かなのかは、まだ断定できません」
「斬る相手は未定か」
「斬らないでください」
「まだ斬らない」
「まだ、も危険です」
火消し部屋の職員たちが、無言で頷いた。
カイル様は不満そうだったが、何も言わなかった。
私は水晶板の記事を指差した。
「問題は、ここです」
『ミリア様は皆さまのために祈り続けている』
「この表現は、ここ数日の神殿布告、商会広告、瓦版記事、すべてに出てきます。ですが、ミリア様本人から届いた手紙は違いました」
私は引き出しから、薄い紙を取り出した。
ミリア様からの非公式の手紙。
『一度だけ、お話をさせていただけないでしょうか』
改めて見ても、綺麗な文章ではない。
行間は少し乱れている。
筆圧も不安定だ。
けれど、本人の声がある。
カイル様が紙を見つめる。
「弱い字だ」
「はい」
「だが、嘘ではなさそうだ」
「私もそう思います」
もちろん、私の《火種感知》は真実を見抜く能力ではない。
悪意の有無も、心の中もわからない。
けれど、火種のない言葉と、空白だらけの言葉の違いくらいは、わかる。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「失礼します」
入ってきたのは、王宮記録局の若い書記官だった。
以前、ミリア様の手紙を届けてくれた青年だ。
彼はいつもより顔色が悪い。
火消し部屋基準でも悪い。
つまり相当悪い。
「リディア・ノートン様。神殿より、面会延期の正式文書が届きました。記録局にも写しが」
「ありがとうございます」
私は文書を受け取った。
厚手の白い紙。
神殿の印章。
整った文字。
読み始めた瞬間、視界に火種が浮かぶ。
『聖女候補ミリア・セレスは、昨今の心身疲労を鑑み、王宮関係者との面会を延期する。なお、本人は王宮の皆さま、公爵家の皆さま、そして王都の皆さまのため、変わらず祈る意思を示している』
【火種:接触遮断】
【火種:本人意思の代弁】
【火種:保護名目による隔離】
【火種:公爵家への罪悪感誘導】
【火種:王宮加害印象】
【火種:聖女候補の象徴化】
私は文書を机に置いた。
先輩が恐る恐る聞く。
「燃える?」
「燃えます」
「どれくらい?」
「白い布に油が染みている感じです」
「嫌な比喩ね」
「私も言っていて嫌です」
私はもう一度、文書を見る。
綺麗な文章だ。
丁寧だ。
乱れがない。
そして、乱れがなさすぎる。
「これは……ミリア様の言葉ではありません」
若い書記官が息を呑んだ。
カイル様が私を見る。
「わかるのか」
「真実はわかりません。ですが、少なくとも、先日の手紙とは違います」
私はミリア様の手紙と、神殿の正式文書を並べた。
震えた文字。
整った文字。
一度だけ、と願う言葉。
皆さまのため、と飾る言葉。
どちらが正しいかは、まだわからない。
けれど、どちらが本人の痛みに近いかは、わかる。
「ミリア様は、会いたがっていたはずです」
「神殿が止めたか」
「おそらく。ただ、表向きは保護です。心身安定のため、慎重な対応。これを正面から批判すると、こちらが聖女候補を無理に引きずり出そうとしているように見えます」
カイル様は短く言った。
「厄介だ」
「はい。非常に厄介です」
「では、どうする」
私は答えようとして、少しだけ言葉に詰まった。
体は休めと言われたばかり。
でも、火は待ってくれない。
火元は、今もどこかで言葉を作っている。
私が黙っている間にも、ミリア様の言葉は神殿に上書きされていく。
けれど、カイル様が私の前に薬草茶の杯を置いた。
「飲め」
「今、重要な話を」
「飲んでから話せ」
「……はい」
私は杯を持った。
温かい。
薬草の苦みが、喉を通る。
カイル様は淡々と言う。
「倒れたら、聞けない」
「何をですか」
「ミリアの言葉」
私は杯を持つ手を止めた。
カイル様は続ける。
「お前が聞くんだろう」
短い。
また、短い言葉。
けれど、胸に刺さる。
私が聞く。
王宮のためでも、神殿のためでも、見出しのためでもない。
ミリア様本人の言葉を、私が聞く。
そのためには、私が倒れるわけにはいかない。
誰かを守る人は、誰に守られるのか。
そんな問いが、ふと胸をよぎった。
私はこれまで、自分が守られる側に立つことを考えたことがなかった。
火消しは、火の中に入るもの。
謝罪文を書く者は、責められる側に立つもの。
広報担当は、最後まで机に残るもの。
そう思っていた。
けれど、もし私が倒れたら。
誰が、ミリア様の言葉を聞くのだろう。
私は静かに杯を置いた。
「……少しだけ休みます」
火消し部屋が、ざわついた。
先輩が目を見開く。
「リディアが休むって言ったわ」
「記録して!」
「王宮史に残る!」
「祝砲は?」
「燃えるので禁止です!」
私は顔を覆った。
「休むと言っただけで騒がないでください」
先輩が涙ぐんだ。
「だって、あなたが自発的に休むなんて、王太子殿下が謝罪文を一発で通すくらい奇跡よ」
「比較対象が不吉です」
カイル様は少しだけ満足そうに頷いた。
「よし」
私は苦笑した。
「ただし、三十分です」
「一時間」
「三十分」
「一時間」
「辺境伯様、交渉が雑です」
「休め」
「……四十五分で」
カイル様は考えた。
「許す」
「なぜ上からなのですか」
でも、不思議と嫌ではなかった。
私は椅子にもたれ、目を閉じた。
火消し部屋の音が、少し遠くなる。
紙をめくる音。
水晶板の通知音。
誰かが胃薬の瓶を開ける音。
先輩が小声で指示を出す声。
そして、近くに立つカイル様の静かな気配。
剣の気配ではない。
壁のような、雪除けのような、無言の見張り。
この人は、言葉を信じていない。
それでも、私の言葉を待ってくれている。
そう思うと、胸の奥が少しだけ温かくなった。
四十五分後。
私はきっちり目を開けた。
先輩が驚いた顔をする。
「本当に四十五分で起きた……」
「職業病です」
「もっと寝てもいいのよ」
「火元が待ってくれません」
カイル様が言った。
「顔色は少し戻った」
「干し肉と薬草茶と胃薬のおかげです」
「また持ってくる」
「定期便にしないでください」
私は机の上の文書をもう一度見た。
神殿の正式文書。
ミリア様の非公式の手紙。
水晶掲示板の記事。
並べると、違和感ははっきりしていた。
神殿はミリア様を守っているのではない。
ミリア様の口から出るかもしれない「本人の言葉」を、先に白い布で覆っている。
私は新しい紙を引き寄せた。
「王宮記録局宛てに、面会延期理由の確認を出します。神殿には、ミリア様本人の意思確認を求める文書を送ります。ただし、責める形にはしません」
先輩が頷く。
「文面は?」
「保護を尊重しつつ、本人意思の記録確認を求める形です。神殿の善意を否定しない。けれど、ミリア様本人の言葉を消させない」
私は羽ペンを取る。
今度は手が震えなかった。
『王宮広報局は、聖女候補ミリア・セレス様の心身の安定に最大限配慮する。
その上で、面会延期の意思がご本人によるものであることを、記録局立ち会いのもと確認したい。
これは面会を強要するものではなく、ご本人の意思を正確に保全するための確認である』
火種はある。
【火種:神殿反発】
【火種:王宮干渉批判】
【火種:聖女候補利用疑惑再燃】
けれど、出さない方が燃える。
リディア・ノートンは、火元を見る。
燃えている人ではなく、火をつけた場所を見る。
今、火をつけられているのは、ミリア様本人の言葉だ。
カイル様が、横から文面を見た。
「長い」
「必要な長さです」
「そうか」
そこで黙るかと思った。
けれど、カイル様は少しだけ考えてから言った。
「悪くない」
たった一言。
なのに、なぜかまた刺さった。
私は誤魔化すように咳払いをした。
「……ありがとうございます」
先輩がにやにやしていた。
「何ですか」
「何でもないわ」
「その顔は何でもある顔です」
「仕事しましょうか」
「露骨に逃げましたね」
その時、若い書記官が再び口を開いた。
「あの、リディア様」
「はい?」
「実は、記録局に届いた神殿文書の控えに、妙な添付がありまして」
彼は一枚の薄い写しを差し出した。
神殿内での聞き取り記録らしい。
そこには、ミリア様の発言として、同じ言葉が三度記されていた。
『皆さまのために祈ります』
『皆さまのために祈ります』
『皆さまのために祈ります』
私はその文字を見つめた。
整いすぎている。
あまりにも、同じだ。
人が迷いながら言った言葉ではない。
誰かが、そう記録されることを望んだ言葉だ。
視界の中で、火種ではなく、白い空白が広がる。
ミリア様の声が、そこにない。
私は静かに息を吸った。
「……やはり、確認が必要です」
カイル様が低く聞く。
「火元か」
私は頷いた。
「はい」
神殿の奥で、清らかな布に包まれた火が燃えている。
それは、ミリア様の炎上ではない。
彼女から言葉を奪っている誰かの火だ。
私は羽ペンを握り直した。
「次に聞くべきなのは、神殿の説明ではありません」
紙の上で、インクが静かに滲む。
「ミリア様本人の言葉です」
そして私は、神殿宛ての確認文書の最後に、一文を加えた。
『なお、本件確認においては、聖女候補ご本人の自由意思による発言機会を確保されたい』
その一文に、火種が灯る。
【火種:神殿管理体制への疑義】
【火種:本人意思の争点化】
【火種:聖女候補発言封鎖疑惑】
燃える。
けれど、必要な火だった。
私はもう一度、ミリア様の手紙を見た。
『一度だけ、お話をさせていただけないでしょうか』
あの小さな声に、返事をしなければならない。
火消し係としてではなく。
言葉を奪われた人を、そのままにしたくない一人の人間として。
カイル様が隣で短く言った。
「聞きに行くぞ」
「はい」
私は頷いた。
休めと言われて、少しだけ休んだ。
だから今度は、立てる。
火元は、神殿の奥。
燃えているのは、聖女候補の沈黙だった。




